Eyes Meetingの続き。バカップル。


続き






　体育館の下駄箱で靴を替えている三浦の姿を、石井は思わずじっと眺めた。
　正直あまり清廉潔白な視線ではない。この間の日曜日に三浦の家に行った。今日は金曜だからもう五日も二人きりになっていない。
　三浦は石井が自分を見ていることには気づかないように、ローファーに爪先を滑り込ませる。三浦の靴はいつも綺麗に磨かれていて埃一つついていない。校内で履く上履きも真っ白だった。別に普段そんなアピールをするわけではないのだが、たぶん三浦は綺麗好きなのだろう。部屋もびっくりするくらい物が少なくて片づいている。
「来る？」
　靴を履いた三浦が不意に口を開いた。視線は足許に落としたままだった。
「えっ」
　一瞬意味が分からずに石井は間の抜けた声を出す。
「うちに。今日」
　すぐに返事をしないと、今にもふいっと背中を向けてしまいそうな雰囲気だった。三浦からそう云われたのは初めてだった。みぞおちのあたりに不思議な興奮がこみ上げてくる。いつものことだが、頭にふっと血が上った。
「あっ……あのさ、俺が考えてたこと、もしかして分かったか？」
　思わず云わずもがなな事を云ってしまった。三浦は初めてちらっと目を上げた。そして、石井の顔を見て不意に小さく吹き出した。笑っている口元を隠して微妙に顔を背ける。
「な……何だよ」
　三浦のこういう仕種が妙に気障に見えて嫌いだったこともあるのに、どうして今はこんなに目に甘く映るんだろう。
「……別に」
　三浦は足許に置いた鞄を取り上げる。ポケットからするっとＭＤウォークマンのイヤホンを抜き出した。早く返事をしないと知らないよ、というポーズだ。
「あ、俺、行くからっ……」
　焦って大声を出すと、三浦は眉をひそめた。だが、口元のかすかな笑いは消えていない。
「じゃあさ、携帯の電源入れといてくれよな」
「え？」
　今度は三浦が少し怪訝な顔になる。そして、石井が途中で落ち合おうとしていることに気づいたようで肯く。
「ああ────はい。わかった。……じゃあ、また」
　三浦は片手をあげ、一歩先に体育館を出てしまった。行きながら携帯を取り出して、電源を入れているのが見える。三浦がそうしているのさえ嬉しくて、ぼうっとして後ろ姿を見送った。
　はっとしてポケットの中に手を入れる。そこには、この数日間持ち歩いていたものが入っている。石井はうっかりそれを取り出して確かめようとして、流石に思いとどまった。
（怒るかな、三浦）
　そう思って少し迷う。思わずため息をついた。

　部活が終る。後かたづけをする。下の学年の連中や女子部といりまじって、体育館を出る。
　だいたい二百メートルくらい塊で移動してから、それぞれが一緒に帰る相手とばらけて別れてゆく。
　これが瑞穂バスケ部の毎日のパターンだった。
　その中でも藤原は大抵、女バスの主将の彼女と歩いているし、哀川も彼女といることが多い。その中に、三浦は空気のように混じっていて、適当なところまで来ると、じゃ、と手をあげて、すうっと帰って行ってしまう。三浦の家は瑞穂を中心に見ると西側にあって、ＪＲ一駅分向こうの石井や健二の家とは逆方向になる。
　石井は最寄り駅が一緒のせいもあって、殆ど健二と一緒にいて、三浦の後ろ姿を振り返ることが多かった。三浦が石井を振返ることはない。目が合った事がないからそれははっきりしていた。三浦の家に行く時は、途中で用事があると云って駅の手前で健二と別れて三浦の携帯にかけるか、家に帰ってから原付を引っ張り出して飛んでいくか、というパターンだった。
　二人で下校するのは、方向から云っても何となく不自然だからだった。
　今日も、三浦は誰に云うともなく口元だけで微笑して、じゃあ、と云って、歩いていってしまった。
　外は脱力したようにおだやかな、新月の薄闇につつまれている。氷室先生が新月ね、と云わなければそんなことには気づかなかった筈だが、夜空に浮かんでいるのは、確かにひっかいたようなおぼつかない細い月だった。
　街灯の灯りに照らされた三浦の髪は、太陽の光を透かしている時より色が濃く見えた。そのせいか、三浦のほっそりした背中は妙に硬質に見えた。あの柔らかい茶色の髪が、三浦の普段の印象をずいぶんやわらげているのが分かる。
　実のところ、電源入れといて、と予約を入れなければ、三浦は携帯の電源を殆ど入れない。
　学校にいるときも、家にいるときも電源が入っていたことはまずない。留守電にメッセージを入れておくと、急な用事がありそうな時は折り返しかかってくる。
　だが、石井が三浦に急な用事があることなんてないのだ。せいぜい急に会いたくなった、とか、その程度のことだ。こうなったばかりは、勢いでそれもアリか、という感じだったが、部活はきつくなっているし、近頃は急に会いたくなって、とか、今日の帰り寄っていいか、と云いづらくなって来た。
　別に三浦が自分のことを嫌っていると思っているわけではない。どうでもいいんじゃないか、と思った事はあるが、そうでもないことも分かってきた。
（だからって何考えてんのか、全っ然わかんねーけどな……）
　何を考えているのか分からないのに、何故こんなに好きになったんだろう。三浦の綺麗に整った華やかな顔立ちは、気質が醒めているから目立ちにくいし、それに、反感を持っている時は何よりもあの顔が嫌だったのだ。だから顔に惚れたのではない事だけは断言出来る。でも、じゃあどこ、と云われると困る。今となっては嫌な所なんて全然思いつかない。
（バカみてえ、俺……）
　石井は大きな背中を丸めてまたもやため息をついた。健二がそれに気づいたように振返って、何？と尋ねる。
「何でもねーよ……」
　三浦のことばかり考えている。少しブルーになる。
　突然、氷室が何で新月なんて云いだしたのか思いだした。
　氷室は今日少し苛々していたのだ。
　自分でも途中でそれに気づいたようで、自嘲するように真っ赤な口紅を塗った唇をゆがめて、新月だからかしら。そう云ったのだ。
（新月だと何で苛々すんの、センセ）
　石井がずけずけと尋ねると、氷室は腰に両手をあてて、体育館の天井を仰ぎ見た。
（人間ってね。地球の地表と同じ成分で構成されてるの。地表は８０％の海と２０％の陸地で構成されてるでしょ？　割合まで人間と全く同じなわけ。だから月とか太陽の引力が、海に満ち引きの作用を及ぼしてるのと同じで、人間の体内の水分にも潮汐作用があるって云われてるの）
（氷室ティーチャも、そういう女の人っぽい蘊蓄するんだ、意外っすね）
　二年の高階がひょいと後から覗き込んできてにやにやした。
（ええ……っと、だからそれで新月だとどうなんの？）
　石井の言葉に、高階と氷室が二人とも呆れたような顔になった。
（云うじゃないですか。満月とか新月の時って、精力バリバリになるとか、逆にブルー入っていらいらするとか。……）
　高階の言葉に氷室が肯く。
（そ。要するに血の気が多くなるわけね。努も怪我なんかしないようにしなさい）
（何でオレなんだよ、センセが苛々してるって話だったんじゃねーかよ）
　口をとがらせたが、氷室はどうやら喋っている内にふっきれてしまったようだった。
　いつもの口調で、トーヤも努も早く戻んな！　と喝が飛んだ。
　血の気が多くなる。そう考えると石井はすこし自分でも可笑しくなった。石井はいつでも血の気が多くて、それには流石に自覚があった。
「努」
　また呼ばれた。
　数歩先で健二が振返るのが目に入る。
　石井はそれで、いつの間にか自分が立ち止まってしまっていたことに気づいた。
「あ……悪い、おやじ。先行って。オレ寄ってくとこあるからさ」
　もう少しで駅についてしまう。これ以上行くと、三浦に途中で会うのは難しくなるのだ。
　別に一人で行ったっていいのだが、三浦が住むマンションを訪ねて、ドアが開いた瞬間どんな顔をすればいいのか考えながらエレベーターに乗るのが、実のところ余り石井は好きではなかった。一緒に行ってエレベーターから降りて、鍵を開ける三浦の後ろ姿を見ていた方がずっといい。
「いいけど、俺も付き合おうか？」
　健二の温厚な目を見るとどうにも罪悪感がこみあげてくる。
「や、一人でいいから、先帰ってて。わりい」
　健二は何も云わずに肯いたが、何となく物言いたげな顔になっていた。こういう事が最近多いから、健二が変だと思っていることは分かっていた。健二にこんな態度を取られたら、自分ならとっくに問いつめているはずだ。
　自分がこの後三浦の家に行って、しかも何をするのか健二が知ったらどう思うだろう。案外健二なら戸惑いながらも理解してくれるかもしれない。少なくとも激しい拒否反応はないだろう。彼は今まで、石井がどんなに突飛なことを云い出してもはねつけたことが一度もない。だからといって、やはり健二にも打明けることは出来なかった。
　わざわざ別々に帰って、それから三浦に会いに行く。健二にも、他の連中にも内緒で三浦のマンションに行って鍵をかける。
（やっぱ何か変だよな……）
　また少し憂鬱になる。
　石井の血の気が多いのはいつものことだし、それに三浦のことで突然ブルーになるのも、別に月が出ていようが隠れていようが、この数ヶ月の石井にとってはまるで変わらない話だった。

　元来た道を、一応道筋を一本だけはずして引き返しながら携帯を鳴らすと、３コールで三浦が取った。
『────石井君？』
「えっ」
　ハイ、も何もなく呼び掛けられたのに驚いて、石井は思わず声を立てた。
『えっ、て何？』
　向こうから少し可笑しそうな三浦の声が聞えてきた。今日は機嫌がよさそうだった。
「今どこ？」
『……Naviの横のミスド』
　そう云われて石井は目を丸くした。学校のすぐ近くだった。そう云われてみれば電話の向こうがざわざわしている。
「何で？　帰ったんじゃねえの？」
『……』
　また少し沈黙がある。
『……君が前云ったんでしょ、待ってろって』
「えっ」
　石井はまた声をたてた。前に何を云ったのか瞬間的には思い出せずに頭の中をひっくり返す。そして、何回か前に三浦の家に行った時、駅から急いで引き返したのに、三浦はもうとっくに家に着いてしまっていて、その時も不満を漏らしたことをようやく思いだした。
『じゃあ、禁煙席にいるから』
　三浦はそう云った。電話が静かに切れる。三浦とたまに電話をすると、会話がさっさと終って、三浦から切れることが多いのだが、それも気にならなかった。
　先々週、三浦は自分も石井が気になっている……というようなことを、ほろりと漏らした。
（君のがセクハラなら、僕だってしてるよ────）
　内容と噛みあわない、素っ気なくて冷たい口調でそう云った。最近石井は、三浦からここまで冷淡にされることは少なくなっていた。だから逆に彼が冷ややかな時は、もしかして照れているのかもしれない、などと石井なりに推察してもみた。
　だが、その言葉の余韻も忘れかけていて、石井の尻に生えた仮想上の尾が、少し勢いを失って垂れ始めた頃に、こうして冷たい指で耳の後をひと撫でしてくれるのだ。
「……ったく、何だよ……」
　石井は携帯を鞄に突っ込んで、嬉しくてたまらなくなって早足で歩き始めた。走っていくのは流石に恥ずかしいと思った。だが三浦と彼の間には、今、徒歩約十分の距離があって、走ればそれは、五分足らずの距離に縮まる。
（バカみてえ、オレ）
　さっきと全く同じことを考えた。
　しかし、声に出したわけでもないのに、そのトーンはさっきとまるで違った。
　そわそわした気分で推定十メートル歩いた後、結局石井が新月の夜道を走ったのは云うまでもない。

　石井は、マンションの廊下の灯りに照らされた三浦の髪が、やはり静かに茶色に光っているのを見つめた。色の淡い細い髪だから、光源によって、その灯りが青白かったり、金色だったり、真っ白な陽光だったり、そのたびに様々な色に変わるのだ。
　自分の視線がセクハラめいている、なんて思うほど、春前から彼は三浦を熱心に目で追いかけていた。色んな瞬間の三浦の髪を見た。とかしたばかりでつやつやと光っているのも、汗に濡れて額や頬に少しはりついているところも、風にさらわれて小さく吹きなびいているところも。見るだけではなく、てのひらをさしこんで梳きあげ、かき乱して、時には唇を押しあててなめらかな感触を確かめた。
　鍵を開ける三浦の後で、石井は思わずびくっと背中を震わせた。髪の上からうなじに唇を押しつけた時に三浦が良さそうにするのを思い出して、思わず熱くなってしまう。
「……どうかした？」
　振り返った三浦は石井の葛藤には気づかないように視線を上げる。こうやって見上げた時の目の角度も好きだ。
「……っ、別に……」
　三浦もよく、別に、と云うが、石井のとは随分云い方が違う。三浦が云うとよく切れる刃物ですうっと表面を削ぎ切ってしまうような印象だが、石井の云い方は、いかにも何かを慌ててとりつくろった感じになる。
　思った通り三浦は、何かを見透かしたように少し笑った。
　ドアが閉まった途端、鞄を玄関先に放り出すように置いて、石井は思わず三浦を背中から抱きしめた。自分の腕の中にほぼおさまってしまう身体の線を確かめる。耳元に頬を押しつけて身体をなるべく密着させようとする。
「……何？……」
　ぶつかるようにして自分を抱きしめる石井に戸惑ったように、三浦はつぶやいた。顔を押しつけたせいで、低いつぶやきなのに、声が三浦の喉を振動させているのが感じ取れる。石井の感覚があちこち酷く敏感になってしまっているようだった。
（やっぱちょっと血の気多くなってっかな……）
「だって五日ぶりじゃん……」
　声が情けなく掠れる。学校でしか会っていないから、指一本触っていない。前だったら何の抵抗もなく触った肩や背中に、最近は触りにくい。他の奴が見ている前であからさまにその気になってしまわないか、自分でも心配だった。
　三浦はそれには答えなかった。だが、ぴったり押しつけた頬の間にふっと熱気が加わって、石井は少し驚かされる。それはあきらかに三浦の熱だったからだ。
　石井は、三浦がまだ手に持ったままの鞄を取り上げて、自分の鞄の上に放った。振り向かせた三浦の背中をドアにそっと押しつけた。軽く握りしめた左手をそっと開かせ、指を一本ずつ絡めてドアに押しつける。三浦は視線をあげようとしない。
　まだ玄関の常夜灯しかついていない、ぼうっとしたオレンジ色の灯りの中で、背中をかがめてキスした。唇が触れた途端、快感や興奮と云うよりは、安堵のようなものがこみ上げてくる。石井はうっとりと目を閉じた。三浦の左手をドアに縫い止めたまま、ほっと温かい下唇を舐める。三浦の唇からは、かすかに、さっきミスドで飲んだパラダイス・トロピカルティーの香がした。
　胸元を開いて、制服のワイシャツの中にてのひらを滑り込ませる。中に着たランニングを引きずり上げて、素肌に手を触れた。
　温かく上下する薄い胸郭の上をてのひら全体で撫でる。くっつけたままの唇が、小さく、あ、の形に開く。届く位置まで唇を深く噛みあわせて、柔らかい舌をそっと吸い取った。
「……ン……」
　舌を絡めながら胸を撫でていると、三浦は昂ぶったような声を漏らした。石井は、自分の頬に触れた感触に驚いて、思わず目を開けた。押さえつけていない方の三浦の手が石井の頬に触れていた。そっと添えられているだけだが、三浦がキスの最中に今まで石井の頬に触れたことはなかった。その指はやはり紛れもない男の指で、それが酷く新鮮な気がした。
　石井はもう一度目を閉じた。自分の頬に触れた三浦の温かい指が、興奮したようにほんの少し震えているのが分かった。ドアに三浦の髪がこすれる、聞き取れないほどのごく柔かな気配。石井のてのひらの中で三浦の鼓動がどんどん早くなっていく。
　痛みに変わる寸前の鋭い感覚が胸を突き上げた。
　たまらなく甘い胸苦しさに背中を堅くする。
　絶対に傷などつけないように、そっと悪戯するように、柔らかい唇にほんの少し歯を立てた。

　いつもなら、カーテンを開けておけば多少は光が入ってくるのだが、今日は真っ暗だった。あの細い月がどこかに出ている筈だが、窓からは見えなかった。
　だが、窓の向こうの夜空には、月に邪魔されずに星が冴え冴えと光っている。薄い青や白、黄、浅い赤。特別目を凝らさなくとも、色や光度さえ見分けられるような星空だった。
　勿論それは石井の視力があってこそのことだ。無意識に気持を逸らそうとしているのかもしれないが、石井は、自分が小学校の頃に遠視寸前まで行って、遠視用の眼鏡をかけるように云われて泣いて嫌がったことを思い出した。少し笑いそうになる。
「何か暗くねえ？」
　三浦の耳元でささやく。
「え……？」
　三浦が薄く目を開ける。だがすぐに、吸い込まれるように目を閉じてしまう。石井は視力がいいだけでなくて、かなり夜目が利いた。部屋は真っ暗に近かったが、三浦が苦しそうにしているのが分かる。胸を波打たせて顔を背けた。
「ちょっとだけ電気つけちゃ駄目か？」
　枕元のクリップライトに手を伸ばそうとする。
「やめろよ……」
　三浦の震える指が石井の腕を押しのけた。その途端、石井の指がぐっと締め付けられる。
　五日ぶりのせいか、最初指を入れた時、三浦は少し痛そうだった。自分の身体を支えるためにシーツについた石井の左手の甲に三浦の腕が触れていて、そこがさっと粟立つのが分かった。
　今は、指と潤滑剤で三浦の中に沈み込んでいる。今までこんなに時間をかけたことは一度もなかった。
　三浦を濡らすために使ったのは、石井が自分の家の近所で見つけたジェルのような薬品だった。
　駅の東側のアーケードの中にあった古い洋品店が店を畳んで、半年前、そこに小さなフリーの出店スペースが出来た。屋根があるから、露店のように雨に降られる心配がないせいか、いつもどこかしらが店を出している。花屋が店を出していたり、バレンタインの時期には小さなチョコレートを並べた店が出ていた。おおよそ一週間ほどで入れ替わって、また他の店が入る。
　そこに、数日前からアヤしい漢方薬や健康食品のようなものを売っている店が出た。
　別に何か買おうと思った訳ではなかったが、部活の帰りに通りかかるとまだ店が開いていたので、ふらっと入ったのだ。その店でこれを見つけた。
　金属のチューブに入っていて、Lubricating jellyとしか書かれていない。英語だから、それだけなら石井は見逃してしまった筈だった。だがその銀色のチューブには、シールが貼られていて、そこには店主のものらしき赤い油性マジックの文字で、『潤滑剤』と書き殴られていた。
　その文字を見た瞬間、石井はかっと赤くなった。それが何を意味しているのかは流石に分かる。彼も色々気にしているのだ。三浦に痛い思いをさせたくない。元々彼はそんなにタフではないし、それに石井の無茶のせいで、、部活どころか学校に行くのも辛い状態にさせてしまったこともあった。何か工夫した方がいいのは分かっているのだが、そういうものを売っている店を探して買いに行く勇気は、石井には正直なかった。
　二十グラム入りのチューブが三千円。正直高いと思ったが、もしも役に立つならそれでもいい、とも思った。
『あの、……これ、何に使うんすか？』
　彼は意を決して、顔色の赤黒い仏頂面の店主に尋ねた。ラジオを聴いていた店主はちらっとそのチューブを眺め、石井の顔を次に眺めた。仏頂面の儘ラジオの方に視線を戻す。
『彼女がいるなら使ってやんなよ』
　石井の顔色を横目でちらっと眺め、付け加える。
『別に身体に悪い薬じゃないからね』
　サンダル履きの足を組み替えて、無関心な顔でレジスタを置いた台に肘をつく。ラジオではナイター中継の合間に、首都圏の交通情報を流している。
　石井は恥ずかしくて死にそうな気分で、財布から千円札を三枚引っ張り出した。冷やかすような事を一言でも云われたら買って帰れなかったかもしれないが、広い背中を所在なく丸めた石井を見ても、店主は別段何とも云わなかった。三千百五十円、と云われて、消費税を忘れていたことに気づく。硬貨を探す指がだらしなく少し震えた。
　家に帰ってそのチューブから薬品を少し指先に取ってみた。うすい水色の柔軟なジェルで、香はない。別段変わった感じもしなかった。ただ、ハンドクリームや傷用の軟膏よりもずっと乾きにくそうな気がする。それだけでも三浦はずっと楽だろう。
　あんな得体の知れない店で買った薬を三浦に使って良いものだろうか。だが、何度も三浦に入った後、彼が辛そうにしているのを思い出すと、何とかしたいと思わずにはいられなかった。
　ずっとそれをポケットに入れて持ち歩いていると、自分がいつもどこか期待していることが分かる。それは出来れば三浦には知られたくない事だった。三浦とこうなったからといって、友達をやめられてしまうのは辛い。
　それを使うのは今晩が初めてだった。
　前置きをしようかと思ったが、結局何も云い出せなかった。
　唾液で濡らしただけでは少し痛そうに見えた三浦の様子を見て、石井は内心びくつきながらジェルを指に絡ませた。馴れない感覚があったせいか、中指を滑り込ませただけで、三浦は驚いたように息を呑んだ。そっと動かすと、嫌がるように身を捩る。ハンドクリームを使った時と違って、思わず恥ずかしくなるような濡れた音がした。
「ちょっとは楽じゃねえ？」
「何……？」
　我慢できずに訊くと、三浦は、何を塗ったのか、と尋ねようとしたようだった。
　だが、三浦の息はすぐに、あっという間に昂揚を示して弾み始めた。それは前に触れて、高まりそうになった寸前にしかいつも聞かれない、せっぱつまった感じの吐息だった。殆ど触れていない三浦の前が反応し始めた。抜き取って沈ませる動きを繰り返すと先が濡れてくる。
　暗闇の中で、三浦が驚いたように目を見開いた。
　中指を一度抜き取って、二本滑り込ませる。
「あっ……あ！……」
　三浦は声を上げる。すぐに息を詰まらせる。手を伸ばして、石井の動きをせき止めようとする。
「ちょっ……待てよ、だってさ、お前……」
　指を入れたまま耳元に唇を近づけてささやく。
「いつも痛そうじゃん……ちゃんとしないとさ……」
　唇が触れて初めて、三浦が汗ばんで火のように熱くなっているのに気づいた。
（……身体に悪い薬じゃないって云ったよな……）
　三浦の乱れ方に思わず不安になった。
　石井の指が回った時、三浦の身体がびくんとすくみあがった。軽く押さえ付けた肘の内側がぱっと熱くなる。
「……やめ、てって……っ」
　どこか、三浦の具体的な快感に触れた場所があった。そこを曲げた指で強く擦る。
「……ん、あっ……あっ……」
　片手で引き離そうとしていた石井の手に、三浦の両方の手がすがりついた。爪先がシーツの上で反り上がり、石井の腕を外側から左足の膝が締め付ける。
　三浦の弱いところだと知って、石井はくらくらする気分でそこを繰り返し擦り上げた。見たこともないような三浦の乱れ方に、触れないままで石井も上り詰めてしまいそうな気分だった。
「んっ……」
　背中が跳ねる。濡れた先を指先で撫でると、三浦は殆ど泣いているような声をたてた。深く入れた指が締め付けられる。三浦が抵抗してもジェルの柔軟さは石井の指をまた深く迎え入れてしまう。指の動きを早めると、三浦は反らせていた背中を丸め、顔をうつぶせに伏せてシーツに埋めてしまった。シーツをたぐり寄せて握りしめる。そうしていても喉声が漏れて、我慢できないほどの三浦の興奮を教えてしまう。
「石井────石井くん……」
　三浦の背中が、逃げようとしてもがいた。声が甘く上擦っていた。
「ねえ、もう……っ……」
　感じる所を弄るのをやめない石井の手に焦れて、シーツを離した指が爪をたてる。
　いつも温かく乾いたてのひらが、滑るくらい汗で湿っていた。
「……もう、……我慢出来ないから……っ……」
　およそ彼らしくない濡れたその声は、三浦が慣れるまで続けようと思っていた石井の決心を吹き飛ばすインパクトだった。
　かっと全身が熱くなった。
　指を抜き出して枕元に置いたコンドームを探る。興奮で封がうまく切れずに、石井は歯でビニールを裂いて中身を取り出した。
　中に入る直前に唇を押しつけると、三浦の舌が乱れた熱い息と一緒に絡みついてくる。膝を胸につくくらい押し上げて、自分の腰を割り込ませる。その瞬間、石井のうなじに腕が絡みついて強く抱きしめた。
　すがっているようにも、引き寄せるようにも取れる仕種だった。

「あのさ、今日……お前、何で来ていいって云ったわけ？」
　いつもなら、終った後は身支度して解散、という雰囲気になる三浦が、シャワーを浴びてきた後も、眠そうにダイニングに坐っているのを見て、石井は不思議に思った。来た時と同じ制服を着込んで帰る準備をするが、帰って欲しそうな様子も見えなかった。
「え？　ああ……」
　三浦はテーブルに頬杖をついた。
「母が今日いないから、泊まらないかな、と思って」
「って、マジかよ」
　石井は思わず大声になった。
「そんなこと一言も云ってねえじゃん。昨日云えば泊まる準備してくるのにさ」
「昨日は全然その気なかったから……」
　三浦はふう、とため息をついた。
「じゃあ、何で来いって云ったんだよ」
「来い、なんて云ってないよ」
「おんなじだろ？！」
　三浦はうるさそうに眉をひそめた。
「君だって、急にその気になることあるでしょ……」
「……まぁ、そうだけどさ……」
　石井は、きちんと片づいた、雑誌に載っているようなダイニングを見回した。三浦の母と、三浦が二人で暮らしているこのマンションにいると、自分が規格外に大きく感じる。石井の家は家族全員が大柄な長身だから、台所も何もかも、普通より大きいものが揃っていた。確か椅子は特注だと云っていた。しかも食べ盛りの息子二人と、家では一切厨房に入らない父を腹一杯にさせておくために母はいつも大わらわで、こんなに台所がきちんとしていたことなどなかった。だが、このマンションは上品で清潔だが、余り生活感がない。
「ってことはさ、お前もその気になってたんだ？　三浦」
　不意に思いついて顔を覗き込むと、三浦は微妙な表情になった。
「……だからそう云ったじゃない？……」
　声のトーンが落ちる。
「いつから？　何となく？」
「どうしてそんなことしつこく聞くの」
　照れているのかもしれない、などと思ってみても、この三浦の冷たい口調は石井にはいまだに少しこたえる。
「だって、氷室センセがさ……何か新月がどうとか云ってたからさ」
　そう云った途端に、三浦の顔に露骨にあきれた表情が浮かんだ。
「人間は万年発情期なんだから、新月も満月も関係ないんじゃない？」
　三浦の口から初めて発情、なんて言葉を聞いた。
「だいたいね。みんな君ほどは、何かしたいとかしたくないとか、はっきり云うわけじゃないと思いますけど？」
　三浦の口調は益々皮肉っぽくなった。
「何だよ」
　思わずむっとして云い返す。でもそのくせ、彼は少し湿ったままにしてある三浦の髪をずっと目で追いかけていて、もうその柔らかい房に触りたい衝動に駆られていた。今にも手を伸ばして前髪のあたりをいじってしまいそうにうずうずしている。
「云わなくても思ってりゃ同じじゃん。だったらちょっとくらい云ってもいいだろ？」
「君はほんとに……」
　三浦が、さっき体育館でしたのと同じように不意に笑った。目を細めると、眉をひそめているくせに表情はぐっと柔和になる。
「愛情一杯に育ちました、って感じだよね……いかにも」
　おっとりした口調でそんな風に云われて、そのくせバカにしているのかと思えば、笑っている三浦はドキッとする程綺麗だった。瞳も髪もやわらかな茶色で、石井の目に優しかった。三浦の笑った顔を見ていると、何が何だか分からないうちにおさまりがついてしまう。
（まぁ、いっか……）
「で？」
　三浦にそう聞かれる。
「で、って何が？」
「泊まる？」
「あっ」
　そのことを忘れかけていた石井はまた大声を出した。
「オレ明日の準備してきてねーよ！」
「明日の準備って何？　教科書持ち歩いてないでしょ、君は」
「ま、そうだけどよ……」
　ギリギリ間際になって泊まる、と云い出すと父が煩いのだ。高三にもなった息子をつかまえて、未だに小学生相手のようにがみがみと怒り出す。石井は、だが父の小言と三浦の家に泊まれる一晩をはかりにかける気はなかった。
「洗濯機使いたかったら使えばいいし────」
　三浦がいささか事務的に続ける。
「お前さぁ、三浦。泊まる？じゃなくて、せめて泊まらない？くらい云えねえの」
「たいした違いじゃないと思うけど────」
　三浦はそう云って、ふっと思い直したように顔を上げた。
「泊まらない？」
　石井がたった今云った通り復唱するように、鸚鵡返しに云った。
「聞きたいこともあるしね？　君がさっき持ってた薬のこととか────」

　結局石井は、持ち込んだ潤滑剤のことをすっかり喋らされた。
　三浦は話を聞いているうちに段々腹立たしそうになり、変だと思った、と不機嫌につぶやいた。何が変だったかを喋らせようとしたが、三浦はそのことについてはひとことも漏らそうとはしなかった。
（まあ、あの反応見てれば想像つくけどさ……）
　一晩この家にいて、さっきので満足して寝付けるかどうかを悩みながら、石井はこっそり考える。どうせこのジェルを使ってみるなら新月でない晩にすればよかった。何の添加物もなしに血の気の多い三浦というのも見てみたかったからだ。
（新月と満月って云ってたっけ？）
　氷室の言葉を思い返してみる。
（────血の気が多くなるってこと）
　本当に信じているわけではないが、半月後にそれを覚えていられたら、今度はこっそり観察してみよう、と石井は思う。
　自分がいつも満月の夜のような状態だから、三浦のサインが見えにくいことにはまだ気づいていなかった。月が明るい夜は星が見えにくいものだ。特に三浦の反応は視等級で云えば五等星マイナス１くらいのものだ。本当は石井のテンションが新月くらいのあかるさなら、三浦の星がどんな色をしているのかも見きわめることが出来るだろう。
　だが当の石井は、三浦のサインをまるで読みとれないことや、会うだけでも気を遣わなければいけないことで憂鬱になったことも、どこかに置いてきて忘れてしまっている。
　とりあえず、濃厚な初夏の夜の中に三浦と二人で坐って、他愛ない云い合いをしているのは酷く幸せだった。
　その幸せと引き替えにする小言を早く聞いてしまおうと、石井は慌てて自分の携帯で、家の電話番号を呼び出した。