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01:[時系列/原作後] 氷の花

02 26 *2016 | Category オリジナル::全ての者らの瞳が

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続き










 眠りの余韻の中で、彼は赤いもやに似た苛立ちの中で横たわっていた。
 頭がはっきりしなかったが、既に眠りは殺されていた。
 翡翠は、もう一度眠るのをあきらめ、寝苦しい寝床から抜け出した。嫌な夢を見ていた。孤独と虚しさが疼き、胃やこめかみの奥を苛んでいる。彼は胸中の不快感と、傷口の疼きをこらえて、汗ばんだ服を着替え、顔を洗いに行った。
 リビングに灯りがついている。覗き込むと、煉が膝にノート型のコンピュータを載せ、周り中に本を積み上げてコーヒーを飲んでいた。ソファの背もたれに背中を無防備に預け、本にもコンピュータにも目を向けずに、浮かない顔で夜中の街を見ている。sanndaru激安翡翠の足音を聞きつけて、煉は気づかわしげに振り向いた。
「翡翠、こんな時間にどうしたの。……傷が痛む?」
「大丈夫だ。ほとんど痛みはひいている」
 煉はほっとしたようにうなずいた。
「そう。……よかった。何か軽い食事でもするなら用意するよ」
「食事はいい。コーヒーをもらえるか?」
 煉はうなずいて、コーヒーを煎れに立った。
 一週間前に撃たれた翡翠の傷は、さほどひどい傷ではなかったが、幾度となく発熱と痛みで彼の眠りを破った。京都から里帰りしてきている煉が、夜中に時おり、心配そうに部屋を覗き込んでいるのを、浅い眠りの中で翡翠は知っていた。そのたび、彼がこんな夜中に起きていることを気遣う自分を翡翠は笑う。煉はたったひとりで京都の教育施設に行って学び、一般の数年分の過程を飛ばして、大学課程に移ろうという少年なのだ。
 もう少し自分は煉の父親代わり、兄代わりでいたいのだろう。煉がそっとドアを閉める音に気づかないふりをする翡翠は、うとうとと微熱の中で考える。

 コーヒーを飲むと、カフェインが脳の神経線維のアデノシンの働きを阻害し、身体が覚醒し始めるのが分かった。軽く麻痺したような身体が機能し始めた快さを翡翠は味わう。それと同時に、自分の話に耳を傾ける煉の、透き通るようなチョコレート色の瞳を眺めると、気分がほぐれて来るのを知った。
 煉に心を打明けることへの抵抗をなくすべきではないと強烈に思いながら、先をうながす柔らかい言葉に寄りかかって、翡翠は苦しく赤い夢の内幕について打ち明けていた。
「報復を諦めて欲しいと頼んだ。今回のことについてだけでなく、これからも、少なくとも、わたしに関わることである限りずっと」
 翡翠は七日前、おそらくニル・アドミラリに敵対する人間に狙撃された。
 それは彼にとって初めての経験ではなかった。彼を憎む人間が翡翠を傷つけるということ。しかしそれは、翡翠の触れた神の木の樹枝が枯れ果ててゆくように、次々と死んで行くことに比べればはるかに耐えやすかった。彼はそれを率直に愛人であり、守護者である男に伝えた。自分が傷つけた相手に、報復をしないでいてくれることこそが、唯一の望みであると伝えたのだ。それは桐島翡翠という人間の持つ最も正当な望みであり、自分のために他者が傷つかないという、それが混じりけのない大きな喜びなのだった。
 だが、それを口にしてから何日経っても、そのときニル・アドミラリの見せた昏い目が忘れられないでいる。
「彼は傷ついただろうか?」
 翡翠は呟いた。聞き手である煉の年若さは、久しく彼には問題ではなかった。
「おそらく」
 煉は翡翠の言葉を受けて静かに答えた。低いが、はっきりとした答だった。それはおそらく客観的な答だった。
「ミスターの方法を否定することは、とりもなおさず彼の人生を否定することだね。たとえあの人がそれで致命傷を負うことがないとしても」
「わたしにそんなことを云う権利はないのだろうか?」
 翡翠は苦痛に襲われて、思わず目を伏せた。煉はしばらく沈黙した。目を伏せていても煉が自分をじっと見つめているのが判った。それだけこの少年の視線は強く明るい。陽光のような視線の中で、彼の言葉を待つ自分をたまらなく卑屈だと思う。
「翡翠が、報復でひとを傷つけるべきではないという倫理観を持っている以上、二人の価値観が食い違うのは仕方がないことだよ。ミスターもこの先、翡翠との感覚の違いで苦しむこともあるだろう。本当なら、それだけ価値観が違う人同士は、互いに道を交えないのが一番無難なことだと思う」
 翡翠はためいきをついた。
「交わったら……?」
「多くの場合、憎み合うんじゃないかな」
 煉は、翡翠が思わず目を閉じたのに気づいたのか、柔らかく云い添えた。
「一般論だよ」
 そして更に、ごめん、とつけ加えた。
「僕はむしろミスターの気持ちが分かる。線が引いてあるなら、今でもそちら側に立つと思う」
 なだらかな声でそう云った。翡翠は煉が幼い頃、母親代わりの女を殺した男を、復讐のために刺し殺したことを思い出した。否、むろん忘れたことはない。それは煉の一部として翡翠の記憶の中に刻まれている。だが、自分のことを考えていると視野狭窄状態になって、煉の肝心な痛みを失念してしまう。
 翡翠はソファの上に軽く置いたこぶしを握りしめた。てのひらの中に汗がにじんだ。蒼い火のような羞恥に灼かれる。自分の無神経さを身にしみて恥ずかしく思った。しかしそれを口にして詫びることは、なおさら彼を傷つける行為であると思えて、言葉が出なかった。
「あなたも苦しいし、ミスターも苦しい。でも、ミスターに全てを譲ることはない。彼と対等な心でいたいなら」
 煉の賢しく、しかし優しい言葉が、細く胸に流れこんできた。翡翠は自分が泣けるものなら泣いたかもしれないと思った。彼の涙腺は、た易く自分の瞳に涙を供することはない。それがせめても救いだった。煉を頼りにすることはいい。きっと煉もそれを望んでくれるだろう。しかし、この問題について煉の助言を期待するのは賢明ではなかった。
(煉をかやの外に置かず、必要以上には頼り過ぎない。そんなことがわたしにできるだろうか?)
 翡翠は自分への失望を和らげようと深く呼吸した。体内で、羞恥と衝撃の余韻が脈打っている。
「ありがとう。少し考えよう」
 幾つかの言葉の交換では結論を出せない。曖昧に話を結ぶ翡翠をなだめるように、煉は微笑を返した。
 その時、電話のベルが鳴った。
「わたしが」
 手を伸ばそうとした煉を制して、翡翠は受話器を取った。
『こんな時間に申し訳ありません』
 ニル・アドミラリの秘書の滝川の、表情の薄い声を聞いて翡翠はぞくりと背中を震わせた。午前一時だ。滝川が翡翠にかけて来るにはいかにも遅い時間だった。
「ミスターに何かありましたか?」
 思わず声が強張った。すると滝川は電話の向こうで一瞬沈黙した。
『社長はそちらには行っていないようですね。急ぎ連絡を取らなければならないことがあったので────失礼しました』
 滝川の声にかすかな焦りがあることを翡翠は感じ取った。
「ミスターがどこにいるか解らないんですね?」
『ええ』
 滝川は肯定のいらえを返した。
『少し出ると云ったきり、連絡が取れなくなりまして』
 彼はいつも、翡翠にニル・アドミラリの内情を噛み砕いて聞かせる。翡翠を情報の外に閉め出すことに意味はないと考えているようだった。
 ほんの数日前翡翠が撃たれたばかりだ。ニル・アドミラリは、セブンシズと、彼に恨みを抱く男が動いていると云っていた。そんな時であれば滝川も気を抜くことは出来ないだろう。滝川に行く先を知らせずにニル・アドミラリが動くことは滅多にない。なおさら不安に思うはずだった。
 しかし翡翠の中にひらめいたものがあった。滝川が行く先を知らないということで、むしろ思い当たったのだった。しかしそれをそのまま告げていいものなのか、翡翠は少しの間葛藤した。
「滝川さん。わたしのアパートに車を回して頂けませんか。一時間ほど一人で車を使いたいので。わたしに心当たりがあります。ミスターに会えたら連絡を入れますから」
『心当たりが?』
「危険な場所に行くようなことはしません。約束します」
 滝川も迷ったようだ。躊躇いをあらわす沈黙が受話器の向こうから返って来る。翡翠が再び傷つけられるようなことがあれば、ニル・アドミラリの怒りは想像に難くない。傷つけられるだけならまだいい。セブンシズの内部に剣呑な動きのあるのが本当なら、何があるか判らない。
 しかし滝川は一瞬で決心したようだった。
『解りました。十五分後に参ります。その代わり、少しでも変わったことがあったら、その場で私に連絡して下さい。御連絡があるまで待機しています』
「お願いします」
 電話を切ると、煉が翡翠を眺めていた。何を思ったのか、静かに微笑する。
「ミスターを探しに行くの? 翡翠」
「ああ」
 翡翠は着替えるために、慌ただしく寝室に入った。十五分で来ると云うなら滝川は必ず来るだろう。それまでに下に行っておこう。少しでも早く滝川の心配を取り除いてやりたい。
 最近のニル・アドミラリは疲れているように見えた。誰が側にいても、どこか煩わしいように眉をひそめていた。それは、いつもニル・アドミラリの抱く、漠然と世界へ向けて飛散する殺意を隠すための、鷹揚でもの憂い沈黙とは異なるものだった。ニル・アドミラリは一人になりたがっているのだ。翡翠は思う。そんな時に彼が行く場所の想像はついた。
 着替えを済ませて出て来ると、煉が翡翠の部屋の前で、彼のコートを手にして立っていた。深緑色の厚手のコートだ。翡翠の柔らかな栗色の髪や、うすみどりいろの左目に合わせてニル・アドミラリの選んだものだった。
「一人で大丈夫だね?」
 煉は首をかしげて翡翠を見下ろし、おだやかに尋ねた。
「大丈夫」
「冷えるから気をつけて」
「ありがとう」
 翡翠は松葉杖を壁にたてかけて、コートに袖を通した。翡翠は昔からニル・アドミラリを様々なものになぞらえて来たが、光沢のあるカシミアもまた、あの男を思わせる。あの男の、傲然とした自信の縦糸を支える、絹の横糸のような繊細さを。
「本当に危険はないんだね」
「たぶん」
 翡翠は、それでは答にならないことを悟ってもう一度口を開いた。
「確信があるんだ」
「じゃあ、行ってらっしゃい。滝川さんの後でいいから、僕にも電話をもらえるかな」
「もちろんだ。……連絡を入れる」
「ミスターのことになると人が変わったようになるね、あなたは」
 煉は腕を伸ばし、愛しそうに目を細めてそっと翡翠の髪の乱れを直した。
「どんな問いにも答が出ると思うよ。それを思えば」
 翡翠は黙ってうなずいて、セキュリティの万全なアパートの階下へ下りていった。

 東京郊外まで車を走らせる。月はなかった。真っ黒な晴天の夜空に、氷の粒のような星が輝き、外は凍てつくような寒さだった。今夜も凍死者が出ることだろう。冬になると、毎日の昼のニュースで、前の晩、路上で凍死した人間の名を読み上げられることに、東京の住民はすっかり慣れている。今までは、翡翠ひとりで外出しようという気持ちがなかったため、必要だとは思わなかったが、これから少しでも外に出て行く気があるのなら、少し前に煉に云われたように翡翠も自分の車を持たなければならないだろう。
 自分の車とはいっても、何の仕事をしているわけでもない翡翠には、自分の働いて得た金で車を手に入れることは出来ない。結局はニル・アドミラリに頼るしかない。
 彼は嘆息した。煉を見ても、ニル・アドミラリを見ても、彼らを慕い、愛しく思う気持ちとは裏腹に、自分自身の能力を発揮して生きる彼らに、微弱な嫉妬芯がある。微弱で済んでいるのは、おそらく翡翠がそれらの感情を殺す技術に長けているためだ。
 いかに情が通じあったところで、煎じつめて考えれば、自分の容貌で裕福なパトロンを得て暮らす翡翠の生活は、云い訳のしようもなく、ある種の底辺の暮らしなのだ。何故少しでも彼らを対等な気持ちで想えるよう、努力してこなかったのだろう。
(まだ遅くはないのだろうか)
 今からでもやり直しはきくだろうか。
 翡翠はバックミラーを注意深く覗き込み、ついてくる車がないかどうか確かめる。心配はないようだった。滝川は、おそらく目立たないようにという配慮だろう、地味な色の国産車を用意してくれていた。リムレスの眼鏡を押しあげて、翡翠はほっと息をつく。自分が軽率な行動を取ればニル・アドミラリを危険にさらすことになる。
 車は古く広い街道を走り、ながらく入れ替わりのない住宅街に滑り込んだ。砂利を敷いた私道の手前で車を止め、翡翠は松葉杖をついて車を降りた。痺れるような冷気が身体を包み込み、彼のまだ塞がりきらない傷にしみとおった。
 彼は傷を刺激しないよう、ゆっくりと歩いてその家の前まで行った。家に続く扉の手前に植わった、巨大なアメリカブナの下にひそませるように、見慣れた車が止まっていた。
 翡翠は、思った通り灯りの漏れる、樹木の向こうのその家を眺めた。数百メートル四方をぐるりと西洋紅かなめの高い生け垣で囲ったこの空間の内側には、植物の代謝の奔流のような、驚くべき庭が封じ込められていた。
 そこは、全てが整えられ、計算されて配置された故に静かな調和を生み出す日本庭園とは、根本的に違う空間だった。
 数百種の丈の高い花樹が植えられ、季節ごとにうねるように花の波が咲きこぼれる西洋風庭園だった。それは幼かった頃に読んだ童話に登場する、秘められ、忘れられた古い花園を思い起こさせる。蔓草の透かし模様を彫られた黒い鉄の扉を開けると、そこから石を埋め込まれた小道が続いている。その道を空から覆い隠すように植わっているのは、ハナコブシ、紅い球状の実と、乳黄色の四片の花をつけるトキワミズキ、あでやかな若い女のようにすらりとしたアメリカハナノキ────秋には真っ赤に紅葉するが、今は葉を落としている────、ライラック、銀木犀。春には薄いピンクのコサージュのような花をいっぱいにつけるサンショウバラの大木。
 木々の合間には、石楠花、クレマチス、大輪の花をつける牡丹、青いメコノプシス。
 そして、あまたの薔薇。誇り高いレッド・デビル、あでやかなペーター・フランケンフェルド、澄まし返った白いロイヤルハイネス、マリア・カラス、メモリアム、日光のようなキングス・ランソム、桃色の陰影を持ったミセル・メイアン、シルバーライニング、赤いビロウドのようなソラヤ。ブラック・ティー、聖火、クラウス・シュトルト・ベイカー。
 一つ一つ指差して愛人が自分に教えた薔薇の名前を翡翠は反芻する。
 それらは今、花と葉を落とし、庭園に灯された鉄のランプにぼんやりと照らし出されている。
 冬の寒気の中で、棘を備えた暗い茂みと化した彼等の間を、翡翠は松葉杖をついてゆっくりと登って行った。小道の末に広く屋根の勾配をはりだした家がある。かすかに青みがかった灰色の建材で作られたその二階建ての家は、花樹で森のようになった庭のただ中にひっそりと埋まっているのだった。
 コツ、コツ、と自分の松葉杖の立てる音を聴く。それらが闇と緑の中に吸い込まれて行くのを聞くと、この膨大な植物を呑み込んだ庭の奥に、休息の場所を求める男の気持ちが翡翠にも分かる。木々のざわめきは沈黙のさまたげにはならず、むしろそれを際だたせて、東京の片隅のその家を、どこの国とも知れない深い森の中の一軒家に仕立て上げていた。窓から漏れる光が、テラス越しに外の木立を照らし出し、葉を透かしている。
 家のすぐ下で立ち止まった翡翠は、二階の窓の灯りを見上げた。見慣れた男の姿がぼんやりと浮かんでいるのが見えた。眼鏡で視力を矯正した今なら、シルエットでも一目で彼だと解る。翡翠は思わず息を吐いて微笑んだ。頬の周りを綿毛のような白い吐息がつつんだ。翡翠はそっと電話を取りだし、滝川の番号にかけた。
「ミスターがいました。心配はありません。居場所はわたしの口からは云えないので、少ししたら、ミスターから直接かけてもらいます」
『それまでお待ちしています』
 滝川は余分なことは云わず、簡単に礼を云って電話を切った。だが、無事を知らせる翡翠の電話に、彼の声が安堵をにじませたのが分かった。
 ニル・アドミラリは愛されている。翡翠は思う。彼が恐怖政治のレールのみを敷いて来たなら、彼の部下にも脱線する者が現われるだろう。畏れられることこそあれ、慕われることはないだろう。
 しかしニル・アドミラリが銃を握った時の貌の変わり方、凍て付く星のような黒い瞳も、彼のまた真実の姿であり、彼が今まで積み重ねて来た生活のあかしなのだ。本当は優しい人だ。そんなふうに自分の枠にはめこむことこそが、ニル・アドミラリをむしろ否定することになる。
 それでもやはり翡翠には、ニル・アドミラリの生き方を肯定し、賛美することは出来ない。たとえ暴力をも辞さぬ男だからこそ、翡翠をその庇護下で安らがせたのだとしても、翡翠の暴力を嫌悪する心を変えることは出来ない。
 ────わたしのような浅薄な人間には、難しい問題だ。
 凍った緑のただ中で、松葉杖にすがった翡翠は灯りを見上げて思う。
 彼に全てを預けてしまうことが出来ればどんなにいいだろう。
 人生も価値観も、愛人の云う通りに任せ、彼の望む通りの道を歩く。
 危険だから側を離れるようにと云われれば、黙って外国に渡り、彼が死んだというニュースを聞いて初めて、帰国して死体に取りすがって泣くのだ。
 それは楽な道かも知れないが、翡翠にとってはほぼ意味のないことを積み重ねることに他ならない。
 自分では気づいていなかったが、翡翠はいつの間にか険しい顔になっていた。絹糸のような髪につつまれた頬の奥で、彼は自分の無力さに歯を食い縛る。
 誰かを愛することと、その人の生き方を愛することが別だというのは、翡翠の中で解決のつかない、暗闇に似た無力感を覚える現実だった。
 煉に電話をかけなければいけないことが思い出されたが、気持ちが乗らず、彼はエナメルをコーティングした薄い電話機をコートのポケットに仕舞い込んだ。寒さと激しい不安定さが襲ってきて、平静な声を聞かせられそうになかった。
 石を配した小道の先には、ぐるりと木製のテラスに取り囲まれた家の扉がある。テラスに登る数段分の階段を彼はゆっくりと登った。
 この家の鍵は、今、中にいる男と自分だけが持っている。
 ニル・アドミラリは数年前、長年の望みをかなえて、この家を買ったのだ。
 ここは彼が子供の頃に家族と共に住んでいた土地だった。
 外交官一家が無惨に殺された後、家そのものは取り壊されていた。その地所に家を再建して住んでいた老婦人が亡くなって、ニル・アドミラリは遺族から、家ごと土地を買い取った。この庭の原型を造った老嬢は、手塩にかけたこの家を生前、決して売ろうとはしなかったのだった。
 ニル・アドミラリは家族の亡くなったこの場所に、特別な思いを抱いている。翡翠を彼がここに連れてきたのは数ヶ月前のことだった。信頼出来る庭師を一人雇って、老婦人の作った庭を、ニル・アドミラリは絢爛豪華な庭園としてよみがえらせた。自分自身の手で草を一本抜いた訳でも、木を一本植えたのでなくとも、ニル・アドミラリにとってこの、樹木にあふれた庭は、かつての家族と老婦人の善良なる亡霊との共同作業で作り出した、色褪せることのない記憶のブリザーブドフラワーなのだ。
(「────この家を買って、何を忘れまいとしているのか判らない」)
 ニル・アドミラリはそう漏らした。彼が住んでいた頃にはなかった家だが、しかし彼は、翡翠を伴って、なつかしむようにその家の中を案内した。
(「この家は滝川にも知られていない。そんな場所を持つのは賢いこととは云えないな。……未来永劫隠すつもりはないが、もう暫く」)
 黙々と暗く沈むことの多いニル・アドミラリの目に、悪戯を隠すような光が一瞬閃いたことを思い出す。百合の花の紋章を彫り込んだ古風なブランクキーを鍵穴に差し込む翡翠は、その瞳の光を思い浮かべてほのかに胸のあたたまる思いをした。
(「今は君にだけこの鍵をあげよう」)
 ニル・アドミラリはそうささやいて、翡翠のてのひらに小さな鍵を落とし込み、彼の頬に口づけた。
(「そのうち家に手を入れる。今のままではセキュリティが甘いからね。そうしたら君も好きに使って構わない。少なくとも青山よりは静かだ。ここら辺は」)
 彼も時々は逃げ出したくなることがあるのだろうか。東洋の星とうたわれる会社の社主であり、マフィアの流れをくむ組織とひとを纏めあげる自分から。そう思うと、胸の締めつけられる思いだった。それは翡翠のなかに時折おとずれる、絶対者に対しての不可解な保護欲だった。それは愛する男を癒したいと思う、女性的な感情なのかもしれない。男性的な思いと女性的な思いの間の線引きをすることは、翡翠には不可能だった。
 翡翠はそっとドアを開け、ホールに立った。家中に灯りが点されている。エネルギーの大量消費が問題にされるこの時代に、彼の周囲ではいつも贅沢な光と力が費やされていた。それもまた、翡翠の善しとする感覚と食い違う点だった。
 エントランスホールはあたたかで、翡翠は松葉杖によりかかったままコートを脱いだ。二階への階段を上ろうとすると、松葉杖が床を打つ音でニル・アドミラリはどうやら来訪者に気づいたようだった。
 頭上で静かに扉が開き、黒髪の男の姿が現れた。
「翡翠」
 ニル・アドミラリは感情を見せない静かな目で彼を見下ろし、低くなだらかに名を呼んだ。だが、その額に、いつも撫であげている前髪が下りている。寝室でならともかく、灯りの中でそうしている彼を、翡翠は今まで見たことがなかった。その髪のせいか、ニル・アドミラリが遠目に少年のように若く見えて、彼は微笑した。脱いだコートを腕にかけて恋人を見上げる。
「こんばんは、アレックス」
「────ようこそ」
 そう云って、ニル・アドミラリは悪さを見とがめられた若者のように、少し肩をすくめた。松葉杖をついて登ってこようとする翡翠を押しとどめ、自分が階段を降りてくる。目の上に一筋かぶさった前髪を指で払う仕草がなおさらに少年のようだった。
「なぜ私がここに来ていると?」
「滝川さんに内緒でお出かけになるところは、わたしにはここしか思いつきませんでしたから。滝川さんが心配していましたよ」
 彼はニル・アドミラリを見上げた。
「電話してあげてください」
 男は眉をひそめた。
「彼の心配症には困ったものだ」
「今夜は帰らないが心配ない、とひとこと云ってあげれば、滝川さんは夜中にわたしに電話をかけるようなことはしませんよ────電話を持っていないんですか?」
 ニル・アドミラリはゆっくりと首を振る。
「電源を切っていた」
 翡翠は自分の許へ降りてきた男の腕に触れた。スーツを脱いでいるが、シャツの布越しに感じる体温は温かい。彼はその広い肩口に、そっと額を寄せた。
「どうしたんです、『ミスター』? こんな夜にあなたがいないと聞けば、私も心配します。まして滝川さんはいつもあなたを心配しているでしょう?」
 ニル・アドミラリは彼の髪を愛おしむように撫でつけた。かがんでそのこめかみに口づける。彼が苦笑する気配が伝わって来る。
「解った。連絡しよう」
「そうしてください」
 男は、杖をついた彼を痛ましげに眺め、もう片方の腕の下に自らの腕を滑り込ませて、翡翠の背中を支えた。
「こんな身体の君を一人で、こんなところまで来させてしまった」
 翡翠は男のうなじをゆるく抱きしめた。これだけの仕種が抵抗なく出来るようになったことを、彼は染みるように嬉しく思う。
「杖は大事をとって持ってきただけです。杖無しに歩こうと思えば歩けます」
「足を引きずらずに?」
「少し引きずっていても」
 そう答えると、ニル・アドミラリは首を振った。それが、自分の答へのどういった反応なのか、彼には分からなかった。男は翡翠の手から松葉杖を取り、自分の肩をその代用にして、翡翠をエントランスホールの奥に置かれた籐のカウチソファーに連れて行った。壊れ物を扱うようにそっと彼を椅子に抱き下ろす。
「待っていてくれ。滝川に連絡して来る」
「電話ならわたしがここに持っています」
 コートの内ポケットを探ろうとした翡翠を、ニル・アドミラリは物憂げに制止した。
「いや、上の部屋からかける」
 翡翠は肯いた。ニル・アドミラリがこの廷内の回線を使って滝川に連絡しようとする意図が彼には分かったからだ。ここから電話をかけるということは、滝川に電話番号を知らせるということと同義だった。ニル・アドミラリの家から、電話の逆探知が可能なのだ。翡翠がここに一人で自分を捜しに来たことをきっかけにして、ニル・アドミラリは、滝川にもこの家の所在を教える気になったのだろう。
 彼のような男が秘書にも明かさない隠れ家を持つことは、感心出来たことではない。滝川に居場所を告げるならそれでいいのだろう。そう思いながらも、翡翠は贅を尽くした庭木の中にひっそりと佇むこの青灰色の家を、ニル・アドミラリが自分だけの胸にしまっておけなくなることを、かすかに気の毒に思った。
 彼にはプライヴェートな時間が少ない。硝子張りの部屋で過ごす、不自由な王族のような暮らしだった。翡翠自身の生活も似たようなものだ。それ故に彼はその窮屈さを理解しているつもりだった。
 松葉杖をついて歩いてきたおかげで、腕の筋が強張っている。彼は松葉杖を引き寄せて、カウチの背もたれに背中を預けた。脇あてに巻かれたつづれ織の布を指でなぞる。エントランスホールの天井のシャンデリアの光が、絹で刺繍された風景画にうつり込んで、握りのムク材ごと、杖を柔らかく輝かせている。アパートを出る前に飲んだ鎮痛剤がようやく効き始めて、ゆるやかな眠気がこみ上げて来た。男が降りてくるまでの数分間を、目を閉じてやり過ごそうと、翡翠は背あてのクッションの上で背筋をゆるめた。
 


(「奥に、あの絵がかかっていた」)
 半ば覚醒し、半ば眠った意識のなかで翡翠はふたたび、何度繰り返したか判らない記憶のフィルムを巻き戻す。フィルムの焦点はいつも一点に絞られている。その話をしながら空中を指さしたニル・アドミラリの昏い瞳を思い出すのだ。
(「そこに、姉がもたれていた」)
 血だらけで、すぐには何がどうなっているのか判らないほど。
 昔、ここに建っていた家には、ルネ・マグリットの複製画がかかっていたのだそうだ。それは元の絵が見えないほど紅く染まっていた。ニル・アドミラリの網膜に焼きついて離れない、石の林檎の絵だ。彼の目には、『度の思い出』と名付けられたその絵を見るたび、その絵を染めた血、家族の流した血が重なって見えている。
 眠りから覚めた子供は、静まり返った家中を歩き回り、ばらばらに違う部屋に死んでいた家族をひとりずつ見つけた。重く弛緩した死体をひきずって、同じ部屋に集めたと云った。それが死体だと解っているのに、死が訪れたことを信じられなかった。苦しんで死んだ家族の面変わりは激しく、しかし彼は救いを求めて外にかけ出してゆくことをしなかった。
 外に出たらこれは全て本当の事になる。だからこのことを誰にも話してはいけない。そう思った子どもは二日間、家族の死体と共に閉じこもり、腐臭に耐えかねて外に出たのだ。それはおそらく一生、ニル・アドミラリと名のる男の心に刻まれて癒えない記憶だ。
 六年前、翡翠が初めて銃で傷つけられた時のニル・アドミラリの目を、翡翠は同時に思い返した。それはおそろしい体験だった。ニル・アドミラリはゆっくりとねらいをつけ、眉一つ動かさずに男の足を撃った。火薬の匂いがした。男は叫んで転がった。会えば必ず自分を抱く黒髪の魔物は、静かに翡翠を振り返った。
(「君は部屋から出ていけ」)
 翡翠はおびえてあえいだ。そのころ彼は十八歳になったばかりだった。
(「ミスター、殺さないで下さい」)
(「出ていけ、翡翠」)
 冷ややかに、男の黒い瞳が光った。瞳の中に刃が見えた。ニル・アドミラリはそれ以上は何も云わず、翡翠は銃声を聞かぬように、滝川の腕にすがって逃げ出した。そして彼を止められなかったことで、自分がその男の死の一幕の舞台の登場人物になったことを知った。
 ニル・アドミラリは必要があると判断した時、無抵抗の相手でも撃つ。この男はまず足を撃つのだ。続いて腕を。いつもそうするのだと翡翠は知っていた。動きを奪うが、楽には死なせないのだ。それがいつから彼の中に刻まれた習慣なのか判らない。
 攻撃と報復の中で生きてきた男。絵の前で陶然と、異なる次元へ漂っていく男。どちらもこの男の素顔だった。
 この深い木立の中の家を、おそらく彼は自分の住んでいた家と似たものに作り替えるのだろう。そうして、その家の中にマグリットの『旅の思い出』を掲げるだろう。
 彼が忘れたくないと思っているのは何なのだろうか?
 復讐心か。家族への愛か。復讐心に冒される前の自分か。
 どれだとしても不思議はなかった。
 自分が彼の苦痛を支えられるほど、賢く強ければどんなにいいだろう。
 翡翠は、異種族間の恋のようにたどたどしく、ニル・アドミラリに自分の意思を伝えてゆく過程を思って鈍い痛みを感じた。あの男の全てを受け入れたい、しかし受け入れられない、その矛盾が苦しかった。長い時間がかかるだろう。そして意思の疎通が成った時も、ニル・アドミラリが望んで自分を側に置くかどうか解らなかった。翡翠にはそれほどの自信はない。
 今はまず詫びよう。ただ愛人の生き方を否定し、疲れを感じせしめたことを。しかしその望みは固く強く、決して変えられないこと。だが、さらに、自分が世界中におびえて血を流していた時、その傷を包みこむことが出来たのは、運命の暴力を同じ力ではね返す自信に支えられた、ニル・アドミラリだけであったことを。
 今晩ここに来てよかった。自分も彼も落ち着いている。この小さな家は春まで眠りについた、灰色の薔薇の茂みで守護されている。庭の上空は凍て付いた黒い夜だ。息を吐き出しただけでそれは氷の棘になる。無性にひと恋しく、彼と自分の恋について話すのにはいい晩に思えた。
「翡翠」
 再び階段を降りてきたニル・アドミラリがささやくように彼の名を呼ぶ。カウチソファで目を閉じた翡翠を、気遣わしげに覗き込んだ。
「滝川に連絡して来た。傷が痛むのか……? すまなかった」
「いいえ」
 翡翠は柔らかな眠りのかいなを振り払おうと首を振った。
「本当に痛みません。煉にも連絡を入れていいでしょうか。彼も心配しています」
「ああ。そうしてくれ」
 ニル・アドミラリは、杖に体重をかけて立ちあがろうとする翡翠を、手を差し伸べて支えた。
「君こそ、ここで連絡すればどうだ?」
 滅多にないことだが、やんわりとした揶揄が男の声にまじった。
「わたしの前では彼と話しづらいか?」
「そういう訳では」
 ない、と断言は出来ずに翡翠の言葉は途切れた。煉とニル・アドミラリとの間には微妙な屈託がある。彼もそれを気づいていた。それはニル・アドミラリと翡翠の関係と、翡翠と煉のそれにどこか共通点があるからかもしれない。二つの関係は相容れる筈もなく、磁石の同じ極同士のように反発し合うのだ。しかし、決定的に違うのは、煉を庇護する翡翠の力はニル・アドミラリの力の借り物に過ぎないこと。そして煉は、翡翠の年若い愛人にはなり得ないということだった。
「そんなことはありません」
 彼は声に力を取り戻して、改めてそう答えた。松葉杖と男の手に支えられたまま、煉の番号にかける。アパートを出てから既に一時間以上経ってしまった。コール音が二回鳴る前に煉が電話を取り、彼が連絡を待ちわびていたのが分かった。
「わたしだ」
『無事? あなたも────彼も?』
「ああ。無事に会えた。何も問題はない。折を見て戻るから、待たずに眠ってくれ」
 電話口で相手の名前を呼ばない、自分の名を口にしない習慣がいつ頃ついたものか分からない。自分ではそれが、盗聴をおそれているためだと分かっていた。
『それで安心した。帰りも気をつけて』
 煉の声を聞きながら、自分を支えた男の手を翡翠はそっと握りしめた。その手は冷え冷えとしている。翡翠の熱いてのひらの中で、大きな氷の花を握りしめたようだ。
 目を上げた翡翠はふと、ニル・アドミラリの顔色が青白いことに気づいた。このところ男の視力は落ちた。そのためか時折頭痛がするようだった。眉をひそめることが多いのも、以前に比べれば疲れやすいのも、視力の衰えのためかもしれない。
 疲れが頭痛に、頭痛が病に変わるのは珍しいことではない。ニル・アドミラリが病むという可能性を、自分がまったく感じたことがなかったことに翡翠は気づいた。彼のすらりとした身体はいつも疲れを知らず、強健だった。嘗て、翡翠の呼ぶ不運には負けないと云い切って笑った。
 青ざめると、白人のニル・アドミラリの皮膚は蝋人形のようになり、翡翠は胸苦しい不安に胸をつかまれた。
「アレックス」
 電話を切って男の顔を見上げると、自分の声が絡んだことに翡翠は驚かされる。
「ここにいてもいいでしょうか? あなたが今夜どうしても一人で過ごしたいなら、わたしはこのまま帰ります。でも、そうでないなら」
 男の目がなごみ、翡翠は、ほんのかすかに香水の香る胸に抱きしめられた。
「君を帰らせてまで一人で過ごしたい夜などない。君さえよければここにいて欲しい」
 脳のどこかで、とろとろと熱気のような幸福感が分泌され、翡翠はその影響を全身で味わった。目尻に小さな痛みが走ったが、やはり涙は出なかった。その代わりニル・アドミラリの指の感触を残したてのひらはなお熱くなり、彼は自分の体温を愛人に分け与えようと抱擁を返した。
 幸福だ。
 まじわらない価値観や、振りかかる災厄にこの先苦しむことがあっても。

 旅人は長い道を行く。
 この一晩は、この先に夜道を辿るとき携える灯に似た、ささやかな旅の思い出だった。

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