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S01_09_月の水銀

03 01 *2013 | Category 二次::幽遊・幽×蔵他(蔵馬中心)

クリスマスの。

続き





 東京は午後から突然冷え込んだ。雪にでもなりそうな気配だった。寒さの苦手な狐は、ため息をついてカーテンを引いた。夏でも長袖でぴったりと袖を覆っているのはスタイルからではなく、寒さに弱い体質からだ。
 この秋、会社から近い格安のマンションを借りて、妖狐はつつましく会社勤めにいそしんでいる。ひとり暮しを始めて数か月、今年の寒さは特に身にこたえた。今まで一戸建ての家に暮らしていたせいで、雨戸のないマンションの寒さをよく判っていなかったのだ。
 カーテンを閉め切った途端、頬がぴりぴりするような、しかし明らかに敵意のない妖気が、閉めた窓の向こうから吹きつけてきた。妖気のイメージは頬を熱く包んでくるような金色で、こういうかたちの来訪は珍しい相手だった。ここに来るのは二回目だが、来るとしても、よほどのことがなければ玄関から来るはずだ。蔵馬はカーテンを開けた。ささやかなベランダのフェンスに、妖気の持ち主が飛び乗ってきた。部屋は五階だ。
 蔵馬は窓を開け放った。どうやら客は怪我をしているらしい。血の匂いがする。
「幽助」
 寒風の中を飛び込んできた細身の若い妖怪は、前髪が目に入ったようで首を振った。
「よ、久しぶり」
「先月会いましたよ」
「そ、だっけ?」
 幽助はベランダの床に下りてきて顔をしかめた。
「い、て………………」
「早く入って下さい。どうしたんですか、いったい」
 この寒い中をかろうじて長袖のTシャツ一枚で、しかも、左側の胸一面が真っ赤に染まっている。Tシャツの色が緑色だから悪趣味な効果を上げている。
「血気盛んな奴がいてよー。参ったぜ、小せェくせに噛みついて来やがって。……これが結構いてーのよ」
 冷えきった幽助は、Tシャツを脱ぎながら鼻の頭を赤くして説明した。彼の商売はラーメン屋も探偵業もそこそこ繁盛していて、妖怪何でも屋の方は特に、ひとつきに五、六件の依頼があって、幽助の家計を助けている。そういった依頼の内のひとつをこなしていて、小物の妖怪に噛み付かれたのだ。古い学校の冬休みの校舎に出向いて、幽霊騒ぎを綺麗にするだけの単純な依頼だったそうなのだが。
「世間はうかれてるってのによ」
「世間?」
 一見まともな救急箱の中から、自家製の薬を取り出しながら、蔵馬はけげんな顔をした。
「ああ、そうか、クリスマスでしたっけ」
 考えてみれば、今日は二千年ほど前、救世主と呼ばれた男が生まれた日だ。
「お前、今日はいねーんじゃないかと思ったんだけどよ」
 幽助は、にやにやした。
「いてよかったでしょう」
「や、助かったぜ、蔵馬」
 頂度人間で云えば心臓の位置に(幽助の左胸には今も、使われなくなった心臓が元の形のまま眠っている)小さく鋭利な牙を備えたものに咬み破られた傷が残っている。妖怪にやられでもしなければこれほど血が出るはずはないが、血はジーンズの腰のあたりにまでしみとおっている。
「ひどいな、気を抜いてたんだろう、幽助」
 蔵馬はかがんで、幽助の胸の傷を薬液で洗い流した。傷にしみたのだろう、幽助は目をすがめて、蔵馬の手元を見下ろした。
「それにしてもどうして窓から来たんです」
「まともに玄関から登ってこようとしたら、入口でがやがや盛り上がってる連中がいて、上がってこれなかったんだよ。そんで裏に回って飛び上がってきて、一苦労だぜ」
「それはご苦労様」
 蔵馬は傷口の上をしっかり布で覆ってやった。人間には猛毒だが、幽助の今の身体には薬効のある植物の葉があてがってある。
「どう? 痛いですか?」
 幽助はそっと腕を動かして見た。
「平気みたいだな。……」
 そう云って、胸の筋肉の攣りを確かめていたが、はあっと深いため息をついて、蔵馬の部屋の床であぐらをかいた。
「もう、腹減っちまったぜ」
「後で飯でも食いに行きましょうか」
 そういった蔵馬を、幽助はちらりと横目で眺めた。
「……お前がチョンガーなのは知ってっけどよ。お前んち、一緒に飯食いにいったりしねェの、こういう時」
「ああ、うん。……」
 蔵馬は声をわずかに低く忍ばせた。
「あの幸せ色の空間がねえ、どうも……」
「あ、それは判るぜ。オレなんて昔っからお前のおふくろさんには肩身狭くてよ」
 幽助と蔵馬が出会ってもう五年近くにもなる。二人が出会った時、幽助は新米の霊界探偵で、蔵馬はいわば一匹狼の妖怪だった。幽助は中学生で、蔵馬は高校生だった。二人とも母子家庭で、母親へのこだわりが強かった。蔵馬の、南野の母への執着はことに、人間の少年であれば持ち得ないほどの強さだった。
 あれから五年たって、幽助は人間としての生を全うして異種の生きものに生まれ変わり、二人は霊界と魔界、人間界に橋を架けた立役者の一人になった。南野の母は再婚し、蔵馬は母を護る役目から静かに降りようとしている。もうほとんど妖化した彼の身体の老いるスピードは、人のそれとはすでに違ってきた。
 いずれ彼らが、桑原や螢子や、今家族として暮らすひとたちに置いて行かれる日が来る。どれほど探し回っても、老いと時間を切りとるナイフはない。
 幽助の母の温子は息子の身に起こった異変を知っているが、南野の母は違う。蔵馬が、何も知らない人たちの前から姿を消さなければならない日は、遠い将来ではないだろう。その日のために蔵馬はひとり暮しを始め、自分が身を引かなければならない時が来るのに備えている。周囲の人たちが自分がいないのに慣れるために、また、自分がその人たちと暮らせないことに慣れるために。
「大丈夫? 出る気力ありますか? 結構傷は深いけど」
「平気平気」
 幽助はからからと笑った。
「とりあえず、着替えを」
 そう云って、幽助にシャツを手渡しながら、蔵馬はふと目を細めた。
「見事に心臓の位置だな。……」
「オレのこと人間だと思ったんじゃねえ?」
「これほどの妖気で? まさか」
 蔵馬は苦笑した。少しでも妖力を持ったものになら、幽助の並みはずれた強烈な妖気はすぐに判るはずだ。
「どうして心臓を狙ったんでしょうね」
「オレもまだまだ人間臭いからな。見るからに弱点って感じするからじゃねェの? どっちにしろ急所には変わりねえし。やっぱオレだって妖怪相手だろうが、人間相手だろうが、一撃入れるんなら脚や手なんかより、胸か腹だもんな」
 子供の顔をした妖怪は、そう天真爛漫に笑った。
「……」
 蔵馬はどことなく不思議なものを見るような気分で、幽助を眺めた。壁に寄りかかって座る。膝の上に投げ出した腕を乗せて、幽助の人間としての最後の春を思い浮かべた。後にも先にも、その春ほど一人の人とずっと一緒にいた経験はなかった。蔵馬の心臓の横に埋め込まれた災禍を切り取るため、十日間もの間、幽助と行動を共にした。
 そもそも出会いから幽助は蔵馬の中に深い印象を残したが、その事件をきっかけに、一生枯れることのない根を下ろした。蔵馬はその春、幽助に珍しいといってもいいほどの心労をかけたが、すぐ後に幽助は一度死んで、その分の心労をそっくり返して来た。幽助が死んだと思った瞬間の衝撃も、蔵馬は一生忘れることはないだろう。
 いずれにせよ、幽助は比類なく強くなり、彼を失くす逼迫した苦痛が訪れる心配はほとんどなくなった。蔵馬は彼の参謀的役割を降りた。不思議なことだが、代わりに友人としてのポジションにお互いを置いて、以来変わらない。
 だが、あの後幽助と行動を共にすることがしばしばあっても、あの春ほど密度が濃かったことはない。
 数カ月に一度彼らは会う。ふらりと気が向いた時にだけ、時間を共有する。深刻な事態に向かいあった時には深刻な話をするが、大抵はくだらない話をしていることの方が多い。幽助は何年か前までは、蔵馬と日常の他愛ない遊びを共有しにくいと思っていたようだが、今は、彼と幽助がもっともそういったものを共有しあっている。
 お互い、一足先に人間社会にたちまじって生きているからだろう。
「お前のはまだ動いてんの? それ」
 それ、と云いながら蔵馬の左胸を指さす。蔵馬は笑った。
「おかげさまで。元気です」
「そうか、元気か。もう何年も会ってねえからよ」
 幽助はにっと笑って、彼らしくない云い方をした。彼は過去、蔵馬の心臓と出会った唯一の人ということになる。
「……そういやよ。あいつどうなったのか、お前知ってんのか?」
「あいつ?」
「あいつだよ、お前の心臓によけいなもん置いて行きやがった」
「ああ、彼ですか」
 蔵馬は首を振った。
「正確には判らないんですよ。あの時死ななかったのだけは確かで、トーナメントの前に魔界入りした段階で捜してみたんですけどね」
 蔵馬をこれを云おうか云うまいかと迷っているように沈黙した。
 やがて苦笑する。自分の恥を告白するように神妙な顔になった。
「彼、どうも霊界とかかわりがあったようなんですよ」
「ホントかよ」
 幽助は目を丸くした。
「たぶん、霊界のダーティな部分の下請け的な役割を果たしてたんじゃないでしょうか。コエンマの告発の前後に姿が見えなくなった妖怪が他にも膨大にいるらしいですから。その中のひとりというワケです。霊界に消された可能性がありますね」
「ほんっと、腐ってやがったんだな、霊界もよ。あんな奴まで使ってやがったのか」
「コエンマが今、悪戦苦闘してますよ。まだまだ蓋を開ければ色々出てきそうですね。歴史も長い。小国の政界再編どころの騒ぎじゃないでしょう」
「あいつも育ちがいいから苦労が多いよな」
 何の責任もないのが一番。そう云って幽助は気楽そうに笑って見せる。ついこの前、審判の門の一件で、自分がとんでもない荷物を背負わされたことなど忘れてしまったようだった。
 始めて会ってからこの方、幽助が何かの荷物を負っていないところなど、蔵馬は見たことがなかった。しかも生まれ育った環境のメリットと引き替えた荷などではなく、いつも──幽助は認めないかも知れないが──彼自身の正義感から背負った重責だった。
「しかし、そっか。あいつ、どうなったかはっきり分かんねーのか」
 幽助は顎を撫でた。
「すっきりしねえよな」
「まあまあ。オレも、あちこちで恨みをかってますからね。この先もきっと色々ありますよ。その時すっきりすればいい訳ですから」
「ナニ云ってんだ、蔵馬、お前」
 幽助はあきれ顔で蔵馬を見た。幽助にこんな顔をさせるなんて、自分もなかなかどうしてたいしたものだ、などと蔵馬は考える。
「まあそれは冗談として。かなり手を回したんですよ。黄泉の所にいた時に、職権乱用してね。……あれだけ捜して見つからなかったからには、霊界の機密に触れたせいで消されたか、オレ同様に他の妖怪と摩擦があって殺されたか、何かあったと思うのが妥当ですね」
「あいつ、どうしてももう一発殴ってやりたかったぜ。とにかくムシの好かねー奴だったよ。他にも胸糞悪ぃ奴は今までいたけど、とにかくやり方がせこくてムカついた」
 幽助は一瞬目をぎらりと光らせた。
 蔵馬はそれに見蕩れる。
 今年の六月、十八歳の誕生日を迎えて、思春期など、周りより数年早くからりと抜けてしまった幽助だ。その彼が時折こうやって剣呑な目をする時が、実のところ蔵馬は好きだった。
 前髪を下ろしてジーンズにTシャツ街を歩く幽助は、いまだに骨格が華奢で、背が伸びても男というよりは少年っぽい。同年代の少年よりも、格段目の色が明るくておちついている。中学生だった頃、彼の持っていたすさんだムードはぬぐったように消えていた。だが、額の両脇に剃り込みなぞ入れて、短ランで肩をいからせていた幽助も少しなつかしい。
「うん、まあ。……オレも彼のやり方は気にいらなかったですけどね。……でも、実のところ彼の気持ちは判る。……」
「寛容じゃねーか」
「寛容っていうんじゃないですよ。オレも同じ目にあわされたら、その程度のことをしたくなるかも知れないっていうことで」
 蔵馬はふたたび苦笑した。今の自分は違うと云い切れる。復讐に血道を上げるよりはやりたいことも、大切なものも数多い。だが、蔵馬の中に眠る、これが本性だ。
「さて、と。どうしましょうか。この後……」
 そう云って立ち上がりながら蔵馬は幽助の顔をしみじみと眺めた。
「こういう日に依頼なんか片づけてるって事は、キミこそ女神様とデートじゃないんですか?」
 例の一件以来、かの雪村螢子はすっかり女神様というあだ名になっている。
「女神様は友達と海外に行ってるんだってよ」
 からかわれるのに不本意に慣らされた幽助はため息をついた。蔵馬を睨んだ。
「海外。どこに?」
「アメリカ。あいつ結局推薦で上がって受験ねェから。卒業旅行だってよ、女子大生じゃあるまいし。……だいたい、螢子とクリスマスしたことなんかねーよ」
「ないんですか? 甲斐性ないなあ」
「お前に云われるか? ……そんな、最近まで魔界いってたのに、クリスマスなんかやってるヒマなんかある訳ねェだろ」
 柄でもねえしな、と続けて幽助は顔をしかめた。
「出かけようぜ」
 幽助が蔵馬のシャツと上着を着こむのを待って、外に出る。廊下に一歩出ると、ついさっきまできりきりと吹き抜けていた寒風がやんでいるのが判る。蔵馬は首をかしげた。エレベーターを降りて、エントランスのガラス戸を通して外を眺める。予想が当たって彼はため息をついた。
 雪の匂いがしたのだ。外は風が止み、静かに雪が降り始めていた。
 幽助が部屋に飛び込んでくるまでは確かに雪は降っていなかったから、ほんのここ数分で降り始めた雪なのだろう。しかしそれにしてはよく積もって、道や木々はすでに白く塗り替えられている。
「珍しいですね、年内の雪は」
 ホワイトクリスマスという奴である。二人は玄関先から天をあおいだ。
「今日はどこいっても男二人じゃ、肩身がせまいよな」
「そうかもしれませんねえ」
 蔵馬は笑った。クリスマスの晩は街のどこもかしこもカップルで一杯だ。確かに二人で外に出るとなると、何とももの寂しい。
「傘、いりますか?」
「ってほどじゃねえだろ、面倒だからそのまま出ようぜ」
 脚を踏み出すと、新雪が脚の下でさくさくとつぶれる感触があった。思えば初雪だ。一月二月の一番寒い時期にならともかく、東京に年内、しかもクリスマスあたりに雪が降ることなどほとんどない。軽く乾いた、水気の少ない、綺麗に積もりそうな雪である。
「一人身はつらいよな、お互い」
 幽助がにやにやしながら振り返る。
「夏にも云いましたけど」
 蔵馬は微笑混じりに云った。
「失くすのは怖いね、まだまだ。……最初から長命種に生まれたから、人間は驚くほど短命に見える。……人間の身体と融合してみるとそのもろさも身にしみて解る……ひとしおですねえ」
「そっか。……」
 幽助はそれについては何も云わず、うなずいた。黙って雪を踏んだ。まだ彼には判らないだろう。おそらく、彼の意識が人間に近い以上、気の遠くなるほど沢山の大切な人の群れを、若いままで見送る痛みを、これから嫌というほど思い知らされることになるだろう。
 乾いた雪が頬を撫でる。雪明かりであたりは明るい。蔵馬の体温が低いため、蔵馬に触れた雪はなかなか溶けずに落ちて行く。
 蔵馬が着こんで出てきた黒のコートに、何か小さな白い生きもののように止まった雪片が、ようやく半ば溶けて、街灯の光を受けて銀色の光沢を帯びる。
 天からふるものがある。
 中途で熱を発つものに出会って溶けるものもあり、地に落ちてふりつもり、太陽の下で暫時生き残り、しかしやがて雪解けをむかえて、巨大な生き物の細胞が崩れて行くようにとけてゆくものもある。天地を循環する水の道ゆきは、ひとと社会のあり方にもしばしば例えられる。雲に、雨に、雪に、そして何ものにも覆われない太陽や月を見る人の心には、感慨が絶えない。
 いずれ魔族の世界は、この世界の月白風清に鉛色の水銀のあばたをえがくだろう。
 魔物たちは自分も含めて明らかに異種だ。異種の共存は必ず摩擦を招く。何が起こるのか、蔵馬には想像が出来なかった。しかし共存が必要とされているのも確かだった。
「どうした?」
 前を歩いていた幽助が振り向いた。もう一人の魔物は、蔵馬のなかにいつも漠然と眠る懸念などには無縁の顔で、子犬が雪の中でころげるように、ただ、歩くことを楽しんでいる。
「強いなあ。……」
 それが彼の無知故でないことを蔵馬は知っていた。
「何?」
「いえいえ、どこまで出ましょうか」
「まさか予約がねェと飯食えねぇってこたないよな?」
「ここら辺はそんなじゃありませんよ、大丈夫」
「あれっ」
 突然幽助が道の向こうを覗きこむようにして伸び上がった。
「あれ、桑原じゃねェの、雪菜ちゃんと一緒だぜ」
 見覚えのある、赤い髪の背の高い男の後ろ姿の横で、白いスカートが揺れている。
「ははあ……」
 蔵馬は微笑した。これは彼が罪のない意地悪を思いついた時の顔だ。人から見るとおっとりと優しげになるが、不思議な話、そういう時の蔵馬は二十歳前後のそこらの野郎と一緒である。
「邪魔するしかありませんねえ」
「よっしゃ」
 幽助は思い切り息を吸い込んだ。
「桑原!」
 大音響で呼ばわる。後ろ姿がぎくりとしたように揺れて、桑原が立ち止まるのが見えた。もうそろそろ蔵馬には声が聞こえてくる距離だ。
「お二人ともご一緒だったんですか」
 幽助と蔵馬が、前を行く二人に追いつくと、雪菜が、これは計算なしのおっとりした口調で笑いかけてきた。
「何だよてめ、桑原、用事があるとかいって雪菜ちゃんとデートかよ。調子くれて受験すべんなよ」
 どうやら幽助は、桑原に今晩遊びに行こうと誘った模様である。それで、桑原に振られたから今晩仕事を入れたのだろう。そういえば、夏の奥多摩行きもそうだったな、と蔵馬は思い出して苦笑した。もっとも蔵馬は、会社勤めだの花屋のバイトだのコエンマのアシスタントだので、年柄年中忙しく飛び回っているから、これでも遠慮しているのだと幽助が云っていた覚えがある。
 普段の幽助の奔放ぶりから考えて、それでもその言葉を信用するとしたらの話だが。
「……」
 桑原は心底嫌そうに顔をしかめた。
「てめえら、何もわざわざ声かけてくることねえだろ……」
 雪菜の方がまったく気にしていないことを知っているだけに、桑原は小声で歯がみせんばかりに呟いた。
「蔵馬、おめえまでよー。……」
「まあまあ、桑原君」
 蔵馬は桑原の肩を抱き込むようにした。肩口を友情を込めて叩いてやる。
「せっかくの晩にそんな顔しないで。ね」
「雪菜ちゃん、オレらも混ざっていいよな?」
 幽助が雪菜の顔を覗き込んだ。
「まあ、勿論です」
 雪菜は相変わらず、解っているのかいないのか、残酷なほど純真無垢な白い顔で、もの優しく微笑した。
「あ、てめえ、浦飯っ」
「皆さんもご一緒出来れば楽しいですし……」
 更に雪菜にとどめをさされた桑原に、笑いをこらえて蔵馬は幽助と顔を見合わせた。
 ついに幽助が我慢しきれずに笑い出した。蔵馬も吹き出して、二人が声を上げて笑うのを、桑原が真っ赤になって、雪菜はやはり訳が分からないように怪訝そうに目を見開いて見ている。
「ウソウソ。桑ちゃん、がんばんな。雪菜ちゃん、夜道には気をつけろよ」
「バカ云ってんじゃねえぞ、浦飯っ」
 本気で怒りかけた桑原に、蔵馬はもう一度、今度はなだめるように背中を叩いてやった。
 耳元に小声で、
「……年始はしごきますよ」
 とささやいた。蔵馬は桑原の受験の面倒も見て家庭教師も兼ねているのだ。桑原がぐっと喉を詰まらせる。一歩先に行った幽助を追って蔵馬は歩き出した。一度振り返って手を振る。雪菜が腰をかがめてお辞儀をして、桑原が憮然と手を振り返すのが雪の向こうに見える。もう視界は柔らかく振り続ける雪の幕に覆われている。
「幽助」
 ふと声をかけてみたくなって呼んだ。
「うん?」
 上機嫌の幽助が振り返った。その彼の隣に並んだ。
「さっき話が出たせいですけど、……ずいぶん前に、一緒に白浜から歩いたのとかちょっと思い出したんですよ」
「それで?」
「それだけ」
「……ふうん」
 幽助が笑った。
 天地をつなぐ雪の中で、かすかな風に髪や服の裾を任せて歩く。
 足下に雪を踏みしだき、頭上に丸い天をいただき、柔脆な身体であるからこそ皮膚に浸透する、形のないものを呼吸する。
 全ての物語がいつか終わるが、物語がしめくくられても現実の世界は終わらない。
「雪の中を好きな人と歩くっていうのもいいもんですねえ」
「……」
 幽助が絶句するのにこたえて蔵馬は吹き出した。
「まあ、そうですね、キミとか母とか、桑原君とか螢子さんとか温子さんとか、……でも飛影と歩くのはおちつかなさそうですけど」
「螢子?……」
 蔵馬の科白の中の一部分に引っかかって幽助が繰り返すのを構わずに、蔵馬は皮膚に雪混じりの風を、足下に雪を、自分をくるんだ人間の形をした身体を感じて、陶然とした。異種である自分に跳ね返る光でさえ不意に美しく思われた。
 目を閉じそうになって、あらためて目を開き、四方に視線を投げた。
 そして終着点に幽助の姿を見いだして、微笑した。

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