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[夢の卵]_02_「シンシア」

02 15 *2016 | Category オリジナル::夢の卵

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文庫後半年。お正月。

続き










 元旦の朝を黒沢家で過ごすために、詩草と太夏志は朝九時にマンションを出た。
 光が丘にある太夏志の実家は、二人が住むマンションから車でニ十分で行ける距離にあった。
 昨夜から酒を飲んでいて、まだ体内にアルコールの残る太夏志の代わりに、今朝は詩草がハンドルを握っている。彼は、朝に家を出て光が丘に行くことを考えて、殆ど飲まなかったのだ。太夏志は大丈夫だと云い張ったが、詩草は頑として譲らなかった。
「酔っ払いがハンドルを握る助手席に坐るのは御免ですから、もしどうしても太夏志さんが運転したいなら、僕はバスで行きます」
 そう云うと、太夏志は諦めたようだった。
 後部座席には、黒沢の家の正月に差し入れるための食材が積んであった。太夏志も詩草も男としては料理が出来る方だが、黒沢の家の女性二人には到底及ばない。料理して貰うための食材を、家を出た息子二人が正月に持ち寄る、といった体であった。
 彼ら二人は、男同士で恋愛関係を結んでいることを太夏志の両親に認められたうえ、それぞれの家の近さゆえに、頻繁に互いの家を行き来するという幸運な状況にあった。
 普通なら、こんなふうに正月を迎えることは望めないのだと、詩草にも分かっていた。それは太夏志の家族のひとなみはずれた柔軟さのおかげだった。数年前、太夏志は秘書として雇った詩草を、自分の恋人として強引に家族に紹介するという暴挙に出たのだが、それは、自分の両親なら許すだろうという見通しがあってのことに違いなかった。
 最近分かってきたが、太夏志は負ける勝負に挑んで、あえて傷つこうというタイプではないのだ。自分も周囲もうまくおさまるように、意外なほど気を遣っているのも感じるようになった。
 詩草が、黒沢太夏志と会ってからもう四年になる。
 ひととおりの紆余曲折を経て、ようやく詩草にも、彼の人となりが分かるようになってきた。これまでは恋心のぶあついフィルターが詩草と太夏志を隔てていた。太夏志に気持も身体も強く引き寄せられて抱きしめられると、詩草はもろく崩れ、正常に思考できなくなってしまうのだった。
 それで最初の頃、詩草はなおさらに自分をかたくなに保つ必要を感じた。世間的地位があり、華やかな世界にいる黒沢太夏志が、自分を一生涯愛するなどということは非現実的に思えた。
 実の母でさえ詩草を見捨てたのだ。ましてや太夏志には、自分の一生を引き受ける義務などない。詩草はそう思った。彼に頼り切らないように、詩草は無意識に背中をこわばらせ、手足に力を入れて立っていたのだと思う。
 だが、今では詩草は、太夏志の気持が気まぐれではないことを知っている。

 詩草の十三年分の記憶が退行して、小学生の頃に戻ってしまったのは、昨年の夏のことだった。
 幸いそれは一ヶ月ほど続いて終り、以来、その症状がぶり返す気配はない。詩草自身には、その一ヶ月のことは空白になっており、その間自分がどんな風にふるまっていたのか、太夏志とどんな風に会話し、過ごしていたのか全く覚えていなかった。だが、その間、退行してしまった自分を、太夏志がどんなに大切にしてくれたのか、それは知っていた。
 一ヶ月分の記憶がない。詩草にとっては、瞬きする間に、或る一日から一月分の時間を眠ったまま運ばれてしまったようなものだ。
 だが、詩草のその一瞬の瞬きの後、気づけば、縦のものを横にもしなかった年上の恋人は、今まで一切しなかった家事をするようになっていた。自分を何度も精神科医の許に連れて行っていた。仕事を休み、自分の心を取り戻すために全力を尽くしてくれた。高崎の伯母と会い、群馬の病院に母が入院していることをつきとめた。
 死んだ、と教えられていた母だった。
 太夏志は退行した自分を母に会わせるために、母の入院する病院に連れて行った。
 詩草の退行の原因には母の生死が関わっているのではないか、というのが、太夏志と精神科医の共通した意見だったのだ。
 子供の頃に火事で死んだはずだった詩草の母は生きていたが、その心は、他者が訪れることの出来ない遠い岸辺に旅立っていた。戻ってくることがあるのかどうかは分からない。だが、母と再会したことがきっかけで、詩草の記憶は戻った。ただ、母に会ったときのことを覚えているわけではないから、自分では何が起こったのかは分からない。母には一度会いに行こうと思っているが、まだ果たせてはいない。
 太夏志が優しい男だということは知っていた。だが、自分がそんな手に負えない状態になったとき、まさか太夏志がそこまで面倒を見てくれるとは思わなかった。
 自分が太夏志にとってどこかしら都合のいい存在である間だけ、彼の側にいられるのだろうと、無意識に思っていたのは確かだ。
 そんな思いこみがあったことを、詩草は内心申し訳なく思うしかなかった。あんなことがあって、まだ太夏志の気持を信じられないほど頑なではなかった。それに、太夏志の行き届いた優しさや、反面の強引さが、何より彼にとって必要なものになっていた。
「あいにくの天気だな」
 太夏志は目を細めて車の外を飛び去る景色を見ている。
 どういうわけか、元旦の日は晴れになることが多いが、今日は寒い薄曇りだった。
 いつも混雑する環八通りは正月の朝とあって車の数もまばらだった。詩草はいつもより少しスピードをあげた。
 後三年たてば二十世紀は終り、二十一世紀が訪れる。詩草が太夏志に出会って丁度三年と少し経った。あっという間に過ぎてしまった時間だった。それまでは一年一年が長かった。毎日にはりあいが少なく、義務や勉強、アルバイト、何でも、自分の力を求められるものがあれば、飛びついて、何とか没頭しようとした。今から考えると嘘のようだった。
 太夏志に会ってからは、動揺したり舞い上がったり、詩草はいつも忙しかった。仕事もする気になれば幾らでもあった。明日起こる何か良い出来事について信じることができる。きっと、太夏志が詩草に不満を感じて一緒にいられなくなるようなことがなければ、後三年などすぐに経ってしまうだろう。
 詩草は、フロントガラスの向こうに見える空をちらりと眺める。冷たいうす水色をところどころに覗かせた新年の曇り空は、一人で眺めれば寂しい光景かもしれない。
 しかし、訪問先へ急ぐ車のハンドルを握り、助手席に恋人を乗せて走る自分。こんな風にあたたかで安定した気分でここに坐って見上げるなら、灰色の寒い空でさえ、今の平穏さを際だたせる材料になる。


 太夏志が先に食材を運び出して、詩草は車を庭の駐車スペースに入れた後、一歩遅れて玄関口に立った。
「おはようございます」
「いらっしゃい、詩草さん」
 ドアを開けると、玄関先まで出迎えたのは、太夏志の又従姉妹の優花子だった。小学生のころ両親がなくなって黒沢の家に引き取られ、太夏志とは兄妹同然に育った少女だ。
 優花子の今日の格好は、珍しくジーンズとセーターだった。その格好が珍しいのではなく、去年も一昨年も、正月の優花子は晴れ着を着ていたのだ。黒沢の義母が(詩草は、すでに太夏志の母を、義母と呼ぶように云われていた)自分の楽しみとして何年かに一度、優花子のために作らせる振り袖だった。
(「息子一人で別段不満もないように思っていたけど、優花ちゃんがうちに来てから、女同士の楽しみが別にあるのが分かったわ」)
 自分自身、男兄弟しか持ったことがないという義母は、すらりとした優花子の着物姿を眺めて、惚れ惚れとそう云ったものだ。
 詩草も一人息子だったし、高崎の伯父の家でも、従兄弟たちは男ばかりだったため、正月に振り袖を着た女性と同じテーブルにつく機会はそれまでなかった。黒沢の家の食卓で、華やかな晴れ着姿の優花子と一緒に食事をするのを、実のところ詩草はひそかに楽しみにしているのだ。
「明けましておめでとうございます」
 優花子は人なつこく笑って云う。彼女は、昨年夏以来、詩草が自分を優花ちゃん、と愛称で呼ぶようになって以来機嫌がいい。
「明けましておめでとうございます。優花ちゃん、今日は振り袖じゃないんだね?」
 思わずそう口にすると、優花子は意外そうな顔をした。
「毎年とても綺麗だから」
 正直にそう云うと、優花子は嬉しそうに目を輝かせた。
「詩草さんにそんな風に云って貰えるとは思わなかったな。嬉しい」
 そう云う優花子が、後ろ手に何かを隠し持っていることに詩草は気づいた。彼女はそれを、口でじゃーん、と云ってみせながら、目の前にかざして見せた。
「ほら、今年はこの子がいるから、振り袖は後で着ることにしたの」
 優花子の手に抱かれているのは、灰色と白の縞の、やわらかな子猫だった。まだ小さい。眠そうな目を開けて、詩草を見上げている。
「……どうしたの、この猫。随分小さいけど」
 詩草は、目の前に差し出された子猫を、おっかなびっくり撫でた。彼は子犬や子猫が余り得意ではない。育って大きくなった猫は安心感があるが、子猫はどうにもつぶしてしまいそうで怖いのだ。そっと触れた指先に、なめらかな柔らかい毛並みの感触が伝わってくる。
「友達の家で飼ってる、アメリカンショートヘアの番いがたくさん子猫産んだの。伯母さんが、大学入学祝いに飼ってもいいって云ってくれて」
「そうか、よかったね」
 詩草は、子猫より優花子の髪を撫でたい気分で目を細めた。優花子は昨年末に大学の推薦入学が決まって、ようやく一息ついたところなのだ。この美しい少女は努力家で聡明だった。彼女の努力が報われるのは自分のことのように嬉しい。本音を云えば、高崎の自分の従兄弟たち以上に優花子が大切に思えることも多かった。
「優花、また猫見せてんのか。揃って挨拶するんだから、早く入って来いよ」
 リビングから太夏志の声がする。
 太夏志は猫が嫌いだっただろうか。記憶を浚ってみるが、今まで太夏志とそんな会話をした憶えがない。
「太夏志さんは猫は好きだったっけ?」
 リビングに入りながら優花子に問いかけると、彼女は何故だか少し口惜しそうな顔になった。
「嫌いじゃないんじゃない?」
 少し素っ気ない声になる。何故優花子が機嫌を悪くしたのか、詩草には分からなかった。
「おはようございます」
 そう云って入ってゆくと、リビングの広々としたテーブルには、もうほとんど料理が並べられていた。
 黒沢家の正月料理は豪華だ。和風のお節料理に加えて、淡泊なお節に飽き足らない大食漢の息子のために、必ず山盛りの刺身と揚げ物、洋風料理が用意してある。和風は義母が担当し、洋風料理は優花子が担当するのだそうだ。刺身の皿の横にスペースが空けてあるところを見ると、今日は大きな皿がもう一品あるようだ。
 太夏志の母は、菜箸を手に、盛りつけたお節を整えている最中だった。黒沢家の家長と長男は、一杯飲むのを待ちきれないようにテーブルについている。義父はビール派、太夏志は冷酒派だ。二人の前にはそれぞれの好きな酒とグラスが既にスタンバイしている。
 ほっそりと背の高い義父は、入ってきた詩草を見て、老眼鏡の奥から柔和にうなずいて見せる。詩草は太夏志の両親が好きだった。冷徹な気性で健康な義母も、穏やかで包容力のある義父も好きだ。
 黒沢夫婦は二人とも細身だが、戦前の生まれの人としては破格に背が高い。太夏志が並はずれた長身に生まれついたことも納得できる。優花子もそう云えば背が高かった。
 詩草も身長は百八十センチあるが、この家にいると、特に自分が背が高いという気がしないのだ。ことに太夏志の側にいると、自分の身体が小さくなってしまったような気がするほどだった。
「さ、立って立って」
 太夏志が父親をせき立てる。
「お袋もさ、ちょっとだけ箸置いて」
「はいはい」
 一同────黒沢夫婦とその息子、その恋人、黒沢夫婦の従姉妹の忘れ形見の一人娘────は立ち上がり、神妙に頭を下げ合った。
「明けましておめでとうございます。本年もよろしく」
 音頭を取るように太夏志が大きな体をかがめる。他の者も深々と頭を下げる。全員が揃ったところで立って挨拶をし合う、というのは、高崎の家では無かった習慣で、詩草は最初、その雰囲気になじめずに照れたものだ。
 太夏志はふと思い立ったように、優花子の抱いた子猫を、彼女の腕から奪い取った。
「ほら、お前も頭下げろよ」
 そう云って、猫をつかまえて、両親や詩草に頭を下げさせている。大きな手に否応もなく掴まれた子猫が、怒ってもがくのもおかまいなしだ。
「しーちゃんも明けましておめでとう」
 義母は笑って子猫に頭を下げ、また朝食の支度に取りかかった。
「ちょっと、乱暴にしないでよ」
 優花子がむっとしたように唇を尖らせると、
「大丈夫大丈夫。生き物なんてそんなに簡単に壊れるもんじゃないから」
 そう云って、太夏志は指先で子猫の耳を撫でつけた。子猫は怒ったような目つきのまま、太夏志の大きなてのひらの端から前足をはみ出させて、乱暴な愛撫に身を任せている。小さな尻尾が太夏志の手首の前に垂れ下がっている。
 太夏志がニヤニヤする。
「こいつ目つき悪いよな。優花そっくり」
「あたし目つき悪い?」
 優花子は一瞬不意をつかれたように眉をひそめた。
「いつも怒った顔してるだろ」
「……そうかなぁ……」
 優花子は珍しく、少ししょげたような顔になった。
「怒らせる原因の人に限って、こういう事を云うから困るよね」
 詩草が少し冷やかすような口調でそう云うと、優花子はそれに少し力を得たように、太夏志の肩を軽くてのひらで突いた。
「あたしだってにこにこしてる時もあるんだから」
「名前は、しーちゃんだって?」
 詩草が訊ねると、優花子は少し後ろめたそうにした。
「ほんとはね。シンシアっていうの」
「何でシンシアでしーちゃんなんだよ。だったらシンちゃんじゃねえの」
 太夏志が子供のようにまぜ返す。
「やだ。男の子みたいだし、変なまんが思い出すから」
「それにしてもこんな子猫に、シンシアなんて色っぽい名前つけるなんてさ」
 太夏志は子猫を片手で掴んだまま椅子に座り、父のコップにビールをついでいる。
「お前等も早く座れよ」
「あたしはおばさんの手伝いするんだもん」
 優花子が憮然としている理由は、今度は詩草にも分かった。分かっていないのは、おそらく太夏志だけだろう。
『シンシア』というのは、太夏志のデビュー作だ。少し不思議で美しい、口あたりのいい作品だった。詩草は好きだ。そして、優花子がその作品を、太夏志の書いた小説の中で一番好きなのも知っていた。
 最近太夏志の書く、読者のツボを心得た作品にはない味があった。純文学的と云えないこともなかった。
 大先輩作家の詠根翁に仕上げるように云われた小説を、太夏志は年末には仕事に追われて仕上げられなかった。本人も、内心それで少しがっくりしているようだ。
 太夏志の昨年後半の予定が詰まったのは自分のせいでもある。
 六月頭から七月まで、太夏志は一月半ほども、詩草の記憶退行の騒ぎで、まるで仕事が出来なかったのだ。
 元々それほど勤勉に仕事をする方でもなく、ただただ早さを頼みに書き飛ばす太夏志だが、一ヶ月半のブランクは流石に痛い。太夏志は小説の執筆だけではなく、講演やテレビ番組の出演などの仕事も抱えているのだ。年末近くは少しずつ押した一年間の仕事のしわ寄せと年末進行で、ハードなスケジュールだった。
 太夏志が、詠根との約束のためにどんな小説を用意しているのか、それは詩草には分からない。
 だが、『シンシア』のような作品ならまた読んでみたいと思っていた。
 シンシアは太夏志の云うとおり女性名だが、太夏志は作品中では固有名詞を綴るCynthiaではなく、sincere────誠実な、だとか、純粋な、という意味を持つスペルをあてていた。学生時代の彼にとって、誠実であること、そしてそこにlyやityを付加すると姿を現す、「心から」「率直」、これらの潔癖な言葉が重要な意味を持つことを暗示する作品だった。
 太夏志がその小説でえがいた、シンシアという通称名を自分に与えてアメリカで暮らす日本人の少女は、烈しく奔放であり、エキセントリックだったが、その名前を綴る言葉の意味を決して裏切らなかった。
 太夏志のあのぎごちなく体温の高い作品に感じるところがあるのは、優花子の年代なら自然の成り行きだと詩草は思った。
 それなのに太夏志に「色っぽい名前」などと云われたので、優花子は腹を立てたのだろう。
 太夏志の大きな手の中におさまった灰色の子猫を眺めると可笑しくなる。眠そうな怒ったような顔でてのひらからはみ出す子猫には、優花子の思い入れのある分、「シンシア」は荷の重い名前に思えた。
(しーちゃん、で丁度いいんじゃないかな)
 彼は内心の可笑しさが顔に出ないよう気を遣いながら、ドライアイスと一緒に詰め込んできたタラバガニを取り出すために、アイスボックスの前にかがんだ。
「お義母さん、萩焼の大皿お借りしていいですか」
 カニのサイズと食器棚の中身を見比べて、詩草は立ち上がった。
「カニ乗せるのね。場所分かる?」
「ええ。上の棚ですね」
「じゃあお願い」
 義母の気に入りの大型の器を、天井に近いキッチンの作りつけの戸棚から降ろし、取り出したカニを盛りつける。この家にも大分馴れて、何がどこにあるのかもおおよそ分かるようになった。ボイルしたカニの紅い足と、飾るために店から持たされた菊の花の明るい黄が、使い込んだ枇杷色の大皿によく映える。
 隣では優花子が最後の皿を作っている。優花子の得意料理で、大きなドーナツ型に焼き上げたミートローフだった。挽肉の中に、細かく刻んだ野菜と、茹でたうずらの卵がたっぷり入っている。ナツメグの香りのきいた豪華な肉料理で、赤ワインのソースをかけて食べる。この料理を太夏志が気に入って、しきりに誉めたのだ。正月というよりはクリスマスに似つかわしい料理だが、優花子は太夏志のために作ったのだろう。詩草はカニの大皿を運び出しながらそっと微笑した。
 太夏志はおそらく、十五歳年下の又従姉妹の気持に気づいていないだろうし、むろん詩草がそれを太夏志にほのめかす気はない。
 ただ、一抹の後ろめたさに似たものを感じることはあった。自分がいなければ、太夏志は彼女のものになっただろうか?
 その答はおそらく否だろう。詩草は思った。しかし、優花子はその苛立ちを詩草にぶつけるようなことはなかった。彼女のプライドの高さや賢さが気の毒に思えることもある。逆に、自分が彼女でもそう振る舞うしかないだろうとも思う。諸々の感情を切り離して、自分にもなついてくれる優花子が、詩草にはなおさら愛しかった。
 優花子と義母の料理がぎっしり乗った、なめらかな白の胡桃材のテーブルは、詩草が子供の頃から得たことのない家庭の象徴のように輝かしかった。
 ここに混じって異分子のように感じないのは、自分が、太夏志の恋人という常ならぬシチュエーションでここに入り込んだインパクトを乗り越えたせいかもしれなかった。

 新年の挨拶のあと、食卓についた一同は優花子の大学合格を祝った。実は酒豪の優花子は、上機嫌でワインを飲んでいる。ゆっくりと食事をしたあと、後かたづけを手伝おうとすると、義母は首を振った。
「ここはわたしがするから、あなた達ゆっくりなさいよ。せっかくのお正月なんだから」
 優花子がでもおばさんだって、と云いかけると、義母は煩そうに、
「わたしは腹ごなししてるの。いいから向こうに行ってらっしゃい」
 と、二人とも追い払われてしまった。リビングではテレビがついていて、義父がビールを飲みながら機嫌良く画面を眺めている。キッチンを出て、ふと優花子があたりを見回した。
「そういえば太夏ちゃんどこにいるのかな」
 見回すと、優花子の視線の先で、客間のドアが細く開いていた。
 二人はリビングに戻らずに、客間を覗き込んだ。
 詩草は少し不思議な気持で中の光景を眺めた。優花子も同じような顔をして、黙ってそれを見ている。
 太夏志は客間のドアを背にして坐っていた。絨毯の上にあぐらをかいた彼は、どうやら子猫に童話を読んで聞かせてやっているようだった。
 ダブルベッドのように大きな太夏志の太腿の上で、子猫はのびのびとうつぶせている。とろりと眠そうな目をしたシンシア嬢は、ドアから覗く二人に気づいてぴくりと動き、目を上げたが、また太夏志の太腿に顎を乗せて身体の力を抜いた。太夏志が自分の目の前に広げた本の挿絵を眺めているようにも見えた。時々気まぐれに柔かな尾を揺らして、自分を乗せた安定感のある大きな寝台を叩いている。
 耳を澄ませると、虹を切り取る────だとか、逃がしてやるとか、そんな言葉が耳に飛び込んで来た。ファンタジーのようなものを読んで聞かせているのだろう。
 太夏志は低い、優しい声で、ゆっくりと本を読んでいる。それは、この男が周りの人間には滅多に聞かせたことのない、やわらかな声だった。強引でポジティブな一方で、多少皮肉屋の太夏志は、滅多にこんな優しい声は出さない。
 彼が子供に本を読んで聞かせてやるとすれば、こんな声で読むのだろうか。
 一瞬、詩草の胸がドキンと高鳴った。
 記憶退行を起こした時、太夏志がどんな風に自分に接していたのか、かいま見たような気持になったのだった。彼が退行したのは十一歳であって、自分で充分に本を読める年になっていた。太夏志が自分に本を読んで聞かせたということはなかっただろう。現に、退行した詩草が自分で読めるようにと、太夏志が買った本が部屋に何冊も残っている。
 だが彼は自分にこんな声で話しかけたのではないだろうか?
 詩草の胸の中に、瞬間奇妙な苛立ちが走った。
 一ヶ月間子供に逆戻りした、というのは、その間の記憶がないだけに、詩草にとってはなおさらいたたまれない出来事だった。その間どんなことが起こっていたのかを考えると、恥ずかしくて、身の置き所のない気持になる。自分の精神的な弱さをつきつけられた出来事でもあった。
 その折りに母が存命であることが分かり、太夏志との関係も良い意味で深まったように思える、それが怪我の功名とも云うべきものだった。
 しかし、時折詩草の中で疼くものの正体は、羞恥ではなかった。
 太夏志が、一ヶ月間一緒に暮らした、小学生の自分を名残惜しそうにするのだ。
 そのたびに小さな痛みが詩草を刺す。そのいらくさのとげの正体はどうやら、思うに過去の自分へ抱く、理不尽な嫉妬のようであった。
 子供時代の自分を思い返してみても、詩草には、太夏志が何故その自分を気に入ったのか分からない。はっきりと思ったことを云えない、気の弱い、よく泣く子供だった。いろんな感情をなだめすかし、一日でも早く大人になりたいと思ってきた。
 彼は、子猫に本を読んで聞かせる太夏志の背中を黙って眺めた。
 大きく、優しい背中だと思った。
 優花子も隣で黙っている。彼女が太夏志を見てどんなふうに思うのかは、詩草には分からない。
 しかし二人は、太夏志には話しかけずにドアの前を離れた。太夏志は一旦集中すると、周囲の音が聞えなくなる。気づかれなくてよかった。詩草は内心思う。
「あのね。太夏ちゃんはね。猫が好きどころじゃないのよ」
 優花子はリビングに入ると文句を云った。
「散歩中の犬も、お隣の猫も、昔飼ってたあたしのインコも、みんな太夏ちゃんを一番好きになるの。あいつすごい動物たらしなのよ。向こうの角の家の、飼い主にしか触らせない気の荒いドーベルマンだって、太夏ちゃんには撫でさせるんだよね。頭に来るよ」
 詩草は苦笑をかみ殺した。他にはなつかないが、太夏志には撫でさせる動物。太夏志と会った頃の自分も、そんなようなものだったと思う。ドーベルマンの気持が分かる気がする。
「あの本は、太夏志さんの本だったのかな?」
 本が少し気になって訊ねると、彼女は首を振った。
「ううん。あたしの本────エイキンっていう作家の本なの」
 優花子はためいきをついた。
「変なやつ。猫に童話を読んでやるなんて」
 今度は遠慮せず、詩草は微笑した。彼は優花子の尖った言葉が本心からのものではないことを知っている。彼のその微笑に気づいて、優花子は具合が悪そうになった。
「どうして笑うの」
「確かに変な人だね」
 あえて彼女の言葉に同意してみせると、優花子は益々具合の悪い表情になる。
「詩草さんもおじさんも、お茶飲まない?」
 彼女は頬を少し紅くしてキッチンに逃げ込んだ。
 童話の話をしていたせいかもしれないが、詩草は優花子の頬を見て、白雪姫が食べたという、片頬が白く片頬の紅い、美しい林檎を思いだした。
 詩草は、その午後遅く、黒沢の家を辞する前、そっと客間に置き忘れられた本をめくった。
 それは、幾つかの短編を綴じたハードカバーの作品集だった。文は子供向けの大きな文字で印刷され、繊細な筆触で描かれた挿絵が沢山添えられている。ページを少しめくると、不可思議な美しい単語がぱらぱらと目に飛び込んできた。
 太夏志が読んでいたのは、本の一作目として収録された物語だ。表題作ではない。
 しかし、本を裏返してみると、そこには薄い青の文字で、「ラストスライス・オブ・レインボウ」と一作目の原題がしるされていた。原書では、おそらくこの作品が表題作だったのだろう。
 虹の最後のひときれ。
 虹は切り分けられるものなのだろうか?
 彼はその本をしばらく眺めていた後、そっと元の場所に戻しておいた。優花子に借りて帰ろうかとも思ったが、今日すぐにそれを頼むのは照れ臭かった。読みたくなった時のために、著者名と書名を頭に刻み込む。黙って買って読む方が気が楽だった。
 優花子の子猫に与えられた名前の由来を、太夏志は分かっていて、照れて話を逸らしたのだろうか。そうだとしても、そうでないとしても、太夏志ならおかしくなかった。

 マンションの駐車場に車を止めると、もう時間は遅くなっていた。薄曇りのせいか星は見えない。しかし、うす白い雲に覆われた空はかすかに明るく、外気も余り冷たくはなかった。
「少し散歩しないか」
 帰りも詩草に運転させるつもりになったのか、実家でひとしきり飲んだ太夏志は、助手席のドアを開けて夜空を見上げた。
「いいですね」
 ドアを閉めて立った詩草のコートが薄手であることに気づいて、太夏志は肩に触れて布の感触を確かめる仕種を見せた。
「大丈夫か、コート薄いだろう。一度上に上がって着替えて来る?」
「大丈夫ですよ」
 詩草は微笑った。
「寒いのは平気です」
 実のところ、寒さには太夏志の方が弱かった。いかにも冬の好きそうな熱い身体をしているのに、太夏志は夏が好きだった。あまり汗をかかない。大きな体の中に、暑い時ほどエネルギーが多量に蓄積されるのが分かる。反対に冬の寒さにはもろく、しきりに人肌を恋しがった。
「太夏志さんこそ平気ですか? マフラーも手袋も無しで」
 揶揄うようにそう云うと、太夏志は憮然として、平気だよ、と云って両手をコートのポケットに突っ込んだ。
「悪かったな、今日」
「何がですか?」
「俺が飲んだから飲めなかったじゃないか」
「そうですねえ」
 歩き出しながら詩草は首を傾げる。
「今晩、家で一杯頂きますよ」
「お前、一杯って云ったらほんとに一杯だもんな」
 崩れないやつ。そう云って太夏志は、詩草の髪を片手でかき乱した。これは昨年からの太夏志の癖だった。子供にするように少し乱暴に髪を撫でるのだ。その理由について考えないわけではなかったが、実のところ彼は、太夏志にそうされるのが好きだった。
 熱いてのひらがごつごつとぶつかってくるそれは、ベッドの中のこととは関係ない、無骨で純粋な愛撫だった。云うなれば猫か子供にでもするような。
 太夏志の指が自分から離れてゆくのが名残惜しかった。指の硬い感触が、髪を通してしみこんでくるようだ。
 二人はゆっくりとバス通りを歩いた。並木の銀杏に、町の自治会がつるしたほおずき提灯が下げられている。蝋燭の代わりに芯に電球を入れた白い提灯は、風に揺らぐことはなく、安定した小さな光を放っている。
 詩草はあたりをゆっくりと見渡した。
 元日の道は、商店の灯りこそ消えていても、いつもより多くの家の窓に灯りがともっているように見えた。今日は一年で最も、ひとが自分の巣にあたたかく籠る日だ。普段家に帰らないひとも不承不承背広を脱ぎ、ぎごちなく自分の家庭の一員になる日なのだ。あの灯りの下には笑いだけでなく、涙や裏切りや別れも隠れているのだろう。しかし元日の夜の灯りは、ひとつの景色として見渡せばほの甘くなつかしい。
 太夏志と暮らすようになって、自分にも家が出来た。母と暮らしていた時も、高崎の伯父の家にいた時も、どこか詩草には、家という正体のないものと自分のつながりが、希薄に思えてならなかった。しかし今は自分の居場所があるのが分かる。食卓に、居間に、寝室に、自分の占める空間がある。見えない文字でそっと自分の名がしるされている。
 なくすことを想像すると、正直とても怖い。
 こんなことを口に出せば、太夏志は印象の強い大きな目を見開いて、少し不快そうに、どうしてそんなきざしもないのに、終ることなんて考えるんだ、と云うだろう。相手にもせず、肩をすくめて、話をきりあげてしまうかもしれない。
 太夏志がペシミスティックにならないのは、愛情たっぷりの環境にいたからだ。彼を甘い、などと思っているわけではない。ただ少し詩草と異質なのだ。そこが好きなのだし、時々は嫌になることもある。
 切り崩された丘の間の道を縫って公園に向かう。両脇に出現する斜面は、大きな石とコンクリートでぬりかためられ、その寒々しさをかばうように、萩やれんぎょうの枝、松葉牡丹が植えられて、斜面の上から垂れ下がっている。
 木材を埋めた階段を上って、二人は高台ふうの小さな公園に出た。細長く丘にしがみついた公園には、幾つも藤棚とベンチが置かれていた。以前、詩草は、この公園で処分されそうになった古い木製のベンチを貰って帰ったことがある。そのベンチは、彼がペンキとニスを塗り直して、今でも太夏志のマンションのルーフバルコニーに腰を落ち着けている。
 ここからはこの町の東半分を遠くまで見渡せるのだった。夜明けにここに来たことはないが、きっと朝日も見られることだろう。今はまだ冷え冷えとした夜だが、町には、朝日の代わりに、弱々しく優しくまたたく家々の明かりがやわらかな光のうずを作っている。
「寒いな」
 太夏志が白い息を吐いた。大きな体をすくめている。詩草は手を伸ばして太夏志の手に触れた。彼のいつも熱い手が、少し冷えている。自分の手の方があたたかいのが分かる。珍しいこともあったものだ。詩草はそう思って、自分の両手のなかに太夏志の手をつつみこんだ。
 太夏志ほどではないが詩草の手も指が長く大きい。背の高い男の手なのだからあたりまえだ。こういうときにはそれが都合がいい。
「冷えないうちに帰りましょうね」
 詩草が自分の手を握るのを見つめていた太夏志は、その言葉を聞いて少し笑った。
 彼は詩草のてのひらの中から自分の手をとり返した。
 ふっと冷気と夜景がさえぎられ、詩草は抱きしめられた。強い力が太夏志の腕に籠り、うなじをひきよせて、自分の胸に詩草の頭を押しつける。いつもより少し鼓動が早いような気がしたが、それは気のせいだろう、と詩草は思った。太夏志が自分を抱きしめて、今更胸を高鳴らせる理由はない。
「……今年もよろしくな」
 そっと声が降ってきた。少し冷えたてのひらが詩草の頬に触れ、ついで押し包むように唇が触れる。少し酒の匂いが残っていたが、気になるほどではなかった。この人の肝臓が丈夫なのは確かだ。詩草は唇の触れるここちよさの合間に、そんなことを考える。こんなタイミングに考えると可笑しいが、でも大事なことだ。酒も煙草もひかえないけれど健康な太夏志。自分も、幸運も、災難も受け止めてしまえる、堅く大きな身体。
 舌が触れ合うと口の中いっぱいにくすぐったい疼きが広がり、肉の触れ合う弾力といりまじって、頬にあたたかな血をのぼらせた。
 外でこんなキスをしたのは初めてだった。一緒に暮らす前から、詩草は太夏志のマンションに入り浸りだったし、すぐに口説き落とされて、同じ部屋に暮らすようになった。人目を忍んで夜の公園でキスする必要は二人にはなかった。
 声を漏らしそうになって、詩草はようやく唇をふりほどいた。濡れた唇をぬぐい、息や熱がおさまるのを少し待つ。太夏志は彼の髪に顔を埋めた。そのまま動かない。眠そうに静かな呼吸が耳元に聞えてくる。本当に眠りそうなのではないだろうか。詩草は思う。
 彼は、自分を抱きしめた大きな体をそっと引き剥がした。うす闇の中で、太夏志の黒く輝く瞳ははっきりと詩草をとらえていた。眠りかけてもいないようだ。
 詩草は、腕を下に降ろしたまま太夏志の肩に静かに額をつけた。
「これからも、よろしくお願いします」
 先刻の太夏志に負けず劣らず、彼はそっと声を落としてつぶやいた。太夏志の云った言葉への返礼としては、少しずれた詩草の答に気づいたかどうか。

 太夏志は換気扇の下に立って、煙草も吸わずにコーヒーを飲んでいる。もうそろそろ、今年最初の日は過ぎ去ろうとしていた。詩草はダイニングの居心地のいい椅子で、自分の分のコーヒーを飲みながら、新聞の新年号を読んでいた。今朝は新聞を読んで出る暇はなかったのだ。
 しばらくして太夏志は席をはずし、戻ってきてまた換気扇の下に立った。今度こそ煙草を吸うのかと思っていると、換気扇の下の流しのふちに置いた、飲み残しのコーヒーカップを取り上げる。
「どうしたんですか?」
 新聞から顔を上げて訊ねると、彼はカップを手にまじめくさった顔で答えた。
「待ってるんだ」
「……?」
「お前が暇になるのを」
 詩草は思わず笑った。
「別に忙しくないですよ」
 そう云った後、思いついて付け加える。
「でも、シャワーを浴びるまでは忙しいかもしれませんね」
「早いとこ暇になってくれよ」
 太夏志は落ちつかないように換気扇を見上げる。どうやら、彼は煙草を吸わない詩草のために、突発的、且つ臨時の禁煙態勢に入ったようだ。詩草は立ち上がった。どんなことがあっても煙草を離さない太夏志が待機時間を禁煙して過ごすというなら、それは自分も時間を作らないわけにはいかないだろう。
「時間が出来たらまたお会いしましょう」
 詩草はそう云って、シャワーを浴びに行った。浴室の入り口の洗面台は、この数分以内に水を使ったあとが残っていて、彼は、先刻席をはずした太夏志が顔を洗ったことに気づいた。煙草を我慢しているところを見ると、歯も磨いたのかもしれない。ここなら太夏志には聞えないことが分かっているため、詩草は声をたてて笑った。
 知り合って以来、太夏志がベッドに入る前に煙草を我慢したことは一度もなかった。それも昨年のことがあった影響なのか、それとも心境の変化なのだろうか。
 彼は湯温の低いシャワーをゆっくりとあびた。抱きしめた瞬間、詩草の身体が熱いより、少し冷たい方が太夏志を誘うようだ。彼自身は熱いシャワーが好きだったが、あびてすぐに抱き合うことが分かっているときは、ぬるい湯をあびるようになった。
 自分がそんなことを意識して、太夏志に合わせようとすることに以前は抵抗があったが、今はもう、それに馴染んでしまった。
 詩草がそうするのと同じように、太夏志は、ベッドに入る前は煙草を吸わないことにしたのかもしれない。
 シャワーをあびたあと、自分の部屋で簡単に髪を整える。少しだけでも手をかけておかないと、彼の少しくせのあるやわらかい髪は、湿ったままでシーツに触れてすぐに、ひどくはねてくるのだ。太夏志はそんなことは気にするな、というが、彼の方ではそうもいかなかった。
 髪にウエーブが出るのが嫌で、ドライヤーとブラシでくせを取ってしまう。長い髪を扱うわけではないから、ほんの数分手をかければ済む。
 部屋を出てリビングを覗くと太夏志はもういなかった。太夏志の部屋かと思うと、そこにもいなかった。浴室でかすかな音がしている。どうやらシャワーを浴びているようだった。
(さっき浴びればよかったのに……)
 彼はDKに戻って、太夏志と自分の飲んだコーヒーカップを洗った。今度は自分が、太夏志が暇になるのを待っているというわけだ。また可笑しくなった。今日は気分が上向きのせいか、いろいろなことが奇妙な可笑しみをもってこころの中に入り込んでくる。
 そしてまた詩草は新聞の新年号を開いた。一月一日にポストに入れられるぶあつい紙面には、達筆な記者たちが粋を凝らし、間もなく収束する二十世紀と昨年一年をまとめあげ、やがて起こる悲喜劇の明日を見はるかした記事が一杯に詰まっている。
 力量のある記者が筆を執ることが多いため、この日の新聞は特別に読み応えがある。端整な文章で書かれた、この世界の来し方行く末を読むことは、ロマンティックで壮大な物語を読むのに似ている。
 自分が太夏志の「暇」を待機状態であることも忘れて、詩草は次第に没頭して読み始めた。そのせいで太夏志が出てきて、自分を呼んだことに気づかなかった。
「おい、詩草!」
 湿った前髪をかきあげながら、あきれたように太夏志が彼の顔を覗き込んだ。
「うわっ」
「うわ、じゃねえだろ」
「すみません」
 太夏志が、彼が暇になるのを待っている、と云い出してから五十分たっていた。気づくと日付が変わっている。
「年越しとは云わないけど、一日は頑張るつもりだったんだけどな」
 太夏志は品のないことを云いながら、自分の部屋に向かう。
「読書にご満足あそばされたら、どうぞ我が城においでください」
 振り向いてそんなことを云う。詩草は読んでいた新聞をきちんと折り畳んで、テーブルに乗せた。
 ドアを開けて部屋を覗き込むと、太夏志は振返って詩草をひきよせた。詩草もろともベッドに倒れ込む。
「王様がご帰還されるのをお待ちしてましたよ」
 真面目な口調で申し述べる。
「俺が王様なら、お前は姫君との縁談もないのにひっぱりこまれた、隣国の王子様あたりかな」
 詩草は、瞼や頬におりてくる唇を受け止めながら、その相変わらずの物言いに笑った。
「どうして王子ですか。僕は王様のお城の大臣でしょう? 大蔵大臣とか、郵政省とか────」
「まぁ、お前一人で全内閣兼任だもんな」
 すると、太夏志は内閣全員に手を出すとんでもない王様ということになる。
 架空の国の話をしているのに、日本の内閣の面々を思い浮かべた詩草は、少し気力を削がれてためいきをついた。
「ためいきつくなよ」
 太夏志は詩草の肩からパジャマを引き剥がした。現われた肩口に顔を埋めると顔をあげて、舌なめずりせんばかりに、冷たい、とささやいた。
 彼の高く整った鼻梁や、きついラインをえがいた目を見つめると、甘い快さが沸き起こってくるようになったのは、いつからなのだろう。自分の目にとって最も心地よくうつる情報が、あるべきかたちであるべき場所にきちんとおさまっているような感覚だ。ごく造作が美しく、好きな作りの女性の顔を見たときと同じ反応を、詩草の目は示すのだ。
 詩草は、太夏志の頬に手を伸ばした。女性のものとは違う、少しざらついた皮膚が手に触れる。湿った硬い髪をかきあげ、背中を少し起こして唇を押しあてた。なじんだ太夏志の匂いや、乾いた唇の感触にほっとする。呼吸しようと開いた唇から舌をさらい取られる。強く吸われると甘い感覚が下顎を痺れさせた。
 深く触れ合うキスにぼうっとあたたかい麻痺状態の中をただよっていると、脚の間にてのひらが触れた。服の上からてのひらで撫でられて、びくりと身体をふるわせた。瞬間、のどの奥に声があふれる。
 太夏志の身体の熱気と、内側からわき上がる熱におしつつまれて、全身がにわかにあたたかく汗を帯びた。
 両手で太夏志のこめかみをつつみ、キスに応えながら、身体が触れやすいように膝をひらいた。
 太夏志の腰と自分が触れ合って、彼は思わず顔をそむけてあえいだ。二人の身体にはさまれた太夏志の手のひらはとけそうに熱い。巧みな指に服の上から触れられると、てのひらの熱と身体をつつんだ着衣とに、二重に愛撫されているようだ。
 触れ合ったのは数日ぶりだ。詩草は自分の乾きを自覚して驚きながら、甘い水を飲むように、大きな身体を抱きしめた。


 シーツを握りしめた手に額をつけてこらえようとするが、嘘のように熱くなった手は、汗に濡れて頼りなかった。
 詩草は仕方なく姿勢を崩し、冷たいシーツに額を擦りつけた。腰はもうだるく重かった。そのしびれの中に突き入れられるたび、甘い熱がわき上がった。
 太夏志は行為の最中、顔を見るのが好きだ。灯りもしばしば点けたままで詩草を抱きたがった。こうして背中から抱き込まれて抱かれるのは珍しかった。
 目の前が、シーツの白でいっぱいになる。視界が白っぽくなっても、思わぬところに刺激が繰り返し通り過ぎて、緊張が解けなかった。ひらいた脚の間を全てさらけだす抵抗感は、太夏志と触れ合うことに馴れた詩草にもあった。
 うなじの髪が小さく引かれて、ついで熱い息がかかる。太夏志が髪の先を歯でくわえて引いたのだ。息のやわらかさと相俟って、意外な刺激がうなじにひろがった。
 かすかに首を捩って逃れようとすると、耳に濡れたあたたかなものがすべりこんできた。
「ん……ん、っ……」
 息が耳元を湿らせる。太夏志の荒い息づかいが頭の中に直接入り込んでしまいそうだ。耳に触れられているのに、背中や胸まで不安定な快感が広がった。
 それだけなら乱れずに済む感覚だが、クリームでたっぷりとうるませ、熱を持った部分で動かれる刺激と混じると、理性や意識が猥雑にかき混ぜられ、体中がひとつの湿った感覚器官のようになってしまう。
 短い息を吐きながら、自分の背筋の力や、シーツにつけてこわばらせた膝の力で、詩草はようやく自分の身体を支えていた。
 体中がはりつめて敏感になっている。
「苦しいか?……」
 太夏志が間近にささやいた。だが詩草は応えられない。
 彼のうなじに唇を寄せた太夏志は、彼の胸を抱いて引き上げ、姿勢を変えた。
「……っ」
 シーツの上に膝をついて坐った太夏志の腰の上に、詩草は深く坐る姿勢になった。
 自分の背中を太夏志の胸に預ける形になって、姿勢は楽になるが、より深く身体を割り入れられて、彼は掠れた悲鳴を漏らした。
 腕ごと、背中から苦しいほど強く抱きしめられ、揺すられる。
「……あ、っ、あ、あ……」
 逃れようとする力、快感の中に飛び込んでいこうとする衝動が、肺や腹の奥から呼気や熱に変わってあふれだし、詩草は腕をあげて、ようやく自分をまきしめた腕にすがりついた。自分の鼓動で打ちのめされてしまいそうだった。
 てのひらであおられたのでもない詩草の欲望に血と鼓動が集中し、汗が噴き出した。
 そして、その瞬間、視界がふっとぼやけた。まぶたの堰を切ってあたたかいものがあふれ出し、彼は唇をかみしめた。息をすればすすり泣きになりそうで、呼吸を止める。
 目をあふれ出したそれは頬の上をすべり落ち、太夏志の腕の上に滴を落とす。泣いていることに気づかれているだろうか。
 涙をこらえたため、なおさらに緊張した自分の身体に煽られるように、快感は突然沸点を迎えた。
「……、う、ん……っ」
 幾度も身体をふるわせて、衝動にまかせながら、涙でぼやける太夏志の横顔を彼は見つめる。
 自分の見ているものがとても大きな意味を持っていることは、涙のレンズや、朦朧とした熱を通してもはっきりと分かった。

「もしかして怒ってるのか?」
 シャワーを浴びた後、ダイニングの椅子にぐったりと坐って口をきかない詩草に、太夏志はまさか、というニュアンスを含ませて聞く。彼は腹が減った、と云って、実家から持たされた正月料理の残りをあたため、一杯飲み直している。
「怒ってるわけないじゃないですか」
 冗談だと分かりながら、律儀にぶっきらぼうな返事を返す。
「疲れたんですよ」
 詩草も缶ビールを一本あける。頭がぼうっとしていた。乾いた喉にビールがしみわたる。身体は甘い疲れを残しているが、眠くはない。もう少し太夏志と一緒に起きていたかった。
「ずいぶん気前よく入れてくれたんですね」
 詩草はビールを飲みながら、優花子の料理を指さした。半分残ったミートローフを丸々優花子はアルミホイルに包んで、太夏志と詩草への荷物に入れていた。
「お袋たちはこんなに食わないだろう。優花もダイエットだ何だって気にしてるしな」
「綺麗にしてますからねえ、いつも」
 詩草は、ほっそりと痩せた優花子の姿を思い浮かべる。
「いつも見とれるようなスタイルで、とてもダイエットが必要だなんて思えませんけどね」
「みんながお前みたいだったら苦労しないだろうにな」
 太夏志は腕を伸ばして、彼の首筋をするりと撫でる。
「!」
 その瞬間詩草の中に走り抜けたものに気づかなかったように、太夏志は話し続ける。
「夏以来体重戻らないよな。骨っぽいぞ、お前」
「別にどこも悪いわけじゃないですから」
 食べても太らない体質のことを云われると、少し苛々する詩草は頑固にそう云った。
「まぁ、世間の美人たちが散々苦労してるのに、食っても太らないのは幸運かもな」
 太夏志は苦笑する。
「別に俺は太ってようが痩せてようが構わないけど」
 太夏志はそっと詩草の髪を撫でた。目を細めてゆっくり煙を吐き出す。
「元気で、俺がなまけないようにしっかり見張ってくれて、悩んでなければな」
 悩んでいなければ。
 さりげないひとことが胸に深く落ちて、詩草は答えられなかった。莫迦な話をしているときと少しトーンの違う、優しい声が胸をくすぐった。曖昧に笑って酒を口に含む。苦みと泡が舌や口蓋に触れ、喉を冷やしながら滑り落ちてゆく。
 あとで自分の部屋に帰って、眠る前に「シンシア」を少し読もう。
 ふと詩草はそう思った。冷たいシーツの中に滑り込んで、十二年前の太夏志が書いた、潔癖な言葉を拾い読もう。今日は太夏志と一緒に眠らない方がいい。まだ熱がくすぶっているから。
 時計がかちりと動いた。
 二日目の新年は三時間過ぎ、やがて彼らの家に、静かに腰を落ち着けた。

                                    了。

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