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S02_01_No wind,No cold,Blue sky

03 01 *2013 | Category 二次::幽遊・幽×蔵他(蔵馬中心)

喧嘩するほど仲がいいけどほどほどに。

続き





 蔵馬は、ひと抱えほどもある枝の上に脚を投げ出して空を見上げた。
 上空は厚く茂った枝の間からかすかに透けて見えている。いつも嵐を含んで荒れ模様の空が奇妙に静かだった。ところどころに濡れた雲が赤く光っていた。嵐の明けた朝を思わせた。時折、取り残されたような稲妻が細く光ったが、実際、昼も夜もほとんど区別のない魔界に、こんな光が差しているのはあまり見たことがなかった。
 トーナメント以来のことだ。
 幽助と黄泉の戦いの終盤に、深い魔界の雲を光の柱が貫き通した。雲が切れた。まるでひずみが口を開けて、人間界の太陽を引きずり降ろして来たように、聖光気に似た金色の光芒があふれた。
 あれから何か空模様に変化が現れたように思えた。
 億年樹に植えこんだ桜は、一杯に咲いて一度枯れた。そして蔵馬が事後処理のため再び魔界にやってきた時、また咲きはじめたのだ。
 大会主催に直接関係がないとはいえ、元黄泉国家の軍事総長だった彼が、魔界の事態収拾に全く力を貸さない訳には行かなかった。
 すでにトーナメントの最中、まとまった期間を旅行と称して家を空けたため、泊まり込むのは難しかった。
 結局、始終魔界と人間界の間を往復することになった。
 今日は出かけてきてすぐに用事を済ませてしまった。
 それで彼は思い立って億年樹までやってきたのだ。トーナメントが終わって以来始めて見る億年樹だった。一度花を散らせた億年樹は、人間界で見るのとは又少し違って、空模様のためか薄い紫を帯びた白にかげって、雲のように花を咲かせていた。
 こうして登って見ると、蔵馬が呼び起こして活性させた億年樹は、その一帯でも抜きん出た高さだった。
 中途の枝に登っただけでも遠く見晴らしが良かった。魔界は起伏の激しい土地柄で、どこの土地に行っても、さほど見晴らしがいいということはないから、それはいささか珍しい光景だった。
 蔵馬は幹に寄りかかって、肩の力を抜いた。
 ほんの少し疲れ気味だ。もっとも、彼はこんなふうにして身辺が慌ただしい中を過ごすのは嫌いではない。
 集団の中で自分が必要とされているというのは、彼がここ十数年で覚えた目新しい経験だった。
 自分の力の強さゆえでなく、経験や判断力を元にして信頼されるというのは……。
 心地よい疲れがゆっくりと手足にめぐってくる。
 彼は眠りかけた。
 今日は暖かく、珍しいほどやわらかな風が吹いた。
 魔界植物と融け合って面変わりしてはいたが、桜は夢を誘うように柔らかくかすんで美しかった。時雨との戦いの最中にも何度か繰り返して思い出したが、彼の身体が極小さかった頃に登った、南野の家の庭の桜が咲きはじめた。その元の家と、母の再婚後住まった新居はさほど離れていなかった。側を通りかかると、ブロック塀の向こうでひっそりと咲いているのを眺めることが出来た。
 あの小さな家は買い取られて改築されたが、桜は斬られも植え替えられもせず、そのまま小さな庭で花をつけた。可憐なソメイヨシノだ。
 あの庭の桜のことを思い返しながら、そのまま眠りに揺られて目を閉じた。
 しばらくたった。
 風に頬を撫でられるままにして少し眠った。
 目を閉じたままで、蔵馬は、ふと敵意のない視線に意識を引き戻されて目を開けた。
「幽助」
 下方の枝から幽助が見あげていた。彼も人間界から直行したらしく、極普通の私服で、そこらへんまで出かけて行くのとそれほど変わらない格好だ。
「ヨ」
 幽助は、ひらりと身をひるがえして蔵馬の座っている枝の上に跳び移って来た。
 蔵馬から少し離れた先端の方に腰かける。
「下まで来たんで登って見たんだけど、誰か寝てると思ったら、蔵馬か」
 幽助は笑った。
「こんなところで昼寝なんかしてていいのかよ」
「オレは今日の分は全部終わらせましたからね。キミこそいいんですか。大会主催者にはまだやることが山ほど残ってるでしょうに」
「そうなんだよなあ」
 幽助は参った、というように後ろに撫でつけた前髪を指でかき混ぜるような仕草をした。
「煙鬼のおっさんだけに任せとくのもな……。だいたいあいつだって、歳なんかクソ親父と同じようなもんだし、いい加減ジジイだってのに、あんまりこき使う訳にもいかねえだろ。せめてパシリくらいしてやらねーとさ」
 蔵馬は幹にもたれたままふっと息を吐いた。彼と話していると疲れもほどけてしまうような気がしてくるから不思議だ。
「フットワークの軽さは自慢でしょ。良かったですね。デスクワークなんかやらされずに済んで」
「ぞっとしねえよな」
 幽助は笑った。組み合わせた指の関節を鳴らした。乾いた小枝を折るような音で、指の中で関節の擦れ合う音がする。
「まだケンカし足りませんか」
 蔵馬は半ば、まさかと思いながら口にした。もう、ほんの一週間ほど前、幽助は黄泉戦の後の昏睡から醒めたばかりだ。彼自身、満足が行くところまで戦ったと漏らしている。実際、大会終了を宣云する煙鬼の挨拶を聞きに出た時は、幽助は彼が支えなければ立っていられないほどだったのだ。
「……」
 幽助は面食らったように蔵馬を見た。
 自分がどんな表情をしているのか、さほど意識していなかったらしい。
 次いで、ニヤ、と唇の端を上げて笑った。はしばみ色の瞳が光る。
「うん、そうかもな」
 枝の上で立ち上がる。下を見下ろした。高層ビル並みの高さがある億年樹の、ほの紅い花ごしに根本を眺める。視線を上げ、まばたいて蔵馬を眺めた。
「だいたい、お前とも飛影ともやれなかったしな。特にお前。飛影とは仙水絡みの時、ちょっと付き合わせたからよ。やり合った時の感触は分かるんだけど……」
 蔵馬は、無意識なのか枝の上に立ってこぶしを握りしめた幽助を見上げた。
 ゆっくりと眠っていたものを揺り起こされたような気分になった。
「それはそうだな……。オレも、そういえばキミとは一回やってみたかったんだ」
 二人はしばらく沈黙した。
 お互いが何を考えているのか漠然と分かるような気がしたのだ。
「幽助」
 蔵馬は笑った。
「煙鬼の定めた法令は、基本が人間界に迷惑をかけないことでしたよね」
「ああ」
 幽助の目が面白そうに光を増した。
 彼は、蔵馬の目の前の枝に座り直し、枝の角度のせいでわずかに高い位置から彼を見下ろした。
「だったら、別に癌陀羅の郊外で、オレたちがちょっと楽しんでも悪いはずはないですよね」
 幽助はニヤニヤして彼を見た。
「本気かよ蔵馬。オレだの、人間界にいるあのバカだのが云い出すんならともかくよ。そんな物足りなさそうなこと云うなんて、お前らしくないじゃんか」
「不完全燃焼ってわけじゃないよ。一応は最後まで使いきったんだけど、キミとなると話は別かな。こういうふうに気分が乗った時じゃないと、特にやる機会がなさそうだ。……オレは次の大会には出ないつもりだし」
「そうなのか?」
「今のところ、興味が分散してて、それを手っ取り早くまとめて片づけるとなると、次の大会にはこんなに時間を割けないかも知れない」
「……うん、まあ……やっぱりお前らしいかな」
 幽助は半ば不思議そうに蔵馬を見て笑った。
「じゃあ、やるか」
「やりましょうか」
 彼らはゆっくりと立ち上がり、億年樹の下界を眺めた。
「この上で?」
 蔵馬が聞くと、幽助は首を振った。
「ここはやめようぜ。せっかく咲いてるのに何かもったいねェから。オレとお前がやったら、こんな樹イッパツでぶっ倒れんぜ」
「それはそうかもしれない」
 蔵馬はうなずいた。
「それにここってモロ、お前の『領域』だろ。さすがにおっかねーよな」
 人によっては、おそらく十中八九はそれが本音だろう。
 しかし幽助にとってはむしろそちらが付け足しで、最初に云った「もったいない」という言葉が案外、本心から出てきた言葉なのだということが蔵馬には分かっていた。
 彼は、久しぶりに沸き立つような思いで億年樹を下りた。
 このトーナメントの最中は、彼には考えることが多過ぎて、幽助や他の人間ほど娯楽に徹し切れなかったところがあった。
 幽助と戦うのは娯楽以外のものではない。
 この先、彼と戦うことはおそらくないだろう。今回黄泉のもとに下り、結局は幽助の案を取った時、結局自分が彼を敵と見なすのは無理だということに気づいたのだ。だから、今幽助にも云った通り、機会を逃したくなかった。
 彼らには将来立場というものが生まれてくるだろう。今、ひとまず魔界からは国というものが消滅したが、幽助は雷禅の部下だった北神という男に嘱望されている。蔵馬自身も、いつまでそう気楽にのらりくらりと事をかわし続ける訳にはいかないかも知れない。
 はからずも黄泉に云った通り、「ただの蔵馬」として戦うことが徐々に出来なくなるはずだ。今回それがほぼ魔界全土に適用されたのはこの思いつきが突飛なものだったからだ。魔界に、この先このスタイルが定着するかどうかはまだ分からなかった。
 蔵馬は幽助に分からないよう笑った。
 そんな諸々の予感を持っていても、幽助は一度手合わせしてみたいと思わせる相手なのだ。
 幽助にとって、自分もそうだったらしいということが彼には嬉しかった。

 蔵馬と幽助は闘着に着替え、元癌陀羅の郊外にある森に出かけた。
 ここら辺は、魔界の地形の特長をもっとも顕著に顕した場所で、森は厚く深く、突然底の見えないほど深く落ち込んだ地の裂け目、険しい崖で構成されている。限度知らずの妖怪が二人、欲求不満を解消するにはおあつらえ向きの場所だった。
 岩の筋をたどり、昔埋まって返って来ない昏い川の流れを掘り起こすようにして、二人は歩いた。
 それは魔界を確かめるような道のりだった。
 雷禅の国とは地形が違う。植物の層は深く、蔵馬のような妖怪が生まれたのも分かるような気がした。億年樹ほどとはゆかなくとも、どこか古色蒼然と古い建造物めいた樹々も多い。幽助の目には深く黒いその翠は珍しい。
 森の奥深くに入ると、段々とこのトーナメントで平らに均された、どこか魔界らしくない魔界のイメージとは別の場所が見えてくる。
 どこか視線を感じるような思いで幽助は身体をすくめた。
 しかし森は静かだ。
「ここら辺にしましょうか」
 蔵馬が立ち止まった。
「ああ」
 幽助はうなずいた。
 長衣を着た蔵馬は、森の中の光の届かない木立の厚い影の下で、うっすりと青ざめて見えた。
 彼は元々人間とよく似た形の身体を持った妖怪だった。
 白い皮膚と赤い血潮を持っている。これで彼の本当の皮膚が時折見る妖怪のように、青かったり鉛色を帯びていたりしたら、視覚的抵抗はそれなりに強かったことだろう。
 幽助はおそらく、それでもすぐに彼に慣れたのではないかと思う。
 しかしそれでも薄赤く唇に透ける血の色が、自分と同じ方が、なぜか馴染みやすい。
 蔵馬だけではなく、血の色が赤い妖怪は案外に多いようだ。
 陣や凍矢、他にも暗黒武術会から顔を見ていた者の中に、赤い血潮を持った者が多かった。
 血潮が赤い妖怪は、人間とどこか混じりあった暮らしを好むように思える。
 今では幽助も、妖怪とそうでない者が妖気以外でも見分けがつくようになった。
 ひとつには皮膚だ。人間と同じ形をしながら魔界の血を引く者は、彼ら特有の皮膚を持っていた。
 人間の皮膚のように荒れることをしない。
 根本的に体内構造が全く違うのだ。
 汗腺が少なく、無毛の者、体毛の薄い者が多い。肌が細かくしまって、血を透かさない手足をしている者が多かった。
 蔵馬も、ある意味では幽助もその特徴を備えている。
 背が高く髪の長い、もの優しい姿の蔵馬は、幽助が習い覚えてきた妖怪という言葉といまだにギャップを持つ。
「じゃ」
 微笑した。蔵馬の顔はそうやって微笑すると不思議なほど美しく見える。
「おう」
 幽助は、いつも戦う前に感じる、臓腑をしめつけられるような興奮を飲み込んだ。
 向かい合ったまま彼らは立った。身体の中の妖気がテンションを上げていくのが分かった。
 筋肉の中に、血の筋に、骨の中に、ようやく慣れたあの、寒い、青いものが光り始める。
 身体が膨れ上がって、また引き絞られるような感触がある。
 離れて立った蔵馬は静かに腕を垂れて幽助を見ている。やる気だった。蔵馬は本気で相手を叩こうとする時、いつもこういうポーズになる。
(待ってるのも性に合わねえな)
 しかけてくるのを待つのも面白いと思ったが、幽助は身体の中から妖気を引きずり出すようにして、右手首を左手で支えた。
 狙いをつける。
 渾身の力で撃ち込んだ。
 幽助の妖気の塊を受けた地面が大きくそがれた。蔵馬が大きく跳ぶ。爆音が起こって、土煙が舞い上がる。
「もう一発っ……!」
 言葉と同時に撃ち出した。
 今度のはずっと大きい。
 やはり蔵馬はひらりと避ける。爆音でゆらいだ草が、幽助の足許にまでなびいた。足許をにじった時、幽助はふと違和感を感じて視線を落とした。
 蔵馬が地面にてのひらを押し当てた瞬間、足許の草が大きく舞い上がった。
 草はねじれながら伸びた。
 跳びすさろうとすると巻きついてきた。鋼の刃に巻きつかれたような感触だった。
「!」
 身体を返して空中に跳び上がり、妖気の玉を足許に撃ち込んだ。
 苦しむようによじれながら、「それ」はまた一歩大きく伸びてきた。
(自分がやられてみると蔵馬の技ってのはえげつない……)
 傍らの木の幹を蹴って反動で舞い上がる。蔵馬の姿を捕らえ、方向転換する。地表で彼を待ちうける蔵馬に、今度は妖気ではなく、自分の拳を打ちこんだ。
 こぶしが触れたと思ったが髪の先からするりと逃げて、手を伸ばした先の空気を一瞬裂くように、蔵馬は向こうの崖まで跳びすさった。
 再びてのひらを岩の上に、妖気を打ち込むようにして押しあてた。
 重い衝撃が伝わってくる。
 幽助は地面に触れているのを避けるために、妖気を満たして空中に浮かんだ。
 森の深くではどう考えても彼に不利だった。
 しかしそれも幽助には面白かった。闘場で戦うよりずっと全身が緊張する。みぞおちが汗に濡れる。
 不意に、横合いから誰かが手を伸ばしたと思った。避けると、背中に鋭い衝撃があった。
 足下にみっしりと重い森を構成した古い木々が、何かに揺り起こされたように幽助に向かって伸び始めていた。
 ぴりぴりするほど妖気の残滓が満ちているせいで、妖気を含んだ物が近づいてきても、それが自分の妖気よりもかすかであると、どうしても分かりにくくなる。
 背骨の中央を、剣と同じように妖気を満たしてとがった枝に激しく突かれた幽助は、衝撃に息をつまらせて落下した。
 空中で一度身体を返して、蔵馬目がけて落ちる。
 距離をつめた時、蔵馬が空中を滑るように移動する軌跡が、網膜に残像のように映った。
 幽助は放物線のゆきつく方向へ向かって腕を構えた。
 早さを計算して、背中の痛みを飲み込むようにしてもう一発撃った。
 空中に撃ったそれが空砲にならず何かに命中したのが、爆音と緑色を帯びた煙で分かった。
 煙はしばらく晴れなかった。足許の木々の枝は、どこか食虫植物めいて、うねりながら蠢いている。幽助は地面に降り立たずに空中で待った。
「……」
 彼はにやりと笑った。
(お出ましだな)
 煙の中をすり抜けるようにして、ほの白い姿がするりと地表に降り立った。蔵馬のはずだが、遥かに背が高かった。
 薄闇に近い大気の中に、銀色の髪が薄く光った。
 幽助は、彼を間近に見たい誘惑に耐え切れずに後を追って地面に下りた。それと同時に、ざわめいていた草が撫で静めたように動かなくなり、木々の重いうねりも止まった。
 幽助は息を吐き出した。
 彼は無論、その姿を幾度か見たことがある。
 しかしそれはたいてい闘場の上でだった。造りものに近いその姿と以前こうして相対したのは、彼が二度目に死んで、次に目覚めた時だ。
 仙水にだいぶ痛めつけられていた。
 あちこちを血で染めて、しかし幽助の姿を見ると喉の奥で笑った。全く知らない者のように見えたが、懐かしい目で幽助を見下ろした。それは南野秀一の、表情を読みにくい顔より、なお感情を強く伝えたかも知れない。
 妖狐の姿に変わった蔵馬は、幽助に向かって歩み寄ってきた。
 思わず右手に妖気をためる。
 蔵馬が薄く笑った。押し止めるように片手を軽く上げる。
 ストップをかけられたことにかすかな驚きが残った。
 銀髪の妖怪は、間近に近寄ってきて立ち止まった。飴色に透き通った瞳が彼を見下ろした。
「時雨とやった時、お前、元に戻っちまったな」
 ふと思い出して幽助がつぶやいた。
 蔵馬はうなずいた。怖いほど美しい瞳を、まばたきが数回覆い隠した。
「あの時は、また別の意図があった……」
 幽助は不思議な気分で、彼より数十センチほども丈の高い白い皮膚の妖狐を見上げた。声も変わる。普段の蔵馬も落ち着いたなめらかな低い声だが、この姿の彼の声はまた一段低くなり、甘く深く変わる。
 普段の、語尾の柔らかい声よりは冷たい印象になる。
 幽助の頬に冷たい感触があった。
 蔵馬の手が触れている。
「────自分が、なぜ敵意とかかわりなく戦えるのかを考えてみたことは……?」
 蔵馬が低く云った。ささやくような声だ。
 幽助は当惑した。彼の頬に触れた見慣れない長い指の手は、白い光沢のある長い鉤爪を備えている。
「何が云いてぇんだ」
 威嚇するような目になった。幽助は意図の見えない、言葉遊び的な会話が苦手だった。
 彼の目に、蔵馬は無表情にまたたいた。驚かされたようだった。
「────好奇心、だ」
 自分自身の言葉を疑うように言葉を切る。
「……オレの持っていないものだからな」
 そう云って、蔵馬は微苦笑した。
 その微笑に、幽助はようやく、この妖狐の中にあの南野秀一の顔を持った蔵馬の面影を見出した。
(そうそう中身まで変わるもんじゃねェか)
 彼もまた苦笑して、自分の頬に重なった蔵馬のてのひらをパン、と、軽く叩いた。
「敵意なんかオレ、ある時はある時まかせだぜ?」
 妖狐の瞳が、面白がっているようにゆるやかに煌めいた。
「今はどうだ?」
「……今は、早く続きやりてーなって考えてるよ」
 幽助は大きく後ろに跳んだ。
「それ以外はナシだ」
 云いざま、反動で押されたみぞおちに力を込めて、彼は続け様に撃った。
 目前にあった妖狐の姿がするりと消えた。南野秀一の姿の時とは段違いの早さだった。
 真っ白な残像が目の前をすり抜ける。妖狐の妖気に影響されたように、周りの木々がざわめき始めた。
 幽助は、地面に向かっててのひらをかざした。いつまで蔵馬の操る植物を避けて回る訳にはいかない。
 妖気をためる。
 相手にぶつけるのとは違う、一点に集中させて威力を高めるより、とにかくぶつけること自体が目的の妖気だ。
 腕の中に抱え切れないような大きさまで膨れ上がったそれを、地面に向けて投げ込んだ。
 自分の妖気弾の巻き起こした爆風に、彼自身が跳ばされそうになった。押し返す用意のない時、彼はウェイトが軽い分、妖気にも押されやすい。
 煙鬼が初めて雷禅の墓を尋ねてきた時、幽助は雷禅の友人たちの放つ妖気に耐え切れずに吹き飛ばされたほどだった。
 気流に乗って宙空で身体を返し、降り立つ。土煙はすぐに納まった。
 昏い森の地面は、大部分湿った黒土だ。そこを、植物ごと吹き飛ばして、幽助の妖気は森の中に巨大なクレーターを造っていた。土がむき出しになっている。
 月の海のような形になったその中心に幽助は立った。
(さあ、来い)
 これなら足許はある程度気にしなくて済む。まさか、また億年樹のようなものを出現させるようなしかけもしていないだろう。
 視界から消えた蔵馬の気配が背後にかすめた。
 幽助は振り向きざま拳をふるった。
 今度はようやく手ごたえがある。蔵馬の身体が土を更にけずりとって後ろに飛ばされた。
 妖狐の口元からは笑みが消えていなかった。
 誘われている。
 幽助が打って出るのを待っている。
 幽助は彼に向き直った。高揚で、連射した疲れも感じなかった。
 腕をまっすぐに伸ばして蔵馬に狙いをつけた。
 妖気が赤く右腕に膨れ上がった。

 蔵馬は妖狐の身体に変わると、幽助が又ひとしお小柄に見えることに気づいて驚いた。あの小柄な体を支えるのは、やはり相応に細い骨格だった。
 この身体でよくあれほどの資質を支えているものだ。
 あの、小太陽のような気質がそうさせているのだろうか。幽助は敵愾心を持たないまま、心底自分を解放しきることができる。
 怨念をいしずえに強力な力を得る者の多い中で、幽助は確かに異色だった。ある意味で、人間としての性質を残したまま妖怪になった彼ゆえのことなのかもしれない。
 現に今の蔵馬も、幽助に敵意を持っていないため、彼の攻撃で衝撃を受けるまで妖狐の姿に変わることが出来なかった。
 数メートル前で、幽助が自分に腕を伸ばして狙いをつけたのが分かった。
 幽助の目は真剣そのものだった。本気で自分を狙っているのが分かった。
(やはり、戦う相手に敵意か、せめて対抗意識がないと、命を縮めるな)
 彼は他人事のように考えた。
 幽助の腕に赤く燃え上がった気は、膨れ上がってゆく内、金色の光を帯びた。これは、黄泉と戦っている時にも見せた、仙水の聖光気にも似たあの光だ。
 どうすれば、こんな相手に本気になれるだろう。
 蔵馬は幽助の周囲を包んだ、もやがかった黄金色の妖気を見つめた。人間の価値観を持たなかったころ、自分自身がいだいた覚えのない、劇しい賛美の念に溶かされた。
 金色の妖気はそろそろと闇に包まれ始めた森をあかあかと照らし、幽助の全身を焔のように浮かべて燃えあがった。蔵馬の髪が、幽助の妖気の金色の残照を受けて、淡い白金色に透けて舞い上がる。
 幽助の振りかぶった腕に巨きな光の玉があふれるのを、蔵馬は見つめた。
 気持ちが離れたのはわずか一瞬だった。
 重い衝撃が、胸を、腹を襲った。
 風力と磁力を練り合わせたようなものが、彼を揺るがした。
 左腕を酷い衝撃が引いた。
(マズい…………)
 その段になっても他人事に似て、遠く考える。
 竜巻に揉まれるような渦に巻き込まれる。中途の障害物を砕きながら、恐ろしい飛距離を持った流れが、彼をはるか後方の岩に叩きつけた。


 幽助は仰天して、自分の右手を眺めた。
 黄泉戦の折りに比べて特に威力が上がったとも思えなかった。しかも蔵馬はあの戦いを見ている。彼の中にあのデータはあるはずだ。
 受け止めるかと思った蔵馬は全く無防備に近い状態で、幽助の放った妖気は、そのままの形で彼を直撃したのだ。
「……おいっ……」
 彼は切り立った岩の残骸を飛び越え、蔵馬が叩きつけられた方向まで走った。
 蔵馬がじっと立っているのは、幽助からは、攻撃を待ち受けて静かに立つ、いつもと同じようなポーズにしか見えなかった。変わらず隙のない彼に見えた。
(何、気ィ抜いてやがったんだ……)
 駆け寄って彼を確かめた幽助のみぞおちが氷のように冷えた。
 見たものを信じられない思いで立ちつくした。
 蔵馬は、南野秀一の姿に戻っていた。闘着の左肩が血に染まっていた。
 あおのいたまま彼は動かなかった。
 彼の身体から少し離れた場所に、同じ服の袖をまとった片腕が転がっていた。
「……っ」
 幽助は息を飲んで一歩下がった。
 手足がちぎれたものの姿など、今まで幾らでも見たことがあった。しかし、目の前に倒れた、片腕のちぎれた蔵馬の姿は、彼にどこか異質な衝撃を与えた。
「蔵馬っ」
 彼はかがみ、蔵馬の身体を抱き起こした。
「お前、どうして…………」
 蔵馬は目を閉じたまま動かなかった。
 慌てて胸に耳を押しつける。『コア』も心臓も、かろうじて双方が動いているのが分かった。彼は、ショック症状を起こしたように急速に冷えはじめた蔵馬の身体を地面に抱き降ろした。
 辺りを見回す。
 蔵馬の身体を置いて行くことの危険と、彼を連れて行くことの危険をはかりにかけた。必死に冷静になろうと努める。
(駄目だ。ここにはとても置いて行けねえ。……何がいるか分かったもんじゃない)
 景色はさほど変わらないが、魔界は夜にさしかかっている。
 かろうじて昼だった頃には、ほんの気配を感じるだけだったものの存在が濃厚になっていた。
 幽助は息を吐いた。
 背筋を一度伸ばし、次にかがんで、蔵馬の左腕を拾い上げた。そして、健在な片腕の側からすくいあげるように彼のほっそりと優美な、自分より背の高い身体を抱えあげた。
 胸に押しつけるようにしてちぎれた腕ごと抱え込む。
(時雨も飛影も一度死んだらしい)
 蔵馬自身の声がよみがえってくる。
(彼らだけじゃない。死者の数が少ないので躯軍は有名だった。躯は、自分が目をかけた部下の傷ついた手足をつなぐだけでなく、一度死んだ者まで蘇生させる技術を持っているらしい。この技術を持っているのは、三代勢力の中でも躯だけだ)
 そのことを思い出して、具体的にどうしようと思った訳ではなかった。
 ただ、その話を耳にしたことが脳裏をかすめたのだ。
 躯は、幽助や蔵馬同様、まだ後始末のため、癌陀羅付近に縛りつけられているはずだ。そしておそらく飛影は躯と行動を共にしている。
 百足の中にいるなら、彼らを捜し当てるのはさほど難しいことではない。
 幽助は走り出した。
 蔵馬の体は重いほどではなかったが、しかし彼の身体の冷たさと硬さが気になった。
 幽助の胸も蔵馬の胸も血まみれだった。
 胸に一緒に抱き込んだちぎれた腕は冷えきって、棒のように硬い感触をつたえてくる。
 走る内、血が冷えて乾いた。胸の布が不快な感触でつっぱった。
 幽助は歯を食いしばった。
 彼は長い時間走り続けるのを苦にしない。雷禅に会うために、五日間、北神たちと走り通したこともある。
 だが、こんな状態で目的地の位置がはっきりしないまま、胸に爆弾を抱えて走り続けるのはさすがに苦痛だった。
 森を抜けて岩地を越える。しばらくは平地が続き、億年樹によく似た形の、からからと乾いた大木が林立する。
 向こうに、癌陀羅の灯りが遠く見える。
(途中に百足が見つからなかったら、まず黄泉のとこに駆け込んで)
 ようやく頭が働きはじめた。
(それから飛影を捜しに行く)
 蔵馬は動かなかった。彼の身体はもう死者に近い冷たさだ。腕を一本ちぎっても死にはしないだろうが、しかし危険な状態なのは間違いなかった。
 もし、百足を見つけるのが遅れたら……。
 幽助の背筋がふわ、と冷えた。
 しかし、彼は飛影を探し回る必要はなかった。
 躯の移動要塞百足は、ギーガーの絵を思わせる有機的な光沢の白い背中を見せて、癌陀羅に極近い樹海の中にとどまっていた。
 幽助はほっと息を吐き出した。普段ならこのくらいの距離を走っても汗もかかない身体が、背中をぐっしょりと冷や汗に濡らしていた。
 幽助は崖から大きく飛び、百足の背中に飛びうつった。
 どうやって内側とコンタクトを取ればいいのか迷った。要塞の上は見た目よりずっと高度があって、乾いた風が渡る。風に呼吸をさらわれて、幽助は荒い息を吐いた。
 その時、要塞の触角の下の頭の部分に、見慣れた黒い影が座っているのが見えた。
「……」
 幽助は膝の力が抜けそうになった。
 飛影だ。どうやら百足でも彼は建物の内側で過ごす習慣がないらしい。
 彼は幽助の前に身軽に飛び降りて来た。猫のように大きな瞳をまたたいた。
「血の匂いがするぞ」
 投げ出すように云った。幽助は、その言葉に一瞬応えかねて黙った。
「どうした、それは」
 うながした飛影の前に、幽助は蔵馬を抱き降ろした。血まみれの彼の身体の上に、ちぎれた腕をそっと降ろす。
「飛影」
 幽助は膝を折った。必死の思いでこうべを垂れた。
「頼む」
 今更、自分が震えていることに気づいた。
「頼む…………」
 昼の暖かさが嘘のように、冷ややかな風が、髪を、頬を打った。
 飛影は黙って幽助を見下ろした。

 蔵馬は寝返りを打った。
 左腕に痛みが走った。彼は目を開けて自分の腕を探った。奇妙な痛みだった。
 傷の痛みではなかった。
 彼は左腕を伸ばした。左腕には、一見してはどこにもトラブルはないように思える。傷も見当たらなかった。
 奥の方に、何かちりちりと灼けるような痛痒さがあった。
 それにひどく腕全体が重い。石を詰めたような重さだ。腕だけでなく、身体全体がだるかった。
 彼は周りを見回した。ここがどこなのか、彼には分からなかった。
「……」
 天井も壁も白い、広い部屋だ。隅に置かれた寝台に彼は寝かされていた。
(どこだ?)
 彼はぼんやりした記憶をたどった。あの深い森で幽助と一戦交えたのは覚えている。幽助の妖気に見蕩れて一瞬注意を怠ったことも、かろうじて思い出せた。しかしそれ以降の記憶はぷつりととぎれて、まったく思い出せなかった。
 とりあえず彼は負けて、その衝撃で意識を失ったものらしい。
 かれはそろそろと起き上がった。
(これは……)
 彼は当惑して額を押さえた。酷くだるかった。
 何があったのかはっきり判断出来なかった。
 眩暈を押さえて寝台を下りた。窓の外を眺める。深い森と、そのくせ冷たく整然と整えられた道が血管のように走っている。ここは少なくとも、どうやら癌陀羅か、その周辺のようだった。黄泉の造った街は、黄泉の気質を表して、かたくななイメージがある。
「蔵馬様」
 気配を感じ取ったのだろう、戸が開いて、若い女が一人覗き込んだ。
「まだ動いてはいけません。お休みにならなければ」
 彼は寝台に腰を下ろした。女の顔に見覚えがある。これは黄泉の屋敷に仕えていた女だ。
 どういうことだ。
「ここは……」
 戸を閉めようとしていた女は振り返った。
「癌陀羅郊外の黄泉様の持ち家ですわ。何も覚えておいでじゃありませんの?」
「あいにく、何も」
「迂那。いい。オレが説明しよう」
 部屋の入口から、黒髪の、背の高い男が入って来た。部屋の空気がかすかに動く。黄泉の気配は殺し続けて長いのか遠く静かで、気づかなければ、かすかな風の揺れと混同してしまいそうだ。
 マナと呼ばれた女は蔵馬に、そして黄泉に向かって優雅に会釈して部屋を出て行った。そっと扉が閉まった。
 ほんの数カ月前までは魔界の巨大国家を牛耳っていた「国王」黄泉は、おだやかな顔で蔵馬の前に立った。
 黄泉は歩み寄って来て蔵馬の顔を見下ろした。手を伸ばした。青ざめて思えるほど白い、優美な長い指が、蔵馬の左肩にそっと触れた。
「痛みはないか?」
「……ああ」
「そうか」
 黄泉は手を離した。
 蔵馬は戸惑った。
「これはどういうことだ?」
「覚えていないのも無理はないか……。浦飯と私闘をやらかして失敗したそうだな」
「私闘」
 その言葉の響きが奇妙におかしくて、蔵馬は笑った。
「それを云うなら、オレたちがここしばらくやっていたことを、どう形容すればいいんだろうな」
「それもそうか。……」
 黄泉は眉を開いた。
「お前は浦飯に腕を飛ばされたんだ。浦飯は躯のところに駆け込んで、躯の側近の飛影という男にねじこんで、お前の腕をつながせたんだ」
「……」
 蔵馬は言葉を失った。力が抜け、壁にもたれる。
「本当か……?」
「本当だ」
 黄泉は明らかに笑っていた。やがて機嫌の良さそうな微笑を見せた。
「まさか、そんなことになっていたとは……」
「戦っていればあれほど度胸のある男だが、あの慌てようは…………やはり、面白い男だな。あいつは」
 蔵馬は困惑しきってシーツの上にあおのいた。身体中の力が抜けそうになった。
「まさか躯に……」
「浦飯にすればそうするしかなかっただろう。……しかし、また今回の件はお前らしくもない、ずいぶん……」
 咳払いして口元に手をあてた。彼が面白がっているのが分かった。
「お前も莫迦になれることがあるのか。ずいぶん練れたものだな」
「黄泉」
 彼は閉口した。あの時一瞬、幽助の放つ妖気に目を奪われて注意がそれたことが、これほど大事になるとは思っていなかった。幽助が、楽しんでやるとなったら全力でしかけて来るのは分かっていたのだ。
 自分が気を抜いてはいけなかったのだ。
 幽助の力が強い分、ダメージを受ければ話が大きくなる。
 ひとえに蔵馬のミスだ。幽助だったらそうするだろうということは、彼には今までの付き合いで充分に分かった。                 
 この場合、「事故」が起きないようにするのが、唯一の善策だったのだ。
 黄泉は一通り云って溜飲を下げたらしく、また生真面目な顔に戻った。
「この家は、しばらく好きに使え。しばらくは腕に荒い動きをさせない方がいい。完全につながってはいるが、まだ馴染みきっていないはずだ。一日一度は迂那に見舞わせよう」
「どうも……」
 蔵馬は、諦めてため息をついた。
 もうここまで周り中に迷惑をかけたとあれば、もう後はあきらめて休むしかなかった。
「黄泉」
 彼はふと気づいて早口になった。
「オレが担ぎ込まれて何日になる」
「三日……そろそろ四日になるが」
 その答に、蔵馬は再び頭を抱えた。母に外泊すると云わずに出て来たのだ。コエンマのはからいで、魔界と人間界を行き来するのは至極簡単なことになっていた。充分に日帰りコースなのだ。
 と、云うことは、一か月間定泊地無しの旅行をした挙げ句、帰って一週間もたたない内に、かれこれ四日間無断外泊していることになるのだ。
 今頃、母が警察に捜索願を出していても不思議ではない。
「……すまないが黄泉。後で癌陀羅から人間界に電話をつなげてほしいんだが」
 黄泉は薄く笑った。
「お安い御用だ」
 蔵馬は人間の身体と生活、母という執着の対象を手に入れた。
 黄泉は最初、蔵馬のその執着を彼との取り引きの材料に用いようとした。人間界での、南野秀一としての彼についても、黄泉は細かく調べ抜いたようだ。
 今、彼がなぜ狼狽したのか。何を思って自分に頼みごとをしているのか、それを黄泉は知っている。
 この盲目の王に取って、妖狐蔵馬は、固く凝り固まった怨みを核に、自由と己の安堵を取り戻すための光復の象徴だった。それがこれほどに柔らかい人間の肉体を持ってたち返って来たことには複雑な思いがあるはずだった。
 しかし黄泉も又、彼自身云ったように報復ばかりを思っていられる立場ではなく、野心も、望みも生まれた。
 目が見えて、愚かな殺し合いに血を燃やした過去よりも、彼自身四肢をつながれたのだ。
 そしてその鎖も更に切れた。
 それがこの男の目を穏やかにしている。笑いから棘を削る。自分自身の血を分けた息子を得て、黄泉の生き方はなおさら形を変えた。
「明日にでも癌陀羅からこの家まで電話を引かせよう」
「黄泉」
 彼は、戸口に向かいかけた黄泉を思わず呼び止めた。
「……すまない」
 黄泉は振り向いた。割り切れたように晴れた、しかしどこか抑圧された笑みを見せた。
「何のことだ?」
 そしてそれきり、部屋を出ていった。
 蔵馬は足許に視線を落とした。
 黄泉との関係にようやく清算の糸口を見出した思いだった。
 彼の中には、黄泉への負い目がある。彼が今の生活を経てのちでなければ、抱きようのない思いだった。後悔ではないが、負い目になっている。
 しかし、その負い目を持ち続けているのも、今の自分には必要なことだからなのだと思う。
 楽になり過ぎてはいけない。ヒトは、またはヒトの顔をして生きとし生ける者は、何もかもから解放されてしまっては、次の一歩に踏み出す力を持てないのだ。不可解なことだが、ひとは何かしら鎖を必要とする生き物なのだった。
 蔵馬は息をついた。 
 疲れた。
 躯が腕をつないだというが、あるいは自分は、腕がちぎれただけではなく、既に死んでいたのかも知れない。
 蔵馬は不意にそう思った。
 ちぎれた腕をつながれただけのことなら、これほどだるいのは理解出来ない。もし、彼が一度死んだ直後に蘇生されたのだとしたら、こんな風に身体が自分のものではないように力が抜けているのもうなずけた。
(まあ。……)
 どちらだとしても、それはたいしたことではなかった。数日だるいかもしれないが、いずれ回復するならさして問題はない。むしろ事態のアフターケアに時間がかかりそうなことが困りものだった。
 蔵馬はその後数時間眠った。
 夕刻過ぎ、そろそろと起き出した。窓の外を眺めると、今日の夕刻は見慣れた魔界の風景だった。
 空は低く曇り、天地を暗い青の稲妻が何重にも縫いとめて、なぜか蔵馬に取っては、この見慣れた光景の方が安心出来た。
 蔵馬は額に手をおしあてた。
 さっきまで全身凍ったように冷たかったが、今は少し微熱ぎみのようだった。だが、眩暈は止まっている。妖怪の身体は回復期に入ると強い。あっという間に回復しはじめる。
 体が温かく、気分が良かった。
 わずかに目元が熱いだけだ。
 蔵馬は立ち上がって、水を飲もうと起き出した。建物はどうやら黄泉の別邸らしい。広く、掃除が行き届いていた。建物自体が、癌陀羅のものにしては冷たい印象がない。明かりをつけないまま、水を求めに行く。
 入口で、人の踏み込んでくるカタ、と軽い音がする。
 馴染んだ気配に、蔵馬は水を口にしながら笑った。明かりがついていないせいだろう。蔵馬が眠っていると思ったのか、彼がそっと気配を忍ばせているのが伝わってくる。
 彼は、入口から続く廊下の壁に寄りかかり、黙って立った。
 足音が近づいてくる。
「幽助」
 呼ぶと、彼は飛び上がるほど驚いたようだった。
「ばっ……」
 幽助は一歩下がった姿勢のまま、暗闇の中で彼をにらみつけた。彼の大きな目が暗やみの中で、稲妻を反射して煌めいた。
「こんな真っ暗な中で何やってんだよ」
「さっき起きたばっかりなんです。水を飲みに出て来たんで」
「そっか。……」
 幽助は短い息を吐いた。 
「順番が違うよな。悪ィ」
 顔を上げる。
「大丈夫なのか?」
「まあ、大部分は」
 幽助は何とも云いようのない顔になった。言葉が出てこないようだった。
「お前がさ……」
 しばらくして力が抜けたようにつぶやいた。
「腕ぶっとんじまってて。……もうオレ、お前のおふくろさんに腹かっ切って詫びねーとって思っちまったぜ」
「……」
 幽助の珍しく心底参っている様子に、胸が痛んだ。
「すみません。……」
 彼は、低くつぶやいた。
「キミにも、他の周りにも、こんな時期に随分迷惑をかけてしまった」
「ばっか、違うだろ」
 幽助は眉をひそめた。右肩を左手でこすった。
「オレはさ、仙水とやった時も力の加減がきかなくて、あいつを殺しちまったし。……結局、ああいうことが前にあって……それから二年も散々修業して。なのにオレはたいして進歩してねえじゃねーかって思ったら、ちょっとな」
「そんなことはない。キミは進歩してますよ」
 蔵馬は思わず言葉に力を込めた。
「ただ強くなりたいと思うだけで、普通ならキミみたいに強くなれるものじゃない。……オレはこの間もそう考えてた」
 稲妻が、また新しく窓外を照らした。お互いの目に、複雑な色の混じりあった魔界の空が一瞬映えて、不思議な色合いに照らし出される。
「それで、キミの妖気を見ていて……」
 蔵馬は自分自身が云おうとしていた言葉に当惑して、続けられなかった。
 何か、自分がまずいことを云い出そうとしているような感触がある。それは告白めいていて危険に思えた。
 幽助は何も云わずに彼の言葉を待った。
 彼の視線を受け止める。暗闇の中で、射抜くように彼の大きい目が見つめ返しているのが分かった。
 蔵馬は、後に引けなくなったような気がして、苦笑して正直に云い足した。
「妖気がこんな風に綺麗なものかと思って見蕩れてたんだ。それでついうっかり、ミスってしまって。……」
 幽助は、しばらく考え込むように黙った。
 蔵馬は仕方なく、もう一言つけ加えた。言葉にするために頭の中で形にして、それが自分の本音だと知っていささか気恥ずかしい思いをした。
「黄泉戦の時と同じような妖気だったでしょう。あれほどテンションの高い「気」をオレに向けてくれて、実のところかなり嬉しかったんですよ」
 幽助は驚いたような顔になった。
「ふうん。……」
 そして肩をすくめるようにして笑った。
「奇遇じゃねェか」
 彼は、思わず見蕩れるような鮮やかな目をした。
「あの時、オレも似たようなこと考えてたからよ」
「……似たようなこと?」
「そ。似たようなこと」
 幽助は突然、喉の奥で笑い出した。
「どうしたんですか?」
「や、何てのかさ…………」
 幽助は笑いながら蔵馬の顔を見上げた。
「オレはさ、妖気とかもそうなんだけど、妖狐の格好したお前って、何かすげェだろ……。妖怪だから当たり前だけど、人間離れしてて……」
 幽助は視線を上げて天井を眺め、自分が何を云いたいのか的確な言葉を探すように言葉を切った。
 そして、ほっとしたように視線を戻した。
「そ、つまりさ。妖狐の時のお前ってすげェキレイじゃねーか。……あんまりキレイでおっかねーって感じなんだけど。あの中身がお前だって思ったら、何かすげー楽しくなっちまったんだよな」
 そして霊丸を構えるポーズで、蔵馬の胸に向かって狙いをつけてみせた。
「で、ドン!」
「なるほど」
 蔵馬は苦笑した。
 幽助が妖狐の姿を取っている自分を、『綺麗』と例えたことが不思議でもあった。
 長い爪と、蒼銀色を帯びた白髪、色の淡い瞳、あの姿を幽助は美しいと感じるのだろうか。
 幽助が無頓着にそんなことを口にして見せるのも、またひとつ不思議に思える。
「こんなんじゃ、またババアにどやされちまう」
 幽助は自分のてのひらを目の前に上げて、視線を落とした。
「また、頑張んねーとな」
「そうですね。オレも、色々考えることがあるかも……」
 幽助は、彼の左手に無造作に触れた。しかし、だいぶ力が抑えられている。まだ傷を気づかっているのだ。
「もう大丈夫ですよ」
「よくつながったよな、あの腕。……」
 幽助はふと目を上げた。さっきよりも一段と近い位置で視線があった。
「お前、熱いけど。熱あんのか?」
「そういえば、あったかもしれません。でも、どんどん良くなっていってるから平気ですよ」
 幽助はうなずいた。そして、また喉の奥で笑った。
「この前、森でやり合っただろ」
「はい……?」
 蔵馬は手を引こうとした。幽助の手に力がこもった。
「あれがまだ、スッキリしてないみてえ」
 蔵馬はさすがにぎくりとした。
「云っておきますけど、当分駄目ですよ。今のオレは、キミの半分の力もないかも知れない」
「そうなんだけどな。……っていうか、……あの時、本気でやってた時と同じ感じで……」
 彼は珍しく言葉を選び選び、迷うように話した。
「今は妖狐じゃねェんだけど、何か、お前がキレイでおっかねー感じ。……」
 幽助は考え込むように瞬いた。
 そして、彼は合点がいったように不意に笑った。自分が感じていることと顕在的に思うことの調整がようやく取れたように、まつげの中に垣間見る瞳をきらめかせる。
「なんだ、オレ……」
 彼は今度は声を立てて笑った。蔵馬は、彼が何を云わんとしているかは何故か察せられるように思ったが、それを感情的に納得出来ずに黙っていた。
「そっか。……お前がキレイって、こういうことか」
 幽助の手が蔵馬の頬に伸びてくる。彼が微熱を出しているせいか、てのひらはひやりと冷たく思えた。
「幽助」
 思わず呼んだ。予想もしなかったことに面食らった。
 彼は何も云わなかった。てのひらと同じように、普段彼にイメージする暖かさと食い違う、冷たい唇が蔵馬の唇に押しつけられた。
「幽助!」
 蔵馬は幽助の肩を思わず引き離した。嫌悪感がどうこうと云うよりは、まず驚きが先に立った。
 その瞬間、つながったばかりの左手に、ほんのかすかな痛みが走った。
「あんまり腕、動かすなよな」
 瞬間的に眉をしかめた蔵馬を、幽助が気づかわしげに覗き込んでくる。
 その言葉と仕草のギャップに彼は呆れて抗うのをやめた。何か柔らかいものを撫でるように幽助の手が髪に触れてくる。
 彼はもう一度幽助の唇が触れてくるのにいささか混乱しながら任せた。感触の甘さは、彼の唇の柔らかさからのものなのか、自分の気持ちゆえのものなのかは分からなかった。
 彼がこんなことをするとは思わなかった。
 考えてみれば、こういうことに興味があるという印象がないのが不思議だった。むしろ潔癖なのではないかと思っていたのだ。
 幽助は唇を一度離し、息をひとつつくと、今度はかすかに唇を開けて蔵馬に重ねてきた。
「……」
 蔵馬は、唇の中に忍び込んできた柔らかくあたたかな感触に目を閉じた。
 一方的な驚きから引きずり落とされたように、彼の方もテンションが上がり始めた。
 鼓動が早まった。
 妖狐蔵馬として生きて来た長い間、男とも女とも気が向けば情交を繰り返した。魔界ではそれほど不思議なことではない。
 特にそれに感慨を覚えたことはなかった。
 情を交わすことは、彼には特別に執着のあることではなかったし、かといって拒むほどのことでもなかった。
 南野秀一の身体を持って再び生まれてからは、蔵馬はほとんど欲望というものを感じなくなった。しかも、これは彼自身意外に感じるところだったが、南野志保利から受け継いだ遺伝子の中に組み込まれた禁忌が、彼自身に影響を多少及ぼしているようだった。
 たった十数年ですら極めて潔癖に過ごして来たというほどではないが、しかしそろそろ、魔界での習慣を自分自身に適用することはないかもしれないと思い始めていたところだった。
 しかし幽助が触れた唇から、彼は自分が柔らかく崩れて行くように思えた。しかも幽助が自分に対して、女にするのと同じ意味で触れているのだということが、確かめなくとも彼の仕草で薄々感じられるのにもかかわらず、だ。
「どうしてだろうな。……」
 彼の胸のなかを見透かしたように、幽助が唇が離れた時、ささやくように云った。
 彼には彼で何かしら思うところがあるのだろう。
「何でお前に。……」
 そう続けた。蔵馬は息を吐いた。
 結局。
 彼の方では、魅かれるという大前提がなければ、指一本触れられるのも、触れるのも御免だ。幽助に触れられることに抵抗がなかった時点で、それは彼を許しているということだ。
 ただ、幽助をその対象に数えるということが意外だっただけだ。
 南野秀一の身体を持っている今、心理的抵抗が全くないのも不思議だった。
「どうしてオレに……?」
 先刻の彼の言葉をそのまま反対に返すように蔵馬は云った。
 幽助は困ったように思案した。
 ふと彼は生真面目な顔になった。
「強くて、挑戦してェ相手で、でもって、アレじゃねーのか。『キレイ』だから」
「ふうん。……」
 蔵馬は笑った。その答にひとまずは満足する自分を発見して苦笑する。
 最初に会って以来、幽助のペースに巻き込まれること甚だしいが、しかし、自分がそれに不満を感じていないのなら問題はないのではないか?
「お前も嫌じゃねェみたいだけど」
「うん、そうですね」
 蔵馬はほんの少し考え込んだ後に答えた。
「強くて、挑戦されたら断るのが勿体無い相手で、で、『キレイ』だからかな」
 幽助の目が笑うのを見ながら、蔵馬は引き寄せられて目を閉じた。

 小学生のころ、理科の実験のフィルムで、植物の開花のシーンを時間を短縮して映したものを見たことがあった。
 フィルムの最初では、ようやく二葉のほどけた芽だったものが、数分間の間に緑色の茎を伸ばし、花枝をつけ、蕾を抱き、花片がほころびる。
 幽助が今、胸のなかに抱え込んでいる、きっかけとなった感情が、果たして欲望なのか、もしくは恋愛感情めいたものなのか、彼自身には全く判断がつかなかった。
 しかし、どんな種類の草木の種だったのかはともかく、この芽が、発芽から開花にこぎ着けるまでの速さは、頂度時間縮小フィルムを見ているようなものだった。
 幽助の中に生まれた蔵馬への興味は、非常識なスピードで開花した。
「蔵馬」
 名前を呼んでみる。目を閉じていた蔵馬がまつげを開く。
 蔵馬はガードが固い。
 自分自身も望んでいることでなければ、決して許さないだろう。彼は、不当な暴力から自分を守るだけの誇りと実力、知力を兼ね備えている。彼が人にこんな行為を無理強いされるなど考えられないことだった。
 彼が目を閉じて自分をさらけ出すというのが、どんな意味を持つのか、幽助は薄々察していた。
 それが、衝動を彼と分け合っているのだという実感になる。
 蔵馬の服をはだけて触れる。
 背は高いのに彼の身体は、極端に筋肉がつくわけでもなく、贅肉もつかない全体に肉の薄い身体だった。
 元々彼の姿かたちはほっそりと優しかった。
 中性的と云えないこともない。
 美しい野生の獣に触れる機会を得たような気分で、幽助は蔵馬のはだけた胸に、人間と同じ脈を持つ首筋に、幽助と絡むようにして伸びた白い脚に触れた。
 蔵馬は腕を重く下ろし、夜着の胸を大きくはだけたままで壁際に立っている。
「腕きつかったら云えよ」
 そう云うと、蔵馬は湿ったまぶたを開いて幽助を見た。
「やめられるんですか」
「お前がしんどいんだったらしょうがねェだろ」
 云うと蔵馬は静かにまばたき、次いでおかしそうに目を細め、幽助に頬を触れ合わせた。
「もう平気。オレはさすがにキミほどはタフじゃないけどね」
「人間並みとはいかねえよな」
 幽助は笑った。腿を撫で上げる。脚の間に触れると蔵馬はまた目を閉じた。呼吸が少しずつ早くなる。唇がかすかに赤みを増した。
 蔵馬にこんなふうに触れることがあるとは思わなかった。
 衝動に任せて触れてみた後も、全く嫌悪感を感じさせない身体だった。
 てのひらに力を込めて彼の熱を育てる。
「……」
 蔵馬はかすかに吐息を漏らした。
 その吐息の濡れ方に、彼の中にも興奮が生まれているのが分かった。もっとはっきりと興奮を共有するために、敏感な部分を探して愛撫を加えた。
 慣れた指ではなかったが、しかしその指に沸き起こるものがゼロという訳ではなさそうだった。幽助の指が強くなると蔵馬は眉をひそめ、背筋をこわばらせた。
「っ……」
 幽助の肩にかかっていた指に力が入った。彼はゆっくり背中を曲げ、幽助の肩に額をつけた。
「……痛い。……」
 蔵馬はかすれた声でささやいた。
 指に力を入れ過ぎたようだった。
 左腕は下ろしたまま、蔵馬は右手を上げて幽助のうなじに絡めた。彼の身体を割って愛撫を加える幽助の髪を撫でる。
 その、もの慣れたゆるやかな仕草が幽助を煽った。
 彼は顔を上げて蔵馬の唇に触れ、愛撫を強めた。触れたままの唇の中で、声がわだかまるのを感じる。唇を離すと蔵馬は声をかみ殺した。
 幽助のてのひらがあたたかいもので濡れた。
 濡れた指でそのまま彼の奥を探る。
「……!」
 そこに触れた時、幽助の抱きしめた背の高い身体は、初めて過敏な反応を返した。
 指で奥まで探る。
 蔵馬は目を開けなかった。
 首を振って、短く息をついた。時折、耐えられないように甘く深い息を漏らす。痛みはないようだった。指を回すようにして探ると、幽助のうなじを抱いた右腕の指に、ぴくりと力がこもる。
 幾度目かに指に角度が加わった瞬間、壁にもたれて立っていた蔵馬は膝を折りかけた。
 幽助の体でやんわりと押さえられ、次第に壁を背中でこすって座り込む。幽助は彼の背中をまきしめて左腕に負担がかからないように支えた。
 蔵馬より幽助の身体が小柄なため、蔵馬は脚を深く折り曲げた。
 力の抜けた左腕が、自分を持て余すように時折幽助の背中にかかるが、また身体の脇を伝って下りる。脚が浮き上がった。力がこもって内側に筋が浮かんでいる。
 幽助の腿が彼を押し開けて深く割り込んだ。
 肩に力が入って、蔵馬の薄い肩に鎖骨が浮き上がる。指が折れ曲がったかと思うとふっと力が抜け、また、寄せるように力がこもった。
 湿った息が蔵馬の唇から続けさまに漏れた。
 彼は、幽助が彼を分ける動きに眉をひそめて耐えた。
 髪が頬に流れ落ちて蔵馬の表情を隠した。幽助が、やや不器用に、指で汗にはりついた髪をかき上げた。深く抱き込んで首筋に顔を埋める。微熱を帯びた蔵馬の身体の中は熱して、攣れるように彼をきつく取り込んだ。
 荒れて乱れた息がもつれあってリズムを造る。
 蔵馬は幾度か声を上げた。痛みにも決して声を上げることのない蔵馬の声は、幽助の耳元や背中に衝撃をもたらして、なおさらに駆け上がらせる。
 汗に濡れた身体が滑る。お互いの身体を引き止め、引き寄せる。時折漏れる声が、段々に甘く濡れる。
 禁忌が入り込む余地はなかった。

 翌朝二人は遅くまで朝寝をした。
 それでも蔵馬は幽助より早く起き出した。
 幽助が起きてこないのを放って身じまいを済ませる。左腕には完全に痛みがなく、熱も下がっていた。幽助ほどではないなどと云ったが、結局は彼もさほど変わらない。人間の身体を持っていてはとても望めないタフさ加減だ。
(目も当てられないというのはこのことだ……)
 苦い顔をしようと思って、しかし胸の中は苦くはなかった。
 幽助と寝たことで自分を責めようとは思わないが、実際、寝ようと思ったことに関しては、いささか正気を逸していたのかもしれないと思う。
 蔵馬はため息をついた。空はいつもとほぼ変わらない、魔界の空だ。
 風はなく、しかし昨日ほどは暖かくなかった。
 いつもと同じように稲妻を青く空の片隅に止めつけて、しかし比較的静かな一日の始まりと云えた。
 蔵馬と数十分違えて、幽助が起き出してくる。
「……はよ」
 幽助は淡泊につぶやいて伸びをした。
「おはよう。よく眠れました?」
 蔵馬の口調に意図的な、しかしソフトな皮肉が混じったが、幽助は気にしなかった。
「昨日は、枕が良かったもんで」
 分かっているのか分かっていないのか、彼はそんなことを云った。
「お前、おふくろさんに連絡取ってなかったんだって?」
 ふと困惑したように眉をひそめて幽助が尋ねた。
「ああ、そうなんです。……誰から聞いた? それ」
「黄泉」
 幽助は微妙に具合の良くなさそうな顔になった。今回の件で、あちこちに借りを作ったのは蔵馬もだが、もちろん事にあたって動いた幽助も右に同じくだろう。
 躯ばかりでなく黄泉にまで力を借りたことになるのだ。
「お前んち、ちゃんとしてそうだもんな。……ホント、悪い」
「ああ、いえ、この件に関しては本当、オレのフォロー次第ですから。……だいたい、魔界に出かけてくるんだから予期してない事態に出会うことも、計算に入れてて然るべきだったんです」
「……」
 幽助は、考え込むように沈黙した。
 彼は、南野の母の絡んだことになるとどう対処していいのか分からなくなるようだった。
 何度か母に会わせたが、その度、幽助が自分の家庭とのギャップにぎくしゃくするのが蔵馬には見ていて半ばほほえましく思うところだった。
 だが、幽助の方にすれば、同じ母子家庭同士でも敦子のような母親のもとに育って、数日息子がいなくなることに本気で胸を痛める母親に馴染めないだけに、何か壊れものを扱うような気持ちになってしまうらしい。
「オレは、すげえ面白かったんで、またやりてーんだけどな」
 幽助が、何かを思い出すように視線を遠く当ててまたたいた。
 蔵馬の沈黙にはっとしたように、幽助は抗弁するように云った。
「ケンカのことだぜ、ケンカのよ」
 そして、息を吸い込んで、今度はまっすぐに蔵馬の顔を見られないように空に視線を逃したままで、困った顔で笑った。
「や……夕べのもな。やっぱ、すげー楽しかったわ。……」
「そうですか?」
「そうですかってな」
 幽助は、しゃがんで自分の膝に肘をついた。このしばらく忘れていたが、そんなふうなポーズをとると、幽助が人間界ではほんの十代の少年なのだということが今更のように思い出された。
「お前はどうなんだよ」
「楽しかったですねえ」
 本気で応える気がないように見えたらしい。
 幽助は、抗議するように口を開いたが、ふと前方の空を眺めて、目元をなごませた。
「なんだ、アレここから見えるのか……黄泉の奴、それでここにしたのかな」
「?」
 蔵馬は幽助の指す方向に目をやって、胸を突かれたようになった。
 蔵馬が桜を植えこんだ億年樹が薄紅色にかすんで、木々や建物の向こうにわずかに頭を出している。
「オレとかは、まあ、あんまりそういう関係ねえけど」
 幽助は彼らしからぬもの優しい声を出した。
「早く連絡しろよな」
「今日、早速」
 調子は良くなっているが、万が一人間界でトラブルがあってもこの腕では対処しようがない。本調子になるまで、もう数日の間は魔界にいるつもりだった。
 彼は突然、無性に、あの人間界の見慣れた桜を見たいと思った。
 しかし人間界に平穏に暮らせば、幽助や、この魔界の凶々しい美しさが懐かしくなるだろう。
 億年樹に統合された二つの故郷の光景を、蔵馬はふと、胸の痛む思いで見つめ、まぶしく瞳をすがめた。

 No wind,no cold,blue sky.
 風なく、雪なく、青空────。

21: