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03_剣士の最悪の夢

11 01 *2013 | Category 二次::ONE PIECE・ゾロサン


続き





 一面の青の中に、白く、きらきらとゆがみながら光るものが浮かんでいる。それが、水中から見上げた太陽なのだと分かるまで少し時間がかかった。水は酷く透明度が高く、上空からいっぱいに光が差込んで温かい。ゾロは自分が水の中で目を醒ましたことについて、さして驚かなかった。眠っている間に状況が変るのはよくあることだ。何より、これが夢であることも分かっていた。若い剣士は、自分の夢に向かい合う習慣がある。いつも目を醒ました後、目を開けずに一瞬夢を反芻するため、夢の記憶は鮮明に彼の中に刻まれる。これもそうした夢の一つの破片であるようだった。
 周囲には午睡するようにうららかな魚群が漂っており、青や金色の鱗に陽光をはじかせている。
 ゾロは晴れ渡った海の中で、青い珊瑚の岩礁の上で眠っていたようだった。眠り足りないときのように身体の芯がぼんやりしており、背中に痛みがあった。彼の夢には痛みがあるのだ。
 身体を動かしてみると、背中に一面、珊瑚の枝が刺さっているのが分かった。海の中に一見なだらかな丘陵を作り出した珊瑚の群体は、硬い骨軸から無数の腕を差し伸べて、彼のたくましい背中に食い入っていた。
 彼は顔をしかめた。痛みに耐えて、背中の皮膚を浅く突き破った骨片を抜いて起き上がる。夢の中の不可思議で、その海がたたえているのは真水のようだった。あたたかい水はゾロの傷口を洗い、背中一面からにじんだ血をゆるゆると持ち去ってゆく。周囲がオレンジ色に染まった。この海に鮫がいるのなら、遙か遠方からでも、この血の匂いをかぎつけてやってくるだろう。
 海の中で眠っていたゾロは、上半身は無防備に脱ぎ捨てているくせ、腰には刀を帯びていた。彼の夢の中で刀が無視されることは決してなかった。どんな登場人物を迎える夢の中でも、腰の右側には刀の重みがある。
 背中から細い血の筋を幾条もたなびかせながら、ゾロは目を擦った。体を伸ばして欠伸をした。夢のくせに、しなやかな水の抵抗を身体の周囲に感じた。水で締め付けられる感触がある。
 さて、どうしたものか。彼は珊瑚礁の上で立ちあがった。背中から流す自分の血が口の中に入ってきて、そこだけ塩辛い。やはりゾロをくるみこんだ海は真水なのだった。
 彼はもう一度腰に手をやって、愛用の刀が三本そこに差してあるのを確かめた。そして、まぶしい上空を見た。海の中は遠いほど暗く、奥へ、奥へと広がっている。
 水面に出ようとは思わなかった。この海の中を歩いてゆこうとしていた。どちらへ歩くか。まるで勘が働かない。太陽は真上から照りつけている。この海をどう辿ればいいのか。彼は珊瑚を踏んで歩き出した。もろもろと珊瑚がつぶれる感触が靴底から伝わってくる。さっき背中を刺し貫いた珊瑚は、石灰のような感触でゾロの足許で少しずつ崩れていった。緑色や紫色の薄煙がたち、珊瑚の組織が崩れてゆくさまを見て取ることが出来る。
 その時、上空の太陽に染みが出来た。
 上から不意に、黒い鳥が落ちてくる。陽光に輝くかぎ爪を持った黒い鳥だ。
 そして、それはすぐに、刃物を右手に握った黒い服の男だということが分かった。その男も眠っているようで、翼を広げた鳥そのままの格好で、ゆったりと沈んでくる。ちかちかと光るものが目に入った。男の髪が、陽光を受けて水の中で輝いているのだ。肩より少し短いその髪は金色だった。
 海底で黙って上を見上げるゾロの近くに彼は落ちてくる。手に握っているのは調理用ナイフだ。こいつも夢の中で武器を手放さないのか。そう考えてふと気づく。これはゾロの夢だ。彼が武器を手放さないのではなく、ゾロが、彼の手には武器があると思っているのだ。
 刃渡りの長いナイフと髪に、何かの信号のように光を跳ね返しながら、男の細長い身体はもう手が届きそうな位置まで落ちてこようとしている。金と銀の信号を放つ黒い鳥。
 彼が薄く目を開けるのが見えた。海の中の光源が足りず、その目は黒く見えた。彼もまた眠りから覚めたばかりの表情を浮かべている。笑いも敵意もない彼の素の顔は、すっきりと削げて厳しく見えた。
 その顔を見つめた瞬間、ひゅっと胸を鳴らしてゾロの歯の間から息が漏れた。その音の大きさに驚かされる。胸がいっぱいになって舌の付け根が痺れた。妙な気分だった。自分は海底を踏みしめて歩いて行こうとしていた。だが、ことによれば、彼が一緒に歩いていってもいいと思う。
 彼は節くれ立った手を伸ばし、男の腕を掴んだ。黒い袖口の上でゾロの皮膚はひどく白く見える。
 袖の中に、細いが充実した感触がある。ゾロの手の中で、手首の骨が強く張りだしている。ナイフを握ったままのその手をたぐり寄せて、ゾロは男の身体を引き寄せた。今まで誰を相手にもそんな風にはしたことのないような力を込めて、男を自分の胸に閉じこめる。痩せているが肩幅の広い男の身体は、ゾロの胸におさまりはしない。だが、腕を回してその痩せた背中を、カラスの翼のようなダークスーツごと抱きしめた。
 ドン、と衝撃があり、男が彼の肩を拳で叩いた。
 目つきが鋭くなり、何かを云っているようだった。そこだけが水の中の様相を忠実に再現しているようで、声は聞こえない。息遣いが聞こえるのに、声が伝わって来ないのが不思議だった。
 何を云っているのかは分からないが、料理人の手は彼の身体を引き離そうとはしていなかった。だが、話を聞け、と云わんばかりにゾロの肩をもう一度強く叩き、何かをまくしたてている。目のすぐ傍で、彼の握ったナイフがきらめき、ゾロはそれを避けた。夢だとしても切られそうだったからだ。
 金色の髪は彼の淡い色の頬の上でゆれていた。声が聞こえないのに煩い、と思うのは、早口で喋る彼の声が浮かんでくるせいだろうか。
「何云ってんのか聞こえねえよ」
 そう云ったが、ゾロの声も相手に届いてはいないのだろう。この夢の中で初めて声を出した。
 ゾロのしたいことは、互いの声も聞こえない海の底で、云い合いをすることではなかった。
(何がしたいって?)
 今度は自問する。
 それは、自分の身体中でもう分かっている。
 まずはこれだ。
 ゾロはまだ何か云っている料理人の顎を片手で掴んだ。開いた口の中にまっすぐに舌を滑り込ませる。歯列が邪魔しようとするのも、肩が身動いで抗おうとするのも全て無視して、突き入れるような勢いで彼の口の中に入った。相手がなかなか目を閉じようとしないのが腹立たしく、ゾロは自分の方から視界を閉め出すことにした。唇に水の味はしない。それが夢の都合のいいところだ。その代わり、ゾロの手足や腰に欲情を凝り固まらせる、あの体臭もなかった。この男の顎の下や関節の内側の柔らかい部分は、今までゾロが知らなかった奇妙な甘い匂いがする。動物的とも植物的ともつかない、独特の匂いだ。口の中に皮膚をおさめて味わうと、ふっとその匂いが鼻腔を擽る。そして、ロロノア・ゾロを、不安定な甘い衝動に駆り立てる。
 噛みあわせた顎の中に深く舌で入り込み、滅茶苦茶に男の中をなめ回した。上顎のざらつきや、舌の裏側の柔らかさ、唾液の染み出してくる舌の付け根を味わい、歯の上にまで舌を這わせた。
 唾液を交ぜ合い、薄く弾力のある舌を吸い上げた。メリー号のクルー全員の味覚を共有している舌だ。一人一人の味をこの男は一緒に味わっている。そう思うとその舌はひどく淫らなものに思えた。てのひらで忙しく相手の身体を撫でた。服の上から背中を、引き締まった細い腰を、いかついベルトの下に隠れた腰骨を探る。そして、水の中でかすかに形を浮かばせている下腹へ手を伸ばす。ゆらぎのないあたたかな海の圧力の中で、自分のてのひらの圧迫を加える。
 その瞬間、男の痩せて引き締まった身体がかすかにしなり、男は薄い唇を硬く結んで、ゾロの肩口にぶつかって来るように顔を伏せた。ゾロの厚いてのひらに握られて揉み込まれた男の器官は、だんだんと熱を持ち、服の中で形を変え始めている。
 男の長い指から、握られていたナイフが手放され、ゆっくりと足許に落ちた。かすかな気泡を身に纏いながら落ちた刃物は、二人分の体重を支える珊瑚礁の上に落ち、うす蒼い石灰質の煙を上げて突き刺さる。彼がナイフを離すことはないだろうと思っていたゾロは少し驚かされる。
 そして不意に自分の中の奇妙な乾きに気づいた。
 この欲望は彼の中に暫く前から居座って彼を苦しめている。思いを遂げてしまえ、と誘う気持と、腹の底に憂鬱な塊を作るような煩わしさが同居している。するとゾロは、自分が、黒い服で身体を鎧ったこの男を、どうしたいのか分からなくなる。噛んで千切ってやりたい。唇の中を、腰の奥を、指や自分の性器でかき回してやりたい。しかしそれだけではない、どこかやるせない煩悶が隠れていた。それが何なのか、彼には分からない。男に乱暴に誘い出された道の向こうに、裸で抱き合う以外の何があるのか、と思う。だが、確実にそれだけでは足りない、決定的な不足感があった。
 先刻も、彼が上から落ちてくるのを見た時に、この男とこの海を一緒に歩くのも悪くないと思ったのではなかったか?
 どこへゆくとも分からない道、火のような珊瑚の隆起と、絶望的な岩の裂け目、頬をかする魚の冷たい鱗のただ中を、岩を溶かす火山の蒸気の傍らを通り、古い川の名残を抜けて。
 ゾロは、不意に、彼の身体を乱暴にまさぐっていた手をどけた。
 何を云おうとしているのか自覚がないままに口を開いた。さっきは聞こえた筈の自分の声が聞こえないことに彼は気づく。だが、逆に今度は、向こうに声が聞こえているようだった。男が顔を上げた。びくつきながらゾロに身体を触らせていたくせに、彼はその目を閉じてはいなかったようだった。かすかに赤らんだ目を細めて、いぶかしむようにゾロを見つめた。顔を上げると身長の殆ど変らない男の瞳は、これ以上ないほど近く、ゾロを映していた。
「────」
 ゾロはもう一度ささやいた。その言葉が何なのか、自分の声が聞こえない彼にははっきり分からない。だが、その言葉を聞いている内に、相手が何とも云えない表情になるのははっきりと見えた。
 ゾロは、先刻跡がつくほど強く掴んだ顎から頬にかけての線を指でなぞった。柔らかな髪がまつわってくるのをかきあげ、彼の顔を上向かせる。そして、舌をねじこんで侵したばかりの唇に、静かに、触れるだけのキスをした。

 甲板の上で、非常識な重さの重りを手に黙々と上下運動を繰り返すロロノア・ゾロは、船全体に背を向けていた。今日の彼が、周囲との対話を拒んでいるのは明らかだった。
 少し離れた場所で、ログポースと日誌を手にデッキチェアに寝そべったナミに、サンジは飲み物を手渡した。ちらっとゾロの背中を見つめる。白いシャツを着た背中には汗の染みが広がり、盛り上がった背筋が忙しなく動いていた。
 ライムで色と香をつけ、底にオレンジリキュールを沈ませたカクテルは全員の分を用意したが、苦行のようなトレーニングに励む剣士は、とてものんびりと飲み物を摂る雰囲気ではなかった。そうでなくても、朝食をサボタージュしたあげく、朝に甲板で出くわした時、露骨に顔をしかめて自分を避けたゾロに、サンジはいささか不快な思いをさせられたのだ。
「ねェナミさん。あいつさっきからずっとあの調子?」
「そうよ」
 ナミは切れの長い目を細め、薄い笑いを浮かべた。
「何でも、今日は寝覚めがものすごく悪かったらしいわ」
「寝覚めがァ?」
 ロビンの分のグラスを残した、丸いトレーを支えたまま、サンジは呆れたように男の背中を見遣った。
 ナミは、サンジの作った濃厚だがすっきりしたドリンクを一口すすって、丸い綺麗な骨を浮かべた膝を組み替えた。ほっそりとしているが、鍛え上げられた脚の美しさに、ふっとサンジは目を奪われる。太陽はあかるく輝き、ナミの淡い色に灼けた脚の産毛を金色に光らせている。彼女はオレンジ色のサンダルを爪先にひっかけていて、それが髪と似合って美しかった。ナミの好きな金色の柑橘と彼女はよく似ている。甘みと酸味と光を内包したあの丸い果実に。
 同じ船の中に女神がいるというのに、あの男の目や、背中のことを気にする自分を、サンジは正直理性的ではないと思った。サンジの女性賛美はいわば彼にとっての良心であり、法律であり、理性のようなものだった。
「悪い夢でも見たんじゃない」
 ナミは日誌に何か書き付けながら気のない声で云った。
「あいつが悪夢なんて見るのかなァ」
 もうナミがこの話題を続ける気がないように見えて、サンジは独り言のつもりでつぶやいた。だが、背中から返事が返ってきた。
「誰でも見るわ、悪夢は。特別繊細な人だけが、それを午後まで引きずるのよ」
 背の高い、優美な考古学者は、サディスティックなほど高い踵のブーツを履いているのに、余り足音をたてない。長い腕は、能力を使っていなくても、花枝が咲くような、或いは巨きな鳥が羽ばたくような仕種で動く。
「その飲み物、頂いてもいいのかしら」
「勿論さァ、これは貴女の分です 」
 恭しく、仰々しく、もう一人の女神に傅きながら、サンジはふとロビンの言葉を反芻した。
 ────繊細な人だけが、それを引きずるのよ。
 ハハ、有り得ねェよ、ロビンちゃん。
 彼は内心笑った。何故だか晴れ晴れした気分で、トレーを脇に抱えてキッチンに引き返した。陽光にあたると白く透けるほど純度の高い金髪に包まれた頭の中では、いつもと同じように散漫な思考が動いている。キッチンに残った飲み物を女性陣以外のクルーに持っていってやる手順、ゾロの肩胛骨の上に二つ染みを作った汗、オレンジ色のサンダルの爪先から覗いた小さな爪、迷っている夕食の献立の中のレシピ、バラティエの中に雷鳴のように響くゼフの声の記憶、一週間前の暗い海の中での抱擁。
 ひとまず優先すべきことを拾い出して、彼はキッチンの扉を開けた。彼の王国では、水滴のついたグラスが四つ、運ばれてゆくのを待っている。
 外は日差しがきつい。アラバスタの名残の光だ。トレーにグラスを次々と載せながら、心が砂漠と、その国にまつわる思い出に飛んでゆく。
 背中に頑なな汗を浮かべた男のことが、彼の中からするりとこぼれ落ちた。

 希望と恐れを乗せて、夢は毎晩訪れる。
 だが、手を翻せば雲となり、手を覆せば雨となるような料理人には、自分との、繊細且つ感傷的な口づけの夢が、ゾロを打ちのめしているのだとは知る由もなかった。

                                        了

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