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ペリドット

11 13 *2013 | Category 二次::デジ02・伊織×岳、大輔×岳

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シンパシーの続き。

続き


 彼は煙草も酒も嗜まなかった。それどころかコーヒーさえ。
 伊織はそれを見倣いたいと思う。カフェイン剤はいわば、法律に触れないアッパーのドラッグのようなものだ。だから試合前に、いブラックコーヒーをひそかに飲む自分の癖を、ある種のドーピング行為のように思う事もあった。コーヒーを飲むところを無意識に人に見られたくない思う気持ち、そして試合後には飲まないという行為ことが、その証のようだった。
(この人は何で出来ているのかな)
 彼はときたま、「彼自身」を楽しませる、楽にする、ほとんどの習慣を、神経質に排除する岳を不思議に思う。




 高石岳が薄いノートパソコンを抱えて伊織の部屋を訪ねるようになって、そろそろ半年になる。彼等の独特の付き合いが始まったのは、一通の年賀状からだった。祖父に教わったことがきっかけになって始めた剣道の、大学新人戦を岳が見に来たことを、伊織はその葉書で知った。
 ついに返事を出しそびれた、その葉書の返信をすう、と通り越すようにして、岳は直接、伊織のアパートにやってきた。
―――あの世界のこと。僕は何らかの形で書き残したいんだ。もちろんフィクションとしてね。童話みたいな形で。何もなかったように記憶にしまってしまうには惜しい世界だと想わない?
 伊織のアパートにやってきた岳は、なめらかな爪を備えた指で、空を指さした。そう、あの空の向こうにあの世界がある。岳と初めて心が通い合った世界が。
 久しぶりに岳の顔を見た伊織が、玄関先で、自分をドアに押しつけたことについては何も触れなかった。
 岳は下に落としたのに、伊織の革靴の上に落ちたおかげで不具合のなかったPCのバッグを拾い上げて、視線がすでに自分を追い越した伊織を見上げた。かすかに青みがかった岳の瞳が伊織の黒い目を見つめていた。伊織はその目を怯まないように見つめ返すので精一杯だった。子供だった自分が岳に、どこか倒錯的な感覚を抱いていたことを彼は自覚している。子供の頃の、柔らかくしなやかだった細い岳と、大人になって現れた岳はほとんど印象が変わっていなかった。
 身長は、一般男性の平均よりもやや高めに伸びた伊織より、てのひら半分ほど低いだろうか。ハーフであるゆえに、純粋な東洋人よりも色素の薄い岳は、しかし西洋人の男の獣臭さを持たず、色白のすらりとした、中性的な青年になっていた。やわらかな金褐色の髪は、ほとんどセットされずに簡素な髪型に調えられ、岳のなめらかな頬にまつわっていた。
 伊織の網膜が彼をとらえた途端、彼と全身でつながったことを思い出さずにはいられなかった。それだけ、なめらかな「現在」の岳の姿は、今の伊織の目にも衝撃的に快かった。子供の頃は自分は光の中で彼と解け合い、自分であって自分でないものになった。背の高い小学生だった岳もまた、岳であって岳でないものになり、血肉のレベルすら超えるように互いの中にとけあい、光をまじえた異形のものになった。
 だが今は、そんな風に他人とまじわることは不可能だ。あんなことは二度と起こらない。そう考えると、いつも伊織の中には飢餓感があった。彼は小学生の小さな身体でそんなことを覚え込まされ、その相手が高石岳だった。
 その感覚を衝撃的に全身で思い起こした伊織が、自分の背後のドアに手をついたことを、岳は別の意味にとったようだった。
―――君はこんな風な、火みたいな人になると思ってたよ。
 彼はなめらかな声で、伊織にささやいた。
―――あの体験が僕ら全てに、それぞれ同じ、しかも一つずつ違う体験になったことは分かってる。だから僕は、それを全て同じ色に塗ってしまおうとは思わない。君があの思い出にどんな色を載せたのか、それを知りたいんだ。
 伊織は岳に気づかれないよう苦心しながら喉を鳴らした。
 名前の通り、火のような。
 岳の言葉はある意味ではあたっている。
 だが、ほっそりしたその身体を見た瞬間、ジョグレスなどという、今にしてみれば得体の知れない現象ではなく、その色の薄い調った唇に自分のそれをかみあわせ、ひきよせて、もっと物理的に解け合いたいという、あの頃には持ち得なかった―――男の衝動を、伊織に抱かれたことを岳は気づかなかった。
―――そういうことなら。
 伊織は少し堅苦しく応える。それが自分の爆発するような望みであることを隠すために。
 耐えることは構わない。
 岳が自分にそれで会いに来るなら、そうでないよりも遙かに楽に、伊織は衝動に耐えるだろう。彼は或る意味では耐えることの快楽を知っていた。
 重い防具と、視界をさえぎる面をつけ、夏のさなかに重い竹刀を振ることは、彼の人生の意味を問う苦行だった。
 殉職した父と同じ道を行くのか。また別の道を選ぶのか。
 今、視野に入れた職業もそれは難関であり、それを選んだところで、その道に自分はふさわしいのか。伊織の葛藤は際限がなかった。
 そこに岳を思う忍耐が加わる。
 それは、岳とはまた違った形でストイックな伊織にとって、考えられないほど豪華な贈り物だった。
 ただ自分を見上げた顔を見ただけで、岳自身が云ったように伊織は「火」のようになったというのに。それをどれだけどんな風に耐えるのか、伊織には想像もつかなかった。
 ただ、岳とこの先会う機会を失うのは嫌だった。
―――火みたいって、僕のどこがですか?
 岳に、ようやくかすかな諧謔心をまじえて問い返すと、岳はかすかに笑った。
―――君があの世界を忘れてないってことが分かったよ。僕の見てたあの世界は、どこか現実逃避の楽園的なところがあったけど。君は、僕が思ってたよりずっと必死だったんだね。本当に小さかったのに君はいつも一生懸命だった。好奇心一杯の小さな闘士だったね。青い綺麗な焔みたいにさ。
 火は青い方が温度が高いんだってね。
 そう云う岳が、自分の目の中に宿った熱を別の意味に取り違えたことが分かった。それは卑怯かもしれないが、岳との連絡を絶やしたくない、と、再会したとたんに、それこそ「燃えるように」思った伊緒には好都合だった。




 それから岳は時折、週末、伊織の稽古が終わったあとやってくるようになった。
 最初は一時間ほど。
 しかし回を重ねるにつれて、終電の時間を逃すことも度重なった。
 彼等は意外にも読書や映画の好みが似ており、話題に事欠かなかった。
「あの世界」の話はむしろ少ないほどだった。
 もとより、伊織も岳も口数の多い方ではない。二人でいる時間は静かに過ぎていくことも多かった。それは決して居心地の悪い時間ではなかったが、声を出して笑い合うことはそう多くはなかったのではないだろうか。
 何度か岳が訪れるにつれて、伊織は望み通り、彼についての感覚的、視覚的な情報をためこんでいた。ハーフで目立つ外見を華やかに見せないためなのか、昔よく着ていたビタミンカラーの緑の服の色は白に近く薄い色に替わっていた。そのほぼ白に見える布には、よく見るとうすみどり色の光沢がある。影やドレーブがそれを教える。それと合わせて、岳は僅かに緑色がかった、細身の藍染めのジーンズを履いていることが多かった。
 意外だったのは、岳が右耳にピアスの穴を開けていたことだった。
―――ここには怪我で少し傷をつけて、ピアス穴の失敗みたいだからさ。
 岳はそういって、小さな石をつけた耳を押さえた。
―――いっそ穴を開けちゃおうかと思って。
 その話をしてくれた時、彼は珍しく小さく吹き出した。
―――ピアスを開けるのは、僕にはすごく小さいことだったんだけど、兄さんが大騒ぎしておかしかったな。ゲイに間違えられるって云い出すんだよ。しかも、耳に穴を開けるなんて、親に貰った身体を大事にしないことだって、本気で言うんだ。自分は高校の頃にさっさと両耳にピアス穴を開けて、派手な色のをとっかえひっかえつけてるのにね。まあでも、あの人の過保護を鬱陶しいとも思うけど、可愛いところだな、とも思う。
―――岳さんに似合いますよ、その石。
―――単純に色で選んだけど、「ペリドット」だって。
 伊織はのちに、金緑色のペリドットという貴石が、八月の誕生石であること。「運命の絆」という言葉を象徴している石だということを知った。
 運命の絆はともかく、岳がそれを「八月」を意識せずに買ったとは思えなかった。
 そう知ると、彼はその石を何度も繰り返して見つめずにはいられなかった。
 若葉をつけた白樺のようなたたずまいの岳は、ほとんど菜食に近く、嗜好品を殆ど摂らない。飲むのはたいてい水だけ。甘い物も、味の濃い食物もほとんど摂らなかった。持ち物は色の浅いアースカラーのものが多く、唯一飲む温かい飲み物は、薄めに入れたストレートティーだけだった。それもフレーバーのものではなく、安物のティーバッグを早めに引き上げて、薄く紅茶の香りのついた湯を飲む。もっとも伊織も、フレーバーティーなど、〇二年組女性陣の外国旅行の土産物などで、稀に口にするだけだったが。
 岳がおびただしく摂取するのは、膨大な本、時事問題を扱ったドキュメンタリー、そして文学的で難解な映画だけだった。
 伊織のように、運動で発散することもない。
 この人の中にストレスというものはないのだろうか。
 そんな岳の持ち物の中で、一つだけ異彩を放っているのは、薄型の真っ黒なエナメル加工のボディを備えた高機能のノートPCだけだった。銀色の小さな羽根の形のロゴが上蓋についている。日本製ではなく、アジア製のWindowsのマシンで、伊織の持つ古いデスクトップマシンとは桁違いの能力を持っているようだった。その烏の濡れ羽色の美しいマシンの中に、岳がいったいどんなデータベースを構築しているのか、伊織には分かるような気がした。
 その真っ黒な華奢なマシンの中身を、見せてくれるように岳にねだったことはなかった。
 まさにブラックボックスだ。
 右耳にうすみどりに輝く貴石をつけた岳が、自分の部屋の向かいのテーブルで、そのマシンをのぞき込んでいる様子は、彼の心の奥底の秘密に触れているような錯覚があった。







「紅茶切れてるかな?」
 ガス台の上の棚を覗いた岳がそう言ったとき、伊織は、岳のために、今までよりも大きな箱を買ったため、もう一段上のストッカーに紅茶ケースを置いたことを思いだした。
「その上ですよ、ほら」
 空が、余りにも殺風景だと置いていった、小さな観葉植物の鉢に、コップの水をやっていた伊織はガス台へ足を向けた。
 ガス台の前に立った岳の後ろ姿を囲い込むように、彼は腕を伸ばしてストッカーの最上段を探った。岳からはよく見えない位置に、紅茶パックの紙箱があった。それを引きだそうとして伊織は手を止めた。十一月近くになっていたが、まだ半袖だった伊織の腕に、岳の髪が触れ、ついで、ちりっとした刺激があった。
 それが岳のピアスの石であることを認識するのとほぼ同時に、伊織は岳を意識しないように深呼吸をした。
 こんなことは今までも幾らでもあった。
 そのたびに、伊織は何一つ壊すことのないように―――ちょうど岳がそういう風に痛々しいほど潔癖にふるまうのと同じように―――何気ない振りを装ってきたつもりだった。
 しかし、岳の表情が見えないせいで、その場に起こったちょっとした変化は、いつも岳に過敏な伊織にとってはむしろ際だって見えた。
 伊織の腕に触れた岳の身体がかすかにすくんだ。まるでぴりっと緊張したように思えた。
「岳さん?」
 腕の位置をそのままに呼びかけると返事はなかった。
 まさか?
 伊織はいつかと同じように、しかし今度はどんな目をしているのか分からない岳の後ろ姿を自分の腕の中に囲い込んだまま凍り付いた。
「岳さん」
 もう一度呼んだが、岳は答えない。
 何か気づかれるようなことを自分はしただろうか。
 しかし、次の瞬間、伊織の腕は岳の身体の表面を、まるで絹糸のように覆ったふるえに気づいた。
 岳、が。
 震えている。
 触れるか触れないかのぎりぎりに囲い込んだ、自分の腕の中で。
 どうして?
 しかし今、理由になど意味はあるだろうか?
 伊織はからからになった口をつぐみ、岳の身体を覆うようにした腕をそろそろと下ろした。急激な動きで岳の逃避衝動を引き出してしまわないように。そして腕が岳の肩より少し下の位置まで下りていった時、必死に力を抑制しながら腕を交差させ、岳を後から抱きしめた。髪の間から、伊織の腕の内側に刺激を与えたピアスのうすみどりが光って見える。そして、伊織の腕の中の岳は逃げようとしなかった。半袖を着ていてよかった、と思う。伊織が岳の胸の前で交差した腕には、音が聞こえてきそうなほど激しく打つ心臓の鼓動がじかに伝わって来たからだ。そして岳の背中には、彼に触れていること、そして驚きのために高鳴る、伊織の胸のそれが伝わっている筈だった。
 伊織はとても信じがたい気分で、岳の髪の間に唇を寄せた。あたたかい耳朶にはめこまれた石は冷たいかと思ったのに、岳の体温をうつして温かかった。
「岳さん、僕は―――誤解しますから」
 自分の呼吸が荒れ始めていることを恥じながら、伊織はそれでも岳に避ける機会を与えるべきだと思った。ゆるく抱きしめていたが、それを拘束の形にはしなかった。ほぼ苦痛に近い気分で云った言葉にも岳は答えなかった。
 彼等の二つの身体はいまや、身体だけでなく、激しく打つ鼓動でつながれていた。
「……誓って云うよ、君に……」
 ほんの少しの間のあと、岳が僅かにかすれた声でそう云ったとき、どちらかがきちんと締めなかったのか、ガス台の隣の水道から一滴水が漏れ、乾いた流し台に落ちた。
 今度は、岳は目に見て分かるほど身体をふるわせた。
「僕に?」
 伊織の声も震えていた。
「君にそんな下心があって、ここに来てたわけじゃない。だけど、君が」
「……僕が、……何ですか」
「ピアスをよく、見るから」
 色の淡い艶のある髪の間から覗いた岳の耳朶が赤く染まった。
「君がピアスを見てるのに気がつくと、何だか、触られてるような、変な気分になって……ごめん、伊織くん、ごめ……」
 それでは、自分は自らきっかけを得るために積み重ねていたのだ。
 岳の言葉が終わらないうちに、伊織は彼を振り向かせて抱き寄せ、触れたくて変になりそうだった唇に自分の唇を押しつけた。その感触は全身を粟立たせるほど甘美だった。







 布団を敷いている余裕はとてもなく、伊織はTシャツを脱ぎ捨てて、岳のうなじの下に敷いた。
「伊織くん、君は、いいの、こんな―――」
「いいとか、それは」
 自分の台詞なのではないか、と云いかけて、同じような力を持った男同士では、そして二人とも発情(そうと以外に云いようがあるだろうか?)した同士では、特に成立しない言葉だと気づいた。
「見てました」
 伊織がともすれば浅くなる息の合間にそう云うと、え?と岳が聞きかえす。
「岳さんの気のせいじゃなく、……見てました。岳さんのピアス」
 彼はそう云って、岳の耳元に唇をつけた。石の上をざらりとなめると、金具にひっかかって舌に小さな血の味が広がった。だが、岳の耳元に舌で触れた途端、そのやわらかな器官をそなえた身体がぴくりと震えたことの前には、そんな血など一滴のエッセンスに過ぎなかった。
 岳の体臭とまじって甘くはなっているが、間違いなく男物のミントのシャンプーの、そして僅かに残るアフターシェーブローションの香りをかぎながら、跡をつけないよう首筋のあちこちにくちづけた。そのたびに岳の身体がかすかに跳ねる。伊織は、彼に触れた部分の毛細血管が切れてしまいそうに高揚しながら、岳の胸元をさぐった。決して無理強いでないことを示すように、少し汗ばんだ岳の手がそれを手伝う。
 アンダーシャツの下に手を差し入れ、平らでなめらかな隆起を描いた胸を撫でる。そこに、指先ほどもない小さな突起を探り当て、痛みを与えないよう、伊織はそれを人差し指の先で小さく回した。男で、ここに快感のポイントがある者は少ないだろう。それに女性同様、皮膚が薄いので傷つけやすい部位でもある。
 かすかにつぶすように指を動かすと、岳の唇から、はっ、と息が漏れ、伊織の腹に触れた岳のジーンズの前が反応したような気がした。
 正直経験豊富とは云えない伊織は、物慣れず、岳の感覚について言葉に出して問いかけることは出来なかった。岳が感じたのかどうか、ひどく知りたかったが、それは自分で確かめるしかなかった。
 彼は首筋への熱っぽいキスを中断し、岳のアンダーシャツを鎖骨の位置まで完全にたくしあげた。蛍光灯の光の下で淡い色を載せたその部分に唇を近付け、胸の皮膚よりも少し冷たいそれを舌ではじく。
 今度の岳の声は「ア」」の音に近く、ぶるりと震えた身体の反応は疑いようのないものだった。
 逃げるように身体をずらす岳の両腕を握しめて畳に縫い付け、岳の身体に乗り上がった。伊織は歯を立てないよう、自分に戒められて身動きできない、岳の胸の両側に夢中でくちづけた。一回一回身体の下で起こる痙攣は、伊織にかつて感じたことのない薄赤い興奮をもたらした。岳はそれを吸うよりも舌先でやわらかく転がされた方が感じるようだった。
 伊織に腕ごと全身を縛られた岳は、息の荒さを隠すことをあきらめたように見えた。
 舌が自分の身体の快楽の源に届くたびに、彼はぴくっと身体をふるわせて、浅い息を吐き出した。
 岳の胸をひとしきり味わった後顔を上げると、白い胸の上で、そこは最初に目にしたよりも色が濃くなっていた。かすかにとがって赤く濡れたそれは岳の身体のパーツとは思えない淫らなインパクトを持って伊織の目に飛び込んできた。
 伊織はその時になってようやく岳の顔をじっと覗きこんだ。岳は呆然としたように唇を薄く開き、まつげをかすかに湿らせて、伊織が敷き込んだシャツの上で斜めに顔を傾けていた。
 この人に触れてもいいんだ。
 それも、男として、女性にそうするように。
 じわじわと背中を焦がすように、実感がわきあがってくる。
 岳の腕を放し、彼の腰の前を探ると、さっき伊織が感じたこわばりはもう形になりかけていた。ジーンズのボタンをはずし、ファスナーを下ろす。下着に盛り上がりがあるのが信じられない気分で、隙間に手をすべりこませる。髪よりやや硬い体毛の感触と共に、岳の熱した皮膚が自分のてのひらに触れた。
「あ、伊織く……」
 岳は、ほとんど息を吐くようにそう云って、細くしなやかな腕を、いまや自分よりも広くなった伊織の背中にまきつけた。うなじを、間違いもない男の力で引き寄せる。そして岳は、冷たく濡れた唇で伊織の唇を覆った。濡れて冷えた唇の中から、ゆっくりとあたたかい舌に探られる。伊織はそれをかみ切ってしまいそうな興奮に耐えながら、歯と舌で岳の愛撫に応えた。
「伊織くん」
 キスをほどいた彼はあえぐようにつぶやいた。
「僕がこうするのは」
 岳はすっかりそれを云いきれないように、また短く数回あえいだ。
「君だからだ」
 目元にぼうっと血の気が上がってくる。それと共に唇が赤くなる。今まで血の気がなかったところが赤く染まるというのは、どこであれひどく淫らなものだと、伊織は初めて知った。
「君が好きなんだ」
 岳は切れ切れにつぶやいた。そして目を閉じてしまう。
「……伊織くん、……伊織くんは」
 それは質問のような語尾ではなかったが、岳が伊織の気持ちを伝え聞こうと思っているのが伝わってくる。こんな、なし崩しになっても仕方のない状況でさえ、彼がお互いの心の、その部分を証したいと思っていることに気づいて、伊織は痛みのような幸福と興奮に包まれた。
 彼はすぐに気持を言葉にするのが惜しいほどの気分で、何度も繰り返し岳に唇を押しつけた。最初は慣れなかった歯の奥への愛撫も、すぐになめらかにできるようになった。彼はおおきくあおのかせた岳の歯列の裏をなぞり、その奥の舌を引き寄せた。口蓋を舐め上げると岳は短い、艶のある喘ぎを漏らした。その息や声や、濡れた舌同士がこすれる音が鼓膜を刺激して、伊織はのぼせそうになる。
「好きでした、僕は、」
 彼はようやく掠れ声でささやいた。
「ずっと」
 それから何回か、何回も、「ずっと」と繰り返した。
 服の前面を中途半端にあばかれて、息をはずませた岳は、まるで使命を果たしたように深いため息をついた。
 それが、自分同様、岳に大切なことだったのが、伊織にはひどく嬉しかった。







 自分の短く切った髪の間から汗が流れ落ちて、岳の顎や頬に落ちた。
 ローションなど持っている筈もない伊織は、結局食用のオイルを岳に使った。どれだけ使えばいいものかもしれず、浴室の床で片膝を曲げた彼の中に、あふれるほどそそいだ指を使って、何度も何度もオイルを塗り入れた。今まで拒否するようなことを一言も云わず、仕草も見せなかった岳が、途中から伊織の手を押し戻そうとするように腕を掴むのが、どういった意味なのか分からず、伊織は戸惑った。だが、自分が中で指を動かし、そのたびに岳からオイルが流れ出すと、そのたびに岳が背中をひくつかせるのに気付いて、伊織はぞくぞくと背中をふるわせた。性器も固さを増して、角度が変わっていく。オイルでほぐすために濡れた指で、岳の先端につ、と触れると、そこは伊織の指に反応して、かすかに快楽のしるしをにじませた。
 そして、赤く色づいて濡れた部分から、金色のオイルの筋が幾重にも流れ出してくるのは、途轍もなく刺激的な光景だった。その流れは岳の腰の下で水とまじって虹色の皮膜を作り、白い皮膚を粘液に濡れたように光らせた。そこに深く指を埋めると岳は膝を開いたままうめき、指が中で回る動きに、少し腰を浮かせてあえいだ。岳のそこと自分の指の動きが連動している。
 伊織はとうに形が完全に現れて堅くなっており、岳を指でおかすたびに、自分自身がそこに入って動いているような興奮ともどかしさがあった。まだ押し入れていない内から、身体の中も外も快楽でくらくらした。
「も」
 もういいから。
 もういいですか。
 そう云おうとした二人の言葉の冒頭が重なって、この事態になって初めて、岳と伊織は笑った。





 流れ出すほどのオイルにたっぷりと湿された岳の内部は、意外にも痛みもなく伊織を受け入れた。ぬるりとした弾力に吸い込まれた瞬間の驚くような快感に、かっと顔に血が上る。
 岳はどうなのか。
 自分だけ快くても仕方がないのだ。
 岳の顔を見下ろすと、大きく膝を開いて伊織を深く入れた岳は、湯気と汗で頬に髪をはり付け、浅く大きな息をしていた。彼の腹の上の性器は勢いを失ったようには見えなかった。ぬるぬると伊織を滑らせる内臓の中を揺り動かすと、岳は逃げるように身をよじらせた。嫌がっているとも、違う感覚を味わっているともつかない動きだった。
「伊織くん」
 岳は頭の上に投げだしていた手を動かして、ほのかにそまった唇から、あえぎと共に彼の名前を吐き出した。
「……な、ですか」
 荒い息と共に答えると、岳は、自分の左手で、浴室の床についた伊織の右手を握りしめた。指を絡める。
「に―――」
 たまらないように身体をびくつかせ、伊織をぐっと締め付けたあと、岳はささやくように、
「握ってて……」
 そう云った。息に近いそれは浴室の湯気と共に伊織にしみこみ、彼を、経験したことのない興奮に引き摺りこんだ。





 伊織は、なまじきたえた身体のせいか、岳との密着を終えることをおそれるせいか、なかなか終われなかった。浴室の床で、岳がぐったりと横たわるまで、中で、深くじっくりと動き続け、果てには、引き出す余裕もなく絞り込む体内に出してしまった。油と精液にぬるついて動きやすくなった内部は、とろりと彼に絡みつき、不規則に細かく彼を締め付け、焔をなだめるどころか尚いっそう伊織に火を付けた。
 伊織はタイルと湯と自分から彼を解放できず、濡れた彼の中をゆるく擦りながら、岳に指を絡めた。岳が自分自身に触れているのを見たいためだけに、彼の指を一緒に引き寄せた。
 岳は目元を淡く染めたままでそれをちらりと見たが、視線をそらして、抗おうとはしなかった。こんなまじわりの中でさえ、伊織の体温と岳の体温には少し違いがある。自分よりほんの少し体温の低い岳の指ごとからめて、なるべくなめらかな動きになるよう動かした。浅く長い息を吐いていた岳の呼吸が突然せわしなく、早くなり、伊織のてのひらが彼をあおろうと動くたび、内側が動揺するように締まる。
 自分にくすぐるようにまつわりつき、ぐっと締め付けることを繰り返すのが、岳の身体だと思うと、頭に血が上って煮えてしまいそうだった。
「あ」
 不意にはっきりと、岳がうわずった声を漏らした。
「も、い、から、離…」
 伊織は岳のピアスの上を軽く噛み、燃える呼気を噴き入れた。
「…して下さい」
 岳の熱を自分のてのひらの中に出して欲しかった。
 彼を高めたのが自分だという実感が欲しい。
「……っ、」
「岳さ―――」
 息が荒れ、語尾がかすれる。指をからめながら耳朶をしゃぶる。また口の中に、ピアスで切れた血の味がして、伊織を興奮させた。岳が自分に血を流させる、という発想に高まった。
「 は、……っ、……っ」
 耳に舌を這い込ませると、引きつれる幾つかのあえぎと共に岳の形が張り、伊織の指と岳の指の合間からぬるいものがあふれた。破裂しそうに胸を高鳴らせながら伊織は、更に岳から引きだそうと、その熱を塗り伸ばすように指を動かした。
 自分が上り詰めている最中も、伊織に、内側の敏感な部分を刺激され続ける岳が、その後に漏らした、幾度かのため息は、安堵のものというよりも、泣いている時のむせびに似ていた。伊織はそれすら飲み込みたい思いで、ようやくぎこちなさの取れた唇を岳に押しつけた。あえぎに開いたなめらかな唇のラインの中に深く重なる。唇も舌も、どこもがやわらかくなめらかだった。初めて触れることを許されたというのに、自分の強欲さは、岳の寛容さはどうだろう。
 彼は自分を好きだと云った。そんなことがあり得るだろうか。キスは岳の腰の奥に入るのと同じほど心地よく、更にみだらな優しさを伴っていた。何度もキスした。
 ずっと、と繰り返した言葉の何倍もキスした。




 浴槽のタイルの上に力なく横たわった岳の背中に、これ以上負担をかけないよう、伊織は離れることもせず、堅いままの自分を岳の中に深く残して、弛緩した身体を膝の上に抱えあげた。
 向かい合わせて伊織の膝の上で足を広げ、伊織の腰をはさみこむことになった岳は少し苦しそうに見えた。疲れているようにも思える。しかし、伊織の熱はすでに自身でコントロールできる状態ではなかった。彼は、岳が自分の上体を彼自身が支えなくてもいいよう、力一杯抱え寄せ、濡れた髪に、首筋に、頬に、そして絶え絶えの息を吐いても、抵抗の言葉を示そうとしない唇にキスした。
 そして、どろどろに濡れた岳の身体の中に、岳の体重と体位を借りて、なお深く入り込んで動いた。
 伊織に巻きしめられた岳は喉を少しそらして、キスと高揚と、微弱な酸欠のせいでうすあかく染まった唇であえぐ。伊織の動きひとつごとに。そして、彼等の身体の間にはさまれていた岳も熱を持ったままだった。その先端をてのひらでくるみこんで撫でると、岳は首を振って伊織をぐっと締め付けた。濡れきっているせいで完全には締まらず、そこは粘った音を立てる。岳の閉じた目から一筋涙が流れ出した。
 こんな湯気の中というのに、あえぎ続けて乾いた唇の上に涙は流れつく。それを舐め取ろうとして、伊織はこの体勢がひどくキスしやすいことに気づいた。
 そして、自分の熱で岳の内臓の深くに、そして唾液と舌と共に口腔の中に入り込みながら、二カ所で岳とつながっていることに陶然とする。
 自分に快楽を与えることを、これほどまで極端に嫌う岳と、こんな行為を共にしている。彼の耳に光る石は、岳の性質通りに、岳自身でなく周囲を護っているように思える。無論、自分も護られているのだ。
 伊織はゆるやかなぬめりと音を伴う上下運動、そこから引き出される二つの、火のような息を聞きながら、キスする寸前に髪の間に光って見えた、岳のピアスの貴石の意味について、もう一度思い起こさずにはいられなかった。










ペリドット:8月の誕生石。
古代エジプトで太陽信仰が盛んだったころ、「黄金の太陽」を象徴する石として崇められていた。暗闇を吹き飛ばし、神々しい光となって世界を照らし、悪を退散させると伝えられていた。そのため、身を守る護符として古来より珍重されてきた。
またペリドットは「女神ペレの涙」だと言われ、「火の清め」のパワーを持つと信じられていた。邪悪な物を焼き尽くし、全てを浄化する力があると伝えられている。

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