クラヴィス様とセイラン。
クラヴィス×セイランじゃなくあくまで「AND」です。
「樹齢千年のオーク?」
自分に与えられた、不似合いに大きな椅子の上で気怠く聞き返すと、帰り支度をまとめていたアンジェリークは、手を止めて肯いた。
「ええ、セイラン様。そうなんです。樹齢三百年頃に、そのオークの裂け目に出来た空洞に、聖地を訪れた僧侶が、地上の神殿を模して礼拝堂を作ったんですって。聖地には女王様がいるから、他の信仰は根付きません。その代わり、その、オークと一体化した建物が余り美しいから、聖地の方々が定期的に手入れをして、オークと礼拝堂を保存しているんだそうですよ」
「そのオークと、僕の睡眠との間にどういう関係があるのか、聞かせて欲しいね」
勝ち気な少女は、セイランの棘のある言葉を気にする様子もなく、もう一度彼の向かいの椅子に身を沈めた。
「わたし、そこに初めて連れて行って頂いた時に、その礼拝堂の長椅子で眠ってしまったんです。とても大きくて、暗くて、暖かくて、静かで───時間が止まってしまったような場所ですよ。聞こえるのはオークの葉が時々ざわめく音だけで。ああいう場所なら、不眠症の方でも眠れるんじゃないかと思ったんです」
「僕は自分を不眠症と云ったつもりはないんだけどね」
「あら、セイラン様。聖地にいらして三ヶ月、ろくに眠っていらっしゃらないなんて、不眠症の域だと思います。これでもわたし、心配してるんですよ」
赤みがかった栗色の髪の少女は、今度こそ立ち上がった。彼女は十代の少女としては破格に多忙なのだ。これから残り二人の教官の部屋で次々と学習し、王立研究院に出かけて行かなければならない。こんな少女の肩に、新宇宙のバランスを取る、などという大任が任された気分はどんなものかと思う。その重圧に押し潰されるような感覚を、この誇り高い少女も味わっているのだろうか。それ故に魂の安息の場所を求めて、その礼拝堂に行ったのだろうか。そう思うと、その樹齢千年のオークと一体化したという礼拝堂にも興味が湧いた。
「僕の心配もいいけど、今日出した課題を忘れないよう願いたいよ」
「大丈夫です。それじゃ三日後にまた伺いますね」
アンジェリークは、華奢な靴の踵を健気に打ち鳴らして部屋を出て行った。彼女が去ると、部屋の空気が突然冷たくなったように思える。この短い期間に、自分の心情があの少女に僅かながらの依存の傾向を示していることを、セイランは不思議に思いながらも、半ば楽しんでいた。彼は今まで、言葉の槍で人々を遠ざけ、自分の内的世界を侵害する存在を徹底的に閉めだして来た。それが、今になって十七歳の少女にこんなにかき回されることがあろうとは。彼女を閉め出すことが許されない以上、この居心地の悪さをも楽しむ他に術はないと思えた。
いずれにせよ、彼女をどう想ったところで、セイランは聖地を出て行くのだ。そして彼女は手の届かない場所へ残るだろう。セイランにはその予感があった。あの輝かしい少女達は、遅かれ早かれ、彼から遠ざかり、不可侵の存在となる。その日のことを考えると快感のようでもあり、静かな闇にくるまれるようでもあった。
アンジェリークの云った、聖地東方の礼拝堂を訪ねたのは翌日だった。樹齢千年の大樹というのがどれだけの大きさなのか、セイランには想像がついていなかったが、その丈の高さは彼を圧倒し、押し潰すかと見えた。オークの梢は天を衝くかと思えるほどで、節くれ立った幹の大部分は油を塗った木製の保護材で覆われていた。オークのねじれた腕がさしのべられた下方の部分、根元と溶け合うようにして、赤煉瓦造りの三階建ての礼拝堂があった。その礼拝堂には、オークの幹を螺旋状に取り囲んだ階段を上って入って行くようになっているようだった。大木の幹や枝のあちこちには堅固な鉄のたががはめられ、オークを倒壊から守っていた。
こんなにまでして生かされることは、この樹にとって幸福なことだろうか。しかし、隣接して作られているのが礼拝堂ということもあって、この大木には神聖なものを感じずにはいられない。聖地では、不意に出現した星の吹きだまりのようなこんな小さな礼拝堂さえ、おろそかにされることはない。ここには宗教間の争いはなく、テロリズムもなく、破壊も殉教もない。
戦争の絶えない星からやってきたセイランには、この聖地の静けさは居心地が悪く思えるほどだった。女王に守られた絶対の聖地。伝説ではなく、そんなものが本当にあるとは思わなかった。聖地からの迎えが訪れ、自分の足をここに踏み入れるまで、聖地の存在は子供のお伽噺だとばかり思っていたのだ。この豊饒、この静けさ、この地に溢れる祝福が、セイランの眠りを殺す。セイランには元よりインソムニアの傾向があったが、それがこの聖地にやって来て以来、加速しているのを感じた。
彼は静かに階段を上り、礼拝堂への入り口に向かった。階段はよく手入れされ、あちこちに花が飾ってあった。聖地の人々は、どの程度の頻度でここを訪れるのだろう? 絶えず管理人が見て回るような場所であるとすれば、それはややセイランの興味を削ぐところでもあった。
建て付けのいい扉をそっと押し開けて、彼は礼拝堂の内側に入った。
礼拝堂の中に入った瞬間、彼は立ち止まった。アンジェリークの云った通りのものが、四方から押し寄せてきて、濃厚に彼の身体を包み込んだ。そこは彼女が云ったように大きく暖かかった。靴音を包み込んで吸収する柔らかな絨毯敷きの床。礼拝堂の中に適度な光をもたらす灯取りの窓。蝋燭やランプのような照明はいっさいない。ただ、いまだ高い昼の光が窓から射し込み、建物の中を照らし出していた。正面には異国の聖母・ミルヤム像が配されていた。そして、神経を痺れさせるような、圧倒的な緑の気配と、生死の境を越えた樹のもたらす静けさがそこにあった。
セイランは静かに息を吐き、礼拝堂の奥へ入った。ミルヤム崇拝の思想が、女王の聖地に存在するはずはなかった。しかしそれを奉じることはなくとも、ここにこうして礼拝堂が守られているということが興味深かった。建物の中は外から見るよりも広く、ぽうんと物音を弾ませ、くるみ込んでしまうような不可思議な赤い洞穴だった。
アンジェリークが眠ったというのはあそこだろう。ミルヤム像の前に金色の布を張られた大きなアンティークソファが置かれている。ミルヤム像を眺める人はあそこに腰を降ろしてくつろぐのだろう。祈るために置かれた椅子ではないことがすぐに分かる。
セイランは、無造作にソファに近寄った。そして、ぎくりとして動きを止めた。
ソファに横たわっているものが余りにも黒々としていたので、そして、死が横たわっているように静かだったため、薄暗い礼拝堂の中で彼に容易にはその存在を気づかせなかったのだ。
ソファには背の高い男が横になっていた。彼のつけた濃紺色の衣装、そして、ソファからあふれてこぼれる長い黒髪が先ず目についた。黒い川を絵から写し取ってきたように、その髪は豊かに、つややかに長椅子から床に流れ落ちていた。男の青ざめてなめらかな皮膚が、彼をまるで死人のように見せていた。
闇の守護聖のクラヴィスだ。彼は、他の守護聖同様、セイランにとって得体の知れない相手だった。女王とは、守護聖とは一体何か? それ自体を理解するのに彼は長い時間を費やした。そして、虹のように多彩な個性を持った彼等が、この宇宙に影響力を持つほどの力を与えられているということに、無意味な反発を感じた。それを隠すことがなかったため、セイランの存在は聖地で物議を醸した。新女王候補の教官が、反守護聖的な感覚を持っていることを善しとする関係者は、流石にこの太平楽な聖地にもいなかったのだ。だが、それは結果的に黙認され、セイランも彼等を攻撃する矛をおさめた。守護聖達は、憎み続けるには余りにも人間的であり、それと同時にそれぞれが理解出来ない眩しさを持っていた。セイランは、芸術家の持つ感性をもって、彼等を次第に愛さざるを得なかった。光、闇、焔、水、緑、鋼、智、夢、風。どれをとっても詩人、或いは画家としての彼のこころに訴えかけないものはなかった。
「そなたか」
不意に蒼く美しい死骸が口をきいて、セイランはひどく驚かされた。
「あの者に、聖地では眠れないと云ったのはそなたか?」
瞳が開いた。半ば身を起こした男に、物憂く尋ねられて、セイランは驚愕の反動の復讐のように、直ちにこころを自衛と攻撃のギアにシフトした。
「彼女をここに連れてきたのはあなたですか? 女王候補にはご親切なことですね」
青みがかった銀髪をかきあげ、苛々とつぶやいた。彼のその攻撃的な声も、この礼拝堂は鳩のくぐもった啼き声のように、不確かでやわらかなものに変換してしまうようだった。あたりには変わらず静寂が立ちこめ、セイランはこの空間で、いかに自分が異分子であるかを感じずにはいられなかった。
「女王候補も、女王も人であることから逃れられない。魂の内側のように閑寂な居場所でさえ、完全な暗闇ではない。暗闇に求められなかった安らぎを、光や緑に求めることもまた、愚かな人間の宿命と云うべきものだ」
黄昏を思わせるくらい声の響きが、セイランの神経を静めた。何よりも、闇の守護聖が、反目している筈の光に安らぎを求めると云った言葉が彼の気に入った。
「貴方のような人でも、光無しにはいられませんか?」
やや声を落としてそう尋ねると、闇の守護聖はかすかに身を揺らがせた。彼の長い黒髪が、その動きにつれて、最上級の絹のように揺れるのを、セイランは半ば意地の悪い視線で眺めた。あの髪をあんな艶に保っておくために、聖地のどれだけの人の手が費やされているのだろう。
「眠りから目覚めるとき、闇に傍にいて欲しいと願う者は少ないだろう」
簡潔な答が返ってきた。その時、セイランは目の前にいる男の黒い瞳の中に、底の知れない孤独を見出した。そして、自分のハリネズミのような問いかけが、彼にとって何の意味ももたらさないものであることを知った。すると急に心が凪ぎ、一抹の快感をもって、彼は己の卑小さを自覚した───それは宇宙に出て、そのはかりしれない暗闇の中で、己の母星が輝いているのを眼前にした者が昂揚し、また自分の存在の小ささをもって、空の深さを知る瞬間と似ている。
その時、不意にその場所を支配しているのが完全な沈黙ではなく、やわらかにオークの葉がそよぐ音が、そこに混じり込んできているのが分かった。
セイランは音楽を聴くようにその葉擦れの音を聴いた。それ以上口をきく気にはなれなかった。そして、目の前の長椅子にもたれて座った闇の守護聖が、自分の聴いているものと同じものに耳を傾けていることに気づいた時、彼はようやく、誰に対してもつきつける、火に焼いたばかりの刃物のような自分の言葉を、完全に鞘におさめることに成功したのだった。