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04_いつの日か君の目を蒼く射した

11 01 *2013 | Category 二次::ONE PIECE・ゾロサン


続き





 夜。満月。ただし、見渡す限り、月を見上げている者はいなかった。地上よりもずっと月に近い空島では、蒼白いヴェールが島全体を包み込むように月光がふりそそいでいる。だが、天を焼けとばかり高く組み上げた焚火には、夜半になっても次々に新しい薪がくべられ、勢い衰えることがなかった。その焔が月の光を押し返し、人々の昂揚した顔を赤く火照らせ、笑いと歌の渦巻く、金色と朱色の空間を作り出していた。
 スカイピアの苦しみと、「神」の暴虐は終ったのだ。四百年という途方もない時間、空島の住民がその軋轢に耐えてきたことを、ゴーイングメリー号の乗組員達も聞かされた。それはただの伝説ではなかったのだ。
 そして、空島のその晴れの異変に手を貸した者が、自分達の船長だったということを、ゾロは不思議に思わずに居られない。あのつまらない海軍基地で、両腕を縛られて死にかけていた時、ルフィはやってきた。あの時も今とまるで同じように、晴れ晴れと笑っていた。
 あの時に、こんな自分を想像しただろうか?
 神と名の付く者と斬り合う自分の姿を?
 火に照らされて明るく思える夜空を見上げながら、神の島の森の外れで一人であおのき、とめどもなく酒を飲んでいたゾロは、見知った者の気配が自分に近づいて来るのに気づいた。
 慎重な、しかし昨日よりもしっかりとした足取りが、小枝や草を踏み、明らかにゾロの方へ向かってくる。
 彼は身体を起こした。刀を引き寄せはしなかった。自分に誰かが近づいてくるとき、たとえそれが仲間と名の付く者であっても、刀無しにそれを迎えることをしない。その法則をゾロは破った。今、彼を相手にそれをするのは適切ではない、と理性がささやいたからだ。いや、それは理性ではなく、右側の脳が司るという感情だったのかもしれない。そこからゾロは血なまぐさい連想をした。
 斬られた人間の脳髄を見たことがある。彼の斬った相手ではなかったが。桃色の脳と血に囲まれて、頭蓋を割られた男が、驚いたように目を見ひらいていたことも思い出せる。あれはずいぶん前のことだ。思えばこの手も数え切れないほど血に汚れた。もう死体を見てもあれほど感じ入ることはなくなった。自分自身の諸々の感情は、もうコントロール出来るつもりになっていた。
「今日はオレが探す番かよ?」
 近寄ってきた相手が、煙草の煙と一緒に不機嫌そうな台詞を吐き出した。
「探せと頼んだ覚えはねェ」
 そう答えると、遠い焚火の火を背中に背負って、輪郭しか見えない料理人は、どうやら笑ったようだった。黒い布靴の先で、足癖の悪い男はゾロの脇の下を軽くつついた。
「てめェのくくった腹はどこに行ったよ? そこにあるんじゃねェのかよ」
 ゾロは眉をしかめてその足を避けた。この無礼な脚と、それに続く身体が自分にもたらす影響のことを考えると、少し莫迦らしい気分になってくる。自分のささいな感情など、目的の前には易々と管制出来るつもりでいた。だが、長い航海をする内には、心の天候が荒れ、そう凪いだまま進めないこともあるらしい。考えてみればそれも尤もなことで、そうでなくては海をゆくのも面白くはない。
「てめェに、オレの腹の居場所をとやかく云われる覚えはねェ」
 そう云いながら立ち上がり、膝を払った。先刻から煽っている酒は極上の味で、神官の食料庫から引き出されたものらしい。いかにも特権階級の人間の好みそうな贅沢な酒だった。流石の彼も脚に来るかと思うほど強かったが、自分の体感がアルコールに影響を受けていないことを確かめる。
「何しに来やがった」
 この男に口をきく時、どうしても喧嘩腰になるのを、この先も改められるとは思えなかった。たぶん向こうもそうだろう。何回重ねたのかもう解らないその唇から、例えば女を相手にする時のような甘い言葉が漏れたら、自分は震え上がるしかないだろうと思った。しかし、今日までのところ、サンジが彼をその意味で震わせる気遣いはなさそうだった。
「どこもかしこも賑やかだよなァ。空島中大騒ぎだ」
 このところ、ゾロが彼に何か問いかける。すると、答にならない答が返ってくる。
 そのパターンが繰り返されそうだった。
 それは、アラバスタを出て間もない頃から続いていた。ゾロは正直それに苛々させられてきたが、ここ暫くは、それについて考える暇もなかったというのが正直なところだった。
(暇は、今ならあるが……)
 ざっくりと羽織ったインディゴの上着の裾を、島の強い風にはためかせながら、男が楽しげに目を煌めかせるのが、今度はゾロの目にはっきりと映った。立ち上がって距離が縮まったせいだ。
(どうもこいつの顔を見てると、考えたくなくなってくるな)
「なァ、ちょっとの間、休戦といかねェか」
 ゾロの沈黙に構わず、サンジが隈無く包帯に覆われた腕を差し伸べてくる。
「あァ?」
 その腕を見下ろす自分が、いかにも胡乱な表情を浮べたことがゾロにも分かった。だが、サンジはその手を取られないことを気にする様子もない。
「今、この島で一番静かなとこって云ったらあそこだろ」
 サンジは軽く握った拳の親指を、下方に突き立てた。
「メリーか?」
 思わず聞き返すと、サンジはにやりと唇を吊り上げた。
「ひっくり返るほど飲んでるかと思ったが、まるっきり寝てる訳でもなさそうだな」
「このくらいの酒でどうにかなるかよ」
「強がるなよ、クソ剣士。お前に注いでやった奴が、象も眠らせる酒だって云ってたぜ」
「あいにくオレは何ともねェな」
 遠い篝火をかすかに反射する金髪が、妙にまぶしく感じるのは、おそらくアルコールのせいだ。内心ゾロはそう思ったが、言葉の上のお遊びでさえ、サンジに譲る気になれなかった。
「じゃあ、ついて来いよ。メリーでもう一杯ついでやる」
 そう云われて、ゾロは未だに離さずに手にしていたピッチャーを見下ろした。ふちまでなみなみと注いで貰った二杯目が、もうなくなろうとしていた。彼はピッチャーを足許に置いた。ここに置いておけば、この辺をうろついて、嬉しげに酒を注いだり、片づけて回ったりしていた男が回収するだろう。自由になった腕を思い切りぐるりと回す。ふと、自分が喧嘩をしに行くのか、何か別のことをしに行くのか分からなくなった。足許に置いてあった刀を三本とも掴み取ると、彼は傲然と料理人に向かい合った。
「行ってやるよ」
 酒が抜きでも多分、自分は彼と一緒に行くだろう。そう思うと眩暈がした。自分が今まで飲んでいたのが、象を眠らせる酒というのはあながち冗談でもないのかもしれない。すると、薄闇の中で白い歯が光り、(年中煙草を銜えているのに、気づけば、不思議なほど料理人の歯は白かった)火傷の跡をかすかに残した顔が、妙に人なつこい表情を見せて笑った。

 驚いたことに、ここ暫く白海に放置されたままろくに人の立ち入らなかったメリーの台所には灯りが点され、テーブルにはクロスがセッティングされて、酒とグラスが用意されていた。乏しい電力を節約しようとしているのか、卓上にギャリーランプが置かれ、ラウンド型の芯があたたかな光を放っている。
「つまみはねェぞ。食料庫が空なんだ」
「期待してねェ」
 そう云い捨てると、料理人は面白くないという表情になった。
「ちょっとは期待しやがれ」
「食いたくねェ訳じゃねェよ。この状況でメリーに食いもんが残ってたら、そっちのが異常だろうが」
 ゾロなりに抗弁すると、サンジはあっさりと機嫌を直した。
「まァ、そうだな。だがこの酒は一級品だぜ。お前に飲ませるのが勿体ねェような、コニスちゃんに手に入れて貰った無濾過の原酒だからな」
 そう云いながら、ゾロにグラスを押しやり、とろりとした酒を注ぎ込む。
 ゾロは黙って酒を口に含んだ。イーストブルーの地酒風の味だった。彼がさっきまで飲んでいたものに較べると、酒とも云えないようなまろやかさで、甘い香が立ち上ってくる。サンジに酒を頼まれたコニスが、慌てて頭を絞り、調達してきたものというイメージと一致する。
「酒が弱ェとか文句は云うなよ。別にてめェに酒を飲ませたくて連れて来たんじゃねェんだからよ」
 ゾロは眉をひそめた。
「じゃあ何でだよ」
「酒でも用意して釣らねェと、ついて来ねェだろうと思ってさ」
 サンジは、親指でゾロを無造作に指差した。
「このでけェ魚はよ」
 ゾロは自分の口元がひくりと引きつるのを感じた。明るいキッチンでは、料理人の姿形がよく見えた。彼の身体が負った痛々しい傷も含めて、その姿が今、自分の目に誘引力をもって訴えるのは間違いがなかった。だが、それでいて彼が一言口を開くと妙に癪に障る云い方をするのだ。
「おれァ、てめェに喰われる気はねェぞ」
「てめェの駄目なとこはそこなんだ、クソ剣士」
 サンジは、ゾロの向かいに座り、テーブルに肘をついて手酌で自分のグラスに酒を少し注いだ。
「てめェがオレに喰われる覚悟をしてるなんて誰が思うかよ。昨日、腹をくくったとか云ってやがったが、あれはてめェの腹の中だけの話で、オレとどうするのかなんて考えてねェんだろ。え?」
 図星をさされてゾロは嫌な顔をした。
「だったらどうした」
「だからオレが二時間……」
 そう云いかけて、サンジは思案するように黙った。
「二時間?」
「いや、一時間だな」
 一人で納得したように肯く。
「一時間、てめェにやろうって云ってるんだ」
「何の話だ?」
 話が見えたような、見えないような怪訝な気分で問い返すと、料理人は呆れたように煙草の煙を吐き出した。
「いいか。オレはこの船のコックだ。クルーが腹を空かせたり、悪ィもんを食ったりしないようにする責任がある。おまけにてめェらと来たら、一日三回のメシじゃ足りずに、四回作ってオヤツまでつけてやってもまだ盗み食いをする奴がいる始末だ」
 不意にそんなことを云い出したサンジの言葉に、ゾロは目を剥いて黙った。彼の話の飛躍について行けないのはこれが初めてではない。大体において、サンジが何を云おうとしているのか、真面目になればなるほど分からないのが常だった。しかし今、GM号の食糧事情について、サンジがゾロに講釈を垂れる意味があるとは思えなかった。
「オレは、だからこの船の誰より朝早く起きてェし、最後の一人が腹を一杯にして寝るまで、自分が寝るつもりはねェ。まァ、オレも少しは寝ねェと死ぬだろうけどな」
「……そうだろうな」
 一日の大半を、食欲を充たすか、身体を鍛えるか、眠るかで費やす剣士はぼんやりとそう答えた。そして、目の前の男が眠っているところを、自分が殆ど見たことがないことに思い至った。
「だから、一日の内一時間だけてめェにやるよ。その時間は煮るなり焼くなり好きにしろ。そうすりゃ問題解決だろ?」
「はァ?」
 その瞬間、自分の顔にさっと血が昇ったのを、確かに目の前の男に見破られたと思った。思わず声を荒げる。
「何の問題が解決するってんだ、それで!」
「解決するだろうが!」
 サンジも負けずに声を荒くした。
「てめェは苛々するほど察しが悪いな。わざとやってんのか、それは?」
 テーブルの上に、包帯の端から火傷を覗かせた腕が、荒っぽくグラスを置く。
「オレをどう扱えばいいのか、そうすりゃ考えずに済むだろうがよ!」
 瞬間、ひどく居心地の悪い沈黙が二人の間に落ちた。しかし、料理人の明るいブルーの目には濁りがなかった。自分の言葉を正論だと思っているのだ。そして、それは自分の感覚と微妙なずれがあったにも拘らず、ゾロにはどの辺がどうずれているのか看破することが出来なかった。
「考えたくねェ────とは思ってねェ」
 妙に不自由になった口で、威嚇するようにそう云い出すと、訳知り顔のサンジは肯いた。
「分かってる」
 サンジがテーブルの上に手をつき、ゆっくりと自分の方へ身を乗り出して来るのを、ゾロは、水平線の向こうに、今しも波頭をきらきらさせながら、津波が押し寄せてくるのを見つめるような気分で眺めた。
「だけど、てめェがそういうことを考えるのに向いてねェのも分かってる」
 どんな時も放そうとしない煙草を、妙に優雅な手つきで自分の唇から取り去ったサンジは、ゾロの唇にその唇を押しつけた。
 勢いや酔狂でないと証明するように、殊更にゆっくりと。
「オレも、そういうのに向いてねェからさ」
 少し唇を浮かせてささやき、不敵に笑った。何故、あきらかに自分よりボロボロになり、体力的にも弱っている筈の相手が近寄ってくるのに、津波をイメージしたのか、ゾロは悟った気がした。
 つまりは今、目の前のこいつから逃げるのは問題外だ、ということだ。

 あの男の肉を口に入れて噛んでやりたいと思っていた。強く。千切れるほどに。それが攻撃欲とは微妙に違っていることを示しているのは、ゾロの場合、相手を攻撃するということは「斬る」という行為に必ず帰結するからだった。噛む、という行為はある種の感情をまじえた行為に他ならない。実際に噛み千切るかどうかはともかく、相手の肉を口に入れることは、ゾロにとっては、嫌悪感や怒りの発露では有り得ないことなのだ。
 その気持ちとはっきり向き合ったのは、空島に来てからだったような気がする。もっと正確に云えば、ジャイアントジャックの蔓の麓で、意識を失って倒れた彼を見たときだったような気がする。あの最悪だった一瞬。チョッパーもサンジも意識を無くしていた。ナミはいなかった。蔓を駆け上っていったルフィを追って、天へ向かってウェイバーを飛ばしていたのだ。ウソップはパニックを起こしていて、ロビンとガン・フォールだけが冷静だった。彼、ロロノア・ゾロも冷静だったとは云えなかった。
 ゾロは、あの時、料理人とチョッパーは死んでいると思ったのだ。投げ出されるように横たわった身体にはまるで生気がなく、血と煤で汚れ、髪が焦げ切れ、あちこちの傷がはぜて、赤黒い花が咲いたようになっていた。
 今までの二十年にも満たない人生の中で、彼は死体を幾つ見たか分からない。すっかり亡骸というものを見慣れたような気がしていた。それが「仲間」と名のつくものの死体だったら、という想定は常にしていると思っていた。海賊などというものになった時、仲間の死をまるで想定せずに生きていける筈がない。常に最悪の事態を想定する。そして、最悪の事態にあっても絶望しないということが、彼のささやか且つ強固な哲学だった。
 意識がある時はそれを心の表面で保っておける。だが、眠るたびに色鮮やかな悪夢を見るところを見れば、ゾロはまだ諦めてはいないようだった。自分が信じ、共に歩いた相手を誰一人亡くすことなく、夢の果てにたどり着きたいと、彼はどこかで望んでいたのだった。
 チョッパーが、そして彼をいつも苛々させる料理人が、死体になって横たわっているということが、自分にどんなインパクトを与えるのか、心の底では想像出来ていなかった。
 そこで叫びもせず、動きを止めることもなかったということが、早合点をした自分を唯一褒めてやれる点だった。ゾロはそういった場面で泣き叫ぶような行動を取る習慣はなかったし、どんなに力を失っても動き続けることが出来た。
 しかし、絶望することを自分に許さないからと云っても、絶望的な気分にならない訳ではないのだ。
 彼にとって、船長は誰にもかえられない存在だが、年若い船長の夢を支えるために、自分の片手同様に信頼出来る相手がいることの価値を、あの「死体」を見るまでは、本当には分かっていなかった気がする。
 結局の話、それは死体ではなかった。女を助けることに関しては目の色を変える料理人が、ナミを助けるために一命を賭した挙げ句に気を失っていたのだということが後で分かったのだが。
 あそこに転がっていたものが死体でなかった、ということを知った時の脱力感は、今でも忘れられない。嬉しい、だとか。安堵した、とか。そんな感情ではなかった。ただ、力が抜けて苦笑がこみ上げてきた。あの赤黒い傷だらけの身体が治ったら、一発思い切って殴り、そして、この上下の歯を用いて、力一杯噛みしめてやりたい。生きて鼓動する肉を。
 自分自身も散々に痛めつけられた身体の中で、絶望に近い怒りが突然莫迦らしいほどの希望に転じた。
 そして、脱力感が拭われた後は、ひどく凶暴な気分がこみ上げてきた。自分が抱え込んだこの衝動を、あの焦げ切れた金色の頭の中に、たたき込んでやらなければならない。

 一旦心が決まれば、ロロノア・ゾロは殆ど迷うことのない男だった。信じられないことだが、サンジが、男としての立場と、料理人としての頑固なこだわりを捨て、「料理」を自分に任せると云っている。自分の身体を好きに扱っていい、と云っているのだ。
 それは、見張り台にこの男がよじ登ってきて、共に海に落ちた日に起こった天変地異の続きだった。
(一時間ってのァ、今から始めんのか?)
 そもそも、一時間というのが長いのか短いのか想像がつかない。
「そういや、てめェの頭」
 ゾロは、いささか乱暴に手を伸ばし、料理人の柔らかい髪をかき乱した。むっと眉をしかめたが、それ以上反発する様子でもなく、彼はゾロに髪を触らせている。煮るなり焼くなり好きにしろ、と云った言葉は嘘ではないようだった。髪は、空島に入る前にはほぼ完璧に整えられていたが、今はところどころ不揃いだった。だが、焦げた部分が丁寧に切り取られ、取り除かれていた。
「あちこち焦げてなかったか?」
「おお! よく聞いたぜ、お前!」
 料理人はぱっと目を輝かせた。灯のともったキッチンの中では、彼の青空のような目に喜びがひらめくのがまざまざと見て取れる。
「オレのこの髪はな。ナミさんが手ずから切ってくださったんだぜ! あの白魚のような手でさ。どうだ、羨ましいか?」
 ゾロは思わず一瞬沈黙した。どんな瞬間にも、ナミや女たち一群への愛を忘れないこの男の女好きには、怒りや苛立ちを越えて、もう感心するしかなかった。
「……散髪料取られなかったか?」
「今回は特別よサンジ君、だってさ。エネルの船からお助けしたオレがよっぽど凛々しく見えたのかもしれねェな!」
「てめェは女の話になると、マジに莫迦面になるな」
「オレに云わせりゃ、そうならないお前の方がよっぽど莫迦だぜ」
 料理人はこの世の春、という様相だった。種さえまけば花が咲くに違いない。
「オレ達の船には女神がついてるんだぜ。ナミさんが航海士をやってるような船が、ちょっとやそっとのことで沈むかよ? ビビちゃんが船を下りた時はまァ、かなり哀しかったけどよ。代わりにロビンちゃんが乗ってきただろ? この上、もしかしてコニスちゃんが一緒に行きたい……なんて云い出すかもしれねえし。女神に護られた船は縁起がいいって決まってるんだ。オレもてめェもその分夢にぐんと近づくってもんじゃねェか」
「ま、てめェの脳味噌に花が咲いてるのは結構だがな」
 ゾロは、髪に触れていた手で、金色の頭をぐいと抱え寄せた。
「このまま、女の話で時間切れか?」
 照れたり腹を立てたりするかと思った料理人は、しかし動じなかった。
「毎日てめェに一時間やろうってんだぜ。そういう日もあってもいいんじゃねェのか?」
「わざわざ今晩、メリーにやってきてかよ」
 サンジが、先刻唇から離した煙草が、酸素を送り込まれないせいで、中途でくすぶっている。何かの合図のように、古いテーブルの上に置いた灰皿に、料理人はその煙草を押しつけた。
「それじゃ、時間を有効に使おうぜ、クソ剣豪」
 頭に来る話だが、料理人がこういう云い方をする時には、多少なりとも自分に親しみ深い気分になっている時なのだと、もうゾロは知っていた。ここでちょっとした言葉尻を捉えて喧嘩になっては、簡単に「一時間」を使い切ることになるだろう。
 そこで彼は、サンジの云う通り、時間を有効に使うことにした。
 まだ包帯の取れない腕で、料理人の両肩を引き寄せると、彼は笑み混じりに近寄ってきた。
 唇は飛ばして、喉元にそっと顔を寄せた。静かに口を開き、喉元に歯を立てると、サンジはかすかに震えた。
「今日も歯からご出発?」
 茶化すようにそう云われて、ゾロは、初めて彼に触れた時、彼の鎖骨に歯を立てることに自分が酷く執着したことを思いだした。あの、皮膚で包まれた骨を噛む感触。食欲と紙一重の欲望がこみ上げてくる。今まで散々自分を焦らして考え抜いたのでなければ、この男を自分は喰ってしまいたいのだと誤解するところだ。
「まァ、待て。灯りを消そうぜ」
 ゾロを軽く押しのけて、料理人は殊勝な、慎み深いことを云い出した。
「オレ等はどうも、てめェたちの顔を見てると、云い合いばっかになりそうだからな」
 ゾロは肩をすくめた。
「同感だ」
「珍しく意見が合ったじゃねェか。幸先がいいな」
 そう云いながら、料理人はキャンドルスナッファーを取り上げた。そして、ランプの灯にスナッファーをかぶせようとした時、ふと気を変えたように手を止めた。鉄製の火消し棒をテーブルに置き、代わりにランプを手に取った。ネジを回して芯を伸ばし、炎を大きくしたかと思うと、それをゾロの顔にかざした。いきなり火を間近にかざされたゾロが、首をねじってそれをかわすと、サンジは満足そうに笑った。
「蒼だな」
「何の話だ?」
「てめェは知らなくていい」
 確か、この男は前にも同じようなことを云っていた。
 そして、ゾロが更に聞き返す前にスナッファーを手にとって灯りを消してしまった。
 その瞬間、キッチンの窓から、ランプに追いやられていた月の光が射し込んだ。
 アッパーヤードよりもずっと下方の白海に停泊しているとは云え、夜空を充たす満月の光から、ゴーイングメリー号は逃れ得てはいなかった。星を打ち消すほどの明るい月なのだ。窓の形に長く月あかりが伸び、丁度蒼白い光を真っ向に浴びる位置に、料理人は立っていた。
 こんな莫迦げた言葉の応酬、生臭い体液を交換しようとする今も、ぴんと背中を伸ばして、その髪は、王冠を載せたような誇らしげな金色に輝いていた。女を相手にする時、彼の整った顔がどんなにだらしなく崩れるのかも、仲間内でいる時にリラックスした様子で背中を丸めている様子も、ゾロは目にしている。
 だが、今自分の前にいるこの瞬間は、料理人は間違えようもなく男だった。それは彼がゾロに差し出そうとする「一時間」に決して冒されることはないのだ。自分が料理人から、腕一杯に汲み上げても、この男は一ミリグラムも自身の存在意義をすり減らすことはないのだろう。
 そう思うと、ゾロは柄にもなく、胸がいっぱいになるのを感じた。
 女にするように大切にする必要はない。
 女にするのと同じことだということも、気にする必要はない。
 ただ、自分はこのプライドの高い男から差し出されたものを、飲みたいだけ腹一杯飲み干せばいいのだ。
 それが腑に落ちた瞬間、ゾロは、月の中で全身を淡く輝かせている男を引き寄せて抱きしめた。
 自分の抱えている想いは、矢張り色恋沙汰以外の何物でもないという気がした。
 だが今はそれを、不自然な、気分の悪いものだとは思わなかった。
 料理人は強靱な腕に力任せに抱かれて、傷が痛んだようだった。いてェんだよ、とつぶやく声は、だが、やはりひそかな機嫌の良い笑い混じりで、ゾロ同様、彼がこの散々な色恋沙汰を楽しんでいるのが分かった。

「畜生……」
 サンジが、剥がれた包帯をのろのろと巻き直しながら呟いた。
「うまくやって、せめて男部屋のソファに持っていこうと思ってたんだがな」
「痛ェのか、傷」
「痛ェに決まってる」
 ジャイアントジャックの下で、ゾロが赤黒い花のようだ、と思った料理人のあちこちの傷は、もうほぼ乾いてふさがり、清潔な包帯で覆われていた。だが、床の上で身体を動かす内に幾つかは破れ、包帯の上に新鮮な血をにじませていた。もっともそれはゾロも同様で、手足が絡み、身体を揺り動かす過程で、包帯の下の傷が疼き始めているのを感じている。
「まァ、オレとてめェには床がお似合いかもしんねェな」
 汗に濡れた髪をかき上げて料理人が一人ごちた。
「この先もベッドなんかにゃ、縁がねェかもしれねェなぁ」
「港の宿と、花と女とベッド────」
 ゾロは言葉を切って、鼻梁の横を流れる汗を拭き取った。まだ身体が本調子ではないようだ。それに彼はしたたかにアルコールを摂取している。
「そういうのがてめェの希望なんじゃなかったのか?」
「世の中、希望通りにばっかはいかねェよ」
 サンジはさばさばとそう云って服を引き上げた。ラフな格好の時も身につけて離さない、威嚇的な鋲のついたベルトをがっしりと締める。
「時間もオーバーしたみてェだしな」
 ゾロは揶揄した。
 別にはかっていた訳ではないが、月の傾き加減でそれと知れる。二人は服を取り去った後は、一切遠慮しなかった。言葉も殆どなかった。二人共に痛みがあり、快楽も同時にあった。ゾロがサンジの中に自分を押し入れている時、サンジの体液が床を湿らせて、それが、押し広げられた身体の快楽を物語っていた。時間を区切って抱き合うなどという器用な真似が出来る訳はなく、歯で、舌で、腕で確かめ合うのに満足するまでには、果てしない行程が必要であるように感じられた。
「それァ、今後はうまくやらねェと」
 料理人は顔をしかめてみせた。
「船への、オレの責任問題だ」
「今後があるのかよ」
 ゾロがそう尋ねると、料理人はいぶかしげに、床に胡座をかいて座った彼を見下ろした。
「ねェのか?」
 ゾロは自分の頬に血が昇るのを感じて、ぶっきらぼうに云い放った。
「こういう時は何て云うのが礼儀なんだ? 『おかわり』かよ?」
 すると、サンジは上着を羽織りながら明朗な声で笑った。
「そりゃ、かなりいい線行ってるぜ」
 そして、そう云った後、
「腹一杯喰わせてやる」
 軽く優しいキスをひとつ、掠め取って行ったのだった。

                                   了

05: