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ただあこがれを知るものだけが(仙水×樹)

03 01 *2013 | Category 二次::幽遊・幽×蔵他(蔵馬中心)


続き





 ひとところに居つこうとしない仙水について、樹がC区のロフトに移って、半月近く過ぎた。打ち放しの床に直接据えた寝台と、不似合いな数十インチのテレビ、手洗いとシャワーのついただけのがらんとしたロフトの中で、荒れて帰る仙水の帰りを待つ日々が続く。
 仙水の苦しみはいまだ、ゆるやかな弧を描いて上昇し続ける。樹には理解出来ない。理解したならすぐに飽いたかも知れないが、仙水の苦しみは彼には縁遠いものだった。
 耳を澄ませるとかすかに波の音がする。窓のないロフトの外の波の音を拾うのは、人間とは作りの違う彼の耳ゆえだ。こうしていると人間界の暮らしも悪くはない。ことに、日に日に荒廃し、外界に触れるごとに双眸に凶星を塗り込めて還るあの少年の隣にいるのは、永く倦怠に耐えた樹には、望外の悦びだった。
 何か生ぬるい体液のようなものに包まれ、愛撫される思いだ。心地よい。
 ロフトに向かって歩いてくる足音がある。それが仙水のものだと樹にはすぐに判った。寝台の上に横たわっていた彼は身じろいで起き上がった。こんなふうに振る舞うと主人の帰りを迎える犬になったような気分だ。それも彼にはたまらなく面白い。
 足音の主は何か重いものを引きずっているらしい。どうやら仙水忍は何かをたずさえて戻ったようだ。錆び付いた戸が引きずるように開けられた。
 ほの暗い月光がロフトの暗闇の中に差し込んだ。
「……忍」
 呼ばわると仙水はぼんやりとした視線を樹に向けた。前髪が何かに濡れて重くまつわってくるのを、掻き毟るように目の上から除けた。
「離れないんだ」
 ぽつりと云った。樹は闇の中でも光の下でもほとんどその能力に変わらない瞳で、仙水の手元に重く垂がったものを一瞥した。彼は立ち上がった。歩み寄った。仙水の手首にしがみついた、その冷えた肉の塊に手をかけ、引き離そうとした。その力は思いのほかすさまじく、軟骨がつぶれてちぎれ、身体とその手首から先がもぎ離されても、冷たい指は仙水の手首にすがりついていた。仙水はひそめた眉で痛みを訴えた。仙水の手から垂れた死者の手首から僅かな血が滴った。赤い。人の血だ。
「人を殺したのか、忍」
 樹は、土色の飛沫の散った仙水の頬に唇を近づけた。かすかに人間の血の匂いがした。仙水はまだ吹っ切れてはいない。毎晩のように妖怪を殺しながら、それでも人には手をかけようとしなかった。
 樹はまた彼の足許を見下ろした。若い男だ。何をして仙水の不興をかったのものか。路地に若い女を連れ込んで犯してでもいたのか、土と埃の匂い、女の体液と香水の匂いがする。樹は笑った。仙水に比べれば大半の人間たちの何と醜いことか。
「可哀想に。……」
 樹は仙水の手首に取りついた指をそっと撫でてやった。彼は人間を憎んではいなかった。しかし興味や感慨を抱いてもいなかった。彼の指がそっと撫でてやったそこから、どういった訳か、指の力がかすかにゆるんだようであった。人は死者であってもかならず誰かに救われたがっている。哀れであったが、樹にはその哀れを解する心がない。
 やわらかな粘液質の音をたてて手首は地に落ちた。
 樹がそれを除いてやっている間、仙水は人形のように立ったまま樹に任せていた。樹は人間ではない。自分が仙水の嫌悪の対象になり得ないことを樹は知っている。外観も体内の構造さえ望み得る限り人間に近く、人間界に暮らしながら、しかし人間が不可欠なものとして腹の中にいだく、あたたかな臓器や血を備えてはいなかった。彼の身体の中に詰まったものは人と同じ形の薄赤い、しかし脈動せずに沈黙する、静かに甘く冷たいものだ。
 彼は仙水の足許にかがみ、地をゆっくりと押し広げた。何か柔らかな粘膜をくつろげるように両手で大きく開いたその中に、樹は、冷たく冷えた男の死体を押し入れた。ロフトの床に開いた異空間への入口は、ひきつれるようにして男を呑み込んだ。巨大な唇に似たそれは、痙攣するように一度びくりと揺れ、再び静かに口を閉じて、一瞬後には何もない、ただかすかな血痕をとどめたコンクリートの床に戻った。
 樹は冷たい指で仙水の髪をかき上げてやった。それを仙水が気にしていた理由が分かる。血がこびりついて固まっているのだ。不潔であることを何よりも嫌う仙水だ。
「血の痕を消してこよう」
 シャワーを浴びるといい、と云い残して樹はロフトの外に出た。いい夜だ。外気に甘く血の匂いが混じっている。ひっそりと痩せた青ざめた三日月が空の端にかかっている。彼は注意深く仙水の歩いてきた跡をたどり、数百メートル分の血痕を消した。死体はもうどこにもない。この血痕があったからといってどうなるのでもないが、これ以上人間とのかかわり合いで仙水を煩わせたくなかった。
 仙水は何か目的を持たなければならないだろう。樹は思った。あの黒い天使にはいずれ刃を握らせてやらなければならない。いつまでもこんな風に心身を喪失したようになっていられる男ではない。
 彼の類稀な力は戦ってこそ価値がある。絶望しながら街をさまよう彼も美しいが、左京の山荘で血に濡れた仙水は何と気高かったことだろう。殺戮に傷ついたあの瞳の涙。樹は震えた。胸がしめつけられる。一番近い言葉で例えるならときめきだ。人間の感情と妖怪の感情を比べることはほとんど無意味だが、樹は仙水を愛しているとさえ思った。仙水のことを考えると胸の中がいとおしさに濡れてくるようだ。
 仙水はまさしく人間そのものだ。あの左胸には黄金色に拍動しながら今も心臓が叫ぶ。あの惨めな煌めきは人と人との争いの中に存在する独特のものだ。殺し合いを禁忌としない妖怪が、あんなふうに自虐的な輝き方をするものか。傷ついた仙水の放つ光は、樹にはその中でも至上のものに思えた。
 樹のうなじの髪が高揚の余り逆立ちかけた。瞳が紫のぬめりをおびた。
 仙水は樹よりはるかに強い。そして幼く無垢で、胸に哭き叫ぶ鬼を飼う。背に長く強い闇の翅を、額には星を戴く。
 あの右手に剣を握らせる。
 そして、崖のふちに立つ背を押して、聖戦の惑乱の中に突き落としてやる。
 仙水は天地、妖怪と人、聖性と汚穢の、奇怪で美しいキメラだ。

「幾らお前でも食事をしない訳には行かないぞ」
 かすかに湯の香りをまとって座る仙水に、樹は合成化合物の皿を差し出した。最近では仙水は、食材の舌ざわりを残したものを一切口にしようとしなかった。すり潰してペースト状にしたもの、しかも、樹にすればとても不味くて食えたものではない、薬品の調味料で味を目茶目茶に損ねた、食物ともいえないようなものしか呑み込まなかった。
 仙水が何ごとかを為そうとしているのは確かだ。生きようとしているからだ。仙水はそう生まれついている。人間に失望して死を選ぶよりも、自らの能力を最大限にいかして眼前の穢れに報いようとする。
 その仙水の潔癖な傲慢を樹は愛する。
 仙水は皿を取った。匙を渡してやると、機械的に口に運んだ。
 たった十数年しか生きていないのだ、この生き物は。樹は隣に座して、眩暈に似た想いの中で仙水に見蕩れる。十数年でこれ程までに烈しい自我を育てる、人間とは面白い生き物だ。
 長命な妖怪から見て人間の一生は蜉蝣のそれに似ている。いつでも指先で押し潰すことの出来る、もろい薄羽根の短命な生き物だが、足許、爪先を震えながら這い上ってくるその様を見守るのもいとおしい。この一匹はことに美しい羽を持っているから。今その翅はぼろぼろに傷ついてうすみどりの体液を流している。仙水は傷ついている。救われようとしている。喉の奥から多量の血を吐き続けている。
 飛び込んでこい。樹は静かに待つ。もっと傷つく方法をおれが教えてやろう。この腕に慰撫を求めて飛び込んでこい。それはただしお前の方から。
 皿を半ばで仙水はそれを押しやった。
「駄目だ。このくらいは食べないと、体を壊す」
「体を壊す……?」
 仙水の喉から低く頼りない、しかし攻撃的に棘を秘めた声が漏れた。
「健康でいることに何か意味があるのか?」
 牙を隠す思いで樹は口元の笑みを消した。ともすれば仙水への愛おしさに酩酊する樹は、あたかも人に近い精神を持つ生き物のように振る舞うことを忘れてしまう。
「仙水…………お前、忍……このままでいいのか?」
 目を上げた仙水の瞳を、樹は真っ向からのぞき込んだ。
「裏切られたとは思わないのか?」
「裏切った……」
 仙水は鸚鵡返しに繰り返し、自虐的な笑みに口元をほころばせた。
「俺は知らなかっただけだ。人間について。人間の一面しか見ていなかったんだ……誰も俺を裏切ってなんかいない」
「なら、知らなくていいのか?」
 ほんの僅かな努力で、樹は自らの声の中に、悲痛な色を忍びこませることに成功した。
「俺は知りたい。裏切られたとも思っている。……霊界にだ」
 彼はそっと手を伸ばし、ほとんど生物の気配を宿さない冷たい指を、仙水の指の上に重ねた。
「霊界は知っている。おれたちは知らなかったが、今まで霊界は人間界をスポイルするために、さまざまな悪を必要悪と偽ってきた。自分たちが三界の全てを掌握するために、全ての記録を各界から抹消し、独占してきた。霊界だけは知っているんだ、忍。おれたちは利用された。…利用されたおれたちにも科はある。だから知らなければならないとは思わないか……?」
 仙水は痛みに耐えかねたように微かに胸を喘がせた。
 彫像のような額に浮き上がった紋に樹は視線を注いだ。そうだ。ここで泣き暮らして終わる男ではない。妖怪の数百頭やそこら、体よく始末して人間界の正義などに埋没するより、仙水忍の額に飾られるべき栄冠がある。
「霊界には全てをおさめたビデオテープがあると聞いたことがある」
 樹は仙水の左耳に囁きかけた。殆ど吐息に近い声で、仙水の危機感に直接語りかけた。
「今まで人間が何をしてきたのか、人間の本質がどんなものなのか。そのビデオテープには全てがおさめられていると聞いた。おれは半信半疑だった」
 悲しみの次には怒り。人間である仙水に分かりやすい形の感情。まるで樹の意思がその中にあるように、潔癖な仙水を誘う必要があった。このあたたかな稚い指に智恵の木の実を握らせる。証拠さえそろえば、あとはこの膨大な力を秘めた、少年の形の凶星が、為すべき事を自ら探すだろう。
「霊界はある意味では人間にも妖怪にもフェアであると思っていたんだ」
 彼が目覚めさえすれば、樹は仙水が楽園を出るための門を護ればいいのだ。
「それは『黒の章』というらしい」
 隣で仙水が苦痛の声を漏らすのを樹は聞いた。その名前をおそらく仙水は知っているのだ。霊界にかかわればどうしてもその情報を耳にする機会も増えるだろう。決して見ることの適わない機密でも、機密それ自体の存在を隠しておくことは出来ないものだ。
「おれはそれが見たい」
 それをお前に見せたいのだ、忍。樹は心の中でそっとそう云い換えた。
「見てどうする……」
 仙水の喉から漏れた、数拾年の歳月を経たようにしわがれた声を聞いて、樹は内心苦笑した。こんなことで動揺するようではまだ駄目だ。今に、仙水は最も人の行く末に気持ちを動かされない人間になる。人の血にも苦鳴にも、嫌悪も快楽も抱かない、妖怪たちより更に闇に近い存在になるだろう。
 そして自分は、仙水の孵化を見守るためならばきっと何でもするだろう、と、半ば驚愕と共に樹は考えた。
「見てどうするかはお前が決めるんだ、忍」
 仙水の苦しみが、触感や視覚を伴って樹の皮膚を包み込んできた。仙水は何か汚物を呑み込んだように喉を鳴らした。もつれる足取りで手洗いに入り、吐いた。
 樹はそくそくと肌の粟立つ思いで仙水の帰りを待った。もう少しだ。もう一押しで仙水はこちら側の住民になる。
 やがて頭から水をかぶり、髪から水滴をしたたらせたまま、青ざめた仙水は樹の隣に崩れるように座り込んだ。
「本当は関わりたくない……!」
 低いささやきだが、その中にぎらぎらと燃える焔を見出して樹はほほえむ。
「人間の一切と、もう関わりたくない……だけど、駄目だ……もう、憎くて……憎み過ぎて忘れられない……」
「なら、お前が殺してやれ、忍。……あいつらを、お前の手で殺してやれ、最後の仕事として」
 樹は仙水の指を握りしめた。戸惑ったように、しかし仙水は樹の手を振り解こうとはしなかった。
 睫毛を伏せた。血を吸って、その血糊さえも乾いた刃が仙水の瞳の中には隠されている。瞳がまぶたで閉ざされるだけで、彼の面差しはひどく幼くなる。
「……お前は、どうして、妖怪なのに。……」
 再び開いた仙水の目に初めて樹自身が映るのを、彼はある感慨と共に眺めた。長命で、老獪な妖怪たちを最も多く蝕むのは、倦み疲れる生の長さだ。退屈な、気の遠くなる時間の繰り返しが多くの妖怪の気力を喪失させる。ことに樹は、自己顕示欲の強い妖怪達の中にあって、稀に見る己に興味を持たない種類の妖怪だった。それ故に彼をひたした倦怠はことさらに深く長く、仙水を見出すまでは、いつも薄闇に閉ざされたような毎日だった。彼は今でも、仙水を取り囲む世界に自身の存在を不可欠とは感じていなかった。しかし自身のために、仙水から離れないでいられるように、意思表示だけはしなければならない。またあの倦怠に閉ざされるのは御免だ。
「俺はお前と一緒に行くよ」
「……」
 解せない、といった風に仙水は表情を歪めた。
「お前にはそれでどんな見返りがあるんだ……?」
 背筋に熱い快楽の糸が突き抜ける。仙水の口から見返りなどという言葉を聞こうとは思わなかった。彼は確実に変わり始めている。仙水の体を自分の手で押し広げ、熱い闇を呑み込むための唇を造り出したような、半ばみだらかな快感が走り抜ける。
 樹は、片手で自分の胸元をはだけ、握り取った仙水のてのひらを自分の服の内側、人間なら心臓の位置にそっと押しあてた。
「触ってごらん……忍」
 忍のてのひらの甘さに皮膚が張りつめる。樹は甘い息を吐いた。その吐息に混じって、囁きを吐き出した。
「ここにはお前が切り離そうとしている人間の心臓も、血も、心もないよ。お前が嫌うものなら全部ここから追い出してやろう……」
 彼は仙水に頬を寄せた。すでに自分の抱く欲望を隠す気はなかった。どこにも鼓動するものがないことの証しのように、その白い胸の隆起の上に置かれた仙水のてのひらに、強く身を擦り寄せた。ほんの僅かな動きにささやかな刺激を拾い上げ、彼は、自分を呆然としたように見る仙水に、濡れた視線で応じた。
 溜め息のようにつぶやいた。
「お前を救いたいんだ……」

 仙水の中で高まったマイナス指数の緊張感を自分に向け、更に欲望に似た形にまで育ててやるのに、樹は数十分をかけた。
 仙水には樹のそれは慰撫に思えたようだった。そううつるならそれも良い。母親のように、聖職者のように、仙水がその時欲するものの紛い物で在ることに、何の抵抗もない。彼が乾いたならその口元に杯を差し出そう。仙水のおかげで樹は憧れを知った。その代価としては易いものだ。仙水の潔癖さを刺激しないよう、部屋を全て暗くはしなかった。唇へのくちづけも避けた。青ざめた薄闇の中で、微かな波の音を鼓膜に拾いながら仙水にかがみ、彼を静かに追いつめた。
 戸惑ったように仙水の指が揺れる。お前は何もしなくていい、とささやいて樹は彼のまぶたを、自らのてのひらでふさいだ。
 横たわった仙水の身体に重なり、どこか痛ましく熱く高まった彼を、人間よりもやや冷たい、己の内側へ迎え入れた。痛みが鋭く腰椎へ抜けて思わず背中をこわばらせる。身体を折ると、頬が仙水のこめかみに触れた。彼はそっとそこに唇を寄せ、そろそろと息を詰めて身体を深く沈めた。生温かい自分の内側に、高い体熱を放つ者が脈動している。自ら動くと思わず喉から声が漏れた。樹の下腹の筋肉が締まって仙水の快楽があおられるのを、閉ざされた睫毛のふるえに見る。
 なまぬるい汗がにじむ。樹の汗や体液、身体には体臭というものがなかった。それだからこそ潔癖な仙水に触れたのでもあった。不思議なことに、彼は仙水に嫌悪を抱かれるまいとしている。憎しみよりも嫌悪はより耐え難い。眼前に閉ざされた仙水の睫毛が開いた。樹を見た。瞳の底に深く、朱く濁ったものをたたえている。その瞳がしばらく彼を凝視して、仙水は不意にゆっくりと身体を起こした。樹が痛みにひきつらせた足を高く支えて、体勢の上下を入れ替わる。大きく開かれた樹の中に沈む。汗に濡れた身体を寝台に投げ出すと、仙水の前髪がみぞおちに触れた。
 樹は震えて細い息を吐き、仙水の髪を探った。うなじが温かい汗に湿っているのを感じる。縛るような思いで生えぎわからその髪を微かな力で引いた。

 彼は幸運だ。憧れと目的を持つものは妖怪の中ではごく少ない。数百年の生ののち、彼はその双方を手に入れた。失いたくはない。仙水を得る前の倦怠は死にも等しかった。
 かすむ。仙水を得た感触に熱く視界が曇る。
 波の音を聞く。
 己の内に存在しない鼓動の代わり、仙水に絡めた四肢を、そのリズムに合わせた。

……THE END

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