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03 03 *2013 | Category 二次::FE蒼炎・アイライ


続き





 気温が上がってくる。
 そうでなくとも体温の上がるばかりの身体の上を、厚い湿気の膜が覆ってゆるく締め上げているようだった。ハ、ハ、という短い間隔の息が、ひとつの喉を通っているように一致し、或いはぶれて、空気の中に甘いゆがみを作り出し、そこで皮膚が合わさっていることを誇示していた。
 アイクは、強烈な衝動を持てあまして、自分の下に敷き込んだ身体のどこかに、更に触れ合えるところがないのか、目で探した。拒まれたわけでもないのに、右手の手首を握りしめて、敷布の上に縫い付けていた。先刻まで、その手首には目の詰まった白い布がきつく巻いてあった。激しい動きを強いられる関節を、あるべき位置に保ち、骨の歪みや炎症から護るためのものだ。剣を握るときであれば、具足に覆われるアイクの手首にも同じような包帯が巻かれている。だが、今はそのしなやかで強い手首にかかっているのは、彼のてのひらだけだった。
 アイクは顔を傾け、髪の中まで汗に濡れた自分の頭を、ライの肩の骨に押し当てた。繋がりあった下肢に、熱い痛みのようにわだかまっている快感から、全身に白く激しく光る糸が伸びている。アイクの、背骨を通り、背中に、肩に、腕に、太腿に、膝に、てのひらに、そしてこころを閉じ込めた頭部に力を送り込んでいる。


 まともな者なら、同性に、或いは異種に欲情したりはしないのだと聞いた。だって、鶏や猫を抱こうと思うか? 自分の親父の尻を眺めて恥ずかしくなったりするか? アイクにそう云ったのが誰だったかは知らない。興味もない。アイクがまだ子供の域だった頃のことだ。父のために伝言を届けに行った。父は危急な務めで帝都へ出かけ、酒場で落ち合う筈だった情報屋に会いに行くことが出来なかった。
(「ティアマトが行くと目立ちすぎるんだ。いいな?」)
 父は、アイクの灰青色の目をまっすぐに覗き込んだ。
(「何かに書こうと思うな。おれが行けないことを伝え、相手に話をするように云え。意味が分かることも、分からないことも全部、耳で聞いて覚えて来い。いいな?」)
 アイクは頷いた。小さな反応だったが、父はアイクが自分の役目を飲み込んだことを悟ってくれた。それ以上は云わず、大きな手のひらでアイクの腕を軽く叩いた。父はその後すぐに出発し、アイクは歩いて半日かかる街の、一番大きな酒場に向かった。夜の約束だったが、夕方にはついて、小さな黒い猫のように、だんだんと増える酔客の間に紛れて座った。笑い声、むっと立ちこめる煙草と酒の匂い、華やぐ女達の嬌声や、クリミアの平和の中での、些細な力自慢。そして酔った男達につきものの猥談が、子供の耳に飛び込んできた。アイクは落ち着いて、その中から必要な音と、不必要な音を選り分けて、知っておきたいことだけ胸の中に取り入れた。時折、不意にやかましい揶揄の言葉と共に、酒の杯が彼の前に突き出されることがある。アイクは大人しく杯を受け取って、一口飲んだ。そして、苦い、と云ってみせると笑い声が巻き起こり、それ以上を強制されることはなかった。
 その時ラグズの女と寝る男の話を、突然誰かがし始めた。大きく突き出た耳があり、尾骨から長く伸びる尾がある者と寝ようとするとは。口の中に牙のある者に舌を差し出すとは。獣の姿に化身して、四つ足で地を走る者と交わろうとするとは。それがいかにまともでない者のすることなのか、彼らは表現をあれこれと変えて、ラグズの女がいかに美しくとも、それが野蛮な存在であり、自分たちと乖離した存在なのか、云いつのった。まともじゃない。つくづくまともじゃないんだ。
 アイクは頭半分に、その野卑な表現の数々を聞き流していた。信ずるに足りるような言葉はなかった。彼はまだ本物のラグズと出会ったことがない。クリミアが、隣接した獣牙族の国、ガリアと友好的な距離を保っていることを、子供の彼でさえ知っていた。そのクリミア人でさえこれだ。帝国やデインの国の中では、ラグズは更に嫌われているのだろう、と彼は思った。ラグズの姿を想像してみたが、うまく像を結ぶことが出来なかった。だが、誰かに質問することも、言葉を差し挟むこともなく、アイクはひっそりと座っていた。気配を殺すことを覚えろ。沢山の人間の中で、自分だけが少し暗いところに座っている。静かで、言葉は届かない。少し背を丸めて、猫のように。父に教わったことを思い浮かべる。目を閉じると気配のかき消える猫のように。


「ア」
 アイクの間近なところにある唇をかすかに開いて、押し殺した息を吐き出していたライの声が聞こえた。
「アイ、ク。ちょっと待て、待てよ、水」
「水?」
 頭が熱に浮かされているせいか、何を要求されているのか理解出来ずに、アイクは機械的に反復した。
「そっちの台に置いただろ……手が届かないんだよ」
 アイクの胸と左手でがっしりと寝台に固定されたライは、あえぐようにつぶやいた。目が濡れている。紫色の右目から、一筋涙が伝って、鼻筋の際にたまった細かい汗の滴と混じり合っていた。
 泣いている、のとは少し違う。
 それは分かっていた。だが、哀しみや苦痛によって流れる涙と、違った色をしているわけではなかった。調子が悪い時、音や声が、硝子を尖ったもので掻くような、悲鳴に似た音に聞こえる。余りにも鋭敏なライの耳を、内側に特殊な樹脂を縫い込んだ革の耳当てが保護している。形良く整った頭蓋の周りを多い、目の表情を半ば隠し、鼻筋に影を落とす皮の装具。それを取り去ると、ライの顔の印象はまるで違って見える。普段の彼は機能的だが、こうして素顔を晒すと、髪と目の色と、淡い紋様に装飾されて、細工物のように際だって見える。
 アイクは、寝台の隣に置かれた机に、ライが置いた水の瓶を探った。そう云えば、ライは絶えず水を飲んでいる。そう沢山飲むわけではなく、数滴ずつ口に含んで、唇や舌を湿らせている。
 アイクは、一瞬躊躇した。瓶を渡しても、ライは受け取って飲めるような体勢ではなかった。利き手を握り込まれ、脚を大きく開いてアイクの身体を間に挟んでいる。感覚が追い詰められるのにつれて、だんだんと彼の背中はしなり、敷布との間に隙間が出来ていた。真っ直ぐに空に向かう若木のような筋肉と骨、陽に灼かれた金色の皮膚で構成されているにもかかわらず、とろけるように柔軟なライの身体。
「寄、越、せ。……瓶」
 威嚇するような低いささやきがアイクの耳に届く。かろうじて自由になる左手で、ライは、額に張り付いた髪をかきあげた。夜明けの光の中で、ライの貌はまるで艶を失わなかった。正気と光という要素を付け加えた分、なおさら目に、印象的に焼き付いてきた。
 ライが、絡んだ身体のつながりをゆるめて、身体を起こそうとしているのに気づいたアイクは、ぐっと背中に力を込めてライの動きを阻んだ。水の瓶から、ぬるくなった水を一口含んで、ライの唇に重ねた。"まともな者"ならば決して触れない唇。上下の歯列がまるでベオクと同じようなのに、左側の下顎から一本だけ、湾曲して尖った牙を持つライの口腔。舌先を滑り込ませて、その牙のかたちをなぞるのが好きだ。
 不器用な唇から水はあふれ、ライの小さな牙と、唇の端を濡らした。アイクはその水の筋に沿って唇を押しつけた。ライは喉を鳴らしてその僅かな水を飲んだ。ひどく彼の喉が乾いていることを知って、アイクはもう一口水を取ってライの唇に運んだ。今度は歯列の間からかすかに舌が覗き、水とアイクの舌を絡め取った。

 酒場で息をひそめていた子供の時ですら、アイクは下品な冗談から意識を逸らして、鮮烈なラグズを夢想していた。爪と牙を備えた武器をそのまま走る道具に変えるとは、何と効率のいい生き物だろう。まともな者ならラグズになど興味を示さない。だが、アイクはまともでいたいと意識して考えたことは一度もなかった。

「もう、いいのか?」
 水のことを指して云った言葉だが、ライはそう取らなかったようだった。青白く、優美な曲線を描いた睫毛が、衝撃に備えるように閉ざされた。アイクは彼の誤解を解こうとせず、瓶を机に戻した。そして、荒れた指先にやわらかくまつわる、ライの湿った髪をかきあげ、額をさらした。ライの身体の上では、空色と銀色の境目が曖昧だ。そして、火照った血色と、舌先が、思わぬ彩りを加えている。
 アイクが動くと、ライは顔を一方に倒して、深い息を吐いた。そうすると、鼻筋と頬の上に刷かれた、淡い緑青色の紋様がくっきりと目に映った。
 今、自分は目の前にあるものを美しいと思っているのだろう。
 情緒よりも認識は後にやってきた。
 太陽を吸い込んだ皮膚に、新しい汗が僅かに滲んできらめいた。午前の陽の中でこれほど誰かと近くにいる。うなじを抱かれ、髪を掴まれる。汗で滑り、密着することを繰り返す。
 なまぬるい血に浸かり込むような、独特の味と、淫猥な動きの中に、やがて二人は同期した。

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