01の続き。
02:「そのキスを残して」
「今度の八月一日は、海に行きたいな」
熱さにうだる梅雨の最中の金曜日、京が、ファーストフードの固い椅子の上で足をぶらぶらさせながら云った。京とヒカリ、大輔、そして岳の四人はクーラーの効いた店内からなかなか腰を上げることが出来なかった。夏服に替わった制服の綿の生地さえ肌に張り付くような、けだるく湿った午後だった。ヒカリと岳は相変らず向かい合わせて座っていて、おまけにメニューまで一緒だった。デザートを食べるかどうかで賑やかにお喋りをする京の横で、二人はメインのバーガーを食べ終えて、おっとりと爽健美茶を飲んでいる。
大輔には、京と自分よりも、ヒカリと岳の周りだけ僅かに涼しいように見えた。
このメンバーで集まるのはゴールデンウィークの連休以来だった。その時は賢も田町からやってきて一緒だった。ヒカリと岳が親密にくっついていて、京が騒いでいて、自分が、或いは賢がそれを聞いている。殆ど構図は変っていないのに、いつもと少し気分が違うのを大輔は不思議に思った。居心地がよくないような、浮き足だったような。嬉しいのと哀しいのが半々に混ざったような気分だった。
「海ならいつだって行けるじゃん」
大輔は、口一杯に頬張ったビッグマックを飲み込んでから云った。長い髪を二つに分けてきゅっと結んだ京は、落ち着かなげにテーブルの上を指でなぞった。
「違うわよ、あたしが云ってんのはお台場の海じゃないの。ああ、何て云うの。もっとこう、海、って感じの場所なのよ」
それを聞いてヒカリと岳が双子のように微笑する。大輔には二人が何故笑っているのか分からなかった。それにかすかに苛々しながら、お台場を愛する彼は京の言葉に文句をつけた。
「お台場の海は海じゃないってのかよ」
「そんなこと云ってないじゃない。ただね、海って云えば湘南でしょ。沖縄でしょ。ハワイでしょ。月の海でしょ……」
京が指折り数え始める。岳がにこにこ笑って口を出した。
「僕は月の海がいいなあ」
「あたしも」
ヒカリが同意する。
「そうでしょ? 分かる?」
京は小さな拳を握ってテーブルを叩いた。彼女は、デジタルワールドに行っていた頃は背が伸び盛りで、長身に見えていたが、案外に華奢で小さな人なのだ。とんぼのような大きな眼鏡を外すと、目鼻立ちも小作りだがくっきりとして整っている。なのに、いつもうんざりさせられるほど賑やかで、気持の浮き沈みが激しいので、彼女の表情や動作にばかり気を取られてしまうのだ。
「ああ、行きたいなぁ。どこか、遠い海……」
京は、遠い海、を、とおーいうみー、と長く引き伸ばすように発音した。放心したような表情だ。
「分かった。京は夏期講習から逃げたいんだろ。受験生だもんな」
大輔が決めつけると、京は喉の奥でつぶれたような声を出した。整った造作も、つやつやした長い髪も台無しになるような声だ。
テーブルの上に腕を載せて、そこに額を伏せてしまう。
「それを云わないでよお」
「京さんだけじゃなくて、丈さんも受験生でしょ。あんまり遠い海には行けないね」
そう云ってヒカリは、つっぷした京の頭をそっと撫でた。五本の指を揃えて京の髪をなぞるその指先には静かな愛情が籠っている。女の友情って色っぽいな。大輔は思う。女の子が二人でくっついているのは何だか甘くていい感じだ。
「京さんはハワイに行って、ミミさんに会いたいんじゃない?」
岳も、大輔と同じように京とヒカリを見ていた。彼は相変らず秤ではかったように同じ密度の、おだやかな笑顔だった。
「もう随分会ってないよね、ミミさんにも」
「そうよねえ……」
腕の上に額を載せたまま、京はしみじみとした声を出した。
「せっかく選ばれし子供たちだっていうのに、受験がどうとか内申書がどうとか、ばっかみたい。行きたい所には行けないし、会いたい人にだってなかなか会えないし」
その時、岳が静かに氷の残った紙コップを置いた。取り残されたようにブルーとピンクのストライプのストローが、プラスティックの蓋の上に斜めに刺さっている。ふっと真顔になった彼の顔を見て、大輔には岳が何かを云おうとしているのが分かった。最近は見かけないが、あの頃はよく見かけた表情だ。岳は五年生の春に突然やってきて、強制的に仲間になった。まだ大輔にとって岳が異邦人だった頃、よく腹立たしい気分にさせられた顔だ。そういう時は決まって、何か盛り上がった雰囲気に水をさすような、堅いことを云い出すのだった。いつもへらへらしてやがるくせに。特に最初はそう思って強い違和感を感じたものだった。
「ねえ、京さん。その選ばれし子供たちっていうの、そろそろやめられないかな」
それは、眠そうに聞こえるほどおだやかな声だったのだが、京の肩がぴくりと震えた。
彼女は戸惑ったように目を上げて、眼鏡の位置を直した。
「え、なぁに?」
「僕たちが選ばれたっていうこと、もうあんまり意識しない方がいいと思うんだ。デジタルワールドでも、僕たちが特別な存在じゃないって証明されたんだし」
岳は殊更にのんびりとした声でつけ加えた。
「ちょっとそれって────選民意識みたいだし」
ヒカリが岳の言葉に驚いたように目を見ひらいた。京は一度口を開きかけて閉じてしまった。
大輔は自分の眉が不機嫌にぐっと寄るのを意識した。何か、腹の奥の、触れられたくない部分に小さな棘が刺さったのを感じる。思わず手で庇いそうになって思いとどまった。そこに棘が刺さったことを認めるのは、どことなく、犬が喧嘩に負けて腹をさらす時。そんな気分になったのだ。
岳は、三人の顔を代わる代わる眺めて、徐々に真面目な表情を崩した。堅く形を整えたアイスクリームが溶けるような表情の変化だった。いかにも人の良さそうな、困ったような顔になる。とりつくろうように二度、瞬きした。彼の青みがかった灰色の目の中に、何か理解しがたい、目に見えないほど遠くで光る波頭のようなものが動くのが見えた。
「変なこと云っちゃったかな」
岳はゆっくりとそう云った。
────灰色?
大輔は、もやもやする頭の中で、はっきりと疑問を抱いた。
高石岳の目の色が灰色だということを、彼は初めて気づいたのだ。アウトラインにかすかに青っぽい色が乗っているように見えるが、よく見ると青ではなかった。何となく青いような気がしていた。どちらにしても、光の透過しやすい淡い色だった。
「センミンイシキとか云うけどさあ」
彼は、岳の二重まぶたの目からそっと伸びる睫毛や、薄い色の目、口角がかすかにあがった優しい形の唇から目を逸らした。また何か嫌なこと────自分にとって都合の悪いことを思い出しそうになったのだ。
「俺達が選ばれたのはほんとだろ? 選ばれるってそんなに特別なことかよ? どんな時だって、誰かが何かで選ばれてるだろ。クラスだって、どこの海に行くかだって、インターハイだって、どっかに進学するのだってさ。いつも選んだり選ばれたりしてるじゃん。それが偉いことだって思う感覚の方が変なんじゃねーの?」
そう云いながら、大輔は自分の言葉に絶大の信頼を置いているわけではなかった。さっき棘を感じた腹の奥の微妙な痛みが、自分の理屈が完全でないことを告げている。それを意識すればするほど、声はかたくなに強くなった。
「ええと、あたしは」
京が跳ねるように背中を起こして、大きな声を出した。
「京さんは?」
ヒカリが首をかしげて静かに先をうながした。さっき岳の言葉を聞いてそうなったように、京の薄い肩がまた少し引きつった。
「あたしは────あたしは、何が云いたいのか、分かんなくなっちゃった」
彼等の顔をじっと見守っていた岳は、不意に目を細めて笑った。
「そうだね、特別じゃないのかもね」
今度は、棘は血管の中を通って、腹ではなく、胸に上がってきた。大輔は痛むその場所を手で覆いたい、という気持を二度目に耐えた。今度の痛みはなかなか消えずに、胸の左側でずきずきしている。イービルリングをつけられたらこんな感じになるのではないか、とふと思った。
岳の笑った形の目は真っ直ぐに大輔を見ていた。さらさらした、金色っぽい光沢のある前髪に手を差し込み、軽くかき回すようにして大きなため息をついた。
「何だかショックだなあ。大輔くんに口で負けるなんてさ」
「お前、俺のこと莫迦にしすぎだっての」
言葉だけに反応して、大輔がやっとのことでそう云うと、京が真っ先に弾けるように笑った。その京の笑い声を受けるようにして、ヒカリと岳が笑う。大輔も仕方なしに笑った。だが、普段なら笑うと身体があたたかくなるのに、急に太腿の下で、椅子が冷たくて不愉快なフォルムに変ってしまったような気がした。
突然意見を覆されたのが何故なのか分からなかった。自分が岳を云い負かしたとはとても思えなかった。どう考えても自分達は中途半端に放り出されてしまったのだ。
「あっ」
京が唐突に声を上げた。
「あたしは、急にデジタルワールドの海を見たくなったかなぁ、なんて」
彼女の頬が決まり悪そうに、少し赤くなった。
「これって自分を特別扱い……してるかな?」
「俺も見たいよ、デジタルワールドの海」
大輔は力を込めて云った。自分の言葉が京のフォローにならないことは分かっていた。どこまでも岳を否定したいわけでもなかった。だが、急に硬くなった椅子が、岳の悟りきったようにおだやかな目が、彼の舌を不自然になめらかにした。
「でも、海底油田に閉じこめられるとかいうのはごめんだけどな。あっちの海の思い出って云うと、あれが真っ先に出てきちゃってさ」
「あの時はどきどきしたね」
ヒカリがにこりと笑う。
そう云えば、その海の思い出の中でも、岳は憎らしいほど冷静だった。
彼はついさっき、彼等の共通のキーワードを否定したことを忘れたような、呑気な顔で椅子の背にもたれかかった。視線がすいと逸れて窓の外に向く。窓の外は、ここ数日変化のない、たれ込める灰色の曇り空だ。
大輔は頭を抱えたくなった。
ここ数日というもの、忘れようとしていたことをはっきり思い出してしまった。
灰色の空に金の光が差し込むのを見た火曜日、岳は熱に少しだけ顔を紅潮させて、寝息をたてていた。泣きながら不意に大輔のうなじを抱きすくめた腕の感触が甦ってくる。岳の唇についた歯形と、それに触れそうな距離にまで近づいてしまったことも、当然セットで思い出した。
薄くなったお茶を啜る岳は、関節の痛みがあることなどおくびにも出さなかった。彼はおよそ眠りながら泣くようにも見えなかった。だいたいこいつが泣くなんて。自分達とも真面目に向き合っているのかどうか分からないのに。あの光の国を介して存在すると思っていた特別なつながりなど岳にはもう意味がないかも知れないのに。
大輔には、岳が一人だけ彼等の輪からはずれて、星団に属さない身勝手な星のように光っているように見えた。そして、岳が光って見える異常事態を自覚しないまま、ひそかに奥歯を食いしばった。
大輔は思いきって息を吸った。
前を歩く背中は一人になるまではぴんと伸びていた。足取りもゆるやかでよどみなかった。それが一人きりになって暫くしてからぎこちなくなった。右の方がより痛むようで、ほんの少し引きずっている。少し離れた位置から大輔はそれを見ていた。別に後から様子を見ようと思っていた訳ではなく、話しかける糸口がなかったせいで、後を数百メートルもついて歩く羽目になってしまったのだ。
「岳!」
大声で呼ぶと、岳は足を止めた。
少しは動揺したか?
大輔はざまあみろ、と思った。
だが、振り向いた岳の顔は、いつも通りの平静な顔だった。彼は大輔が自分の後についてきたのに気づくと、驚いたように目を丸くした。ここは大輔の家の方角ではないのだ。そう。この程度の顔ならいつでも見せている。だが、これは岳の動揺した顔という訳ではない。
左側の会社の中庭のアーチに、旺盛に薔薇が咲き、右側の公園では、白い夏の花が咲いていた。大輔は名前を知らない花だった。だが、それが夏に見かける花だということだけは知っていた。今年の初夏の異常な暑さが、夏の花をいち早く咲かせているのだ。
やはり今年は、京の云った通り遠い海に行った方がいいのかもしれない。多忙な太一やヤマト達がその案に賛成するならの話だが。きっと八月のお台場は炙られるような暑さになるだろう。
「お前、また膝痛んでんじゃねえの?」
握り込んだ拳に親指だけを立てて岳の膝を指差すと、ブーイングのポーズになる。岳の唇に、かすかに苦笑に似たものが昇ってきた。
「実はそうなんだ。……見られちゃったか」
「お前ってほんと嘘つきな」
「ええ?」
心外そうな声が返ってきた。それは、何かを隠しているというには余りにもすんなりと意外そうな声だった。その声は大輔の気持をますます頑固にする。
屋上の涙。
岳の寝言。
光って睫毛の間から流れ落ちた涙の、貴石のようなきらめき。
────選ばれし子供っていうの、そろそろやめられないかな。
わざとらしいほどおだやかな岳の声。
まっすぐに起こした背中。周りをはばかってひっそりと現れる岳の膝の痛み。
「だってそうだろ」
大輔は、感情の整理がつかないまま云い出した。
「具合が悪くても、どこにもそんなとこありませんって顔してるだろ。俺に口で負けたなんて思ってないくせに、すぐに意見変えるしさ」
岳は益々驚いたように目を見ひらいた。
「さっきのこと?」
「さっきのも、他にも色々、お前の考えてることはわかんねーんだよ」
岳は少しの間、思案するように黙っていた。鎧のように彼を守っていた笑顔が唇から消えて、またあの大輔を不穏な気分にさせる生真面目な表情がとって替わった。そういえば彼は大抵、何か発光するもので鎧われている。笑顔や天使の形の翼や、金色の毛並みの小さなデジモンや。
そういう嫌味なほど清浄なものが、外界に岳を触れさせまいとするように、いつも彼の周りに光の膜を作っていた。自分はそれが不愉快なのだろうか? 大輔は、岳の言葉を苛々と待ちながら自問した。
「大輔くん」
やがて岳は、そろそろと彼の名前を呼んだ。
「弁解するつもりじゃないけど、僕は嘘つきじゃないよ」
それは静かだったがきっぱりした声で、大輔はたじろいだ。
それは、彼が予想した反応とは大分違っていた。またいつものように笑って受け流されると思っていたのだ。
「きみの云うことは、僕の意見とは違うけど、一理あると思ったからああ云ったんだ。別に嘘をつこうと思ったんじゃない。身体が痛いのも、我慢出来るからしてるだけで、無理をしてるわけじゃないよ。もしきみに痛いかって聞かれたら、痛い時はそう答えるよ」
「ほんとかよ」
自分が疑り深い、嫌な声を出したと思った。
だが岳は動じずに、辛抱強く繰り返した。
「ほんとだよ」
明確な声で、岳は付け加えた。
「嘘は嫌いなんだ」
「あのさあ」
大輔は混乱しながら云った。今の岳の言葉が本気だと云うことは彼にも伝わってきた。だが、それでもまだ彼の気分はすっきりしなかった。
「じゃ、選ばれし子供が選民意識だって、まだ思ってんだろ?」
岳の眉の間にほんの僅かに、困ったような縦皺が寄った。
「そうだね。でも、あれは僕の考えだから、京さんやきみ達に押しつけることはなかったと思うよ」
大輔は言葉に詰まってしまった。
「でも、珍しいね、大輔くんが僕の云ったことをそんなに気にするなんて」
岳がするりとそう云った。
「分からなかったら、それで終りかと思ってた」
大輔はどきりと胸を高鳴らせた。それは。岳があんな息の触れそうな距離で泣いたりするからだ。彼がデジタルワールドの夢を見て泣いているのかも知れないと思ったからだ。自分達が選ばれたことを忘れるべきだ、と云う言葉と、あの涙は噛み合わないもののように思えたからだ。
嘘だとか嘘でないとかではなく、大輔にはもっと他に聞きたい言葉があった。
整理されない考えが音をたててぶつかりあう。
そして、確かに岳の言葉をそんなに気にするというのは自分でも妙だと思った。
学校の屋上で肩を貸したりしたせいだ。岳の笑顔をヒカリに似ていると思った。あの時から大輔の中で、小さな価値の崩壊が起こっている。岳への興味がやや希薄で、反感ばかりだった大輔の目に、明らかに岳がはっきりと見えるようになっていた。
急に視力が上がったようだった。金髪に近い、薄い茶色の髪も、周囲よりも少し白い肌も、淡い緑色の植物のようにどんどん上に伸びて行く背丈も、笑顔のままで閉じた岳の周りの空間も、今までになくあざやかに見えた。
「青かと思うと灰色だったりするからさぁ……」
彼は、足許に目を落として独り言のつもりでつぶやいた。灰色に灼けたアスファルトが、屋上のコンクリの床を思い出させる。あの屋上で力無く投げ出されていた岳の手足。ヒカリのすらっとした膝の向こうで、フェンスにもたれていた、熱を持った岳の身体。
「何の話?」
一人ごちた言葉を聞き返されて、大輔はぼんやりと答えた。
「お前の目だよ。俺、今まで青だと思ってたんだ」
「ああ」
岳はちょっと肩をすくめた。
「遺伝の法則通り、青い目にはならなかったみたい」
「遺伝の法則?」
「簡単に云えば、青い目の人と黒い目の人が結婚すると、青い目の子供は産まれないってこと。黒い目の遺伝の方が強いんだ。お兄ちゃんも僕も、よく青い目に見間違われるんだよね。お祖父ちゃんがフランス人だって聞くと、余計そう見えるみたいだ」
大輔はぽかんと口を開けた。
「お前、それちゃんと訂正してんのか?」
「することもあるし、しないこともあるけど」
大輔は喉の奥で唸るような声を出した。
「聞かれないから訂正しないのかよ」
すると、岳はまたかすかに困ったような表情になった。
「ちょっと違うけど……でも、そういう云い方も出来るね」
ぱっと頭に血が昇った。何に引っかかっているのかは分からなくても、引っかかっているのだけははっきりと分かった。大輔は、さっき岳を呼び止めた時と同じように大声を出した。
「高石岳!」
「……え、ハイ」
彼の鼻先を、近くであふれるほど咲く薔薇の香がかすめ、戦意を喪失させそうになる。だが、大輔は息をぐっと止めて、その息詰まる香を回避した。妙に真面目な返事をした岳を睨む。
「俺はお前のそういう態度がむかつく。
でも何にむかついてるのかはわかんねえ!」
岳は答えなかった。
こんな曇った日でも陽を透かす髪を、甘い匂いの風にさらしたまま、訳が分からないというように黙っている。
「だからこれは俺の宿題にする」
そう云った後、余り偉そうだったような気がして、云い直した。
「や、宿題にさせてください」
ふんぞりかえっているくせに、敬語を使って云い直した大輔に、岳の唇の端がぴくりと動いた。彼が笑いそうになっているのが分かった。もう笑われても構わないと大輔は思った。
涙を見たところで、唇が近づいたところで何だと云うのか。
だがあれは大輔にとって一大事件だった。
自分の意志で誰かの唇に近づこうとした、初めての相手だった。なのにそれは岳だったのだ。その事実は、唇が実際に触れていないことを忘れさせるほどのインパクトだった。
「僕にはあんまり嬉しくない宿題だね」
嬉しくない、と云いながら岳は笑顔だった。
そこで彼が何故笑えるのか分からない、と思いながらも、今日ばかりは大輔はそれに救われた思いだった。
「おお、覚悟してろよ」
殊更偉そうに云ってみせた大輔は、岳のせいで味わった棘や胸の疼き、思い出してしまった記憶を何とか飲み下そうとした。
未遂のキスですらないのに、時間が経つにつれて頭の中で鮮明になる唇の距離は、舌の上に、甘い後味として残った。
お題03に続きます。
TITLE:+++02「そのキスを残して」 +++
DATE:2005/06/28 23:17