ユウタのメンタル総攻め。あくまでメンタルで。
Groom in bloom
死体だと思っていたのに、不意に腕が伸びてきて、豊の腕を掴んだ。
敦司の手は、それそのものだけを見ると、働くこともつむぐこともしない、怠け者の指のように綺麗だ。
女の指ではないから、細くも華奢でもないが、ピックを持つこともなく、スティックを握ることもない、どこにもタコの出来ていないなめらかな手だ。むろんそれは彼がヴォーカルだからだ。手が綺麗なことは、必ずしも彼の怠惰さを象徴するものではなかった。
「ユータ、てめえ……一人で飲みやがって」
寝乱れた髪を件の指でかきあげて、豊の大事なバンドのヴォーカル殿は、威嚇するような声でささやく。豊は自分の隣で伸びている敦司を見おろした。突然押し掛けてきたのを泊めて、つまみを用意して、酒を飲ませ、あげくカーペットの上でつぶれたのを毛布までかけてやったというのに、この人は「てめえ」ときたものだ。もっともその、てめえ、はどこか人なつこく、甘えて絡むような響きを帯びている。何のことはない。酔っ払いだ。
櫻井敦司がきっかり十二時半にやってきた時、彼はすでにどこかで飲んできたらしく、相当回っていた。生来メイクを施したような曲線を描く大きな目は真っ赤で、無表情だったが、豊には彼が機嫌が悪いのが分かった。
(「飲み足りないの? あっちゃん」)
苦笑して部屋に入れてやる。彼がどんなに我が儘を云っても、常識をはずれない限りは聞いてやるのが豊だ。敦司は勿論充分に大人だが、その高価なボディには、男の我が儘さとデリケートさがいっぱいにつまっている。高級品が大抵そうであるように、扱いが難しく、傷みやすく、取り扱いに注意を要した。豊はその取り扱い方法を知り、彼を取り扱うための公的私的ライセンスを有する人間のうちの一人だ。
普段ならもっと粘るはずの敦司だが、二時を回った頃、糸が切れたように眠ってしまった。今井さんとケンカしたんじゃないといいけど。そう思いながら、テレビをつけ、雑誌を広げて、何をするともなしに一人で飲んでいた。多分四時頃眠くなるだろう。豊は敦司より概ね睡眠時間が少ない。後に寝ても敦司より遅く目を醒ますことはないはずだ。
そう思ってのんびり構えていると、敦司は三十分眠っていきなり目を醒まし、「てめえ」と始まったのである。
「もうそのまま寝たら? ベッド貸すよ」
豊は、自分に巻き付いてきた酔っ払いの腕を軽く叩いてやった。敦司はそれには答えず、酔っぱらって骨が普段より柔らかくなってしまったような身体を引きずって起きあがった。そのくせしゃっきりと座れずに、豊の身体に背中から覆い被さるようにもたれかかってくる。自分より大柄な敦司の身体に寄りかかられると重いし、何より暑い。
「ぜ、てー寝ねえ……」
低い声がぼそぼそとつぶやいた。自分だけ一人で寝てしまうのが嫌なのだ。ツアーが終ると彼はいつもそうだ。ツアー中はいつにもましてメンバーが寄り集まることが多いため、いつも彼の側に誰か居ることに馴れてしまうのだ。ところがそれは、どこか彼の生活のリズムと相反している。
ツアーが終って一月ほどは彼は情緒不安定になり、寂しがりになり、豊や兄や今井に会いたがる。そしてふと正気に返ったように誰とも会いたがらない時期を少々はさんだのちに、もっさりとネコと暮らす、普通の敦司に戻る。
それを本人が自覚しているかどうかは知らない。豊は、自分が分析した他人の性格について、その本人に向かって得々と語ってみせるようなことはしない。
「……や、そうだな」
焼酎に手を伸ばして、さっきまで飲んでいた分が一センチ弱残ったグラスに、敦司は怠惰に酒をつぎ足した。
「そうだなって何が?」
豊は内心思わずニヤニヤする。たぶん顔には出ていないはずだ。敦司の自己完結癖だ。馴れない人は、断片だけがぼそぼそと飛び出してくる、話しかけられているのか独り言なのか分からない敦司のこれには戸惑うだろう。
「……だから、夜だからさ……」
「朝じゃないだけ、いいんじゃないでしょうか?」
敦司は酔っ払いなりに、夜押し掛けたことをフォローしようとしているらしい。茶化してそう答えて、豊は自分のグラスにほんの少しだけ注ぎ足した。
「あっちゃん俺、明日は夕方前に出かけちゃうからさ、ごめん」
先に云っておかないとへそを曲げられそうで、思い出した明日のスケジュールを申告する。
敦司はグラスに口をつけたままうなずいた。一瞬視線が上がり、睨まれたような気がする。だが彼はたいてい静かな酔っ払いだ。不機嫌な時もそうでない時も、額の真ん中に皺がよりがちな彼は、そうして飲みながら静かにまばたきしていると、とても深刻なテーマを抱えているように見える。しかし彼は実のところ食べているとき、飲んでいるときは無心であることも多くて、目の前にある酒や食べ物に気を取られていることが多い。
いつの間にこんなことが趣味になったんだろう。こんなことというのは何か、と聞かれたら「バクチクが趣味です」とでも答えるべきだろうか。
豊の目はカメラのように正確に自分のテリトリーを注視して、そこに住む彼らがどう暮らしているのか、機嫌がいいのか悪いのか、悪いときはどんな顔をするのか、今はどんなコンディションか、自棄になってはいないか、傷つけられてはいないか、自分に出来ることはないか、見張り台から辺りを睥睨しているのだ。
殆どのメンバーよりも年が下だということは、流石にこの頃では問題ではなくなってきた。出来る奴が出来ることをするだけだ。
それが彼ら個々の問題であって、豊が口を出す筋合いでないこともある。そんな時に手を出すことは勿論ない。
彼らはかつて子供の集団だった。しかし十年以上一緒に過ごして、そうではなくなった。今やそれぞれ一人一人が大人の男の寄り集まりなのだ。そこに甘えもあれば馴れ合いもあるが、結局はおかされたくない自分のテリトリーを持つ、個人主義の連中が集まっていた。そして豊にとっては、自分個人の空間が、他のメンバーよりも密接に彼らとかかわりあっているということになる。
必要とされなければいられない人間。他人の依存を食って生きる男。豊は自分について、そんなふうに辛辣な評価を下している。
たとえば、口出し出来ないことのひとつに、今井と敦司の関係がある。
この同い年の二人はある意味では似たもの同士で、ある意味では正反対の人間同士だ。とてもよく似た形をしているのに、彼らのこころに触れることが出来るとすれば、敦司のこころの温度は三十七度ほどで、今井は三十五度前後というところだろうか。敦司が微熱気味なら今井は冷え性だ。だから二人はお互いが気になって仕方がない。似ているくせに自分と違うところ、似ていないようで、自分を映した鏡のように相手が自分と共通しているところを見ると、手を伸ばして触ってみたくなる。
仲が良くなったり悪くなったり。始終くっついて離れてを繰り返しているから、そのうちに、酔いつぶれた翌朝、お互いがベッドの隣同士に寝ているのを発見するようなことになったのだ。
それがいつ頃なのか、豊は正確に知っている。その時の敦司の落ち込みぶりは凄まじく、しばらくは今井の顔も見たくねえ、という状態になった。敦司が一方的に最悪のコンディションだった事からして、やっちまったのはあっちゃんなのかな、と思っていると、後で分かったことだが、どうやら手を出したのは今井だったらしい。
しかも今井は、そんなことが起きたことを余り気にしているようではなかった。
敦司だけがしばらく苛々していたかと思うと、たぶん二度目があり、なし崩しになり、その後の二人はお互いに他の相手と浮き沈みしながら、気まぐれに接触事故を繰り返していた。
ある日気が付くと、今井と敦司は馴れ合っていた。
素面の時はやめよう、という話になっているのも豊は知っていた。二人が、自分に知れていないと思っていることも。
(分からない筈ねえって)
再び苦笑する。まあうまくいっているなら、それはそれでいい。敦司にも今井にも女の影が絶えないせいで、二人の関係をいぶかしく思ったこともあるが、バランスが取れたのだろう。彼らの間で解決がついているなら、豊が気を回す筋合いではない。
ただ、稀に喧嘩をすることもあって、そうすると、無口で意固地な二人の喧嘩は長引いて温度が低くなっていけない。今井はただ黙って荒れるだけだからいいが、敦司は深酒が過ぎて身体に来るからそれもよくない。恋愛沙汰になったせいで余計に粘着質になっているのだ。
電話もなしにいきなり夜中に敦司がやってくる、という状況に豊が少し参った理由はそこにあった。
二人の間に介入しようにも、状況は複雑且つ繊細で、手の出しようがないからだ。黙って酒につきあってやるくらいしか手がない。
「あっちゃん、一回寝たら? 外じゃないんだし」
夜中の来訪だったため、夕方から飲んでいたのだと思いこんでいたが、下手をすると昨日の朝から飲んでいた可能性もある。いつも延々と飲み続ける敦司のこの酒の回り方は尋常ではなかった。
「ユータ」
敦司の声が不意にはっきりした。
「何?」
豊は愛想良く答える。酒を過ごさない彼は、酔いつぶれた相手には営業用の声になる。
「お前さ……」
声のトーンもボリュームも下がり、地に付きそうになっている。濃密な睫毛で強調された、敦司の美しい瞳が間近に迫っていた。あくの強い眉が酔いのためになごみ、瞳が湿り気を帯びていた。
「何?」
敦司はゆっくりとまばたきして、豊の身体に腕を巻き付けて彼の身体を引き寄せた。
「お前、ほんと、可愛いよな……小せーしさ……」
「……いや、それほどでも」
彼は慎重にそう答えた。幾ら小柄な豊でも、女と比べれば大きいだろうから、この場合自分が誰と比べられて小さい、ということになっているのか想像に難くない。
敦司に抱きすくめられながら、豊はため息をついた。敦司の背中を叩いてやる。
「ちょっと寝た方がいいって。……ね」
正確に云えば豊は、ね、あっちゃん、と云おうとしたのだ。ね、と云って、次に、あ、と口を開けかけたところに、自分が飲んでいたのとは違う酒の匂いが重なった。洒落にならない勢いで敦司は豊の唇に唇を押しあて、拒否されないようにがっちりと両頬をてのひらで包み込んでいた。ライブでキスされるのも、酒に酔ってキスされるのも初めてではないが、しかし流石に明け方に二人きりで抱き合ってキスしている状況は不味い。
このまま今井と敦司のようなことになるのだけは避けたかった。酔っぱらった敦司に押し倒されたりしたら、自分はともかく敦司の落ち込みは想像するだけで怖い。
絡めて吸われた舌に痺れるような刺激を感じて、豊は、馴染みの快感と裏腹に、益々冷静になった。そして、敦司が今日に限ってどろどろに酔っている理由にようやく気づいた。彼の唇も手も尋常でない熱さで、彼はどうやら風邪でも引いて熱があるらしい。やれやれだ。豊の家には風邪薬の常備薬などない。しかも、これだけ酒を飲んでいるのに、風邪薬など飲ませられるわけもなかった。
豊は一、二、三、と数えて、勢いよく、自分に巻き付いた敦司を引きはがした。
「あっちゃん、寝ろって」
多少邪険な声を出すと、敦司は赤い目を開いた。目つきはとろっとしていて、豊に強い命令口調で物を云われたことにも気づいていないようだった。
「おやすみ」
相変わらず地を這うような声で答えたかと思うと、敦司は豊の身体を伝うようにして、カーペットの上まで徐々にずり落ちていった。着地した途端、目を閉じて寝息を立て始める。さっき目を開けたものの、半分以上眠っていたのではないか、という勢いだった。困った人だ。そう思いながら、敦司から離れる。風邪を引いているのに、それにも気づかずに何となく調子が悪い、と思いながら飲み歩いていたに違いない。
熱があるなら毛布をもう一枚かけてやった方がいいだろう。豊は立ちあがった。
バンドのメンバーに必要があれば自分の部屋を明け渡し、彼らの面倒を見て、マネージャー的な役割まで時に引き受ける豊が、犠牲を払っているように見る友人もいる。だがそれは正しい見方とは云えなかった。
この先どんなふうに状況が変り、どんな人間関係が出来ても、豊の今の価値観は変らないだろう。
いわば十数年前、豊はメンバー全員と婚姻を交わしたようなものだ。
彼らは豊の兄であり、師でもあるが、同時に息子でもあり、荒れた少年期を過ごした豊にとって、ようやく生活に豊饒をもたらした花嫁でもあった。彼らに豊の価値観の貞節が捧げられるのは、当然の成り行きだった。
彼は、敦司の風邪をひどくしないようせめてエアコンの設定温度をあげ、回りの酒を片づけた。口の中には、敦司と交歓した、ほんの一瞬の快感が生き残っている。
その快感を反芻するとそれはちり、と背中を灼く擽ったさに変った。
振り回される自分を可笑しく思いながら、先刻まで敦司が飲んでいた透明な火の酒を手に取る。
普段飲まない酒を口に含むと、それは火の花のように彼の舌の上で燃えた。
だが、どうやらその酒にも、数分前の感覚の生々しさを灼き去るほどの威力はなかった。
了。
TITLE:+++Groom in bloom +++
DATE:2005/06/22 00:07