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[夢の卵]_01_「夢の前哨戦」

02 15 *2016 | Category オリジナル::夢の卵

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文庫数年前。初めての。

続き





 遠くでサイレンが鳴っている。
 上野詩草は、風に乗ってくるサイレンの音に耳を傾けるまいとした。彼は以前からサイレンの音に敏感だった。元々サイレンの音には獏々とした響きがあるが、ことに火事のサイレンは彼の中に、しめつけられるような寂しさをもたらした。
「……この辺よくあるんだよ、火事」
 酒を作りながら黒沢が振り返った。詩草はうなずいた。黒沢に酒を作らせて、自分がソファに座っているというのは、少し居心地が悪い。作家の黒沢太夏志は詩草の雇い主だった。詩草の大学のOBで、その縁で詩草は黒沢の仕事の手伝いをすることになったのだ。
 黒沢は最近になって、一仕事終わった後、しばしば詩草を食事に誘うようになった。彼が自分の仕事ぶりを気に入ってくれているのは分かっている。そうでないなら、同じ学生アルバイトでも、黒沢は女性を選ぶタイプに思えた。たぶん今まで、周囲に異性を欠かしたことはないだろう。そんな黒沢が特別に自分の仕事を気に入ってくれているというなら、それは嬉しい。
 だが、夕食を一緒に摂るというのは、それとは別だ。特に、夕食を共にする異性にこと欠かない男にとっては。
 彼が詩草に興味と好意を示しているのは分かり始めたが、良くも悪くも平凡な自分、しかも資料整理のアルバイトに通う大学生などに、黒沢が何故そんなふうに構うのか理解しづらかった。
 詩草には黒沢は目を見張るように男性的に思えた。詩草がどうあっても平凡だとすれば、黒沢は良くも悪くも男だった。並みはずれて大柄な体格を鈍重に見せない、猫科の大型獣のようにシャープな顔だちを兼ね備えた黒沢は、いかにもコンプレックスに無縁な自信家だった。作家という言葉から想像される線の細さがなかった。同性の詩草の目から見ても、ひどく誘因力の強い男だった。
 今夜は、外で夕食を一緒に摂った後、うちに戻って飲まないか、と云われて、黒沢の部屋に舞い戻った。こんな風に夕食後の黒沢の誘いに応じるのは初めてだった。彼にはまだ、黒沢という男が理解しきれなかった。
 詩草は、物慣れた大人の男に誘われて戸惑う、若い女のような心境になっていた。側にいると居心地が悪いくせに、一歩かたわらを離れると、その男のことしか考えられない、恋をした若い女のようだ。
 それに自分で気づいた時は狼狽した。黒沢に気づかれたくなかった。あまり断り続けると、反対に黒沢を意識していることを彼に看破されそうで、今夜はわざわざ戸惑いを抑えて、この部屋に戻ってきたのだ。
 黒沢が戻ってきて、詩草の前に水割りを差し出した。
「ありがとうございます」
 グラスを受け取って口をつける。以前詩草が外で飲んだ時、この濃さがいいと云ったそのままだ。黒沢の傲岸とも云える言動と、この細かさのアンバランスが、異性にとっても快いだろう。
「友達の話とかしないんだな、上野は」
 黒沢は向い側に座り、自分のグラスには口をつけずに煙草に火をつけた。リビングのグレーのソファに、黒沢の大柄な身体がしっくり溶け込んでいる。一見攻撃的なタイプにも思えるのに、そういえばマンションの内装や、身につける服にも、黒沢は激しい色を使わなかった。黒沢が黒を身につけているのを見たことがない。どんな色を選ぶのにしても、グレー味のかかった渋い色を好むようだ。色合いに統一性があるから、黒沢の女友達の好みというわけでもないのだろう。詩草は黒沢の質問に答えていなかったことに気づいてはっとした。
「友達ですか?」
 聞き返しながら戸惑った。黒沢の目を見つめ返しながら、詩草はつい考え込む。自分がこの男に、大学の級友の失敗談や何か、そんなことを聞かせているところなど想像出来なかった。彼がそんなことに興味があるとは思えない。それとも作家というものは、どんなことも材料として取り入れるために、耳を傾けようとするものなのだろうか。
「特に意識してしてないつもりはありませんけど。……」
 そもそも自分には話を面白くデフォルメするような能力がないのだ。作家である黒沢には、それがれっきとしたひとつの能力だということが分かるはずだ。面白おかしく話をするのは、そういう能力にたけた人間がすればいい。ほんの少し腹立たしく、恥ずかしいような気分で詩草はそう思う。
「興味があるんだ」
 黒沢は煙草の煙を吐き出し、酒をひとくち飲んだ。彼は本当にうまそうに煙草を喫う。詩草はその様子を眺めながら思う。身体に悪いから、などと黒沢に余計な進言をする気になれない理由のひとつだ。
「上野がどんな友達とつき合ってるのか、普段どんな話をしてるのか」
 俺と話す時には多少構えてるだろう? 黒沢は声に多少の笑みを含ませた。
「年上だし、友達、ってわけでもないし」
 彼が自分に何を話させようとしているのか詩草には分からなくなって、一瞬頭に淡い膜がかかったようになった。動揺したり、不意をつかれたりすると、彼は時々こうなった。頭の芯に、薄曇りに似た意識の濁りが訪れる。『それ』がくると詩草はいつも、うまく顔に表情を乗せられなくなる。詩草の中でどこかが凍りついてしまうようだ。
「どうしてそんなことを訊くんですか?」
 彼はつぶやいた。
「興味があるんだ」
 黒沢は生来の甘い声をゆっくりと沈ませて繰り返した。
「お前この間、女を誘わなくていいのかって云ってたよな」
 そんなことを云っただろうか、と詩草は考えた。
 そしてそれを思い出した。そうだ。あまり食事に誘われる回数が増えたせいで、僕を誘うより、もっと誘ったほうがいい方がいるんじゃありませんか、というような云い回しをしたのだ。
「ほかの女を誘えない理由が出来たんだ」
 黒沢は相変わらず微笑混じりだ。
「黒沢先生はお知り合いが多いですから、その分事情も増えるでしょうね」
 思わずそっけない皮肉な云い方をして、詩草は自分の言葉に驚いた。自分はそんなことを云えるような立場ではないはずだ。ふと目を上げると、黒沢の真っ黒な目が、微笑の影で詩草を見つめている。
 不意に、自分の胸の左に、動揺を具象化したような塊を意識した。ゆっくりと鼓動が早まった。今日、このマンションに戻ってからずっと感じていた居心地の悪さが増したようで、詩草は身じろいだ。気のせいだ。まるで黒沢にアプローチをかけられているように感じるなんて、とんだ思い上がりだ。詩草ははっとした。思い上がりという考え方そのものがおかしい。
(僕が黒沢先生にそうして欲しいみたいだ……)
 早まった鼓動にさらに火が点いたような気分になる。
 遠くで鳴っていたサイレンが、不意にマンションの間近で沸き起こって、詩草は身をすくませて顔を上げた。火事が思いのほか近いのだ。
 黒沢は、飛び上がらんばかりの詩草の様子を見て、可笑しそうに目を細めた。立ち上がった。グラスを置いて詩草のかたわらに立つ。もの云いたげな沈黙が頭上から降ってくる。詩草は思わず目を伏せて、しまった、と思った。反対に顔を上げるべきだったのだ。視線を上げるタイミングを見つけられなくなった。サイレンが鳴り続けている。窓の外から聞こえてくるそれは、詩草の中にある微弱な恐怖心の表れであるように象徴的だった。海の波が盛り上がり、引いてそがれてゆくように、サイレンは闇の中で赤く伸び縮みしている。
「何ですか?」
 ようよう詩草は云った。いつもと変わらない声が出たと思った。元々彼は声に動揺が出ない方だ。自分の声に救われたように思って顔をあげた。
「!」
 雄弁な瞳に出会って詩草は凍りついた。黒沢は、その切れの長い鋭い瞳にものを云わせる術を心得ていた。詩草が彼の目の意味に気づいたことを知ったように、ソファの詩草の隣にかけた。ソファのスプリングが、隣の男の重みを受け止めるのが分かる。相変わらずサイレンの音は、幾重にもいびつな放物線を描いて、詩草のイメージの闇を飛びかっている。自分の不安をかきたてるものが、サイレンの音なのか、黒沢の行動なのか分からなくなり始めた。
 黒沢の指が伸びて、詩草の前髪に触れた。彼の手の熱気が伝わってきて、思わずびくりと身をすくませた。
「どうした?」
 黒沢の声はもうささやきのように低められている。前髪を指が巻いて、そのひと房に微妙な力がかかった。
「それは……僕の台詞です。どうしたんですか」
 詩草はもう目を開けていられないような気分になってきた。
「ほかの人を誘えない理由だよ」
 前髪をとらえて引いた指が離れ、代わりに炎のように熱く乾いたてのひらが詩草の頬を包み込んだ。その熱気は決して不快ではなかった。思わず衝動のままに目を閉じる。
 最初に熱がおとずれた。次に感触が。おだやかな羽のような熱気が唇をおしつつみ、次いで圧倒する生々しさが唇の中にすべりこんでくる。彼の頬に触れていたてのひらはいつの間にか両肩をとらえている。指の長い大きなてのひらに握り込まれるように肩を包み込まれて、黒沢の身体に覆われるのを感じた。詩草はソファの背と黒沢の胸とにはさまれて、その快い圧迫に喘ぎを漏らした。
 狼狽や疑いや、そんなものを圧倒する甘美さに、詩草はそれが自分の望みだったことに気づいた。拒否しようと思えば拒否することは出来る。黒沢は決して強姦するような真似はしないはずだ。そんなことをするには、彼は余りにも余裕があって飢えに縁のない男だ。彼を嫌ではないのだ。拒めないとすれば、それは自分が黒沢に触れて欲しいからだ。
「待って、ください……」
 彼は必死に黒沢の胸を押し返した。ただ、彼は黒沢が怖い。同性だという以上に、知り合ってそれほど時間がたっていないという以上に、黒沢という男の持つ誘因力が怖い。彼の引力にとらえられて、無防備に地上へと墜落して行ってしまいそうだ。誰に対してでも、そんなふうにのめり込むのは怖い。自分の半身がもぎ取られるのが怖い。一歩一歩慎重に歩いて、おだやかに訪れる人間関係を、友人にも恋愛にも彼は求めた。
「これが理由なんだ」
 黒沢は、暗に詩草のために身辺整理をしたと匂わせる。
 それは傲慢すれすれの押しの強さだ。
「上野は俺が嫌い?」
「そんな、ふうに考えたこともありません」
 これが嘘だと黒沢は見破るだろうか。羞恥に熱くなりながら詩草は顔を背けた。
「分からないんです。急ですから。……こんなに急に……」
「お前だって急だった」
 黒沢の唇が耳元に触れる。詩草はその熱さに身震いする。
「何がですか……」
 声がかすれそうになった。
「急に、俺から根こそぎ持って行った」
 仕事も手につかない。今まで楽しくやっていた女への興味もなくなった。
 黒沢はそう続けた。詩草をソファの背からそっと引きはがし、あおむけに寝かせて覆いかぶさってくる。その動作は強引だが、おそろしく手慣れてソフトで、詩草はいちいち逆らうタイミングを失った。首筋に落とし込まれたキスが音をたてて離れた時、鋭い快感が背中に放射して、詩草は声を漏らしそうにさえなった。
「黒沢先生、待ってください。……少し考えさせてください」
 息が上がっているのが分かる。彼は力の抜けた背筋をよじり、黒沢の胸から逃れようとした。
「何を考えるんだ? 男同士なんて、考えたら考えるだけ、やめた方がいいような気分になるだけだ」
 黒沢は頬や耳元、唇に短いキスを繰り返しながら囁いた。自分が、開いた膝の間に、女のように黒沢の腰を迎え入れる体勢になっていることに気づいた詩草は、もう逃げられないと思った。服の上からも熱いてのひらが太腿の上を這い、ゆっくりと膝の内側に滑り込んでくる。
 何よりも、自分が逃げたいと思っていないのだ。

 母が死んだ時、彼は小学生だった。小学校五年の春までは、世田谷のアパートで母と二人で暮らしていた。父の顔は知らない。母は十代の頃、結婚せずに詩草を産んだのだ。無口な人だった。話しかけても答えてくれないことも多かった。時々、無性に苛々した顔をしては、ものも云わずに昼日中から布団に入り、何時間も死んだように眠っていた。詩草はいつも母の背中を見ていたような気がする。
 母が死んだ前後のことはよく覚えていない。ぼんやりしていて、やはり記憶に薄い皮膜がかかったようになっているのだった。ある日、目を覚ますと病院にいて、群馬に住む伯父の妻の蓉子伯母が見舞いに来た。お母さんは? と訊くと、お母さんは来られないけど心配ないわ、と伯母は涙ぐんでそう云った。
(お母さんは死んだのかもしれない)
 詩草は蓉子伯母の涙を見てそう思った。その後も母については誰も一切触れなかった。詩草が入院した理由についてもはっきりとは教えて貰えなかった。
 退院した後はすぐに群馬に住む伯父の家に引き取られたが、伯父夫婦は、暫くして詩草の入院中に母が亡くなったことだけを簡単に教えてくれた。でもお墓にも連れて行ってくれなかったし、伯父の家には母の遺影もなかった。彼は写真が欲しくてたまらなかったのだが、蓉子伯母が母を嫌っていることを知っていたから、母の写真のことは言い出せなかった。蓉子伯母は昔から詩草にはとても優しかった。その優しさにはどこか気詰まりなところがあったが、詩草は嬉しかった。伯母に嫌な思いをさせたくなかったのだ。
 母は火事で死んだのではないか。十年たって詩草はそう思うようになっていた。十年前入院した時、彼は肺と気管支を傷めていた。ずいぶん長いこと咳で苦しんだのも覚えている。
(僕、どうしてこんなに咳が出るのかな)
 そう尋ねると、伯父は、肺炎みたいなものだ、と、そう云った。
 その言葉を疑った訳ではないが、サイレンへの恐怖心と、あの入院の際の症状から、おそらくあの下馬のアパートは火事で焼けて、自分たちはその火事に巻き込まれたのだろう。彼の腕や足には小さな傷跡がいくつかあって、もう薄くなってほぼ消えかかっているが、それは火傷のあとに見えないこともない。あの入院の前後のことはまったく覚えていないのだ。
 大学に入って上京した後、詩草は一度、元のアパートのあった場所に、記憶を頼りに出かけてみたことがある。もうその場所には高層マンションが建ち、管理人も何年も前にそこにあったアパートの行方など知らなかった。
 市役所に出かけていくとか、警察の記録を見て貰うとか、幾らでも調べる方法はあるはずだったが、彼はそうしなかった。知らない方がいいことなのだと思った。自分がその前後のことを覚えていないのにも、伯父夫婦がそのことを詩草に隠すのにも訳があるに違いない。あるいは自分は、母の焼死体でも見たのかもしれない。
 詩草はそれを想像してぞっと身を震わせた。それを思い出すくらいなら、ずっと知らないままでいた方がいい。最悪の事態を考えれば、その火事が詩草と母の部屋から出た、というようなこともあり得る。子供のことだから、失火の原因を自分が作ったのかもしれないとも思った。それは吐き気のするような発想だった。知らないでいようとする自分を卑怯だと思ったが、脚がすくんだ。
 それ以来ずっと、どこか彼の心は強張っていたような気がする。誰にも頼ってはいけない。詩草はようやく決心した。誰かに依存しすぎると、自分の側から去られたときに、またこんな虚無的な喪失感に襲われだろう。もう耐えられないと思った。過剰な思い入れを誰かに向けて、それに答えて欲しいと思う権利も、きっと自分にはないのだ。無闇にそう思いこんだ。
 母に子供を産ませた男……父が、自分たちをかえりみなかったことも、詩草には寂しかった。母に、そして生まれてくる自分に情はなかったのだろうか。一度でも会ってみたいと思ったことはなかったのだろうか。

 半年前、教授から、彼の仕事を手伝ってやってくれないか、と黒沢太夏志を紹介された時、詩草は思わず目を見張った。
 黒沢は所作のひとつひとつまで重厚で、しかし華やかな男の匂いがした。傍若無人なようでいて奇妙に慎重な部分もあった。身体が大きくて威圧的だが、声が甘くて優しい。考え方もおおむね公平だった。何よりも不思議なほど包容力があった。年齢は詩草と十歳違うか違わないかの黒沢には、詩草が漠然と抱く、父親のイメージがあった。
 自分が彼にそんなものを求めても、彼から返されるはずがない。詩草は黒沢に傾倒しかねないことを自覚して、彼に近づくまいと何度も思った。バイトの期間が過ぎ、黒沢に、長期的に仕事を手伝ってくれないか、と云われた時も、やめた方がいい、と心のどこかで警告する声があった。しかし葛藤するまでもなく詩草の唇からは、するりと承諾の言葉が抜け出していた。
 この男の側にいたいのだ。父親に甘える幼い子のように。黒沢の自信家ぶりも傲慢さも、時折足を止めて周りをかえりみる余裕も、皮肉な繊細さも、詩草には好ましかった。彼は詩草の思う理想の男性像に近かったのだ。黒沢のような父がいればどうだったろう。自分はどう変わっただろう。空を飛ぶ夢を見るような少年時代を過ごすことが出来たのではないだろうか。
 彼は飛ぶ夢を見たことがない。子供の頃からいつも落ちる夢を見た。土を焼いたようなもろい床の上を静かに歩く。なるべくそっと足を運んでいるのに、自分の重みに耐え切れず、床は崩れる。その下には暗い闇だ。はるか下方の闇のそこに、昏い火が燃え盛っている。詩草はその中に落ちてゆくのだ。
 そういう夢を見るとき、無口な母と下馬のアパートで暮らした少年の姿に、詩草は気持ちの中でたち還っている。子供の姿に戻って、黒沢のように熱い皮膚を持った父に抱かれたかった。

 黒沢は、詩草に考える時間を与えまいとするように、最初は彼をソファの上で裸にした。淫猥になる直前で抑制した言葉の遊びを、彼は詩草の耳元に繰り返し仕掛けてきた。てのひらで愛撫しながら、彼が示した反応について、または彼の身体の外観について、目に見えるように囁きかけてくる。
 黒沢の戯れに、詩草はかつてなく高ぶった。興奮がみぞおちから胸元、首筋を伝って耳元へ、そしてうなじまで、波のように駆け上った。甘い雲につつまれたように耐えず新しい興奮が補給されて、ベッドに行く前に疲労したほどだった。詩草には高校時代、好きで付き合った女性がいて、彼女と快楽を共有したことがある。彼女も詩草もやや淡泊でぎごちなく、技巧的とは云えないソフトな交わりで双方が満足することの繰り返しだった。
 詩草は、自分の中にひそんだ淫蕩な根を、体の最奥に手をかけて、黒沢に引きずり出されたような気分だった。それは彼の中に隠れた、自分自身にも未知の部分だった。黒沢を欲しがっていたことは、もうさすがに否定できないが、こんな快楽があり得るとは想像がつかなかった。他人のてのひらの中で煽られ、握りしめられて達するのも初めてだった。快楽を吐き出すタイミングを何度もそらされて、泣きたいほどかたくはりつめ、女性の中とはまた違う、痛いような快感に身悶えた。
 彼が高まってしまうと黒沢は、汗ばんだ皮膚を汚した体液を拭い、自分のシャツを着せかけた。肩を抱くようにして立たせ、寝室に連れて入った。もう抵抗しようという気は失せていた。高まった後の呼吸さえまだ整っていなかった。
 黒沢は自分も服を脱いだあと灯りを消し、詩草からもう一度服を剥き取った。灯りを消す直前に見せつけられた黒沢の男性的な身体の下で、背ばかりが高い自分は貧弱に思えた。今度は黒沢はほとんど口をきかず、愛撫に鳴る舌の粘りさえ明らかに拾う、やりきれなくなるような静寂の中で、まぎれもない男の身体に口づけを降らせた。
 今まで彼を攪乱していたサイレンはいつの間にか止んでいる。
 黒沢のキスは詳細に渡って、詩草の身体中に忍び込んだ。そんなこともあるのだとは知っていたが、体内に指が入り込んできた時、快感と嫌悪感の両方に詩草は顔をゆがめた。これが暗やみの中でなければとても耐えられないと思った。
 彼のその思いを読んだように、その、じれったい快感の基から指を抜き去って、黒沢が不意に体を起こした。
 二人の身体に、申し訳程度にかかっていたシーツをはぎ落としたかと思うと、黒沢は突然灯りをつけた。洸々と白い灯りが、部屋の中で起こっていることを、全てあきらかに照らし出す。詩草は身体を強張らせて顔を覆ったが、かえってそのせいで下腹に熱がわだかまったようになった。黒沢先生、と抗議のためにあげた声は、誘いと聞き間違えられそうに濡れていた。
 詩草はベッドの上であられもなく身体を広げられたまま、せめて自分は見るまいとしてまぶたをきつく閉ざした。
 赤い闇の中で、彼の胸にこわばった突起を、歯と舌が吸い上げて、背中が跳ね上がった。余韻に痺れた背筋の深くを、違う方向から揺らすように、また詩草の中に指が入ってくる。唾液か薬品か、詩草には判らないぬめりで充分に濡らされたその指が、準備のために彼を慣らしているのは分かった。苦痛や、おそらく今以上の嫌悪を伴うだろうと知りながら、インサート無しではおさまらないようなやるせない興奮が、受け入れる側の自分にあるのが不可解だった。
 だんだん息が苦しくなってくる。息が上がっているせいで、喉の奥まで乾きはじめた。黒沢の指が時々、痛いような刺激を彼の中から掻き出してくる。そのたびに震えが沸き立ってくる。
 これだけ彼を翻弄しながら、どこに触れるのにも黒沢の愛撫はソフトで、要領がいい。耳元で、彼に確かめる意味合いの言葉を囁かれて、足をゆっくりと押し広げられた時、腿の内側に触れた感触に、このあからさまな静けさの中で、黒沢がコンドームの封を切る音ですら自分の耳に届かなかったのに詩草は気づいた。
 終始、より愉しみを共有するための羞恥しか、黒沢は詩草に与えなかったのだ。

 長い時間満ちて欠ける黒沢の波に揺らされて、途中から我を忘れたのは詩草の方だった。涙がにじんで自分の頬を滑り落ちるのが分かる。後から後から涙が出た。このまま死んでしまいたいほど気持ちがいいのに、どうして自分が泣くのか分からなかった。嗚咽が漏れるようなことはなかったが、涙腺がおかしくなってしまったように涙だけは止まらなかった。皮膚が滑って黒沢と離れるのが頼りなくて、彼は最後には涙に息を詰まらせて、自分からしがみついた。
 黒沢は、貝殻骨の浮かび出た詩草の背中をしっかりと抱き返し、涙に濡れた頬に口づけてくれた。どこか見たことのない父親と彼をダブらせていた、ゆがんだイメージが消えて、黒沢本人で埋めつくされていくのを感じる。黒沢は彼が男と寝るのが初めてかどうかを尋ねた。抵抗を感じる余裕もなく頷くと、笑って、
「初心者同士楽しもうぜ」
 そうささやいた。
 涙を流し始めた頃、黒沢はそれも技巧のひとつなのか、初めて彼の名を詩草、と呼んだ。抱きしめられて呼ばれる名前は、詩草の気持ちを興奮とは別の部分で高まらせる。甘い痛みに胸をしめつけられて、自分から黒沢に頬を押しつけた。
 彼が高まってしまわないように、快楽をそらし続けていた指がようやく意図的に動き始めた。自分の身体の二か所に加えられる摩擦の中に詩草はおぼれ込み、突然引きずり上げられて、唇を噛んで高まった。喉元に新しい汗がにじんだ。それは一人で慰める時のような失墜ではなかった。彼に折り重なる身体の充実した手応えが虚しさをふせいだ。詩草は息を止め、声の混じったため息を吐き出した。
 黒沢が彼から離れ、いくつかの気配があって、彼は身体を拭われているのに気づいた。乾いた布の感触が快い。危うく眠りに落ちそうになるが、さすがに黒沢の隣で眠り込むほど図々しくはなれなかった。
 詩草はやっとのことで重い体を引きずるように、起き上がろうとした。
「どこに行くの?」
 からかうような声が降ってきて、詩草は柔らかくシーツの上に押し戻された。たった今まで彼を耐え難く苛んでいた快楽の記憶がよみがえってきて、詩草は狼狽した。これ以上はあの緊張に耐えられないと思った。
 逃れようと思うが、身体に力が入らない。先刻のソファの上でと同様、詩草は、なすすべもなく黒沢に敷き込まれた。疼きを残した乳首に、腹に、足の付け根に、唇が下りてくる。弱く吸い上げて歯を立てる。すると、慣れ切ったと思った皮膚の下から、また耐えられないような新鮮な刺激が駆け上がってくるのだ。
 傷ついてはいないが、充血して潤んだ部分に濡れたものが這った。詩草は声をあげそうになった。流石に衝撃を受けて、必死に逃れようとする。ぼんやりと甘く麻痺していた胸に、今までと比べものにならない羞恥と快感が沸いてくる。逃げようとする両手首を、黒沢の手が握り込む。
 両手を下に降ろしたままつながれたような格好で、一番無防備な部分を黒沢の舌に差し出した詩草は、再び涙をにじませて反り返った。刺激される快楽より、何をされているか想像することが耐え難い快感につながっているようだった。
 黒沢に何か云われたような気がする。返事を促されて、泣きながら応えた。やめてください、という自分の声さえ、みだらなぬめりを帯びている。たまらなく恥ずかしくて気持がよかった。
 黒沢が再び押し入ってきた時にはむしろほっとしたほどだった。夢中で彼のうなじを抱きしめて、自ら動きに応えた。
 ようやく極まった時は、起き上がってベッドを抜け出そうなどと思う力も残っていなかった。
 飲み物を持った黒沢の気配に気づいて目を覚ますまで、彼は数時間、泥のように眠り込んだ。

「火事は無事に消えたんでしょうね」
 詩草は、太夏志の持ってきたグラスに口をつけた。湯で割ったそれは、さっきのものよりも大分薄く作ってあった。こっそり苦笑する。彼の器用さ、もの慣れたさまは不実なほどだと思う。明け方のベランダはまだ寒かった。カーテンを引き開けた夜明けの空の美しさに目を奪われて、詩草はそこを離れられなくなった。黒沢はかたわらに座っている。
「……あれは」
 思わずつぶやいた。薄青い夜明けの足許を白く覆った霧の中から、ねじくれた黒いシルエットがそびえている。旗印のように、その背の高い木の梢が揺れた。
「アカマツだよ。見事だろう」
 黒沢が応える。この男に、ベッドの中で何度も好きだと云わされたこと、これからもこうして会うこと、抱かれることを約束させられたのを思い出したが、もう詩草には、それを思い悩む気力は残っていなかった。
「とりあえず満足だけど、まだ知りたいことはある」
 黒沢はそう云ったのだ。
「何を?」
 そう聞き返すと、さっき云っただろう。黒沢は肩をすくめた。お前の友達のことや、夢のことや、いろいろ。
 どうしてそれを嘘でないと思ったのか、詩草には分からない。ただ、嘘でないと分かったのだ。黒沢は本当のことを云っていた。明日には気が変るかも知れないが、少なくとも今夜は本当のことだ。全てを差し出した後でも、詩草の他愛ない日常や、考えていること、人間関係、そして黒沢に抱く思いや、そんなものを、知りたいと云われたのが分かる。抱いた後でも黒沢の声から優しさが消えるようなことはなく、淡々と事実だけを口にしているのだと思えた。
 アカマツは、波に揺れる船のマストのように横に振れて、詩草の鼓膜にかすかなそよぎを伝えてくる。幻聴のようなものかも知れない。それが聞こえるには、木立は遠過ぎた。しかし詩草は確かにその音を聞いたと思った。
 耳を澄ませたが、あの不安になるようなサイレンは聞こえない。夜明けは静まり返り、車道をゆく車の音が時折懐かしく風に混じった。彼はそっとガラス戸を閉めた。サッシも彼と外界を遮断しなかった。黒沢と同じ部屋にいることは、詩草の心や体を閉塞させるようなことではないのだ。それは珍しいことだった。群馬の伯父の家でも、女友達と二人きりの部屋でも、同じ空間を誰か共有することには、いつもかなしい息苦しさがあった。なぜ黒沢となら平気なのかは分からない。だが彼の胸はほっと暖かくなった。
 そしてあらためて、なつかしい思い、少し苦しく甘い執着に心を預けた。

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