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[夢の卵]_09_「彼の氷」

02 15 *2016 | Category オリジナル::夢の卵

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文庫一年後の夏。

続き





 詩草が飲み物を作っている。
 リビングにレモンの香が漂っていた。太夏志は、弱く冷房をかけたリビングのソファに半ば目を閉じて横たわったまま、その香を嗅いだ。詩草の為に自分が料理をするのもいい。飲み物を淹れてやるのも、彼を抱き締めるのも。詩草に何かをしてやりたい、と思う気持は切望に近い形で彼の中にあった。だが、詩草から受け取るのも気分がよかった。彼も太夏志にそうしようとしているのが伝わってくる。
 斜めにもたれかかって二人は人という字を作っている。詩草との間に作られたその相互依存は、太夏志が今までに他人との間で結んだ関係の中で、もっとも手触りがよく、優しくおだやかに住み着いた。
「飲みませんか?」
 詩草は、ゆるやかな青い波の模様の入ったグラスを持って立っていた。小樽で買ってきたシンプルなグラスだ。それは太夏志の気に入りで、冷たい飲み物を入れるときは、詩草はいつもそれを使った。
「それ何?」
「フィレッテ・フリザンテの氷と、レモンと蜂蜜です。それほど甘くないですよ。香だけ」
「アルコールは抜き?」
「今日一日は我慢しましょう。アルコールは水分補給になりませんから」
 詩草はまるで子供をあやすような優しい声を出す。淡く金色がかった飲み物を詩草から受け取り、太夏志は口をつけた。レモンと蜂蜜と凍らせた発泡水。舌に載せると、酸味が喉から身体に静かに染み渡って行った。山脈の地層で二十年かけて濾過されたミネラルウォーター。それを選んで柑橘類と合わせて飲み物に作ったのは彼の恋人。優しく贅沢な飲み物だった。
 詩草は、昨日太夏志がクリニックから帰ってきてからというもの、普段の分を取り戻そうというように、彼をたっぷりと甘やかした。そこまでして貰う必要がないのは分かっている。だが、太夏志は詩草に甘やかされる感覚を冷たい水のように味わい、詩草は彼にそそぐ他愛ない優しさを楽しんでいた。
「暑くないですか?」
「クーラー効いてるからな」
 太夏志はグラスを置いた。彼は余りクーラーの冷気が好きではない。詩草も同じだった。二人とも体力があるので、この夏は、自分達の暑さを耐えられる力を過信していたのかもしれない。
「クーラーより、団扇であおいでくれる方がいいな」
 子供を相手にするように優しい詩草に、わざと我が儘を云うと、詩草は涼しい顔で立ちあがった。
「いいですよ」
 彼は滅多に冗談を云わない。
「団扇を持って来ますね」
 団扇を持っていたのか、と太夏志が驚いている隙に、詩草は自分の部屋の方へ消えて行った。彼は冗談も云わないのに、何故か太夏志を退屈させない。

 ────お疲れ様です。三、四日はお休みしてもいいですよ。
 彼の秘書がスケジュール帳を見ながら、いとも優しき天啓をもたらした日、太夏志の変調は起こった。映画監督の下川祐二に渡すシナリオの三校目を刷り出して、宅急便に乗せた日だった。仕事部屋に導入したばかりのコンピュータの周囲はひどい熱気で、流石の太夏志も参っていた。
 映画の原作小説を出版社に渡した途端に、シナリオの大幅な直しを要求されて、いつも以上にスピードアップしてそれをこなしたのだった。
 わあんと熱気が音をたてて襲ってくるような真夏の一日で、東京の気温は三十八度を超えていた。濃く抽出したコーヒーを氷の上に注ぎ、アイスコーヒーを作っていた詩草は、ソファにぐったりとして座った太夏志の顔を不意にじっと見つめた。
「太夏志さん、体調が悪いんじゃありませんか? 顔が赤いですよ」
「そうか?」
 太夏志はやっとのことで答えたが、我ながら力無い声が出て驚かされた。倦怠感があり、ひどく眩暈がした。また風邪でも引いたのかと思う。彼は基本的に体の丈夫な男だが、ここ数年で、一年に何回かは必ず大きな風邪を引くようになっていた。出かける機会が多いので、時々流感を拾ってくるのだ。すると、彼と一緒に暮らす詩草にも移って、二人は同じ時期に風邪を引いた。
 詩草はコーヒーのグラスを置いて、太夏志の傍にやってきた。ひんやりしたてのひらを額に押しつける。彼の弓形の眉がひそめられた。その詩草の顔を見て、太夏志は自分が発熱しているのを知った。
 だが、太夏志は風邪を引いたのではなかった。
 手当が遅れたためにこじらせて、太夏志の実家に世話をかけた教訓から、詩草は彼を、早めにクリニックに連れて行ったのだ。そこで、彼は熱射病だと診断された。
「家の中に閉じこもりきりで、熱射病になんてなりますか?」
「クーラーをかけない部屋で、水分を充分に取らなければ、同じような症状を起こすこともありますよ」
 年の若い柔和な医師はそう云って、太夏志に冷やした乳酸リンゲル液を点滴してくれた。冷房の効いたクリニックの硬いベッドで、長時間点滴を受けて、太夏志は震え上がるほど冷えたのだが、おかげで発熱も眩暈もおさまった。
「ここ最近、疲れがたまっていたというようなことはありませんか?」
「余り休みはありませんでした」
「ゆっくりして、水分を少しずつ摂って、部屋を涼しくして下さい」
 診察室を出て、医師に云われたことを伝えると、詩草は沈痛な面持ちでため息をついた。
「僕が気が付くべきでしたね。すみません」
「まあ、自己責任だから、こんなのは」
「いいえ、違います」
 詩草は首を振った。
「太夏志さんの健康管理は、僕の仕事です」
 彼は正視しづらいような透きとおった目で、太夏志の疲れた顔を見つめた。他の者には聞こえない、静かに低めた声でささやいた。
「僕に任せてくれてるんでしょう?」
 詩草の手が、少し動いたのに太夏志は気づいた。太夏志に触れようとするように、その右手は動き、そのままゆっくりと彼の膝の上に落ちた。それは最近詩草が時折見せるようになった、男性的な挙措だった。衝動があってもそれを昇華する術がない詩草の中で、途方に暮れるように、男の感覚と女の感覚がいりまじっている。詩草の、艶っぽくねじれた衝動は、それを見つけるたびに太夏志を刺激した。
 会計が終るのを待って、彼等はクリニックのソファの上に座っている。他の患者の姿もあった。そうでなければ、愛撫するようなその言葉に、太夏志は視線以外の方法で応えたかった。自分の肩の広さにぴったりと合った、詩草の伸びやかな背中を巻き締め、生真面目な唇にキスしたかった。
「そうだな。自己責任より安心だ」
 太夏志はため息と共にそう返した。
 こんな場所で云える言葉は少ない。クリニックで、熱射病の診断をされたばかりなのが自分なのだと思うと、不思議な気分になった。家の中にいながらにして、太陽に射抜かれてしまったのだ。おかげで自分は、クーラーの効き過ぎたクリニックで冷たい点滴を受け、詩草は何時間も自分を待って、待合室で文庫本を二冊も読む羽目になった。太陽と夏の強引な威力。
 下川に脚本を渡したばかりの新作のことがふと思い出された。

ある国の上空を五十年前に、黒い雲が覆ってしまう。その雲は上空の光をまったく通そうとせず、国中が真っ暗な闇に包まれた。その国は日の差さない国になったのだ。
 ビタミン欠乏症や、今までに存在しなかったさまざまな病が発生し、殺人が増え、新興宗教が猛威をふるい、人々はエネルギーの不足に苦しんだ。
ところが国の西側にあるひとつの街、数十キロ四方の上空のみ突然雲が切れた。その街は特別な地域になる。光の街だ。地価は高騰し、そこは特権階級の人間の住む街になる。
主人公は中産階級の医者志望の青年。暗闇のエリアに住んでいる。ビタミン剤と運動を欠かさず、日光と同じ成分の光を浴びることの出来るジムに通い、健康に暮らすことに努力を惜しまない。彼は大学の近くの街に、ひとりきりで暮している。真っ暗な街は犯罪も多いが、その国のどこに住んでも、光の射す特別エリア以外なら危険は同じなのだ。
 彼の隣の部屋に引っ越して来るのは同い年の少女だ。手足が長く、小麦色に日やけした肌と、子供のような笑顔を持っている。明るく気位の高い、健康な少女だ。彼女は今まで特別区域に住んでいた。父親が不正をはたらいて会社を追われ、その地域に住めなくなったのだ。
 暗闇の中でも彼女は今までの自分を保とうとする。
 しかし、日の差さない国に住むストレスは徐々に彼女を蝕み、ついに彼女のこころは正常を逸脱し始める。彼女の精神のバランスを取り戻そうと主人公は奔走する。自分の気持ちが恋だと知り、告白して、恋人同士の関係を作った。思いつく限りの優しさで尽くし、彼女が笑うことだけを望んで暮らすようになる。きらびやかな夜の街に遊びに連れ出し、生クリームのように甘いセックスをして、少しでも彼女を夢中にさせるものがないかと探し求めるのだ。
 恋人は一時期気力を取り戻したように見えるが、また沈み込み、痩せて、ふさぎ込むようになる。そしてまたゆっくりと狂って行った。
主人公の胸は悲しみと怒りにふさぐ。恋人のそれほどまでに求める太陽というものはいったいどんなものなのか。写真では見た事がある。真っ青な空の黒い染み。あるいは、黒い空で火焔をなびかせる白い球体。それが空にかかっているからと云って、どれほどの意味があるのか。太陽の街に暮らした事のない彼には分からない。
主人公もまた変って行く。彼は薬を盗んで売り、次々に人を殺して金を稼ぐ。その金で買った銃を鞄につめて、太陽に恋焦がれる恋人を、特別区域に『旅行』に連れていく。
 太陽というものをこの目で見るために。
 恋人に気持ちの整理をつけ、あきらめさせるために。
 もしも彼女が永遠に、太陽のない世界を受け入れられないのなら、自分が旅行鞄にしまった銃で殺してやるつもりだった。彼女を、彼女の内なる太陽の許へ還してやろうと思ったのだった。
太陽の街へのパスポートを持ち、エリアを越える列車に乗る。約四時間の道のりだ。その街が近づいて来た時、向こうから不思議な光が射して来る。
 かつて一度も自分のこの目では見たことのない光だった。
不思議な感慨に打たれ、彼は少女の顔を見遣る。自分が一度も彼女に与える事の出来なかった幸福感がそこに差し込むのを見た。神の使いから啓示を受ける聖女のような、神々しい、宗教的な光に照らされた美しい顔だった。
 主人公は、自分がきっと鞄の中の銃を使うことになるだろうと予感する。
列車は進み、雲の切れ間が見えてくる。
 その街に建つ、天を目指すように高く高く作られたビルの群れが、あたかも太陽の塔のようにそびえ立っている────。

 最初の原案を渡すと、下川は苦い顔をした。
「おれに歩み寄ってくれとは云ったけど、ちょっとこれは歩み寄り過ぎじゃないのか」
「こういうのは好きなんですよ」
 そう云いながらも、太夏志は書き直しを要求されるだろうとは思っていた。
「書き直しますよ。俺と下川さんの『真ん中』に届くまで。でも原作本の方は少し好きに書いてもいいでしょう?」
「ああ、それはね」
 下川は、A4の紙数枚にまとめられた太夏志の原案を、ホテルのロビーの、低すぎる硝子テーブルの上で何度かめくってみた。
「普段なら、嫌いじゃない路線なんだけど。今回はねえ」
「すかっとさせるやつを撮りたいんでしょ。分かってます」
「分かってるのに、こういうのを書いてくるかなぁ」
「そこは、おれも下川さんに引きずられたってことで」
「ふうん……」
 相変らず下川は、判断しかねるような顔だった。だが、暫くして思い切ったように、太夏志の渡した紙を二つ折りにした。
「ごめん、黒沢さん。これは書き直してもらう」
「分かりました」
 太夏志も予想していた以上、ぐずぐずと思い悩みはしなかった。だが、彼は頭のどこかで、自分が紙に書き起こした太陽の街について考えていた。映像には向かない話だったかもしれない。小説で書けば済む事じゃないか。そう思って切り替えようとした。だが、その話を充分に書き起こすには、自分の筆力が足りない事を漠然と感じていた。緻密で平面的な小説を書ける、女性作家に書いて貰えないだろうか。
 太夏志の書く小説はジェットコースターのようだ、とよく云われる。同じコースを規則正しく上って行き、ある一定の場所で突然、猛スピードで駆け下りる。まっすぐに定められたレールの上を走って一回転、時には二回転して、読者の期待を裏切らないゴールに走り込んで行く。
 自分が違う書き方を目指すよりも、違う路線を得手としている書き手に譲り渡してしまった方が楽だと思えた。
 下川が、彼に要求しようという路線についてぽつぽつと語るのを聞きながら、彼は聞き取りづらい下川の声の向こうに、銃を隠し持って旅する二人連れを乗せて走る、光の国行きの列車の轟音を聞いていた。

 太夏志は、原案の書き直しに応じた後、それを映画用の脚本に書き起こし、下川が満足するまで書き直しをした。原作の文庫用の書き下ろしもそれと同時に進行した。二ヶ月で、実に二千枚近く書いたのである。今まで使っていたワードプロセッサでは作業が追いつかなくなり、太夏志はコンピュータを導入した。最新バージョンのOS、Windows95を搭載した大容量のマシンだ。フロッピーディスクにデータを格納するしかなかったワープロに比べて、そのコンピュータは、ハードディスクの中に、フロッピー数千枚分もの情報を取り込むことが出来るのだ。
 しかし、いかなる優秀なハードも自力で考えて働く訳ではない。買ったばかりのマシンが熱を持ち、モーターが嫌な音を立て始めるまで、二ヶ月間、使いに使った。だがそれを操作していたのは太夏志自身だったのだ。
 詩草は太夏志の健康管理を怠ったようなことを云うが、しかし、身の回りの世話から資料の収集、膨大にやり取りしたファックスの整理まで、彼がこなしてくれなければとても乗り切れなかっただろう。なのに、詩草は太夏志と同じだけ忙しくなかったというだけの理由で、自分が怠慢だったという気分になるのだ。
 顔に柔らかな風が当たって、太夏志は目を開けた。
 いつの間にかとろとろと眠っていたらしい。
 まだ数分のことなのだろう。口の中には詩草の作った飲み物の後味がある。
 太夏志が寝そべったソファの肘掛けに寄り掛かって、詩草は団扇を使っていた。エアコンの運転は、冷房から除湿に変っていた。
 何を考えているのか、彼の目は物想わし気に伏せられている。もっとも、詩草の表情が寂しげに見えるのは、彼の内面的な葛藤のせいだけではないことを、太夏志も理解している。詩草の容貌には、元々少し寂しいところがあるのだ。昏くひそやかに光る容姿を、おだやかな表情がカバーして、彼の独特の雰囲気を作り出しているのだった。詩草の表情に、様々な意味合いを付加して、彼を寂し気だと思うのは、むしろ太夏志の方に問題があるのかもしれなかった。
 詩草は、襟ぐりの広いカーキ色のTシャツを身につけて、珍しくジーンズだった。堅苦しい格好をしていることが多いが、そうしていると彼はごく当たり前の若い男だった。詩草が当たり前でないのは、やはり彼を見る自分の目にも要因があるのだ────。団扇で柔らかな風を送られながら、太夏志は思う。
「詩草」
 呼ぶと、詩草は団扇を使う手は止めずに視線を落とした。
「何ですか?」
「キスしないか」
 そう云うと、詩草は、
「今はやめましょう」
 そう云った。アルコールは我慢しましょう、と云ったのと同じトーンだった。要するに子供を相手にする口調だった。
「キスは水分補給にならないって云うんだろう」
 絡むように応えると、彼はそうです、と答えた。
「それに、まだ昼間ですから」
「昼間だと何か問題があるのか?」
「人目があります」
 詩草のその答に太夏志は半ば驚いて、ソファの上で緩ませていた背中を起こした。
「どこに見てる人がいるって?」
 そう尋ねると、詩草は、団扇を持った腕を膝の上に下ろし、もう片方の腕で窓の外を指し示した。そこには、今を盛りと燃えさかる太陽が楕円形に膨らんでおり、ベランダのひさしの下をかいくぐって、斜めの光の矢をフローリングに突き立てていた。白く燃える目に、窓から覗かれているような錯覚を覚えて、太夏志は軽く背中を粟立たせた。
「────ね。あるでしょう、人目が」
 そう云って、詩草は薄く微笑した。その顔が知らない人のそれのように見えて、太夏志は口をつぐんだ。詩草の中に、まだ見た事のない誰かがいるのを感じる。それはまるで、一瞬前に彼を驚かせた、太陽の視線のようなインパクトを太夏志にもたらした。そして、この感覚を前にも味わった事があると思った。
 詩草の中には太夏志の知らなかった彼がいる。不安にふるえ、母の記憶に泣き、嘘がいやだとつぶやく、もう一人の彼だ。彼と出会った時、丁度太夏志の中にこんなショックがあった。大人の鋳型の中に取り残された子供は、握りつぶせそうに脆い花のようだった。今まで詩草の中に見出したことのなかった一面であるからこそ、太夏志の関心を強く、深く惹きつけたのだった。
 そして、陽光を人の視線に喩えて微笑う詩草もまた、いつもとどこか違っていた。
 太陽について、このところ抱いていた執着を読みとられたような気がした。
 太夏志は手を伸ばし、太陽を差した指をそっと掴んだ。その手はひやりと冷たく、太夏志よりも大分低い体温を伝えた。
 彼の違った面を見出したと思ったのに、それがなつかしさにつながるのを不思議だと思わずにいられなかった。
「彼はおれたちなんか見てないかもしれない」
 詩草は首を振った。
「それでも、太夏志さんを熱射病にします」
「力負けするのはくやしいな」
「時間が経つのを待つだけでいいんですよ」
 日が落ちるまで。
 簡単なことですから。
 そう続けた。
 太夏志をいさめるのに、見知らぬ微笑を浮かべる詩草は、起こしかけた彼の背中を優しく押し戻した。太夏志に取られた手を静かに引き戻す。湿度と温度を下げるエアコンの風を後押しするように、詩草は手にした草色の団扇で、彼にまたゆるやかに風を送り始めた。
 この先も自分は、詩草の中に何かを見つけるたびに、それが既に見たことのあるものであれ、見たことのないものであれ、既視感となつかしさを感じ、詩草を何度も体験するのだろうか。これほどまでに完全な肯定。太夏志の中でゆっくりと感覚が言葉に変換される。キーボードにローマ字を打込むと、文字が一瞬青く染まって、目的の言葉に変換されるように。キーボードを連想したことで思いは少し横に逸れて、最高の肯定の方式、という言葉が浮かんで来た。太夏志は苦笑しそうになる。ツァラトゥストラはかく語りき。これではテーマ割れだ。
「太夏志さん?」
 詩草の声に、かすかに訝しむ響きが混じった。それで太夏志は、何を彼に云うのか、云わないでいるのかを選ばなければならないと思った。
 レモンの後味が再びかすかによみがえり、太夏志は蜜の甘さの中から、果実の僅かな苦みを拾い出した。

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