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FRIEND(1992年)

01 05 *2011 | Category 二次::C翼(後期)・日向×若島津


続き





 雲をつき抜けて降りて来た日本は、雪催いの曇りぞらだった。今年は特別寒さが厳しいと聞いた。去年は珍しく、東京にも年内に雪が降ったが、また今年も降るのだろうか。
 日向は、視線を足元に落として、誰にも会わないうちに空港を抜けようと早足になった。
 日本でなまじサッカーが普及し始めたためであると思う。
向こうでも観光客らしい日本人の二人連れに、空港で声をかけられたし、飛行機の中でもひとり話しかけられた。報道関係者に帰国したことを知られたくないのだ。名目上は故障中なのである。こんな風に歩いているのを見られて、要らない部分で勘ぐられては面倒だった。
 日向は煩わしい思いで成田空港のロビーに抜けた。出迎えの人間たちがちらほらと見える中を、まっすぐにタクシー乗り場に向かう。
 今成田を出れば、夜には向こうにつくだろう。彼に会って、日本での予定はまずはそれからだ。
 そのとき、彼の背中を、柔らかな気配が撫でた。
 これは一種独特の雰囲気で、自分が彼に感じるだけなのか、彼も自分に感じるものなのかは解らない。しかし、明らかに彼の気配があって、日向は驚いて振り返った。
 今日到着する時間は知らせたが、彼が迎えに来ているとは思えなかった。彼は今日は仕事でまだ職場にいるはずだ。
 人波のなかから、背の高い、長い髪の男が自分に向かって真っ直にすりぬけてくるのが見える。
 彼である。見間違えるはずはなかった。
 若島津は微笑して手を上げた。急いで歩いてきたらしく、わずかに血の気が差している。そのせいか、かすかに赤い唇が開いた。
「日向さん―――」
 日向は立って彼を待った。若島津の髪が伸びている。半年ぶりに会うのだ。少し痩せたようだった。
「学校の方はどうしたんだ」
「生徒は試験休みで、教師は半ドンなんですよ。終ってすぐ飛んできたんですけど、間に合ってよかった」
「悪いな―――そのまま行くつもりだったんだ」
 若島津が彼の腕にわずかに触れた。
「初めての帰国でしょう? 迎えに来たかったんですよ」
 日向の、ひややかに整った顔に、おそらく親しいものにしか解らない程度の表情が動いた。
「疲れてるでしょう。どうしますか、今晩」
 若島津はおだやかに尋ねた。
「もし良かったら―――うちに来ますか」
 日向は溜息をついて笑った。若島津の声を聞いていると落ち着いた。それが帰ってきた実感になった。
「良かったらも何も、判ってるだろ」
 若島津は静かに微笑した。その微笑の一見無防備な清らかさに日向は正視し難い思いをする。しかし、その内側が硬くこおったように静かに透き通っていて、自分の手でさえ犯せないのも知っている。
 慣れない外国で暮しながら、熱く固くこごって緊張した神経の糸が、清冽な水をくぐったように引き絞られるのが解った。
 柔らかくときほぐされるわけではない。
 けれど、若島津と一緒にいる自分を、日向は嫌いではなかった。
「明日は休みですから」
 若島津は日向の手にかけた指に微妙な力を込めた。彼も、こんなふうな親しさをそれほど誰にでも見せる訳ではない。
「じゃあ、帰ろうぜ」
 互いの家に帰る、と云える関係をなくしたくなかった。離れていれば不安になることは無論あった。
 だから帰ってきたのだ。

 日向小次郎は気性の冷ややかな男だった。それを冷たいと取る者もあるし、傲慢だと取る者もある。どちらと云ってもさしつかえはないのかもしれなかった。自分以外の者、自分と血がつながっていない者への興味が薄かった。
 彼は、いつも骨のきしむような思いをしていた。その狭さは、物理的な痛みを伴うことさえあった。
 彼の骨格が、彼の肉体を突き破りそうにきしんでいる感触さえあった。
 日向の骨格は東洋人のイメージをはるかに越えた靭さを持っていた。腕も脚も長く強くのびて、だから彼の身体を包む、重い鉄のような筋肉は、威嚇的でこそあれ、誇示するような不様さがなかった。
 性質をうつして、厳しく冷たい男の貌になった彼は、鎧うように親しみにくい気配を放っていた。
 それでも彼の周りに人が絶えることがなかったのは、彼が自分の力を奢るようなことを口にしなかったこと、そして彼の、自分の目指すものを自分のものにしようという、おそろしく強引なエネルギーが強く人を魅きつけたからであった。
 そして、それに加えて、彼のそばに優秀で献身的な調停役がいた事も、彼に近づこうと思う人間を楽にした。
 若島津健の風貌が変わったのは、日向の風貌が変わった時期と一致する。
 日向には、高校に進学して二年目には、外国のプロチームからの打診が入り始めた。日向は、卒業と同時にプロ入りしたかったのだ。しかし、学園側は彼への勧誘を一切シャットアウトし、大学卒業まで特待生として在籍しない場合、多額の違約金を払うことを要求した。
 高校二年の夏頃だ。精神的にもまだまだ不安定で、そのとき、日向は、信頼していた親に裏切られたようなひえびえとした確執を胸のなかに抱え込んだ。
 学園に対して義理を感じたこともないわけではない。それに、その時点で契約金が、違約金を払い切れるほどの多額に昇る保証はなく、国外試合でのさしたる実績のない少年は、学園側の要求を飲まざるをえなかった。
 確証のない金をあてにして、残る学園生活を針のむしろの上で過ごすには、余りにリスクが大きかった。
 日向の顔は険しくなり、きつくなった。周囲の、特に優しさや思いやりの類の感情に対して、強い拒否反応を示すようになったのはその頃だ。普段はそれほど目立たないのに、そういった感情に触れた途端、石のように固い表情を見せるようになった。
 氷を一枚はった印象の、近寄り難い冷たい顔の青年になった。
 その頃も、ずっと彼と親しかったのが若島津だ。
 若島津は反対に、中学生時代から、高校の前半にかけては無口で表情に乏しかった。なまじ顔立ちが、触れ難いように端正であるから、冷ややかな印象を与えることもあった。
 しかし、頂度日向が周囲に対して拒否の感情を剥き出しにするようになったとき、若島津がぬぐい去ったように良い意味で鎮まったのだった。
 彼は大概の人間に肌触りの柔らかい物腰で接するようになった。目の表情もたいていおだやかであたたかかった。しかし日向のことが絡むと、鮮烈に美しい目をするようになった。それは彼の持つ数少ない激情の煌めきだ。
 彼の温かさは、特に親しい友人である日向に向けられることは多かったが、しかし他の友人たちにも例外ではなかった。以前惜しんでいた言葉を惜しまないようになった。
 おだやかな低い声で、ゆっくりと、正確な表現を選ぶようにして話すようになった。
 それが日向の感情の発露の不足を、周囲に対して補う意図があったのは確かだ。
 若島津は、昔から日向のためには無償で自分の意志を犠牲にした。いや―――むしろ、日向のために犠牲にする形になることが、彼の意思に添っていたのかもしれない。
 日向が、それを知らなかったわけではなかった。若島津はそれでも肩の張らない友人だった。彼は元々、必要以上に言葉を作る気質でなかったから、日向の環境的な不自由にも、同情めいたことなど云わなかった。
 そのくせ、中学卒業の年には、個人練習のために無断で長期休部をして監督の不興をかった日向が、試合に出られるよう、監督に膝を折って頼んだのも若島津だった。若島津が才能があるだけではなく、形としては体制に対しても柔順で、優秀な生徒であったことが、友人である日向をも、連鎖的に楽にしたのは間違いなかった。
 しかし、若島津の心臓の奥で、決して壊れないダイヤのように硬質に透明に燃えさかっているものの温度が、一見した印象にくらべて、どれだけ高いものであるかを、日向はよく知っている。
 そこに自分が激しく魅かれていると知ったのは、彼自身が落ち着いてからだった。
 日向と若島津は、ある意味ではよく似ているのだ。外側に表われる形も、表面的な気質も、言葉の選び方から外見さえ正反対と云っていいほどかけ離れているのに、どこか自分の信じるものにしか自分を賭けたくないところの、その強情さがよく似ているのだった。
 しかしそれは、日向がこおりついたため、若島津が己をより、まろかすかたちで、ふたりのあり方がかけ離れた対象形になるよう磨き上げたのだ。いま、おそらく彼らを似ているという人は少ないだろう。
 日向は、若島津が自分と同じ進路を取れなくなったと知ったときの、絶望に似た黒いものを覚えている。
 彼らが大学三年の時、若島津がサッカーを断念した。
 予期していたことではあった。肩の故障である。高校の終りには、殆ど秒読み状態になっていた。
 しかし、治療によって治癒する可能性がないわけではないとも云われていた。若島津は自分の体調について決定的な結果が出るまで人に云わない。それはほんの小学生の頃から変わらない彼の習慣だった。
 だから、彼が大学に上がってきたとき、彼がどの程度悪いのか、時々悪そうにしているのが、単に習慣的になった痛みなのか、段々に状態が悪くなっていっているものなのか、実際には日向には判らなかった。
 若島津はいつも、事実を改変できない決定打として突きつける。それは本人も自分の悪い癖と解っているようだった。
けれど、本当にはどうなるか解らないことを口に出すのは、どうしても抵抗があるのだと云っていた。
 しかし、突然、どうにも変えようのない事実を目前に投げ出されて、自分の周囲がどう思うかまでは、彼も気が回っていないようだった。
 しかし、彼が思っている通り、一般的な意味での周りの人間というのは、どんなにむごい事実だったとしても、それに徐々に順応してゆくものだ。
 それに慣れることができないのは近親者であったり、当人に対しての特別な思い入れがある特定の個人だけだ。
 その特定、ということに対しての認識が彼に殆どなかったのだということは、その当時も日向には解っていた。
 若島津が自分をどう思っていても、自分が彼をどう思っているかは、彼の将来の選択のなかで考慮に入れられはしないことも知っていた。
 若島津は、日向のためにしか動かないのだ。
 日向が必要としている自分自身、というものを計算に入れようとしない。
 それはいつも残酷なほど明快だった。
 若島津が、来年にはもうサッカーは出来ないと云った時、だからもうそれは決定だった。
 ―――来年は就職活動で動かないと。……すみません、だから退部する形にします。サポートメンバーとしても動けそうもないんで。
 日向は動けなくなって若島津を見た。若島津はおそらく、既に彼のなかでの葛藤をくぐり抜けて、洗い流したように澄みきっている。
 何故、自分に一緒に苦しませようとしないのだ。
 怒りとも、絶望ともつかないものが日向の喉をふさいだ。
 ―――どうする、それで。
 彼は、収集のつかない感情を口に出す気になれなかった。
ひどく疲労して、胸が冷たくなった。
 ―――教職とって、何とか、どこかの学校に潜り込みたいと思ってるんです。
 ―――そうか。
 日向は低く呟いた。自分が何かを云い出そうとしているのが解った。それはうまく舌に乗らず、引っかかって喉を傷つけた。
 ―――せめてあんたが卒業するまで保ったらと思ってたんですけど。……残念だ。
 若島津はゆるやかに笑んで、その残酷な一言を吐き出した。日向は何か尖ったものでつき刺されたように、その言葉に過剰反応した。
 ―――お前には。
 それが若島津にとって思いやりの無い切り返しになることを百も承知で、日向はその問いを投げつけた。
 ―――俺が卒業するまでとかじゃなくて、お前は続けたくなかったのか。
 日向が苦々しく返したその一言に、若島津は目を見張った。心外そうに、しかし静かに目を伏せる。
 ―――続けたくなかったと思う……?
 ―――俺には解らない。
 日向は、もう一つ決定的な要素になるような言葉を漏らしてしまいそうな、微弱な危機感を感じながら云いつのった。
 ―――本当にお前にサッカーが必要だったかどうかなんて、一言だってはっきり云わなかっただろう。
 ―――日向さん。
 ―――お前の云ってる意味と、俺の云ってる意味が同じだなんてどうして解る。
 ―――日向さん!
 若島津は強く日向の言葉を遮った。
 彼は、日向が何故腹を立てているのか解っているようだった。首を振る。
 ―――それじゃ宗教論だ。終らないよ。
 若島津は、日向の腕に柔らかく触れて、確かめるように軽く叩いてみた。日向は、いくら型破りなラフプレイをくぐっても、致命的な故障をしない。
 故障しない身体は、キーパーの若島津には何よりも欲しいものだったに違いない。
 ―――あんたみたいにすごい人とやって来られて本当に良かった。俺の選手生活はいつも充実してましたよ。―――だから、綺麗な引き際で、自分は頑張ったと思いたいんです。
 若島津は日向を見上げた。鮮やかにすきとおって、彼が決して自分の意思を曲げないであろうということが解った。
 ―――日向さん。よくやったって云って下さいよ。……
 いつも自分の身体には過度に無理をかけ通す彼のことであれば、まだ出来る状態で早々に諦めたのではないことが、解らないはずはなかった。
 それに、その声の含んだ僅かなふるえを聞き取って、それ以上云い重ねられはしなかった。
 そのときから日向は何かにとり憑かれたようになった。
 他人に関心を持たないようにしてきた習慣が、極端な形で覆された。
 自分が若島津を必要としているというのが、プレイヤーとしての戦友の彼でなく、或は友人としての彼でさえないかもしれないと、自覚したときから、それは始まった。

 日向のドイツ行きが決まったのは、大学四年の一月にもなってからだった。
 その年からJリーグ開幕ということもあって、日向には、いくつものチームから声がかかっていた。新卒の選手にしては破格の金額を提示してきたチームもいくつかあった。
 しかし、学園側にも何も云わず、日向は沈黙していた。保留という形で、一月になっても動こうとしない日向に、学園の方でもチームの方でもしびれを切らしかけたときだった。
 日向とチーム側から同時に公表があって、サッカー協会は大騒ぎになった。
 日向が、旧西ドイツのチームのB―――と契約を交わしたのである。B―――が、日本人選手を一軍に起用するのは初めてだった。
 極端な云い方をすると、日本リーグのどのチームでも日向は選べたといっていい。それを全部振り切るようにして、彼はB―――と契約する形になったのだった。
 B―――は名門チームだ。今、特別に派手なチームという訳ではないが、その名前は動かし難いものであったし、若い選手を金にあかせて買うタイプのチームではなかった。日本人選手にそれだけ入れ込んで、相当額の契約金でむりやりに引き抜くようにするというのは例を見ないことだった。
 それだけに国内での反応は決して柔らかいものではなかった。
 学園側は何も云わなかったが、一緒にプレイしてきた選手達も少なからず衝撃を受けたようであった。特につめよって問いつめるというのではなかったが、反町は、何かの折に、
 ―――日向さん、九四年のワールドカップとか、どうするの?
 そう尋いた。
 それは、あとで若島津が反町に聞かされた話である。
 ―――ワールドカップ?
 日向はそう云って、薄笑いした。
 そのとき、日向は荷物の片付けか何かをしていたということで、彼は、何の感情も動かされないようにオウム返しにそう云うと、それきり何も云わずに、平然と自分の作業に戻って行ってしまった。
 反町は、そのときのことを思い出して、若島津に聞かせたそのときもまだ腹に据えかねるようで、しかし、同時に仕方ないような顔もしていた。
 ―――これはねえ、復讐かもしれないと思う。
 ―――復讐?
 ―――そう。俺らが高校のとき、日向さん日本を出られなかったじゃないか。本当は一度外国に出て、今度日本に帰ってくるっていうのが理想の形だったんじゃないかと思う。
 若島津は黙って反町の話を聞いた。
 彼にはそれは判らなかった。日向は、一番自分を高く買ってくれる、一番強いところに行きたいのだと思った。
 しかし、そう思うことで、反町がようやく彼自身を納得させようとしているのは解った。だからその言葉を続ける必要はないと思ったのかもしれない。
 若島津は、日向のそういったところに拒否の感情を呼び起こされない。
 むしろそういう部分は彼にとっては罪悪ではなかった。自分がそう出来ない分、義にとらわれない日向の傲岸さが好ましいと思っていた。
 頂度、サッカーが猛然と流行りはじめた時期であるから、その分、取材責めに遭った。
 彼は、この春もっとも、スポーツ関係のマスコミ受けの悪い男であったかもしれない。奢っていると云われても平然と顔色を変えなかった。
 凍ったような、迷惑そうな拒否の面持のまま、マスコミの取材にも面倒げに答えず、今年の三月、大学卒業と同時にドイツに渡った。見送ったのは家族と若島津だけだった。
 半年近く、調整期間があって、この秋にようやくデビュー戦を飾った。かなりの好成績を上げて、続けさまに三戦出場した。
 三戦目、相手チームのDFのタックルで軽く脚を傷めた。
 日本で報道されるほどの怪我ではなかったから、若島津はそれを知らなかった。
 ところが日向から、捻挫をしてしばらく試合に出られないから、十日ほど日本に帰国するという電話が入ったのが、つい昨日なのである。
 ―――そんなにひどいんですか?
 青くなってそう尋ねた若島津に日向は電話口で少し考えるように黙った。
 ―――親にも黙って日本に十日駆け込む程度にはな。
 平然とそう答えた日向に、若島津は理由を飲み込んで呆れて溜息をついた。
 日向は若島津に会いに来るのだ。

 日向と若島津は幾つかの私鉄とJRを乗り継いで若島津のアパートに向かった。空気は相変わらずひややかだったが、それが途中から、きりきりと絞めあげるような寒さではなく、冷たいてのひらで覆ったような、どこか柔らかなものに変わった。
 S線に乗ったあたりで、やはり、白いものがちらつき始めた。
 雪の降るまえ独特の暖かさであったのだ。最初は虫の飛びかうような、あえかなものであったのが、薄灰色の雪は、たちまち窓の外をうずめ尽くした。
 ふたりは黙って、天から降ってくるもので塗りつぶされた車窓を見つめた。
 彼らにとって、ここ数年、何かが起こったとすれば必ず雪のときであった。
 日向が高校時代学園ともめたのも、頂度東京に、例年にない雪の続いた年であった。その年は、四月の頭まで雪が降り続けたのを、多少の苦さとともに日向は覚えている。若島津が、もうサッカーをできないと日向に云ったのも、日向がドイツに渡ると決めたのも、偶然、雪の降る日であった。
 だから、何かが起こったことを思い出すとき、彼らの記憶には必ず雪が欠かせない。それだけに、冷たい記憶になってしまいそうにも思ったことがある。
 今年の初め、大学卒業前、日向が自分自身で引きずり込むように変化を起こしたのも、雪の日であった。
 日向がB―――と契約して、若島津の方では、母校に国語教師として勤めることが決まった。一見、彼らの関係も、行き先が定まって落ちついたかのように見えた。
 日向は、若島津がサッカーをやめたときから、彼に激しく執着した。若島津が戸惑って、次にかすかに怯えたような気配さえ見せたほどだった。若島津を拘束する意思を彼はもう隠さなかった。
 若島津が何を心配しているのか日向には解っていたのだ。
 若島津に執着するあまり、日向自身の進路に影響を及ぼさないか、若島津はそれを危惧していた。
 日向も、その意味で自身を危うく思わなかったわけではなかった。しかし、それで自分を抑えることはできなかった。
自分の執着が恋の形に酷似していることも、彼自身が真っ先に気づいたことだった。
 友人としての体裁は繕っていたものの、日向が若島津を手に入れたのは誰の目からみても明らかだった。
 誰も、日向以上に激しく若島津を望むことはできなかったのだ。
 日向は、若島津を取り囲む自分以外のものに対して、冷酷に、冷徹に嫉妬した。嫉妬の感情は冷たく彼をしばりつけた。しかしその縛られた傷みのなかに、訳の解らない漠々と濡れたものがあった。
 何故これほど彼に執着するのか。
 若島津は、おそらく日向の一番親しい友人だ。周りから見ても、自分が見てさえもそれは確かだった。何故それで自分が満たされないのか。友人としての規を越えようとしているのか。
 それを本当に行動にうつしたら、自分は若島津を失うのかもしれない。
 若島津は、長い間友人として側にいても、彼が自分の感情を隠すことをもって、まず、美学としているためであるのかもしれないが、彼のことでまだまだ知らない、解らないことは多くあった。
 若島津は潔癖なのか、自分が外側をすくって思っているよりも、実のところ解放的な性質なのか、日向にはそれが判らなかった。
 自分の感情の正体さえ解らない状態で、若島津の感情を汲みきれるはずはなかった。
 彼を手に入れたいと思うのが、しかしどうやら感情的なものだけではないのだと、それを認めるのは骨が折れた。
 日向の気質では、そうなれば手に入れようとせずには置かないだろうし、それをしかけて、若島津がどんなふうに思うのかまるで想像がつかなかったからである。
 お互い、後数か月後にはもう全く別の進路を選ぶという段になって、だから日向は落ち着いて静まり返っているように見えたかもしれない。
 それは、一触即発で切れそうな糸をようやく保っている状態だった。彼は次第に、自分が若島津を憎んでいるような錯覚さえおこすようになった。

 雪の日だった。
 何の用事で外出した日であったかもう忘れた。年が明けてから数度目の雪であった。
 時刻は夕刻にさしかかり、彼らは寮への帰り道を歩いていた。昼頃から降り始めた雪は薄く積もって靴にまつわりついた。
 日向が殆ど口をきかないのは、その頃ではそれほど珍しくなかったことだった。ふたりは黙って歩いた。若島津は何を考えているのか、さらさらと、平素と変わらない顔で歩き続けている。その当時しばらく続いた、憎悪に近いものが日向のなかでちらちらと動いた。
 本人も意識せずにいられるほど、小さいものだったが、自分のなかの内圧が高まるにつれて、若島津の屈託の無さは日向に黒いものを抱え込ませた。
 半ば、黒く濡れて剥き出しになった道のうえに、星のようにふりつもる雪は、真綿のように全ての喧騒を吸い取った。
柔らかい静けさはそれでもわずかに日向のなかの苛々とした焔を静めた。
 住宅街を抜け、寮近くにさしかかったとき、壁に車のライトが跳ね返った。
 振り向いて、通り過ぎる車を避けようと脇によける。
 車は少々不安定な動きで雪で滑る道を曲がり込んできた。
ウィンカーが点滅して、車は彼らが曲がろうとしていた左側の道に入ろうとした。
 ドライバーの運転歴がさほど長くなかったのかもしれない。ハンドルを切るタイミングが大きくずれた。車は妙な音を立ててスリップし、左側に避けた若島津と日向を、住宅の塀に追い詰める形で突っ込んできたのだ。
 日向は、若島津が自分の肩をつかんで強く引いたのは解った。スリップする車の動きは突然で、そのスピードは不自然であるだけに予想がつかない。避けるには無理のある角度で突っ込んできたのである。
 どう見ても右側を歩いていた日向にかする角度であった。
 それを若島津が自分の身体を強引に割り込ませる形で日向をかばったのだ。
 若島津の伸ばした右手の甲に、車のサイドミラーが激しくこすった。車のタイヤに巻き込まれて、若島津の持っていた傘の骨が折れた。
 日向の身体をかばいながら、若島津が思わず叫び声を上げたくらいであるから、相当な強さだったようだ。
 若島津は切れ切れに息を吐き、日向に重くもたれかかった。
 日向は、傘を放り出し、片手で若島津を支えて、車を恐ろしい目でにらみつけた。ドライバーは若い男だった。男は日向にもたれた若島津を見て焦ったのだろう。大きくハンドルを切り直し、左に曲がろうとしていたのを曲がらずに、大通りをそのまま車でつっきろうとした。
 後を追おうとして、若島津を支える手を離せなかった。
 若島津は不規則な息を吐いている。手以外にどこか衝撃があったのだろうか。
 結局その車を見逃す形になってしまったが、すぐにそれどころではなくなった。
 ―――若島津!
 彼は自分にもたれた若島津を静かに揺すった。ひどい焦燥で目眩を起こしそうになった。
 ―――あ、すみません……。一瞬貧血起こして……。
 若島津は身体を真直に立て直し、右手をゆっくりと目の前にかざした。
 右手の甲は大きく擦れて裂け、出血している。血の筋が手の甲を幾重にも赤く染めていた。夕方の昏い光の下で見るせいか、傷の大きさの割に、出血はおびただしいものであるように思えた。
 ―――どうしてかばったりしたんだっ……。
 若島津がもたれかかってきたときに、心臓の止まりそうな思いをした反動で、日向は押し殺した声でどなった。
 悔しいとも、腹立たしいともつかない感情で、きりきりと胃が痛んだ。
 ―――出発前に怪我でもしたらどうするんです。
 若島津は痛みに眉を寄せて顔を伏せた。
 ―――俺より、あんたのほうが困るんですから。
 日向は、彼らのかたわらにある塀に、握ったこぶしを叩きつけた。その力そのものはそれほど激しいものではなかったが、日向の激発した感情が若島津に伝わるのには充分だったようだ。
 唇をゆっくりと湿して、若島津は低く詫びた。彼がサッカーをやめざるをえなかったことに、彼自身と同じように日向がこだわっているのを、彼も解っている。
 そこで若島津にむりやり折れさせる自分の幼さも腹立たしかった。
 ―――とにかく、早く寮に帰って、手当てしてもらわねえと。
 日向は喉に絡んだ声でいった。
 ―――ひどかったら今晩病院いくぞ。
 ―――……そうですね。
 若島津は諦めたようにうなずいた。怪我に慣れた彼にすれば、騒ぐほどのことではないと思っているのだろう。
 彼の足元にふと視線を投げた日向は、息を飲んだ。
 若島津の足元に、血が黒ずんだ紅い花の花弁のように散らばっている。
 細かい染みを作った若島津の血の鮮やかさが、彼の内側に眠る何ものかを深く刺激した。
 心臓の傍らを生温かい指で探られたような。
 柔らかく忍びよってきて、そのくせ深く的確に彼の実をえぐったものに、日向は愕然と立った。
 ―――日向さん。
 いぶかしんだ若島津が日向の肩に手をかけた。
 ―――どうしたんです。
 ―――何でもない―――……。
 日向は目を覆うようなその鮮やかさに、起き上がってくるものの、鮮紅色の輪郭を見た。若島津の血の色でその影の全体は埋められて、何か異様な華のように咲き開いた。
 若島津の怪我は、結局それほど深いものではなかった。ひどく擦れてはいたが、病院に行かずに済む程度のもので済んだ。
 若島津が手当をしているのを見つけた反町と数人に捕まって、彼らが自分たちの部屋に戻ったのは、もう十一時を回った頃だった。
 若島津は、自分のベッドに座って、ぼんやりと包帯を巻いた手をかざした。
 ―――結局あんたも騒がせちゃいましたね。
 彼は疲れたように目を閉じた。特に神経づかれでなく、このところ寮の移動や、卒業の準備で忙しく、疲れているのだ。
 彼は左手の神経が駄目になっている。そのせいで重いものの持ち運びなどでも大分苦労しているようだった。
 日向は、自分のベッドに腰をおろして考えていた。もう糸はどうしようもなく細くなっていて、彼の執着の重みを支えられそうになかった。
 立ち上がった。
 賭というには、自棄の色が強かった。彼は若島津の、白い布で包まれた手を握り、それでも傷口に痛みがないよう、かばうようにしてシーツに押しつけた。
 ―――日向さん。
 若島津は目を見開いた。普段なら真意を笑って問い返すところが、日向の異様な緊張が伝わったようで、表情をこわばらせた。
 それはきわめて暴力に似ていたのだと思う。同性には基本的に加えることのない力である。
 日向は、顔を背ける若島津の唇をふさぎ、服をはだけた。
 若島津の制止の声に、口のなかが苦く乾いたが、歯を食いしばるようにして手を止めなかった。
 左手はもとより使えないも同然であったし、利き手の右手は怪我をしたばかりである。若島津の皮膚は、彼が動けないまま、ベッドに縫いとめられて、日向の唇を許した。
 しかし、日向が若島津のはだけた服を引き下ろし、彼の戒めた上身に歯を立てたとき、若島津は耐え切れないように、声を荒げた。
 ―――日向さん!
 日向は顔を上げた。自分の顔が病的な貪愛に歪んでいるのではないかと思った。
 追い詰められて、常軌を逸した目になっていた。
 ―――どうしてこんなこと……っ。
 感情が激したようで言葉に詰まった。
 ―――俺とあんたの間で、こんな―――暴力みたいなやり方は理解できない……!
 日向は自分が嗤ったのが解った。何故自分が嗤ったのか、日向にもよく判らなかった。
 ―――誠意だとか懇願、っていうのか?……そんなものより、暴力のほうがずっと本当の効果があるって。お前はそんなこと、とっくに判ってると思ってた。……
 日向の声はひどく醒めて落ちついていた。日向は不意に、自分が周囲の人間に接するとき、醒めているといわれるのは、そうでないのだということに今更のように気づいた。
 覚めているのではない。
 ただ、一切の期待をしないよう、裏切りから自分の身を守ろうとする、未熟な精神に傷をつけないための一心であった 若島津の言葉の語尾がかすれて震えた。
 ―――あんたを解りたい。俺はあんたをなくしたくないよ。どうして、俺に……。
 それを云うのに勇気が要らなかったわけではないだろう。
 ―――どうして、俺にどうしてほしいのか、云ってくれないんだ。ずっと待ってた、ずっと―――これからだって待てると思ってた。
 若島津は腕をつかんだ指をほどき、完全には上がらないその腕で、日向の身体を抱きしめた。
 ―――日向さん、俺達は友達じゃなかったの?……
 日向の肩に、若島津は顔を埋めた。つややかな髪の感触と自分の鎖骨に触れた頬のなめらかさに、日向は茫然とした。
 ―――一人同士だから、会って二人になれるんだろう。
 日向は、自分をゆったりと抱いた若島津の肩を抱きしめ返した。何も言葉が出てこなかった。自分の感情がどんなふうに動いているのか、すぐには解りにくかった。
 若島津をすがるように抱きしめて、日向は目を見開いたまま、重く沈黙した。
 ―――日向さん、何か云って下さい。……俺がどうすればいいか。……
 若島津はくぐもった声で呟いた。
 日向は、口を開こうとして、自分の頬に流れるものに気づいた。
 彼は泣いていた。
 目頭に鋭い痛みがあった。
 胸の内側の黒いこごりは、きしみながら戸惑っている。壊れていいのかがすぐには解らないでいる。
 ―――……。
 若島津が彼が黙っていることにじれたように日向を見た。
そうして、驚いたように息を飲んだあと、優しいかすかな溜息をついた。
 若島津は、日向の頬の涙の筋に、ためらうように唇で触れた。
 その羽毛がかすめたような感触に日向が目を開けると、若島津はカッと紅潮した。
 目を閉じる。
 日向の頬をてのひらで包み、その頬にまた唇で触れる。
 聖女が祝福を与えるような、敬虔に伏せたまつげに、崇拝に似た感情さえも沸き起った。
 日向は、若島津の動きに任せたまま、その静かな顔を見つめた。
 彼を今にも殺してしまいそうだった内圧が、形を変えてゆっくりと崩れた。
 その代わりに、彼の感触を余さずに拾い出そうとする。
 ―――俺は、お前が逃げたいんだと思ってた。……
 若島津の手を静かに外して、やんわりと傷ついた手の手首を握りしめると、日向は、かすれた声で呟いた。
 ―――だから逃がさないように、そのことばっかり考えてた。
 ―――逃げたいこともあるかもしれない。
 若島津は、初めてといっていいほど近寄せた日向の頬に今更気づいたように、紅潮の引かない唇で囁いた。
 ―――あんた、すごい目するんですよ、自分で解ってますか? ……今も、そうですけど―――あんたのそういう目に俺は弱いから。……
 凍ったように無表情だとばかり云われている彼の目から、表情を正確に汲み取るのが彼だけなのであれば。
 他には要らない。
 日向がそう思うことが、若島津には歓迎すべからざることだとは解っていたけれども。
 日向は、そのとき吐き出した感情と、熱い、痛い涙の記憶からしばらく解きはなたれなかった。
 他には要らない。
 彼の執着も、無器用ではあってもかろうじて捨てずに済んだ優しみも、全て若島津のためだけに使っていいと、その時の日向は思った。
 家族のために心を砕くのは彼にとっては当たりまえだ。そんなことはわざわざ考えてするほどのことではない。
 しかし近親という血でつながれていない他人に、無防備な自分をさらけ出して、その分を食らいつくように拘束するのならば。
 彼だけでいい。他には要らない。
 彼に向けるほどの執着を、他の人間に対して更に持つことができるほど、日向は強くはなかった。
 日向は、残った数十日の間、それを隠さなかった。若島津にだけ執着する自分を隠さなかった。
 しかし、反対に、彼に執着する自分を抑圧しなくなったことで、周囲にいつも叩きつけていたような冷たさが和らいだかもしれない。
 若島津は彼の要求に忍耐強く応えた。日向は、何回か若島津を抱いた。
 それは体質的なことも手伝って、思ったよりずっと、彼にとって大きな負担になるようだった。それでも若島津は静かで、揺らがなかった。
 日向の怒りも焦りも、母国に対する確執も、たゆたうように、ゆほびかに若島津がのみ込んだ。優しい指で背を撫でさするように、ささくれだった部分を和らげて楽にした。
 彼は、長かった闘病の後のような、傷んだ精神の傷口を取敢えずふさいだようにして、ドイツへ渡った。
 ドイツでの半年は悪くなかった。彼の無感動な気質は決して、チームの人間に親しまれたわけではなかったが、そのかわり思ったほど排斥されもせず、時折きつくなる風当りも、反対に彼の気質ゆえに気にせずに済まされた。
 若島津に会えないことだけが彼を苦しめた。
 猛烈な飢餓感に悩まされた。
 電話や手紙や―――そういったものが、なおさら飢餓感を刺激しそうで、連絡を取ることにすら抵抗があった。
 たとえば、愛している、というような、あたたかい言葉で形容のできない、いつも傷み続ける飢餓感だ。
 若島津が自分を受け入れたことも、その状態をさほど変えはしなかった。
 若島津の気質は器で、日向はひたすらにそそぎ続けるしかなかった。
 彼のなかから許容を越えてあふれる恐怖もあった。
 それでも、若島津のことを考えることは、日向を静めた。
取敢えず自分の感情の向かう、そそぎ込むあてがある事は有り難かった。
 先週の試合で、軽く脚を傷めたとき、彼は日本びいきの知人の医者に、二週間の安静を要す旨、診断書を書かせた。
 ―――こんなに休んでどうするんだ。
 知人は、診断書を書くことにはさほど難色を示さなかったが、首をかしげた。
 ―――一度帰国する。
 ―――帰国には短期間すぎるんじゃないか。
 ―――おふくろの顔を見てくるのさ。
 日向のその言葉が意外だったようで知人は驚いた顔になったが、しばらくして合点がいったようにニヤリとした。
 ―――ヒュウガもそこら辺は人並みって訳か。……まあ、羽を伸ばしてきてくれ。
 彼はそう云って、二週間と日向が云ったところを、三週間と書いた。
 ―――満足するまでお母さんの顔を見て、後は早めに復帰するなり、好きにしたまえよ。
 ひどい捻挫をしたものだな、と云って、彼はにやにやした。
 日向は、捻挫のために休むのと、日本でかかりつけの医者に調整のために見てもらうといって、帰国の準備をした。チーム側はもちろんいい顔はしなかったが、日向は平然としたものだった。
 若島津を抱きたいのではないような気がする。抱かなくても構わないのではないかと思う。
 ただ生きていく飢えで呼吸せずには居られないように、若島津は日向にとって必要なのだ。
 この極端な飢餓状態が、オフシーズンに訪れたものだったとしたら、まだ楽だったのかもしれない。
 今回の帰国のチャンスをのがしたら、次は来年の夏までおそらく帰ってくる暇はないだろう。
 これ以上抑圧して、言葉もよく通じないカウンセリングになどかかるより余程マシである。
 そう思って、強引に帰国したのだった。
 帰るという電話を入れたとき、若島津は呆れたようだった。しかしすぐに低く笑った。幸福そうにも聞こえた。
 声を聞いたのは半年ぶりだった。
 幸福さより、胸が鋭く痛んだ。きっと、当分の間は、幸福な恋に変わることはないだろうと思った。
 身体の一部をむりやりに引き剥がされた、それは痛みだった。

 若島津のアパートに向かう道は、日向にはまだ慣れないものだった。
 彼の新しい生活にまで嫉妬する傾向がある。苦笑しながら先に立って歩く若島津の数歩後を歩いた。
 若島津は少し痩せたようだったが、微妙に光を増したようだった。彼は今の生活を楽しんでいるらしい、と日向は思った。水中にあるようではっきりとしない、深い部分で輝よぐ核のようなものが透き徹って見えている。
 造り飾ったところもないのに、若島津は自身を静かに抑えるようになってから、いつもしろい皮膚の内側で冴えざえと煌めいている。
 エネルギーの強さでは、日向と彼はほとんど変わらないのかもしれない。
 そのゆるぎなさは、日向のなかに、昏い赤い火が細い舌で燃えつづけるのと同じだ。
 彼らは傘をささずにその道を歩いた。
 雪は柔らかく降りしきっているが、五分ほどの距離だ。濡れるほどの雪ではない。
 遅れて歩く日向に、若島津が振り向いた。
「疲れてますか?」
「それほどでもない―――……」
 若島津は立ち止まって、日向が追いついてくるのを待った。彼の背中を見ていたのだとは云いにくかった。追い付いて、若島津がまた歩き出すのに今度は合わせた。
「お前、何年教えてるんだって?」
「中学二年と三年の国語です」
 若島津は目を細めて笑った。
「よくその髪で文句云われないな」
「東邦ですからね」
 東邦は、私立校である割に、生徒に対しても規則のゆるい方である。
「この髪で学生時代もチェック無しだったからねえ、何も云わないでいたら、何も云われませんでしたよ」
 若島津の髪は、肩を二十センチ近く越して、長く伸びている。それを、黒い紐で幾重か巻いてまとめている。
「……あわゆきの中に立ちたる三千大千世界 またそのなかに淡雪ぞふる……」          ミチオホチ
 若島津の髪が弱い風になびいた。雪明りに明るい道で、若島津の白い顔が、雪のなかにほうっと浮かび上がった。
 若島津は、日向の顔を見てちらりと笑った。
「良寛―――だったっけ?」
「そうそう。覚えてましたね」
「教師みてえなこと云ってやがる」
 若島津が大学に入ったばかりの頃、良寛に一時期、凝りに凝ったことがある。それが高じて、新潟まで行ってきたのである。彼が案外凝り性だということに最初に気づかされた一件だった。そのあとはそういった類のことは度々あって、日向も驚かなくなったが、最初の良寛は、よく覚えている。
 雪が降ると若島津が何回かその歌を口にしていたので覚えているのだ。空で云えといわれたら思い出せるか解らないが、聞かされれば解る。
 日向は典型的な理系で、若島津は文系なのである。
 若島津がその歌を好きだというのは、日向にはよく解るような気がした。若島津は透徹したものにあこがれる。なるべく自然に近い形のものに触れていたいと思うようだ。
 彼自身が、今保とうとしている生活から抜け出せないことに、自己嫌悪すら感じることがあるのを日向は知っていた。
 それなのに何故、彼が自分に気持を傾けるのか、日向には判らなかった。
若島津の気持を疑ったことはない。彼は間違いなく日向を大切に思っている。時には彼自身よりも大切にしていると云っていい。
 しかし、自然に憧れる彼、あたたかな、温度の高いものに焦がれる彼。清冽で澄みきったものにあこがれる若島津が、自分のなかに何を見ているのか、知りたいようでもあり、怖いようでもあった。
 知れば、その位置に存在しない己というものを嫌でも意識せずにはいられないだろう。彼の好むものと自分の間には、日向自身が見て通ずるものなどないように思える。
 若島津は顔を振り向けて上空を見た。
「ここしばらく、頂度あの時の事を考えてた―――」
 若島津は視線を高く投げて薄く笑んだ。
 日向は、自分がたった今考えていたことを云いあてられたようで、多少驚かされた。
 若島津はゆったりと呼吸している。白くけむる息が規則正しく繰り返されている。
「すごく会いたくなって―――だから、あんたが帰ってくるっていう電話をくれた時すごく嬉しかった。……」
 日向は彼と同じ上空を見た。
 灰色の雪が降ってくる。
 しかし前方の闇を見ると雪はしんと白く絶え間なく降りしきっていた。頬にあたる雪の柔らかさよりも、目で見たそれは厳しい。
 突然に緊張の糸が切れた。
 何がきっかけだったのか。変わらず拒まない若島津の言葉か、二人きりとじ込める雪のせいだったのか。
 日向は堰を切ったように若島津を引き寄せて抱きしめた。


 若島津はこのアパートに二月に越した。他の者よりも一歩早く寮を出て、整然と自分たちの領域を整え、拭き清めて出ていった。
 日向は三月に渡独が控えていたため、卒業の、本当にぎりぎりまで寮に残った。若島津が越してからは会う機会も少なかった。
 それでも何回かぽつぽつとアパートに訪ねていくと、それが不意打ちでも、若島津の部屋はいつも整然としていた。今もそうだ。ものは増えていない。ベッドを買ったのが珍しい印象を与えるくらいだろうか。
 一度食事に出て帰ってくる。若島津は日向に温かいものを出し、少しだるそうに壁にもたれて日向を見つめた。
「寮に帰ったみたいだ」
 若島津は幸福そうに溜息をついた。
「寮にいた頃は楽しかったね―――……」
 彼の不思議なところは、そんな云い方をしても決して感傷的にならないところだ。若島津は気質自体の温度は日向よりやや高いのかもしれないが、湿気の強い気質ではない。
 しばらくして、だるそうにしていると思ったら、若島津は熱を出したようだった。
 ここのところ、テスト続きで疲労していたらしい。
 だから日向は若島津を抱かなかった。
 彼と離れようとする日向に、若島津は、普段よりもあたたかい手で日向に触れ、傾けたこめかみをその手につけた。
「日向さん、一緒に寝よう」
 そう云い出したのは確かに若島津のほうである。
 日向はまた驚かされた。いつまでたっても若島津には、少しずつ解りにくい不思議なところがある
 確かにベッドはセミダブルであるから、二人で眠れないことはない。
 時間はそれほど遅くなっていなかった。
 まだ眠るほど遅くなったわけではなかった。
 若島津が横になったベッドに腰かけた日向の背に、若島津は起き上がって柔らかくもたれかかった。
 日向自身が慣れない、彼のもの柔らかな親しげな所作に戸惑うが、もたれてきた若島津の重みは心地よかった。
 お互いが側に居なかった間に起こったことも、ほんの少しずつは話した。日向にしても楽なことばかりではなかったが、それは不思議と若島津の前で口に出しても、もう殆ど気にならなかった。
 多くはない言葉と、幾つかの口づけと。
 若島津は夜半近くになってやっと眠りかけた。
 日向も、狂いかけた時間のせいで眠りの波に揺らされて、彼は若島津の隣に身体を滑り込ませた。
 若島津は、自分の隣に日向が横たわった気配に、枕の上で目を開けた。はっとするほど近づいた若島津のなまめいた白いうりざね顔に、また胸が痛んだ。
 日向は彼の崇拝者であり、賛美者だったが、何もかもをそのために犠牲にしたい自分を抑えるためには、彼を楽に愛することができなかった。
 長い睫が数回ひそやかにまたたいて、今は間違いなく日向のためだけに、陶然と甘美な微笑が彼の唇をほどいた。
 長い指が伸びて、日向の指に触れた。
 日向の、陽に焼けた指にその白い痩せた指が絡みついた。
 若島津は、微熱のためか薄く潤んだ目をして、交叉させた指を絡ませて、軽く日向の手を握りしめた。
「捻挫なんてもうしないで下さいよ。―――」
 若島津は云いながら目を閉じた。
「今度帰ってくるときはちゃんとしたオフにしてください。
俺も夏休みがあるし―――」
 そうささやいた。なめらかな声が少し絡んだ。
 その言葉を遮るように日向は唇を触れた。とろかすように丁寧に重ねあわせる。
 甘いのに、どこか淡白な口づけは、日向の身体を熱くするよりも甘い眠りを誘った。
 視線がゆるく絡んだ。淡い視線はそのままゆっくりとそれた。特に意味を持たずにいられる理解りあえる相手であるから、互いがそれだけ近くに居ることに何の不自然さもないまま、感情もゆすられない。
 彼以外に何もいらない。
 いつまでそう思っていられるかは解らない。
 何らかの形で終末が来るだとしても、今はこの骨を千切られるような幸福を捨てることはできなかった。
 賛美者ならではの甘美な痛みである。彼を賛美しながら、彼に賛美されることの不可思議さは―――これは、目も彩なる恋情と。友人としての存在を葬った祥月の雪のはざまできしむ骨だ。まだ起き上がろうとする何者かの哭く声だ。
 まだ間に合うのだろうか。
 彼を抱きたいが、どうしても抱かなければならないのでもない。むしろそれがなくなった方が、彼にとっての自分と、自分にとっての彼を計りやすいのではないかと思ったことすらある。その思いは欲望と全く別のものだ。日向はただ、彼を失いたくないだけなのだ。
 それとも、隣で、のびやかな身体を日向にすり寄せるようにして眠る美しい男は、一度も友人としての己を殺したことなどないのかもしれなかった。
 飢餓感。幸福になれない、かつかつとさもしい飢え、むさぼり惜しむ、手に入れても入れきらない貪欲さ。
 彼以外に何も要らないと思わずに済めば、もうこれほど彼に飢えることはなくなるのだろうか。
 ―――一人きりはそんなに寂しいですか。
 こおるように寂しい。
 しかしこの痛みは手放し難く心地よい。
 まだ急いで捨てることはない。

 若島津は殺さない。日向はせざるをえずに自分の或る形を殺し続けて、きしみながら、しかしこれが日向の幸福の形である。やすやすと手に入る優しいものを拒む、彼の選んだ幸福の形だ。
 飢えた男は、隣に眠る愛人の髪に唇をうずめ、絡めたままの指を更に深く絡ませた。
 次々と灰色の雪の降りくる中、浅い幸いの寝床を分けて、彼らは眠った。

                         了

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