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S02_02_綺麗な傷

03 01 *2013 | Category 二次::幽遊・幽×蔵他(蔵馬中心)

s02_01の続き。

続き




(寒い……)
 蔵馬はシーツの上でかすかに震え、目を開けた。
 まだ時間は早い。しかし、太陽不在の魔界で、気候が時間帯に左右されることはほとんどない。彼は起き上がって窓を開けた。
「……」
 薄白い光が目を射た。目を見はった。信じられない思いで蔵馬は手をさしのべ、窓の外を柔らかく降り続ける白いものをてのひらで受け止めた。
「雪だ。……」
 窓枠に座って、外一面を染めた白いものを眺めた。
 魔界で雪が降っているのを見たのは初めてだった。天を見上げる。空にはいつもの厚く昏い雲がかかり、雪の合間を縫って、銀蒼色の稲妻が空と平地をつないでいるのが見える。
 雪が降っているのは癌陀羅だけなのだろうか。魔界に異常気象というのも妙な話だが、こんな風に気象が乱れるのは珍しいことだった。
 いつになく冷たい大気に、二の腕やうなじの肌がそそけだった。蔵馬は身をすくめ、白い息を吐いた。数日前千切れたばかりの腕にかすかな痛みが走った。
 気象だけのことではなく、ここは蔵馬に取って突然馴染みの場所でなくなったようだった。
 トーナメントが終わって、魔界は奇妙なほど明るい静寂に包まれた。
 どこか居心地が悪いほどの明るさだった。
 魔界はこれほど、明るく開けた、広々と遠くの見晴らせる処ではなかった。深い谷や森を無数に抱え、その奥に更に深い亀裂をたくわえる。全てがさらけ出されたことのないその胎内に、昏い力をひそめた生き物をおびただしく飼っていた。
 幽助の云い出した非常識な魔界トーナメントが終わって、魔界には初めての大統領が登場した。魔界の住民たちの中に浸透したアナキズムを、数年前まで人間だった幼い『雷禅の息子』がくつがえしたのだ。幽助の取ったトーナメントという方法は、互いの目からも姿をひそめあって暮らして来た妖怪たちから、いささか毒気を抜いてしまったかのようだった。
 彼らに取っての力は懐に隠し持つ武器だった。勝敗は片方の死を意味するものだ。公然と人目にさらして優劣を競うというのは魔界の住人全てに取って発想外だった。
 魔界にも今まで一通りの秩序は存在した。黄泉、躯、雷禅の三人の妖怪たちは魔界を大きく三分し、逆説的な千年王国をきずいていた。そこに恐怖政治のカラーがないのは、逆に、秩序の下にあることを由としない魔界の住民たちの性質ゆえのことだろう。己を凌駕する相手でなければ決して認めない彼らだからこそ、彼らに君臨する三人の妖怪たちの力が示されていたのだ。
 その力関係をくつがえし、根本から掘り起こすようにして幽助は魔界を変えてしまった。逆に云えば、トーナメントなどという突飛な方法で流れを変えられるのも、魔界だからこそのことだ。
 これはまさに祝祭とも云うべき瞬間だ、と蔵馬は思った。
 魔界の住人として生を受けて千年以上たった今日、老木が倒れ、新しく烈しい若木の伸びる瞬間に立ち会っているのだ。
 魔界はいまだ深い。
 古い習慣や、更に古い、数万年の命を持つ妖怪をも隠し持っている。 
 しかし、トーナメントが魔界の表社会を平定したのは間違いなかった。

 蔵馬はトーナメントの最中、たえず人間界と魔界を往復していた。南野秀一との二重生活は、精神的な疲れに縁のない彼には楽しかったと云ってもいい。
 今回腕を吹きとばしたアクシデントで魔界に一週間足止めされたが、そろそろ人間界に戻ってもいい頃合いだろう。母に云い訳をするのに苦労しているのだ。
 しかも、腕を飛ばされた日とその翌日はひどい熱を出しているから、母に無断で三日以上家を空け、ただでさえ心配させているのだ。
 蔵馬は、具合を確かめるように腕を上げてみた。
 おととい無理をしたのも響いてはいない。
 伸びをしても完全に痛みはなかった。
 トーナメント後の収拾に忙しい中、周り中に迷惑をかけてしまった。
 それは当の本人とはいえ、幽助や、治療にあたって癌陀羅郊外の建物をあきれ半分で提供した黄泉にも同じことが云える。
 腕をつなぐために飛影と躯が尽力してくれた。
 彼はかすかなため息をついた。外一面に降りしきる白いものを見ながら笑った。
(あちこちに借りを作ってしまったな)
 トーナメントと違うかたちではあったが、戦って初めて、「戦う相手」としての幽助があれほど魅力的な相手だと知った。あの、あかあかと輝く妖気の激しさと美しさに目を奪われた。
 以前、妖狐の姿に戻った時につきまとった多重意識が次第に統合されつつあった。
 南野秀一の姿から初めて妖狐の姿に戻った時の、あの二重写しにした写真のような、不思議なソフトフォーカスのかかった世界とはまた別の世界が開けるようになった。ある意味では彼は本来の自分をようやく取り戻したのだとも云える。
 二つの身体を使いこなすことが出来るようになったのだ。
 妖狐に変わった自分自身の目を通して見た幽助は、自分の力をぶつける相手として、この上なく魅力的だった。
 蔵馬は元々は好戦的な男だったが、それは南野秀一の性質と融合することによって、大分変質しつつある。
 その蔵馬に、幽助は力まかせに引き裂いて征服したい高揚感を呼び起こした。
 妖狐蔵馬は、妖気だけをとっても、強烈な力の持ち主だ。
 だが、彼の身体それ自体も武器と呼べないことはない。しなやかだが丈の高い身体、長い腕、刃物のような長い爪を持っていた。
 妖力で戦う妖怪としての彼よりも、むしろ獣としての彼のその爪や腕が残忍な歓喜にうずくような、そんなあでやかな力を幽助は小柄な体の中に隠し持っていた。
 それで、彼は我を忘れたのだ。
 時雨と戦った時、他の相手と戦った時。トーナメントで、もしくは暗黒武術会で戦った時、彼には人間としての自分への執着があった。妖狐としての自分の否定ではなく、人間としての自分を捨て去れない未練があった。
 だが、幽助と戦った時ばかりは、そういったものがどうでもよくなったのだ。
 腕の回復を待ってしばらく安静状態だった時、彼は部屋にあおのいて、戦いをシュミュレーションした。幽助との戦いや、そして今回戦わなかった何人かの男との戦いもシュミュレーションしてみた。
 それが思ったよりずっと己の心を浮き立たせるということに驚いた。
(しかたがないな────結局これもひとつのオレの本性だ)
 「好色」とさえ形容出来る、戦いに対しての自分の執着ぶりに失笑した。
 飛影とも今回彼は戦わなかった。過去、飛影と本気で戦ったことは一度もなかった。
 南野秀一の身体を持った蔵馬と戦うことは、飛影の食指をそそらなかったのもしれない。
 蔵馬の方では、戦う相手として飛影を眺めれば、彼は充分に幽助と同じような誘引力を持っていた。
 それをあえて戦わずに側にいる。
 彼とも幽助とも。他の男とも。場を設けられることがなければ、蔵馬はもう、自分からは闘わなくなった。妖怪としては蔵馬は今、最高の贅沢をしているということになるのかも知れない。
 しかしあの瞬間、幽助に目を奪われた。隙が出来た。彼が一瞬全身で賛美したその妖気が彼の腕を吹き飛ばした。
 苦痛はあったが、その瞬間でさえ蔵馬に取って、それは苦痛そのものではあり得なかった。


 不意に背後に気配を感じた。
 一瞬背筋が硬くはりつめた。
 しかしそれが、馴染んだ相手のものだということにすぐに気づいて、蔵馬はほっと肩の力をゆるめた。
「魔界の雪というのも珍しい光景ですね」
 蔵馬はそっと口に出した。
 答はない。振り返ると「彼」は、表情の読みにくい大きな目を一度またたいた。
「つながりましたよ、腕」
 腕を上げて見せた。
「貴方にも躯にもずいぶん世話をかけてしまったみたいで、すみません」
 今し方訪ねてきたらしい飛影は目を伏せ、短いため息をついた。
「何をぼんやりしていた」
「いや。……あんまり面白かったのでつい……」
 蔵馬は笑って見せた。
 服の袖がするりとめくれて、白い皮膚が現れた。
 左手がちぎれたのだ。
 ちぎれた腕は躯がつないだのだそうだ。幽助が、トーナメントの後始末を兼ねて癌陀羅に残っていた躯の宿舎に駆け込んだのだ。
 もう腕には何の痕もなく、一回も千切れたことのないものと同じように肩から伸びていた。
 躯のそれがどういったシステムなのかははっきりと知らない。興味はあったが、躯は自分の領域を侵害されることを好まないだろう。
(……?)
 蔵馬は、不意に違和感を感じて己の腕の内側を眺めた。右手と見比べてみる。
 なぜ今まで気づかなかったのか不思議だった。
 右手の内側には、今も幾つかの傷が残っている。古いものから新しいものまで入り交じっている。一番新しいものは、時雨と戦って作った傷だ。
 しかし左腕の肩の付け根から下は、傷一つないなめらかな腕が伸びている。肉体の半ば以上が妖化した蔵馬は、普通の人間に比べれば格段傷の治り易い身体を持っている。しかし、それは完全というわけではなかった。
 明らかに幾つかの爪痕を残した鴉との戦いの傷や、他の傷も、この左腕には残っていたはずだった。
 特に、南野秀一の母に気づかれないようにするために彼が骨を折った傷があった。その傷を含めて、全ての傷が左腕から綺麗に消えているのだ。しかし指の形やなじんだ感触からも、それが間違いなく南野秀一の腕だということが分かった。
「躯の『治療』を受けると、傷はなくなるぞ」
 彼の視線の意味を見抜いたように飛影がつぶやいた。
「あれは傷をふさぐだけのことじゃないからな。……」
「経験者ですか?」
 袖を下ろして蔵馬は窓際の壁にもたれかかった。うなじを壁につけて飛影を見やる。
 飛影は猫のように切れ上がった瞳を細めた。薄く笑って答えなかった。
「ちょっと残念だな」
 彼はなめらかな白い皮膚に包まれた左腕に服の上から触れてつぶやいた。
「左腕にはあの傷があったのに」
「あの傷?」
 飛影はいぶかしげに聞き返した。
「そう。暗黒武術会の時、シマネキソウを抜いてくれたでしょう」
 言葉にわずかに皮肉な調子が混ざり込んだことを、蔵馬は飛影に隠そうとしなかった。
「あの傷、消えなかったんですよ。あれもひとつの記念だし、面白い傷だからと思ってたんですけどね」
「またそれか。……面白いだと?」
 飛影はしばらく沈黙した後、そう云った。
「その面白がりでお前は、時々馬鹿なことをやらかすな」
「今回の件ですか?」
「あいつが絡むといつもお前は羽目をはずすぜ。端から見て分かるくらいにな」
 飛影が苛々していると云うより、むしろ戸惑っている様子に蔵馬は気づいた。小柄な黒い髪の妖怪は、何か見慣れないものを見るように蔵馬を見た。
「人間の身体を持っているせいで、ずいぶん若いような気がしていたが、お前も結局古い迷信に取りつかれてるクチか」
「迷信…………」
 蔵馬自身も戸惑ってその言葉を低く繰り返した。飛影は、こういう場面ではいつもそれほど口数の多い男ではなかったから、奇妙な口数の少なさをおかしいとも思わなかったが、彼の中に何か不快にわだかまっているものがあることに蔵馬はようやく気づいた。
 何を指しているのか、と問い返しかけて、蔵馬はふと思い当たって、目の前に立った彼の姿を見あげた。
「飛影。おとといの晩ここに来ましたか?」
「……」
 飛影は無表情にまたたいた。ほんのわずかに唇をゆがめた。『迷信』という言葉とその沈黙とで、蔵馬は飛影が何をいぶかしんでいるのかを了解した。何を指して飛影がそう云ったのかが分かったのだ。飛影は、蔵馬が幽助と夜を共にしたことを知っているのだ。そして自分が幽助の妖力への執着故にそうしたのではないかと思ったのだろう。
 その瞬間、喉を笑いが押し上げて来た。彼は笑い出さないように顔を背けた。
「……何がおかしい」
 彼のうなじを、あきれたような飛影の声が追って来た。
 蔵馬はひとしきり笑いの発作に耐え、涙の薄くにじんだ目元を指で押さえて、飛影を振り返った。
「あれですか? 妖力の強い相手の肉や精液で自分の中にその妖力を取り込むっていう……。オレが幽助と寝たことを云ってるんでしょう?」
 飛影は腕を組んで蔵馬を見下ろした。
「お前があいつにのぼせ上がってるなんていうのより、その方が分かり易かったからな」
「……」
 蔵馬は思案するように飛影を眺めた。
「のぼせ上がってる……か。……でも現に貴方は今、オレが幽助絡みだと羽目をはずすって云ったでしょ……?」
 蔵馬は薄く苦笑した。
 それは確かに、飛影が今云ったように迷信としか表現しようのないものだった。だがそれは、蔵馬のように比較的古い妖怪であれば、特に珍しい話でもなかった。ここ十数年の間、人間の暮らしに洗われて、蔵馬はそういった感覚に無縁になっていた。咄嗟に飛影が云ったのがどういう意味なのか分からなかったほどだ。
 相手の肉を食う。
 無論、強い妖怪なほどいい。
 体液をすする。涙、唾液、血、精液……。
 女なら抱かれる。男ならば抱く。特に禁忌のない魔界であれば男同士、女同士で交わることもある。犯しながら、または犯されながら相手の胸に穴を開けて、冷たい血をすする。血が尽き、命がとぎれれば肉を腹におさめる。
 その行為によって相手の持つ強大な妖力をわがものに出来ると信じられていた頃もあったのだ。しかしそれはもう相当に昔のことだ。飛影のように、共食いはおろか、人間を捕食対象にすることもない若い妖怪には、その俗習は嫌悪感をそそるだけのものに違いなかった。
 実際に彼の身近だったものが、そうやって弑し合いに血道を上げたこともある、妖怪に取っては、蔵馬がこの世に存在することもなかった頃から、力こそが正義だったのだ。
 力のためであれば、たった今自分の身体をつながりあっていた身体を引き裂くことも、血をすすることもたいしたことではなかった。無論、心のつながりのない相手と寝ることなど、物の数に入らなかった。
 迷信といえばそれまでだが、魔界の住民の性質からいえば、それはむしろ魔界における原始宗教に近いとも云えた。
 妖怪にとっての共食いは、純粋な食事としては粗末なものだ。
 仲間の肉は妖怪の舌にはさほど柔らかくもなく、甘くもない。人間の肉の柔らかさとは段違いだ。
 相手の力への敬意がなければ、あえて自身も命を落としかけてまで試すようなことではなかったのだ。
 しかし、蔵馬はそれを軽侮していた。彼には、固く苦い同族の肉を食ってまで得たい力を見出したことなどなかっだ。
 ましてや男の精をむさぼって力を得るなど、ばかばかしくて話にならない。過去の彼は強過ぎて、逼迫した思いがなかった。楽しみを得る以外にその頭脳を使う必要もなかった。
 蔵馬はしばらく笑いをおさめきらず、肩を震わせた。突然潤った視界が飛影の姿をゆがませた。
「確かに、そういう意味で寝たいとしても、幽助は不思議な相手じゃないですけど。……あいにく違いますよ」
 飛影は、ただ沈黙して蔵馬の言葉を聞いた。
 彼は寡黙ではないが、自分の内面を語る言葉を交わすのが極端に不得手だ。虚しい、馬鹿らしい気持ちを抑えて気持ちを交わすのが飛影にとっては辛いらしい。
 その飛影が、唯一それをしてもいいと思える相手を、最近になって見いだしたことを蔵馬は知っていた。
「たまたま幽助が興味を持ったから、あんなことになっただけで……。オレは、彼に対する興味さえ薄れないなら、別に彼と寝ても構わない。それ自体に特にオレの希望が入ってたっていうわけじゃないんですけどね」
 蔵馬は笑った。
 飛影について彼が知っていることはそう多くない。蔵馬自身が見聞きしたことを分析することは出来た。だが飛影と彼は、お互いが外から得た情報以上に、過去を共有し合おうとしたことはなかったからだ。
(しかし彼は、過去さえ共有出来る相手を見つけた訳だ)
 蔵馬は内心、別の意味で笑った。
 躯という、あの少年のような女が、酸に爛れた半身に隠し持った華の、ものすさまじい美しさに、飛影が魅かれるのは理解出来る。蔵馬もそうやって人に魅かれることはしばしばある。
 ことに、南野秀一の身体に宿ってからの彼は、もっぱら興味を外界にひらき、他人を賛美することに肯定的だったからだ。
 例えば幽助が、そして例えば今目の前にいる飛影も、彼の賛美の対象たり得たのだ。永い間ヴェールを脱ぐことをしなかった躯も、あのあでやかな力をさらけ出した今は、そういった意味で例外ではなかった。
 蔵馬はふといたずら心を起こした。
 目の前に何か思案するように立った飛影の頬に手を伸ばした。
 ちぎれて、そして新しく肩につながれたばかりの傷ひとつない白い腕だ。伸ばした指で飛影の頬に触れた。飛影の皮膚は一見熱そうにも思えるが、実は驚くほど体熱が低く、ひやりと冷たい。
 飛影の冷たくなめらかな頬からうなじへてのひらで触れ、彼を引き寄せるようにして唇を近づける。
「こんなこと簡単ですよ。オレの興味を引いてくれる相手ならね」
 耳元にささやく。自分の唇を微笑がかすめるのが分かった。
 彼はまつげを伏せ、半ば遊び心が過ぎたかとも思いながら、飛影に唇を重ねた。

 飛影が彼に傷を残したのは、暗黒武術回の折のことだ。
 二回戦が終わった後、幽助と桑原は螢子たちに混じって行った。
 蔵馬はそのままホテルに着替えに戻った。全身血まみれでひどいありさまになっていた。傷も深い。珍しく途中までの道を飛影と共にすることになった。
 飛影は、こういう時にはたいがい一人ではずれていくだけに、蔵馬はもの珍しい思いで隣を無言で歩く彼を見つめた。飛影が屋外でなく、用意されたホテルで眠ることがあるのかどうかさえ、それも蔵馬は知らなかった。
 白色の太陽が照りつけている。
 高く中天に位置する太陽は、未だ白い光を照りつけて、足許に真夏を思わせる陰影を落とした。
 蔵馬は実のところ、内心では安堵している。
 幽助と一緒にいるより、傷の手当てをするのがずっと気が楽だからだ。幽助は気質がストレートなようでいて、こちらの虚勢や嘘をすっかり見透かすような目をする。彼の率直さが重い、というのではないが、なぜだかいたたまれない思いをすることもあった。
 シマネキ草を体内に植え込んだ傷は、幽助たちに云ったよりもずっと深かった。
 身体中にはりめぐらせた枝葉は、筋肉の間をくぐり、あちこちに血溜りをためて、今も鋭い痛みの脈を打っているのだ。これを枯らすには、まだかなりの時間と妖力を要した。
「……蔵馬」
 飛影が低くつぶやいた。蔵馬よりだいぶ小柄な彼の表情を間近に見る事は少ない。幽助の時のように覗き込んで見る事をしないからだ。
「……何ですか?」
 飛影の腕が蔵馬の左腕に伸びた。そこだけ綺麗にアスファルトの敷かれた、ホテルへの道の途中である。アスファルトが挑むように白い陽光を跳ね返す。
 その反射に目を焼かれて、手を取られるままに蔵馬は目を閉じそうになった。疲れているのかも知れない。酔いのようなものが一瞬、視界を大きく揺すった。
 凍矢との闘いで、シマネキ草をし込んだ大きな傷口が、左腕にはある。まだ枯れずに残るシマネキ草の枝が左腕の傷口から生々しく覗いている。
 飛影の意外にしっかりとしたてのひらが、その傷口から覗くシマネキ草に触れた。
「……」
 彼がそのシマネキ草の枝を握りしめたのと、烈しい、気を失ってしまいそうな痛みが走ったのとは同時だった。
 蔵馬は思わず声を上げた。不意をつかれたのを一瞬破るようにしてあふれ出した。
 目のくらみそうな痛みに息を詰まらせ、身体を折って倒れ込みそうになる。
 深くは心臓の周りにまでゆきめぐらせたその細かい枝葉を、左腕の傷口から、飛影がすさまじい力をかけて引き抜いたのだ。
 左腕の傷口から、血の筋がほとばしった。
 蔵馬はアスファルトの上に膝をついた。膝が震えて起こせなくなった。無理に引き抜けるはずもないものを、飛影が妖気で回路のようなものを造り、血肉を分けて引き抜いたのである。
 みりみりと肉を裂いて枝が通っていた感触が、肉の間をはっきりと残っている。息も出来ない激痛だった。
「悠長に枯れるのを待っているより、手っ取り早いだろう」
 飛影は、膝をついた蔵馬を見下ろした。醒めた声を出した。
「……っ」
 飛影は手許から、血にまみれた枝を落とした。
 彼はまだ蔵馬の血に濡れた手で蔵馬の襟を取った。蔵馬の上身を引きあげる。
「莫迦は嫌いだ。お前は莫迦でない処が気にいってる」
 蔵馬はかろうじて飛影の手を押しのけた。
 痛みに強い蔵馬にもこれはこたえた。
 こんな風にされても死ぬことはない。人間の柔らかい身体を持っていても、しかし半ば以上妖化した身体は、確かに枯れるのを待つよりも、荒療治で傷つけてしまった方がいいのかも知れなかった。
「……貴方はきついな」
 唇は痛みに震えて声にもそれを伝えたが、蔵馬はようよう笑みを見せた。
「でも────オレには、その方が楽かもしれない」
 飛影は蔵馬の襟元に触れていた手を離した。
「苛々させるな。今度今日みたいに苛つかせたら、オレが息の根を止めてやる」
 蔵馬は、今度は声を立てて笑った。
 楽しそうとも取れないことはない笑みだった。
 飛影との関係にはべたついた情というものが存在しないと思っていた。情の薄い関係は人の情を濃く持たない彼を安らがせる。失う事も、相手に失わせる事もない、乾いた関係を自分が欲しがっているのではないかと思った。
 だが、自分が変わったのは、人間の身体を得たことだけではないようだった。
 どうやら飛影の持つ感情も、蔵馬が思っていたのとは少し違うようだ。
 飛影は憮然と目を背け、血に濡れたシマネキ草を踏んで、先に歩き始めた。


 裏御伽Tが準決勝に進出したのを確かめて、幽助たちと合流した彼らは闘場の外に出た。
「覆面とちょっと話があるんで、オレはここで」
 子供のように小柄な覆面の後について、幽助はホテルと反対の昏い森に道をそれた。
 空模様は魔界を思わせる鉛色に濁っている。
「おまえらは今晩はホテルに戻るんだろ?」
 幽助は一度振り返り、飛影と蔵馬に向かってそう聞いた。
「ああ」
「蔵馬、傷放っとくなよ」
 幽助がそう念を押した。
 いいながら、彼の目がふと蔵馬の左手に止まった。
 彼はほんの一瞬奇妙な顔になった。大股に傍らに戻ってきた彼は、おもむろに蔵馬の腕に手を伸ばした。彼は案外なつっこいようでいて、普段はこうして気安く触れてくるタイプではない。腕を掴んでシャツの袖口をまくりあげた。
「何だよ、これ、ひどくなってるじゃんか」
 彼の腕は、傷口だけは塞いであったが、シマネキ草が体内を這っていたものを無理に引き抜いたなごりで、シマネキ草のあとを写して、絡みつくような赤黒い鬱血が一面に白い皮膚を染めているのだった。内出血としても見慣れない様相になっているだろう。二、三日もすれば消える傷だったが、生々しい上に酷いありさまになっていた。
「ああ……面倒になって抜いてしまって」
 蔵馬は袖口を引き下ろした。
「抜いたって、お前…………」
 幽助が理解出来ないように蔵馬を見た。
「枯らすって云ってて、もうほとんど枯らしかけてただろ」
「……」
 その瞬間、視界の片隅で、飛影がゆっくりと肘を曲げて右腕を伸ばすのが見えた。彼は一連のやり取りが聞こえていないように、何か別のことを考えているようだった。
 彼は空中の半ばに視線を当て、先刻蔵馬からシマネキ草を引き抜いた右手をゆっくりと一度握り、開いた。自分の視線をそこに向けた。
 それは見ようによっては挑発的とも取れかねない仕草に思えた。
 幽助がそれに気づいたのが蔵馬にも判った。幽助の目が静かに光った。飛影を見る目の中にかげりに似たもの、しかしやはり、より光に近いものがひらめいた。蔵馬を振り返る。蔵馬はなぜか狼狽して視線を落とした。
 その後、しまった、と、苦笑した。
 これでは実際に起こったこと以上のことを暗示してみせるようなものだ。
 幽助の視線の気配がふっと消えた。
「じゃ、またな」
 普段とどれほども変わらない彼の声がそう云って、覆面と一緒にそのまま森の中に消えて行った。
「全く、終わったばっかりだってのによ」
 桑原がぼやいた。
「もう帰ろうぜ。つき合ってられねえよ」                
 おそらく彼も複雑なのだ。幽助の強さはもう彼の想像の範囲を超えている。
(やれやれ…………)
 蔵馬は桑原と一緒に歩き出しながら思わず、また苦笑した。幽助は、シンプルなようで何を考えているのかもう一歩こちらに読み取らせないところがある。無理に読もうとすると、案外に複雑な道を入り込まなければならない。
 そうやって自身でねじれた感情をただすよりは、心臓の脇を這う植物の痛みを耐えた方がよほどたやすかった。
 蔵馬はわずかにため息をつき、飛影は関心を失ったように先に立って歩きはじめた。
 その傷は残った。 
 母に気づかせないよう、それなりに気を使った。肘の内側の柔らかい部分に残って、深い部分に現れた、新しい血管のように浮かんだ。
 その傷を見るたび不思議な気分になった。
 もう一人ではないのだと宣告されたような、あの首縊島の春を思い出すのだ。もう自分だけのために生きて自分だけのために死ぬ、自由な生は彼の中になかった。
 縛りつけられることを心地よいと思う日がまさか来るとは思わなかった。傷というものに縛られるのは二回目だ。一度目は彼の腕の傷ではなかった。母の両腕に残った、あのガラスの無残な掻き傷だった。

 蔵馬は、面食らったように立つ飛影にもう一度くちづけた。彼の唇の間に舌を忍ばせた。
 自分が面白がっていること、そしてそれがおそらく相手に伝わっているだろうということが分かった。
 飛影は特に抗うでもなくじっと立っている。
 彼の唇は子供のように薄く華奢なつくりだった。ひやりと冷たい。飛影の体熱が高いように思うのは、飛影が緋く黒いほむらを妖気の中に持ち合わせているからだろう。
 飛影の手が伸びて、蔵馬の後ろ髪を掴んだ。
 徐に、力を込めて後ろへ引く。
「痛い…………」
 蔵馬が笑いながらその手を引き離す。
「莫迦らしい────」
 飛影はつぶやいた。
「こんなことに何の意味もない……お前のいう通り、誰だって出来る」
 そう云いながら彼の息が近づいて、逆に飛影が唇を近づけた。似合わないもの優しい感触で触れてくる。
 蔵馬は彼の頬にてのひらをそえて、戯れかかるように髪の中に指を差し込んだ。
「誰でもっていうんじゃないんですけどね」
 蔵馬は飛影の唇を離れ、目を細めてささやいた。
「……」
 飛影が呆れ顔になった。この無表情な彼の中からここまで表情を拾い出せるようになったのも、付き合いの長さからだ。
 蔵馬がもう一言、たいして意味のない言葉を笑い混じりにつけたそうとした時、飛影がドアを振り向いた。ドアはてのひらの幅ほど開いて、見覚えのある顔が困惑したように立っているのが回まみえた。
「幽助?」
 思わず呼ぶと、幽助がドアを開け、顔を出した。
「……よう」
 幽助はどことなく複雑な面持ちでそう云って、一瞬黙った。
「出直すわ。……またな」
 そう云って、静かにドアを閉めた。蔵馬は、ベッドに座って飛影の肩に腕をかけた自分の姿をかえりみて考え込んだ。
 少しの間、幽助の出て行ったドアを見つめる。短くため息をついた。立ち上がった。
「……まさか追いかけるのか」
「それはもちろん」
 蔵馬は微笑した。
「今日はどうも。ちょっと失礼します」
 飛影は応えなかった。無表情に蔵馬を見あげた。
 蔵馬は上着を取り上げ、着替え始めた。とり急ぎ長衣を着こみ、釈然としない面持ちの飛影に手を上げて見せた。唇に薄笑みを残したまま蔵馬はドアを閉めた。
 ゆっくり外に出て行く足音が聞こえてくる。
「……」
 飛影は窓の外を見た。
 窓の外はかすかに銀鼠色を帯びた雪でうずまっている。向こうを歩く幽助に、追いついた蔵馬が話しかけるのが見えた。
 蔵馬がふりしきる雪の中で婉然と微笑する。
 髪が風に吹かれてなびいた。黒い流れが彼の顔を一瞬覆い隠し、また誘い込むように笑う彼の顔が現れる。
 寒いのか、首をかすかにすくめるようにして、両手を服のポケットに入れたまま、幽助に向かってまた何か一言二言ささやく。何を云っているのか察しはつく。無論『聴く』気にもなれなかった。
 遠景のなかで蔵馬は腰を軽くかがめて幽助の顔を覗き込んだ。幽助が苦笑するように首を振った。
「……莫迦が」
 気が抜けたようにつぶやいて、飛影は部屋を出た。
 わっと押し包むように冷たい外気が喉元に押し寄せて来た。
 どこもかしこも異常気象だ。
 彼は肩をすくめて、元来た道を戻った。

 蔵馬は、予想以上の外気の冷たさに頬をそそけ立たせた。寒い。さすがに魔界の雪だ。東京あたりの雪とは比べものにならなかった。薄着で出て来た彼にはこたえる寒さだった。
「幽助」
 彼は後ろ姿に向かって呼びかけた。幽助が振り向く。
 何か云いたそうな顔だったが、彼は何も云わなかった。蔵馬は頬が触れそうに近く彼を覗き込んだ。口角が上がり、自然に微笑が零れだした。
「……まさか、怒ってませんよね?」
「さあな……」
 幽助が白い息を吐いた。蔵馬は彼の目を見つめた。吸い込まれそうに黒く煌めく目立った。風に舞い上がった髪で視界を邪魔されて、それを耳の上にかき上げる。
「怒ってるんですか?」
「別に」
「そうですか」
 蔵馬は思わず笑った。幽助は一瞬眉をひそめたが苦笑を返す。
 ため息をつく。そのためいきがまた白く凍った。それは彼等があたたかな呼吸や血肉をそなえた生き物であるあかしだった。
 蔵馬は云いやんだ。幽助を見つめる。
 身体の中で、不思議に傷ひとつない腕の皮膚が、これからは蔵馬を「人間としての自分」に縛るだろう。それも面白い。
 それきり彼らは口をきかなかった。
 ただ魔物たちの上にふりつむ、祝夜の静かな雪の中を歩いた。

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