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S01_02_FETISH_02

03 01 *2013 | Category 二次::幽遊・幽×蔵他(蔵馬中心)

 まだまだ気楽。

続き





 首縊島は季節を忘れる暖かさだった。
 浅い春だ。夕闇に包まれても、あたりはむせ返るあたたかさだ。夏を思わせる外気の中に、息詰まる新緑の香りがこもっている。
 島にあふれかえった、人間でないものが放つ障気のためか、冷たく透き通って喉を満たすはずのみどりの香は妙に毒々しい。
 しかし今、幽助の身体が熱いのは、気温が高いからではない。酎との戦いで負ったあちこちの傷から身体が熱を持っているが、そのせいでもなかった。
 彼は薄闇の木立の中に立って頭上を見あげた。深く暗い。
 しかし星は鮮やかだった。
 数時間前まで眠り続けていたせいで、まだすぐに休む気にはなれなかった。それは彼だけでなく、先刻ばらばらになって散ってしまった全員が、皆同じような状態なのではないだろうか。
 みぞおちに込み上げる衝動を耐えるために背中を丸める。
 酎とあれだけ戦って、まだ身体の中に力がくすぶっているのだった。これは暫くぶりの、訓練ではない実戦で高揚した名残りなのかも知れなかった。
 二か月間、幻海とこもりきりで力を磨いていた間は、苦しさが先だって、自分がどんなに風に伸びたのかよく判らなかった。焦りはなかったが不満があった。
 今日、限界まで体力を使いきったのは間違いない。関節の中に、疲労した時特有の細かい震えが走り抜ける。しかし、興奮した身体はそれを武者ぶるいとさえ間違えそうだった。
 こんな力が自分の中にあったとは知らなかった。
 小柄な身体の中にひそんだ力を、他人を威嚇するためにだけ使ってきた幽助は、これまで一度も「自分の可能性」などというものについて真面目に考えてみたことはない。
 あの数カ月前の事故が幽助を変えたのだ。
 しかしきっかけは何にしろ、今、幽助を興奮させているこれは、人から与えられたものではなく、彼自身の力によるものなのだ。
 彼はこぶしを握り混んで人差し指を立て、霊丸を撃つポーズで腕を伸ばした。
 勿論本当には撃たない。消耗しきった身体で空砲など撃てるはずもない。
 しかし本当に空をうち据えたいような、そんな衝動があった。
(やべえ)
 幽助は綿のように力の抜けた、しかし暴れたがってうずうずする両てのひらを広げて見て、眉をしかめてニヤリとした。幼いと云ってもいい顔にしたたかな笑みが浮かぶ。
(ばあさんにどやされちまう)
 彼は力を温存する事の出来ない気質だ。その無鉄砲な衝動について、力の使い方を知らないと、師匠の幻海に散々嫌味を云われ続けて来た。
(震えが来るじゃねェか)
 幽助は深呼吸して息を吐き出した。そろそろ帰った方がいいかも知れない。桑原はそのままホテルに戻っているはずだから、あまり帰りが遅いと退屈して文句を云うに違いない。
 さっきの飛影は不機嫌だった。とてもホテルには戻りそうもなかったし、蔵馬も何か薬草を捜しに行くとかで出て行った。きっと帰りは遅くなるだろう。
 せめてここに蔵馬がいたら。
 ふっとそう思って、幽助は自分の頬を思い切り自分のてのひらではたいた。
(調子に乗り過ぎだ、オレ)
 蔵馬がいたらどんなことになるかは想像がつく。
 暗黒武術会などというとんでもないものにゲストとして招かれて、いつ死ぬか判らない状態、寝首をかきに来る者、隙をねらってくる者がどれだけいるか判らない状態で、いささか緊張感がなさ過ぎる。
 酎との戦いが思ったよりずっと心地良かったからだ。
 だから虚脱感がなく、逆に高揚しているのだ。
 思い切り戦った後はいつもそうだった。
 だが、本当のところ幽助は、自分で思うほどは好戦的ではなかった。ただ彼の中の衝動は、戦いの衝動というより、自分の力をフルに出し切りたい衝動だ。美学などの存在しない、力を発散したい本能に近いものだ。
 だから彼の行動はいつもポジティブで、裏目に出ることが少ない。
「幽助」
 するりと何かしなやかなものを引きおろすようにして、彼の後方の樹からすべり降りて来た者があった。
 幽助はわずかに気まずい顔になった。たった今自分が考えたことを思い出したからである。
「よう」
「よう、じゃないでしょ。ホテルに帰って傷の手当てをすればいいのに、こんな所で何してるんですか」
 蔵馬だった。彼はそう云って、幽助よりてのひらひとつ高い位置から、彼の顔をのぞき込んだ。幽助の額には、さっき酎の頭とかち合った時に出来た大きな傷が、まだ新しい血をにじませていた。
「まだ血が止まってないですよ、手当てしないと」
 蔵馬の、そのくっきりと大きい、暗い色の瞳が間近に幽助の傷を見つめた。ただ見ているのではない。彼は身体の傷や病を深く読みとって、どう手当てすればいいのか、どんな薬を作ればいいのかを見極める。これは修練して身につけたものではなく、むしろ、野生動物がどんなものを摂れば身体を癒せるかをかぎ分けるような能力に近かった。
「まあ、ひどい傷じゃないようですね」
 蔵馬は服のポケットから、ひとつかみ、包帯とバンドエイドを取り出した。
「バンドエイドォ?」
 幽助はあきれてその手許と涼しい目許を見比べた。
「大丈夫、特別な薬草入りだから」
「大丈夫って……別に疑ってねえけど、どこから持ってきたんだ、そりゃ」
「……」
 蔵馬は目を細めて笑った。彼は自分をとり囲むもろもろについて必要最低限以上は話そうとしない。徹底した秘密主義なのである。そのくらい話してもたいしたことはないだろうに、と思うところまで口をつぐんでしまう。
 しかし要領のいい彼は、それで人を怒らせるようなことはなかった。蔵馬の邪気の薄いおっとりした笑顔を見ると、彼相手に腹を立てていた自分が馬鹿に思えてくるのだった。それに隠し事が多いといっても、蔵馬は伝えた方がいいことを伝え損なったことなどない。幽助も、他人を詮索するのに熱心というわけではないから、丁度よかった。
「オレが手当てしてもいい?」
 蔵馬はてのひらの中身を見せるようにしてゆっくりと右手を広げた。蔵馬は用心深い。自身も警戒を怠らないし、相手を警戒させないやり方も心得ている。こんな風に幽助ととっくに馴染んだ後でさえそうだ。彼は決して馴れ馴れしく人の領分に踏み込んでくることはない。
「頼む。ここより足が痛えや」
 幽助は手の甲で額の傷をこすった。
「こすっちゃ駄目だ。治りが遅くなるよ」
 蔵馬が幽助の手をやんわりと押さえた。細い、冷たい指は、しかし一見した印象からは意外なほど強い。
「手当てしてから飛び出せばいいのに」
 彼は、腰を下ろした幽助の脇にかがんで、幽助がナイフで傷をつけた踵に冷たい指で触れた。
「そんな事云っても力あまっちまって、もう」
 幽助は蔵馬に任せながら、彼が手当てし易いように寝転がった。濃厚な草の匂いがする。やはり夏の印象に近い。
 しかし、遠くで人の騒ぐ声が聞こえるだけで、虫の音も聞こえなければ、夜の鳥の気配もほとんど感じない。
 植物だけは旺盛に生い茂っている。気配を感じさせないだけで、たぶん獣もいるのだろう。それも、地上では普通見られないようなものがいるのかも知れない。
「薄っ気味悪ぃ島だぜ。……」
 寝転がった幽助が云ったそれには、蔵馬は同意しなかった。幽助の方でも、同意を求めた言葉ではなかった。蔵馬は半分は人間ではない。幽助とは少し感覚が違っても当たり前だ。これは幽助の一人ごとである。
「でも、俺もあいつらのこと云えねえよなあ。こんなうさんくせえ中で戦ってても、でも楽しいもんな」
 彼は目を細めて喉の奥で笑った。煙草が欲しくなった。しかし闘場から直でここまで来たのである。さすがに煙草は持っていなかった。
(何か、蔵馬なら持ってそうだよな。こいつ何でも持ってるもんなあ。でも葉っぱだけで紙巻いてねえとさすがに不味いかもな。オレ両切りいけねーもんな)
 彼はそんな事をのんびりと考えた。
「あいつらって云うと……あいつら?」
 蔵馬が、島全体を指すように上げた腕を、周囲に向けてぐるりと回して見せた。
「あいつらとキミが同じだって?」
「そう。それとか、この暗黒なんとかを始めた奴らもな」
「キミが本気でそう思ってるならね」
「つっこむなよ」
「……」
 半ば笑っていた蔵馬の目がふと笑みを消した。次いで黒々と沈み込む。視線を上げると、黒い虹彩は闇を映してガラスのように透き通った。
 彼は低く息をつき、幽助にちらりと視線を向けた。気づいてる?と唇が動く。幽助はうなずいた。
「……なかなか静かにならないもんですね」
「オレらが目当てじゃねえな」
「仲間割れ……じゃないかな」
 空から飛来する気配だった。
 大きな羽音が上空の大気を叩くのが聞こえる。幽助の耳にもはっきりと届いた。ほんの数か月前には聞きとることも出来なかった、妖怪達の遠くののしり合う声だ。
「騒ぎを起こしたら島にいられなくなるだろうに」
 蔵馬のまつげの長い瞳の中で、小さな光がひらめいた。
「ほら、あそこだ」
「……うわ、こりゃ又……」
 幽助は空をふりあおいだ。暗い布で包んだような空を、更に塗りつぶすようにして、数匹の妖怪が翔んでいる。
 巨きかった。一匹など彼らの数倍はありそうだ。節のある羽を大きく広げて、空に浮かんだ妖怪達は、中空で口汚くののしりあっている。
「ブサイクなやつらだな、おい」
 思わずそんなふうに口走る。
「見られると面倒だ。ホテルに帰った方がいい」
 蔵馬がささやいた。
 幽助は頷いて、そっと体を起こした。この島では特に、闘場の上でする闘い以外に余計な力を使うべきではない。
 しかし、気づかれないようにこの場を抜け出すにはもう、妖怪たちは近づき過ぎているようだった。
 彼らが人間の気配を感じ取るのは、視覚よりも、嗅覚や気配、霊気を感じ取ってのことが多いのだ。
 声が近づいてくる。
 妖怪たち同士が話す時は早口である。
 聞いた瞬間は何を云っているのか判らない。反対に彼らが幽助たちに話しかける時、妙にあざけるように間延びした口調になるのは、普段喋るスピードとの落差でうまくしゃべれないということもあるようだ。
 妖怪達が、明後日の第二試合の入場券のことでもめているのに二人は気づいた。
 筋立たない混乱した言葉の中から、それらしい言葉を拾い出して、一瞬顔を見合わせる。
 第二試合を闘うのは自分たちである。ゲストであるということは、当然、一番の目玉商品だ。
 それだけに、その目玉商品と早めに出会ってしまったらどうなるか。妖怪たちの攻撃欲、人間への憎しみには特別な理由がない。どんな風にしかけてくるかも、理屈では測れない。頭上でののしりあう声が近くなって、どうやら降りて来たようだった。
 木立の中に抜けた蔵馬が気配をひそめたのが判る。草の中に溶け込むように彼の気配が薄くなる。
 幽助はあいにく、自分の気配を殺す方法は知らない。蔵馬が一瞬幽助を気づかうように振り向いた。
 手当てしたばかりの足がかすかに痛む。
『オイ……』
 頭上から烈しい呼吸音と羽ばたく音、そして巨大なかぎ爪と鉛色の足が降りて来た。
『オイ……何モ闘場ニ入ラナクタッテ、面白イモノガ見ラレル……』
 あたりが生臭い匂いに包まれる。
 大きかった。同じ妖怪とはいっても、飛影や蔵馬の、華奢といってもいいくらいの優美な姿が、とても幽助たちより、この妖怪たちに近いとは信じられない。
 暗い鉛色のざらざらした皮膚に包まれた獣頭に、鬼火のような緑色の目が燃えている。その目もサーチライトのように大きい。
『げすとノウラメシカ。……』
 妖怪達は中空で、巨大な目をぎょろつかせた。夕闇の中で、その緋や緑色に発光する目が、ときおりフラッシュを焚くように人間臭いまばたきをするのが気味悪い。
 空き地から木立の中に入りかけて止まった幽助と蔵馬の前に、一匹が巨大な顔を突っ込んで来た。樹と樹の間にはさまれて動きを止める。緑の目が彼らを凝視する。
『ソッチノハくらまダネ』
 言葉がこもったように妙に響くのは、どうやら、そう云っている奴の顎の形が広過ぎるせいであるようだ。洞窟の壁に音が反射するように、口蓋で声が跳ね返っているらしい。
 その声は、嘲笑的に吐き出される言葉になおさら威嚇の効果を高めるのだ。幽助たちが普通の人間なら、この気味悪さ、悪意だけで、戦意どころか意識を失ってしまいかねなかった。
『第二試合ニげすとガデナカッタラミンナガッカリダナア。オレタチニハ関係ナイケドネ』
 妖怪の一匹がそう云って、幽助の胴回りほどもある首の喉をぐびりと鳴らした。
『ケガシテルネエ、うらめしハ。……』
「鼻はきくんだね」
 ポケットに手を突っ込んだ蔵馬が喉声で笑うのが判った。
 幽助の方では、多少げんなりしていた。今日幽助たちと闘った六遊怪の男たちは、少なくとも視覚的にはさほどの暴力ではなかった。しかしこういう妖怪たちの顔は、間近に見るだけで疲れてしまう。彼らと自分たちの間に霊力の差があるのは判る。まず闘って負けることはないだろう。しかし真剣に闘う気にもなれない。
 蔵馬は少女のように整った顔で、すぐ上に浮かんだ妖怪たちを生真面目な表情で仰いだ。
「もしどうしてもというなら、オレがお相手するが?」
「おいおい、蔵馬」
「いいですよ、キミは怪我人なんだし」
 蔵馬は足許に視線を落として笑った。髪が白い頬の両側にすべり落ちる。
 傍らの立ち木に寄りかかる。まっすぐに伸びた幹に、宿り木のように細い低木が絡みついている。蔵馬の腕がその低木に絡んだ。
『イサマシイネエ、今日アンナニ苦戦シテ』
 蔵馬の前に顔をつき出した妖怪がそう云うのに、幽助はぴくりと眉を上げた。
 それは、今日の六遊怪戦での事を云っているのだろう。蔵馬は呂屠という男と戦った。桑原に聞いたのだが、どうやら蔵馬は呂屠に母親を人質にとられていたらしい。蔵馬が闘っている間、幽助は眠っていたので判らないが、実力の桁違いに弱い相手に、蔵馬がかなり拳を許したらしかった。
 確かに、観客席で見ていた者にとっては、蔵馬がその呂屠という男相手に苦戦したように見えるのだろう。
「……」
 蔵馬は気にする様子もない。視線を静かに落として、相手の出方を待っている。長いまつげで隠されて、目の表情は見えなかった。
 普段接している蔵馬の気質からして、そんな事をいつまでも気にかけていないのはあきらかだった。
 妖怪の顔をはさみ込むようにして幽助たちとの距離を保っていた樹がみしりときしんだ。幹の中ほどが目に見えて大きくたわんだ。
 樹を押し抜けて近寄ってこようとしているのだ。
 生臭い息が強風のように吹きかけられた。
『余裕ダ・ネエ……』
 幽助は肩をすくめて傍観に回った。蔵馬が万が一にも彼らに負ける事はないだろう。エスカレートするようだったら手を貸せばいい。そうでなければ、せっかく手当てをしたのに、と、後で文句を云われかねなかった。
『ソ……ンナニツヨイノカ……ナア』
 声は含み笑った。
 その樹のきしみと一緒に、蔵馬の腕の触れた蔓が伸び始めた事に気づいた。
 上にまっすぐに伸びていた蔓は、柔らかくくねって枝葉を伸ばし始めた。伸びた葉はゆっくりと垂れ下がって、緑の裳裾のように蔵馬の足許にわだかまった。
 蔵馬の大きな瞳は暗く静かだ。
 腰をゆっくりとかがめてその伸び始めた蔓草を手に取った。蔵馬の白いてのひらに握られた途端、金属のような鮮やかな弧を描いて、その蔓は跳ね上がった。
 空をつき抜けるようにして、蔓は大きく伸びた。それと頂度一緒に、妖怪の肩に押されて、木の幹が数本折り取られて蔵馬の方へ倒れかかってきた。
 その巨大な顔の側面を、蔓草の刃は綺麗にえぐり取った。大型のスライサーの刃が潜り込んだように、斜めにすっぱりと断ち切っている。
 妖怪は、身体に比べて大き過ぎるようなてのひらで、その、断面になった頬をなでた。
『イタイナ。……』
 蔵馬は、円を描いて戻ってきた蔓を眺めてかすかにため息をついた。
「これで飽きてくれないかと思ってるんですけどね。……」
 妖怪の鉛色の頬から、同じ色の液体が、蔵馬の切り落とした断面に粘りつき始めた。
 てのひら大の鉛色のしずくが地面にしたたり落ちる。
『イタイネ……』
 幽助はふと違和感を感じた。妖怪はなかなか動こうとしなかった。彼らに功名心で襲いかかってきた妖怪たちのように、こけおどしの叫びを吐き散らかした上に、力を試し見る事もせずに襲ってくる、あの独特の野卑さがなかった。
 不気味に静まり返っている。
 蔵馬も同じような事を感じたらしかった。彼の手が静かに身体の両脇に垂れた。ゆっくりと一歩下がって、蔓の絡みついた樹を背にして、また、待つ体勢になった。
『マアイイノサ……オマエタチハドウセ決勝ニハ死ヌンダカラナ。ナニモココデオレタチガ、イタイオモイヲシテ、ガンバルコトハ、コトハナイ……』
 蔵馬に頬を切り落とされた妖怪が云った言葉に、後ろで抗議の叫びが起こるのが聞こえた。
『くらまハゲンキダ。……コロサレルゾ』
 巨大な顔はすうっと音もなく下がって、含み笑った。
 羽のある妖怪たちは、一瞬ひるんだようだった。
『イタイノハダレモイヤヨナ。……』
 どうやらこの妖怪が券を持っているようだった。さっき声高にののしっていたのは、今し方、ずっと後ろで様子を見ていた臆病な奴等だろう。
 頬の断面をしきりに粘ついたてのひらで撫でながら、妖怪は羽を広げて浮かび上がった。
『オレハヤメダ。シ・ラナ・イ…………』
 口中でざらざらと言葉を撫で回すようにそう云って、そいつが浮かび上がると、口々に怒りの叫びを上げながら、他の二、三匹の奴等も舞い上がった。
 覚えていろ、などという奴もいた。それがいかにも下級な者の科白らしくて、おかしみすらあった。力のない者の吠え声は、どうやら人間も妖怪も同じであるらしい。妖怪達の取る行動は、いちいち戯画化された人間めいていて、そのおかしみのなかに、ぞっとするような嫌悪感を誘う所があった。
 幽助は茫然と、鉛色のやわらかな岩のようなその姿を見送りながら、その場に腰を下ろした。あぐらをかいて上空を眺める。こんな事は初めてだった。
 まるで様子を眺めに来たとしか思えなかった。
「気にいらねえな。まだしかけられた方がいいや」
 彼ははっきりした眉をひそめた。
「何しに来やがったんだ」
「この大会の主催側と関係がある奴かも知れない」
 しばらく一云も喋らなかった蔵馬が口を開いた。そっと手に掴んだ蔓を離した。
「遊ばれてるんだ。たまに様子を見て、それもやつらの楽しみの内になってる…………」
「胸糞悪ィぜ、その気もねーのに余計なちょっかい出して来やがって」
 幽助は顔をしかめた。あのざらざらするような声が耳に残っている。挑戦的でもなく、悪意さえはっきりしないだけに気味悪かった。
「だから、キミは早くホテルに帰った方がいいよ」
 蔵馬が、彼を立たせようと手を差し伸べた。
「幽助」
 渋々腕組みをほどく。さっきまで身体のなかで燃えていた不完全燃焼がよみがえり始めた。さっきのそれは精神的には妙に満たされて充実感が一緒にあったが、これは、さらに何か、煮えきらない気分の悪さを伴っていた。
 幽助は、蔵馬の手を借りずに勢いよく立ち上がった。近づけた蔵馬の頬を見た幽助は声を上げた。
「……蔵馬、お前、人の事ばっか云って、自分の顔の手当てしてねェじゃんか」
「え」
 蔵馬は自分の左頬にてのひらをあてがった。まるで思い出しもしなかったという顔である。
「ああ……でもこんなのすぐにふさがるから」
「それだったらオレのこれだってそうだってばよ」
 幽助は自分の額を指して見せた。
「まあ、その内」
「お前はホテルに帰るのか?」
「オレはまだちょっと」
 そう云って、蔵馬はまた捉えどころのない表情をした。
「何で?」
「何だか体を動かし足りなくて」
「あ、お前も?」
 幽助は屈託なく笑った。
「さっきまでお前と会う前さ、何かこう、もう一戦やらかしたいくらいでさ」
「オレはともかくキミが?」
 蔵馬はさすがにあきれたような顔になった。
「酎とあれだけ闘ってまだ足りないんですか?」
「足りないっていうかよ、こう……」
 幽助は天を仰いで思案した。何と云えばいいのだろう、足りないというよりは、プラスアルファをほしがっている自分の、この身体のそこからわき上がってくる衝動。
「ま、いいか。オレぁ先にホテルに帰るぜ」
 彼は腕を上げて身体を伸ばした。ふと思いついて蔵馬を見る。
「顔の手当てちゃんとしとけよ」
 蔵馬は愛想よくうなずいて、話を終わらせようとするように一歩下がった。
 その時手が伸びてしまったのは、幽助に意図があっての事というわけではなかった。
 彼は、自分より位置の高い蔵馬の肩を掴んで引き寄せた。
 自分でもどうしようと思ったのかを完全には理解出来ないまま、蔵馬の左頬のその傷に口をつけた。
「……」
 蔵馬が驚いたようにおとなしくなるのを、両肩を掴んで拘束する。わずかに伸び上がるようにして頬の傷口に舌をはわせた。
「幽助」
 自分でも、その行動に驚いた幽助は、さすがに決まりが悪くなって笑った。
「ええと。……ちょっとだけな」
「……」
 蔵馬に触れるのはこれが初めてではない。数カ月前、魔回虫を操る虫笛を壊すために、四聖獣の住む妖魔街に出向いた後のことだ。幽助の家に蔵馬が顔を出した時、たまたまそういう事になったのである。
 たまたま、というのは、その後、まったくそういう事もなかったし、おたがい何故そんな事が起こったのかを話し合ったわけでもなく、何となく、で終わってしまったからである。
 現に、ことのあったその日でさえ、蔵馬は特別に気にした様子はなかった。ただ、さすがにいぶかしそうに、首をひねるようにして帰って行った。
 それまで、蔵馬に対して何かそういう気持ちがあったのかどうか、もう今となっては判らなかった。何せ事件が起こったのは、蔵馬に会ってからあっという間のことだったからだ。
 今でさえ、蔵馬とは初対面からまだ半年しかたっていないのである。
 幽助は、蔵馬の頬から唇を離してほんの一瞬考えた。自分のなかに眠っている欲求不満についても考えた。
 蔵馬の首筋に唇で触れると、かすかに植物的な体臭があった。緑の匂いにも似ている。
 おもむろに歯を立てた。
「幽助」
 その科白の後に何が続くのか判るまでは、とりあえず先を続けよう。そう思って、幽助は自分の咬みついた後に舌を這わせた。浮き上がった首筋から付け根までたどって、また、衝動に逆らえずに歯を立てる。
「幽助、キミねえ!」
 さすがに、蔵馬が彼を引き離した。首筋を手で押さえる。
 目が驚いたように大きくなっている。
「……何だよ」
「何だよって」
 蔵馬は眉をひそめて幽助をじっと見た。この段階になってもまだ、蔵馬がこの事態をどう思っているのか、幽助には判らなかった。まだ、殺意たっぷりの妖怪がやってきた時の方が、向こうがしかければ戦うという意思がほの見えただけ、判り易かったというものだ。
「あの……」
 蔵馬は考え深げな顔をして言葉を切った。
 視線が宙をさまよう。
「ええと…………」
「だから何だって」
「……」
 蔵馬は、大きな目でじっと幽助を見た。
「螢子さんは?」
 はっきりと云った。思わず膝から力が抜けそうになって、幽助は後ろの樹に持たれかかった。
「うーん。……」
 今度は幽助が唸った。
 その幽助の傍らに立って、蔵馬は一見生真面目に見える顔で首をかしげた。
「でしょ?」
 その妙に邪気のない口調のまま、彼は幽助から一歩下がった。
「まあ、じゃあそういうワケで」
「そういうわけで、じゃねえよっ」
 慌てて幽助は彼を引き止めた。自分が去年の「事故」を再現しようとしているのは判った。彼自身も深く追求していなかった事だっただけに、その動機について今さら他人に説明しようと思うのは難しかった。ましてや蔵馬は、絶対に説明を誤ってはいけない相手である。
「だから、魔がさしたんでしょう?」
 蔵馬はおっとりと云った。
 しかし、そのおっとりした口調に、いつまでもだまされる程は幽助も人がよくなかった。
「待てってっ」
 しかし幽助は、ひとまず努力する決心をした。
「螢子は!」
 実際のところ、これはさすがの豪放磊落な彼といえども、一番突っ込まれたくない部分であった。幽助はおおらかで物ごとを深く気にしない少年だったが、弱みはひとよりも数が多い。
 それだけ大事なものが多いということだ。
 言葉に詰まって何と云おうかと考えた。しかし、あまりテクニカルな云い回しは思いつかなかった。本音を隠しても、聡い蔵馬に、幽助のちょっとしたごまかしが通用するとは思えなかった。
「螢子は好きだ、勿論。すげえ可愛いと思うし、最高って思うコトもある」
 彼はほとんどヤケになって云い放った。
 百年に一度の本音発言である。蔵馬相手にこんなことを云っているのが不思議だ。反対に、蔵馬が相手でなければ、口が裂けても絶対に云えない科白かも知れない。
「だけどお前はもっと、こう、具体的って云うか。……」
「……」
 この正直な返事に、幽助に腕を捕まれた蔵馬は、人の微妙な云い回しなどに頓着しない彼には珍しく、かすかに嫌な笑い方をした。
「……具体的?」
「そう、具体的」
 寝静まるには早い島は、遠くかすか、人の声が絶えない。
 しかもそれは厳密には人の声ですらないのだ。妖怪たちのざわめきは、潮騒のような遠い気配となって迫ってくる。殺意や残酷な期待、血なまぐさい興奮の入り交じった、波にたとえれば赤潮のような気配だ。
 舞台はお世辞にも、人と人との関係を語り合うのに向いているとは云えなかった。
「具体的ね……」
 妙な顔をしたのは一瞬だけで、また超然とした顔を取り戻した蔵馬は、ゆっくりとそう繰り返した。
 目を伏せて笑う。
「判り易いね」
「まあな」
 さすがにわずかな自己嫌悪に駆られて、幽助は苦笑した。
「お前には、何でだって思うんだけど、こう……顔、借りたことも何回かあったくらいで……」
「顔を借りた?」
 今度は本当に、すぐには意味が分からなかったようで、蔵馬は解せない顔つきで聞き返した。
「そう。だから、お前の顔」
「借りたって。……」
 そうつぶやいた瞬間、蔵馬ははっとした。
 蔵馬……この場合、彼のアイデンティティは南野秀一としての彼にあると云っていい……は、幽助が何を云っているのか、ようやく理解したようだった。彼のそんな顔は滅多に見られるものではないが、頬を打たれたように面食らった顔になった。すぐに判らなかったのは、彼のボギャブラリーの表層部分に、その類の下世話な云い回しは含まれていなかったためだろう。
 しかし、声にはやはり動揺が見えなかった。
「……へえ」
 顔を借りた。
 想像の中での話である。『顔』というのはずいぶん控えめな云い方だったかも知れない。とあるタイミング。自分の持ち合わせの想像に、多少なりともなまめかしいプラスアルファを加える必要を感じた折、イメージを使用したということである。
 蔵馬は、話題にそぐわない真面目な顔で考え込んだ。
「そういうのは本人には普通云わないものなんじゃない?」
「別にいいだろ、男同士なんだから」
「……」
 幽助は、云いたい事をすっかり云って、清々した気分で、解せない顔の蔵馬の腕を引いた。
「で?」
「我慢出来なくなっちまった」
 そう云って幽助は笑った。目尻の強く切れ上がった、くっきりした二重まぶたの瞳が、ひらめくようにまたたいた。
 そういう顔をすると、自分が驚くほど人なつこい、幼い顔になるのを幽助自身は気づいていない。その、光の強い、そのくせ甘い笑顔が武器に等しい事も意識してはいなかった。
「悪ィ」
 そう云いながら幽助は額の傷を手の甲で軽くこすった。
 悪い、と云いながら、詫びにもなっていない幽助の言葉に、蔵馬は大きな目を数度しばたたいて、小さなため息をついた。
 幽助の希望が希望だから、桑原の待っているホテルに帰る訳には行かない。部屋が別々なのだからそれでも良さそうなものだったが、鍵などかけてこもっているのをうっかり誰かに知られたら、それはそれでまずい。
 今、蔵馬がわずかに憂鬱そうにため息をついたのは、行く所がない以上、我慢出来ない幽助と、NOといえない自分が、今からどこでどんなことをする羽目になるのか気づいたからである。
 南野秀一としての彼も、若い男(というよりはむしろ少年と形容した方が正直かもしれない)には違いなかったが、更に二歳年下の、十代前半の幽助のパワーには勝てなかった。
 蔵馬はさっき自分で云った通り、さほど疲れている訳ではない。今日闘った相手が、話にならない相手だったからである。自分の本当の力を出さなければならないほどの相手というのではなかった。
 いいんだけどね。
 彼の大きな目が空を仰いだ。幽助がいつでもこんな風に傍若無人な訳ではない。人とタイミングを選んで、あえて我が儘を云っているのだ。
 彼らがのんびりと自分の欲望に向かい合っている最中も、空には相変わらず、硝煙のような障気がこもっていた。

 蔵馬の湿った息が幽助の耳許にかかった。
 幽助は元々、人並み以上に夜目のきくタイプである。薄闇だった外は完全に暗くなっていたが、その中で、薄く開いた蔵馬の唇が薄赤いのが判った。
「ゆ…………」
 闘いの最中にもそう乱れる事のない蔵馬の呼吸は荒れて、呼びかけがうわずった。
 幽助は背中を丸め、蔵馬の肩口に頬をつけて笑った。額とかかとの傷が先刻からだんだんと痛み始めていたが、幽助の方では、そんなことを構ってはいられなかった。
 草の中に横たわった彼らの身体は、緑を押しつぶして汗に濡れた。結局、幽助の我が儘に蔵馬がつき合わされたというかたちになった。いつ襲われるか判らないこんな場所で、お互い度胸のある話だった。
 幽助は、ひとまず、走り過ぎないようにすることには成功していた。あのタフな蔵馬を、起き上がれないような目に遭わせる勇気は彼にはない。
 明後日には第二試合である。
 重なった数カ月ぶりの身体は、まだ物慣れず、互いの身体になじみきらないのが新鮮で、飢えた幽助を満足させた。
 片足を曲げたまま不安定に浮き上がった体を支えようとするように、蔵馬のてのひらが草の上を撫でた。息をはずませた彼の手の甲が、さっき妖怪の頬をそいだ木の蔓に重なった。
「……っ……」
 彼の身体を巻き閉めて動く幽助の姿勢に刺激されて、蔵馬は息を詰めて幽助の服の背中の布を掴んだ。幽助は蔵馬の身体を抱きしめながら、息の詰まるような緑の匂いをかいだ。
 ちょっと凶暴な気分ではだけた胸に歯を立てる。
「……こら」
 浅い息を吐き出した蔵馬が、幽助の髪をやんわりと掴んで引いた。
「悪い、ちょっと」
 夢中になって。
 そう続ける余裕もなく、幽助の方でも乱れた息を吐き出した。蔵馬のなめらかな皮膚に口をつけると、そのまま咬みつきたくなる。
 幽助が身体を折ると、彼の腕に触れていた蔵馬の足がかすかにこわばった。目を閉じた蔵馬が顔を背けた。眉を寄せて唇を噛む。そして、噛み締め続けることがむずかしかったのか、唇はすぐゆるい吐息にほどかれた。
 その蔵馬の動きと重なり合うようにして、幽助の背中にするりとやわらかに巻きついてきたものがあった。
 緑色の香りがひときわ濃厚に幽助の鼻をくすぐった。
「……おい、蔵馬」
 彼はあっという間に自分の腕に絡んで巻きつき始めたそれを、動きを止めてつまみあげた。
 それはさっき、蔵馬が妖怪の頬を剃いだ木の蔓だった。
「……え……?」
 呼ばれて目を開いた蔵馬に、幽助はつまみあげた柔らかい蔓を持ちあげて見せた。
「お前……こんなの生やすなよ……」
「……?」
 幽助がそれを手に取る間も、つる草の内の数本は蔵馬の髪や腕にも巻きついた。
 幽助がそれに触れた途端、蔓の数カ所がぐっと持ち上がって瘤のように節くれだった。
 緑の瘤は槍の穂先のような形に尖り、それが幾つかに割れて、中からオレンジ色のものが盛り上がってきた。
 花だ。
 茫然と見守っている幽助のてのひらの中で、蔓はあっという間にあでやかな緋色の漏斗型の花をつけ始めた。
 その様子は理科実験か何かの、時間を縮めて撮影したビデオを見ているようだった。夜闇の中に咲いた五片の花びらの大きな花は、みずみずしく美しいだけに、まるきり冗談ごとだった。
「これ……」
 幽助は無論その花の名前を知らなかったが、その花はノウゼンカズラであった。
 要するに、蔵馬が先刻、武器代わりに妖気を通した蔓は、ノウゼンカズラの蔓だったのである。それがどうやら蔵馬に影響されて狂い咲いたらしい。
 幽助は、花の名前は知らなかったものの、それが、隣の家の玄関口の柱に絡ませてあるのを見知っていた。そして、その花が夏になると咲いていたのも漠然と覚えていた。
「これって夏の花じゃねェの?」
 彼はそう聞いたが、蔵馬は生憎返事を出来る状態でも、返事をしたい気分でもなかったようだ。
 再び目を閉じて答えない蔵馬の肩に、幽助は傷を残した、蔵馬のバンドエイドを貼った額を押し当てた。そして彼は突然我慢出来ないように声を立てて笑い出した。
「……お前って、腹立てても闘ってても、気持ちよくても全部植物に影響すんのな」
 この場面で笑い出された蔵馬は、百年に一回あるかなしかの話だが、ほんのかすかに赤くなった。
 しかし、蔵馬の胸に顔を伏せて笑っている幽助はそれに気づかなかった。蔵馬は少女のように優しい印象の綺麗な指を、幽助には見えない彼の背中の上で握りしめた。
「幽助」
「え?」
 蔵馬のおだやかな、静かな声に幽助は顔を上げた。
「……殴るよ」
「……」
 幽助は笑いの残る口で、相手の口をふさいだ。これ以上脱線してからかいに出る余裕は彼にもなかったし、それに、怒らせたくない対象として、これ以上の条件を兼ね備えた相手はいない。
 蔵馬の長いまつげが震えた。彼はどこまでも寛容な事に、幽助の上で握りしめた拳を、ゆっくりとほどいた。
 早い春の狂い咲きのノウゼンカズラは、闇の中で朱に匂っている。
 幽助は傷つけないように丁寧にその蔓をはずしてやった。
 ちなみにこの花は、優美で美しく、そっと触れたなら何という事もないのだが、手荒く千切ると毒のある花なのである。
 それは蔵馬なら当然知っていただろう。誰かさんと似たような花なのである。
 満たされにくい春に羽目をはずした。
 暖か過ぎた春と若さのせいに出来るのも今の内であった。


……了

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