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若林源三の豪奢な生活(1993)

01 05 *2011 | Category 二次::C翼(後期)・日向×若島津


続き





「起きろよ」
 やんわりとした声がかけられるが、未だ目醒めは訪れな
い。
「……若林!」
「………………………………」
 ヘルシーサッカーボーイ(馬ではない。ましてや熊でもな
い)若林源三の朝は天使の呼び声で始まる。天使の呼び声と
いうあたり彼の認識が既に間違っているが、そこは置いてお
いて。彼は、寝起きが悪い。ぼやけた視界をはっきりさせよ
うと眠い眼をこすりこすり上身を起こすと、くだんの天使は
赤のチェックのエプロンで、片手にフライ返しを握ったまん
ま、彼のベッドに片膝を乗り上げていた。
 若林を見降ろした美人のいとこは、心配そうに彼の片頬を
ぴたぴたと叩いた。
「熱下がったな」
 ああそうだった。
 若林君は頭を振って考えた。この怠さはいつにも増して激
しかったが、それは彼が昨晩熱を出したせいだったのだ。寝
起きは確かに悪い自覚はあるにしろ、ここまで石になったよ
うな怠さに毎朝いじめられるようじゃ、彼が、このハードス
ケジュールなサッカー選手生活を続けられる訳はなかった。
「もう昼過ぎだぞ」
 いとこは長い髪をかきあげて、彼の顔を覗き込んだ。
「頭痛くない?」
「平気だ」
 彼は一瞬うろたえて、顔を近付けて来たいとこから身を遠
ざけた。
「何やってんだよ。ほらこっち来いよ」
 若林と同じGKのくせに白い指が近付いて来て、若林の頬
を包んだ。指は冷たい。体温が低いのだ。指ぐっと若林の顔
を引き寄せると、やはり少し冷たい額が、彼の額にぴったり
と押しつけられた。
 馬鹿者。 
 異様に接近した白い顔に、若林が火のついたような恐慌状
態に落ち入りかけたのも知らぬげに、いとこは相変わらず気
づかわしげに眉をひそめて顔を離した。 
「でもやっぱり微熱が残ってるか。今度体温計買っとこう
な。俺達めったに熱なんて出さねェからさ。気が付かないよ
な」
 そう云って彼はまじまじと若林の顔を見つめた。
「お前顔真っ赤」
「何でもないっ」
 若林はそれ以上ボロが出ないように、そう云って毛布を
ひっかぶった。鈍い奴、鈍い奴、鈍い奴っっ。どうして気付
かないんだろう。このロコツな視線とか、色々さ。こんなに
ロコツに欲しがっているというのに、彼の綺麗ないとこはい
つまでたっても気付かないまんまだった。
「メシ食える?」
「………食う」
 いとこはばたばたと隣室に消えて行った。
 彼の名は若島津健と云った。
 若林の父方のいとこであった。歳は同じ、大学二年であ
る。
 若林源三は東京の某私立大学のやはり二年で、ここ、東京
都M―――市のマンションにいとこの若島津健と同居してい
る。彼の実家は静岡県にある。健の実家が埼玉。二人の通う
大学は双方M市周辺で、健はM駅からバスで十五分の私大
に、若林はM駅からJR横浜線で約二十分の巨大マンモス大
に、それぞれ出てゆく訳である。 若林がH市のその大学に
入ると云った時、彼のとてつもなくお金持ちの親御さんは、
ならマンションを一つ買ってあげようと、事もなげにそう
云ったもんだ。
 毎日通いのお手伝いさんを行かせるからと云われた時、彼
はそれを咳込むように断った。そして、埼玉の空手道場の次
男坊のいとこに電話をかけたのである。
 ―――健、お前M市の大学に行くんだよな。 
 ―――? そうだけど?
 ―――俺東京に引っ越すんだよ。俺の大学H市なんだ。
M市だったらH市すぐだろ。M市にマンション決めるから
さ、一緒に住もうぜ。
 ―――え。だって俺金ねェもん。 
 いとこは、実家から通うつもりだったのだと云って一度
断った。
 ―――親が買うって云ってんだよ、マンション。
 若林は必死だった。こんなチャンスをのがしてなるもの
か。
 ―――俺一人でだだっ広い所に住むよりいいだろ。な、そ
うしようぜ。
 ―――うーん。……確かに魅力だなあ。…… 
 いとこはひとしきり考えて、親におうかがいをたて、
OKした。彼の家は埼玉県O市。M市までどう少なく見つ
もっても片道二時間かかるのだ。M市に住めたらこんなに楽
な事はない。   
 そうして一年半前、彼は同居を始めたのだ。 
 何かというと、若林は健が好きだった。   
 好き、という感情が果たしてどういった類のものかはとも
かく、彼は、この優しくて綺麗ないとこにべた惚れだった。
 だいたい彼は、健の家が好きだったのだ。 
 健の家は、空手屋さんで、大きな道場である。若林家の長
女がお嫁に行ったその名家は、数百坪の敷地にどんと建った
平屋の日本家屋で、だだっ広いくせに妙にあたたかいおうち
であった。
 若林の父が長男。美人の叔母は、若島津家で幸せだった。
大きい事は双方変わらないが、若林の家と、健の家では雰囲
気が全く違った。 
 叔母の夫である若島津家の当主は家庭煩悩な男であった。
妻を愛していて子供を愛していて、無口で無愛想な人だった
が、いい夫でいい父親だった。
 若林の父―――つまり義兄とはあまり馬が合わなかった。
 若林の父は、稀代の美人に育った妹を盲愛していて、妹は
とにかく大手の実業家と結婚させようと思っていたらしい。
それが、大学で知り合った空手道場の長男坊と恋に落ちて、
何がなンでも結婚すると云い出したのだから、彼は苦りきっ
てしまった。でも所詮妹に弱かった彼は、妹の初枝と、若島
津剛との結婚を許してやった。  
 剛はとにかく初枝を愛していて、誕生日には桜の木を庭
いっぱいに植えさせるわ、死ぬ程嫌っていたアメリカに、初
枝の、行ってみたいという控え目な一言で、だったか旅行の
準備を始めるわで、若島津家はたちまちのうちに、熱愛夫婦
の愛の巣になってしまった。
 その次男坊が、健なのである。
 それにひきかえ、若林源三の家庭は決してあたたくも愛が
充満してもいなかった。
 若林の父が結婚した相手は綺麗だったけれども寂しい美人
で、おまけに体が弱かった。
 おかげで、次男の源三君を産んだのち、子供はもう産めな
くなってしまった。
 それにひきかえ、父は精力的な男で、大柄でハンサムで、
女性にもたいそうもてる人で、次男坊が二歳になる頃には
すっかり御荒行は明らさまになり、すっかり家によりつかな
かった。母が判を押した離婚届けを置いて若林家を出ていっ
てしまったのは次男坊が五つになる少し前。ただでさえ愛の
さめていた若林家は、すっかり冷えた家となっちまったので
ある。
 長男の義基は源三君よりも八つ歳上で、彼は高校を出ると
さっさと冷たい家を出て行った。
 父はまったく家に居つかなくなり、通いのお手伝いさんし
かいない家に取り残された可哀想な次男坊が入りびたったの
が、叔母の家だったのだ。
 若島津家は子だくさんである。 
 長男の康を先頭に、長女の沙枝、健、健の下に妹の美枝、
父方の祖父母が揃っていて、剛の弟の(独身である)涼が一
緒に暮らしている。住み込みのお手伝いさんが一人。総勢十
人の若島津家はいつもあたたかでにぎやかだった。 
 お手伝いさんも一緒に食卓をかこむアットホームな若島津
家に、若林は小学生の時から、一人で買った切符を握りし
め、日曜日になると出かけて行く事をおぼえた。
 若林家の内情を知る剛や叔母や、一回りも歳の違う沙枝は
優しかった。
 若林にとって家庭、は若島津家だったのである。
 彼が若島津家を好きだったもう一つの理由に、勿論同い歳
の次男坊があった。 
 次男坊は只今空手四段。なのにサッカー選手で、GKであ
る。
 若林よりも七、八センチ背は低かったが、ケンカをすれば
絶対に健の方が勝つ。色が白い。優しいうりざね顔は完全に
母親似である。髪が長かった。
 健は空手の才能があった。  
 その健がサッカーを始めたのが中学一年の時だった。
 東邦学園という有名サッカー校の全国大会試合を見た事が
きっかけになったのだ。
 東邦学園には日向小次郎という、その時高校二年だった
FWがいた。健は、この日向選手のプレイに惚れこんだの
だった。
 日向小次郎はおそろしく力強いプレイをする。超高校級
だった彼のプレイはたちまち外国のプロチームの眼に止ま
り、引っぱりだこだったその中から、イタリアのチームを選
んで、高校卒業後はさっさとプロ入りした。
 ゴールネットを焦がすシュートは、コンクリの壁にひびを
入れる。日本人離れした長身の日向選手のプレイを見て以
来、健はサッカーにのめりこんだ。最初はFW、しかし、中
途で反射神経をかわれてGKに転向した。
 その頃すでに若林がサッカーをやっていて、GKだったの
は偶然の一致である。 
 さて、その日向選手が日本に来ている。
 日向選手は現在二十五歳。第一軍でバリバリに活躍中であ
る。  
 彼がオフシーズンという事で日本に帰って来た直後のある
日、若島津がひどく興奮して帰って来た。
 ―――若林!
 彼は、若林、と呼ぶ。昔は源三、と呼んでいたのだが、高
校に入ったあたりで源三坊ちゃんが嫌がって(若林は自分の
源三という名が嫌いだったのだ)若林と呼ばせたのだ。 
 ―――俺、日向さんに会っちゃったんだっ。……
 ―――日向さんって、日向選手?
 若島津の大学のSCの今の監督が、なんでも昔の日向小次
郎の恩師なのだそうだ。その関係で、彼は、恩師の教えてい
るSCをのぞきに来たのである。
 ―――日向さんのシュートを受けたんだ、今日。やっぱり
うちのFWとはケタ違いのパワーだよな。やっぱり世界の日
向小次郎だよ。
 頬を上気させて日向の事を話す健の姿を見る若林の左胸
に、ずきりと、近頃親しんだ痛みが走った。何かというと、
若林はもう一年近く前に、このいとこを好きで好きでたまら
ない自分の感情に危険なものがあるのを、気付いてしまって
いるのである。
 アブない。だけど否定出来ない。彼はO型である。よく自
制出来たもんだの一年である。
 しかし、小康状態を保っていたその病の進行をうながした
のは日向小次郎である。 
 無理やり行動に出ちゃったら、と思わない事もなかった。
何せ身長百八十七センチ。ハタチのガキとは思えない、いわ
ゆるイイ体をしている若林君である。いとことは、身長にし
て八・五センチ、ウエイトにして十二キロの差がある。これ
は大きい。幾ら力の差があるとはいえ、持久戦に持ちこめ
ば、なんて腐った事を考えた事も。
 でもやっぱり健が大事な事には変わらなかったので。
 一番大事ないとこを傷つけないよう、彼が暴挙に及んだ事
は一度もなかった。
 日向小次郎と自分を比べてどっちがいい男かなーなどと
思ってみたりするのだけど、そんなん判る訳ないやね。はっ
きり云ってそれは次元が低くて下らない疑問だという事は若
林君にも判っていて、可哀想な青少年はしくしくと内心泣い
て耐えるしかないのだった。
 健は、薄く開いたまんまだったドアを片足でぽんと蹴って
開け、トレーに乗せた朝食を持って来た。
 湯気をたてたそれをベッドの脇に置くと、健はぱたぱたと
手を拭って、赤いチェックのエプロンをはずした。その
チェックの、凶悪な程可愛いエプロンは、彼のゼミの女の子
からのプレゼントだった。
 ゼミの女の子は、学祭に来た、健のハンサムないとこを覚
えていて、若林君に、と云ってお揃いの黒のチェックのエプ
ロンをよこした。
 もらった瞬間絶句したそれを若林はまだ使った事はなかっ
たが、健にそのエプロンは似合っていた。
 健は小マメに料理を作る。食事当番は主に健で、理由は、
若林の味オンチである。いや食うだけならそれなりに味も判
るのだが、惜しむらくは若林は、作る時には、致命的に味の
加減が判らなくなるのだ。彼の作る料理は、芸術的な程破壊
的な味であった。
 健の母が料理がうまい。健の姉の料理もうまい。うまい料
理を食べつけているせいで、健は早々に、若林の不味い料理
に音を上げた。
 それがだいたい同居後二、三ヶ月後の話で、それ以来、料
理は殆ど健の担当となった。
「俺、今日出かけるのよそうか?」 
 健は首をかしげるようにして若林を見た。 
「え……ああ、日向、さんと試合を見に行くんだっけ?」
 若林はぼんやりとつぶやいた。
 そうなんである。健は今日、日向と約束がある。一昨日く
らいに待ち合わせの電話をしているのを若林も聞いていた。
 健はなつっこい。人に好かれるタチである。
 日向もあれだけ慕われていれば、健を気に入らない筈はな
かった。
「そうだけど、お前悪そうだし―――別に無理に行かなくて
もいいからさ。……キャンセルしようか?……」
「いい、いい」
 若林は笑って首を振った。汗がにじんでいる。その汗を
こっそり手の甲でぬぐった。
「行ってこいよ。お前楽しみにしてただろ? 日向さん来月
帰っちまうんだし」
「そうか? 大丈夫? 一人で寝てて」 
「たいした事ないって。こんな熱すぐに下がるから」
「……。じゃ、行ってくるけど。早目に帰って来るからな」
 まるでノリは母親である。
 その考えが笑いを誘った。健は優しい手を伸ばして若林の
額にもう一度触れた。その指の感触の甘さに息をつめる。
 うわあ。
 アブねェなあ。 

 熱あがって来たかな。
 頭痛が先刻からひどくなっていた。こめかみがガンガン痛
んで、喉が乾いた。キッチンまで水を飲みに立つのが面倒
だった。
 彼は丈夫な事にはかなりの自信を持っており、おかげで部
屋には体温計の一本もない。
 健がよく軽い頭痛を起こすので買っておいた、エキセドリ
ンが常備してあるだけである。
 寝返りを打つ。
 小さい頃から丈夫だったけれども、たまに熱を出した時、
源三坊ちゃんは、そういえばいつもこうやって一人で寝てい
た。
 寝返りを打ってうって、でも苦しさはなくならなくて、で
も、側にいて額の上に手をあててくれる人は誰もいなかっ
た。
 広い家だった。
 天井が高かった。
 天井の淡い模様がうねうねと曲がって、頂度彼が昼間見た
TVの中の怪獣のような形に凝り固まって降りて来たり。そ
れに悲鳴をあげて、自分の叫び声に驚いて眼をさました事も
あった。
 あの天井が、だから彼は嫌いだった。
 健の家の天井の木目が好きだった事を彼は思い出した。家
族みんなで御飯を食べると、必ず長女の沙枝が寝かしつけに
来るのである。  
 健の隣に敷いてもらった布団に入ると、布団の上をはたは
た叩いて、その頃で高校生くらいだった沙枝は、若林の髪を
なでて、電気を消して部屋を出てゆく。木の廊下を歩いてゆ
く軽くてしめやかな音に安心して、健の家に泊まるといつも
すぐに寝ついてしまったもので。ええ。
 かわいそうに。彼はあたたかい手が欲しかった。それは父
親のでも母親のでも良かった。寝つきぎわに髪をなでてくれ
る優しい手が欲しかった。それはもう、体中に染み込んで心
臓にまで色をつけた寂しさ。
 そういえば。 
 母が家を出て行った日も若林は微熱で寝ていた。
 眼を開けると、妙に険しい顔の母が、彼の枕許に坐ってい
た。
 ―――お母さん、もうここのうちの人じゃなくなるの。
 母は疲れた顔をして云った。
 眼の下がくぼんでいて、この頃の母はめっきり老けこんで
しまっていた。
 ―――ごめんね。でもお母さんもう駄目なの。
 駄目なの。そう云いながら、母は泣きもせずに背中を丸め
た。いかにも疲れたといった様子だった。
 源三坊ちゃんは、眼を見開いてその母の顔を見つめた。
 父と母が仲が良くないのは知っていた。私出て行きます、
とこの頃母が云うようになったのも知っていた。
 出て行きます、と云って、母が行ってしまう事を一番怖
がっていたのは彼だったのだから、誰よりもその事を考えて
いた。
 ―――もう帰って来ないの? 
 彼がおそるおそるそう口にすると、母はふうっと深い深い
溜息をついてうなずいた。
 ―――もう帰って来ない。ごめんね。源三さん。
 お母さん駄目なの。又一度そう云って、母は乾いた眼をし
ばたたいた。
 喉が痛かった。
 風邪を引いて痛かったのではないような気がする。痛みの
塊が喉につっかえた。
 つっかえたそれは彼から涙をしぼり出そうとしたが、しか
し、涙は出て来なかった。 
 お母さん。お母さん。
 お母さん。
 そう叫ぼうとしても声も出て来ないようだった。泣きもせ
ずに、何も云わずに自分を見つめている末っ子をしばらくな
がめていたが、母は又溜息をついて彼の部屋を出て行った。
 お母さん。 
 苦しいから叫べないのだ。母はそれを判ってくれなかっ
た。
 振り向いてくれない母のグレーのスーツの背中が眼に痛
かった。
 お母さん。
 叫べなかった母の名の記憶はずいぶんと長い間苦しいもの
として残った。あれから十五年もたつのに、痛みはまだ生々
しい。
 若林は寝返りをもう一度うった。
 シーツに汗がしみこんでいて、湿ったシーツの感触が不快
だった。 
 あの後、彼は埼玉のいとこの家に出かけたのだ。
 小学校に上がる前の話である。しかし、一人で駅にゆき、
電車に乗った。
 静岡からO市まではJR線(その頃は国鉄だった)で一
本。一本とはいえ、新幹線でも乗りゃともかく、かれこれ三
時間半はたっぷりかかるのだ。
 熱を出した五歳の源三は、小づかいで買った切符を握りし
め、T線に乗った。
 O―――駅についた時にはあたりはすっかり暗くなってい
た。O駅からバスに乗る。
 バスで二十分。よくバスの事まで覚えていたものだ。
 バス停からふらふらの足を踏みしめて彼が若島津家の門の
前まで来た時、門の前には、頂度買い物から帰って来た叔母
と、道着を着た健が、家に入ろうとしていた所だった。
 夕刻の道で若林は立ちすくんだ。
 ―――源三ちゃん?
 叔母が彼に気付いてそう呼びかけた。
 駆けよりたかったが、甘え方をしらなかった五歳の彼には
それが出来なかった。
 健が、その代わりにこちらへ駆け寄って来た。大きな眼が
彼を覗きこんだ。
 ―――泣いてる。
 そう云われて、彼は、初めて自分の乾いていた眼が涙に
曇った事に気付いた。
 泣いてない。
 そう云おうと思って開いた口で、彼はしゃくりあげた。
 涙は後から後から湧き上って来て止まらなかった。
 叔母がどうしたの、と尋く声にも答えられなかった。
 哀しくて泣いたのか。嬉しくて泣いたのか、今だにその涙
に説明はつかなかった。
 ただ眼も喉も熱くて、止まらない水があって。
 若島津家の古びた門と、板塀と、板に絡んだつる草と、夕
刻の光と。 
 哀しい痛みと、痛い程の悲しみと。そんなものがまだ、胸
のどこかにある。
 ―――どうして泣いてるの?
 健の声が優しかったのを覚えている。
 ―――……し。
「若林」
 健の声の記憶はいつも優しかった。
「若林!」

 彼は、いきなり現実に引きずり戻されて眼を開けた。
「―――健」
「ごめん。起こさない方がいいと思ったんだけど。……」
 健は小脇に抱えていた紙袋を下ろして、若林の額に触れ
た。
「うなされてたし。……熱、上がってるじゃないか」
「……お前、日向さんは……?」
 若林は、自分の目尻に涙が溜まっている事に気付いたが、
腕を上げてそれを拭うのも面倒で、息を大きく吐いて眼を閉
じた。
「試合見てすぐ帰って来たんだ。気になってさ」
 健は紙袋の中からガサガサと体温計を取り出した。つい
で、風邪薬。
「苦しいか?」
 若林はゆっくりと首を振った。
「苦しそうだぜ。馬鹿だな、朝、悪いんなら悪いって云えば
良かったのに」
「朝はそんなに悪くなかったんだ。……それにお前楽しみに
してたろ」
 ぼそぼそと呟くと、健は切れ長の眼をきらりとさせて、
少々怒った顔になった。
「俺の楽しみよりお前の健康のが大事だってば。やだなあ、
もう」
 これだからO型は、とぶつぶつ云って、A型のいとこはタ
オルを濡らしに立った。
 若林は、何だか信じられない気分でその後姿を見つめた。
 料理がうまくて、頭が良くて、優しくて強くて美人。この
人本当に俺のイトコだろうか。彼がそう思っても無理はな
かった。
 やがて濡れタオルを持って戻って来た健は、若林のベッド
に坐って、若林の布団をひっぱって直し、タオルをきちんと
彼の額にのっけた。
「若林」
「―――……何だ?」
「お前、俺に変な遠慮すんのよせよな。……俺とお前ってい
わば家族みたいなもんでしょ」
 健の声は一度照れたように途切れ、少し低く、言葉が続い
た。
「叔父さんアレだから一緒に住んだりとかは出来なかったけ
どさ。でもホント家族同様だったろ? お前って」
 若林はゆっくりタオルをはずした。タオルをのせていた視
界はぼんやりと曇っていた。白っぽく霞んだ健の顔は、何だ
かいつもよりもう少し又優しくて。
 これは。
「―――若林……?」
 かがみこんで来た健の方へ、彼は身体を起こした。健の肩
口に顔を埋める。ほのかに温かい身体を抱きしめる。
「……若林」
 健は彼に抱きしめられたまま、片腕を上げた。指が髪に触
れる。涙がシャツの布に染みた。
 きっと明日になったら死ぬ程恥ずかしいに違いない。
 若林はそう思った。
 健の手が優しい感触で、若林の髪を撫でつけた。汗ばんだ
掌で、若林は健の頬に触れた。
 健の目蓋に触れた指でゆっくりとその眼を覆う。眼隠しす
るように彼の眼を覆ったまま、若林は、健の唇を探った。
「……若林」                  自分の
唇の下で健の唇が開くのを感じる。自分のそれよりもわずか
に柔らかい。腕で彼を戒める事に集中しながら、若林は、健
の唇を絡め取った。吸い取るようにして唇の柔らかさを味わ
う。 
 鼻にかかった声の混じる喘ぎをもらし、健は微かにもがい
た。
「……若林!」
 健の声が少々強くなった。若林は苦しい息と一緒に、言葉
を一つ吐き出した。 
 きっちりとそれが聞こえたかどうか。
 今一つ不安だったが、若林は次の瞬間、あんまりびっくり
して身体をすくませた。かこいを作るようにゆったりと若島
津の腕が彼の首に巻きつき、力をこめた。
「……ごめん……」
 思わずうろたえて謝ると、若島津が小さく笑う感じが伝
わって来た。
「……お前馬鹿だよ」
 その言葉の割に声はひどく優しくて甘くて。何だかそれは
睦言にしか聞こえなかった。
 これはおかしい。おかしいけど。
 甘い感触と吐息と。
 健が抗わないのか不思議だった。これは赦しだろうかと
思った。
 なら、あのあたたかさを自分のものと呼んでもいいのだろ
うか。 
 若林の胸に凍りついたままもがく事も出来なかった、小動
物のような苦痛がちりちりと叫び、そしてゆっくりと溶け始
めた。
 ならば、一人で、高い天井がゆがむのをもう見つめなくて
もいいのかもしれない。
 これは救い。赦しと救い。
 寂しい冷たさの魂は、そうしてゆっくりと形を変えて行っ
た。
 ―――家族。
 還る処が欲しかったのだろう。あの豪華で温かな感触が、
こんなに欲しかった。 
 たぶん、熱にきしきしと痛むうなじに回った腕に力がこめ
られた瞬間を、もう一生忘れられないと彼は思った。かわい
そうに、かわいそうにね。ささやかな感情がこんなに豪奢な
ものになる事だってあるのだ。

 若林の風邪は治るまで三日かかり、はっきりとした言葉で
許可と告白をくれた優しいいとこは、彼から風邪をお返しに
もらった。
 日向選手はお見舞の電話をよこし、電話に出た若林を知っ
ていると、快活な美声で彼のプレイをほめた。
 ―――君等のどっちかが、うちのチームに来てくれないか
と思ってるんだがな。
 日向選手は感じがいい。明朗で歯切れのいい話し方をす
る。若林に当惑と、健に恐縮を残して、彼は太陽のイタリア
へ帰って行った。
 不幸な人が一人。不幸だった人が一人。
 でもとりあえず近くなった二つの存在の手触りは、羽根の
布団のように軽くてあたたかで、高級だった。

        END


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