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S01_06_Strange night of stone・1

03 01 *2013 | Category 二次::幽遊・幽×蔵他(蔵馬中心)

事件より深刻化。

続き





Strange night of stone/1


 朦朧としていたせいか、その午後の光は眠りに似ていた。

 幽助の部屋から一歩も出ないまま、蔵馬は静かに日差しが傾くのを眺めていた。
 だるくて動けなかったと云った方が正直なところかも知れない。夜の方があきらかに動き易かった。窓越しのものならさほどでもないのに、部屋の外に出ると日光が目を刺激してひどく辛いのだ。だから彼は、夜になってからまた活動し始めるつもりでいた。
 その朝も食事を摂ることが出来なかった。もう彼の身体はほとんど食物を受けつけなかった。幽助のそばにいることで相当楽になってはいるが、彼は自分の左胸の石の存在を、今はもうはっきりと意識していた。虫の形をした、せいぜい二、三ミリの大きさの石は、今や彼の身体の機能をことごとく狂わせている。狐聾石の作用だけでなく、赤蝕が気を込めた刄虫であることが事態を悪くしていた。
 この期間、蔵馬は、狐聾石と反対の効能を持つ毒消しの石か、それに類似したものを捜し当てられないかと全力を尽くした。似た症状の毒に解毒作用のある植物をも試した。自分がナイフを埋めたのではないかと思われる場所にも何か所か行ってみたが、徒労に終わった。
(ナイフを埋めた場所を割り出すのは難しいか……)
 ずいぶん前のことだ。意識がはっきりしないことも手伝って記憶が定かではないが、その時彼は、自然に発生した魔界の空間のひずみを通って、こちら側へ来た。海があった。半島か、島であったようにも思う。夜だった。何か建物が近くにあったような気もするが、正直それほどは良く覚えていない。
 彼は人間界自体に、他の妖怪ほどは執着しなかったため、ほとんど人間界に行ったことはない。ほんの若かった頃に数回、そして、偶然に、彼が通れる程の大きなひずみが出来た時、一度だけ人間界に行った。
 その一回が、人間界に妖剣を埋めた時なのだった。彼ほどの力を持った妖怪が通り抜けられるひずみなど滅多に出来るものではない。そのこと自体への好奇心と、傷を負っていたこととで、彼はその時、休息を取るために人間界に抜けた。そして、ひずみが塞がる前に魔界に帰った。そこにとどまったのはぜいぜい数十分というところだった。その時は周囲を探索してみることはしなかった。怪我は大きく、疲れていたし、昔の人間界は彼の興味を強くそそる所ではなかった。おそらく日本であったのは間違いないと思う。ひずみが消えない内に、と、すぐにとって返そうとした時、ナイフが強くひずみに反応した。ある物質同士が強く擦れあった時、静電気が起きるのと似たような拒否反応を起こしたのだ。
 面倒になった。根を深く張る類の魔界植物を呼び出してナイフを埋め込み、魔界に帰った。それきり興味を失ってしまったのだ。
 二十年ほど前、南野秀一として生まれるより更に前のことだった。
 こんな程度の記憶では八方塞がりだ。ナイフを埋めたあの場所が判ったとしても、二十年の間、開発や工事で失われずに、まだそこにあるだろうか。
 今彼の胸の中にある狐聾石の刄虫を最も効率よく取り除くには、赤蝕を騙して命乞いし、或いは交換条件を持ち出して、彼自身にやらせるのが一番なのかもしれない。
 蔵馬は西日の入る幽助のベッドの上に座って、自分の額に自分の冷えたてのひらを押しつけた。思わず笑った。
「効率がいい、だって?」
 ばかばかしい。魔界にも簡単には行けないし、赤蝕を探し出すあてもない。それに彼が仮に身を投げ出して哀願したとしても赤蝕が術を解くはずがなかった。赤蝕の目的は復讐なのだ。
 蔵馬は赤く染まり始めた西の空を見据えた。不意に冷ややかに目を細める。
 それに、赤蝕に哀願するくらいなら死んだ方がマシだ。
 あのナイフ。蔵馬の心臓に埋まった狐聾石の刄虫を唯一切り取ることの出来る妖剣だ。あのナイフが見つかれば助かる。
 もう時間はなかった。発熱が続いているし、ともすると意識が遠のきそうになることもあった。蔵馬がナイフを探し出せないでいることには、判断力と体機能を鈍らせるこの不調も関係あるに違いなかった。全くと云っていいほど勘が働かないのだ。
 身体にだるさが残っている。昨日のせっぱつまった状態よりはましだったが、覚えのない感覚は、何よりまず、彼の神経を疲労させた。水以外の食物を受けつけないのも痛い。食物を取らないことには耐性があるが、それにも限度があった。一週間近く食べていない。妖化しているといってもまだ彼の肉体は人間の性質を残している。全く食物を摂らずには生きて行けない。
 夕刻の空は瞬く間に黒ずんで沈み始めた。
 春とはいえ、日が落ちるのは早い。もうそろそろ幽助が帰って来る頃だろう。
 蔵馬は進級後の最初の考査が終ったばかりで、学校は休みだった。幽助の方では通常授業だ。学校に行きそうにないのを、幽助がいない間に眠るからと云って無理に送り出した。
 幽助が自分の側にいたいのは判っている。自分にも、側にいて欲しい気持ちが全くないと云ったら嘘だ。
(意地になってるのか?)
 これが、あまりに自分の個人的な問題だからかもしれない。元々妖怪である自分が霊界の力を借りることに抵抗を感じているのだろうか。人間の感覚に染まっていると思うのはこういう時だ。大義名分を必要とするのは、妖怪の感覚ではなかった。
 ……飛影って云ったか? あの邪眼師。弱みを探って、あいつの敵に売ってやるのも面白いな。……
 赤蝕の言葉を思い出す。赤蝕は臆病で用心深い。そして何よりも執念深い男だ。もしやると云えば必ずやるだろう。自分の周囲を巻き込みたくないという気持ちは、あの男を相手にしていることから生まれたものでもある。
 蔵馬は息を吐き出した。
 昨日彼は幽助に、今どうすればいいのかが全く判断出来なくなっている、と漏らした。
(「お前、そんなふうになったことないだろう」)
 幽助はそう云った。
 確かにその通りだ。
 蔵馬の価値観は本来シンプルだった。たいがいの事になら、その時目に見える範囲で、最良の方法を選択出来る。保身の前提もむろんある。保身に意識を集中させ過ぎることが事態をより悪化させるのでなければ。
 今、彼は狐聾石に惑わされて、何が大事で何が小事なのか判らなくなっている自分を、一歩外側から、奇妙なものを見るように眺めている。
 幽助の記憶を封じてしまうには、もう蔵馬には条件が悪過ぎた。幽助ほどの力を持った人間の記憶を消すだけのエネルギーを使うことが難しくなっている。そして、今、狐聾石を取り除くために妖剣を探すことすら、幽助の協力無しには難しいからだ。
 そして、これは蔵馬にも意外なことだったが、狐聾石がもたらす苦痛を幽助の霊力はやわらげるのだった。幽助と半日一緒にいただけで、彼をここ数日間悩ませた、酷い吐き気がすっかり止まってしまった。
 幽助の霊力と自分の妖気が、相反しないというのが不思議だった。たとえば四聖獣と闘った後、桑原が、霊気を使い果たした幽助に、自分の霊気をそそいでやった、それならば理解出来る。幽助と桑原の霊気の質はほとんど変わらないからだ。
 しかし、もうほぼ完全に妖化してしまった自分の身体に、あれだけ幽助の霊気が効果をもたらすとは思わなかった。あるいは、蔵馬の身体をいやしているのではなく、狐聾石に直接働いて、霊気によってその効果を殺しているのかも知れない。
 それはどちらなのか判らなかった。
 しかし、幽助のそれが自分の今の状態に理想的に結びあっているのは間違いなかった。
 蔵馬は再び、自分の額に触れた。
 彼が出て行ってから五時間ほどたっている。もう熱が上がり始めていた。
 幽助に云った言葉通り、少し眠っておいた方がいいだろう。今はほんの少しの体力も惜しむべきだ。今の彼の心臓は、いつ止まってもおかしくない状態なのだ。
 蔵馬は、そろそろと横になった。斜めに甘く溶けた日差しが頬を照りつけた。発熱はしているが、それほど今は不快ではなかった。
 目を閉じると、枕にうつった幽助の煙草の匂いに気づく。幽助がよくベッドで吸うからだ。蔵馬はかすかに笑った。自分にとっての幽助が何なのかも、正直に云えば判らなくなっている。
 こんなに判らないことばかりが多かったことは、確かに今までなかった。
 幽助に触れているような錯覚をわずかに起こしながら、彼は、引きずられるように眠りの底に落ちた。落下の感触と、まぶたをあたたかく照り通す、春の夕陽の感触があった。

 斜めに落ちて行く感触があった。実際には斜めに落下するはずがなかったが、油絵の具か何かで抽象的に描かれた絵に似た光景の中を、蔵馬は斜めに、蜜の中を泳ぐようにゆっくりと落ちて行った。
 あたりは一面の昏い金色だった。聖人と彼らの放つ光が描かれた宗教画にほどこされた、鈍い黄金色を思わせた。どこか埃の匂いのするような、象徴的な落陽の色だった。
 夢の中で彼は、これは夢なのだと理解していた。昨日、幽助の隣で眠りながら見た夢を彼は思い出した。あの夢とは種類の違う、もっと自分の直接の意識と関わりのある夢のようだった。
 おそらく、感情がそのまま具象化して現れたというようなものではなかった。
 蔵馬は腕を伸ばした。自分が上空に向かって落下しているのが判った。それは奇妙な感覚だったが、彼は正に上空に向かって落下していた。過去の夢の中を彼は翔んでいる。
 この妙な感覚には覚えがある。
 彼は、自分自身も忘れていたことを思い出した。
 ひずみを抜けて、魔界に帰る時こんな感覚があったのだ。
 不意に、暗い空と水平線、その水平線をゆがめた血の色の太陽と、まばゆい残照が目に飛び込んできた。
 海だ。肩の周りに、風をはらんだ銀色の髪が舞い散るのを彼は眺めた。自分が妖狐の姿をしているのが判った。この光景は、あの時の光景か。
(ひずみを通って人間界へ行った時の────)
 あれは百数十年ぶりの人間界だった。今しも日が沈もうとしていた。空のもう一方では極彩色の残照が、暗く沈んだ雲の端で燃えていた。
 薄墨色の西の中空には、消えてとけそうな儚い月が、すでに夕陽を透かしてひっそりと浮かんでいる。天の両隅に暗い太陽と白い月の同衾した、もの狂おしい夕暮れだった。
 そして、蔵馬がその天に向かって落ちて行った。
 視界が大きく回転する。
 灰を溶かし込んだように暗い視界に煌るい薔薇色が混じった。彼は夕焼けのただ中に立った。残照に輝く水平線の上に、それでもまだまっすぐには立ち切らず、斜めに身体を預けた。海浜に面して立った低い建物の群れが、やはり斜めに視界に飛び込んで来た。
 不安定だ。実際に酔いを感じるようだ。夢を視ながらベッドに横たわる蔵馬が、吐き気に似ためまいをこらえるのが、夢の中の蔵馬にも判った。斜めに小さく立ち並んだ建物の中にピサの斜塔のように大きくかしいで、背の高い建物が建っている。そのシルエットが突然、蔵馬の目の中に強く灼きついた。
 真っ黒に沈んだ建物は長く、丈が高かった。斜めの天に向かって伸び上がりながら、建物が不意に目を開いた。
 一つ目がカッと蔵馬を見た。その目から不意に、見ているこちらの目をつぶすような、まばゆい白い光があふれ出した。視線を動かす度に光はぐるりと回ってまた蔵馬に戻って来る。蔵馬は目を覆った。くすんだ山吹色の世界に馴れた目に、その光はぎらぎらとまぶしかった。
 蔵馬は喉まで出かかった言葉が出てこないことに気づいた。何か、これは符号だ。偶然ではない。明らかに符号だ。
 あるいはこれを思い出せば、妖剣を隠した場所が見つかるのではないかと思った。それは順序だって冷静に考えたことではなく、取りとめのない豪奢な色の思考の断片となって飛び回りながら、彼の中に入り込んで来た。これは符号だ。ようやくそれが言葉になった。言葉にするとその漠然とした抽象的な光景は「念」ではなく「意」になった。
 蔵馬は視線を、一つ目を開いた背の高い建物に返した。
(「……だ」)
 彼の喉を押し上げて来る。キラキラと言葉の断片が。生命への執着の手がかりが、彼を押し破りそうになった。
 瞳は白く輝き続けた。強烈な光で視界を照らした。
 気づけばあたりはほぼ完全に闇に呑まれて、海と地上の区別もままならない程になっている。
(「……だ。あれは」)
 光は長く白い筋となって、暗い海と空を撫でて幾度も回っては、中空に浮いて身体を堅くした妖狐の存在を看破するように、彼に戻って来た。
 白く光のあふれる、あの「目」。
 あの「目」を持つ丈の高い建造物は。
「……灯台だ……」
 その言葉が唇に昇った瞬間、蔵馬は、突然ひらめいた灯りに、眠りから引き戻された。
「トウダイ?」
 薄暗くなりかけた部屋に灯りをつけて、幽助が彼を覗き込んでいた。
 蔵馬は肩をあえがせた。うなされていたようだった。幽助が眉をひそめた。
「調子悪いのか?」
「いや。それほどでも……」
 幽助がまた、という顔になるのを蔵馬は見た。幽助が今の様子を見てそう思うのは無理もなかった。
「いや。夢を見てて。……」
「トウダイって」
「ああ。海辺の灯台の方」
「……灯台がどうかしたのか?」
 幽助は、意識がはっきりしていないのではないかといぶかしむように、蔵馬の顔を眺めた。蔵馬はそれ以上云わず、幽助と微妙に視線を合わせたままで考え込んだ。あの光景は、むろん夢の抽象性に薄化粧されて、形がゆがんでいたが、しかし彼は深い所であの妖剣を埋めた場所を覚えているのかも知れなかった。
 そうだとしたら、深層意識の方にまで分け入って、妖剣を探すことが出来るかも知れなかった。幸い、そういった深い催眠状態に入り易くする効果を持った植物も幾つか知っている。
 ただ問題は、自分に今、それをするだけの力が残っているかどうかだ。自分の意識の深くに潜るというのはそれほど簡単なことではない。妖力も体力も消耗する。
 何より怖ろしいのは、自分自身の心の中に残留して変質したトラウマに攻撃をしかけられることだ。それは、他者の意志に傷つけられるよりも逃れにくく危険が大きい。こころの中に鋭い牙を備えた獣のかたちで眠り、現在の健常な意志に食らいついてこようとするからだ。そういったトラウマに取って、無防備な「現在」ほど美味な餌は存在しない。
 自分自身の心がしかけた攻撃に傷つけば、戻ってこられなくなる可能性もあるのだ。
 妖狐の姿であった頃の自分の所にまで潜って行くとしたら、警戒する必要があるのは、十六年前の「死」の記憶だろう。
 ハンターに追われて、蔵馬は一度肉体の死を経験している。あの時の苦痛がまだ、十六年前の段階にとどまって蠕動している可能性がある。忘れたつもりでいて、どこかに内出血したまま膿み続けている可能性がある。
 蔵馬はため息を付いた。
 しかしそんなことを心配して何になるのだろう。それしか今はすることがないのだ。
 十六年前の事件以外に、蔵馬が自分の中を探ってみるにあたって、それほど足を取られそうな吹きだまりは思いつかなかった。以前よりだいぶ柔らかくなった蔵馬の精神が、以前の自分の毒気にあてられることがないとはいえないにしろ、だ。
「蔵馬!」
 幽助が思いつめた目で彼を呼んだ。茫然としているように見えたらしい。
 実際茫然としても可笑しくはない。過去の記憶の中を自力で探るこの作業を無事クリアしたとしても、妖剣を探すのには更に手間がかかり、見つけたとすれば石を切り取る作業が残っている。蔵馬は、彼には珍しく気が遠くなりそうな気分になった。
「大丈夫。例のナイフをね。埋めた場所を思い出しかけたんだ」
「ホントかよ」
 幽助の表情が明るくなった。彼の方でも気が気ではなかったのだ。微かに胸が痛む。
「どこなんだよ、すぐ行けるようなとこなのか?」
「まだ地名までは詳しく分からないけど。ただ思い出せるかも知れない。自分でも覚えてるとは思わなかった」
「ちゃんと思いだせるのか?」
「それは今からやってみないと」
 蔵馬はしばらく考えた。幽助の力を借りた方がいいのかもしれない。蔵馬は今、相当に衰弱している。運よく記憶を探り当てることが出来ても、そのまま力が尽きてしまうこともあり得ないことではない。
「幽助……君の力を借りたい」
「力? オレが出来ることならするけどよ……お前、妖力使うのか?」
 幽助が伸び上がって蔵馬の額にてのひらを押しつけて来た。
「やっぱり。熱あるじゃんか」
 幽助と離れていたからだ、とは云えない。そうしたら幽助が今度は彼と離れなくなってしまうのは判り切っているからだ。この件が片づくまで後一週間か、十日もあれば充分だ。それを越せば、蔵馬の生命力が持たなくなるからだ。しかし、幽助にその間ずっと一緒に行動させる訳にはいかない。いつ彼にまた霊界からの呼び出しがかかるかもしれない。
 途中で赤蝕が現れるのではないかという懸念もあった。
(逆ならどうだろう)
 蔵馬は判り切っていることだけに苦笑しそうになった。逆の立場なら自分は幽助から離れないだろう。後でどれだけ幽助を怒らせても、おそらく霊界に連絡するに違いない。幽助はそれをしない。幽助の指が額に触れた瞬間、額やこめかみにわだかまっていた不快な熱さがふっと和らぐのが分かった。昨日よりむしろ、効果の表れ方が顕著だった。
 蔵馬は手を伸ばして、幽助が自分の額に触れた手に自分の手を重ねた。物怖じしない幽助の目が、強く光って蔵馬を間近に見すえた。
「何かするなら、はやいとこ済まそうぜ。オレに出来ることって何だ?」
 リミットの設定された彼の生命のことを考えて、幽助が焦っている。
 蔵馬は苦いような甘いような舌触りの、その思いをかみしめた。
「じゃあ、すみませんけど、……このまま、こうしてて下さい。途中で何かあっても騒がないで。手も離さないで」
 蔵馬は左手で幽助の手を握りしめ、右手のてのひらの中に、魔界植物の種を落とし込んだ。
 これは、確か他の妖怪には使ったことがあった。頭の中をむちゃくちゃにかき回して狂わせても、記憶の奥に埋もれてしまったものを引きずりだすには、これが一番いい。
(まさか自分で使うことになろうとはな)
 薄い唇に苦い笑みがかすめた。
「何だ? それ……」
 幽助が低く尋ねた。
 蔵馬は目を細めて笑った。低くささやいた。
「……ワスレナグサ────」

 幽助は、蔵馬のてのひらの上の小さな種を黙って見つめた。その種はかすかに凶々しい気を放っている。普通の植物ではなく魔界植物であるのがはっきりと分かった。
 蔵馬は冗談のように勿忘草だと云った。そんな可憐なものではないのだろう。記憶を操作する力のある植物に違いない。
 彼の手を握りしめた蔵馬の手は熱かった。夕べもそうだったが、無意識に蔵馬の皮膚が冷たいと思っているから、触れた途端、どこかで驚かされる。
 蔵馬の髪が肩から滑り落ちて、その髪がてのひらの種の上にこぼれ落ちた時、突然、種の中から、爆発的な勢いで緑が伸び始めた。
 緑は、発芽のイメージにしては鮮やかな若緑ではなく、うっすりと灰色をおびた、銀砂のような光沢のある多肉食物のそれだった。勿忘草をそれほどまじまじと見たことがある訳ではなかったが、内臓めいた濡れた光り方をする茎は、少なくともこの世界の花壇に咲く、あの可憐な植物とは似てもにつかなかった。
 長細い管のような茎が、種の中から蜘蛛の子を散らすようにして四方に散り、渦を巻いて伸び始めた。蔵馬の髪の房に激しく巻きついて、肩口に這った。
 幽助の胸元にもそれは這い登って来る。
「!」
 その感触に思わず身を引きそうになる。
「動かないで。君には何もしない」
「オレには、って……」
 意思を持って動いているとしか思えないその動きは、植物のものとはとても思えなかった。むろん魔界植物がそういうものだということを幽助も知っている。
 こんな力を使って大丈夫だろうか。
 昨日温室の中の植物をことごとく狂わせた、蔵馬の変調のすさまじさを幽助は目の当たりにしている。今起こっているこれが、蔵馬の計算の範囲におさまった現象なのかどうか、そして蔵馬自身に調節できているものなのかどうか、幽助に判断できるはずはなかった。
 灰緑の茎は長々と伸び、蔵馬の口元に触れた。するりと唇の中に入り込む。
「おい……」
 幽助は声を殺して囁いた。
「……静かにして」
 蔵馬は眉をひそめて唇を開いた。目を閉じる。かすかな銀色に光りながら、「ワスレナグサ」の茎は、蔵馬の唇の中に食いいった。
「っ……」
 蔵馬の喉が鳴った。
 魔界の勿忘草が、蔵馬の唇の奥で彼の舌をからめとるのが見えた。幽助はぎくりとして、思わず手を引きそうになった。何かとてつもなく淫らなものを覗き見たような気分になる。彼は歳にしては経験もあり、潔癖でもなかったが、蔵馬の薄赤い唇の奥の、舌に絡みついた銀色の濡れた茎は、軟体動物めいて倒錯的だった。
 幽助は彼から目を背けようとした。蔵馬の指がぴくりとふるえ、力が抜けかけた。
(手も離さないで下さい)
 蔵馬の言葉がよみがえった。彼は唇を噛んで、今度は自分自身の指に力を入れ、蔵馬の手を逆に絡めるように握り直した。
 蔵馬は夕べ、幽助に触れていると楽だと云った。現に吐き気も止まり始めたと云って、彼自身も不思議そうに微笑した。
 全く性質の違う力を糧に動く蔵馬と自分の間に、なぜそんなことが起こり得るのか、その理屈は分からない。
 あるいは幻海あたりに聞けば、何が作用してそんなことになっているのかが分かるのかも知れない。幽助は早くそれをすることを思いつかなかったことを悔いた。今はそれが全く見えないために、どこか胃の奥に不安を抱える羽目になっている。
 幽助は自分の中の不安を握り潰すような気分で、蔵馬の手を握る力を強めた。とにかく、手を離さないようにと云ったのは、自分の霊気に蔵馬の苦痛をいやす効果が多少なりともあるからなのだ。自分にはどうせそれ以上のことは分からないし、云われた通りにするしかない。
 蔵馬の唇に一筋入り込んだ茎は、蔵馬の腕や髪をいましめながら揺れている。また一筋、二筋が唇の中に入り込んだ。
 蔵馬が喉の奥で声を詰まらせた。苦痛があるようだった。背中がひきつれた。
 目を背けたかったが、目を背けることはどうしても出来なかった。唇をかみしめる。強くかみしめ過ぎて一カ所唇が切れた。血の味が口の中に広がった。
 蔵馬が普通の人間でないことは分かっている。それでも、苦痛のしるしが目の前にあらわれれば、蔵馬に対する思い入れの分、幽助自身も苦しい。
 幽助の手の中に握り込まれた蔵馬の手がかすかに汗ばむのが分かった。
「……ゥッ……」
 蔵馬の、閉じられない唇から低い呷きが漏れた。
 呼気が乱れて蔵馬は身体を折り曲げた。
「蔵馬……!」
 幽助は、何が起こっているのか分からない焦りと、蔵馬の、正体の分からない苦痛の気配に、恐慌状態におちいりそうになった。待つしかないようなこういった時間は、彼の最も苦手とするとことだった。幽助は、体当たりして何とかなるなら全てをそれで済ませたいのだ。
「蔵馬」
 蔵馬の唇の端から細い、赤いものが糸を引いた。
 胸が凍るように冷たくなった。
 幽助の腕の中にもたれかかって来るように、蔵馬は倒れ込んだ。勿忘草の茎に侵された唇からこぼれ落ちたものは、間違いなく血だった。
「蔵馬!」
 幽助は腕の中の蔵馬を抱きしめて呼びかけた。意識を失っているようで蔵馬は答えなかった。やわらかに力を失った熱いからだがもたれかかってくる。薄く開いた唇の間から、灰緑の茎がこぼれ落ちている。これが蔵馬がしたことでなかったら今すぐに引き抜いてしまいたかった。だがそんなことをしたらかえって悪い結果になるのかもしれない。
 いや、十中八九そうなのだ。
 幽助は死に物狂いでその衝動を押しとどめた。蔵馬の血を指先でぬぐい取る。睫が震えた。
「お前が今失敗してねーって、どうやったらオレに分かんだよっ……」
 幽助は歯ぎしりした。
「……くそッ…………」
 蔵馬の唇から流れ落ちた血の筋に、勿忘草の茎が触れた途端、茎に変化が起こった。
 蔵馬と知り合ってから、幽助は何度となく、植物の異変の形をその目で見ていた。茎が突然伸び始めたり、突然花が咲いたりすることもあった。暗黒武術会で鴉と闘った時は、妖狐の姿の蔵馬が操る、牙の生えた魔界のオジギソウの姿も見ていた。
 これはその例に漏れず、しかし幽助の今まで見た中で最も気味の悪いものになった。魔界のオジギソウは猛々しく、グロテスクで気味が悪い事に変わりはなかったが、あれはむしろ大きさも形も動きも、あまりに植物離れして、武器としての印象ばかりが強かった。
 この気味の悪さはむしろ、手をこまねいて見ているしかない幽助の後味の悪さをうつしてのものなのかも知れない。
 銀色をおびた何百条もの茎は、長くぬめりながら壁に、天井に這った。それは蔓性の草やツタなどが壁に取りつくのと違って、もっと軟体生物のようなうねりを伴って、ゆるやかに揺れ動きながら細かく蠕動していた。
 その柔らかい茎に、小指の爪ほどの大きさの銀紫の花がびっしりと咲き始めたのだ。
 部屋が一つの巨大な内臓であるとしたら、そこに神経のように密に張りめぐらされた植物の茎は、絡み合いながら微妙に混じり、たけぶようにそろそろと伸び続けた。それは例えるなら、健康な神経組織を癌細胞が侵す様子を一斉に映像に映し出したような光景だった。
 花は、確かに人間界で見かけるものと似ていた。四片の小さな花びらは、その形と色だけを見るなら、勿忘草という名前から連想する可憐さを全く持ち合わせていない訳ではなかった。
 だが、うねりながら部屋中を這い回るその茎の上に、くまなく水銀の粒をぶちまけたように咲く花は、あのオジギソウとは別の意味で、すでに植物のイメージを通り越していた。
 幽助のうなじが粟立った。
 彼は身体を堅くして、自分の腕の中で意識を失った蔵馬の左手を握りしめた。一瞬でも離したら、蔵馬を持って行かれそうだった。
 すぐに部屋の中は、一面に凍ったような銀色をおびたもので覆われた。
 薄紫の花をびっしりとつけた蔓が絶えずざわめき続ける光景を見ている内に、生理的嫌悪感が沸き起こって来る。
 途中で何かあっても騒ぐなと蔵馬に云われていなければ、とっくにこの部屋から蔵馬を連れ出すか、気味の悪さに、衝動に任せて霊丸の一発も打ち込んでしまったかも知れない。
 魔界植物の種を握った蔵馬の腕は、もうすでに一面魔界植物のしなやかな茎に覆いつくされて見えなくなっている。
 蔵馬が少しでも楽なように幽助は彼の身体を抱え直した。
 蔵馬の口元に耳を近づける。
 ほんのかすかに呼吸は通っていた。唇から入り込んだ茎も、花をつけてふるえ続けている。
 しばらくして、死んだように静かだった蔵馬のまぶたが開きそうにふるえた。
(……?)
 唇が苦しげに開く。
「……ア、……」
 眉がきつく寄せられ、堪え兼ねたように声が漏れた。
「……ュ……」
 一瞬、名前を呼ばれたような気がして幽助は彼にかがみ込んだ。耳を澄ませたが、今度はもう、呼吸さえほとんど聞き取れなかった。
 不意に、蔵馬の腕を何十にも巻いた銀色のつたが、大きくひきつれて身体を引きずった。幽助の身体にもたれかかっていた蔵馬の上身は、天井にまで這い上がった長い銀色の花茎が垂れ下がる只中を、蜘蛛の巣にかかった蝶のように吊られる形になった。
 幽助は、こぶしを握りしめた。
 破壊的な衝動が彼を苦しめていた。長い事このまま我慢出来るかどうか分からなかった。
 不自然な格好で吊られて、蔵馬は幾度か痙攣するように身体をこわばらせた。痛みがあるようで、細い眉をひそめてふるえた。
 こんな蔵馬を、傍らで黙ったままでずっと見ていなければならない事を考えると、気が変になりそうだった。
 今まで蔵馬を抱えて座り込んでいた幽助は、蔵馬の体が宙につられてゆくのに引きずられるようにして立ち上がった。部屋の中に花の網にかかって浮かんだ蔵馬の、力なく垂れた左手を、それでも離さないように握りしめる。
(何が起こってんだよ……)
 幽助は魔界植物に取り巻かれた蔵馬の顔を見つめる。再び蔵馬のまつげがふるえた。神経的に疲れきった幽助は、血のにじむ唇をかみしめてその目もとを凝視した。
 しばらくして蔵馬は目を開いた。
 蔵馬がまぶたを開いたのはこれが始まってから初めてだった。
 その瞳の色を見た時、幽助は声をのみ込んだ。蔵馬の瞳の色が違っていた。光を蜂蜜のように透かした鮮やかな金色だった。
「!」
 これは妖狐の瞳の色だ。
 これ以上は耐えられないぎりぎりまで引き伸ばされた神経を、その瞳の金色が刺激した。もう一瞬でもこの緊張にさらされれば、目の前の魔界植物の花茎を片端から引きちぎってしまう、と幽助は思った。喉に、みぞおちにせり上がって来るものがあった。
 その時、暗示的に開かれた蔵馬の金色の視線と幽助の視線が絡んだ。
 瞬間、視界が強くスパークした。

 蔵馬は、足許に砂の感触を感じた。
 ひどく疲れていた。どんどん落ち込むようにして過去をさかのぼる。それはトキタダレの抽出液のもたらす、酩酊感を伴った楽な遡及とはまるで違った。
 落下する感触に、無意識に周囲にすがろうとする指を、強い力で引きはがされるような。そう思った瞬間、爪の剥がれるような痛みが実際に指先に巻き起こった。
 まっすぐに足から落ちて行く。皮膚が時間の壁にこすれて、摩擦の熱で灼かれるような痛みを味わった。
 ワスレナグサによる過去の遡及にはかなりの苦痛を伴う事は知っていたが、ここまで不快だとは思わなかった。
 彼が懸念した通り、その落下さえそれほどスムーズなものではなかった。
 数分間落ち続けた。途中、壁が狭くなって来た、と思った時、突然彼の身体はあさましく咀嚼を繰り返す巨大な唇に飲み込まれた。唇は人間の唇の形をしており、渇いてひびわれ、筋に添って渇いた血をこびりつかせていた。
 これがおそらく、ハンターに追われた十六年前の壁だ。反射的に上に逃れようとした。唇の中に生え揃っているのは妖怪の備える鋭利な牙ではなかった。この歯の形は人間のものだ。
 鋭い歯を持たない人間は咀嚼する時、噛み裂くのではなく歯ですりつぶすようにして食物を砕くのだ。
 一抱えもありそうな歯が、蔵馬の身体をはさみ込もうと激しくぶつかりあった。
 ここではさまれるとまずい事になるのは分かった。
 意識が傷つけられる事がどの程度、実際の肉体に影響があるのかは分からなかったが、しかし顕在する意識まで浮上出来ないことにもなりかねない。
 上には逃れられない。
 蔵馬は身体を縮めて、巨大な口腔の奥の喉に滑り込んだ。
 喉は異物を吐き出そうとして蠕動する。その動きを押し分けるようにして、暗く赤い空洞の中に入り込む。その構造はおそるべきリアルさで蔵馬をつつみ、吐き出そうとえずいた。気の遠くなりそうな不快感があった。
 その喉の奥に完全にもぐり込んだ時、ふと身体が軽くなった。
 再び落下が始まった。今度は周りに壁がなく、大気の中を楽にゆっくりと落ちた。それは夢の中で灯台の上空に落ちた時と似ていた。
 ここだ。
 おそらく間違いない。
 ここだ。
 どうやって抜け出せばいいのか分からなかった。
 蔵馬はあの残照を思い浮かべた。斜めにそびえた塔の白い目を思い浮かべた。
 自分を現実に引き戻す、確実なものを思い浮かべようとした。
 南野の母か、もしくは幽助……。
 幽助だ。
 幽助の黒く透き通った美しい目を思い浮かべる。あの猫のような瞳に宿したかすかな抑圧やユーモア、しなやかな子供のかたちでありながら大人びた欲望の光。幽助の映像をこころの中の瞳で辿っていると、過去の壁の狭窄が蔵馬を不意に解放するのが分かった。
 ぐるりと視界が周り、夢の中とそっくり同じように、しかし、もっと具象的な形で、彼は波打ちぎわに立った。素足の下で波と砂が崩れた。夜だ。頂度満潮時に違いない。ひたひたと優しく冷たい波が触れて来る。
 海辺だった。
 座り込んでしまいそうな安堵があった。ここだ。思いだした。
 白いライトが、海を遠く照らしながら大きく回り続けている。
 この灯台のふもとの浜辺に、自分はあの妖剣を埋めたのだ。

 蔵馬は、あたりを見回した。砂を踏んだと思ったのはつかのまで、足許の感触はすぐに岩盤のものに変わる。夜目にも、ごつごつと隆起した茶色の岩盤であたりが覆われているのが見えた。向こうの岬は整備されて船着き場になっているが、彼が踏みしめた足許は、波に削られ、貝殻の化粧をほどこされて険しい形に盛り上がっている。
 彼はむさぼるようにその光景を記憶に刻み込んだ。
 妖狐の視点を追いながらも、人間界を知らなかった妖狐蔵馬と違って、今の彼にはその知識がある。うまく行けばこの灯台がどこの灯台なのかが分かるかも知れない。
 今の意識を、このさかのぼった時間の中で保っておけたことにほっとする。意識までが過去の妖狐の中にのみこまれるようでは、苦労して記憶の中をさかのぼった甲斐がない。
 絶えず意識を保つ事に神経をとがらせていなければならなかった。
 彼は半ば自嘲的な気分で視線を落とした。
「幽助…………」
 低く呟く。魔界植物の力を借りて自分の中に下りていった彼を、今も傍らで待っているだろう幽助は、今の蔵馬にとっては強心剤のようなものだった。
 祈りの言葉を呟くなら、今一番ふさわしいのは彼の名だろう。
 夢の中では、夕焼けに近い残照の海だったが、あれはやはり現時点での夢にまじって、変形してしまっていたようだった。夜は黒々と深く、海も浜辺も暗かった。
 灯台。
 彼は自分の腕をかかげた。過去の自分がした以上の事をする訳には行かない。過去の蔵馬が灯台の側を離れていないなら、彼が街に出て見ることは出来なかった。
 それが出来ればここがどこなのかすぐに分かるだろうに。もどかしい思いで、地形をくまなく覚え込もうとあたりを見回す。せめて昼ならば良かった。
 白い灯台は三十メートル近い高さだ。周りを白い壁に囲われている。水際からは思ったよりも遠かった。夢の中では、海辺にすぐ立っているようなイメージがあったが、灯台は海辺から二百メートル近く行った所にあった。
 岩を踏みしめる。ゆっくりと灯台に近付く。髪がなびいた。それは何回も味わった二重映像に似た感覚だった。その髪は、今は自分のものではない長い銀色の髪だ。腕も身体もまるで違う、魔物の姿の自分である。
 彼は灯台に向かって歩いた。途中から細い道になっている。木立の中に分け入るようにして灯台はあった。
 その途中、少し離れた岬の端に白い碑があるのが見えた。身体を返してその碑の方へ行く。碑の文字を読み取れれば、もうここがどこなのか分かる。
 蔵馬がその碑の前に回り込もうとした時、突然、意識が強く引きずられるのを感じた。「ワスレナグサ」の効力が薄れて来たのだろうか。
 もう少しだ。
 もう少しでここがどこなのかはっきりする。
 碑の文字を読み取ろうとした時、もうすでに蔵馬の身体から意識は抜け出し始めた。下りて行くのはあれほど苦心したというのに、戻ってしまうのはあっという間だった。体を上に烈しく引きずられる事への酔いと不快感があり、突然高地に放り出されたように肺がふくれ、喉がつまった。
 彼は目を開いた。
 全身にしびれるような感触があった。巻きついた魔界植物に拘束された自分の身体と、幽助の青ざめた顔がそこにあった。
「南端」という、最後に見た文字だけが記憶の視界の隅に残った。

 南端の岬にある灯台。
 灯りと「ワスレナグサ」に満たされた幽助の部屋で、蔵馬はほっと息を吐き出した。少なくとも手がかりだけは得られた。地形も頭に刻み込んだ。
 彼は疲労して鉛のように重い左腕を上げて、自分の喉に入り込んだ「ワスレナグサ」の茎を、そっと引き抜いた。鋭い痛みが走る。
 この「ワスレナグサ」は、自分の血肉を与えなければ、正確な過去を辿る力が弱い。仕方なく取った方法だった。
 抜いた細い枝には蔵馬の血がかすかについていた。
 幽助の部屋中が、魔界植物の花茎で銀色にぬれぬれと光っている。
「部屋、荒らしちゃったね。……ごめん……」
 彼は自分の血が胃の奥に流れ込んで行くのを感じながら、茫然と立った幽助を見あげた。仕方がないことだったが、声はひどくしゃがれていた。
「馬鹿野郎…………」
 幽助は、銀色の光沢をおびた花びらが散った中に、疲れ切ったように座り込んだ。
「荒らしちゃったね、じゃねぇよ……」
 彼は膝に顔を埋めた。
「……死んじまうかと思ったじゃねーか。……」
「幽助……」
 思わず呼びかけた蔵馬は喉の痛みに眉をひそめた。どうやら手ひどくやってしまったらしい。いつもなら半日もあれば治る程度の傷に思われたが、今の体調ではどのくらいの時間が必要か分からなかった。
 半ば引きずられるように絡みついている魔界植物を、彼はゆっくりと自分の腕や肩口からはずし始めた。幽助が顔を上げた。泣いているのではないかと一瞬ひやっとしたが、幽助の顔は案外に静かだった。
「やってやる」
 幽助は蔵馬が上げようとした腕を押しとどめた。
 触れた幽助の手がひどく冷えきっているのに蔵馬は気づいた。どれだけ彼が緊張していたのかが分かる。あの魔界植物を使うと、呼吸数も少なくなるし、ともすれば死んでいるようにも見える。おそらく気が気ではなかったのだろう。冷たい指が意外なほど器用に、彼の身体から魔界植物を引きはがす。
 幽助に、この一件に関する限り、あくまで待つばかりの受け身の立場を取らせていることに蔵馬は彼は気づいた。
 幽助の気質を考えれば、彼に待つ事を強要するのは済まないと思う。しばらく前の赤蝕との再会から始まって、一連の事件は、幽助の中でも鬱屈しているに違いない。正体の分からないものを前に、じっと息をひそめて待つのは彼の流儀ではなかった。
 いつもなら、それはむしろ蔵馬のやり方だ。
 しかしこの件に関して蔵馬は受け身でいる訳には行かない。
 何をどうはめ込めばいいのか分からないパズルピースを手に、手探るようにして形を作っていかなければならない。
 思わず彼に差し伸べた手はふるえを含んでいる。冷えきった幽助の手と対照的に熱い。幽助の身体を冷たいと思ったのは初めてだった。
 熱い。それが幼い印象につながるほど熱い幽助。
 蔵馬は彼の両肩をとらえて抱きしめた。腕に強い力は入らなかったが、胸元に抱え寄せた幽助に、また判断しがたい強い感情が込み上げて来た。
 彼の中には二通りの価値基準が存在するのだ。
 人間でない自分が表面に出て来る事が多い。だから気づかずにいる事もおそらく多くなるのは仕方がない事だ。
 彼の、幽助に対する感情はもう、好意を通り越して執着に近い。
 気づけるうちにこの執着に気づいてよかった。
 突然自分を抱きしめた蔵馬に戸惑ったように幽助はじっと黙っていたが、途中、我慢出来ないように彼を見上げた。
「で、どうなんだよ。何か分かったのか?」
 それでもまだ、幽助を巻き込みたくないと云う感情に変わりはない。しかし、今幽助に本当の事を話さないわけにはいかなかった。
「灯台……」
 彼はようやく口を開いた。
「……さっきもそんなこと云ってたな」
「そう。どこかの、たぶん半島の最南端の灯台。……その灯台の近くに埋めたみたいだ。それは確かです。後は、あれがどこの灯台か調べれば……」
「灯台って云ってもな。たぶんかなりあるんじゃねェの?」
「そこはまあ、地形を説明するなり何なり。……あれだけはっきり分かってれば、そんなに難しくないですよ」
 蔵馬は、ゆっくりとベッドの上から降りた。肩や髪から散った薄紫の花びらがこぼれ落ちるのをてのひらで払った。
「うまく行けば、明日にでも探しに行ける」
 幽助はふと不機嫌そうに眉を寄せた。彼は、蔵馬の横を通り過ぎてダイニングの方に入って行った。少しして、手に大きなビニール袋を何枚か抱えて戻って来た。
「これ捨ててもいいんだろ」
「あ、……かまわないけど……」
 幽助は眉をひそめたまま、片端から「ワスレナグサ」を引きはがして、ビニール袋に詰め込み始めた。
「オレが」
 と、云いかけると、険悪な眉で蔵馬をにらみつけた。
「黙って座ってろよ。病人のくせに」
「病人って」
 反論しかけて、反論しても意味がない事に気づいて、蔵馬は仕方なくため息をついた。幽助が最初に草を取り払ったベッドの上に座り直した。眩暈も発熱も、さっきよりひどくなっている。魔界植物を呼びだしたせいで体力を消耗したようだ。
 全部始末すると、たっぷりビニール袋三杯分になった。幽助が腹を立てている事に蔵馬は気づいていた。いつもよりずっと口数が少なかったし、蔵馬の方を見ようとしなかった。
 何か触れたくないものに触れるような手つきで、幽助はそれを玄関口の方に行って放りだした。帰って来て窓を開け放つ。微妙に不快な甘さのこもった部屋の中に、冷たい空気が流れ込んで来る。
 蔵馬は、幽助が動き回るのを黙って目で追っていた。
「なあ、灯台って」
 幽助は何かを飲み込んだように振り返った。今はさほど不機嫌な表情ではなかった。
「え?」
「や、オレが行った事ある海で、漁船が行方不明になるって話。……あそこも灯台があったなって」
 幽助は困惑したように額を擦った。
「漁船が行方不明に? 沈むんじゃなくて?」
「プレート一つ浮かんで来ないんだってさ。ここ何十年かで、十隻以上どうなったか分かんなくなったらしいぜ」
「それ、どこの海?」
「それが分かんねーんだよな。もう三年っくらい前だし、千葉のどっかなんだけど……オフクロの友達と行ったんだけどよ」
「その漁船の話は誰から聞いたの?」
「浜にいたおっさんから」
 幽助は考え込んだ。
「オフクロがいれば分かるんだけど、あいつ、いつ帰って来るかも云ってねえし……」
「でも、千葉のどこかなんでしょう? もしほんとに同じ場所だとしたら、ずいぶんしぼり易くなる」
「うーん。……」
 幽助はちらりと時計を眺めた。午後八時近い。
「店に入ってっかな。……」
「……?」
「オレを海に連れてってくれた奴の店。おミズなんだよ」
「ああ。すみません……」
 蔵馬がそう云うと、幽助はまた一瞬、不機嫌そうに眉をしかめた。黙って立ち上がって向こうに出て行った。蔵馬はわずかに迷ったが立ち上がった。どうやら電話をかけに行ったらしい幽助の後について、廊下に抜けた。
 電話帳をめくっている幽助から少し離れた壁に、蔵馬は黙って寄りかかった。彼の横顔を眺める。蔵馬の視線に気づいて、幽助は少し居心地が悪そうに肩をすくめた。すぐに店の番号は見つかったようだった。
「もしもし、ミキ? オレ」
 蔵馬は内心おかしいような妙な気分になった。オレ、で通じるのか。幽助の家庭環境が環境だから世慣れるのは当たり前かも知れなかったが、道理ですれているはずだ。
「前、ユタカと海行ったじゃん、あれってどこ? ……去年じゃねーよ、オレが小六の時」
 幽助がリラックスして喋っているのが分かった。温子の友人なら、幽助より一回り以上歳上でもおかしくなかったが、しかし幽助がそんな事を気にしていないのが良く分かる。幽助の価値観もどこか独特だ。自分にこれだけ無防備に接して来る所からも分かる。
「中三だよ。……上がったよ、バーカ。実力だ実力」
 幽助は笑いながら、しかし苛々したように促した。
「三年前、千葉かどっか行っただろ。……あれどこだ?」
 一瞬黙る。
 電話台の脇に置いてあったボールペンで、自分のてのひらに書きつける。
「シラハマ? ノジマザキってどこだよ」
 幽助はてのひらに何か書いていたが、二言三言喋ったあと勢いよく電話を切った。
「内房だ、南房総。観光地だからガイドに写真載ってるってよ。今ちょっと、本屋行って買って来てやる」
「観光地?」
 蔵馬は首をかしげた。
「……そんな感じじゃなかったけど……」
「とにかく見てみりゃいいだろ」
「じゃあ、オレも行きます」
 幽助はふと黙った。
「お前の云い方が丁寧な時って、頭回ってる時なんだよな」
 蔵馬はひやりとして幽助を見た。自分が何とか幽助をこの件から引き離そうと考えている事を見抜かれた気分になったのだ。
「ま、いいけどよ。起きれるんなら行こうぜ」
 幽助はちらりと確信犯めいた視線を蔵馬に投げた。着替えながら蔵馬は自分の中の衝動について考えた。決して自分の判断力は今、まともに働いてなどいない。
 ここまでかたくなである事はマイナスでしかない。必要のない意地を張っているのだと認めざるを得なかった。そうした感情で動いた経験がなかったせいで、それは受け入れがたい事実のように思われた。
 幽助への執着がそうさせているのかも知れなかった。
 生命の危険を目の前にして、そんな事にこだわっている自分が信じられなかった。自分が変化しているのが、狐聾石のせいなのか、自分自身が単に変わりはじめているのか、それはもう今となってははかりようがない事だった。
 幽助を失いたくない。
 頭の中でそう思ってみて、蔵馬は閉口したように唇をかみしめた。
 自分が、もう助からないのではないかと思っている事に気づいたのだ。
 もう駄目かもしれない。
 なら、自分が命を落とす前に、自分の事件に彼を巻き込んで彼の生命を脅かすようなことにしたくない。幽助からすれば余計なお世話というところだろう。しかしそれに準ずる芽を、すっかり摘み取ってしまいたがっているのだ。
 幽助を失いたくないという感情がそこまで強烈だった事に驚かされる。
 これは蔵馬の性分だ。魅かれる対象があった時、それを守る代償として命を投げ出すことを迷わない、人間の肉体を持っているからこそ付加された彼の性質だ。
 この十六年間で、彼は完全に人間としての性質を兼ね備えたのだ。
 幽助と話す時、返す言葉に詰まることは多い。
 うまく答えることと誠実であることは違うからだ。
 自然、彼との会話には沈黙で答えることが多い。答えのはっきり用意されていないものならば尚更だ。
 だがこの場合は何か返す必要を感じなかった。自分への彼の感情を損なわないようにするよりは、幽助自身に害を加えたくないという感情は、消えた訳ではなかったからだ。

 街は落ち着かない埃っぽさを含んでざわめいている。桜が咲かなかった春を、もうすっかり忘れ去ってしまったようだ。
 やはりこの春はおかしい。蔵馬は空を見上げた。夜になると、人間の目には見えないものが空気中を満たしているのが分かった。いくら弱っていても隠れようのない気配だった。狐聾石の件で動けなかったが、万が一無事に石を取り除くことが出来たら、桜の咲かなかった四つの市に、何か共通点がないか探ってみよう。
 黙って歩いているが、きっと幽助も妙な気配を感じているだろう。
 幽助のマンションの近所の書店に入る。
「ここで待ってるから、オレ」
 幽助はそう云って店の前で立ち止まった。幽助が元いたあたりとはすこし離れていたが、やはりこの近所の店では彼はどうやら心証が悪いらしい。
 店内の旅行ガイドの棚に手を伸ばした。房総と水郷のガイドを抜き出す。
 白浜。野島崎。何ページもめくらない内に白浜町の岬の写真があった。かなりの上空から取ったらしい青っぽい写真だ。蔵馬は凍りつくようにその写真を見下ろした。
 衝撃があった。
 ガイドを握る手がわずかにふるえた。
 笑いが込み上げて来る。
 これだ。
 白浜の、野島崎灯台だったのだ。
 幽助の言葉を聞いた時も、その灯台と同じものだとはまさか思わなかったために、特別な感慨はなかった。信じられない思いで、彼は青くかすむ半島の先端に、小さく白く浮かび上がった岬の灯台を眺めた。あの碑はつまり、この岬が房総の最南端であるという碑だったのだろう。
 その偶然の符合は運命的でさえあった。幽助が幸運の神のように思える。
 周りに、あの時はおそらくなかっただろう建物が立ち並び、整理されてだいぶ様変わりしてはいたが、しかし、間違いなく妖狐蔵馬がひずみを抜けて降り立った、あの岩盤の岬だった。
 彼はそのガイドを買って店の外に出た。
 幽助は、ポケットに手をつっこんで、所在なげに煙草をふかしていた。蔵馬が出てきた事に気づいてはっとしたように振り返った。
「違ったか?」
 蔵馬は書店の紙袋からガイドを抜き出して幽助に、「房総」の文字を見せた。
「そこだったんだ。白浜だったよ」
「……え、ホントかよ」
 幽助自身も期待はしていなかったのだろう。信じられないように彼は口元から煙草を取り落とした。火のついたままの煙草をつま先でにじって消すと、ガイドを覗き込む。
「それホントなんだろうな」
「どうして?」
「だってな……」
 幽助は気が抜けたように息を吐きだした。
「もし見つかっても、オレにはたぶん云わねーって思ってたからさ」
「黙って一人で行くって?」
「……そうしそうじゃんか、お前」
「そうだね」
 蔵馬は笑った。作った笑いではなかった。
「…………でも云ったよ」
 意味を持たせるように低く、おだやかに蔵馬は云った。
 運命的にさえ思える偶然の符合。しかしこれは偶然なのだろうか。それでも自分だけが傷ついて済ませたいというのは我が儘だろうか。
 偶然にしろ、偶然でないにしろ。
 幽助は彼の顔をじっと眺め、不意に目を細めて蔵馬に笑い返した。彼の中で苛々とわだかまっていたものが霧散するのが見える。
 蔵馬が彼を受け入れたのが分かったようだ。
 仕方がなかった。
 もうこれは蔵馬一人の出来事ではなくなっていたのだ。

「今日は帰んなくていいのか?」
 玄関先で幽助が振り向いた。
 蔵馬は一瞬返事に詰まった。本当は南野の母に、少しの間家を空けるということも連絡しなければならないし、今夜は帰った方がいい。今日はもう、房総に行くには時間的に間に合わない。
「たぶん帰るよ」
「帰って平気なのか?」
「……」
 本当は分からないところだ。ここ二日幽助と一緒にいたことで大分楽ではあったが、全く離れてしまったらどんな風になるのか。一昨日よりも彼が弱っているのは確かだった。
「明日行くのか?」
「ああ」
「まさか、オレを置いてく気じゃねえだろ?」
 幽助は額を軽くてのひらでこすった。首縊島の木立の真中で、幽助が笑いながら同じ仕草をしていたのを不意に思いだした。もうあれから何年もたってしまったような気がする。
「……力を貸してくれると有り難いな」
 蔵馬は目を伏せて答えた。一人で出かけていっても、おそらくもう間に合わない。房総まで一人で行ければマシな方である。
「そんな事云って一人で行く気じゃねェだろうな」
 幽助は、ドアの前で立ち止まった蔵馬に念を押した。ドアの内側に片手をつく。
「行かない」
「絶対だな?」
「……行けないよ」
 幽助はその答えにはっとしたようだった。後悔したように首を振った。
「悪ぃ。……」
 蔵馬の両側に自分の手をついて、幽助は考えがまとまらないように首を垂れた。
「じゃあ、そろそろ行きます」
 蔵馬が云ったが、幽助は彼をドアに押しつけるような形で囲い込んで動かなかった。
「やっぱり帰んな」
「幽助」
「オレといた方がいいんだろ? 帰るなよ、蔵馬」
 幽助は、蔵馬をすくいこんだ手を伸ばして蔵馬の手を握りしめた。眩暈のするような感覚がほんの一瞬あったかと思うと、幽助の手からあたたかいものが流れ込んで来るのが分かった。蔵馬は息を吐きだして笑った。
「確かにキミといた方が楽なんだけど、とりあえず今日は……」
 それを幽助が荒っぽくさえぎった。
「こんな熱あるくせに。誰だって気がつくぜ、これじゃ…………な、帰るなよ」
 幽助の唇が柔らかく重なって来る。抑えた仕草に彼の不安が見える。
 自分ではもう、発熱にある意味では馴れ始めて、もうそれほど感じなくなっている。つらいにはつらいのだが、もう自覚が薄れかけていた所だった。
 幽助の唇はやはり冷たい。
「そうだね…………」
 蔵馬は大人しく頷いた。思う所はある。母に自分の生活のエキセントリックな部分を気づかれないようにするのも楽ではない。今日だけのことではきっと済まないだろう。
 母に連絡を入れた蔵馬は、まだ所どころに銀色がかった花びらを残す幽助の部屋に入った。
「ちょっと手を貸してくれる?」
 蔵馬は幽助の差し出した手を軽く握りしめて、それに額を押しつけた。冷たい皮膚の感触が心地よかった。もやもやと不快な痛みを宿していたこめかみから痛みが薄れる。
 ベッドに座った蔵馬の顎を上向かせて、幽助はただ頬を触れ合わせるように身を近寄せて彼を抱き寄せた。
 軽く唇が触れる。
 柔らかい舌がすべり込んできた。その唇の触れる感じから、幽助が意識的に彼に霊力をそそいでいるのが分かった。絡んだ舌から熱に似た感触がぱっと散って、そこから様々な痛みが少しずつやわらいでゆく。人間である南野秀一の身体が反応しているのだろう。
 蔵馬は目を閉じて幽助に任せた。眠りそうな心地よさが彼の関節をあたたかくゆるめた。
 幽助の腕がやんわりと抱きしめて来る。彼の少し荒っぽい強引な腕を覚えているだけに、その静かさがむしろ蔵馬には、痛ましく思えた。
 彼に気づかわせているのは不本意だ。
 抱きしめ返す。唇が首筋に落ちた。幽助は彼の脈の中に自分の脈を送り込むようにして口づけた。ほんの軽く歯を立てる。そこから甘い感触がつき抜けて、蔵馬の腕に力がこもった。
「ン…………」
 喉の奥で声を詰まらせた蔵馬に、幽助は我に返ったように顔を上げた。
「……あ……悪い、つい。……盛り上がっちゃってよ」
「幽助」
 蔵馬は幽助を抱きしめた腕をほどかず、彼の目を覗き込んだ。
「オレも……」
 幽助の目がまばたきもせずに彼を見返す。初めて会った時から魅かれた。強く光る、なめらかに黒い、しかし煌るく輝く目だ。
「……オレは」
 笑う幽助の耳元に唇を寄せて蔵馬はささやいた。冗談めかした声に紛らわせてはいるが、それは本気だった。
「全部好きだ」
 幽助は当惑したようにかすかに身じろいだ。
「キミがどんな風でも、全部。……幽助、全部好きだ」
 まるで宣告するようだ。そう考えるとおかしくなった。低く笑う蔵馬を幽助がどうしていいのか分からないような顔で抱きしめた。髪を荒れたてのひらがたどる。
「……もう駄目だとか思って云ってんじゃねーよな?」
 幽助は、彼の肩に頬を寄せた。
 この癖も彼の執着の対象だ。そんな事にすら気づかなかったが、自分の胸に顔を埋める幽助を見ているうちに、その甘さの中にひそんだものを拾いだす。
「違うよ」
 不安そうな幽助など滅多に見られない。蔵馬はそっとその指を握りしめた。
 夜が明ける。
 蔵馬は何かの力を用いて幻視したように、浅い夢の中で、鮮やかに明け方の灯台を見た。
 絡めた指をそのままに、意識だけが飛び去るような感覚があった。
 飛びながら尚、指はあたたかかった。
 二人分の指の熱は、見通しの立ちゆかない明日や今の痛みや、昨日への危惧を、すべからく押し伏せるあたたかさだった。


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