劇団四季ジーザスの、柴ユダ×山口ジーザス。
21歳の時、公園の恐竜に見守られて書きました、という以外、まったく覚えていないし、読み返せなかった恐怖のテキスト。
神の庭の桜
神よ、未だそこにおわしますか。
飛燕は、蒼く透きとおる天空へ問いを投げかけた。もう久しく、天の高みへ神の名を呼んだことはなかった。今そうしたのは、今度こそ、と自らの死を感じているせいかもしれない。
神よ。
雲が千切れ散り、その透き間を埋めて広がる静かな青色。それは海にも似て遥かに深く、神と呼ばれる存在をその体内に隠していてもおかしくないように思えた。幼い頃、泣きながら救いを求めた神は。幼い胸に信じた神はいまだあの日のままそこにいるのだろうか。
桜が咲いている。
盛り上がってあふれている。
塾の校庭に咲く桜を、自分はそう馴染んで見つめてきたわけではなかった。馴染むほども長くこの塾にいはしなかった。しかし、今日の桜は門出の彼を包む優しさで春の網膜に灼きついた。今日の道を門出と呼ばず何と呼べるだろうか。この桜花の春道は、長いひと月……それはたった一月であるとはとても思えなかった……を経て、彼を本来あるべき場所へようやく還した。
時の羽根は皆の焦りを知らぬげにゆったりと泳ぎ、彼が従うべき者の道へ、「今日」を無理のない形で押し戻した。
飛燕は、華美に光る金色の彩をおびた髪に桜を透かせて、風の裏庭に立った。
人はいない。
表側の校庭にもほとんど人はいなかった。
眠るような静けさをたたえた昼の中に、飛燕は傷の癒えた身体をひたした。
死が近い。
彼はその妙に甘い腐臭を自らの身体に感じ取った。
肉体が代謝を止め、ひとつの腐肉に変る死というものを、ひどく身近に、肩を抱く恋人同志のように近しく感じる。優し気にふりかかる雨のように、死は間近に頬を寄せ、飛燕を抱いた。
むろん死を望むわけではない。
世に生まれいでた命を望んで捨て去るなど、救いようもなく愚かな者のすることだ。
しかし彼は若くして死に場所を見い出した。
風が吹いた。桜の花びらが不意に舞い上がって中空を翔けた。花片は空を裂く爪のように、彼の長い髪をも共にさらって舞いあげた。
誰が為に。もう飛燕はそれを自問する必要がない。誰が為に、何が為にとは、誰もが自らに問う問いであるにもかかわらず、彼はこの若さでそれを見出した。誰が為に生きるのか、泣くのか、笑むのか、闘うのか。そして死ぬのか。その誰が為なるを見い出した。不幸にもその日から、死は近しいものに変わった。これはある意味で弱くなったということであるのかも知れない。しかし、彼が自らの生の意味の一部を、その男の上に見つけてしまったという事実は、もう変わらなかった。
死の牙は甘く削れ、白い皮膚を甘噛みする、誘惑の緑の瞳の獣に変わった。
彼のためならば捨て石になってもよい。
そう思う自らを飛燕は笑う。自嘲であっても可笑しくない笑みだったが、静かに笑っている。
捨て石にならんとして訪れる結果が死であっても構わぬと、そう思うようになった。変わった。しおらしいことだ。そう思ってもみたが、心は変らない。その形のままで頑固に彼の胸のなかに棲みついている。
そんな形にねじ曲げられて作り替えられた自分がここに立っている。
しかし、それは彼が強いたことではない。自分が全て選んだことだ。
飛燕の唇に、桜にさえけむって溶けるような淡い笑みが乗った。
彼に尽くそうとする、哀れなほどの献身の念は、甘美に若い飛燕の全身をひたす。
おわしますか、わたしのかつての神よ。
冷ややかなほど端正な顔が、空を見据えた。
色の薄い瞳は、流れる空の模様をくっきりと映し出している。淡く湿って澄んだ、そのとび色の鏡の上に、桜花のきらめきが羽虫のように舞っている。
わたしはあなたを捨てる。
わたしは神を見つけたから。
誰をも救い得ぬ偶像よ、あなたを捨てることにしました。お許しください。
私は神の意味を知ったから。
貴方を捨てるのです。
夢をうたうように、飛ぶ鳥は神へ誓った。
自らへの祈りに似た宣誓だった。
今まで貴方の許にあったわたしの命の意味を捨てる。神よ。
新しい彼の神。
彼は決して、そのような意味の名を持つものではなかった。
しかし彼の神は、世界に轟き渡る威光の代わりに、燃え盛るほむらの太陽をいただく鳥の叫びと忠誠を受け取るにふさわしい男だった。むろん「彼」は生身。世界を包む腕も、空を見晴らす眼も持たず、代わりに、いつか絶える命と、熱い肉体と血潮を持っている。
しかし、彼は飛燕の神だった。
飛燕の過去を、こころを救った。
わたしの神。飛燕は、誇らかなつぶやきを、空へ、天空へ、光のようにときはなつ。その光を受けて、桜はなおさらに華やかに瞳の中に萌えさかった。
「飛燕」
不意に、現実の声が、半ば夢に溶け入っていた意識を押し分けて飛びこんできた。
飛燕は一瞬表情を引きしめたが、しかしすぐに、陶然とするようなあでやかな笑みを唇に刷いた。
「……は。……何か」
その言葉のそっけない字面とは裏腹に、飛燕の声にはやんわりとした許容や思慕が滲む。
「何か、じゃねえ」
元関東豪学連総長である男、伊達臣人は、少々不満そうにつぶやいた。しかし、気を悪くした風でもなく、無骨な唇に苦笑をうかべた。
「ひと月が短いと思ってる訳じゃねえだろう」
伊達は飛燕に無造作に近寄り、その肩口に分厚い掌をあてがった。
「幽霊というわけでもなさそうだな。枯尾花にしちゃしっかりしすぎてる」
「正体など何年も前にお見せしています」
飛燕は、自分に触れる伊達の掌に任せて、薄い笑みを絶やさぬままに、丈の高い男を見上げた。
溢れるような白の花を背にして、一ヶ月ぶりに見る男の顔はまぶしかった。
「それに」
飛燕は、面白がる口ぶりで言葉をついだ。
「わたしの思い違いでなければ薄は秋の象ではありませんでしたか。桜も揃わないうちに枯尾花が見えるようでは、時は相当早く流れたようですね」
滅多に感情を剥き出しにしない声が心なしか弾み、悪戯っぽい調子を帯びた。
「ひと月などどうという程のこともありますまい」
「そう絡むな、人の悪い」
伊達は腕を伸ばし、自分から飛び去った燕のやわらかな身体を抱き寄せた。力を込める。息苦しいほどの力に飛燕は幸福を感じる。
伊達は憑かれたようにその身体を抱き、食いつくように首筋に唇を埋めた。歯を立てる。
「……っ、臣人様……」
さざなみだつような快感が飛燕の背中に走った。それが思わず呼び名に出た。寝床の中で幾度かそう呼ばされた。飛燕は、闇での記憶にそのままつながる言葉を無意識に口にして、まざまざと顔に羞恥を浮かべた。ため息をついて伊達の身体を押し戻す。
「このひと月どこにいた」
「王大人の許でご厄介に」
飛燕は救われた面持で顔をあげた。
「傷も癒えました」
その頬に、伊達の指が伸びた。
「残らなかったな」
「はい」
やがて時が流れれば消えるであろう淡い傷の名残りが、白い頬に三本走っている。彼自身の武器である鷹爪殺のかぎ爪でつけられた傷であった。
飛燕は昨日まで死人だった。
大威振八連制覇で彼は命を落としたはずだった。
桜が霞むように燃え始めた三月も末、伊達臣人は、死の淵から還ってきた飛燕を見たのだ。
山道には緑が逆巻くように燃えていた。夜のうちに入った山だった。東京に、これほど緑の濃厚な山があるとは思わなかった。
緑が吠えながら揺れている。
風の強い日であった。空模様はあまりかんばしくない。日ざしは強かったが、くっきりと濃い、速い雲に始終さえぎられている。
彼は疲れた足をよろめきながら踏みしめた。
若い。まだ少年だった。頬の曲線や髪の艶が柔らかであった。その柔美な外見に似合わず、丈夫でタフな身体を持っていたが、丸二日眠らず、ろくな食事も取っていないため、手足の力は徐々に失われ始めていた。
頬は疲労に青ざめ、しかし、瞳の淡い茶は未だ諦めを見せずに炎を上げていた。
こんなところで死んではたまらない。
追っ手は執拗だった。ふりきってもふりきっても追ってきた。
この山に入った時、犬に襲われた。恐ろしくよくしつけられたドーベルマンだった。
夜闇のなかを、油を塗ったように輝く犬の黒い身体がぶつかってきた時は、さすがに胸が冷えた。犬は殺した。だが彼も腕に深く食いつかれている。血は止まっているが、それまでに相当失血した。血の匂いを残さぬように川で傷を洗い、夜通し歩き続けたのである。
どこまで保つかは自分でも判らなかった。
保たせなければならなかった。
とらなければならぬ仇が、少年の両肩に重く大きく覆いかぶさっていた。
熱が出ているようだ。彼は汗を拭った。傷口の痛みは熱さを増し、先刻よりもひどくなっていた。
ひやりとした掌を思い出した。母の掌はいつも冷たかった。しかし、その冷たさは生あるもので、母の優しい声と相まって、掌の冷たさの記憶は心地良い。
しかしあの掌も、死の冷気にこわばって久しい。
……飛燕。
彼がほんの幼かった頃、熱を出した彼の側に座してひやりと彼の額に手をあてがった母と。眼のまえで血肉の塊に変わった母の面ざしが重なった。父も姉も、同じようにして死んだ。
……神様。
物陰に隠れてその光景の全てを焼き付けた彼の眼に、血の涙が溢れた。まだたった七年しか生を知らなかった子供の涙であった。生を受けてたった七年目に地獄を見つけた涙だった。地獄は思いのほか近くにあった。地獄は鳥のように正確な目を持って飛来し、獣の牙のように彼の愛する者を咀嚼した。暗い喉に、血まみれのその身を飲み込んだ。
その日生き延びた少年は、今日までさらに三千日以上を生きのびた。だが地獄の犬は寒い牙をがちがちと鳴らして、再び彼の背に追いすがろうとしていた。
地獄を抱き込んで逆に締め殺すほどの力は、若い彼の腕にはなかった。
……お前はもっと強くなる。
師の言葉がよみがえった。
白髭の優しい師もまた、彼のために殺された人間の一人であった。
……しかし、それは今ではない。どこか外国に逃れるとよい。ここにいてはいずれ死を待つのみ。
……神よ!
神は、彼の家族にも、師にも、共に競いあった仲間たちにも、慈悲をたれはしなかった。彼は深い信仰の許に生きた家族を持ち、その習慣を受け継いだが、神よりも彼には死が近しかった。
天堂の神々しさより、地獄の凶々しさが、彼の未だ短い人生には近く親しかった。
二度と神の名など呼ぶものか。
幾度も、腕の名かに消えてゆく命を見つめて、幾たりものかけがえのない命を送り、血の涙を枯れ尽くして、いつの間にか瞳も胸もぱさぱさと乾いた。彼は幾度となく歯を食いしばってそう呻いた。しかし、次の危機にさらされたとき、また神に祈る。性懲りもなく、神の慈悲を期待してしまうのだ。
それとも、神に疎まれているのか、わたしは。
神に愛されぬため、愛するものを奪われるのか。
彼に、神の名を教えた母を、父を、全てを。
緑は山道に息づまるように続く。
……人を憎んではならぬ。
師はそう言った。白い髭を撫でながら、そう言った師の面ざしは、未だ彼の中に新しい。
……これでも、そうおっしゃるか。こうなってもまだ、あなたは憎んではならぬと……。
彼は目眩をこらえて、土を踏み続けた。
日は高くなっていた。
頭上に、時折黒い雲に切られながら光る焔の玉は、黒雲をため込んだ東の空の内側を照らした。輝く黒い空は気味の悪い緑を帯びて地平に広がっている。この足許から発散する緑の気を飲み込んでいるのではないかと、彼はぼんやりと考えた。
それほど、彼の疲れた眼に緑は激しかった。
気が狂いそうだ。
息は乱れ、いつの間にか歩みはひどく遅くなっていた。
そして、不意に、彼の眼の前の木立ちがとぎれた。
神経が疲労している時、むやみに何か一つのことに苛々することがあるものだ。緑の陰が薄れたことにほっとして、彼は深い吐息をついた。
その息の終らぬうちに、彼は、電流を流されたように身をこわばらせた。
彼は、薄黄の土の広がる広場の前に立っていた。数十メートル四方にぐるりと丸く木立がとぎれ、踏みならされている証拠に、そこは草も殆ど生えずに土の肌を見せている。
それを囲むようにしてそびえる丈の高い木が、手前の数本ずつ、ぐるりと、ぼろぼろに突き崩されている。まだ新しい木肌を見せているものもあった。
「…………」
彼は息をつめたまま、それを見て取り、同時に背後の人物の気配を読み取ろうとした。
彼の首筋に無造作に当てられた冷たい感触が、おそらく槍か、その類の、恐ろしく鋭利な武器であることを、彼は敏感に感じ取っていた。金属の匂い。間違いなく幾度も血を吸っている。
「何をしている」
よく響く声であった。低い。若い男だ。
彼は、微動だにせず、男の様子を探った。声の位置からいって、彼よりもかなり丈も高いだろう。そのくせ気配もさせぬ身のこなしが、彼の全身を緊張させた。
「喋らんか……」
男が、それを引いた。
彼はその瞬間を逃さなかった。ぐっと身を沈めて数歩飛び下がり、男に向き直った。足許で土が煙を上げた。
殺す。
そう思った。
殺されるなら殺す。
思った通り、丈の高い男だった。両頬に、合せて六条の深い傷が走っていた。その傷を眼にした途端、彼の頬を、ごう、と鋭風をともなって男の槍の穂先が掠めた。
よけられたのは、男を正面から見ていたからである。
男はにやりとした。残忍な眼をした。歯が光る。残忍なくせに人を引きつける笑いだった。しかしそれは、人を殺すことに何のためらいもない笑いでもあった。
男の眼に、自分が人として映っていないことを、彼はいち早く悟っていた。
男の槍は、先が二又に別れ、鉤状に曲がったそれは、威嚇のためではなく、最初の一撃を、そのままとどめの一撃にするような様相に作られている。
研ぎあげて蒼く光るそれを、男は無造作に握っているようだった。
しかし、若い顔に鬼神の喜悦のかげをひそませたその男の、切れの長い眼は爛々と輝いて彼を見つめている。強靭そうな筋肉に われた裸の胸は薄い汗をにじませて、爆発的な力をためていることが判った。
殺すつもりだ。
彼はそっと自分の指を握る力を強めた。
ならばわたしもためらいはしない。殺す。
……これでも憎むなとおっしゃいますか、師よ。
わたしは、人も運命も憎みます。
彼は誘うように一歩下がった。計算して顔を傾けると、案の定、一瞬前まで彼の頬のあった場所に、穂先がごうと鳴いて突き出してきた。
避ける。追う。避ける。
槍は、突風のように男の動きにそって繰り出される。
飛ぶように後ろへ逃げる。彼は、懐から千本をつかみ出した。銀色の太い針状の千本を握りしめ、激しく追ってくる槍をくぐりながら、彼は男の腕を目がけてそれを打ち出した。
手ごたえがあった。
一本でもその切っ先が男の腕を貫いたなら、男はすぐにも槍を取り落して腕の痛みに闘うことができなくなるはずだった。
ふっと風が止まり、男は、にやりと笑って槍で受け止めた千本を投げ捨てた。
「心得があるな」
千本を踏みつける。
「……鳥人拳か?」
彼は眼を見開いた。彼の技を知っている人間に、こんなところで会うとは思わなかった。
男は舌舐めずりせんばかりの顔をして、槍を構えた。
「女も顔負けのその顔だ。鳥人拳もふさわしいというものだ」
ニヤリとして、男は大きく身体を伸ばした。男が一回り大きくなったような錯覚にとらわれて、彼は悪寒に身体を震わせた。
男が先刻よりもさらに本気になり、殺気を研ぎ澄ませたのがわかる。
腕の筋肉がグロテスクなほどに盛り上がり、男は炯炯と光を増した眼で彼を見つめた。
「セツを殺したのはお前だな」
「……?」
「犬がいただろう」
それではあれは、この男の犬か。追っ手のものではなかったのか。
哀しみ怒るといった風でもなく、男は、彼の頭のてっぺんから爪先までを無遠慮な視線でなめ回した。
「その細腕でセツをくびり殺せるとは思わないがな」
男は歯を見せて笑った。
「……面白い。千本も使わずに殺したか」
彼は答えなかった。犬の首の骨を折った時の感触は気分の良いものではなかった。出来れば殺さずに済ませたかった。
「……またお袋をなだめるのに一苦労だ」
一人言のように言ったかと思うと、男は、再び槍を繰り出してきた。
疲れた身体は、槍をよけるのに精一杯で、ごうごうとなる鉄の牙に、彼は徐々についてゆけなくなり始めた。
一筋、頬に痛みが走る。
穂をくぐる。千本を投げた。
やすやすとよけられてしまう。自分の腕に速度がなくなってきていることに気付いた。
膝を折ってかわす、その頭の上を槍が走る。よける。速度を増した牙が追ってくる。
何とかあの槍を受け止められないのか。
彼は間合いをつめた。横に体を倒す。陽光に槍が輝いた。残酷な輝きだった。手を伸ばす。灼熱したものをつかんだ感触があった。
掌の皮膚を焼いて槍は止まった。
男が、驚いたように彼を見つめ、その表情がゆっくりと変わった。まるで、想い人を見つめるような愛おしげな眼になった。
「……止めたな……?」
槍に加えられている力は止んでいない。槍は、彼の掌を焦がしながら、滑り始めた。
「……っ」
その穂先がじわじわと自分の胸に迫ってくるのを感じながら、彼は歯を食いしばってそれを食い止めようとした。
動く。
陽光がはじかれる。
男の眼の色が薄くなり始めた。肉食の獣のようなあかがね色に変わり始める。それは彼の見違えであるはずだったが、愛しげに、嬉しげに、男の眼は確かにあかく輝いた。
「……!」
烈風のような気が男の唇から吐き出され、鉄を煮やす熱を浴びたように、彼の身体は吹き飛ばされた。かたわらの木に打ち付けられた彼の肩に重い痛みが激しい勢いで突き刺さった。
「……あ」
何を問われても終始無言で、息さえほとんど音にしなかった彼の唇から、ほむらのような声が初めて上がった。
「あ……あああッ」
肩を木の幹につないで刺し貫いた槍は業火の痛みを彼の肉に燃やした。
「ああ……」
声が漏れる。彼はゆるゆるともがき、槍を抜こうとしたが、眼前の男が未だ力をこめたままの灼けた凶器は、彼をくさびのように木に縛りつけていた。
激痛は体中の力を萎やし、彼は初めて絶望した。呼吸が激しく乱れ、彼は後頭を木の幹にすりつけて身悶えた。
「……殺、せ」
声がまともに出ないのが悔しかった。とぎれながら言葉をつぐ彼を、男は、あかがね色の炎をともした眼で、無表情に見つめた。
「それは俺が決める」
男は思いやりなど微塵もない動きで槍を引き抜いた。
彼は、むせぶような喘ぎを漏らして木の根本に坐り込んだ。その顎を、男の、骨太な指がつかみ上げる。
「名は」
「……」
「名前を何という」
男の眼が危険な光を放った。
「……答える必要はない……!」
痛みにとぎれる声にそれでも力を込めて彼が吐き出すと、男は荒々しく彼の両肩をつかんだ。
「あ、あっ……!」
彼は体を震わせてもがいた。気を失うことすら出来ない痛みだった。
「いいか。……さっきのでお前の肩の骨はクズ同然になってるんだぞ。……二度と腕を使えなくなっても知らんぞ」
「……なら殺せ……」
男は肩をつかむ手に力を込めた。
「……!」
声にならない悲鳴を上げて彼は反り返った。
「……ここは俺の土地だ。お前は侵入者だぜ。……人の家に勝手に入りこんで自己紹介もしねえのが礼儀知らずだと、お袋さんは教えてくれなかったのか」
その声に、面白がる調子が混ざり込んでいることに気づく余裕は、彼にはなかった。
汗が吹き出してくる。
男は彼の耳元に唇を近付けて、万力で彼の肩をつかみしめながら、優しげな声音で呟いた。
「ほら、お前の名前を言ってみな」
「……」
「ほら」
その圧力に耐え難くなる。汗で湿った重い全身を支えきれない。痛みは鉛のたがのようにその体をしめつけている。
「……エン。……」
彼はのろのろと呟いた。
「何?」
「…………飛燕」
飛燕はそう云って、耐えきれなくなったように倒れかかった。それをかがみ込んだ男の腕が支える。常人の二倍もあるかと思われる、猛々しいほどたくましい腕に、飛燕の汗に濡れた柔らかな長髪がもつれかかった。
「……」
その男の腕をすがるようにつかんだのはなぜだったか。冷え切った指にあたった、男の腕の熱い皮膚が、彼に不思議な感覚を呼び起こした。男が、飛燕の唇から漏れたかすかな呟きを聞きとがめて、耳をそばだてた。
「……おい」
そのまま意識をなくして男の腕のなかに崩れ込んだ彼を、男は不意にとまどったように見つめた。
体が重かった。
鈍くしびれた腕がもどかしい。無意識に身じろいで、飛燕はきしむ体の痛みに眼を覚ました。
「まだ動くな」
隣で声がする。びくりとして振り返ると、飛燕の横たわる寝台から少し離れたところに置かれた椅子に、男は長い足をもてあますように組んでいた。
読んでいた新聞をばさりと投げ出すと、男は飛燕を振り返った。
「痛み止めが完全には効いてねえだろう」
「……痛み止め……?」
「安心しろ。ちゃんと医者が打っていったんだ。俺じゃねえ」
男はニヤリとした。
「俺じゃ注射器をつぶしちまう」
「なぜわたしを助けた」
「……さあ。お前がセツを殺したからかな」
男は足を組み直して背もたれにもたれた。
「あの犬はお袋が特に可愛がっててな。よくしつけた奴だったのに、あっさり殺しちまいやがって。お袋はすねると手がつけられんからな。俺が殺したわけでもないのに俺が謝るんじゃ割に合わん」
飛燕はそろそろと体の力を抜いた。
「……あなたは」
意識して言葉を改める。
「伊達臣人だ」
黒いゆったりした服を着た男は、先刻見た猛々しい獣の気配を破片も見せず、飛燕を静かに見つめた。
「伊達……殿か」
飛燕は深い息をついて眼を閉じた。神経はあいも変わらずひどく高ぶっていたが、少々力を抜くゆとりができる。
「ここはどこです」
「あそこからたいして離れてないがな。俺が山にこもる間寝泊りする場所だ」
「命を救ってくださって……御礼を申し上げなければいけないでしょうね」
わずかに含ませた棘に気づいたか、男は声を立てて笑った。
「やめろ。怪我をさせて気絶させた相手に礼を云われてはおれも寝覚めが悪い」
「そのようなことを気になさる方とは思えませんが」
飛燕が皮肉ると、伊達はゆっくりと立ち上がった。
「そんな青い顔でへらず口を叩くな。……倒れる寸前にお袋なんぞ呼ばれたら、お前だって相手を殺せまい?」
飛燕は息をつめて男を見上げた。カッと顔が紅潮する。
「生きているのか?」
伊達は面白そうに飛燕を見つめた。
「……母ですか? ……いえ」
羞恥を押し殺して、熱くなった頬を背ける。
「……それじゃ、親不孝とは云えないか」
似合わぬ科白を吐いて、男はきびすを返した。水でも汲みに行ったのか、ドアを開けて隣室へ消える。
母の名など口走ったのか。
飛燕は、身を硬くして考えた。突然弱みを握られたような苦さが胸をひたす。
隣室で、水道の蛇口をひねる音がした。急に喉の乾きを感じる。
男はコップに水を満たして戻って来た。
「飲め」
手回しが良い。少々驚きながらそれを受け取る。あらためて見て、男の大きさが実感された。
肩から胸へ、胸から腹へ、服を通してでも判る、鉄を刻んだような筋肉が、男の全身を包んでいる。歳は彼よりも二つ三つ上というところか。両頬の深い……それは割合にまだ新しかった……傷跡ばかりが目立っているが、ひどく端正で、ほれぼれするような彫りの深い顔をしている。よく見れば割合に好感の持てる表情をしていることに、飛燕は気づいた。水は乾いた喉に甘くしみ通った。自分が警戒心もなくその水を飲み干したことにも、わずかな驚きがあった。
もういい。
あきらめのような感情があった。彼はひどく疲れていた。
針のようにとがって張りつめた心は、やすらぎ方を忘れてしまったようだった。
手を伸ばした伊達にガラスのコップを渡しながら、彼は黙って頭を下げた。
「お前、なぜここに入って来た」
「……追われています」
手短に答える。まだなにも答えるわけにはゆかなかった。
「ふん」
伊達は、顎に手を当てた。
「それ以上云う気はないんだろうな」
黙って男の眼を見上げる。返事の代わりにそれはなるはずだった。
「歳はいくつだ」
「……十七」
伊達はかすかに眼を見開いた。
「まだそんな歳か。……」
しんと一瞬、部屋の空気が静かに止まった。伊達は立って飛燕を見下ろしたまま、読めぬ表情で黙った。
言葉を比較的に多くついではいるが、もともとこの男がよく喋る質ではないことに飛燕は気づいた。
喋るのを面倒がっているのが判る。妙にいたたまれない雰囲気に、また、神経が鋭くとがり始める。男の表情が動いた。
「そうピリピリするな。……」
苦笑のような声が漏れた。
「……あてはあるのか」
「いいえ」
「……どうするつもりだ」
「動けるようになったらすぐに出発ちます」
「ここから帰さないといったらどうする」
飛燕は男に視線をぶつけた。自分の眼が険しくなっているのが見えるようだった。
「なら殺してください」
疲れていた。どうにでもなれという気持が生まれている。死んでなるものかとも思う。しかし、思った道をゆけぬのなら、死んだ方がマシだった。
死は怖かった。死を憎いとも思った。死が恐ろしいから出る科白だった。
男は溜息をついた。
「……捨て身か。……家族を亡くしたのか」
体が固くなる。
「家族だけではありません」
「お前を待つ者はいないのか」
「一人も」
そっけなく答える。その額に、男の手が伸びた。びくりと身体をすくませて、傷ついていない方の手を上げて、それを拒もうとする飛燕の動きを、男は無造作におしのけた。手は前髪をかきあげ、男の唇がゆっくりと飛燕のそれに近づいてくる。
「……大義名分がないと生きていけねえタイプか。始末が悪い」
飛燕は眼を見開いた。何か云おうとして開いた唇が覆われる。弾力のある熱い舌が荒っぽく飛燕の歯を割って、彼の舌に絡みついた。
押しのけようとしても、壁のように男の胸は固く彼にのしかかり、飛燕は涙をにじませて首を振った。
ようやく離れた唇を拭い、慌ただしく息をつぎながら伊達を見上げると、伊達は、唇の端を上げてしかたなげに笑った。
「二、三日置いてやるから、ひとまずは俺に一宿一飯の恩義を返せ」
「……!」
「死ぬのはそれからでも遅くねえ」
飛燕は、自分の頬を包んだ武骨な掌の熱さを感じた。
自分に、こうして敵意なく触れてくる手を感じた最後はいつだったか。
「この熱じゃ、まだ飯は食えねえだろう。……薬より健康的に眠らせてやる」
そう云いながら伊達は飛燕の服をはだけた。傷ついた肩口に重みをかけぬようにして、喉許に口付ける。
飛燕は、ようやく、この男が照れているとしか表現のできない感情を隠そうとしていることに気づいた。
「勝手なことを……」
顎が持ち上げられ、今度は先刻よりもわずかに柔らかい口付けが飛燕の言葉を切った。
「痛い目には合わせないから安心しろ」
初めて笑いが込み上げてくる。男の手は熱く、伊達の身体の下で、飛燕の身体はあっけなく熱に流され始めた。掌が、服を剥がした内腿に這い、押し広げる。
飛燕は息を弾ませて唇を噛んだ。
眼に薄くもやがかかる。潤んだ眼を見開いて自分を抱きしめる男を見る。その、初めて会った男に思いがけない慰撫を見つけて、彼の胸の奥で、張りつめていた糸が突然にとぎれた。
萌え狂う緑のなかで男の手にすがった。
それと同じ、心細いような、切ないような。
飛燕は、覚えのあるかぎりでは十年ぶりに、人にすがった。
目に、潤みとは別の膜がかかった。
彼は、懐かしいものを抱きしめるように、泣いている自分を見た。
今、伊達の側に在って、三年の時を片時も離れずに来た自分が、どこに居場所を見つけたかよく判る。そして、失った神のかわりに自らが何を得たのか。
この男は、家人の為にも見つけられなかった思いをやすやすと引き出した。
桜の波のただなかに立って、二人はしばらく黙った。
蒼い空の向こうに雲がわき初めている。あの濁った雲。雨になるやもしらぬ。
「お前は俺を二度裏切ったぞ」
伊達が不意に云った。
「…………はい」
その意味は判った。飛燕は痛みの塊を飲み込んだ。伊達が少々荒っぽく彼の顔を上向けた。その表情のなかに、見慣れぬ、しかし、見たことのあるものを見つけて、また、熱い痛みが喉につまった。
「三度目はないぞ」
飛燕はむりやりに笑んだ。
「……御意に」
誓って見せながら、それでも死は近しく優しかった。
濁った雲が動く。
桜の上空を寄せる波を視ながら、飛燕は、自分の神が確実に眼の前に存在する光景を、決して忘れまいと眼を開いた。
封じても秘めても、やむことのない思いなら胸の中で高く呼ばわろう。
わたしは神を見つけたのだ。ならば全て彼の思うとおりに。彼のために全てを捧げることを、神が禁じない限りにおいては。それ以外は全て彼の思うとおりに。
雲は動いた。夕陽と濁った雨の双方を運んでくる。
飛燕は、傲然と立つ男の腕に抱かれて目をふせ、神の扉の際に咲く桜をこころに刻んだ。
了 彼に選ばれたということはすなわち神に選ばれたことであると、ペテロが云うのを聞きながら、ユダは釈然としない面持ちで彼らのラビの後ろ姿を見守った。ペテロのその口調には誇らしさがにじんでいた。
ペテロは、神の使徒であるということより、神の使徒である位置を与えられたことに喜びを感じているのだ、と、ユダは苦く思った。
ジーザス・クライストは、十二人の使徒たちのこのような傾きに気づいているのだろうか。無論、彼の云うとおり、彼が神の子であったとすれば、それに気づかぬはずはない。
しかし神の子とは。
(貴方は神の子でなければならなかったのか?)
口のなかは強い日差しに乾いた。埃で舌がざらついた。しかし甘美に溶ける胸を抱いて、イスカリオテのユダは、虐げられた者たちの神を名乗って出た、若い男の姿をむさぼるように見つめた。この男の罪だ。街の人々がこぞってこの男をたたえ、この男の云うことを全て信じたのは。
全てこのジーザス・クライストが悪いのだ。
神の姿を見たひとなどいない。しかしさながら神の子というものが現世にもたらされたなら、かくあろうという形に、この男がこの世に在ることが諸悪の根源であったのだ。
クライスト自身ですら、自分をそうであると信じたではないか。
彼らの先頭を歩む若い男は、エルサレムへの長い道のりを、殆どその二本の脚で歩き抜いた。男の語ったエルサレムの裁きの日は近い。もうじき彼は自分が死ぬことになると云った。それを聞いたペテロ達がそれを信じていないことをユダは知っていた。
(主なるクライストはどういうわけか妙な心配に取りつかれておられる)
ペテロが笑いながらそう云うのを彼は聞いた。シモンもヨハネもペテロと同じ考えであるようだった。
クライスト。わたしはこのなかの誰よりも貴方をよく知っている。
絶望を咀嚼し続ける胸を見透かされないかといった風に、ユダは己の胸に手のひらをあてがった。長い道に荒れた指も割れた爪も、もううずくことさえない。
このなかで貴方の予言が本当に起こるということを知っているのは、わたしだけなのだ。
苦い蜜で心を湿してイスカリオテのユダはそう考える。彼を裏切ることは同時に自分の存在そのものを打ちのめす痛みを伴っている。その痛みが甘美であることに、ユダは、自らの心の病みの深さを知る。
ジーザス。ジーザス・クライスト。
貴方という奇跡が死ぬことになろうとは誰も思っていないに違いない。
疑いもせずに貴方に全てを預ける、民の重みから貴方を救ってやれるのはわたしだけだ。
彼は祭司カヤパに、ジーザス・クライストを銀貨三十枚で売ったのだった。
奇跡は実際に起こっていた。皆がジーザスを神の子だと思い込んでも仕方がないような奇跡であった。ジーザス・クライスト。彼には人の心の殻をやぶり、奥にひそむ怯えをやわらかになごませ、解き放つ力がある。そして、その後すぐに、狂乱状態の賛美と高揚にひとをひきずりこむ。
それが、信じられないような奇跡を幾つも重ねることになった。
心の病を持っているものはジーザスによって浄められた。
或る者たちはその病に名付けてサタンと呼んだ。サタンを飼うというならそれは人が悪魔を己のなかに持って生まれたということなのだろう。冷徹なユダは考える。人は神によって愛されてなどいないと思っていた。ジーザスに会うまでその気持に変わりはなかった。それを口にすることはなかったが、神などいるものではないと思っていた。
人は神よりも説かれる悪魔に近い。神が実際に存在したとして、こんな愚かで醜い生き物を愛するだろうか。
その気持を変えたのはジーザス・クライストだった。
少なくともジーザス・クライストは、神に愛されている。ユダは、彼の説く神をすっかり信じたわけではなかったが、しかしジーザス・クライストの崇拝者であった。ほかの多くの者と同じように賛美者であった。ジーザスは、彼が生きてきて見た何者よりも人の思う神に近く、奇跡に近かった。
イスカリオテのユダは、極めて冷ややかな気質の男であった。情よりも理を重んじた。十二使徒などといって、神を説く男の傍らにかしづく(そうと以外に云い表わしようがあるだろうか)気質の男ではない。まず疑うということが彼にとっての哲学であり、信じるということは己を破滅させるだけだと、今でも彼はそう思っている。
その彼をこんな大掛かりな芝居に引きずり出したのが、彼より五、六歳も若い一人の男であったのだ。
ジーザス・クライストを初めて見た時、ジーザスは病人を癒していた。
(「このなかに主なるクライストがいらっしゃるのです。……」)
そう声をひそめる女のあとにつづいて彼は病人の家を覗き込んだ。そのとき、クライストはうつむき、長い髪が垂れていて顔は見えなかった。ほっそりとやせた身体を深くかがめて病人の手を取る男の姿は、ユダの胸を不思議な重さで打った。主なるクライスト。ヨハネの予言した聖なるクライストの名を彼も知らぬはずはなかった。
彼の街にその男がやって来たという噂を聞いたとき、ユダは内心せせら笑った。
かつて彼は預言者ヨハネの事をさえ、ヘロデ王の機嫌を、出すぎた箴言で損ねた愚かな男ほどにしか考えていなかったのだ。しかし、クライストと自称する男がおそろしい数の信徒を得ていることを彼は知っていた。
女が興奮を押さえ切れぬように彼の袖をひき、この家のなかにクライストが居ると云ったのを聞いて、ユダは冷笑的な好奇を満足させようと家のなかを覗き込んだのだ。
(「主よ、わたしが病んでいるのは、悪魔が入っているためですか。……」)
病人のふるえる声がうつむく男にそう問うた。
(「人の身体は器に過ぎない。それゆえサタンにも神にも愛される。……」)
その男が応えた声をきいてユダは息を呑んだ。
彼は狂気と隣り合わせの、分不相応な威厳を出そうと、かえってうわずった声を思い浮かべていたのだ。今迄、己のことを神の使いの名をもって呼ぶような男たちは、貧相な肉体と、紛い物らしい甲高い声を持っていた。
その柔らかな長い髪を持った男の声は低く、深く静かで、僅かに確信犯めいた悩みをにじませていた。その声の中のなめらかな苦しみは、ユダの背を固く凍らせた。
(「……しかしサタンの器にもなる人をも神は愛してくださる。あなたは、だから己のなかに何が入っているのかを思い悩むことはない。あなたがあなたを愛することが、神をたたえることになるのだ。……」)
そう云って、男は長い指をゆっくりと病人の指から解き、病人の額に触れた。
(「眠りなさい。神の創りたもうた人の子である己をたたえる夢を見なさい。……」)
そう呟き、病人を苦しい咳でわずらわせた喉に、クライストは身を深く屈め、植物的なくちづけを与えた。
(「主よ。……」)
病人の顔に敬虔な驚きと安堵の笑みが浮かんだ。それは己のなかの悪魔に怯えたときのしゃがれ声ではなく、滑らかで健康な声にさえ聞こえた。病んで痩せた女のなかで何が起こったのかは、見守るユダには判らなかった。しかし、病人は深い息をついたかと思うと、ゆっくりと寝息をたて始めたのだ。
(「……あなたは癒された。……」)
クライストは若々しい優しい声音で呟き、立ち上がった。
彼は美しい男だった。痩せてはいたがその身体は伸びやかだった。そして奇妙なほど清廉で明るい光が彼をつつみこんで照らしていた。
振り向いた彼を見たイスカリオテのユダは、あえぐように呼気を詰まらせた。
クライスト。
この男は。
この男は何だ。
ユダはよろめきそうになった。手のひらに汗がにじみ、膝が震え始めた。これがヨハネの云ったクライストか。これが同じ人の男か。
その若い、丈の高い男はユダの生来の皮肉な冷静さや、冷ややかな落ち着きを一瞬にして吹き飛ばした。ユダは熱病のようにふるえながら男を見つめた。
ジーザス・クライストが病人を癒したその瞬間が、あるいはイスカリオテのユダに深い病が根ざした瞬間であったのかもしれない。激しいふるえ、焼け付いたように乾いた喉。その何処も病と違いはなかった。クライストは病人を見るためにふさいでいた睫を開き、戸口に立った女と、ユダを見た。気づくと、ユダのとなりに居た、彼にクライストの存在を告げた女はひれ伏していた。
その隣で一人ふるえながら、戸口にすがるようにしてユダは彼に相対した。
クライストはユダを見ていた。深い瞳、無感動に見えるほど静かな瞳、打ちのめすように遥かに深い瞳だった。
(「あ……あなたは誰だ……」)
ユダは戸口にすがった指に力を入れて身を支えなければならなかった。
(「ジーザス。……ナザレのジーザス」)
男はあっさりとそう答えた。彼の深い瞳はゆらぎもせず、またたき一つ無しにユダを見ていた。ユダは、恐ろしく端麗に創られた唇が、そのありふれた名を紡ぐのをきいて陶然とした。
(「あなたは聖なるクライストなのか?……」)
(「わたしは人の思う通りの者だ。……人が口にする呼び方など塵に等しい」)
ジーザス・クライストは、そう云ってゆったりと歩みを運んでユダの隣を抜け、外へ出ていった。その存在の大きさにユダは打ち据えられた。巨きな男だ。この巨きさは、具象された目に見える大きさのことではない。厳しい暮しをくぐって生きてきたユダは、丈が高く体躯は大きく、若木のようにほっそりとした男と比べれば、彼のほうがよほど大きな男であった。
しかし、叩きつけるようにふりそそぐ威圧、痩せた男の全身からたち昇る光気に近いようなもの、これは生まれ持った煌めきであり、ジーザスが幼い子供であったとしてもそれは変わるまいと思われた。ユダは汗に濡れた手のひらを膝にこすりつけ、がくがくとふるえる膝に力を入れた。
埃っぽい白い道を変わらずゆっくりとした足取りでジーザスが歩いて行くのが見える。その彼を囲むようにして、彼の信徒らしい男たちが数人群がった。それに続くようにして街の民たちが彼の周りに走り寄った。
彼が女を癒したことを既に彼らは承知しているようだった。おそらくこの街にやって来てから彼が起こした奇跡はこれだけではあるまい。
(「クライスト!」)
叫びが上がった。人々の目はほとばしる熱狂にうるんだ。
(「ジーザス・クライスト!」)
(「……主よ!」)
(「ジーザス、ジーザス・クライスト……!」)
ジーザスは立ち止まった。ゆるゆると周りを見回した。その若々しい頬に、わずかな微笑が浮かぶのをユダは見た。
(「神はあなたたちを苦しみに耐えるために創ったのではない。……苦しむものは癒されなければならない。だが、癒そうとするものは追われるだろう」)
ざわめきを突き抜けるようにジーザスの言葉は彼らの間を巡った。深い、だがはりつめた声音だった。
(「あなたを追う者などいません……!」)
群衆たちは叫んだ。
(「わたしたちがそれを許しません、ジーザス……」)
ジーザスはまた、わずかに、今度は余程気を付けて見守らなければ解らぬような微笑を唇に刷いた。その目が深々と笑わないままであることに、イスカリオテのユダは気づいた。この男は、自分の言葉が群衆たちにもたらす効果を知っている。計ってしているのかは判らないが、しかし充々心得てはいる。
おそろしく頭の良い男だ。しかも、頭の切れることに全く邪魔されることのない魅力がある。頭の切れるものはえてして、自分の才能に酔って険しくずるい顔になったり、策略にさもしい顔になったりするものだから。
ジーザス・クライストは軽く片手を掲げた。感謝の印であるようでもあり、征服の証でもあるようだった。ローマの兵もなしえなかった人心の征服を、この若い男は一瞬の間にして、その美しさと光、奇跡によってなしとげた。民の狂乱に近い熱は高まり、その場は男の名を呼ぶ群衆の声で埋め尽くされた。
その場にいる全てのものが熱狂していた。
イスカリオテのユダも例外ではなかった。
イスカリオテのユダは三年近い間、ジーザスに仕えた。ジーザスの言葉に耳を傾け、時に控え目な忠告をもした。実際、イスカリオテのユダは有能な男で、その信徒という表現に不似合な程の冷静さは、十二使徒のなかで或いは疎まれ、或いは重宝された。
他の十二使徒たちとユダの違うところは、心のなかに、いかな奇跡を操る男とはいえ、ジーザスが不死ではないということ、ローマが彼の存在を憎むであろうということ、そしてそれが災いして、ジーザスの命が失われることを激しく恐れる気持が常にあったということだった。
ジーザスの、音楽のような声に陶然と耳を傾ける瞬間にさえ、その危惧は彼の心を去ることはなかった。
ジーザス・クライストは疲れ始めていた。彼の見せる奇跡は数が減っていた。
(当り前だ)
口には出さないが、内心ユダはそう思う。ジーザスは休む暇もなく歩きつめ、祝福と癒しを与え続けている。彼は特別の能力をもった人間に過ぎない。神の存在はそこには関わりがないとさえ彼は思う。
おそらく実際にジーザスには神の閃きはあったのであろう。彼はあるいは、夢のなかで神の声というものを聞いたのかも知れない。彼が荒野で己のなかの悪魔と闘ったことも、また本当だろう。ジーザス・クライストの克己心は確かに人間離れしている。
神も、悪魔もまた彼のなかに内在するものであり、三年前のジーザス・クライストはそれを解っていたはずであった。
彼の説く教えは、神への信仰よりもむしろ、生をつなぐうえでの理念に近いものであり、神というものに疑いの心を抱くユダにも充分受け入れられるようなものであった。その言葉に嘘がないからこそ、群衆たちはジーザス・クライストの言葉を信じたのである。
(あなたは娼婦のように人々に奇跡を垂れ流したのだ)
ユダは苦く考えた。人は奇跡にすぐ慣れてしまう。モーセの道行を思うがいい。人々は救われたい。救われれば食を望み、食を得れば変化を望み、備蓄の富を望み、次には栄華を望む。正にジーザスが今歩んでいるのはモーゼと同じ道だ。しかし、聖書に書かれたモーゼの道行きと違って、絶えず共にあって啓示を与える神はここにはいない。
頼りはジーザスの、あの肉体にくるまれた精神のみである。
確かに彼は病を癒した。しかし、人々はいつまでそれが本当に起こったことを覚えているだろう。
彼を休ませなければならない。充分な眠りと思索の時間を与えなければならない。眠る時間すらなくて、いかに己のなかの神と向き合うことができようか。群衆があれほどに彼と彼の力を蝕むことを、すぐにもやめさせなければならない。
そうしなければ彼は殺されてしまうだろう。羊のように罪のない、無力で無能な人間たちに殺されてしまう。その挙句に彼の名のうえには、詐欺師の汚辱が降りかかる。
しかし、そんなふうに焦っていたのはユダばかりだ。他の十二使徒たちは、何も慮ってはいなかった。彼らの頭のなかには、ジーザスが奇跡を起こす、一個の人間であるという考えはなかった。神の子であるという考え、奇跡を起こすものこれ即ち神であるという考えに疑いも抱いていなかった。
疲れた風に黙りがちになったジーザスを、弟子たちはさも神に近づいたかのように扱った。ただユダだけが眉をひそめていた。
あなたは疲れている。
そうジーザスに口に出して云ったことが一度だけある。
するべきことをしているのに、どうして疲れることがあるだろう。
ジーザスは、不自然な程静かにそう答えた。
この男は自分を救おうとしていないのだ。
ユダは気づいて愕然とした。
自分を追い込んでいることに気づいていて、止めようとしていない。癒そうとするものは追われるといったではないか。今の自分が危険な道に入り込んでいることに彼は気づいている。彼を必要としているものが多すぎる。病めるものも悩めるものも多すぎる。
この男は一体何を考えているのだ。
胸が凍り付くような驚きは、すぐに怒りに変わった。
あなたは娼婦のように奇跡を与えすぎたのだ。
しかもあの女だ。マグダラのマリア。美しさと女しか持たない慰撫で、悩める神の子を抱き、いやして虜にした。
走り疲れた挙句の果て、疲れた心をあのような女の許に休めるとは、一体何を考えているのだ。
ユダは焼けつく胸を抑える。逸る心を抑えている。もうその繰り返しばかりで彼自身も長い間苦しんでいた。ジーザスの教えに添うならば、娼婦であるマグダラのマリアをも分け隔てなく神は愛するというだろう。しかし、身を慎むようにというそれと、食い違いはしないか。
愚かな人間をも愛するという神は、それならば何故、自分の創りたもうたものに、救いのため身を慎むことを要求するのだ。
あのマグダラのマリアという女があれだけ甘い恋情の心を剥き出して、主なるクライストの髪に香油を塗ることを許されているのに、何故姦淫も盗みも、人を殺すことも許されていないのだ。
あの女の行為は、姦淫や盗みの罪に匹敵するものではないのか。
ユダは、自分の気持が冷静さを欠いていることに気づいていた。マグダラのマリアがジーザスの前に現われたときから、彼の思いは尚更冷静さを欠いた。むろんマリアは美しい女だった。ジーザスにはべって似合うほど美しかった。ジーザスは彼女を拒まなかった。
身もだえるようにしてユダは苦しんだ。あの類なき男。あの浄らかな征服者。自分の手で決して汚せない男。マリアがジーザスの足元に座して陶酔の目で彼の話に耳を傾けている様子は、マリアを聖女に見せてしまうほど美しかった。ジーザスの精神と肉体の美がそう見せている。
そして、彼の全き力をしろしめすために、マリアのような女が主の教えに従うようになったことを、自分はジーザスのために喜ぶべきであると、彼は考えた。
彼は特にジーザスに目を掛けられたという訳ではなかった。彼のもっとも親しい弟子であったものはシモン・ペテロであったし、実際、ジーザスを求めるものは多すぎて、ユダはそのなかに混じって寵愛を競うことを好まなかった。
しかし、ジーザスが自分を見るとき、何かに気づいたような素振りをすることが時たまあった。それが、欲に曇った己の心を見透かしてのものでないかと、ユダはそのたびに怯えた。ジーザスが、自分の教えを広めることに際して、そのために十二人のものを選び、使徒という名を授けたとき、そのなかに自分が入っていたときの驚きは、まだ金属のような味をユダの舌に残した。
崇拝ならば誰にも負けることはない。シモン・ペテロにさえ負けることはない。しかし彼の賛美は彼が神の子であるゆえのものではない。むしろそうでないことを彼は望んだ。
そのような苦しみが彼の昼と夜を覆い尽くすようになったとき、何を思ってのことか、自らを破滅の道へ引きずってゆくジーザスに我慢がならなくなったとき、あのマグダラのマリアという女は現われたのだ。
らい病者シモンの家の食卓で、女は恭しく三百デナリにもなるナルドの香油をジーザスの髪に塗った。ユダはいまだにみぞおちの冷えるような思いで、そのときのことを思い出した。ジーザスは滅多に見せないかすかな微笑みを見せてその美麗で華やかな女に応えた。
(「何故それを売って貧しい人々に施さないのです」)
喉を押しあげるようにしてついて出た己の言葉は、彼自身狼狽するほど冷ややかだった。彼の言葉にジーザスは顔を上げた。
そのときも、ジーザスは何かに気づいたような顔をした。
ジーザスは考え込むように口を開いた。
(「この人はわたしの弔いの支度をしてくれているのだ」)
女は戸惑ったようにクライストをみあげたが、自分のしたことがとがめられないとみて、胸を打たれたようだった。女はかがんでジーザス・クライストの爪先に口付けした。身じろぎもせずにジーザス・クライストはユダを見つめていた。
それを。
ユダは、焼き尽くすようにして巻き起こった冷たい焔、音をたててさかまく嫉妬の炎のなかで座りながら、神の子であるという男の整った顔をにらみつけた。
俺にやれというのか。
この悪霊。
聖書を実現させる役目を俺にやらせようというのか。
(「そして癒そうとする人の子は人に捕らえられるだろう」)
捕らえられるだろう。予言書の言葉を再現するためには裏切り者が必要だ。金のためにこの男を売るような、愚か者が必要とされるのだ。
ならその裏切りだけは他の者に渡すものか。
ジーザス・クライスト。あなたを想っている。憎むよりも愛するよりもそんな名など何もあてはまらないほど彼を想っている。娼婦のように奇跡を投げ与えたクライスト。誤った道を歩んだ神の子。数千年、彼を裏切ったとおとしめられようとも、それでもこの役目だけは他のものにさせるものか。
あなたの名を誰かが思い出したとき、必ずわたしの名が共に呼ばれるように、わたしはあなたを裏切ろう。
幸福そうなマリアが彼を見守る様を見ながら、絶望のなかでユダは繰り返した。この女は祝福され、彼は呪われるだろう。そう聖書の予言に記されてはいなかったか。それを自分がすることになるとは。憎しむよりも女を愛するよりも強く彼がジーザスを想っているためだ。
悪霊。
ユダは繰り返した。
「先生」
ユダは思わず声を上げた。風はそろそろと湿り、午後のものとなり始めていた。
「その傷はどうなさったのです」
彼らのまえを歩むジーザス・クライストのくるぶしと足の甲の上には、掻き裂いたような傷が幾条にも走っていた。それは深い傷であったようで、筋を描いて血を流していた。革のサンダルにも血はしみて革の色を黒く染めている。
「血はすでに乾いた」
ジーザスは簡単に答えて振り向いた。ゲツセマネに向かう道である。途中の道にあった茨のせいに違いないとユダは思った。徐酵祭の木曜日である。彼らは市内の家で過越の食事を済ませ、ケデロンの谷の向こう、ゲツセマネの園の中で夜を過ごすことになっていた。
「傷を洗いましょう」
彼がそういうと、ジーザスは奇妙な表情で彼を見つめ、首を振った。
「茨の傷などつらいわけはない。彼らはわたしに悪意を持たないのに」
ジーザス・クライストはそうそっと囁くように云った。ペテロもヨハネもジーザス・クライストとユダがその言葉をかわしたことに気づかなかったようだった。彼らがその言葉のやり取りに気づいていたとしたら、万人の痛みを癒してきたジーザス・クライストが何故己の傷を癒さないのかと不思議に思ったことだろう。このときすでに、ジーザス・クライストがひどく疲れ切り、ほぼ歩む力も充分でなかったことに、彼の弟子たちはまだ気づいていなかった。
ユダは、その言葉に含まれた痛烈な皮肉に青ざめた。
真っ白な太陽が照りつけて叫んでいた。もう今日をおいて、こんなふうに彼を間近に見られることはないだろう。白い陽光に照らされて、痩せてやつれたジーザス・クライストは尚輝かしかった。
「ペテロ……、ヨハネ」
クライストは低く呼んだ。
「何ですか、先生」
ペテロが、ジーザス・クライストに近寄ってきた。この男はある意味で、クライストのもっとも素直な信奉者であった。忠実な犬を思わせる。疑うことを知らない、絶対者としてのジーザスをあがめる幸せなペテロ。ユダは笑いだしそうになった。
確かにジーザスの云った通り、誰一人彼を解ってはいない。
「ヨハネと共に行って、過ぎ越しの食事ができるように準備をしなさい」
彼は、そう云って弟子たちをゆっくりと眺め、更に他のものにもそれぞれの用事を云いつけた。弟子たちは疑いのない安らかな顔で自分のすることを成すために散って行った。
「……先生、わたしはどうすれば宜しいのですか」
「お前にも成そべきことがあるだろう」
ゲツセマネに通じる道にはそれでもまだ緑が濃く、風にはかすかに青い香りが乗った。もうすぐこの男は死ぬ。ジーザスの顔の周りに髪が揺れた。長い間日にさらされて金色に染まった皮膚が淡く輝いていた。
「……」
イスカリオテのユダは、また熱の高い怨みが吹き出してくるのを必死に堪えた。
「……それではわたしは、やはりあなたの傷を洗いましょう」
彼はジーザス・クライストとともに泉のかたわらへ行き、布を裂いた。水に浸した布で埃と地に汚れたジーザスの足を拭った。この足が歩む道は今日でおしまいだ。もうこの男は死ぬのだ。この男が時折ようやく見せるあの微笑も、なめらかにはりつめた深い声も、厳しく醜い罪を弾劾する声ももう聞かれることはない。
己の裏切りによって、この男は死ぬのだ。
「……」
彼は息を詰めて内側から込みあげてくるものを耐えた。そんなことが出来るものなら、この男を誰にも触れさせたくはない。命を絶つなら自分の手でそれを成してしまいたい。
彼はまさしく彼の主であるクライストの足元にひれ伏した。
茨が裂いた傷に口づける。
幾度も繰り返し、ユダはジーザスの傷に口づけた。またその夜、彼は口付けによってジーザス・クライストをその人であるとカヤパの兵に知らしめることになっている。これも、その口付けにしろ、ユダがジーザスに与えられる口づけの、何と卑しいことだろう。
ジーザス。
ジーザス。ジーザス・クライスト。
「その傷をお前が洗うのかユダ……!」
不意に鋭くジーザスは呟いた。
「ユダ……」
ユダは、彼の主を見あげた。それは彼が初めて聞く、ジーザスの人間らしい声音であった。
ユダは唇を噛み締めて、傲然と立つジーザスの膝に額を付けた。もうどうにもならない。
「……主よ」
彼は懺悔するように指を組みあわせた。
その瞬間、彼はジーザスのからだが、おそろしいほどの意志力で抑えつけられているが、感情の高まりにふるえていることに気づいた。はっとして彼はジーザス・クライストを見あげた。
人の子、ジーザス・クライスト。
ジーザス・クライストはかすかに眉根を寄せ、激情にふるえている。
やはり彼は全てを知っているのだ。
何もかも知っていて、それならばこの身体のふるえは、恐怖のためか。それともユダへの怒りのためか。神への抗議か。熱いからだがふるえるのを、ユダは張り裂けそうな思いで見知った。
神が存在することを不意に彼は確信した。その冷ややかな運命に、眉一つ動かさない絶対的な意志があることに思い当った。
神というもののやりそうなことだ。しかつめらしく禁欲を命ずる絶対者の、事もなげなやり口に、ユダの胸は血を流した。
クライストが、もしも仮に彼が予言通り復活しても、そのクライストには彼がくちづけた傷はないだろう。ジーザス・クライストは癒されて帰ってくるだろう。
目の前で血肉を備えて息づく、この輝かしい肉体は滅んでしまう。この素晴らしい男は死ぬのだ。辱められ、鞭打たれた挙句に罪人のように十字架にかけられることになるのだ。この誇り高い男が。
それを何故わたしがしなければならなかった。
なぜわたしにさせたのだ。
クライストの名を忘れさせないための捨て駒に自らなり、更にその死のための捨て駒に、そのもっとも熱烈な賛美者のユダを使った。
「ジーザス……」
あなたは苦しんでいるのか。
あなたの痛みはなにゆえのものだ。
わたしがあなたを裏切ったことは少しでも、あなたの痛みになり得ているのか。
尋ねたいこと、知りたいことはあまりにも多くあり過ぎた。それはむしろもっと早く尋ねるべき言葉であった。今となっては全てがもう遅かった。
「クライスト。……」
おそらくそれはユダの口からジーザス・クライストに問われないまま、ジーザス・クライストは滅んでゆくことになるだろう。この恋情はひそめられ、このとき行なわれた罪の意味合いは取り違われ、旬教者として、ジーザスは十字架にかけられるだろう。奇跡は起こらず、ジーザス・クライストは死ぬだろう。
彼はたたえられ、そうして、このゲツセマネの泉で、手を握り締めてふるえるジーザスのことは、たとえ世界の只一人たりとも知りえないだろう。
ユダは彼の足元にひざまづいたまま、嗚咽を噛み殺した。ジーザスが静かに両脇に垂らした手の、左側の指をとらえ、その乾いた爪の先に唇を押し当てた。奇跡を起こす右手は民に、そして後の世界でジーザスを称える者共にくれてやる。この左の手の指。サタンを招くと云われるこの左手の指に自分は口づけする。
ユダの唇が繰り返し押し当てられ、ジーザスの指はかすかにふるえた。見上げると瞳は静かであり、しかし光を背にしてかげり、濡れているように輝いていた。
「……先生、傷は痛みませんか」
しゃがれ声で問うと、ジーザスは、
「血はすでに乾いた」
と、先刻と同じ答をした。
何故自分でなくてはならなかったのだ。ペテロでも良かったではないか。イスカリオテのユダには、裏切り者であるということで、ジーザスの十字架のまえにぬかづき、激しくむせびなく事すら許されない。
何故この役割を他に譲れないと思うほど彼を愛したのが、自分でなくてはならなかったのだ。
彼を殺すならいっそ、彼の身体を女のように腕に抱き、肉欲の為にくちづけ、婚姻しない男と女がまじわることを禁じられる、それと同じ罪を犯してジーザスの許を去ればいい。彼の首に縄をかける役割をすらひとに譲りたくない。それほどに何故ジーザスを愛したのだろう。彼の額に乗る茨の冠になり、彼を傷つけ、また、血の花で彼を飾りたいと思うほどに。
神。
神と呼ばれる者よ。
ユダは顔をそむけた。彼が賛美してやまない主なるクライストは、深く静かに死の怯えに耐えていた。何処も、彼が熱狂した輝きを失ってはいなかった。
この男はユダの生をも道連れにして滅びる。そして十字架のうえで彼ひとりが永遠の魂をえるだろう。
この悪霊のように始末の悪い想い。彼の心に押し入ってきたクライスト。ひややかに静かに生きていたはずのイスカリオテのユダを作り替えて、愚かな道化師に、裏切り者に育てあげた。そしてそれに甘美さを見出すほど、くるおしい想いに引きずり込んだ。
神とはまさにそういうことのできうる彼ではなかったか。
(「あなた方を守ってつまずかないものとし、また、その栄光のまえに傷なきものとして、喜びのうちに立たせてくださる方、すなわち、わたしたちの救い主である唯一の神に、栄光、大能、力、権威が、わたしたちの主イエスキリストによって、世々の初めにも、今も、また、世々限りなくあるように、アァメン」)
了