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05 24 *2014 | Category 二次::ゼノギアス・バルビリ


続き










          1.

 雨の日曜だった。霧のような小雨だ。
 夕刻には晴れるだろうと思いながら、ビリーは防水加工をほどこした外套を、神父の黒衣の上に羽織って、白い息を吐きながら、小船を操って教会へ行く。その小船は、数か月前、軽快に動くモーターを新しくとりつけたばかりだった。以前は、粗悪なものを使っていたせいで、数時間かかって通った、元教会本部の島まで、今ではほんの一時間もあれば通えるようになった。
 この小船には櫂を取り付けることも出来る。ビリーは船底に必ず櫂を置き、どこか心が疲れているような晩、考え事をしたい時など、ゆっくりと自分の腕で漕いで、孤児院まで戻ってゆくこともあった。
 むろん忙しい朝にはそんな悠長な事はやっていられない。少しでも早く教会につけば、幾らでも仕事はあるからだ。今は彼と、残り二人の若い神父が教会のつとめにあたっている。
 礼拝、他の教会との連絡、トラブルの対処、争いごとの仲裁。病人の見舞、そして懺悔を聞くこと。燃えた教会跡を補修して新しく作られた教会の手入れも、雇い入れた男達と一緒に、三人の神父達がこなす。
 新司教は、この島の東に新しく作られた教会本部にいる。この島は人が集まりやすいため、まだ教会として使われてもおり、また、巡回医の診療の会場となることもあった。以前持っていたような高い医療技術は、今の教会には望むべくもなかった。デウスによる「掃討」を免れた場所では、かつてのソラリスの技術を保全して用いている場所もあるが、それは到底全ての人には行き渡らない。しかし人の生命力は強い。その技術を応用して、また必ず這い上がって行くだろう。
 ビリーは今年に入ってから、知人の医者のところに出かけて行って、簡単な医療の講習を受けた。いずれは本格的に学んで、できれば医師の資格も得るつもりである。
 今現在、病人たちはビリーに資格を求めてはいないが、いずれ人々の生活が向上すれば、自分の病に施術するものの肩書きに再び着目する日が来るだろう。それに対応できるようにならなければならない。
 リミッター解除。
 この世界に生まれた人間が、生まれつき精神の中枢に組み込まれた抑制プログラムの解除だ。それを計画したのはビリー自身ではないが、彼はそれに賛同して、計画を推進したグループのひとりだった。
 リミッター解除のためのナノマシン散布は、それがヒトの能力や自我を解放することを期待して行われた計画だった。だがその結果は惨憺たるものだった。リミッターを解除することによって、人々が体機能そのものに異状をきたしてウェルス化することは、その研究に気の遠くなるほどの時間携わってきた研究者たちの予想の範疇をすら越えていた。すでにリミッター解除は何人かの人間でテストされていた。その者たちに異状はなかった。
 ビリーも被験体のうちのひとりだった。
 リミッター解除によって異常を起こす人間と、起こさない人間とを正確に分類する事は容易ではなかったが、概して「デウス崩壊以前」に、エーテル能力の高かった者ほど異常を起こしにくかったということが統計で分かっている。
 つまりは、感受性が鋭く個々の能力の高い者ほど、リミッター解除による異状を起こす確率が低いという、もっとも残酷な結果を引き起こしたのだった。これはのちに、後遺症を残したひとへの差別や偏見、ひいては異常を起こさなかった人間、その子孫の選民意識につながりかねない。人々の意識がそちらへ流れて行かないように意識操作に努めるのも神父の役目のひとつだった。
 ビリーはしばらく前からもう、リミッター解除そのものについての自分の責任について、過剰に思い悩むことをやめていた。
 いずれにせよ、リミッターと共存して人間が生きて行くことは不可能だったのだ。リミッターを解除されたことによって引き起こされた異常や、それに伴う苦しみは、次世代の、リミッターと無縁にして生まれる人間たちへの贈り物であったのだと考えるよりなかった。
 しかし、その苦しみが今もこの世界に存在することはまぎれもない事実であり、ビリーはそこに、自分の選択が関わったことを忘れなかった。そして、望むと望まざるとに関わらず、自分が一種特別な人間であったということも忘れなかった。
 彼の友人も家族もほとんど、リミッター解除による苦痛を免れ、あたかも新しい生命を得たような喜びさえ見いだした。ビリー自身、リミッターを解除された後、今まで頭の中に重くわだかまっていたように思える灰色の霧が、すっかり晴れたような解放感を味わっている。
 その時ビリーは、この先の人生を、徹底して奉仕者であろうと決意した。
 正直なところ、神父をやめて、この問題に関わることから逃れたい気持ちもあったが、その誘惑に負けることは出来なかった。デウス廃絶のための最終章の舞台に立ったからといっても、それで罪をあがなったとは云えない。デウスののちの時間を気楽に、無為に過ごすには、彼の、リミッター解除や、それ以前に携わったエトーン時代の記憶にまつわる罪悪感は深かった。
 彼は神父であり、医者であり、必要があれば、エトーンであった頃と同じことをする覚悟があった。それはすなわち、必要があれば再び銃を取る覚悟をしているという意味だ。
 幸いにして、ビリーはその全てをこなす冷徹な気性と気力、確信犯であることを自覚しながら己を容認する理性を持ち合わせていた。
 ビリーは孤児院を再開し、教会へ戻った。他の二人の神父はこの教会に常住しているが、ビリーは自分の島の孤児院と教会の世話をしなければならないため、日曜になるとこの島へ通う。
 彼の小さな教会と孤児院は、ビリーの慰めだった。常に自分を必要とする者がいるからこそ、ビリーは働きつづけてゆかれるからだ。

 その日、ビリーはいつものように懺悔室に入った。一度燃えた教会の懺悔室の、金色に塗られた壁に残った爆発の爪痕は、教会の内外で何が起こったかを、無残に象徴している。だが、彼らはそこを、罪を悔いるための部屋に相応しく、補修せずに残していた。その焼け焦げた小さな部屋で、ビリーは懺悔を聞くのだ。いずれにせよ、この様式にふさわしい金箔を塗装する財力も、その必要も今の教会にはない。
 僕が人々の懺悔を聞くとは。ビリーには皮肉な思いがある。
 だが、誰かがしなければならないことならば、自分もしようと思う。
 自分自身に罪があるからといって、他の人の苦しみを軽減する役割を出来ないというなら、それは怠慢に生きることだ。
「今日は特にビリー神父に懺悔をしたいという方がおいでです」
 礼拝が終ると、同僚の神父にそう云われて、彼は懺悔室に向かった。以前懺悔を聞いた人だろうか。何かまた耐えられぬ心身の苦しみを負って、この教会本部のある島にやってきたのだろうか。少し胸が騒いだ。
 懺悔にやってきたひとがもし望まないなら、顔を見られずに済むように、薄い仕切りが、神父と罪人の椅子をへだてている。以前は、この間仕切りは斜めに削った板を組み合わせて、神父からは向こうの顔が見えるような細工になっていた。ビリーは元からその細工が嫌いだった。不実であると思っていた。だから教会を復旧するにあたって、自分が懺悔を聞くようになった後、その細工を取り払うように、他の神父たちとも話し合ったのだ。
 ただし、こうべを垂れればそれは額から胸元までを隠すが、手元は見て取れるように隙間が空いていた。人のてのひらは時に、瞳以上に雄弁に語ることもあるものだ。
 神父と『罪人』は向かい合って共に祈る。熱心な神父ならば罪人の手を握ってやることもできるだろう。
 ビリーは座り、いつものように、懺悔に来た人の手元を見下ろした。若い男が、向かいの席に座して指を組み合わせている。
 その日焼けした指のなめらかな皮膚と、壁の上から覗く華やかな金色の頭髪を見た時、ビリーは眉をひそめた。滅多に見ない、見事な金髪だった。嫌でも、ここにいるはずのない男を思い出した。よく似た髪が、自分の記憶の中のさまざな場所、空中都市の草原や、飛空挺のデッキや、ある時は彼の教会の小さな中庭で、王冠そのもののように誇らしげに煌いていたことを思い出した。彼は自分の記憶の中から揺り起こされた、金色の髪の映像を振り払って、目の前の男に向かい合った。
「どうぞ懺悔を。……飾らぬよう、嘘をつかないよう。神の御前にいるのだと知ってお話しください」
 すると男は、この部屋にくる多くの人のようにすぐには云い出さず、言葉を探しているのか、深いため息をついた。
「!」
 ビリーは思わず立ち上がりそうになった。そのため息だけで、男が誰なのか、突然ビリーは悟ったのだ。
 そしてため息ひとつで彼だと自分が知ったことに、戸惑いと居心地の悪さを感じた。そのためもあって、瞬間的に怒りが沸き上がった。
「愛してはならない人を愛してしまいました。それを懺悔しに来たのです」
 明朗な低い声がささやいた。聞き覚えのある声と、癖のあるイグニスのアクセント。しかし、彼であるとすれば、まるで似合わない、丁寧に作った言葉の余韻に、冗談めかした微笑が含まれている。
 ビリーは信じられない思いで、大人しく組まれたその指を見下ろした。何をしに来たのだ。そう思った。あきらかに「彼」だった。彼はほんのしばらく前までビリーの友人だった。最近は会っていなかったが、生死を分かつ戦いの中での戦友でもあった。しかもいささかならず親密な友人だったのだ。
 この世界がある程度平定した後に、彼は自国の政治に加わり、多忙になった。だからといって連絡も寄越さない薄情さを恨んでいた時期もあった。だがそれから少し時間が経ち、胸の痛みと共に何とか忘れようとしていた相手だった。
 最後に会ってから、もう十ヶ月近くにもなるだろう。ほぼ一年だ。昨年の夏、彼の国を訪ねて会った時が最後になる。以来声ひとつ聞いてはいない。
「愛してはならないひとを愛してしまった。……その方とあなたはどういうご関係ですか?」
 ビリーと彼を仕切った壁の向こうから、思わしげな沈黙が返り、男は思案しているようだった。そして低く抑えた、しかし彼らしく勝ち誇った声で云いはなった。
「……その人は神父です」
「神父?」
 彼は奇妙な気分で反復した。不意打ちをくらったせいで、間の抜けたことに、すぐには友人が何を言おうとしているのか気付かなかった。共通語で神父、という言葉は、同時に聖職者という意味合いを持っている。その聖職者というニュアンスを汲み、一瞬ビリーは、ニサン正教に仕えるある少女を思い出したのだ。
「彼は、子供のころから自分をすべて神とひととに捧げていたので、そこに自分の入る余地はないと思っていました」
 しかし、「彼」と、友人がそう云ったとたん、その言葉の示す人が誰なのかに気付いて、ビリーは、足許や座した椅子がぼうっと軟らかな焔につつまれたように思った。
 焔はゆったりと床から延び、ビリーの膝や聖衣の裾を飲み込んだ。ビリーは自分をゆるやかにくるんだ戸惑いの焔を振り払うように首を振った。再び怒りがこみあげてくる。少し手が冷たくなる。しかし彼は怒りを抑え、いつも自分が習慣的に選ぶ言葉の法則にならって、機械的ないらえを返した。
「その余地はあったのですか?」
「わかりません。ただ、努力せずにあきらめるのは、自分の主義に反することに気づいたので」
「あなたは懺悔をしにきたのではないのですか?」
 友人が何を云おうとしているのかを知りながら、ただ見知らぬひとの話に耳を傾けているような錯覚を起こして、ビリーはあきれて云った。
「この部屋は、罪を悔いて、心の重荷を下ろそうとするひとのための部屋です。もしもあなたが罪を悔いていないなら、すぐに出ていって、自分の成すべきことをすればいいでしょう」
「それは教示ですか、ビリー神父」
 ビリーは思わず赤くなった。自分が何を暗示する言葉を言ったのかに気付いたからだ。
「……用のないやつは帰れって云ってるんだよ」
 威嚇するような気分で、小さくそうささやくと、男は声を立てて笑った。
「またな、ビリー」
 懺悔室での神父との会話を誰かが漏れ聞いているはずはないものの、しかしさすがに場所をはばかってか、小声でそう付け加えると、彼は立ち上がった。ビリーが一瞬目を伏せたタイミングのせいで、彼が立ち上がった瞬間の顔は見られなかった。ただ、教会の金で塗られた壁を照らす灯りを反射する、甘い金色の、長い髪を編んだ後ろ姿だけを、ちらりと垣間見ただけだった。
 あの、トレードマークとも云うべき髪を彼が切っていなかったことに、ビリーは瞬間的に安堵していた。
 そして、自分にいいわけをするように、昔馴染みの友人が変わってしまうのは、たとえ姿かたちのことにしろ寂しいものだ、と、そんなふうに胸の中でつぶやいた。

 そのあと訪れた数人の懺悔を、自分がその午後、どれだけ熱心に聞けたのか、ビリーには自信がなかった。正直うわの空だったのではないかと思う。
 娘が大異変の(リミッター解除の前後の悲劇を、ひとびとは大異変と呼ぶようになっていた)折りウェルス化して、生き残ったものの、いまだ重い後遺症に苦しんでいることへの耐え難い思いを打ち明ける父親、一家揃ってウェルス化をまぬがれたにもかかわらず、町の周辺のひとがリミッター解除の影響を受けたため、かえってその町に居づらくなった家の母親。自分自身が大異変の後遺症を引きずる少女。
 少女は決して左手を見せようとしなかった。右手に握り締めたハンカチーフの下に終始隠したままだった。淡い桃色のふちどりをほどこした白い木綿の布の下に、ぎょっとするほど長く伸びた茶色の鉤爪が覗いたのをビリーは見たが、何も云えなかった。
 ビリーは彼等の、とぎれがちな言葉の中から、彼等にどこかしら共鳴しようと、必死で耳を清ませた。今日、「彼」が訪ねて来たことに、ビリーは確かに動揺していて、それは彼の集中力をさまたげていた。しかし、感情移入能力が低いのは、ビリーの生来の気質だった。自分がともすれば人の苦しみに共感しにくいことを、彼は神父としての自分の欠点として自覚していた。もっと敏感に彼らの苦しみに呼応して、心のこもった言葉を返せればどんなにいいだろう。
 人に激しく感情移入できない気質のため、彼はなおさら、義務というものに対して一種病的に厳しくなった。一人一人に激しくこころを動かされないなら、社会そのものを相手取れば、おのずから自分のするべきことが見えてくるからだ。
 その午後には、風変わりな訪問者があった。
 ネットワークニュースの女性記者が訪ねてきたのだ。ネットワークニュース、という言葉になじみを感じなかったビリーは首をかしげた。
「今までは草の根同様の地下活動でした」
 リリー・バーンズという名の記されたIDカードのコピーと、薄い出版物を何冊か差し出した女性記者は、華奢な指に意外な力を込めて、ビリーの右手を握った。
「今までの出版物は全て、教会と旧アヴェ政府の管制下にありましたから、わたしたちのようなラジカルな団体は、浮上してこられませんでした。教会と人、ソラリス、デウスとのかかわりについて、わたしたちが知る限り、偽りのない文献をまとめる作業をしていきたいのです」
 ビリーは彼女が自分に何を求めているのかわからずに、慎重に答を捜した。
「改革のきざしは芽吹いているとは思いますが、それほどすぐに教会の体質が変わるとは思えませんが……」
「ええ、むろん解っています。急に記事にできるとも思っていませんし、教会と軋轢を起こしてまで活動を拡張できる底力は、まだわたし共にはありません。そもそも、まだ新しい出版社を興すだけの力もないんです。ですから大異変と教会のことは、時間をかけてまとめて、長期的なレポートとして、いつか発表したいと思っています。このたび、アヴェのオンラインネットワークと提携して、チームを組みました。わたしがこの企画の、アクヴィエリアの責任者です」
 ビリーは深くうなずいた。
「誰かがしなければならないことでしょうね。本当は教会関係者自身の手によってなされるのが一番いいことですが。……それも個人ではた易いことではありません。時期を慎重にはかって、センセーションを巻き起こすだけの結果にならないよう、慎重に進めていただけるなら、ご協力できると思います」
 よく磨いたクルミ材のような光沢のある茶色の髪を、かっちりと結い上げたバーンズ記者は、青い目を輝かせて身を乗り出した。
「今日うかがったのは、あなたが教会のなかでは目立って左翼的存在だという噂を伺ったからなんです。ブラックさん」
「左翼的?」
 ビリーは首をかしげた。
「どういう意味でしょう?」
「失礼しました、これはゼボイム時代の古い文献から拾って来た言葉なんです。政治的に国粋主義的要素の強い保守派を右翼、思想的に過激な革新派を左翼と呼んでいたようですね。とても古い言葉ですけれど……でもちょっと面白いでしょう? ニサン正教を見ても解るとおり、ひとは自分の思想を翼と結びつけずにはおかれないのですね」
「そうかもしれません」
 ビリーは感慨深い思いでいらえを返した。ニサン正教という言葉から、思い出さずにはいられないひとの顔を再び思い出した。肉親の虐殺によってニサン正教の大教母の位を継ぐことになった少女は、ビリーと同い年だった。
「それで僕が左翼……ですか? どちらからそのようなことを?」
「アヴェのさる政府高官から、と申し上げたら、お心当たりがあるかしら」
『アヴェのさる政府高官』に何を云われたのか、バーンズは少し可笑しそうに微笑んだ。
(あいつじゃないか……)
 ビリーはため息をついた。
「彼でしたか」
「ええ。教会関係者に話を聞くなら、ぜひあなたに会うようにと。形式的なことをあなたが嫌うだろうから、と、紹介状はくださいませんでしたけれど。ほんの五日前の話ですわ」
(それで自分も思い出して、訪ねて来たのか?)
 ビリーはあきれた。
「なるほど。でも、僕は今のお話で云うなら、むしろ右翼ということになるのかもしれません。ご存知とは思いますが、エトーン出身ですし」
 いや、神父のみの仕事を勤めた時間よりも、エトーン……贖罪官でいた時期の方がずっと長かったのだ。やや苦い気分で彼はつぶやいた。
「でもブラックさん、あなたはギアバーラー、エル・レンマーツォを操って、デウスの内部に潜っていかれた。そして世界を開放した革命家です。そのころあなたはまだ十七歳だった。それは戦いに慣れた屈強な軍人でも容易には成し得ないことだったのではありませんか?」
 ビリーは、教会に来るとつける仮面を引きはがされたような気分になった。しばらく二の句を継げずにバーンズの前に無言で座っていた。
 確かにあの戦いは苦しかった。デウスを倒したことは奇跡に近い。そして世界は変わった。エーテル能力は彼らの中からかき消え、彼等はいわゆる常人に戻った。戦いは終わったのだ。燃料切れや窒息に怯えながらギアに乗ることもなくなった。そして、そうなるために自分たちはぎりぎりまで努力したと思う。
 だからと云って、自分がエトーンであったことを正当化するつもりはないし、ましてや美化することはできない。
「戦いに慣れた屈強な軍人ではだめだったのです、バーンズさん」
「……」
「僕たちの中に、それにかろうじて相当する人は一人しかいませんでした。そして彼もまた亜人と呼ばれる非差別階層に生まれ、深い心の傷を負っていました。あの戦いに臨む人間は、不安定で弱く、尽くす国家を持たないような、そんな人間でなければならなかったのではないかと思います」
 ガゼルたちは、ビリー等を器だと云った。すなわち彼等「器」は、古い母星へ還るための、やわらかく脆い有機物でつくられた、繊細な小船であったのだ。
 そのためには、国家や主人に忠誠を捧げているような、確固たる価値観を持った人間では、彼らの「器」たり得なかったのだ。ビリーはそう思っている。そして、自分たちは、むしろ不完全でいるために、傷つけられる必要があったのだろうと。
 そう考えると、あのギアバーラーに乗った人間たちの、バックボーンの異様な相似性にも説明がつくように思えた。
 今度は、ビリーの言葉を聞いても、バーンズは微笑まなかった。真摯な色を青い目にたたえて、ビリーを見つめた。
「だからこそ残酷な戦いだったと思うのです。私たちは幾世紀も昔に文明を極め、精神主義の時代から鉄の時代へと移ろい、更に精神主義の時代に舞い戻って来た弱い生物です。鉄の時代の名残りの機械にしがみついて、樹木を切り出すための大地を失った愚かな生き物でもあります。結局しばらくはまだ、前時代の技術に頼ってしか生きる方法がないでしょう。……そんな中で、大異変は、何よりもわたしたちの心の弱さ、もろさを見せつけた……」
 バーンズは目を伏せてしばらく沈黙した。
「あなたはリミッター解除の影響を受けなかったのですか?」
 ビリーは、切り出しにくい思いで口を切った。この話題を避けては、深い話を交わすことはできない。
「わたしは大きな影響を受けませんでした。しばらくは精神的に多少不安定になりましたけれど。……たぶん我が強かったんでしょうね。報道に携わる友人たちもほとんど大丈夫でした」
「ご家族は?」
 そう尋ねると、バーンズの、優美な線を描いた栗色の眉の間に苦痛が走った。
「家族は全員だめでした。ナノリアクターの予約も間に合わなくて。……妹は生きのびて、昨年から処置を受けられるようになりましたが、まだ意識が健常な状態に戻らないのです」
「……お気の毒です」
 ビリーは声を低めた。妹、と聞けばプリメーラのことを思い出さずにはおれない。
プリメーラはリミッター解除の影響をほとんど受けなかったが、もし妹が影響を受けていたら、自分自身が影響を受けるよりも、ビリーにはなおさらこたえたことだろう。
「……その苦しみを乗り越えて、記録と報道に踏みきられる決心をされるまで、おつらかったでしょうね?」
 彼は心を込めて云った。尊敬の念をも含ませたつもりだった。
「どうもありがとうございます、ビリー神父」
 バーンズは少し青ざめた唇をなごませた。
「すみません、あの、ビリー神父とお呼びしても?」
「ええ、どうぞ。お呼びになりやすいように」
「わたしがさっき申し上げたのもそれなんです。ごく若いあなたがたが、ご自分の苦しみを乗り越えて、デウスに下りて行かれたことを、アヴェのネットワークを通して聞いた時、胸が震えました。口もきけなくなって痛みに泣き叫ぶ妹を抱いてやることさえできなくて、閉じ込めて、鍵をかけなければならなくて……悪夢のような日々でした。でも、そのニュースにどれだけ励まされたことでしょう」
「……」
「個人の精神と感応するギアバーラー……」
 バーンズはかみしめるようにつぶやいた。
「発見されたギアバーラーと感応したひとは、誰もデウスに下りることをためらわなかったと聞きます。一番若いマリア・バルタザールさんは、その頃、十二歳の少女でしたね」
 ビリーはうなずいた。ゼプツェンは正確に云えばギアバーラーではなかったが、ある意味ではギアバーラーそれ自体よりも、よりその理念に近いものだ。
 彼は、ゼプツェンのパイロット・マリアの顔や、幼さを残した白い頬にかかった、プラチナブロンドの巻き毛を思い浮かべた。
 確かにデウスに潜った者の中で、もっとも悲壮感を抱いていたのはマリアだったかもしれない。十二歳という幼さもそうだ。父の望みであったとはいえ、父を殺すことになると知りながらアハツェンを破壊しなければならなかったこともそうだ。マリアの運命は、ギアバーラーと感応したもの全ての運命の縮図だった。彼等のほぼ全員が、親と確執の残る形で死に別れている。
「わたしは、旧悪を描くことなしに歴史の一幕を書き残せるなどと思ってはいません。けれど、旧悪よりむしろ、あなたがたの軌跡に焦点をあてて書き残したいと思っています。それに対して皆さんは、抵抗がおありかもしれませんが」
 ビリーは苦笑した。 
「抵抗がない……と云えば嘘になります。僕がそんな立派な人間でないことを知っているのは、誰よりも自分自身ですから。個人的な気持を申し上げれば、あの事件についてはお話したくないんです。ですが、僕らしか知らないことについてあなたがたがお知りになりたいのなら、それをお断わりすることは出来ません」
「ビリー神父……」
 救世軍に飛び込んで行ってマイクを構えているような、バーンズ記者の顔つきがふと気づかわしげになごんだ。
「お若くして死地に渡って戻って来られて、どんな厳しい方かと……こんなことを申し上げては失礼ですが、こんなに線の細い、繊細なムードの方だとは思いませんでした」
 ビリーは面食らった。なぜそんなことをこの記者が突然云い出したのか、理解出来なかったのだ。哀れだと思われたのだろうか。そう思うと、あまりいい気持ちはしなかった。
 彼は戸惑いながら目を伏せた。声が硬くなった。
「幼く見えても無理はありません。事実、まだ子供と云っていい年齢です」
「いえ、そういうことではなく……」
 バーンズは彼女自身困惑したように、濃灰色のスカートに包まれた自分の膝の上で視線をさまよわせていたが、個人的な話だという意思表示をするように、手にしていたレコーダーを止め、手帳を閉じた。
「デウスの中に下りて行った方にお会いしたのはビリー神父、あなたがお二人目ですが、お二人とも、天地を支える柱を引き抜いた豪傑のようにはとても見えませんね。アヴェ王も気さくでお優しくて、あなたがたがわたしたちと同じ人間なのだと、改めて実感させられました」
 記者は微笑みながらアヴェ王、と云った。
 旧アヴェ王国は共和制になり、今は国王と呼ばれる人は存在しない。『アヴェ王』というのは、そう呼ばれる青年の出自からくる綽名ともいうべきものだった。
「あの方がビリー神父を噂なさる時も、エトーン出身のパイロット、というイメージにはおよそ似つかわしくない人物だ、とおっしゃっていました」
(何を云ってるんだ、あいつは)
 ビリーは狼狽して目を伏せた。彼、のことになると、自分はすぐに平静を失う事に、気づかざるを得なかった。
「こんな、透き通るような外観の方だなんて思いませんでしたの」
 そう云って、彼につられるようにバーンズも突然顔を紅潮させた。
「これは個人的感想です、ビリー神父。お気を悪くされなかったかしら」
「……お気になさらずに」
 その時、ビリーは不意に、先刻彼が云い出したことの内容を思い起こした。  
 彼があれきりで帰って行くとは思えない。いったい今度会ったらどんな顔をすればいいだろう。そう思うと腹が立ってくる。
「……とりあえず」
 彼は立ち上った。
「教会の中をご案内しましょうか」
「ええ、そうして頂けますか」
 バーンズもくすぐったいような顔で、彼のあとについて立ち上がった。

 彼はバーンズに教会本部の中を案内し、現在の教会の構造について話をした。
 そののち、シタン・ウヅキとフェイを紹介する約束もした。リコはどこにいるかまるで分からないし、フェイと結婚したエリィも出かけがちで、なかなかつかまらない。マリアは彼女の了承を得ずに紹介する訳にはいかなかった。ことに、ほとんどの時間を地上に降りたゼファーと共に過ごすマリアは、ゼファーを護るために少し神経質になっている。
 そうしてみると、ラハン近くを拠点にするシタンと、ラハン復興に携わるフェイしか思い当たらない。『アヴェ王』も、そんな状況だから、まずビリーを紹介したのだろう。
 バーンズが帰って行った後、また教会の仕事に戻り、一日のつとめをすっかり終えた時はすっかり日が暮れていた。
 午後いっぱい緊張していた反動で、頭が固くこごったように疲れている。
 ひそひそと降っていた雨が止んで、外には真っ青な夕暮れが広がっている。無数の水紋を止めつけて荒れていた海も、小魚の鱗のようなさざなみの薄皮をかぶっていた。
 東の空に月が昇った。ほぼ満月に近い円盤が青白く輝いている。
 ビリーは月を見上げながらゆっくりと足を運び、頭の芯にこごった疲れをほぐそうとした。教会といくつかの小さな商店、小さな宿屋以外にひとの気配のない、この島の無機質で清涼な空気を、肺いっぱいに吸い込んだ。
 島の東側に教会を背にして、小さな船着き場があり、ビリーの小船はそこにつないである。
 草の原を数分間歩き、曲がりくねった土くれの道から浜辺へと下りて、小舟を見下ろしたビリーの足が止まった。
 疲れと緊張とが、彼に奇妙な陶酔をもたらしていた。
 ビリーは半ばうっとりと、船をつないだ小さな桟橋に座る男の姿を眺めた。男は湿った小舟のかたわらに長い片膝をたてて座りこみ、海を眺めているようだった。月光が照り映えて、彼の金髪に光の粉をまぶしている。
 今日の彼は白っぽい上下に、黒い革の上着を身につけていた。かすかに丸めた背中をつつむ上着の黒のために、髪のきらめきがなおさら引き立っているのだった。
 ビリーは、彼の広い背中をびっしりと覆った傷跡を、てのひらで探った感触をまざまざと思い起こして、ずきりと胸をうずかせた。
 湿った土を踏むかすかな足音に気づいたようで、彼は立ち上がって振り返り、ほっとしたように笑った。夕暮れの薄明かりのなかでも、日焼けした顔に白い歯が光るのが見てとれた。
「いつもこんな遅くまで仕事してんのか? ビリー神父」
 そして、いかにも待ちくたびれた様子で、大きな猫のような伸びをした。

 旧アヴェ王国、王位継承者、バルトロメイ・ファティマ。
 彼をアヴェ王、などと呼ぶのは外側の人間だけで、友人たちは彼を、親しみをこめて、バルト、と愛称で呼んだ。
 バルトは、二年前共和国になった旧アヴェ王国の、最後の王位継承者だった。彼は、父王の遺言を果たして、アヴェの王政を共和制に変革した。クーデターで父王を殺され、十九歳の時、クーデターを起こしたシャーカーンを処刑して、アヴェを復興した。それと同時に王政を廃したため、彼は一度も国王と呼ばれないまま、王宮のバルコニーを降りた。
 そののち、閣僚のひとりとして政治に加わることになる。国を復興した立役者でもあり、善政を敷いた前王の忘れ形見である彼を国家首相に、と望む声は高かったが、バルトは拒否した。自分は若過ぎると云った。
「将来、俺が一人前になったあとその力があれば、国家主席になる可能性は否定しない。反対に王政が残ってれば、俺もすぐに王位を継ぐことに躊躇わなかっただろうな」
 彼は、国が共和制に変わった後、ビリーにそう云った。
 どうして首相の任を受けないのか、というビリーの質問に答えての言葉だった。
「王位は、実力だけじゃなく血で治めるってところがある。だから、有能な補佐役さえいれば、王位についたまま、やり方を覚えてきゃいい。でもそれは在位の長い、王政特有のやり方だよな。共和制の国の政治家じゃ、そういうわけにはいかない。今すぐ国をうまく運営する能力のあるやつがトップに立つべきなんだ。『将来有望』ってのは悪い言葉じゃない。だけどつまり、たった今は使えねえってことと一緒だろ?」
 バルトは、反シャーカーン派だった大臣の一人を首相に推し、アヴェ共和国初の選挙が行われた。ファティマ家の後ろ盾を得て、彼は間もなく当選した。そうして正式に、共和国アヴェは機能し始めたのだった。

 知り合って、全てが終るまでの二年間、彼ら二人は、自分の心の中のことを親密に語り合える友人同士だった。そして、特別親密な関係にもあった。
 デウスとの戦いはいつ終わるとも知れなかった上、勝てる望みはほとんどなかった。誰もそんなふうに口に出しはしなかったが、自分たちが戦っている相手が誰なのかさえのみ込めないまま、勝てる望みを抱けようはずもなかった。確信があってもつらい戦いだったはずだが、まして彼らに確信はなかったのだ。
 フェイのような強い暗示性を持つ、宗教的存在がなければ戦い抜けなかったかもしれなかった。シタン・ウヅキの、事情を知り抜いた使命感もそこには欠かせなかった。中途で奇跡のような変貌を見せたエリィの存在も大きかった。
 象徴をいただくことの重要性をかみしめながら、彼らは誰一人として余力を残すことなく、力の最後の一滴までも絞りつくすようにして戦った。
 責任感の強い、潔癖なバルトは、臣下の前で決して疲れを見せることなく、いつもほがらかで力強かった。彼だけは、一度も望みを捨てたことがないように見えた。逆に、弱さを見せられない臣下の存在がバルトを支えたのでもあったのだろう。
 ビリーにもまた確信はなく、さらに彼には充足感もなかった。ただビリーは、教会の欺瞞をただそうという、青白い炎に似た使命感を抱いて戦っていた。それゆえに彼もまた、自らの疲れに頓着することはなかった。
 二人が知り合ったばかりの頃は、子供のように喧嘩を繰り返すことが多かった。
 初めて会話した印象は正直よかったとは云えないが、そのおかげで、かえってすぐに気安い相手になれたのも確かだ。
 二人は、重いものを背負った神父でもなく、クーデターで滅んだ王朝の忘れ形見としてでもなく、同年代の子供同士として、つまらない言葉尻をとらえて云い合った。殴り合ったこともある。バルトとフェイは同い年だが、二人はそんな関係ではなかった。フェイは不安定な気質だったが、ビリーよりずっとおっとりした部分があって優しかったし、バルトもフェイには自然に譲ってしまうようなところがあった。
 ビリーに取っても無論、バルトはそんなふうに振る舞える、まったく初めての相手だった。
 そして二人はある日、他愛のない口げんかをすることのできる互いの価値に着目した。
 彼らはそれまで、余りにもはっきりとした目的を持っていたため、視線を脇道に逸らしたことがなかったのだ。視線が反れた時生まれたその感情に、何という名をつければよかったのか、ビリーには判っていた。だが、それが相手の気持を噛み合わなかっただけだ。
 それに、その時は噛み合っていないとは思わなかった。
 天と雲のただなかに、まばゆい陽光を浴びて浮かんでいた頃のシェバトと、バルトの金髪がシェバトの草地で耀いていたことを思い浮かべると、いまだにビリーの胸は甘く痛んだ。

          2.

 空中都市シェバトは、飛行能力を維持することがかなわなくなり、北方に着陸したのち、デウス以降は巨大な居住区として作り直され、多くの人が住むようになった。
 ビリーは、そののちのシェバトにも何度も訪れた。復興後のシェバトは、雪に包まれた見事な大都市に変わり、デウス以前の技術力の保持に最も貢献する国となった。長い飛空生活で資源を失いかけ、死んだ都市になりかけていたシェバトは、地上に降りて息を吹き返したのだ。
 高い技術力を持った国というだけでなくシェバトは美しい国でもあった。ことに地上に降りた後の夜のシェバトは、雪原を金色の光で照らし出す巨大な円形の都市であり、生き残った人類を象徴する、豪奢な命の蝋燭を灯した、燭台のような存在になった。
 だが、巨大な身体を静かに天空に浮かばせて飛行する都市であったころのシェバトは、現在ののシェバトとはまた違う、奇跡のような場所だったとビリーは思う。
 中心に巨大な女神像をあしらい、彼女の姿から光が放たれるように石の通路を放射状に四方に走らせた円形の都市は、地上よりもはるかに管理された豊かな緑と丘陵、花と水につつまれた夢の都だった。実際は食料の調達も困難であり、エネルギーを維持するために多くの努力がはらわれていると聞いたが、居住区の洗練された美しさはむろん、居住区以外の自然もまた贅沢で見事だった。
 それに、年老いた者が国を動かしていたあのころのシェバトは、想像できないほど時間の流れがゆるやかだった。
 初めてシェバトに足を踏み入れ、女王ゼファーと会見したその時を含めて、いつも、何を決定するにしても、シェバトでは長い長い時間を待った記憶がある。
 ビリーにとって、教会の崩壊からデウスに向かうまでの二年近く、シェバトに何回か滞在したその期間ほど、ゆっくりと考える時間を与えられたことはなかった。いつもシェバトでは長い休息時間を与えられた。そのこと自体をも彼は感謝している。シェバトで過ごした、それぞれ数日間の休息がなければ、あの頃のビリーの疲弊した精神は保たなかったのではないかと思うこともある。
「女王ゼファーはあなたがたとお会いする準備が出来ていません」
 シェバトに初めて降り立った日、使者として彼等にコンタクトしたゼプツェンのパイロットのマリアは、銀色の巻毛を揺らして、生真面目な面持ちでそう云った。マリアは透き通った大きな青い目に、子供らしからぬ知性と苦痛を宿した幼い少女だった。
「いつお目に掛かれることになりますか?」
 シタンがそう問うと、マリアは首を振った。薄い花びらに似た唇が開き、そこから正確すぎるような美しい共通語が流れ出てくる。
「わかりません。でも夜より前ということはないでしょう。お休みになってお待ちください。街の中を自由に歩かれても結構です。夕刻過ぎ、一度宮殿まで戻ってください。夜を越すようなら宿泊所にご案内します。もちろん停泊したユグドラシルへお帰りになるのもご自由にどうぞ」
「おいおい、ちょっと会って話を聞くのに、どうしてそこまで準備が必要だってんだ?」
 あきれたようにバルトが云うと、マリアは青い目をひらめかせて彼をねめつけた。
「……シェバトにはシェバトのやり方があるんです。あなたのアヴェ王朝にだって流儀や作法っていうものがあるでしょう?」
 小さな靴のかかとを少し強く踏み鳴らすようにしてそう云い放ったマリアは、宮殿前の広場から消えて行った。彼女が気分を害したのが分かった。あとで分かったことだが、マリアはゼファーの熱狂的な崇拝者なのだ。ゼファーの判断にかかわることに少しでも異論を唱える者の一切を、彼女は決して許さなかった。あの頃も、おそらく今もそうだ。
「あらら、礼儀知らずだとさ」
 バルトが笑うと、シタンがたしなめる。
「あれは若くんが悪いですよ。早く会って欲しければ、そのように頼み込むのが外来者たる我々の礼節というものでしょう」
「はいはい、悪かったよ」
 バルトは肩をすくめた。
「空き時間にギアショップでも覗いてくるか」
 そう云って空を見上げる。宮殿前広場はドーム状の屋根で覆われているが、ステンドグラス様に彩色された特殊ガラスを通してさえ、光が近く熱いのが分かった。
「お前どうする?」
 自分を振り返られて、ビリーは白昼夢から醒めた思いでバルトを見た。バベルタワーを登ってラムサスのギアやゼプツェンと連戦して、ビリーはくたくたに疲れていた。ゼファーと会う、ということで張っていた気持が崩れ、どうしようもない疲れが込み上げてきていた。シェバトのギアショップに行くのは魅力的だったが、それよりも身体と気持を休めたかった。
「僕は街を見てくるよ。……ショップにはあとでまた」
「何だ、お前こそ一番にギアパーツ見に飛んで行くかと思ったのに」
 バルトはがっかりしたように、しかし屈託なく笑って、手をあげて離れて行った。フェイを誘ったらしくフェイが彼にうなずいてみせる。三々五々宮殿前の広場に集っていた者たちが散り始めるのをぼんやりと眺めながら、ビリーはどこに行こうかと考える。
「ビリー君?」
 シタンが顔を覗き込んでくる。何もかも見抜いてしまうような眼鏡の奥の黒い目に出会って、ビリーは思わず目を逸らした。この人は少し苦手だ。
「真っ青ですよ。大丈夫ですか?」
「ええ。……ただ少しギア酔いが残ってるみたいです」
「そうなんですか? いつもと少し様子が違いますよ」
「いえ、ほんとに大丈夫ですから……」
 ビリーは急いで目礼して、リフトに乗った。外の空気を吸いたい、と考える。彼は白っぽく麻痺した気分のまま、リフトでアウラ・エーベイルの居住区入り口まで降りた。そこからは、ここが空に浮かんでいるとは信じ難いほど、広大な居住区と森が広がっている。森の向こうに続く道は清潔に整備されて、白いリボンのように奥へ奥へと延びている。向こうになだらかな丘陵地帯が見えた。甘く新鮮な緑の香が漂ってくる。ビリーは新鮮な大気を胸いっぱいに吸い込んだ。暗く静かで、わずかに機能するトラフィクジャムだけが蠢くバベルタワーの中で疲れた神経が、うすみどりの風に洗われて行くようだった。
「あんたはお客人かね」
 居住区の入り口に作られた公園のベンチに坐った老人が、ビリーに近づいてきた。
「ええ……」
「女王陛下に会いなさったかね?」
「まだです。……会っていただけるのをお待ちしてるところなんです」
 老人はうなずいた。しわが深く、考えられないほど高齢に見えたが、シェバト人は全体に長命だと聞く。この人は何歳になるのだろうか。皺をきざんだまぶたの奥で、光をいまだ失わない瞳を眺めながらビリーは思う。
「それならゆっくりとアウラ・エーベイルの中を見て行かれるといい。昔も今も、心を休めるのにここ以上の場所はありませんからな」
「あの丘の向こうには何があるんですか?」
 ビリーは丘陵の向こうに見えるものが何なのか見極められず、目を細めた。細長く白いプレートのような小さなものが無数に並び、陽光を受けてきらきら光っている。
「あれは墓地です」
 老人はかすかに笑ったようだった。
「行って見なさるといい。地上の墓地と同じようなものだとはお考えになるな。この国が空に浮かんだ時、わたしたちは墓地も公園のような美しい場所にしようと決めたのです。そうでなければ、ただでも老いぼれの多い街がなお寂しくなってしまいましょうからな」
 老人はシェバトなまりなのか、古風なイントネーションを顕す共通語でゆっくりと云った。
「墓地……」
 ビリーはつぶやいた。
 そこに信仰はあるだろうか。葬られた人の安らかな死に触れることができるだろうか。
 彼は老人に礼を云い、花の咲き乱れる石の小道を辿って、光につつまれた緑の丘の向こうへ歩いて行った。途中何人かのひととすれ違う。皆一様におだやかな微笑みを浮かべて、ビリーに目礼した。自分が外来者だと分かるのだろうか。それとも、こうして擦れ違った人とは無条件に挨拶するのが、シェバト流の礼儀なのだろうか。彼は、かすかに戸惑いながら擦れ違うひとと挨拶を交わした。
 小さな森を抜けると、その先にはなだらかな丘が盛り上がり、やわらかな下草に包まれた空間が広々と目の前に現れた。
 その一角にシェバトの墓地は設けられていた。細長く華奢な、風変わりなかたちの金属の板が、草地の中に整然と立てられている。銀白色に耀く金属の石碑の群は、確かに老人が云ったように、公園を飾るオブジェでもあるように、陽光や雲の影の加減で清潔にきらめいていた。
 近寄ってみると墓碑には、必ず一片の詩句のようなものが刻んであることが分かった。
 ビリーには読めない言葉だったが、たむけの言葉なのか、詩句であるのか、どの墓碑にも決まって刻んであるところを見ると、墓碑に短い銘を刻み込むのはシェバトの習慣なのだろう。
 石碑の前には思い思いに小さな花束や、リボンをかけた包みなどの、死者への贈り物が置かれている。死者に伝えたいことを綴ったものか、カードが重りに結び付けられてそなえられている場所もあった。ビリーは不意に、墓地の隅に、小さな銀色のメールボックスが据えられているのに気づいて目を丸くした。それはあきらかに、故人へ書いた手紙を投函するためのものだった。
 その草原は、かたすみに墓地という場所を持ちながら、生者と死者の優しい魂の交感の場だった。見たこともないような、故人への開け広げな愛情の発露の場になっていた。
 彼は白く輝く金属の石碑、それをやわらかく包む草原、草原に咲く小さな花々を見つめた。今日はまだそこを訪れる人はないようだった。草原中がおだやかで静かな光に満ちて、風の中に揺らいでいる。彼は瞬間的に、アクヴィエリアに眠る母の墓のことを思い出した。母の墓がシェバトにあればよかったのに。そう思う。シェバトはむろん母の故郷ではないが、母がこの墓地を嫌うとは思えなかった。
 墓地から少し離れて、草地を歩く。光と風と緑以外には何も感じなかった。視線を巡らせれば、今し方通ってきた、玩具のような小さな森が見える。その向こうに宮殿の屋根が蜻蛉の羽根のように虹色に輝いている。
 それをじっと眺めているうちに、何も考えられなくなってくる。突然、耐えられないような眠気が込み上げてきた。この数日、よく眠ったとは云い難い。ギアの中で仮眠を取っただけの日もあった。
(「ギアショップ見に行かねえ?」)
 そう笑いかけてきた金髪の青年の顔がちらりと浮かんだ。
(どうして君はそんなに元気なんだ?)
 可笑しくなるが、一人笑いを漏らすこともできないほど、ビリーは疲れきっていた。太陽は暖かく、彼のコートに、髪に、まぶたに降り注いでいる。ビリーは誘惑に負けて草地に座り込んだ。
 眠ってはいけない。
 ほぼ大丈夫だろう、とシタンは云っていたが、ここが敵地でないという保証はどこにもないのだ。自分にそう言い聞かせながら、まぶたが落ちてくるのをどうしようもなかった。彼はそっと草地に身体を投げ出して、緑の香と風のただなかで目を閉じた。そして、眠ってはいけない、と、最後の瞬間まで呪文のように胸の中でつぶやきながら、眠り込んでしまった。

 ひどく満ち足りた気分で、彼はかすかに目を開けた。日はまだ燦然と高い。自分がそう長い間ではなく、しかし深く眠っていたことが分かる。身体が甘くだるい。しかしどこか身体の芯に力が眠っている気配を感じるようなけだるさだった。
 彼は、自分自身の銀色の睫毛に、光の珠がこぼれているのを見る。どこか近くで花の蜜を吸う小さな虫の羽音が聞こえる。失いかけていた気力や体力が自分の身体の中に戻ってくる感覚を楽しみながら、ビリーはしばらくそこにうつぶせに身体を投げ出して、とろとろと眠りと覚醒の狭間を往復した。
「なぁ」
 暫くそうしていた時、不意に頭上から声が降ってきて、ビリーは息が止まるほど驚かされた。
「!」
 一気に目が覚めて飛び起きる。
「……目、覚ましてんなら起きねえかなと思って」
 いつの間に来ていたのか、バルトが自分の側に坐りこんでいるのを知って、ビリーは破裂しそうに鳴っている胸を押さえた。
「……びっくりさせるなよ! どうして君がこんなところにいるわけ?」
「いるわけ?って云われても……」
 バルトは肩をすくめた。
「街にいないから探しに来たんだろ?」
 ビリーは目を丸くした。
「どうして僕を探しに? フェイと出かけたんじゃなかったの?」
「フェイはエリィとどっか出かけたよ……って、そうじゃなくてよ、お前ギア酔い治ってなかったんだって?」
 バルトは手にした、市販のものらしい水の瓶を振ってみせた。
「ギア酔いの時は水持ち歩けって、シタン先生にしつっこく云われてるだろ?」
「あぁ……」
 ギア酔いというのは先刻の方便だったが、しかし実際に咽喉が渇いているのに気づいて、ビリーは水を受け取った。瓶の封を切る。
「それでわざわざ持ってきてくれたの? 君にしては気がきいてるじゃない」
「俺にしては?」
 バルトは、腹を立てた様子もなく舌打ちしてみせる。
「残念。この気のきいた水はシタン先生の思いつき。でも町に出て買ってきたのはオレだぜ?」
「ふうん」
 ビリーは笑って水をひとくち飲んだ。奇妙なほど旨かった。身体の中にしみわたってくるようだった。
「お前、疲れてんのか?」
 バルトが、いつになく語調を抑えて云い出した。
「君はあのバベルタワーを抜けてきて、よく疲れてないね」
「や、そうじゃなくってさ……」
 バルトは云い澱んだ。彼は自分を心配して探しに来たのだろうか? ビリーはそう思う。そして、心配されることを不快に感じない相手がいかに少ないかについて思い当たり、目の前の、自分とまるで似ていない青年が、その対象であることを不思議に思った。
「よくここにいるって分かったね」
「そこらにいる爺さんだの婆さんだのに聞いたらすぐ分かったぜ。お前目立つもんな」
「目立つ?」
 ビリーは笑った。少しの時間だが、久しぶりに熟睡して満ち足りたせいか、今日はバルトの物言いをとても柔らかく受け止められる。
「君じゃあるまいし」
 受け流そうとすると、バルトは云いつのった。
「何だ、自覚ないのかよ。目立つんだぜ、お前。周りにごちゃごちゃ人がいてもすぐ分かる。ぱっと目に入ってくる感じでさ」
「何むきになってるんだよ。それは君が僕のこと見てるからじゃないの?」
 冗談のつもりでそう云って、バルトが、バカ云うな、だとか冗談じゃねえ、だとか、とにかくそういった荒っぽい言葉を返してくるのを待った。だがバルトはそうしなかった。ぽかんとしたように一瞬ビリーの顔を凝視して、次に視線を逸らしてしまった。彼の顔がかっと赤くなったのをビリーは見逃さなかった。面食らってバルトの顔から目を離せなくなる。
「冗談だよ? 赤くならないでよ」
「……」
 バルトはビリーの顔を、腹立たしげにちらりと眺めやった。
「あてずっぽうかよ……」
 苛々と前髪をかきあげる。わけがわからなくなって、ビリーは友人の顔を眺めた。
「僕が何をあてたって?」
「俺がお前のこと見てるって……」
「……」
 今度はビリーが絶句する。
 その顔を見て、バルトは話を打ち切りたいように突然立ち上がった。
「やめたやめた! オレ行くから、じゃな」
 早口にそう云ったかと思うと荒っぽくきびすを返し、草を踏みしめて立ち去ろうとした。そのバルトの手を、ビリーは思わず掴んで引いた。
「ちょっと待ってよ! 何だよ、煮え切らない云い方して。云いたいことがあるならはっきり云ったら?」
 思わず語気が荒れる。するとバルトは彼に負けない勢いで云い返してきた。
「だからわかんねえんだって、オレだって! 離せよ、手!」
 彼が何かを怒っているのは分かったが、その物云いが可笑しくて思わずビリーは笑った。
「襲われたみたいな云い方しないでよ、そんな大きい身体してさ」
 そう云って手を離すと、バルトははぁっと溜息をついてその場に座り込んだ。
「お前、シャレになんねーよ……」
 そして、今し方ビリーに掴まれた手首を眺め、再び大きなため息をつく。
「顔に似合わねえバカ力……」
 彼とビリーの会話はいつもこんなものだが、今日のはいつものそれと少し違うような気がして、ビリーは怪訝な気分になった。バルトは何を云おうとしているのだろう?
「あのさ、お前、オレが自分につきまとうとか絡むとか、いっつも云って怒ってるだろ!」
 バルトは殆ど怒鳴るような口調に変った。自分こそ怒ったように赤くなり、顔を背ける。
「それ、どうしてかとか思わねえのかよ!」
「どうしてって……」
 ビリーは眉を寄せた。突然バルトの言葉の意図が飲み込める。だがそんなことが有り得るだろうか。およそ信じられない思いでつぶやく。
「君が僕をどう思ってるとか思ってないとか、そういう問題?」
「失礼な云い方するやつだなぁ、お前……」
 バルトがあきれたように眉をつりあげる。
「確かにね、ごめん」
 混乱したビリーは大人しく謝った。
「シタン先生がさ……」
 バルトはむっとした顔のままでつぶやいた。
「お前がギア酔いしてふらふらしてるって云うから、慌てて探しに来てみりゃ、こんなとこで一人で眠っちまってるし、しっかりしてるんだかしっかりしてないんだかわかんねえよ、お前って」
 また話の方向を掴めなくなってビリーは思わず首をかしげた。
「君、云ってること目茶苦茶じゃない?」
「ああ、だからな!」
 話が噛み合わずに二人とも苛々し始めた。バルトは思い余ったように手を伸ばした。ビリーは自分の両肩を掴んだ長い指にはっとする間もなく、陽光の下にずっと坐っていたせいか、ひなたの匂いのするバルトの胸に引きずり寄せられ、抱きしめられた。
「……バルト」
「オレがお前のことしょっ中考えてるのとか、ちょっとは分かれよ!」
「……」
 自分とたいして歳も違わないのに、随分彼の胸は広い。自分がバルトの胸にすっかり抱きこまれてしまったのを知って、ビリーは少し驚いた。そして自分の中に嫌悪感がまるでないことにも驚く。黒いシャツにつつまれたバルトの胸の中で、鼓動が段々激しくなっていくのを感じる。
 バルトが、自分のせいでこんな風になっているのだということを、感覚的に理解するまで数秒かかった。
 今にも破裂しそうに胸を高鳴らせる、この金色の髪の生き物は、自分のものになろうとしているのだ。
 それを不意にはっきりと認識した。信じられない気分で、その感触を味わった。少し震える。一度そうなると震えが止まらなくなった。
 そしてその数秒後、突然ビリーの背中も、胸も腕もこめかみも、甘く痺れてとろけた。
  自分の震えといりまじって最初は分からなかったが、自分を抱きしめた強い腕にも、気後れしたような、ほそい震えが忍び込んでいるのをビリーは知った。
 身動きもできないようにビリーを抱きしめていた腕が片方、そろそろとあがり、ビリーの顎にかかる。熱い、大きなてのひらが彼の頬を包み込むようにして添えられたかと思うと、吸い込まれるような青い瞳を伏せて、バルトの、相変わらず怒ったように真剣な表情を浮かべた顔が近づいてくる。
 思わずビリーも目を閉じる。目を閉じる寸前に、バルトの髪を黒く見せるほどまばゆく光る逆光の太陽、金色に日焼けしたバルトのなめらかな額や頬、鼻筋、編んだ髪の束の中から少しほつれてきらめく金髪の輝き、まるで白金の光の渦に飲み込まれるような、それらの光景や色彩が、ビリーの網膜にはっきりと灼きついた。
 その映像に比べると、バルトの乾いた熱い唇が押付けられた感触さえ、ただただ甘く柔らかく感じられるほどだった。まぶたの裏で燃えながら目を射る金と、唇のあたたかさ、高揚して熱く汗ばんだてのひらの感触、その全部が混ざり合って、ビリーをとろかした。関節の隅々にまで忍び込んで、体をだるく甘く痺れさせる。
 触れているうちに唇が開き、触れた舌を吸い取られると、背中が熱い湯に浸かったような、苦しいほどの陶酔がこみあげてくる。まぶたが熱く重くふさがった。バルトの唇が離れる。
「なぁ、……殴んねえの?……」
 どこか不安そうな、しかし興奮にかすれたバルトの声が耳元にささやきかけてくる。声のかすれが、またビリーをぞくぞくと駆け上がらせる。骨を抜き取られたように力の抜けていた身体に緊張が走った。普段押し込めている、自分の男としての感覚が揺り起こされたような気がして、ビリーは身体をふるわせる。目を開けると、目を僅かに赤く潤ませたバルトが自分を見下ろしていた。片方が黒い眼帯で隠れているが、真っ青な片方の目がビリーを見ている。
 腕を伸ばして、バルトの金色の髪をそっと手繰り寄せる。ビリーがどうしようとしているのかに気づいて、バルトはほっとしたように、引き寄せられるままに身をかがめた。もう一度唇が触れる。そしてその唇はかするだけでじれったそうに離れ、ビリーの首筋に埋まった。
 荒いだ吐息と歯の感触、湿った唇の感触がそこに触れて、ビリーは身体をびくりとふるわせる。それは唇へのキスよりも、ずっとなまなましくバルトの衝動のゆくえを暴き出したからだ。
「……ちょっと待って、バルト……」
 抱きしめた身体の、うなじや首筋の鼓動の上にキスすることに没頭する、広い背中や腕を、ビリーは必死に引き剥がそうとした。唇で探られるだけで甘い感覚がこみあげて、息があがって力が入らなかった。のぼせそうになりながら、ようやくバルトを押し留める。
「待ってって!」
「……」
 バルトは肩で息をしながら、茫然としたようにビリーを見下ろした。
「……悪い……。ちょっと、飛んでた」
「幾ら何でもまずいだろ……」
 ビリーは、自分の呼吸も決して平静でないことを決まり悪く思った。バルトはビリーをそろそろと離し、草叢の中に坐って大きく息をついた。少し肩を落とす。
「まずいか……」
「まずいよ……だって、こんな……今日僕たちはシェバトに入って、女王はいつ会見してくれるか分からなくて……」
 息を弾ませたまま、混乱しながら必死に言葉を捜していると、バルトは顔をあげた。奇妙な表情が浮かんでいる。
「そういう問題なのか?」
「もう、何云ってるんだよ!」
 ビリーは思わず声を尖らせる。
「さしあたって僕たちがするべきことってあるだろ? 時と場合を考えろよ!」
「考えればいいわけ?」
 バルトがなおもそう食い下がってくる。頭に血が上った。自分が赤くなるのをどうしても抑えられなかった。
「そうじゃなきゃ、さっきだって殴ってる。そんなのもわかんないの?」
 自分が彼の髪を掴んで引き寄せた意味を何だと思っているのだろう。そんなことを云わざるを得ない恥かしさに、気が遠くなりそうになりながらビリーは思う。
 バルトは驚いたように黙ったまま、ビリーをまじまじと見詰めている。
「そっか……よし、分かった」
 突然バルトは切り替わったように、さばさばと明るい声を出した。
 先に立ち上がり、坐ったままのビリーに手をさしのべる。何が分かったのだろう。少し疑問に思いながら、ビリーはその手に掴まって立った。コートについた草を払い、乱れた銀髪を整える彼を、バルトは妙に嬉しそうに見守っている。
「ここもいいけどさ、街の中心の方に出ようぜ。ギアショップとか見ておきたいだろ?」
「ああ、……まあね」
 ビリーはうなずいた。そして、バルトと自分の間に妙なわだかまりが残っていないことに、不意に安堵がこみあげてきた。この時はまだ、ビリーは自分が彼をどう思っているか、そこまでは分からなかった。だが、キスに熔けそうになったのも自分。ただし、彼と遠慮なく云い合える、不思議にこころよい関係を損ないたくないと頭のどこかで思っていたのも自分だった。
「じゃあ行こうか」
 思わず微笑んだ。彼を見下ろすバルトもほっとしたように笑い、彼等は今朝までとまるで同じような距離で、太陽のふりそそぐ草地を歩き、シェバトの居住区へと抜けて歩いた。
 だが何も変らなかったわけではなかった。その後バルトは、彼なりに「時と場合」をはかり、彼なりに慎重にビリーにコンタクトをこころみた。ビリーにも拒む理由は結局なかった。なかなか二人きりになる時間はなかったが、その中で最大限、戦いと戦いの隙間にすべりこむようにしてキスした。暫くして抱き合うことも覚えた。
 自分と彼の関係がなんであるのか、そういったことに深く思いを寄せることはなかった。明日ギアに乗ってユグドラシルを出れば、もう帰ってこられないかもしれない。その緊張感なしに出撃できる日はほとんどなかった。そのなかで、バルトと共有する時間はあたたかく優しく、意外に思えるほどビリーにとって大切なものになった。
 シェバト以降、戦況は大きく変った。ビリーは、エトーンとしての仕事を遂行するために教会に支給されたギア、レンマーツォで、シェバト防護の戦いをゼファー等と共にすることになった。皮肉な思いでソラリスのゲートを破壊するための工作にも赴いた。合間、バルトはシャーカーンの手からアヴェを奪還し、王国を共和制に転じることを宣言した。ゲートを破壊したことによって姿を現した、ソラリスへも潜入した。ソラリスと教会の関わりの深さゆえに、ビリーはソラリス潜入のチームにみずから志願した。はずされたくなかった。彼等はいつもめまぐるしく闘い、刻々と変る戦況と、あきらかになってゆく、想像外の「外来者」の存在に気持を揺らされた。バルトとの関係を思い悩む余裕もなかったし、その必要も感じなかった。
 ビリーにとってはバルトはあきらかな慰謝であり、支えだった。彼にとってもそうであると、どこか思っていた。大異変が終った後でさえ、ビリーの気持は変らなかった。
 去年の夏、ようやくひとの姿の戻り始めたブレイダブリグで、バルトに突き放されるまで、疑いさえしなかったのだ。

          3.

 バルトが昼、懺悔室に訪ねてきてから随分時間がたっているが、彼はどこにどうしているのだろう、と少し不安だった。アヴェに帰ったとは思えなかった。たったあれだけを言い残して帰ってしまうには、アヴェは余りにも遠すぎる。
 そして船着き場にバルトの姿を見出したビリーは、ほっとしたような、腹立たしいような気分で、バルトのいる桟橋の、小舟の側に歩いて行った。
「久しぶりだね、バルト」
「……ああ、ひさしぶり」
「わざわざ訪ねてくるなんてどうしたんだい? 君は忙しくて、とてもそんな暇はないかと思ってたよ」
 嫌味のつもりで最後のひとことをつけ加える。
「ま、確かに忙しいな、最近は」
 バルトはにやりとした。
「その忙しい中を縫ってきたって訳だ。今はそう簡単にユグドラを動かすわけには行かないからさ。一人乗りのボロい飛空艇で、丸一日かけて来たんだぜ?」
 ビリーはかちんとして目を細めた。いったいろくに連絡をよこさなかったのは誰だと思っているのだろう。
「そんな手間暇かけて、わざわざ本部の教会まで来て、訳の分からないこと云い出して、どういうつもりだよ、バルト」
 彼は非難をこめて云った。言葉づかいがまるで、彼と一番親しかった時と同じように崩れてしまったのはわかっていたが、もとよりバルトの前で取り繕えるとは思っていなかった。
「だいたいさっきの言葉づかい何? アヴェ王陛下は、最近はいつもあんなふうに喋ってるの?」
「ああ、あれか。オレ最近さ、声作るとよくシグと似てるって云われるんだよな」
 バルトは笑った。
「自分では判んねーんだけどな。どうだった? 似てたか?」
「さあね。シグルドさんみたいな品が身につくまであと十年はかかるんじゃない」
 ビリーは憎まれ口をきいた。けれど、本当はこの青年が下品だ、などと思ったことは一度もなかった。バルトは、荒い言葉づかいをしていても、どんな荒くれ者共と一緒にいても、どこか不思議な品格を持っていた。本質的によい育ち方をしているからだとビリーは思っている。深く愛され、望まれ、重い義務を背負った者特有のストイックさがバルトにはある。
「シグルドさん?」
 バルトは面白がっているように身をかがめて、ビリーの顔をのぞき込んだ。
「『シグルド兄ちゃん』はやめちまったのか?」
「十九になろうって男がいつまでも『シグルド兄ちゃん』でもないだろ?」
 ビリーは苦笑して答えた。バルトの異母兄のシグルドを、自分が兄のように慕っていたことを思いだすと、今でも少し可笑しくなる。ビリーがごく幼かった頃、シグルドはビリーの家に住んでいたことがあるのだ。ビリーの父のジェサイアの知人だったからだ。
 十年以上たって再会した時、シグルドは、このバルト以外はまったく目に入らなくなってしまったように見えた。それもビリーが最初、バルトに反感を抱いたきっかけだっただろうか。彼にとってバルトは、最初は恋敵にも似た存在だったのだ。
 しかし、バルトが彼の異母兄弟だったことを思えば、シグルドのバルトへの心酔ぶりが理解出来る。誰だって、こんな青年が自分の弟で、王家のただ一人の直系だと思えば、彼を王座につけたくて夢中になるだろう。
(もしくは憎むこともあるだろうか?)
 自分だったらどうだろう。ビリーは思う。嫉妬はないだろうか。自分に王家の血が流れていること、自分がバルト同様に、王の愛を受けた女の息子であることを意識はしないだろうか。
 しかしシグルドは弟を憎まなかった。歳の離れた異母弟に忠誠を捧げつくした。王家の復興を夢見、弟を玉座に据え、黄金の髪でふちどられた額に王冠を乗せることを、己が人生同様に夢見た。
 それはシグルドの気質ゆえの夢でもあっただろうが、バルトが彼にそうさせたのだろう。初めて会った時から、この金髪の青年は、憎らしいほど周囲の愛を集めて輝いていた。
 そして彼はビリーのそれも、こともなげにさらい取っていったのだ。
 ビリーはため息をついた。
「それで? バルト。今日は本当に何の用?」
「お前このあとすぐ、孤児院に帰る?」
 バルトは答えずに、逆に聞き返してきた。
「そうだよ。どうして?」
「じゃあ、乗せてってくれよ、船。これお前の船だよな?」
「まあこの時間だから、そういうことになるんじゃないかと思ってたけど、自分の飛空挺はどうしたんだよ」
「ガス欠」
「あきれたな」
 ビリーは肩をすくめて、船をつないだ綱を解いた。
「手伝えよ、バルト」
 バルトはうなずいて、神妙な顔で、エンジンの分だいぶ重くなった小舟を水に押し出した。一歩先に乗ったビリーの後からひらりと身軽に飛び乗って来る。
「漕ごうか、船」
「エンジンついてるんだよ」
 ビリーは答え、だが、思い直して櫂を手に取った。
「まあ、いいよ。……話があるみたいだから、ゆっくり行こう。櫂は僕が使うからご心配なく」
「漕ぐとどのくらいで着くんだ? 島まで」
「大体三時間弱ってところじゃないかな」
 二人分の重みに、船がいつもより深く沈んでいることに気づいて、どこか不思議な思いをしながらビリーは漕ぎ出した。
「三時間漕ぐのかよ」
 バルトが目を丸くした。しかしすぐにその目を細めてビリーを見る。
「でもそういや、お前って両利きだし、細いくせにやたら腕力あったもんな」
「そりゃ、あれだけ銃を使ってれば、嫌でも力はつくよ」
 ビリーは笑った。
 バルトはしかし笑わなかった。向かいに座ったまま、水面に目をやって、水に映る月を眺めて黙りこんだ。自分の膝に肘をつき、背中を丸めて頬杖をついた。
 月は暗青色の海に静かにふりそそいで、さざなみに沿って光のループをはりめぐらせたような模様を描いている。東側の島には常緑の森で覆われた山肌が浮かび、青々と光る夕刻の空に、その稜線が暗いアクセントを与えていた。
 月光に、片方だけ露になったバルトの金色の睫毛が、ひっそりと白く光っている。まぶたに、片方だけ小さな蝶が止まっているようにも見える。ビリーは、バルトの真意が分からないまま、しかし彼が目の前にいて座っているだけで奇妙な充足感を覚えながら小舟を漕いだ。沈黙さえ心地よく感じた。
「お前が力入れると、背中が痛いくらいでさ……」
 バルトが不意に、低くつぶやいた。その言葉が露骨に指ししめす自分たちの関係に、今度こそビリーはかっとなった。平穏な気分が一瞬でかき消されて、彼は握っていたオールを放りだしそうになった。しかしビリーはそうする代わりに、向かい合って座ったバルトを睨みつけるだけで満足しなければならなかった。
「あのねえ、云いたいことがあるならはっきり云えば?」
 彼は感情的になって自分の声が尖るのを自覚した。そして不意に既視感に襲われる。彼を初めて意識したシェバトでも、自分はバルトに同じことを云った。
「からかわれるのは好きじゃないんだ」
「まあ、そうかもな」
 どこか気のない声でバルトはつぶやいた。いつになく歯切れの悪いバルトの言葉に、ビリーは苛々しながらもどこか戸惑っていた。バルトとの、半年前のあの別れがなければ、彼が本当に、自分たちの間のことについて話し合いに来たのかと、あやうく誤解するところだ。そう思うとなおさら、今の、義務と仕事で埋まった平穏な毎日をかき乱すバルトを腹立たしく思った。
「さっき云っただろ? 教会でさ。あきらめられなくて来たって」
 バルトが不意に、投げ出すような口調で云った。
「まあ、振られといて、仕事放って来るなんて、未練がましいのは承知だけどな」
「振った? 誰が誰を?」
 ビリーは茫然とした。やつぎばやに云ってやりたい言葉が浮かんで来たが、結局は何も云えずに、彼は意思表示として、今度こそ櫂を、意識的に海面に放りだした。
「うわっ、何すんだよ。……唐突なやつ」
 取りつけた金具からオールがはずれて水面に浮かぶのを、バルトは慌てて腕を伸ばして拾い上げる。拾い上げた櫂を船底に置いて、バルトも少し腹をたてたように目を伏せた。
「振っただろ? 去年の秋にブレイダブリグで会った時」
「何云ってる……」
 声が震えた。怒りで口もきけずにビリーはこぶしを握り締めて黙り込んだ。彼の手が震えているのに気づいたバルトは、ぎくりとしたように身をすくめた。
「こんな小さい船の上で殴るなよ?」
「落ちたら泳いで帰れよ」
 ビリーは落ち着こうと、幾度か深い呼吸を繰り返した。
「……ねえ、バルト?」
 彼は声を抑えようと極力努力しながらつぶやいた。
「去年の秋、ブレイダブリグで会った時、君は、もう会わない方がいいんじゃないかって云ったんじゃなかったっけ?」
「……云ったな」
「もしよかったら、それなのにどうして、僕が君を振ったことになるのか、分かりやすく教えてくれない?」
 バルトは、彼等が一緒に戦っていた頃も滅多に見せなかったような、強情な顔で一瞬唇を結んだ。彼の金色の眉の間に苦痛が見えた気がして、ビリーは少し驚かされる。
「お前、俺がそれ云う前に、自分がどんな云い方したのか覚えてねぇのかよ」
「僕が?」
 ビリーはその時の会話を思い起こした。そしてそれに伴って、その時より少し前から自分が葛藤していたこと、バルトが同じ葛藤をするなら取り除いてやりたいと思っていたことも思い出した。だが、そういう結論に至るまでの、会話の細かい部分については思い出せなかった。自分は何と云っただろうか。
「お前、あれは過去の過ち、みたいな云い方しただろ?……」 
 バルトは苦々しく、ため息混じりにつぶやいた。
「……」
 ビリーは、まだ記憶がぼんやりとしていて、目の前にいるバルトから気を反らそうとした。ただでさえ今まで、あの時のことはなるべく思い出さないようにしていたのだ。ましてや現実にバルトの顔を見ていると記憶がうまく呼び起こせない。
(「なあ、おまえどうする? その……お前と俺の……」)
 確かあの時、口を切ったのはバルトだった。
(「僕たちのこと? 分かってるよ」)
 不意に、テープを再生するようにまざまざと、自分自身の声が聞こえてきた。
(「僕がそのことで君を困らすなんて思ってないだろ、バルト」)
 彼は、自分がそう云いながらバルトに片手をさしのべたことさえ、突然はっきりと思い出した。今、自分たちの座る多島海の春の風をくぐり抜けて、ブレイダブリグの街を吹く、熱く乾いた風までが頬に触れて来る思いだった。
(「今までみたいにたびたび顔を合わせる訳にはいかないのは残念だけど、アクヴィエリアに来た時は訪ねてくれよ、歓迎するから」)
 彼がそう云って、バルトの目が不意に凍ったのがまざまざと思い出される。ビリーは、後で何度思い出しても理不尽に思えた、あの夏のやり取りを、痛みと共に記憶に再生した。 
(「……そうだな。まぁアヴェと、お前のとこはかなり離れてるからな」)
 バルトは確かそう答えた。急に興味を失ったように視線を反らした。
(「そんなに会う機会も、もう無いかもな」)
 そう云って、彼は他の話を始めてしまった。ビリーが差し出した手を取らなかった。ビリーはその冷たさに戸惑い、裏切られたような気分になったのだ。それからビリーの方からは数度連絡を取ったが、うまくバルトとはコンタクトを取れず、バルトの方からの連絡は一度もなかった。
 過去の過ちみたいな云い方をした。
 バルトが眉を不機嫌に寄せて、今、彼に云った言葉の意味が突然ビリーにも分かった。あの時、なぜバルトが急によそよそしくなったのかも。
 今までの怒りとは桁違いの、真っ白な怒りがこみあげてくる。それと同時に、複雑な羞恥や苛立ち、安堵、いろいろなものが押し寄せて来た。先刻引いた血の気が突然昇ってきて、頬が赤くなるのが自分でも分かった。
「僕はそんなつもりはなかったよ……!」
 声を振り絞る。正直なところ泣きそうだった。
「君を困らせない、って云ったのは、どんな形になるにしろ気まずいのが嫌だったからだ! 多島海とアヴェは確かに遠いけど、それぞれの居場所がそこにあるなら、絶対離れることになる。でもケンカ別れみたいになるのだけは嫌だったから……」
 ビリーは、自分の気持を表現する方法が分らずに、苛々と溜息をついた。
「僕も確かに曖昧な云い方をしたよ。それは認めるし、謝ってもいい。……でも君だってあの時、ひとことくらい何か云ってもよかったんじゃない?」
 声が震えたことに気づいて、ビリーは口をつぐんだ。
 バルトは沈黙したまま、目を見開いてビリーの顔を見守っていたが、身体の力が抜けたように肩を落した。ビリーが放り出した櫂をゆっくりと船底に戻し、暫く沈黙した。船はこぎ手を失ってゆっくりと潮の流れに沿って流れ始める。それでも風と共に舳先はわずかながら進み、群青の海の上にアーチ型の波紋を作った。
「誤解だった……ってことか」
「君の早とちりだよ」
 ビリーは噛み付くように云った。しかし、情けない顔で背中を丸めたバルトの顔を見て、ゆっくりと息を吐き出した。怒りを静めようと呼吸を繰り返す。自分は、彼が絡むと感情的になる。それは、バルトに対する思い入れの強さ故でもある。だから今までビリーはそれを或る程度自分に許してきたところがある。だが、自分が彼を想っているせいで、彼に優しい態度が取れないことが多い自覚はあった。それがバルトにとって理不尽なことだということも分かる。
「そうじゃないね。僕も悪かった。誤解を招くような云い方して。君に最初に云えばよかった」
 バルトは顔をあげた。
「何て?」
 結局自分が先に云うのか。半ばあきれながらも、ほんの少し自棄的な気分でビリーはつぶやいた。どうしても小声になった。
「離れても、時々は会いたいって」
 その言葉にバルトが納得しきっていないことに気づいて、ビリーは腹を立てながらも自分と折り合いをつける。
「こんなことならちゃんと、あの時、君が好きだって云えばよかったよ!」
 彼は息を吸い込んで大きな声を出した。そして、船の上でよかったと思った。孤児院であろうと、教会であろうと、とてもここまで割り切った気分にはなれそうもなかったからだ。
「そうしたらこんな風に困ったり怒ったりしながら何か云わずに済んだし、夏から春まで一年近くも会えないなんてこと……」
 ビリーは、身を削るほど忙しくしていなければとてもやり過ごせなかった、昨年の暗澹とした秋と冬を思い出した。あの夏の前も、デウス以降はバルトにそう始終会えたわけではなかった。しかし、何かおりがあればバルトに会えることを思うとこころが弾んだ。
 その前の何年間かのことを思うと、バルトが現れただけで、毎日が奇跡のように過ごし易く、生き易くなることに、あの頃のビリーは驚いていた。教会のこと、両親のこと、プリメーラのこと、リミッター解除のこと、自分の手にかかって死んだ、膨大なウェルス化したひとたちのこと。ビリーの十九年にも欠ける人生の中には、思い出したくもない、しかし忘れることの許されない苦痛の種は沢山ある。しかしバルトの存在はそこに薄い光の膜をかけて、苦痛に沈む路をほの明るく照らしてくれた。
(「もうあんまり会う機会もないかもな」)
 バルトのひややかな声が再びよみがえってきて、ビリーは胸がつまりそうになった。暗い秋と冬を、まるで息を切らすようにしてようやく走り抜けたのだ。多島海の冬は厳しく、プリメーラでさえ彼の側にはいなかった。父でもいい、側にいてほしいと思うことがあった。孤児院の子供たちと、ビリーにすがる教会の信者たちがいなければ、どうなっていたか分からなかった。
「僕は云うだけ云ったけど、君は?」
 少し声が冷たくなる。
 バルトは黙って、飢えたようにビリーの姿を見ていたが、はぁっと息を吐き出した。
「お前にふられたと思ってたから、あきらめようとしたんだけど、全然駄目でさ……お前のことばっか思い出して、バカみたいに寂しかった。無茶苦茶仕事したり、行かなくてもいい遠隔地の視察に行ってみたりしたけど、気がつくとお前のこと考えてるんだよな」
 バルトは一瞬、何かを反芻するような憂鬱な表情を見せた。周囲が夜の闇だからか、顔が彼らしくもなく青褪めて見える。
「どうしてあの時、頭下げて頼んでも、嫌がられても、もう一度考えてくれって云えなかったのか、自分で腹が立ってしかたなかった。そしたら、ネットワークニュースの記者が来て、オレやフェイやお前や……とにかく、デウスに降りたやつの話が聞きたいって云われてさ」
「……」
 ビリーは黙って彼の話を聞いた。この先、こんな風にバルトが自分達の関係について話すのを聞くことはないのではないかと思った。怒りが少しおさまってくると、それは貴重な機会に思えてくる。
「一人ずつ話して行って、まぁ……先生とかリコとか、みんなそれぞれの話をしてさ。それで、お前の話になって……話してるうちに……」
 バルトは片方だけ生き残った青い目を具合が悪そうにまたたいた。その青い瞳は夜の闇に出会って、黒に近い青になって沈んでいる。
「もう頭下げて、何とかしてくれって云いに行こうと思ってさ」
「何とかしてくれって?」
 ビリーは思わず笑った。
「オレのこと友達だと思ってるんなら助けてくれって、頼みに行くか、って」
「変な話……」
「変な話だろ?」
 バルトも笑う。
「何とかってどうするの?」
「どうするって……気持の問題だからな、どうっていうんじゃないけどよ」
 バルトは憮然としたように首を振った。
「だいたいさ、君、早く結婚しろとか云われてるんじゃないの?」
「結婚?」
 聞き返した声が大きくなる。ビリーは、口に出してみて、それを自分が少し気にかけていたのにようやく気づいた。
「だって、いいの?世継ぎを作れとか云われてない?」
「ビリー……お前、頭はっきりしてるか?」
 今度はバルトの声から余分な感情が消え、心底あきれたように彼が自分の顔を覗き込むのが分かった。
「世襲制にしたら、何のために共和制にしたのかわかんねーだろ? 何だよ世継ぎって」
「あ……そうか」
 ビリーは一瞬茫然とした。バルトはいつかは従姉妹のマルグレーテと結婚して、次世代の血を残すのだろうと、無意識に考えていたのだ。
「もう、オレのガキに継がせる「御世」なんてないんだぜ?」
「なるほど……」
 ビリーはつぶやき、あることを思い出してバルトを睨み付けた。
「……何が、愛してはならない人を愛した、だよ。歯が浮くかと思った」
 バルトは声をたてて笑う。少し赤くなったのが夜目に分かる。
「そう思ってたんだから仕方ねえだろ?」
「もういいよ。……」
 ビリーは緊張に凝り固まっていた身体を伸ばした。運転席に滑り込む。
「帰ろうか。少し冷えてきたよ」
「……ああ」
 まだ物云いたげだが、バルトはうなずいた。ビリーがエンジンをかけるのをじっと見守っている。ビリーの船は、舵とプロペラをディーゼル機関と組み合わせ、船の後方に取り付けたもので、極力軽く整備した滑走艇だった。エンジンさえかけてしまえば、ビリーの島まで幾らも時間はかからない。バルトと向かいあってゆっくりと話す緊張に耐えられなくなってきたのだ。
 船は水面から舳先をせりあげて浮かんだかと思うと、月の海を軽々と滑走し始めた。

「孤児院に今、何人くらいいるんだ?」
 バルトは、ビリーの孤児院の戸口の階段をあがりながら、屋根にとりつけられた風見鶏をなつかしげに見上げた。鈍い赤に塗った風見鶏は、星空の下でかすかな風を受けて光っている。初めて彼がこの孤児院に来た時からその風見鶏はあった。一度は無人になったこの孤児院だが、ビリーが昨年の春に戻ってきて手入れを行い、多島海エリアの自治委員会と話しあって、子供たちを受け入れた。
「十一人」
「結構いるな、大変だろ」
「ああ。でも今は年長の子が何人かいて、下の子達の面倒を見てくれるから、僕のすることはそんなに多いわけじゃないよ。村から女の人が手伝いに来てくれるしね」
 ビリーは階段を上りながら足音を忍ばせた。彼がそうするのを見てバルトもそれに習った。もう子供たちは眠った頃だった。
 扉の鍵を開け、何事も起こった様子がないのに安心して、そっと入って行くと、奥の部屋で物音がして、ドアが細く開いた。そこから覗いた栗色の髪と瞳に、年長の子供たちのうちの一人である事が分かった。今年十三歳になる少女だ。
「僕だよ、メイ」
 呼びかけるとほっとしたように出て来る。バルトが、白い寝間着を着た少女の右手に銃が握られているのを見て、ぎょっとしたような顔になるのが分かった。何も云うな、と目で制して、ビリーは、押し黙った少女を呼び寄せる。
「起きてたの?」
「うん。……ビリーが帰るまではと思って」
 少女はバルトをちらりと眺めた。彼女はリミッター解除の影響を全く受けなかった子供のうちの一人だ。大異変以前は、高いエーテル能力を持っていたと、少女をここに連れてきた近隣の人に聞かされた。彼女の両親はデウスの「掃討」で街が焼かれた時に死んだ。
「彼はバルト。僕の友達だよ」
 ビリーは、痩せた少女にかがみこんだ。髪を撫でる。
「ここには時々来ると思うから、彼の顔を覚えておいて」
「……わかった」
 こぼれそうな目で少女はバルトを見上げた。緊張したように押しつめていた呼吸をそろそろと吐き出して、彼女は一歩下がった。
「おやすみなさい、ビリー」
「ああ、早くおやすみ」
 少女はそして躊躇うようにバルトを見た。警戒心に似た硬質なものが茶色の瞳の奥に覗いている。
「……おやすみなさい」
 そして低く押し殺した声でバルトにも挨拶をした。名前は呼ばなかったが、ビリーの云った通りに顔を覚えておこうとするように、じっと大きな目を開いてバルトを見つめている。
「おう、おやすみ」
 思わずバルトが笑いかけると、少女は戸惑ったように目を背けた。ゆっくりと裸足の足を踏みしめ、銃を握ったままで子供たちの寝室に消えていく。息が白かった。短く髪を切り揃えてむき出しになった首筋が、春の寒気にそそけだっているのが分かる。
「……おい、何だよあれは」
 二人きりになると、バルトは案の定憤慨したようにつめよってきた。
「あんな子供に銃を持たせてんのか、お前」
「僕が教えてるよ、扱いも、銃の怖さも」
 ビリーは声に力を込めて、生真面目に答えた。
「この島は安全な方だけど、夜盗も獣もいる。自分の身は自分で守れた方がいい」
 あの国の王宮の中で暮らすバルトには分からないだろうか。そう思いながら、ビリーはゆっくりと云った。
「僕のような失敗をしないで済むように、最大限見守るつもりだよ。でも無抵抗の子供たちが殺されるのは嫌だ。十三歳なら、もう充分に銃は使えるよ。難しいのは使い方だけどね」
 納得できないようにバルトは眉をひそめる。
「お前の云いたいこと分かるけどな……」
「受け入れられないんだろう?」
 ビリーは仕方なく微笑んだ。バルトのような人間がそう思うのは分かる。自分にも、子供たちに銃の扱いを教えるにあたっては葛藤があった。そして今のやり方はその葛藤の末に決めたことだ。子供たちにも強制したわけではない。銃を持ってもいいとビリーが判断した子供と話し合い、彼等の意思を確認して、筋力や体力のテストを繰り返した上で訓練を始めた。
 十二歳を超した年長の子供たちは全員、銃を持つことを肯定した。銃を取る神父であるビリーを拒む様子もなかった。その前後のやり取りのスムーズさを思うと、ビリーは子供たちの柔軟さに感謝せずにはいられなかった。
 部屋に火を起こす。エネルギーを無駄にはできないため、ビリーは孤児院に灯油を使う暖房システムを取り入れた。先年からサルベージャーたちは原油の採掘場を発見することに力を入れており、大異変以前より、灯油は手軽なエネルギー源として広く使われるようになった。
 灯油の燃える独特の匂いと、芯が燃えて小さくはぜる音が聞こえてくる。部屋は大型のストーブで急速に温まり始めた。
「君もそんな恰好で寒かっただろう。春の多島海にくるのに薄着過ぎるよ」
 こっちに来て坐ったら? そう声をかけると、バルトはいささか居心地が悪そうに目を伏せた。
「寒くないの?」
 そう云いながら、教会に行く時に身につける黒い聖服とコートを脱いで、壁にかけた。
「何か着替えを貸すから、君もその薄っぽいもの脱いだら? 僕のじゃ身体に合わないとは思うけど」
「ああ……」
 バルトはしかし動かなかった。
「なぁ」
「何?」
「毛布か何か借りていいか? どっか余所の部屋の……あ、ほんの隅でいいからさ」
 なんだったら礼拝堂の一角を間借りしてもいい。大真面目な顔でそんな風に言い出す彼を、ビリーはあきれて見つめた。
「何云ってるの? ここはアヴェとは違うんだよ。風邪なんてひかせて返したら、僕がメイソンさんやシグ兄ちゃんに合わせる顔がないじゃない」
 昔からの習慣でついシグルドをそう呼び、ビリーはしまった、と苦笑いした。しかし、先刻同様真っ先にそこに突っ込んでくるかと思ったバルトは何も云わなかった。そのことにはまるで興味がないように目を背ける。
「解ってんのかよ。お前と一緒の部屋で大人しく寝られるわけねえだろ。でもお前、明日だっていろいろ……仕事とか、あいつらの面倒とか……」
 あいつら、と云いながら子供たちの寝室の方を顎でしゃくる。ビリーは眉をひそめた。
「明日ギアで遠出するって時だって、君は平気でしただろ?」
 そう返すと、バルトは真っ赤になった。
「悪かったな! オレだって多少は成長してるんだよ!」
「悪くなんかない」
 ビリーは云いながら、父がここに立ち寄った時のための着替えを思い立って取り出した。父の服なら、バルトも小さいということはないだろう。身長はおそらく父の方が少し高いくらいだったはずだ。
「バカだなぁ。せっかく部屋をあっためたんだから、こっちで寝ろって云ってるんだよ」
 戸棚の前にかがんでいたビリーは立ちあがり、棒のように所在投げに立っている、アヴェの若い政治家の腕に、父の夜着を押し付けた。そして、編んだ髪の先を持ち上げて、軽く唇を押し当てた。バルトの顔を見上げると、ひどく驚いて見開いた青い目と出会った。笑ってみせて、孤児院の子供たちにするように、長い腕を叩いてやる。
「さ、いい子だから早く着替えて。冷えるだろ?」
 その瞬間、うなじに手がかかって、ぐいと引き寄せられた。バルトの手から渡したばかりの着替えが落ち、閉じる前の目に、薄いブルーの布地が妙に印象的に焼きついた。床掃除はしてるからいいけどね。そんな風に思いながら息がつまるほど抱きしめられる。
 今日のバルトの胸は雨の匂いがする。だが、淡く湿り気を帯びた布の中から、真っ正直にあがり始めた気の早い体温がビリーに伝わってくる。胸の鼓動が、初めてシェバトで抱きしめられた時と同じように激しくなるのを感じて、ビリーは大きな獣を抱くような気持ちで、うっとりと目を閉じた。彼の鼓動はまだ走り出さなかった。興奮や高揚よりも、安堵や喜びの方が大きかった。バルトに抱え込まれた腕を抜き出し、彼の背中を抱きしめる。またこうしてこの胸に、腕に、背中に触れることが許される日が来るとは思っていなかったのだ。
 彼としては、何もせずに寝床に入って、バルトとただ眠りたい気分だったが、そういうわけにもいかないのは分かっていた。女性を抱くように自分を抱くバルトの生理と、この関係にまつわる自分のそれが、微妙に食い違っているのをビリーは分かっている。
「お前、誰もいないんだよな」
 バルトがふと、不安そうに尋ねる。ゆっくりと安堵して彼にもたれていた身体に、傍目にも分かるほど苛立ちと緊張が走った。自分がそれをバルトに隠せなかったことに気づいて、ビリーはためいきをつく。
「こんな時にバカなこと云わないでよ」
 苛立った勢いで伸び上がり、バルトの首筋に顔を埋めた。吸う代わりに歯を立てる。驚いたようにバルトの身体が震え、引き剥がされる。
「ごめん、悪かったって」
 そう云いかけて、青い目がいぶかしげに瞬く。自分の肩の位置とビリーの肩の位置を見比べるようにてのひらで双方を撫でてみる。
「お前、背、伸びた?」
「少しね。今気づいたの? 去年の夏にもこのくらい伸びてたんだよ」
 ビリーもバルトの肩と自分の肩を比べてみた。そして内心、昨年のブレイダブリグではこうして抱き合うこともなかったから、彼がそれに気づかなくても無理はないと思った。
「君は伸びてないだろ? その歳だしね」
「二つしか違わねえだろ」
 からかうように云った言葉に律義に反応してから、熱い唇が降りてくる。ゆっくりと息をふさがれる。多少ブランクはあるが、彼等はもうお互いの唇や腕に馴染んでいる。相手が何を欲しがっているのか、ほんの少しの仕草でも解るようになった。バルトが深く触れ合おうと焦れる気配に気づいて、ビリーは唇を開いて彼を受け入れた。舌同士が触れ合うとようやく冷えた唇にはなまなましさが訪れ、ビリーも熱くなった。
 唇と舌と吐息をやわらかく混ぜ合って、二人はようやく無言になってキスに没頭した。さざなみのように、快感と興奮がビリーの背中をゆっくりと繰り返してなで上げて行く。しばらくすると、立ったままでは集中しきれなくなって、ベッドに倒れこんだ。
 バルトに喉元を吸われて、熱く熔けかかっていたビリーは彼の肩を押し上げた。
「バルト……! 跡はつけないでよ、最近は、衿の高い服着ないから……」
「あ、……そっか、……悪い」
 バルトは上の空で呟くと、ビリーの皮膚に戻る。もどかしそうに胸元を押し広げ、噛み付くように鎖骨に、胸の上の尖った部分にくちづける。バルトの唇が動くたび、神経に直接触れられるような鋭敏な感覚が自分の皮膚の下で反応を起こすのをビリーは耐える。ベッドにはいったばかりで、とても久しぶりだから過敏になっているのだ。何度も触れられて暫くすると、この剥き身の神経に触れられるような感覚はおさまってくる。
 ビリーは呼吸を乱しながら自分の気持を逃がそうと、バルトの髪に手を伸ばす。彼の髪をまとめた紐を取り去った。記憶にある髪よりもはるかになめらかに、手入れのよくなった髪が、ビリーの肩や胸に冷たくこぼれ落ちてくる。ドキンと胸が鳴った。砂漠の風に好き放題になびかせていた時は気づかなかった。こんなに柔らかい、美しい髪だったのか。
「何だよ」
 バルトが顔をあげて、照れくさそうに眉を寄せた。
「鑑賞中……」
 ビリーはささやいた。思わず微笑する。灯りをつけたままの部屋の中で、髪も目も鮮やかで、彼をとても美しいと思った。
「手入れしてるの? 前はもっと乾いた感じだったのに」
「ああ、しょっ中煩く云われてさ……」
 バルトは邪魔になったようにその髪を耳の上にすきあげる。その、まるで妻か母親だかの話をするような口調で、たぶんバルトに「煩く云う」相手が、シグルドなのだろうということが察せられる。一種独特の親密さを持ったこの兄弟の関係は、どちらに嫉妬すればいいのか分からないほど互いに向けて深く根を張っているのだ。
 そうしてシグルドや周りのひとに構われることをわずらわしがる、子供のようなバルトを見ていると、本当に彼がここにいるのだということが実感される。彼のユグドラシルに乗って、大異変前の世界を旅したことを思い出して、なつかしさに胸がつまった。
 戦いはあって、それはつらかった。あの頃に戻りたいとは決して思っていない。だが、バルトがいつもそこにいて、存在を感じたい時、抱きしめて欲しい時、いつもあかるい光源のようにそこにいてくれたあの二年間を、この先も自分は忘れないだろうと想った。
「バルト」
 神妙な顔でビリーの服を取り去る作業に入ったバルトの頬に、身を起こして軽くキスする。
「好きだよ」
 もうひとこと云おうと思案する。
「……ごめんね、いろいろ」
 頬に触れるとあたたかい。バルトは何とも云えない顔になった。金色の長い睫毛を伏せ、唇にそっとキスが返ってきた。
「オレも」
 少し戸惑ったように、それだけ短くバルトはつぶやく。それ以上を聞きたいという気持がなかったビリーは満足する。もう先刻、船の上で充分に彼からは聞いた。あれ以上を言葉で受け取ろうとは思っていない。問題はどれだけの言葉を交換するかではなく、これからどうやって二人が良い関係を継続させて行けるかだ。
 彼は思い立って、まだ服を着たままのバルトの背中にてのひらを滑り込ませた。そこには、覚えのある傷が無数に走っている。この傷が好きだ。彼の知らないバルトの少年時代、果敢でもろく、義務に満ちた小さな子供のことを容易に想像させてくれる。
 膝から服を抜き取ろうとするバルトに協力する。ベッドカバーに腿やふくらはぎの皮膚が直接触れてくる。一枚身につけたシャツを残したままで、今度は遠慮のないキスが身体中に降ってきた。ビリーは息をつめる。忠実に灯油を燃やすストーブに暖められた部屋がわずらわしく思えるほど、体が温かくなってゆく。
 てのひらで撫で、そこにくちづける繰返しが平らにそげた下腹に届き、ビリーはふるえた。指が彼を探り、それを唇が追った。
「……ぁ、……」
 性急に追い上げられて声が漏れた。そこはバルトの唇の中で直ぐに濡れて堅くなり、ビリーは少しいたたまれなくなって背中を揺らした。彼の脚の間に肩を押し入れて顔を埋めたバルトは、支えるための指を、跡がつくほど強くビリーの脚にくいこませている。脚を強く握り締められるその感覚がビリーの快感をなおさら煽った。
「……ね、もう……いいから……」
 ビリーは背中にかけあがってくる波に耐え切れずに摺りあがって逃れようとした。指の力を借りない、舌と唇だけの不安定で柔らかい刺激が彼を焦らして、酷く興奮させた。身体中が淡く汗を帯びて湿り始める。ビリーが抗おうとすると、バルトは脚に添えていた片手で、唇で愛撫しているそこに絡めて刺激を加え始めた。膝の裏から足の爪先まで弱い電流を流したような、的を射た熱い感覚が湧き起こって、ビリーは唇を噛んだ。うなじをシーツに擦り付けて、漏らしそうになる声を耐える。子供たちに声を聞かれるのではないかと思うと気が気ではなかった。
 暫くして片足が押し上げられて、体の奥に指が入って来た時は、だがそんなことを気遣っていられなくなった。唇を噛もうとしても力が入らなかった。まだ最後まで高まらないままの疼きと相俟って、よく湿らせないままの指が与える、熱い痛みさえ刺激に変った。胸の中から押し出されるように鼻にかかった声が時折漏れて、バルトがそれに反応するのが分かる。
 吐息が混じって空気が少し淫蕩な甘さを帯びる。
「悪い、もう我慢できねえかも……」
 耳元でささやかれた。
「何かあるか? このままだとちょっと無理だろ……」
 ビリーは息をつめた反動で潤んだ目を開けた。彼が何を言っているかは分かっているが、すぐには反応できなかった。予め準備するほどの余裕が彼にもバルトにもなかったのだ。
「そこの戸棚に、青い瓶があるから、悪いけど取って……」
 息を切らせてやっとささやいた。冬、子供たちの小さな手の荒れに塗ってやるためのクリームがその瓶には入っている。バルトはうなずき、片足をベッドから下ろして手を伸ばした。
 クリームの冷たさを溶かすために、それをバルトが自分のてのひらに伸ばしているのを、複雑な羞恥と一緒に眺め、ビリーはそれきりで堅く目を閉じた。

「きつかった?」
 どこか心配そうに覗きこまれて、ビリーは、まだ関節のそこここにしがみついている甘い疼きに息をあげながら、首を振った。
 汗に濡れて頬や額に張りついた彼の銀色の髪を、バルトが丁寧にかきあげる。
「お前、すごくキレイ」
 キスするように耳元に唇をつけてささやかれて、ビリーはびくりと身体を堅くした。
「そういうこと云うのやめてよ……」
 だるい腕をあげて、バルトの肩をゆっくりと押しやる。
「どうして?」
「恥ずかしいやつ……」
 眠ってしまいそうになって、ビリーは必死に目を開けて起き上がった。身体の火照りがなかなかおさまらない。自分がまだバルトを欲しがっていることに気づいてビリーはあきれた。シャワーでもあびればすっきりするだろう。彼の隣にバルトも身を起こして坐る。
「目、赤くなっちまったな」
 冷やすか? そう云いながら、涙をこぼしたせいで赤くなったビリーのまぶたに、そっと手で触れる。その感覚だけで、また熱に引きずり込まれそうになる。とても大切なものに触れるように丁寧にゆっくりとキスされる。たまらなくなって、バルトのうなじに腕を巻きつけて抱きしめた。ビリーがせっぱつまっていることには気づかなかったようだが、バルトの呼吸が少し乱れた。
「まだ体力残ってるか?」
 ビリーの背中に指を這わせて、バルトは慎重な声でささやく。ビリーは息を吐き、答の代わりに、触れあった頬を押し付けて、彼のうなじを抱いた腕に力をこめた。


 咽喉が渇いた。
 ビリーは、目を開けて、隣で眠っているバルトを起こさないよう足音を忍ばせて、台所に向かった。眠ってからそれほど時間はたっていないようだった。まだ外は暗い。だが、明け方が近づいているのが、闇の青さに察せられる。
 水を一杯飲む。それではまだ充たされずにもう一杯グラスに水を汲んだ。きりきりと冷えた食堂の椅子にかけて、彼は痛みに似た幸福感を持て余しながら頭を垂れた。
 バルトにばかり任せるのではなく、自分も時間が取れる時はアヴェに行こう。彼はそう思った。それは、孤児達と教会の仕事を抱えたビリーには楽なことではなかったが、むろんバルトも条件は同じだった。
 それに、何よりも自分にとって彼は必要なのだ。身体に必要な水を飲むように、少なくとも今のビリーには必要だった。
(バルトがいなくても、勿論僕は生きていける)
 そう考えてみる。心臓が鼓動し血流を濾して、体を機能させるという意味で。こころも無論生き延びることは出来る。人と話し、仕事をこなす意味では、動き、活動し、笑うことができる。だがそこに決定的な何かが欠けているだけのことで。
 昨日までと同じ教会、彼の小さなひな鳥たちの巣。彼等が食事をするためのテーブルと椅子。明日に向かうために眠るベッド。全く同じようにそこにあるものが、バルトがいるだけで、光と生気を帯びる様子を、怖いような思いでビリーは眺める。こんなに彼が自分に影響力を持っていると気づかなければ良かった。そんなふうにも思う。
 そっと寝室に向かう。バルトは目を覚ましていなかった。息を殺して彼に近づき、こめかみに指を押し当て、そこに燃える脈に触れてみる。眠っていてもビリーよりいくぶん早い、確実な脈が伝わってくる。満足して彼の背中側に身体をすべりこませる。
 どんな雨も潤さなかった身体の中の乾きが消えている。
 今日ばかりは神でなく、彼は隣に眠る金の髪の青年に感謝を奉げた。
 目を閉じる。身体をくつろげる。そして十字を切る代わりに、荒れた大きな手を寝床の中で探り当て、静かに握り締めた。

                                    了。

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