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寸劇のカタストロフィ(1991年)

01 05 *2011 | Category 二次::C翼(後期)・日向×若島津


続き





 目が時々霞むようだといって、同室の若島津健が辛そうにするようになって、半年近くが過ぎた。もう冬に差し掛かるのに、暖房で空気が濁ると頭痛を訴えるようになった。受験を直前に控えて身体の不調は痛手という以上の痛手である。
 若島津健の目が日向は好きだった。髪は荒れない綺麗な黒なのに、虹彩は優しくすきとおったセピア色で、それが彼の視線を不思議な柔らかさに仕上げていた。実を言えば気質はエキセントリックな天才肌で、柔和どころではなくひどい皮肉屋である。それを持ち前の少しかすれた甘い声で隠していることと、セピア色の瞳がけむるように優しいこととはなるほど共通している。
 痛みの似合う目だ。
 若島津に一種特殊な思い入れをする日向は、そんなことを考えた。白昼夢のように切ない色のもやをかける代赭色の瞳が、実に冷たい本性を隠していることを彼は知っていた。キリのように痛みをねじ込んで涙に曇らせて、濡れた睫が震えるところを見たくなる。
 日向小次郎には受験自体は縁がなかった。彼はこの東邦学園のスポーツ特待生である。大学部までは進まなければならない。途中でプロテストを受けるにしろ、今年というわけには行かない。大学中退の許可が出ればもうけ物というところで、おそらくあと四年はこの学校に居なければならないだろう。
 若島津健の受ける大学は難関で、受験前の一年間に目の調子が悪いようでは受かる確立は低かった。プライドの高い彼がそれを最初からすんなりと認めるはずもなかったが、余裕があるように見えても実際はかなり焦っているはずだった。
 若島津に関しては、何もかも投げ出して彼の力になってやりたいような気分と、引きずり落としてボロボロに傷付けてやりたいような気持が、日向のなかに同居している。
若島津が彼には他人より大分心を開いていることを知っていて、そんな衝動と彼は戦っている。
 視線を感じて振り返ると、無表情な若島津の目が着替える日向の身体に注がれていた。ベッドに寝転がって問題集をめくる腕はここ暫くの間にまた痩せたようだった。
 ―――スポーツなんて興味ない。……
 日向を前にそういい放った若島津健がひどく腕っ節が強いのも、同室四年目の彼は知っていた。
「何見てんだよ」
 声が無愛想になる。若島津には見られたくなかった。その視線を意識するだけでもう危ない方向に走り始める自分を日向は知っている。爆発物のような欲望は、人一倍健康なだけに抑えられる自信がなかった。
「―――……サッカーって足しか使わねェんだろ?何で肩まで筋肉つくんだろうな」
 この声の出し方は若島津特有の癖だ。笑いを含んでいるような声を出す。年令不相応な甘いなめらかさがある。
「見てるなって」
「意識してる?」
「今更だっての」
 語尾がけだるくかすれる声で若島津は笑うと、問題集に視線を戻した。この声を嘲笑と間違われることもあった筈だった。日向はこの物言いにはなれている。四年間同じ部屋に暮していられるのだ。多分親しいといってもいいのではないか。
 中学三年のとき、生徒会長だった若島津健と、日向小次郎は初めて寮で同室になった。日向は中等部からこの私立東邦学園に、サッカーの特待生として入学している。日向は中学三年の時点で早くも身長も百八十センチを越え、大人の男くさい外見に変わった。FWとしてはいささか伸びすぎた感のある彼はしかし、プレイに愚鈍さの全く無い稀有な肉体バランスを持っている。日常生活ではまだ身体のできあがらない生徒たちに立ち交じって、ややその高い身の丈を持て余したような日向の目には、個人的に口を利いたことのない線の細い生徒会長は興味外だった。
 若島津健は医者の息子で、東邦の高等部を出たのちには然るべき大学の医学部に入学して、いずれは私立病院の院長の椅子が待っているような男だ。エリートコースを一ミリのずれもなく歩いてきたようなタイプで、日向はむしろ最初は反感をもったくらいのものである。
 彼は髪が長い。鼻梁の半ばまで伸びた前髪をかき上げるのが彼の癖になっていた。後ろ髪の先は胸近くまで届く。
手入れなどに手間をかける性格ではないことは同室になってすぐに判った。伸ばしているのも単に面倒からだった。
ただしその面倒というものにせよ物理的なものだけではないようだった。長い髪と殆ど度の入っていなかった眼鏡で色白の生徒会長は煙幕を張った。
 カーテンだよ、といって若島津は笑った。
 手入れをしないが帰宅部で陽に曝されることも少なく、綺麗好きな彼の髪はさほど荒れることもなく、女生徒の好奇の目からのカーテンの役割を果たしていた。愛想はいい。しかし内側は極端な程の拒否型で、無愛想でも懐の深い日向とは対称的なタイプだった。
 同室になってから日向は、彼の指の関節に小さいタコがあることに気付いた。色の白い痩せた身体に意外な程長くしっかりとした指だ。
 ―――これ?空手。
 近隣に住む叔父の家が空手道場で、中学生の頃まで通っていたと彼は云った。
 ―――黒帯持ってんのか?
 日向にすれば冗談混じりに聞くと、若島津は、四段だよと答えた。あまり無造作で、日向は四段という基準が一瞬判らなくなりかけた。
 ―――それ、すごいんじゃねェの?お前中二までしかやってねェんだろ。
 ―――かもな。俺しか取れなかったから。才能あるんだってさ。
 ―――それを何でやめたんだよ。
 ―――……
 若島津は眼鏡越しに日向をちらりと一瞥した。うるさがっているのか考えているのか、答えるまでの時間は長かった。
 ―――スポーツ興味ないんだ。……俺は権力が欲しいから。……
 若島津は変声期後妙に煽情的なかすれ方をした声でのろのろとつぶやいた。
 ―――スポーツなんて興味ないよ。……
 実際に身近にいる同じ歳の少年の口から権力という言葉がするりと飛び出したことは強烈なインパクトだった。スポーツなんて、というその云い方も気にならなかった。凄味があるように端正な顔立ちの生徒会長を眺めて、おそらくその時初めて日向は若島津に興味をもった。
 ―――それで生徒会長やってんのか?
 ―――……こんなの権力に入らないよ。
 若島津はゆっくり薄く笑った。両端を上げた唇がすっきりと赤くて綺麗だった。
 日向がそういった権力主体の考え方を好きかと問われれば決して好きとは云い難い。けれど底力を持った人間というのは少々破綻していてもしばしば魅力的なものである。
原始的資本主義は、抑圧される者もする者も鋭い怒りと欲望にまみれて毒々しくあでやかな光を放っている。相通ずる若島津の少ない言葉は一つ一つ印象的で、ブラックユーモアかシュルレアリスムのアートのような魅力を持っていた。
 若島津は自分からは自分のことを殆ど話さないが、聞かれて特にもったいぶるでもなかった。ある意味ではひどく付き合いやすいタイプと云っていい。
 それに加えて若島津は、声も身体も顔も、ぞくぞくするほど日向の男をそそり立てた。
 身長は百七十八か九くらいで、日向よりも四、五センチ低い。実際はもう少し高く見えるかもしれない。顎の綺麗に尖ったうりざね顔で、フィルムにハレーションを起こさせかねない白い皮膚をしている。不健康というよりは生来の白さで、焼いても焼けないのだ。これだけ日焼けしないというのは逆に皮膚が丈夫なのである。
 炎天下に顔を曝しても日に焼けもしないし肌荒れ一つするでもなく、真冬のように白い顔に、切れの長い淡い色の目は効果的に柔らかく涼しかった。
 外見に合わないほど彼はタフで、恐ろしくハードなスケジュールを水をふったように涼しい顔でこなした。自分を休ませておくことができないのだといっていた。案外自虐型かもしれない。が、そのタフさが幸いして自虐にはならずに済んでいるところがある。
 その彼に対する感情が明らかにアブノーマルな傾向をたどり始めたのは高等部に入学するまえのことだった。
 高等部からは寮は二人部屋になる。希望者は春休みのうちに届けを出しておけば同室になることもできる。それまで日向は若島津ともう一人の三年とでの三人部屋だった。
 親しくなったとは云ってもそれは一方的に自分が興味を持っただけのことである。うるさいと思われるのも嫌だったし、うるさいと思われないためにフォローを入れる自分の姿を想像するのも煩わしかった。次の部屋のことを云い出すのは、物事を冗談に紛らわせられない日向には面倒だった。ひどく寡黙な男に育ちかけているそれは、むしろ何も考えていないのではなく先回りして面倒がる性格のためのようだった。
 中等部卒業の数日前、もう一人の同室者がいないとき、若島津がふと思い出したというように振り向いた。
 ―――日向。来月からの寮、誰かと同室希望届け出した?
 ―――出してないけど。
 ―――じゃあ俺ともう一年やらない?
 日向は面くらって一瞬黙った。若島津は特に真剣な顔もしていない。マッチ棒の一本や二本乗りそうなまつげの下の目はやはり何かけだるいように静かにけむっている。何も考えていないように思えた。
 ―――お前それでいいのか?
 考え考えそう口にすると、若島津は中指で眼鏡を押しあげて目を伏せ、云いにくそうに口を開いた。
 ―――俺お前が好きなんだよ。一緒にいると楽なんだ。
 そう云って慌てて付け加える。
 ―――変な意味に取んなよ。日向だって俺の事好きだろ?
 ―――どうしてそんなの判るんだよ。
 日向は半ば呆れて相手の綺麗な顔を見詰めた。
 ―――だってお前、よく俺の事見てるからさ。……
 日向は一瞬からかわれているのかと思って気を悪くしかけた。確かに若島津を見ていることが多いのは事実で、だからといって若島津の人の悪い冗談に付き合う気にはなれなかった。
 お前が好きなんだよ。
 その一言が若島津の唇からこぼれたとき、突然カツンと牙を鳴らして頭をもたげたものがある。その昏い塊の、待ち構えていたような激しさに、情動の落ち着いた日向も流石にうろたえた。うろたえたということと同時に見透かされたような罪悪感が沸き起こった。ひらめくように襲ってきた狼狽の分、それは日向らしくない怒りに変わった。
 ―――嫌味かよ。
 日向が吐き捨てるようにそう云うと、聞き慣れない冷酷さに若島津は戸惑った目をした。そういう目をすると妙に年令相応に見えた。
 ―――からかってんならよせってこと。
 ―――俺はお前と同室になりたいだけだぜ?
 そういった若島津の顔は真面目で、生徒会長らしかった。実際若島津は何を考えているかひどくつかみにくい少年で、笑いながら考えていることのやや屈折した冷徹さに日向の感覚が回りかねることもしばしばだった。
 ―――お前、時々俺見て笑うだろ。面白そうにさ。あの顔好きなんだ。……
 若島津は考え込みながら云った。数式か何かを解くような顔になっていた。若島津は自分自身にあまり関心を持っていない。他人を見るような目で自分を見ているから、どうも手応えが薄いのかもしれない。
 好きという言葉を出すことにも全く抵抗がないようだ。
なのに日向は、若島津が個人に対して好きだという評価をしたのを初めて聞いた。
 その無造作に紡いだ好きという単語が、同性の日向小次郎のなかでどんなものを掘り起こすことになったのか、若島津は気付かない。若島津はこの年の少年に珍しく、驚くほど自意識に乏しく見えた。自分に関するかぎり、連鎖的に自分に関心をもつ人間にも冷淡に振る舞う傾向がある。
 或はそれは自己中心的であることにつながるのかもしれない。自意識が強いと見せるのを極端に嫌っているのかもしれない。しかし、日向には若島津がそのいずれであるかの区別はつかなかった。
 高等部からは生徒会にも参加せずに、余計無関心な目になった。クラブ活動もせず、受験に専念している白い顔は何かを犠牲にしているような感覚がいつも付きまとっているくせ、彼が犠牲にしていると思われるほど執着するものは見当たらなかった。
 日向はその若島津に執着した。

 たった十五歳だった日向を完全な男に変貌させたのは若島津だったかもしれない。
 そのとき何かが確かに動いた。関心の範囲を逸脱した何かだ。危ねェ、と舌打ちして、しかしそれは彼に易々と根づいてしまった。
 それなりに有名人の位置にいる若島津が、日向をしばらくして特別扱いしだして、周囲の評価には親友という名前がついた。若島津は相変わらずそこらへんには無頓着で、ただ時々日向を優先していることを態度に表わすようになった。結局高三の今の時点まで同室という関係を続けている。
 日向には正直云って、若島津がなぜ自分にそういった扱いをするのか解せないところがあった。実際、若島津がそれを、日向にも判るような態度で示すことは少なかったからだ。だが若島津にしろ、日向がどれだけ凶暴な独占欲を抱いているかは想像できないに違いなかった。
 若島津が女だったら。いやそれよりもここが寮という空間でなければ、もうとっくに若島津を強姦さえしかねない、そういった危うさまである。タブーも自制心も強いタイプで、加えてプライドも高い日向だ。自分と相手のことを合わせて考えて押しとどまっている、それだけだ。
 若島津の外見も、変に安定しているくせにエキセントリックな頭の良さも、日向にだけ向けて来る無防備な好意も、むしろ淡白な男だった日向に、暴虐の衝動を植えつけた。
 たとえ若島津が段持ちだろうと、その気になったら彼の手足の一本二本折ることになってもいうことを聞かせるだろう。日向は、自分の人よりたち勝った体躯を見てそう思う事がある。その気になれば。この攻撃の衝動は若島津を逃すことなくねじ伏せる。若島津という男のなかにはこんなに闘争的な嗜虐心はない。
 若島津健という友人を大切に思うことと同じ程も激しく、彼は若島津の苦しむ姿や、痛みに涙を流す様を想起するサディズムが、自分のなかに頭をもたげることを自覚しないわけにはいかなかった。
 あの煽情的な声が、愛撫や痛みに苦しませたらどれだけ刺激的に艶をおびるだろう。救いを求めてうるむ声を想像すると日向の成長した雄は熱く固くなる。若ければ若いだけ爆風のように背を押すその衝動を彼は鉄のような自制心で抑えつけた。
 コンプレックスには縁遠く、自己卑下というものを持たない男であったから、気後れしているということもなかった。ただ若島津を暴力で本当に犯してしまった時の、リスクの大きさを思うと自制せざるをえない。
 しなやかな痩せた身体を無防備に無造作に近寄せてくる若島津と、それが特権であることを意識するのは気分が良かった。まるで生殺与脱権を握っているような残酷な喜びを感じた。小動物を爪で抑えつけた肉食獣のように何時でも殺せるという充足感と、それを抑えていることへの自尊心が混じりあっている。
 誘惑を退けた夜が一日ずつ増えるたび、それは日向にとって己の力の象徴のようにさえなった。
 実際手に入れるつもりはないのに、無意識のうちに何時でも手に入れられると思っているようなところがあった。

 学校で、彼が若島津と一緒にいることは殆どなかった。
同じクラスになったこともなかった。学校がまつわっての比較的少ない記憶の中の一つに、高校一年のときの体育実技で、弓道をやったときのことがある。
 その年のクラスは、若島津が一ーAで、日向が一ーCだった。東邦学園は、高等部の体育に、実技と理論を組みあわせた特殊科目を年間数科目設置し、時には講師を呼んで学ばせる。その際、この特殊科目に限ってはひとクラスずつではこなし切れないため、二クラスずつの組みあわせでこれにあたらせる。AとCはその組みあわせの相方同士だった。
 弓道の授業が始まった際、まず東邦大の弓道部の顧問である教士に理論を一時間学び、次から実技に入った。見取り稽古は簡単に済まされて、百人近くがいっせいに弓を持つことになった。
 出席番号を前後から読み上げられて、十人が矢をつがえた。若島津も支給された袴をつけてそのなかに混じった。
もの珍しそうに弓の感触を試してみる少年たちのなかで、若島津は白い木綿の弓道衣から伸びた手首をまっすぐに垂らしたまま黙っていた。
 興味のなさそうな透徹ぶりはここでもやはり変わらなかった。
 ―――君は、やったことがあるの?
 教士がふとその静かな顔と姿勢に目を止めてそう尋ねた。実際そう尋ねてみたくなるような落ち着きであった。
若島津は無言で首を降り、先を促すように目を伏せた。
 教士は何か心残りであるように彼をちらりと見た。
 若島津は素質があるとでも云うのだろうか。
 その様子をまだ列のほうへ混じったままで見ながら日向はそう思った。
 初心者の少年たちは教士の見本を再度繰り返しながら、八節の射法をたどたどしい手つきでたどって行く。脚を踏み開いて、背骨をまっすぐに伸ばし、左右の手をそれぞれ弦弓に添えて、弓構えに入る。
 確かに若島津を見ているとその動きはなめらかである。
武道というものが根本のところでつながっているのだということは分かるような気がした。
 構えた位置から両のこぶしを同じ高さで掲げ、左右に引き分ける頃になると、少年たちはふざけ半分の顔ではなくなった。弓といったときの想像には遠いグラスファイバー弓だったが、弦を引き絞る感覚には体のたるんだ部分を、激しく一度たわめて引き伸ばし、爆発的に吹き飛ばす緊張感がある。
 彼らは一文字の矢をつがえたまま妙に厳粛な面持になった。あたりが静まる。若島津もそのときまでは同じ手順を静かに追っているだけだった。
 会に入り、的にむかって狙いをつけたとき、教士が、
 ―――前の的は鏡だと思って、己に向き合う気持で。
 そう云った時だった。
 若島津ばかりを見ていた日向は、頬を矢につけた若島津の目が不意にぎらりと光るのを見た。まだ『会』の状態でいるように云われていて、誰一人手を離していなかったなかで、重くつるが鳴る音がした。
 ―――?
 それに気づいたものが身をのりだしたなかで、若島津の放った矢は、数メートル先の的に驚くような勢いで突き刺さった。意外に重いドン、というような音が響いた。
 ―――すみません。
 彼自身驚いたように弓を降ろして、若島津は困惑して教師を振り返った。
 ―――気を付けないと危ないぞ、怪我をしたところは?
 ものが弓矢だけに、怪我をしたら遊びでは済まない。顔色を変えて寄ってくる教士に、若島津は変に弱々しく笑って見せた。
 ―――いえ、どこも。
 矢は、正確に的の中心に突き刺さっていた。何に向かって射たのだろう。日向は思った。彼らしくないいわばファウルで、中心から向かって右、つまり心臓の位置へ向けてわずかにそれていたのが印象的だった。


 若島津が不意に問題集をぱたりと閉じた。
「……」
 振り向いた日向に、若島津は手を振って見せて目を閉じた。
「……少し寝るよ…悪いけど、三十分たったら起こして」
 いいわけのように語尾を濁して、若島津は日向のなかの獣など思ってもみないようにゆっくりと寝返りを打った。
 目の調子が悪くなっているのだ。吐き気が続いている。
何度か吐いているのも見ていた。普段でさえ、二、三時間しか眠らないのに、寝転がって問題集を見ていることからおかしかった。能率が悪いからといってそんな姿勢で勉強するようなことはなかったはずだ。ましてやこんな時間に小休止を取るなどということは、若島津の体力からいって考えられなかった。
 こんなふうに悪い状態になっても、彼はどこか機械的に毎日のノルマをこなし続ける。
 受験期の彼を前にトレーニングに出かけ、スタンドをつけて机に向かう彼を背にして眠る毎日が続いている。自分の肉を喰い破るようにして眠らない若島津の姿は病的で、微熱を含んだ皮膚のように魅力的だった。
 少し見ただけでも若島津の状態が危険なものであることに気付いていても、日向は敢えて何も云おうとはしなかった。自分が若島津を判っているという自負が彼にはある。
いっそ自分しか若島津を救ってやれないところまで彼が追いつめられることを、むしろ彼は望んでいる。
 エゴイスティックで恐ろしく激しい恋だった。若島津が自分と同じ身体を持っているということさえ、彼の欲望の勢いを削ぐどころか、むしろ彼の蹂躪への願望に火をつけた。
 学生服の固い殻に包まれた甘い蜜に飢え、彼の肉体を傷付けた悲鳴を夢想して日向は飢えている。若島津が傷ついてのたうつ姿を見たいなどと思いながら、自らの手ではそれができないほど日向は彼に激しい恋をしていた。

 みしみしと骨がきしむような寒い朝が続くようになった。若島津のオーバーワークが目立つようになり、日向はその姿を食い入るように眺めながら、若島津の見ていると思われる自分の表情のうえではますます無関心を装った。
 十二月は猛禽類の嘴のように皮膚に銀色の掻き傷を作った。
 若島津は目に、痛みさえ感じるようになっているらしかった。病院には行ったが、眼精疲労と云われただけの事で、特に病気は見られなかった。
 それ以来彼は目のことを口にしなくなり、ただひそかに溜息をつくようになっている。疲労の溜息だ。呼吸器が目の疲れに呼応している。
「食堂行く……?」
 期末テスト期間で運動部の部活はない。いつもよりゆっくりと支度を始めた日向に、もう出るばかりの格好で若島津が声をかけた。
「ああ」
「じゃあ俺も」
 日向の支度にもう少し時間がかかると見て、若島津は単語帳を引っ張り出した。呼吸音をきいて、日向は眉をひそめた。
「熱あんのか」
「……」
 頬が微妙に帯びた熱を映して、いつもより血色が良く見える。呼吸が早くなっていてそれが日向の耳に届いたのだ。苦しさを口に出さない若島津に身体が抗議の声を精一杯に上げるように、この頃では若島津の身体には病熱や痛みやそんなものが大挙して押し寄せてきている。
「このくらいはたいした事ないから」
「こないだっからそんな調子だろ」
 そう云うと、若島津は、これだけは変わらない優しく濡れた薄い茶の瞳をゆっくり上げて微笑した。
「……へえ、気が付いてたんだ。最近忙しくて、こっち見てる暇なんかなさそうだったのにさ」
 不思議なのは、日向に対してはこれは皮肉なのではないのだ。若島津は日向には素直だ。それこそ気味が悪いほどに素直だ。
「露骨なんだよ、お前のは」
 日向は呆れたような調子を声に混ぜ込んだ。
「そんなんでどっか壊さなかったら、そっちの方がおかしいだろ」
「心配?」
 若島津は笑いながら云った。
「心配だね」
「嘘つけよ」
 時たま、彼はどういうつもりだか判らないこんな会話を日向としたがる。これも一種の煙幕なのかもしれない。
「俺のことなんか関係ないくせに」
 そう歌うようにつぶやく若島津の微笑は綺麗で、日向のなかに温度の高い塊をまたひとつ植えつけた。
 そう思いたいなら思ってろ。知らないくせに知らないくせにしらないくせにシラナイクセニ―――。どんどんと残酷になって行く塊。これが開放されることでもあったら大変だ。本当に殺してしまわないと誰が保証できるだろう。
自分の腕も胸も、三年前よりこれだけ強くなってしまったのに。日向はカバンをさらいあげて若島津を促した。
「ぶっ倒れんなよ」
「平気」
 若島津は少し不安定な足取りで立ち上がった。ここで自分の感情のなかに少しも異物がなかったら、若島津を支えるくらいはしてやるところだ。日向は、どこか自分に対して意地悪く考えた。そうできないというのも、そうできないということを意識するのも、自分のなかにこれだけ純粋に濾過された不純物があるからだ。世の中というのはうまくしたもの。
「日向はさ、このまま上の寮上がるんだろ。……」
「たぶんな」
「そうだよなあ。……」
 若島津は何か云い出そうとするように唇を湿した。その顔を凝視して、日向は又妙な違和感にとらわれた。中学卒業前と同じ事を若島津が云い出そうとしているように思えた。
 別におかしくはない。外側からみても若島津にしても、それをもし云い出しても今迄の自分たちの付き合いから云えば全くおかしくはなかった。しかし、なぜ若島津にとってそれが日向なのか、当の日向には全く判らなかった。
「お前、その変にきばる癖直せ」
「え?」
「だからさ。頑張りすぎる癖直さねえとさ、他とやってけねェぞ」
 若島津は不意に、疲れた目を見開いて日向を見あげた。
射抜くような視線の美しさに一瞬たじろいで、ガラス状にすきとおったセピア色の目から逃れようと身じろいだ。
「お前駄目か、俺の性格」
 語尾のソフトさが薄れてせっぱ詰まった声になっていた。
「どうした、お前」
「駄目なのかよ」
「……俺には悪くねえよ、お前のそういうとこ。……でもみんな俺と同じじゃねえだろ」
 若島津は唇を噛んだ。苦しそうに息を吸い込む。
「日向からみたら、俺なんて馬鹿みたいだろ。でもそう簡単に性格とか変えらんないからさ。……やってける奴探さなきゃどうしようもないし。もう、ずっとこうしてたから、これ以外のやり方なんか判んねえよ」
「馬鹿みたいって問題でもないけどな。……」
 他人の性格の話などを延々とするのは日向の好みではなかった。同時にそれが若島津の好みでもないことを彼は熟知していた。何か均衡が崩れつつある。目を壊したことが若島津を弱くしている。陶器のように揺らがない白い皮膚の下で何かが変わり始めている。
 若島津を手に入れられるかもしれないと不意に日向は思った。若島津は自分に依存し始めている。こんなふうに突き放すようにしても、若島津は日向を信頼している。それが何故かは判らなかったが、それは利用できそうな変化だった。
 二人分の人並み以上に高いプライドを両方無傷のまま、二人とも欲しいものが手に入れられるかもしれない。
 それには何より、若島津の真意を見せられないことには仕方がなかった。
「何焦ってるんだ。……」
 日向は声を低めた。優しげなニュアンスを声に含ませることなど、若島津の身体を前に耐えることより余程簡単だった。食堂に下りてゆく階段のうえで若島津は一時足を止めた。
「教養って言葉大っ嫌いなんだよ俺」
 目が。どんな風な時でも印象的なその目が、これほど優しい光を残したままだというのに、何か険呑に、それでいて蜜のような彩りで煌めいた。
「人間的にバカな奴はマジに嫌いだしさ。……文系の女が教養とかいってると吐き気するしさ。―――……こうやって、必死に、俺はその馬鹿に近付いてる……」
 その瞬間、若島津の中の危うさは、極限まで高まった。
日光を映して燦然と耀きながらうねる波の錯覚と、刃物のような高鳴りと。
 ゆらりと身体が大きくかしいだ。支える暇もなかった。
まぶたが唐突に落ちて、若島津は、階段に向けて崩れ落ちた。

 部屋に入ると、二段ベッドの下段で若島津は目を覚ましているようだった。緩慢に首を傾けて日向を見た。昼過ぎの光はまだ明るい。白っぽい日光のなかで彼の顔は曝されたように白かった。
「どうだ」
「……大分。授業どうした」
「自習。浅野が少し休めつってたぞ。テストまだなんだから明日も学校休めよ。……もう関係ないだろ、お前には」
「日向」
 若島津はベッドの中で半身を起こした。日向を見つめる。追いつめられた草食動物のような目をした。
「さっきな」
 日向はふと、その指先が小刻みに震えていることに気付いた。
「俺―――あの時、見えなかった」
「!」
 日向はゆっくりと若島津のうえにかがみ込んだ。無意識にその前髪を払う。まばたきもせずに日向を凝視する優しい色の瞳は外観上何も変わった様子はなかった。
「今は、見えてんのか」
 引っかかったようにかすれた問に若島津はうなずいた。
 若島津は発熱のせいで貧血を起こしていた。それで階段から落ちたのだ。幸い怪我はなく、手足に数カ所打ち身を作っただけで済んだのだ。日向は若島津を寮の部屋に連れ帰って、その後登校した。
「―――様子おかしかったけど。……」
「うん、部屋に帰るまでずっと見えてなかった。……」
 若島津の震えが大きくなった。自分の額に触れた日向の手を若島津は掴んだ。
「日向ッ……」
 彼は突然すがるように日向の胸に額をつけた。長い指が自分の袖口を掴んでいるのを日向は見下ろした。一瞬膨れ上るようにして、左胸で、心臓が重く大きく脈動した。
 ド、クン。
 鉛の塊のように、心臓は日向の上半身を引きずり回すように重々しくリズムを速め始めた。
「俺どうにかしてるッ……―――」
 遠くなりかけた日向の耳に、引き絞るように吐き出された若島津の呷きが入ってきた。どうにかしているのは日向だ。
 どうかしているというのは一体何の。
 若島津は震えながら日向の袖を掴んで動けないでいる。
彼の指の力に引きずられるようにして日向はベッドに座った。頭の片隅でしきりに、発火するような危険信号を発するものがある。このままではとんでもない事になる。気をつけろ気を付けろきをつけろきをつけろキヲツケロトンデモナイコトニナルゾトンデモナイコトニ―――……。
 日向は若島津の肩に触れた。髪に触れた。身体中が干上がったような高揚に彼は喉をゴクリと鳴らした。若島津は傍らに座り込んだ日向の胸にもう完全に顔を埋めて、彼にすれば何の意味もない動作で身を寄せてきた。未だ熱がある。身体が熱い。日向の糸が切れたのは唐突だった。彼は若島津の指を己から引きはがし、身体ごとすくい込むようにして抱き締めた。
「日向……?」
 若島津は事態を把握していない。自分の理由以上には動揺のない声で低くつぶやいた。耳元で近く聞こえたその生来の甘い声に、日向はたまらなくなって彼の身体を抱く腕に力を込めた。
「日向―――……!」
 若島津が喘ぐような声を上げる。
「……苦しい……」
 全身の筋肉の力を全部使って、日向は自分の身体を緊張させた。腕のなかの身体を離すことは、その力を緩めることすら容易ではなかった。
「苦しい―――……」
 その声は本当に苦しそうで、再び日向のなかに明確な危険信号を発した。日向は静かに息を吐き出した。一本ずつ指をはがすようにして若島津の背を離す。腕を掴んで、どういった理由でか小刻みに震え続ける身体を、ゆっくりと遠ざけた。
「若島津」
 平静な声を出すことに成功して日向はほっとした。若島津の目が潤んでいることに気付いてぎくりとする。抱き締めているときこの目を見ていたら自制できたかどうか自信がなかった。
「病院行くぞ」
 彼はもう一度大きく息を吐き出して、吸った。
 大丈夫だ。こうやって切れそうになる自制の糸を保つために必死になるのは何もこれが初めてではない。
「……―――ても……」
「……何?」
「病院に行ってもどうせ何も出てこない。……」
 若島津は首を振った。セピア色の瞳を妙に透明に瞬かせて呟いた。
「おかしいのは俺なんだ。……俺がおかしいから。……」
「お前何云ってんだよ」
 日向は総気立つような思いで若島津を見た。若島津がエキセントリックなのは今に始まったことではなかったが、確かに今の状態は普通ではなかった。バランスを崩した彼がまた自分のなかにテンションの高い欲を巻き起すことに日向は内心舌打ちした。日向自身も安定を失いかけている。
「いいから来いよっ、若島津」
 彼はその瞬間若島津の顔を凝視した。効果。影響力。
「一緒に行ってやるから」
 ささやくようにそう口にする。
 若島津は日向を見上げた。見上げた目は少し不自然な程長い間日向の視線と合わされた。日向の掌が動く。彼の手は先刻自ら引き離した肩口に又上がりそうな様子を見せ、ゆっくりと握られた。彼の昏い硬質の黒い目のなかで若島津の唇は何かを云い出そうとするように震え、無言のまま考えていることを知られたくない風に瞳を伏せ、うなずいた。

 近くの大学病院に駆け込んだのはもう一時過ぎで、午後の診療の受付時間は過ぎていた。急患扱いで診療してもらえることが決まったあとも二時間以上待ってようやく検査を受けることができた。
 眼科は特に混むんですよ、と眼科の受付に座った事務員はすまなそうに目を細めた。
 消毒薬の匂いのする明るい待合室で座って待ちながら、寒気がするのか若島津はコートも脱ごうとはしなかった。
膝のうえで所在無げに指を握り締めて口をきかない若島津を見ている。結局その二時間の間、彼らは殆ど一言も口をきかなかった。
 視力検査がひどく混みあっているとのことで、診療の順番が来てからもなかなか検査は終らず、結局しなければならない検査を半分も終えることはできなかった。
 ―――今日のところの検査では何も悪いところはないんですけどね。視力がかなり落ちてるけどね。ただそんなふうに霞むようだと他の病気の心配がありますから、二週間後にもう一度来てもらって、それでうちで何も出ないようだったら、内科のほうの診療を受けてもらったほうがいいかもしれないよ。
 診察室からようやく出てきて日向にそれを告げた若島津の顔は静かで、先刻よりも大分落ち着いていた。予期していたというような顔だった。時刻はもう四時を回っていた。冬の日差しはもうとっくに傾いている。病院の待合室を出たロビーに差す優しいオレンジの光のなかで若島津は死刑の宣告を受けたあとの人間のように青ざめて安らかな顔だった。長い間苦しんだ痛みから救われたように淡い呼吸を繰り返して彼はふっつりとうつむいた。
「なんにも出てこないだろ、たぶん。……」
 穏やかにすら聞こえる声でそうつぶやく。
「じゃあどうしたんだ、その目」
 日向は自分が威嚇するような目付きになっていることに気付いていた。彼は寮の部屋で、自分がはかった若島津のなかの自分というものに薄々と気付いているのだ。彼に対して今自分が要求しているものをまだ彼に気づかれてはならなかった。
 若島津が視線を落としたまま彼を見ないのはむしろ好都合だ。
「……」
 若島津は深い息をついた。
「もしかして何かあるのかと思ったけど、この分じゃ何もなさそうだなあ。……」
 日向は黙って自分よりもやや肩の位置の低い若島津を見下ろした。
「こういう事前にもあったんだよ、そのときは目じゃなかったけどね。……付き合ってくれて有難うな」
 何か金属質のものが舌を刺して、日向は眉をひそめた。
何か妙な手ごたえだ。妙だ。何か―――。
 若島津の目が違うのだと、彼は病院を出て歩いている最中に気付いた。何か幕を一枚隔てたように、若島津は日向をまっすぐに見ようとしなかった。これは自分以外の大部分に対してそうしているやり方と同じだと気付いたとき、日向は、何か深い臓腑のなかで蠕動する黒い塊の存在を再び意識した。
 今更だ。今更そんな都合のいいことを許しておくわけにはいかない。彼は若島津を知っていた。若島津を見ていたことがたった四年間でも、彼の家族にすら出来ないほどの陰惨な情熱を込めて激しかったことを、彼は自分の男としての部分で知っていた。
 遅いぞ若島津。
 彼は友人をいたわるような極自然な態度の下でゆっくりと自分の持つ牙を思った。
 飛行機の爆音が響いた。若島津はそれに弾かれたように曇った空をあおいで、疲れたように顎をひいた。
「お前、受験来年諦めたほうがいいんじゃないのか」
 彼は若島津の顔をゆっくりと覗き込んだ。
「はかどらねえだろ、それじゃどうせ」
「この間も云ったろ。……俺これ以外にやる事ねえんだよ。他のもんにも興味ないしな」
 若島津は低く答えて、その話を打ち切りたいように少し足を速めた。
「他にやる事ホントにねェのかよ」
「ずっとこれだったんだ。……」
 若島津は青ざめた顔で笑った。
「これ以外にないよ。……そうだな」
 若島津は怠そうに顔を上げた。
「お前くらい強烈だったらな。……」
 日向は不意に足を止めた。風は冷たく鳴って、彼の日に灼けた頬と若島津のそそけだった白い頬を叩いている。
「どういう意味?」
「だから……―――」
 迷うように若島津が笑う。爆音が通りすぎるのを待って彼は言葉を切った。
「俺がお前くらい性格強烈だったら、もうちょっと色んなことに何とかなるだろうにってこと。……」
「じゃあさ。……」
 日向はコートのポケットに手を突っ込んだまま彼を見下ろして優しげな声を出した。
「俺で手、打っとけよ。……」
 まるで早く寝ろだとか、学校を休めだとか、実際にはろくにかけたこともないような優しい、一般的な匂いのする言葉をかけるように優しく日向はつぶやいた。
 一緒に行ってやる、と、彼の顔をただ見たいためにかけた言葉よりもっと優しくそれは響いた。
「受験のかわりになるほどじゃねえか、やっぱ。……俺が強烈でも」
 最後に笑いをひそませる。彼がまだ迷うことができるように。騙された効果と衝撃が綺麗な和音になるように。
「何云ってんだよ」
 若島津は一瞬彼の言葉の裏の意味まで汲み取ったように思われた。目が若島津らしくないひらめき方をしたのを日向は確かに見た。(例えば、焦ったようにさえ思えた性急な『離れ』の際見せたように?)しかしそれはすぐに優しく曇って、安堵の色になった。安堵の色は化学反応のように怠そうな朽葉色に変わった。
「意味が違うだろ。……」
 いいや違わない。日向は答えずに薄く笑った。
 もどかしいような快楽が彼の心臓に繰り返して振動を与えていた。もう少し、もう少し。もう少し。
 もう諦めようとは思わなくなっていた。何が自分をこういう風に崩したのかは判らなかった。おそらく若島津が崩れたことが彼を崩してしまったのだ。
 若島津は彼に頼るべきではなかった。彼が無関心を装ったとき、他の人間を頼るなり、言葉で苦しみを表現してしまうなりすれば良かったのだ。
 繰り返しすがるように繰り返された視線が日向に許可を与えていることに、若島津が本当に気づかなかったのか。
日向はそれを焦げるほどに知りたくなった。
 そう。悪いのは若島津だ。
 若島津だ。日向は胸のなかで静かにそう繰り返した。

 寮の部屋に帰ったのはもう九時時分だった。帰り、若島津が気分が悪いと云い出して、電車にもタクシーにも乗れなかったのだ。
 ―――俺ひとりで歩いて帰るから。……
 しきりに先に帰れという若島津のそばから日向は離れなかった。病院のある立川から東邦までは、どんなに急いでも二時間は歩くことになる。彼らは途中で夕食をとった。
家族連れで賑ったファミリーレストランの笑い声や話し声、人いきれに若島津はやはり気分が悪そうにしていた。
禁煙席に座っても煙草の匂いが気になるのか、口元を抑えるようにしていた。
 ―――煙草やめたのか?
 以前彼が煙草を吸っていたことを思い出して日向が尋ねると、若島津はうなずいた。
 ―――こないだから、……吸うと気分悪い。……
 ―――目、壊してからか……?
 若島津は無表情に又うなずいて、今度は食事が運ばれてくるまで黙っていた。
 どうしても二人とも黙りがちで、食事を済ませてもあまり顔色の変わらない青ざめた若島津の存在を全身で意識しながら、日向は寮までの残りの道を、又少しゆっくりと歩いた。
「今日は悪かった。……」
 部屋に帰り着くなり、若島津はコートを脱ぎながらはっきりとした声でそう云った。
「期末前なのに、迷惑かけたな」
「……別に」
 日向はちらりと彼を一瞥して、壁にコートをかける彼に近寄った。
「―――……」
 首筋にかかった息に驚いて振り向こうとした彼を、日向は慌てずにゆったりと抱き締めた。
「日向……?」
 若島津の声が固くなる。日向は、つめたく冷えた若島津のうなじに顔を埋めた。しりしりと夜気の匂いがした。
「日向ッ……」
 胸に回された腕に力が篭るのを感じ取って若島津は押し殺した声を上げた。
「何だよ」
 日向は胸の手を大きく動かして、彼のからだの曲線を確かめた。掌の下で学生服のなかの彼のからだが震えるのを、日向はひどく甘美に感じ取った。
「判ってて誘ったんだろ。……」
「さ、そったっ、てっ……」
 この動揺。日向は快美感に歯を食いしばった。これだ。
日向のこの言葉は若島津にとっては紛れもない裏切りで、しかし言葉のうえでそれを若島津自身の裏切りにすり替えることなど、造作もなかった。
「強烈って、あれ、ホントにああいう意味だったのかよ。
……お前が、知っててやってたんだろ。……」
 日向は子供を扱うように驚きで声もでない若島津を自分のほうに振り向かせた。彼の手首を掴んで自分の彼への裏切りの象徴へ持って行く。はっきりと高い熱をもった雄の、若島津も当然知っているその感触に、若島津は真っ青になった。
「お前、自分で気がついてなかったのか、誘ってるの。
……そんな筈ねえよな、これ、だけじゃねえからさ、お前に振り回されてんのは……」
 日向は石のようにこわばった手を離してやった。
「こっちは中三のときからいい加減おかしくなってんだぜ」
 一言々々が計算済みだ。日向がこう繰り返せば、彼は自分の態度のなかに本当にそう云った面が一%も無かったかどうかを危ぶみ始める。日向に自分がそうしていると思われただけで屈辱的なはずだ。そしてそれは恐ろしく濃厚な羞恥をともなっているはずだった。
 そして若島津のなかにわずかでも思い当たることがあれば彼はもう完全に自分の手に落ちる。日向にはその自信があった。思い当たること、が若島津のなかに必ずあることは間違いなかった。
 罪悪感のエッセンスがあればどんな些細なことでも三大タブー並みの重さでのしかかってくる、それが若島津のようなタイプだ。
「面白がってたんだろ。お前はさ。俺は欲しくて堪まんなかったんだぜ。……」
 日向は何か貴重なものに触れるように若島津の顎を両手で包み、唇を近づけた。
「う、そだ……ッ、俺だ、日向じゃないっ……」
 若島津が日向の指を押し退けるようにして顔を背けた。
又指が伸びて追ってくるのを避けて身じろいだかれの膝ががくりと砕けた。
「違うっ……―――!」
「何が違うんだよ」
 畳に膝を付いた若島津のかたわらに自分も膝を付いて、日向は意地の悪い囁きを彼の耳に吹き込んだ。
「だからっ……―――」
 顔を上げた若島津はひどく青ざめたままだった。
「俺で終リの筈なんだ。どうして……日向、までッ……」
 若島津は日向の腕を掴んだ。
「お前はそうじゃいけないんだっ……」
「じゃあ、自分はどうなんだよ……?お前はって、どういう意味だよ、云ってみな」
 彼は自分の腕のなかに若島津の身体を引き寄せた。ぞくぞくしながら抱きしめる。
「本当のこと云ってみな。……」
「やめろよ……、お前は何も知らないんだっ……」
 若島津は彼の胸を激しく突っぱねた。片腕で口を抑え、嘔吐感の発作に幾度か身体を揺らせた。日向の心持ちはそれでも静かで、彼はもはや若島津を自分が手に入れたことを殆ど疑っていなかった。
「そりゃ知らないだろ。……お前は何も話さないんだからな」
 日向は薄く笑った。この冷笑が近頃の癖になっていた。
押し殺すことを続けて、自分も均衡を失っていることを彼は気づいていた。満たされることを全身が求めている。
 自分が形のうえでは口火を切ったということと、誘ったという言葉のキーワードの間でバランスは取れている。彼がもうこれ以上我慢する必要はなかった。むしろこのまま押し切ったほうが若島津のダメージも少なくて済むはずだった。
「云えって。……若島津」
 やんわりとした脅迫を優しく。
「若島津」
 日向は彼の顎に手をかけた。その顎の骨が自分の武骨なてのひらのなかでひどく細いことが、たまらない刺激になった。
 若島津はがくがくするように体を支え、顔を背けた。
「……俺自体の血がおかしいんだよ。……生まれたときからさ。……おかしいんだ」
「血?」
 若島津の血の気を失った指は畳のうえで小刻みに震えていた。
「血だよ。俺の両親は血のつながった兄妹なんだ。……俺は異常、な血をかけあわせて生まれたんだ。……」

 若島津健の実父である若島津結城は、母親を六つの時亡くしている。
 祖父の豪章はそのとき未だ四十三歳の壮年で、後妻として、外に囲っていた京元淑江という女を正妻として迎えたのだ。淑江には鈴会という二つになる女の子が居た。
 結城は鈴会と兄妹として一つ屋根の下で育てられることになる。結城のすぐ上の姉はもう十歳にもなっていたし、更に上の兄は二人とももう中学生になっていた。三人の兄姉は妾であった後妻とその娘である鈴会を嫌って、殆ど寄り付こうとはしなかったが、結城はまだ物心もつくまえのこととて、それほど分け隔てを感じることもなかった。
 本妻であった実母よりも遥かに若い淑江は優しい女だった。先妻の珠緒に比べれば家柄も良くはなく、女学校しか出てはいなかったが、本を読むのが好きでこまやかな心遣いをする女だった。
 結城が、淑江と父・豪章の娘である鈴会を、女として愛するようになったのが何時だったのかは判らない。
 娘盛りになっても。鈴会の縁談は出生のためもあってなかなかまとまらなかった。兄妹というよりは幼馴染みのようにして育てられた鈴会と結城が恋仲になってもさほど不思議ではなかった。
 二十一になった鈴会の腹には結城の子が居た。
 異母兄妹とは云え、れっきとした同じ父をもった兄妹である。淑江が娘の妊娠に気づいたとき、もう堕胎のできる月ではなかった。
 先妻の子である三人の兄姉に特に気づかれないようにするには離れた場所で子供を産ませてしまうしかなかった。
 鈴会は男の子を産んだ。
 淑江が相談を持ちかけたのは、鈴会や自分に最初から懐いた若い義甥の夫婦だった。結城にとって従兄弟にあたる若島津尚人は、親から病院を受け継ぐことの決まっている長男だった。優しい義理の伯母は、彼が物心つく前に嫁いできた。豪章の弟の病院を受け継ぐことの決まっている長男の彼には、伯父の豪章の息子たちや娘たちの間の確執には関係がなかった。
 そのおり、尚人はもう三十二歳になっていたが妻との間に子供がなかった。
 叔母のせっぱ詰まった要望に答えて、生まれた鈴会の息子は、名前も実の両親にはつけられず、一回も父親の腕に抱かれることもなく、尚人夫婦の実子として引き取られることになった。
「いっそのこと捨ててくれれば良かったのにね」
 若島津はそこまでをとぎれとぎれに語ることもひどく苦しそうで、一瞬ごとに後悔しているように細い眉をひそめながら、己の指を握りしめた。
「こんなこと思ってるなんて今の親にはすげェ失礼な事だって判ってるよ。大体、精神異常かもしれない子供を引き取る自体、医者の家じゃ普通考えられない事だろ。……それが中二の時には、俺に病院を継がせるとまで云ってくれた。……」
 若島津の表情にわずかに温かい光が宿った。
「誰に聞いた?ホントの事」
「道場やってる次男の伯父だよ。叔父がどうして知ったのかまでは俺は知らないけどね。……伯父もそれまで知らなかったらしくて、俺はゴミみたいな目で見られた。何しろ伯父は鈴会叔母が嫌いだから。……」
「……間違いない話か、それ」
「聞かなくてもいずれ判ったよ、何しろ俺は両親のどっちにも似てなくて、気味悪いほど鈴会叔母にそっくりだ。特に目が―――……」
 鈴会に似ていると彼の云うその色の淡い目が、うつろになった。
「すぐに道場やめて……―――でも、自分がどこかおかしいんじゃないかって……」
 若島津は荒い呼吸をした。
「伯父は―――怖かったよ、俺に喜んで空手を教えてくれた伯父だった、それがあんなふうに変わるなんて―――」
 若島津がそのことを、伯父に聞かされたのが、中学二年の時だった。
 当時彼が、空手において神童に近い扱われ方をされていたことが、若島津の少ない言葉から察せられた。
 そんな賞賛を浴びせられるまでもなく若島津は空手が好きでやめるつもりはなかった。医者になっても続けようと思っていたのだそうだ。
 伯父は、従兄弟の天才的な息子をかわいがっていた。医者である尚人夫婦の息子が、ひとり息子で跡取りでなければ、自分の道場を継がせたいとまで云っていた。
 それがどんなきっかけで、彼の素姓を知ったものか、従兄弟の息子だと思っていた健が、誰よりも嫌っていた異母妹と弟の間にできた甥だったのだと知ったとき、彼は半狂乱になった。
 おそらく大きすぎる家柄、財産分配。そして物心ついた時から苦々しく思っていた父の浮気相手が、後妻として正式に迎えられることになったときの衝撃を、そのまま甥にぶつけた形になったのだろう。
 ―――やっぱりお前はあの女の血筋なんだ……っ。
 伯父は、仁王立ちになって顔を歪め、彼を見下ろした。
 ―――小父さん?
 ―――いつの間にか入り込んで、俺の道場にまで……!
 実際の話、それはまったく筋違いな話で、尚人夫婦がためらうのを、自分のところで空手を習わせろといって、半ば強引に誘い出したのは伯父だったのである。
 しかしその事さえ、彼の苦い怒りを誘うようだった。
 ―――小父さん……!
 伯父は、自分が与えた道着を甥の手から奪い取って、引き裂いた。驚いて止めようとした若島津は、力まかせに殴りつけられた。
 稽古をつけてもらったことは勿論あっても、殴られたことなどなかった。伯父と彼は、まるで親子のように仲がよかったのだ。
 聞かされたことと、伯父の手酷い拒否の衝撃に放心状態になって眼を見開いた彼を残して、伯父は道場を出ていった。
 そのあと彼が空手を続けられたはずがなかった。かわいがってくれた伯父に教えられてどんどん上達していった空手である。まるで親子のように―――。
 若島津はその様子をぽつりぽつりと口にしながら、そのときと同じ痛みを感じているように眼を見開いていた。危険な雰囲気だった。均衡のひどく崩れかけた眼だった。
 日向はさすがに驚いて、その青ざめた顔を見詰めた。ひどく平均的か、そうでなければ苦しいくらいの家庭に生れた彼にはまるで縁のない話である。
 確かに異母妹と末弟の間の子供といえば薄気味の悪いこともあるだろうし、色々と思うところもあるだろうが、それまでかわいがっていたものがそこまで豹変しうるものだろうか。
 やはりいずれにせよ常軌を逸しているとしか思えなかった。
 若島津は毒を飲み込んだように体をこわばらせていた。
「そのときから怖くてたまらなくなった。生き物は、おなじDNAを持った同士では惹かれないように出来てるはずなんだ。特に人間は、ちゃんと……若島津の血が狂ってるとしか思えない、そんな事を知らない動物だって血のつながった同士じゃ番わないのに。……俺の血にそれが凝縮されてるって思ったら、たまらない。……」
 日向が聞いているかどうかも、もう判っていないようだった。
「俺はずっと従姉妹の蜜恵が好きだった……、でも、蜜恵は……結城叔父の娘なんだ。……」
 日向にはようやく若島津をぼろぼろに突き崩すものの全貌が見え始めた。若島津の指は真っ白になっていた。貧血を起こしているようだった。
「蜜恵は従姉妹じゃなくて……」
 若島津の囁きは小さくなって彼は吸い込まれるように少しの間沈黙した。
「そのときは耳だったよ、日向」
 こんなときにも若島津の声は己を嘲っているように甘く絶妙のなめらかさだった。
「綺麗に聞こえなくなって、俺はそれを両親に隠し通したよ。部屋に閉じこもってさ。―――……何処の病院でも原因は判らなかった。それは一か月しか続かなかったけど……蜜恵に対して気持が冷めた途端、嘘みたいに直ってくれたよ。蜜恵には本気じゃなかった。一か月で消える程度だった。……こ……」
 息苦しいように若島津は云い淀んだ。
「今度のは、長いな。……もしかして、もう駄目かもしれない。……」
 日向のなかで、しきりに哭いては開放されたがっているものが再び猛々しい叫びを上げた。
「れっきとした精神異常だろ。結局の話、俺はまともじゃない……。だからお前のは違うんだ。お前は間違ってる、そうだろ?」
 若島津はすきとおった―――それは日向が今迄にも見たことがないほど―――美しくうつろなセピア色の虹彩を彼に向けた。その中心で瞳が黒く光っているのを日向は芒然としてみつめた。
「きっと俺がそう仕向けたんだろ?だったらそれは俺がおかしいだけなんだ。お前は付き合うことねえよ、な?」
「若島津」
「お前そう云っただろ」
 若島津の青ざめた唇に、筆で描いたようにすっと笑みがのった。
 日向はとんでもない誤算に内心戸惑った。若島津のこの顔は確信犯のそれに近い。何もかも判っていてやっているのか、それとも本当にそう思っているのか区別が付かない。そのどちらとも取れる顔つきだった。
 日向は思案した。下手に考えないほうがいい。若島津には理屈が確立している。何を云っても変えることはできないだろう。少なくとも彼が今一時も早く若島津を手に入れたい、その間には。
「どうする?責任は」
 日向は彼に手を伸ばした。髪に触れて、次に頬に触れる。
「俺の?」
「俺のだよ」
 耳元に口をつける。
「要するにお前の目が悪くなったのは俺のせいなんだろ。
その責任だよ」
 唇をつけた耳から彼の身体を走り抜けた波を感じ取って日向はニヤリとした。結局自分にとっては彼は手に入れたい、それだけのことだ。彼がどういう過去を持っていようが関係ない。
「参考書代りの退屈しのぎくらいにはなるぜ。……まあお前の責任も半分はあるけどな。ガキは出来ねェから、その責任は取らずに済むぜ、少なくとも」
 日向は低く笑いながら若島津を残酷に抱き締めた。
「お前も俺もさ―――」
 若島津が震えている。彼の腕のなかで震えている。全身で拒んでいる若島津を抱き締めることへの陶酔で日向は彼を本当に殺しかねない、あの暗い衝動を又抑えつけなければならなかった。
 若島津は髪の先も指も、蝶の羽のように華やかで優美だった。白くてしなやかで、喉を締め付けて本当に殺したらどんな風だろうと、繰り返して思わずに居られなかった。殺すより生きて苦しむ彼の姿にこそこの甘美な殺意が効らくのだと日向は判っていた。判っていながら脳裏に夢想を弄んでそれを実行に移したがっている自分の指がある。
「……て……」
 不意に若島津は声を詰まらせた。
「どうして―――いっそ殺してくれればいいのに。……」
 日向はその妙な符合の一致にぎくりと息を止めた。ゆっくりそれを吐き出す。
「馬鹿野郎。そんな勿体ねえことするかよ。……」
 夢想を弄んで。彼は、実際の甘い暴力に取りかかった。


 ―――原罪<The original sin>の前では副次的な言葉
 や行為の過ちなどたいした傷を残さない。根の浅
 い怒りや後悔を残すことがあってもそれは必ずし
 も排除すべきものではない。傷ついた記憶を持た
 ない人間の精神ほど未熟で醜い歪みを持ちやすい
 ものはないからである。しかし原罪によって定め
 られた傷はその人間のうえで一生消えぬ膿を残し
 時には死に至らしめる。苦しむものを見て鞭打っ
 てはならない。その罪の中身を尋ねてはならな
 い。己にできると思うことでその贖罪に報いてや
 らなければならない。他人の罪を許すことも又己
 の罪をあがなうことにつながることと覚えぬうち
 は、罪の苦しさを真に知っていることにはならな
 い。
 また、罪に怯えるひとを愛さぬひとは、心持つ人
 と生まれたからには己すらも愛する権利を持たな
 い。傍らに立つものを好んで持たないものこそ
 が、創世の世からさかのぼる最も深い罪の持ち主
 なのである。


「っ……」
 若島津の胴体を強い腕で巻き締めている日向は、彼の身体に走る微妙な震え一つも逃すことがない。黒い布に包まれたままの若島津の上半身を戒めたまま、膝を折ってくずおれた若島津の足の間を日向は繰り返し、意地悪い丁寧さで探っていた。膝のあたりまで降ろされたズボンが自由を奪っていて、却って身動きもできない。
 その身体に執拗に日向は繰り返して波を送り込んだ。目を閉じて顎から喉へ引きつらせるように力を入れた若島津の顔は最近見たことがないように紅潮して艶っぽかった。
「退屈じゃねえだろ……?」
 わかりきった問。いっそ若島津がこのまま失明したとしても、日向は一向に構わない。この激しい執着がそうそう短い時間でついえるとは思えない。重くて厚みのある執着だ。自分のせいで失明したなら、自分の腕のなかに居て又見えるようにしてやることくらいは容易いように思われた。
 罪悪というには小々甘美すぎた。最初から罪とも思わなかった。傲岸で未だ世の中を恐れることを彼は知らない。
差別の冷たさも喪失の痛みも悪い形では知らず、ごうごうと天へ伸びる焔のように真っ直に男へ移行した少年だ。
「苦し……」
 若島津は身をよじって日向の腕から逃れようとした。そのまま深く抱き込まれて呼吸を詰める。日向の指はもう、若島津のもので濡れている。濡れてさめるどころか、その凍り付くような部屋で身体は熱くなるばかりだ。
 濡れた指が自分のうえで動くのを若島津は殊更にはっきりと感じているようだった。
 手は撫でるようにして皮膚のうえを動いて、奥のほうへ這った。自分の熱から日向の指が離れて息をついた若島津は身体を強張らせてうめいた。
「ちょ……っ……」
 濡れた指はタイミング良く彼のなかに飲み込まれて、次の瞬間すごい力で締め付けられた。
「……あ、い、やだっ、……」
「どんな感じ?……」
 耳に息を吹き込む。もう遅いぞ。そんな恐喝を込めて幾度も甘く、こういった問の答えを彼は先刻からずっと若島津に強いている。被害者でいようとする若島津に逃げ道を残さないように。
「気分悪い……っ」
「ほんとかよ」
 内側で指を動かす。若島津の温かいそこがわずかに緩んだところを見計らって深く、指を差し込む。
「あ……」
 若島津はがくんと首を垂れた。背後から抱き締める日向から逃れたいように前かがみになる。
「ん……」
 日向の指に、腕に、うなじに埋めた唇に若島津の嘘以上の感覚が伝わってくる。幾ら拒んでも若島津はこれだけ受け入れている。
「ほんとの事いえよ。目、開けてさ。……」
 日向は胸を抱いていた腕をそろそろと上げて、若島津の顎を掴んだ。髪をかきあげてやる。頬を掴み、傾けさせて自分のほうへ向ける。
「目、開けろよ。……」
 指を動かし始めると若島津は余計きつく目を閉じる。
「お前の目、綺麗で好きなんだぜ?……そのくらいしろよ……」
 まぶたが震えた。濡れた睫がゆっくりと開いて、赤くなった目がようやく日向を映した。痛み持て。身体のなかに痛み持て、痛むことしか知らない彼だ。草食動物のまなざしだ。
 人を喰らう事さえ許される世なのに、ましてや彼自身の罪でないことでこれほど苦しまなくてもよかったのだ。肉体を撫ですぎる快感に震えながらも、痛みの切っ先に焼かれながら焼かれながら、焼かれながら。
「好きだろ、俺のこと。……若島津」
 日向自身もさして余裕がない。声がかすれる。
 抱き締めて膝で深く両足を割ると、若島津は又目を閉じた。あのいたみのまなざしは覆い隠されてしまって、そこには快感に震える唇と睫しか残らなかった。
 彼のなかに半ば強引に押し入ると、若島津は片手で口を抑え、叫びを噛み殺した。
「……平気か……」
 思ったよりずっと抵抗は強く、千切るように締めつけて拒む若島津に、日向は汗をにじませた。彼の指にも妙に強く力が入っている。それをゆっくりとゆっくりと解いて、若島津を楽にさせてやるための愛撫を緩やかに加えた。そして未だ一度も触れていなかった唇へ、彼はようやく自分の唇を近づけた。
 吸い取る。甘い。
 下肢の動きを性急にしないように気をそらそうとしてむさぼるように口づけて、舌を絡ませたとき、日向は初めて口をきかない若島津を手に入れたように思った。

 行為の最中もつけたままだった服を脱いで、若島津はぐったりと着替えの服に袖を通した。頬を涙が濡らしていることにも気づかないようだ。日向は腕を伸ばして、彼の頬を拭った。立っているのがつらそうな彼を引き寄せて抱き締める。唇を重ねると、若島津はわずかに答えてきた。
離れると若島津は静かに日向の肩口に顔を埋めた。
「もう、嫌だな。……」
「そうか?」
「好きだよ。……好きだ」
 若島津の肩が震えて、彼は日向の首に両腕を回して抱き締めた。
「……好きだ……っ……」
 温かいものが首を濡らした。
「だからもうこんなのは嫌だ。……こんなふうに。……」
 必死に嗚咽を抑えつけようとする努力が震えになって彼の背中を揺らした。
「日向と寝ることじゃない。……」
 日向は若島津の背中を撫でた。
「横になれよ」
 歩こうとしてよろめく彼を支えてベッドの下段に横たえると、若島津は静かな視線を日向に投げた。瞬く先から涙が転がり落ちるのをみて、日向は不意に胸に痛みが走るのを感じた。彼が一番苦しんでいるときにさえ感じなかった罪悪感にそれは似ていた。

 ―――また罪の痛みをもってあがなう人を愛し、愛する
 事によって人の荷を負ってやることも出来る。己
 にとっては犠牲として成立しないそれを、互いが
 犠牲として感悟することが救済につながるのであ
 る。こうして生死を繰り返すなかで原罪は昇華さ
 れ、ついには無辜の闇に帰る。絶対的な罪など、
 もう聖書のなかにしか存在しない。しかし絶対的
 な罪を人が犯しうるということ、かつて絶対の罪
 を犯した人間が存在したことを忘れてはならな
 い。だからこそ人には記憶とともに嘘の苦み持つ
 舌が、心臓とともに痛みが存在するのである。
 
 Y・S

 ―――本当、生きていくのに何の苦労もないからさ。これくらいのことで苦しんでるんだって思う事もあるよ。時代が時代なら生きてられるだけで僥幸なのかもしれない。
罪の子、が殺された時代だってあっただろ。
 若島津はそう云って、日向に弱々しく笑った。
 ―――今の親も、本当の親も苦労人じゃないからな。俺の根性叩き直す余裕もなかったんじゃないか。だから自分で叩き直さなきゃいけないんだって判ってるけど。……
 ひそめた眉。すきとおった目。何も変わらずに苦しみを映したままで、それでも若島津は生きようとは少なくともしている。楽に生きることはできないかもしれない。それでも取敢えず、養父母を失望させないために受験勉強をし、社会の規を越えないために日向を捨て去ろうとした。
 ―――自分の不幸が一番になっちゃうんだよな、あったかい時代だからさ。……ほんとは一生と相対化すればちょっとしたことで、一瞬苦しいだけなのかもしれないのに、その瞬間世界が終るみたいに。……
 辛そうに眉をひそめた若島津がまた泣くのではないかと思って日向は、無意識に彼のまぶたに手をのばした。それはもう乾いていて、日向は何か高い内圧につき動かされて若島津のまぶたに口付けた。
 ―――だから、甘やかすなって……っ……
 本当に見えているか。
 そう尋ねようとして、日向は妙に臆病になってしまった自分に気づいた。荒々しくそれを隠すように抱き締めて、けれど羽毛で触れるように若島津のまぶたや目元に口付けた。見えているか。あの目は本当は何も見えていないのではないだろうか。日向の欲望も、己の血の色も、本当にそんなものをみて来たにしては綺麗すぎる目だ。
 日向の男を誘う身体、罪の血を流す身体、なのに瞳を開いた途端彼の印象は一変して優しげにけむる。
 ならなぜあの許容の瞳は自分自身だけを許せないのだろう。それはあの視線が内側に向いて、あの目に映っているのは己の存在の罪だけだからではないか。
 本当に彼は何もかもが見えているのだろうか。
 日向は、不意に、学校内にしつられられた的のまえで脚を踏み締めて弦を引き絞り、的をねめつけた若島津の姿を想起した。
 あのとき教士は何と云ったのだったか。
 確か教士は、自分に向かい合うつもりで射ろといったのではなかったか。的を鏡だと思えというような意味のことを云ったのだ。
 教士にすればもっと他の意味があったのかもしれない。
例えば矢を的にあてるということは、自身の視線が自分の本質に届くというような意味であったのかもしれない。
 しかし若島津にとって自分自身というものは、最も向かい合いたくない、しかし向かい合わずにいられない苦い相手だ。最も抹殺することを望んだ己の本質。
 先走って矢を放った若島津は何を射たのか。
 あの徹底的な自虐にさらされた若島津の乾いた貝殻のような美しさが、日向の暴力的な衝動の決定打の一つとなった。わっとふりそそぐようにあの光景は鮮やかだ。弦がなり、半ば茫然としたように心臓の位置に刺さった矢を視つめる若島津の姿は、薄れるわけもない。
 若島津にとって、世界と自分を相対化する事の困難は、もっと痛みに鈍感な人間の比ではない。
 彼を冷たいと思った自分の評価が必ずしも間違ってはいないことに日向は気づいた。冷酷という意味ではなく、若島津は人の体温を持たないのだ。
 人の体温をもつことを激しく嫌っているのだ。
 不意にはっきりと見えてきた若島津の内側に日向は戸惑った。そうして自分のなかでも何かが変化している気配に戸惑った。
 自分のなかで変化しているものにたいしては、未だそれはもやもやと形がはっきりしていない。判らないことのほうがむしろ多かった。
 彼の目はどうなるだろう。彼にとって、日向の存在はやはり罪悪だろうか。大きな病巣を精神に抱えて、血を流す傷口は少しでも小さくなるだろうか。このままもし彼のめがみえなくなったら。

 若島津は眠り始めていた。疲れて青ざめた顔を見る日向はまた衝動に駆られて彼のまぶたに触れた。ここに全ての鍵が隠されている。日向の恋もここに閉じ込められた。
 しかし未だ、孵化を目前に未だ不安定な羽根をもがいている生き物の存在を日向は気づいていない。悲劇の幕を降ろす方法を模索して、それが己のためよりも相手のために変わり始めていることに彼はまだ気づかない。
 日向が魅かれた視線のようにひっそりと、その未だ弱々しい生き物は彼の眼前に閉じられたまぶたのなかで眠っている。
 それは彼が自分で思っている恋よりも、多くは愛情という名前で呼ばれている。胸騒ぎとなってゆっくり息づきながら、瞳と新しい幕が開くことを待った。
 日向は僅かに唇を噛み締めて、彼の明日が眠るまぶたを眠りを醒まさぬようにそっと撫でた。

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