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02:[時系列/原作前] 鳥類楽園

02 26 *2016 | Category オリジナル::全ての者らの瞳が

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ファーストインパクト。

続き










「ここがわたしの部屋だ」
 アレックスは少年の肩に軽く触れて、サロンに入るよううながした。濃灰色とマホガニーの色調で統一された室内に、翡翠は革靴に包まれたつま先を踏み入れた。小さな円形のホールは多くの絵に飾られ、彼らの退色を防ぐために空調と灯りで、常に一定の暗さと明るさ、静かな肌寒さを保っている。
 大柄とは云えない少年の足取りに絨毯はかすかに沈み、そこにいるのがまるでうす茶の小さな猫ででもあるように、彼の体重をやわらかに消し去った。
「────絵が沢山あるんですね」
 翡翠は低くつぶやいた。たった今抱えている葛藤とは別に、興味をひかれたようだった。彼は左右の色の違う不思議な瞳をあげ、見事な睫越しにアレックスの部屋の壁を見回した。
「仕事柄ね」
 そう答えて、アレックスは微笑んで付け加えた。
「本当は好きで側に置きたいだけだよ。美しいからね」
 賛美すべきものを側に置きたいと思うことにそれ以上の理由は無い。
(君がこうしてここにいるのと同じように)
 それは口にはしなかった。
 翡翠は、装飾的なサロメやオルフェウスの絵で知られたディアボロの作品の前で足を止めた。ディアボロの、なめらかな品性と、淫猥で華美な毒を兼ね備えた筆の前で、彼はふと眉をひそめた。それは旅人たちを食うスフィンクスを描いた一作だった。
 スフィンクスは豊かな金の髪を垂らして岩棚に座り、獅子の前足に、首のもげた人形のように旅人の身体を掴んでいる。むくろから滴る血と同じ色の花が、丸い冠に編まれて、スフィンクスの金色の頭を囲んでいた。
「その絵が気に入ったのかい?」
 おそらくそうではあるまい、と思いながらアレックスが訊ねると、少年は夢から覚めたように目をしばたたき、曖昧に首を振った。
「────不思議だと思って」
「何を?」
「誰がスフィンクスに花の冠をかぶせたんでしょうか?」
 翡翠は自分の指を眺め、そして、絵の中のスフィンクスの前足に目を遣った。その前足のかぎ爪は、ひとを引き裂くことこそ容易でも、花冠を編むのには適していなかった。誰かが紅い花を冠に作り、美しい怪物の頭にそれを捧げたのだ。
 アレックスは、少年の唇から漏れた問いを、好ましく、そして意外に思った。
「旅人の一人かもしれない」
「何のためにそんなことをしたんでしょうか……」
 翡翠はまだ絵に目を奪われたままでぼんやりとつぶやく。
「報酬を受け取ったのかもしれない。いのちを救うと云われたとすれば、花冠を千でも編むだろうね」
「……」
 翡翠は目を伏せた。苦痛のような、安堵のような不可解な表情を浮かべた。
「その冠はスフィンクスにとって、人間の命と引き替える価値があるんでしょうか?……」
 アレックスは微笑した。
「荒野に獣の肉体をもって坐る怪物が、あるいは孤独を知るとすれば────」
 ゆっくりと付け加える。
「孤独を花が癒すのは不思議なことではないよ」
 翡翠は何かが腑に落ちたように絵から視線を逸らし、数度、静かに瞬きした。そこに、アレックスは、翡翠の父親の持っていたものと同じひらめきを感じたように思った。しかし彼はすぐに目を伏せてしまった。琥珀とエメラルドをそれぞれ嵌め込んだような瞳は、物云いたげな瞼に隠れ、すると、少年の顔はどこか無個性な、美しく作りすぎた人形のようになった。
 アレックスは翡翠の目の中に一瞬見いだした光を惜しんだ。
 宝石が物想うとすれば、それは美しさ以上の価値を持つ。ましてやその宝石を自分のてのひらに握って閉じこめておける立場の者にとっては。

 雪は闇の中で、おびただしい灰色の蝶のように降り続けている。窓からガラスを伝って、厳しい寒気が忍び込んでくる。
 アレックスは空調をもう少しきかせようと立ち上がった。待ち人は、彼の寝室に隣接したバスルームで湯を使っていた。
 もうじき彼が自分のものになるかと思うと、複雑な喜びがこみあげてくる。こんな風に気をはやらせて、浴室から出てくるひとを待つのは初めてのことだった。
 空調の風がかすかに強くなる。部屋はよく温められ、アレックスと共に、もう一人の登場人物を待っている。
 照明は少し落としてあった。照明の色合いを甘く変えることもできるが、過剰なロマンティシズムを演出して、少年が気後れしないように、光量を落とすだけにとどめた。
 アレックス・ハーストは、周囲の者に、欲望や恋愛に淡泊な男であると思われているようだ。
 彼にとってのそれが、仕事や芸術への執着を上回ることは今までなかったからだ。しかしそれは、彼自身に云わせれば、さまざまなものへの執着が度を越しているために、恋情についやす精力が沈んで見えるだけのことであった。
 だが、事実、今までに彼のこころを深くとらえた人間は多くはなかった。
 彼の素性を知りながら慕ってくれた女、彼の素性を知るが故に彼を愛した女もいた。男を抱いたこともあれば、男に抱かれたこともあった。しかし相手が男にせよ女にせよ、彼は溺れなかった。ほかに執着する対象が多すぎたのだ。そして彼の人生の目的も、いつも余りにも明確だった。
 彼をニル・アドミラリと呼んだ男はもう死んだ。
 彼はアレックスを初めて抱いた男だった。彼は山のような巨躯を持った、ブロンドのアメリカ人だった。いつも強い香水の香りをさせていた。それは男の体臭と入り交じり、男への目的と相俟って、アレックスを烈しく欲情させた。
(「お前の黒髪は、ギリシャ系というよりはむしろイタリア系だな。……」)
 そう云って笑いながら、寝床の上で彼の髪を梳いた。
(「お前のその目も悪くない、ハースト。何を優先すればいいのか心得ている目だ。俺には引いてみせるが、本当は慕ってなどいない。それがよく分かるよ。ニル・アドミラリとはお前のような者のことを云うんだ」)
 その通りだった。
 その頃ようやく二十代半ばにさしかかったばかりのアレックスは、まだ若かったが、自分が何を優先するべきなのかを心得ていた。迷ったことはなかった。
 男はそのあとたびたび、戯れるように彼をニル・アドミラリと呼んだ。彼の冷たい黒髪と瞳を愛した。アレックスに溺れ込み、血のつながらない彼を、後継者に据えると約束した。それは無論、彼にとって好都合だったが、しかし彼の最終的に求めていたのはそれではなかった。
 アレックスは男と同衾するようになって三年目、頃合いをよしと見て、男を自らの手で射殺した。
 男は、そうとは知らされないまま死んだが、アレックスの家族を殺した仇敵だったのだ。男を撃った後、血の海の中に倒れた男の耳元に、アレックスは自分の素性をささやいたが、それが男の胸に届くことはなかった。アレックスの唇が触れた耳朶はすでに冷え、命の灯は消えていた。
 それから数年たった。
 ニル・アドミラリと彼を呼んだ男は死んだが、それからもアレックスは、誰にも溺れず、何者への思いにとりつかれることもなかった。流れの中で踏みとどまり、時には目的地へ向けて精力的に流れを逆行した。孤独は彼の心を半ば凍った水のように洗い、衝撃に耐え、倦怠や無目的に蝕まれない皮膚を作った。やがて彼は、揺れることなく、目的へと邁進できることの快感に馴れた。さしあたって不足感はなかった。今の暮らしと引き替えるだけの価値のあるものが目前にはなかった。
 しかし、同時にアレックスは、自分が人生において何か決定的なものを失っているのではないかという、かすかな不安感を抱いていた。それだけ価値あるものを得られずにいる証明でもあったからだ。しかし「彼」に会うまでは、長年親しんだ孤独を手放して生活を変え、或るひとりの人に執着する自分を具体的には想像出来なかった。
 しかしアレックスは出会った。今年の秋だ。その人に出会った途端に、彼は自分が盲目的な愛を求めていなかったわけではなく、愛を得ていなかっただけだと思い知らされたのだった。相手は十六歳の少年だった。学者の桐島鷹彦の息子だった。

 桐島は不思議な男だった。
 文学や絵画、比較文化論を題材にした彼の研究や論文は、それ自体が芸術と云っていいほどのものだった。だが、桐島という男個人の私生活は褒められたものではなかった。
 桐島は金にルーズだった。極端な浪費家ではなかったが、ブランド トートバッグ コピー倹約家でもなかった。高い煙草を好み、衣服も高価なものを選んだ。亡くなった妻に強い愛慕を抱いているために、女との付き合いに旺盛でないのがせめても救いだった。
 初めて彼が桐島と会ったのは、前社長の私財ごと会社を継いだ折りに行った財産鑑定がきっかけだった。そのころ既に四十代後半だったはずの桐島は、三十代に見えるほど若々しく、傲慢で端正な男だった。すらっとした姿のいい男で、西洋人のアレックスよりも色素の淡い、透き通った茶色の目が印象的だった。
 それ以来、数年間にわたる付き合いの中で、アレックスに金を借りる時ですら、桐島は決して恐縮するようなことはなかった。桐島はどこかアレックスの仕事を軽蔑しており、彼のような男が、自分の研究のために金銭によって奉仕するのは当然だと思っている節があった。
 しかも、実質上返せないと知って金を借りながら、アレックスが出資者に名を連ねることを激しく嫌った。マフィアに金を払ってもらう気はない、とはっきりと云った。不思議なことに、その金のせいでアレックスが自分に背くことなど、桐島は考えてもいないようだった。
 一方アレックスはどうやら、桐島のひとをひとと思わぬ傲慢さを気に入っていたように思う。
 桐島が要求する通り、金が続くならこの男の研究に支払いつづけてもいいと思った。
 その頃のアレックスにとって、桐島とその研究は、それだけエキセントリックな魅力を持ち合わせていたのだ。
 桐島は外観と同様の、あるいはそれ以上の魅力を持つ、なめらかな素晴らしい声を持っており、彼が講義する芸術論は、聴衆を夢のような創造の世界へ引き込んだ。
 桐島を東京の自宅へ迎えて、自分のコレクションを披露した晩、アレックスは、現在のオーナーであってもおよそ知り得ない、それらの絵画にまつわる逸話を聞かされた。それらの逸話は、時代背景を踏まえた、桐島の端正な芸術分析にささえられていた。人間的にいびつな部分があるのにも拘らず、桐島は世界を立体的に透視する能力を持っていた。絵を一枚手にとっても、これほどまでに深く精神の海の底へ潜ってゆけるのだということを、今までアレックスは想像することも出来なかった。桐島の魅力にとりつかれた。彼と過ごした記憶は、アレックスには何にも代え難いものだった。
 桐島鷹彦は、同席した人間を芸術の時間航行に連れ出す、錬金術師のような力を持った男だったのだ。
(「わたしには息子が二人いてね」)
 そう云った時の桐島は、薄紫色の煙をくゆらせながら、アレックスのオフィスのソファで足を組んでいた。
(「死んだ妻に似て二人とも美しいよ」)
 そうつぶやくのを受けて、息子さんたちのお名前は、と尋ねると、桐島は肘掛けにゆったりと腕を預けたまま、かすかな含み笑いをした。
(「君がわたしの息子の名前を尋いて、どうしようというんだね?」)
 アレックスは苦笑した。それもそうだと思った。桐島の言葉には腹が立たないのが不思議だった。
 だが、桐島が美しいと言い切る息子たちは、どんな少年なのだろうと興味を持たずにはいられなかった。外観が美しいだけでは、桐島は美しいとは評価しないだろう。おそらく、それ以上の何かを兼ね備えた少年であるに違いなかった。自分の息子だからといって、桐島の目が曇ることがあろうとは想像できなかった。
 そもそも、自分以外をおよそ愛すことのなさそうな桐島が愛した女と、そしてこの男の間に産まれた子供たちなのだ。
 この秋、桐島が死んだ時、アレックスは、喪失感をなかなか癒すことが出来なかった。
 桐島が死んだら、自分の心を、精神主義の方向に無理矢理に転換させようなどとする者はいなくなるだろう。桐島の持つ膨大な知識、美への崇敬、それらを解しない人間への露骨な軽侮のこころ、第三の目が開いているように芸術と社会背景との関係を読み取る力。その全てを、現在の生活と自分の精神のバランスを取る方法として、アレックスは求めていた。
 仕事をして、平常通りに暮らしながら、どこかにぼんやりと虚無感が巣食っているような気持で、アレックスは桐島の死から何日間かを過ごした。
 そのさなかにふと、彼は桐島の子供たちのことを思い出したのだった。
 二人の息子は生きているはずだ。一人は難病で京都の医療センターに長く入院しているということだった。十六歳の長男も、京都のアパートメントに一人暮らしをしているはずだ。
 桐島に貸していた金のこともある。訪ねて行く理由はあるはずだ。
 桐島の息子はどんな少年だろう。桐島に似ているかもしれないと思うと、好奇心が動いた。
 彼は時間を捻出し、京都へ向かった。

 桐島鷹彦の長男の翡翠は、父親にまるで似ていなかった。容貌は似ていると云えないこともなかったが、本人の持つムードも、話した印象もまるで違った。翡翠の名前を聞いた時、彼の左目がひすいの色をしていることからつけた名前かと思ったが、弟の名前を聞いて、そうではないと分かった。翡翠の弟は継海と云った。そして翡翠の字はかわせみとも読む。
 自らの名に鷹の字を持った桐島は、息子たちにそれぞれ、カワセミとツグミという、可憐で脆い小鳥の名をつけたのだ。
 どうせならもっと、生命力のある鳥の名をつけてやればよかったのに。
 翡翠を眺めるアレックスは、そう思わずにはいられなかった。
 テーブルの上で握りしめられた少年のかたくなな指、怯えたようにすくんだ肩、どれを取っても父親の悠然とした印象にはほど遠い。羽根を硬く緊張させて外敵の攻撃に備える脆い小鳥そのものだ。
 しかし翡翠は美しかった。初めて彼を見た瞬間、全身が痺れるような感動に包まれ、アレックスは数秒間、口をきくこともできなかった。創造の神が、彼を描く筆に力を入れたのは間違いがなかった。卵形の小さな顔と、小柄だが長い手足を持った少年で、胸にそっくり抱き込んでしまえそうに華奢だった。陽光の下でも屋内でもなめらかに輝く亜麻色の髪と、絹のような皮膚、そして奇跡のような左の瞳……。宝石をはめこんだような緑色の瞳がアレックスをひっそりと見つめていた。
 だが、翡翠は自分自身が持つ誘引力になどまるで自覚も、関心も持っていないようだった。父親は、己の才能や魅力を熟知し、それに反応する人間を利用することにてらいがなかったが、翡翠は違った。父より遙かに美しかったが、生命力はその半分もなかった。
 自分が他人に害を与える存在だと信じ込み、どうすればひとの邪魔にならないように生きて行けるのか、それだけを気に懸けて、身体を縮めて生きている少年だった。
 初めて顔を合わせた時、翡翠は数日間、ろくに食事も摂っていなかった。父の死という災厄に見舞われて、恐怖に打ちのめされ、青ざめて痩せ細っていた。
 在日経験こそ長く、感覚はほぼ日本人に近いものの、血そのものは純血の西洋人であるアレックスには、日本人の少年の成長の度合いをはかってみることは難しかったが、身長も十六歳の少年にしては小柄なほうだと思った。
 彼は、優しさに飢えて疲れ切った少年を食事に誘い出した。そして何とか彼に話をさせよう、打ち解けさせようとした。
 桐島が少年を嫌って、ろくに寄りつかなかったということを、アレックスは翡翠の躊躇いがちな言葉の中から初めて知った。息子の話をする桐島の、陶然と甘い表情を記憶しているだけに、それはアレックスには衝撃的だった。
 寒い夕刻、外套を着せ掛けて肩を抱きしめてやると、翡翠はおずおずと身を寄せてくる。少年がひとのぬくもりにかつえているのがつたわってきた。たまらなく愛しくなった。彼と言葉を交せば、知能が高いことは察せられたが、幼い頃から萎縮して育っているせいで、恐慌状態に陥ると、こころが空白になったようにうつろな表情になるのが気にかかった。精神的な傷からの回復も、どうやら年齢にしては遅いようだった。
 この少年には保護者が必要だ。アレックスはそう思った。
(保護者という柄か、おれが?)
 それを思いついた時、彼は自嘲した。彼は、自分が翡翠を欲しいのだと自覚していた。そして長くそれを耐えることはないだろうと思った。
 本心を取り繕うまい、彼を欲しいのだと打ち明けて、選ばせよう。そう決めるのにさして時間はかからなかった。
 しかし選ばせる、とそう思いながらも、アレックスには翡翠が自分を拒まないだろうという確信があった。彼は孤独にむしばまれた少年だった。子供の頃のアレックスと違うところは、翡翠が復讐すべき相手を、他人ではなく彼自身に設定しているところだ。翡翠は誰であれ、自分を無条件に包み込もうとする人間を受け入れざるを得ないだろう。
(わたしと一緒に東京に来ないか?)
 何度目かに食事を共にした夜、彼は慎重に切り出した。
 翡翠は、愛人として男の胸に抱かれるために、東京で住むということを、にわかには飲み込めないようだった。アレックスは生活の窮乏や、自棄に侵されることのなかった翡翠の無垢を好ましく思った。翡翠は淡く微笑し、アレックスの好意に感謝の言葉さえ漏らしたのだ。
 彼は胸苦しい期待を抱えて東京に帰った。空港に彼を迎えに来た秘書の滝川は、火のような喜びを孕んだアレックスに気づいて、不思議そうな顔をした。
(桐島先生の息子さんはどんな人でした?)
 滝川は何かに気づいたように、アレックスの顔を見つめた。アレックスの社長就任と共に、彼は自ら進んで会社を辞め、アレックスの秘書になった。この暗い情熱を内包した青年は、しかし同時に怜悧な観察眼を持った男でもあった。誰よりもアレックスの変化に敏感だった。
(彼を、冬には東京に来させるつもりだ。踏みとどまってはいるが、頼る相手がいなくて寂しがってる)
(……)
 滝川は黙って耳を傾けた。アレックスも滝川も、アメリカマフィアに両親を殺された。そして彼らの復讐の対象は同じ男だった。滝川は、孤独についてアレックスときわめて似通った見解の持ち主だった。
(桐島先生とは、それほど似ていない。少なくとも内面的には────。保護者を求めるごく普通の子供だ。そうだな、あの人の息子だと考えると不思議に思えるが……)
(それは私にとってはいいニュースですね)
 ハンドルを握る滝川はかすかに肩をすくめたようだった。滝川が桐島をよく思っていないことをアレックスは知っている。滝川の立場では無理もなかった。滝川はアレックスのように芸術やそれに携わる人への執着はない。
(お前がどう思うかは分からないと思っていたが)
 アレックスのその言葉に、滝川は首を振った。
(彼が貴方の害にならないのならそれで結構です。気を紛らわせるものがあれば、社長の仕事中毒も少しは治るかもしれませんしね)
(仕事が出来なくなるほどのめりこむつもりはないよ)
 アレックスはそう云って笑い、この数日で、突如として襲来した厳しい寒さに強張った、初秋の東京の様子を眺めた。
 通りを大きく南へ曲がると、航空局の中庭に植えられた、見事な大銀杏の一群が見えてきた。灰色の双子ビルの境目から、鮮やかな西日が射し込んでいた。西日の矢に貫かれる位置に植えられた、一本の大銀杏だけが見事な金色に染まっているのに気づいて、アレックスは目を奪われた。他の全ての銀杏がまだ緑色の葉をつけた中で、その一本だけが、金の葉をさんざめかせてふるえていた。
 翡翠もあの銀杏と同じだ。溶けて混じり合う他の者の個性の中で、一人だけ飛び抜けた金色に輝いている。そして良くも悪くも他人の目を惹きつけずにはおれないのだ。
 それはおそらく、他者の目には見えない金の矢の痛みが翡翠を刺す、気の遠くなるような繰り返しの結果だった。
 彼は数日後、再び京都に出向いた。彼を東京へ連れ帰りたいこと、そしてそれにはどういった意味があるのかを翡翠に率直に告げた。
 アレックスの意図を知った翡翠は青ざめた。薄赤い唇から血の気を無くし、ひっそりと黙り込んだ。葛藤が少年の小さな身体を苦しめているようだった。アレックスは辛抱強く待った。彼は、自分の意図を彼に理解させるために、少年の唇にくちづけしたが、その甘さ、陶器のようななめらかさは、征服欲に基づいた彼の決意を揺るがないものにするのに充分だった。
 そして少年はアレックスの思惑通り、首を縦に振ったのだった。
 翡翠のこわばった頬は、それが彼の望みではなく、どうしようもなく追いつめられた結果なのだと物語っていた。
(……東京に連れて行ってください……)
 消えそうな声でつぶやいた。
 それがどういう意味なのか、充分に知った上での言葉だった。
 残酷なことをする、とアレックスは自分に対して思った。家族をなくした彼の不安につけこんで、生活の全てを売り渡せと迫ったのだから。そして唯一残った肉親である、弟の側からも引き離そうとしている。
 もっとも、翡翠が継海から離れるのは、彼自身の選択でもあった。
(継海君を東京の医療センターに移すことになるが……)
 翡翠が東京に来ることが決まった時、継海の治療を続けることについて話し合った時のことだ。アレックスの言葉に、翡翠は意外にも首を振った。
(もし出来れば、継海を京都においてもらえませんか。僕が側にいない方が継海にとってもいいと思うんです)
 それが、翡翠の信じる「自分は他人を不幸にする」という思い込みから来た発想なのはすぐに分かった。
 誰であれ、一部の特殊な場合を除いては、肉親から離れたほうがいいなどということがあるはずがない。
 アレックスはそう思ったが、しかし、翡翠を説得しようとは思わなかった。彼にとっても、翡翠の肉親が側にいないほうが都合がよかったからだ。自分の保護下に入るからには、他のものは全て捨てるつもりでいる方が、本人も却って楽に過ごせるだろう。
 翡翠を息子として慈しむような気持は、アレックスにはなかった。
 彼の抱く思いは、翡翠からすれば生臭く思えるだろう。それは欲望を伴った恋情であり、牡の独占欲だった。保護欲はそこに付随してくるものに過ぎない。それを翡翠は知っておいた方が良いだ。
(君の好きにするといい……)
 彼は微笑して答えた。それが翡翠の望みであるようにふるまうのは、造作も無かった。
 アレックスは身体をふるわせた。翡翠を手に入れたのが信じられないほどだった。翡翠の望みが自分の腕の中から抜け出さない範囲のものなら、何でも叶えてやるつもりでいた。
 昨晩は、翡翠にとっては東京での最初の晩だった。だが、アレックスは翡翠をこの部屋には連れて来なかった。翡翠が、雪の中に倒れていた子供を拾ったからだ。丁度翡翠の弟と同じ年頃の、やせ細った小さな男の子だった。
(お願いです、ミスター。……この子を連れて帰ってもいいでしょう?)
 翡翠は必死な目になっていた。みどり色の左目が淡い螢火のように耀いていた。
 こんな目をされて、誰が彼の望みを拒めるだろう。
 その瞬間も、出来る限り翡翠の望みを叶え、好きにさせてやろうと思うアレックスの気持は変らなかった。
 自分が間接的であれ、三人の子供の保護者になることを思うと滑稽だったが、アレックスは笑ってそれを許した。医者を呼び、翡翠がこれから住むはずの部屋に、あたたかな寝床を用意させた。そして、翡翠が自分の許を訪れるはずの夜を、子供の様態が安定するまで先延ばしにすることを許した。
 翡翠の瞳を、呪いを怖れて覗き込めないなどと思う者は愚かだ。必死になった彼の目の煌き、微笑を浮かべれば若葉のように和む、やわらかな美しさ、それらを自分の目で確かめ、賞賛する機会を逸しているのだ。
 憑かれるように人を想って苦しむ機会を、アレックスは彼によって初めて得たのだ。


 浴室の水音が止まり、暫くして、バスローブを身に纏った翡翠が硬い表情で、寝室の入り口に立った。
 アレックスは、座ったままで翡翠を手招くことはせず、自分が立って翡翠の許へ歩み寄った。
「髪がまだ濡れている。冷えてしまうかもしれないな」
 彼が窓の外に目をやると、翡翠は首を振った。消え入りそうな声で答えた。
「僕は……風邪もひかないくらいです、普段から……」
 冷えたとしても、特に苦にはならないのだと翡翠は云う。この少年は、弟ではなく、自分が難病を抱えてセンターのベッドに縫いとめられていたほうが、いくぶん気持が楽だっただろうと、アレックスは思った。
 湿った髪はいつもより色が濃く見える。栗色の濡れた髪にふち取られた翡翠の顔は、普段見せない額をあらわにしているためか、青白い皮膚の下に、いつにない艶をひそませていた。
「翡翠」
 彼は少年の頬に指をかけて濡れた髪を梳き上げた。
「わたしと寝るのは嫌か?」
 翡翠は怯えたような目をした。嫌だと云ってもしかたがないと彼は知っている。
「もし心が決まっていないなら、早く決めることだ」
 アレックスは翡翠の頬に唇を寄せた。総毛立つほどなめらかな、吸い付くような皮膚が彼の唇に触れた。翡翠が体を固くするのが分かった。
「こころを決めているのと、そうでないのとでは、何を耐えるにしても辛さがまるで違う。苦痛に気を取られていると、何のために耐えているのかを見失ってしまう」
 翡翠は目を上げた。その目の中にあるものが何なのか、アレックスには分からない。
 しかし彼はその目をゆっくりと伏せて、抵抗があるようにゆっくりと指をあげた。アレックスの腕の中ほどにその指をそっとかけて、人形のようにぎごちない動きで身をもたせかけてきた。
「ミスター……」
 彼はつぶやいた。声が震えていた。
「死なないでください……」
 アレックスは、愛しいようでいて、嗜虐的な衝動を伴った複雑な心境で翡翠を抱きしめた。腕に抱き込んだ体は細く、腕にその背骨の隆起がかすかに伝わってくるほど痛ましく痩せていた。
 顎をもち上げて唇を寄せると、翡翠は固く目を閉じた。その瞼の緊張をほどいてやろうと、親指の腹で瞼の上を愛撫してやる。瞼からこめかみにかけて何回か優しくなぞると、翡翠の緊張がかすかにほぐれたように思えた。
 その指で唇に触れる。おそらく、翡翠にはそれが唇なのか指なのかの区別はつかないのだろう。びくりと体をふるわせるのを、背中を撫でてなだめ、今度は唇を重ねた。唇も頬も緊張しているようだが、驚くほど熱い。
「熱が?」
 彼を自分からわずかに引き離してささやくと、翡翠は意味が分からないように薄く瞳を開いて瞬いた。
「熱……?」
「君の手も頬も随分熱いが。……」
 すると、翡翠はまた目を閉じて、かすかに身を震わせた。
「体温が高いんです……」
 アレックスは思いがけない熱を腕に抱いて新鮮に思った。翡翠の気性からの連想か、彼の身体は冷たいような気がしていたのだ。バスローブの厚くやわらかな布を通しても、彼の体温が高いのが伝わってきた。
 白く発光するように熱を放つ、痩せた少年の体は、アレックスの生来冷たい皮膚を中和して温めるように思えた。
 はっとするほど熱いその唇を、再び自分の唇で覆った。唇を開くようにうながして、深く合わせる。唇にも増して翡翠の内側は熱かった。アレックスは、火傷するように熱い、華奢で薄い肉を探りあてた。ゆるく絡めて吸う。水のような感触の唾液がアレックスのそれに甘く馴染んだ。
 翡翠の腕が彼の腕にかかり、頼りなく握り締めた。どうやらこの少年は、異性とも触れ合ったことがないようだ。京都で自分の身辺で起きた変事について語った翡翠の様子からみて、恋をする余裕はなかったのではないか。
 不慣れな堅さを愛しく思いながら、震える唇の奥に激しく押し入ろうとはせずに、ゆっくりと顎を噛み合わせ、くすぐるようにそっと舌で触れることを繰り返すと、翡翠の膝から不意に力が抜けたのが分った。
 少年の身体が、内側にもうひとつ熱源を加えたように、ふわっと熱気をはらむのが分った。細い震えが、アレックスにすがった手首や、指先や背中を通り抜けてゆくのが、彼を支えたアレックスの腕に伝わってくる。
 翡翠がかすかに息を乱して自分の腕にすがりつく感触を暫く楽しんだあと、アレックスは彼の息を解放した。背中を腕で支え、横抱きに翡翠を抱き上げる。
「……」
 翡翠は驚いたように目を見開いたが、アレックスと間近に視線が出会うことを拒むように、そっと睫毛を伏せた。彼の美しい緑色の左目が隠れてしまったが、しかしアレックスは、室内の暗い明りに翡翠の黄水晶のように光る、色素の薄い睫毛が、頬に蔭を落すさまに目を奪われる。
 抱き上げた体を寝台の上に抱き下ろす。ベッドの上で背中が小さくはずみ、翡翠はいたたまれないように片手で顔を覆った。
 体の横に投げ出された片手は、軽く握られているようにも見えたが、指先がかすかに震えて、緊張しているのが分かった。
 自分のそれよりも大分小さく華奢な作りのその手のひらを開かせて握りしめた。それは愛撫のようでもあったが、翡翠の体を寝台につなぎ止めるやわらかな楔のようなものでもあった。
 てのひらにおさまる小さな顎をすくいあげて、もう一度唇を合わせる。
 せわしなく呼吸を継ぐ唇をふさぎ、唇と舌、歯列に走り抜ける戸惑いの動きを押し開けるようにして舌を滑り込ませた。くちづけしながら様子をうかがい見ると、あたたかな頬に血の気が差し、唇の内外を愛撫されることに翡翠が高まっているのが分かった。
 唇を合わせたまま、バスローブの紐を解く。破裂しそうに高鳴る胸と、呼吸に合わせてかすかに上下する平らな下腹にてのひらを滑らせた。皮膚に、じかに指が触れると、翡翠はびくりと身体をこわばらせる。胸も腹も薄く汗ばんで、火のように熱かった。自分のてのひらを、翡翠はさぞ冷たく感じるだろう、とアレックスは思った。
 もの馴れない激しい鼓動をてのひらで包み込む。ごくわずかな筋肉の隆起の他には骨がうかぶほど薄い胸だが、そこには健康な若い心臓が隠れていた。
 呼吸に合わせて上下する小さな突起を指先で抓んで小さく動かすと、合わせた唇の中で舌がすくみ、腹から太腿の方まで緊張が走った。
 アレックスと合わさったてのひらに力が籠り、翡翠は胸の皮膚を軽く粟立たせた。挟んで愛撫を加える指と指の間で、そこは痛々しく小さく突き出した。ほんの僅かな作為を加えるだけで、通電するためのスイッチをいじられるように、背中や腰がわずかに跳ね、肌を汗ばませた。
 思った以上にやわらかく鋭敏な反応に満足しながら、彼は、もう熱くなりかけた翡翠を軽く握った。唇の中に感じる温度と同じ熱が、アレックスのてのひらの中にある。ゆるく扱いてやると、冷たいてのひらの中で、そこは一際強く反応して硬さを増した。
「……んっ……」
 舌を巻き取られて声をふさがれた翡翠は、喉の奥で小さな呻きをあげる。
 キスで昂揚した背筋を軽くもがかせていた彼は、アレックスの手が自分に絡んできた途端、急に身動きしなくなった。身体を硬く緊張させていれば、快感を跳ね返すことが出来ると思いこんででもいるようだった。
 柔かな髪がまつわりつく耳元や、温かい首筋に唇を押しあてて愛撫を降らせながら、少年の快感を煽るためにてのひらの中の熱を擦り上げる。
 翡翠は花を咲かせるように、身体のそこここに汗をにじませた。苦しそうにした。太腿の内側に力がこもって、彼の骨と意思がばらばらになってしまったように、ぎごちなくみじろいだ。
「ん、……ん……」
 かすかに湿った先の部分をアレックスの指が剥き出して、親指の腹が丸みをなぞると、顔を横に背け、翡翠は声をかみ殺した。
 アレックスは、ベッドに横たわった少年の身体の傍らに深く腰掛け、押さえつけるように添えていた片手を離した。裸で横たわっても十分なほど暖めた部屋の中で、無防備にバスローブをはだけてあおのいた少年は、自分が拘束されることもなく、アレックスのてのひらに任せていることに不意に気づいたようだった。彼は顔を赤らめて目を硬く閉じ、自分に襲いかかってくる視界から逆に逃れようとした。
 やがて少年から男になり、女を愛する立場になるはずの翡翠を、こんな風に自分の思うように扱うというのは、どこかやるせなく背徳的な快感があった。教会を汚すような感覚だった。尤も、子供の頃クリスチャンの両親に育てられたアレックスは、今は既に信仰を持つ者ではなかったが、教会そのものを踏み躙るような事をした経験はなかった。しかし、足を踏み入れなくなった教会の外では、信仰に悖る行為の記憶には事欠かない。
 そしてこれもそのひとつという訳だった。
 翡翠の指が、ベッドカバーの上で所在なげに曲がるのを見つめながら、彼はゆっくりと指を動かした。震えながらアレックスのてのひらで育つそれは、もう濡れていると云ってもいいほどになって小さく疼いている。
「っ……」
 苦しそうに翡翠が息を飲む。のどが渇いているように大きく鳴った。
 アレックスは、必死に耐える翡翠の快感をゆっくりともてあそびながら、彼の上に覆い被さった。
「そんなに息をつまらせないで、好きなようにしてごらん。……身体もそんなに硬くしないで」
 唇を押しあてて、まだ湿り気を残した前髪を額からかきあげる。
 翡翠はなお硬く目を閉じて、唇を閉ざしてしまった。アレックスは自分の指の輪の中に翡翠を閉じこめてぐっとしめつけた。閉じた睫がびくりと震えて、翡翠が涙に濡れた強情な睫を上げるのを見て、彼はかすかに溜飲を下げる。
「声を聞かせてくれないの?……」
 彼はささやいて、不意に翡翠に触れていた指を離した。それでも緊張から解放されずに胸を大きくあえがせる翡翠の、片足を曲げて持ち上げた。形のいい爪を備えた、ほっそりしたつまさきに、口づけする。
「……っ!」
 足指の間に舌を滑り込ませると、翡翠の背中は跳ねた。
「……私も楽しませてくれるね?」
 低く囁くと、濡れて上り詰めようとした部分から手を離されたままの翡翠は、背中をひきつらせた。どうしていいのか分からないようだっった。睫の間から涙がにじみ出してくる。まだやわらかな土踏まずに唇を押しあて、舌でなぞる。指を一本ずつ口に含み、快楽の中枢に奉仕するのと同じように歯で指先を軽く扱くと、翡翠は初めて声をあげた。
「あぁ……っ」
 舌が指の間を動くと、膝を腹にひきつけるようにして逃れようとした。
「嫌だ……、ァッ……」
 語尾が甘く掠れ、翡翠の下腹で放置された快楽の先端が、赤味と光沢を増した。そこに指を触れて、力を込めずにゆるくなぞる。同時に、つま先に触れた唇で、薬指を含み、舌でくるみ込んだ。
「やめ、てください……」
 かすかに涙声になった少年の哀願をアレックスは聞き流した。折り曲げた膝の裏側を支えるアレックスの手が、翡翠の汗で湿った。反り返って逃げようとする指を含んだまま丹念になぞる。
「あ、あ……あ……」
 自分の快楽を指先で撫でるアレックスの右手を、背中を大きく揺らせた翡翠は、遂に両手で掴んで引き離そうとした。しかし、口に含まれた指を軽く吸われた途端、その両手の力は、やるせなくしがみつくものに変った。
「……嫌……だ……」
 とぎれとぎれに喘いで、ぐっと肩を捩らせ、翡翠は、アレックスの指と自分の下腹に、熱いものを滴らせた。
「……あ、ぁっ……」
 茫然としたように喘ぎ、後はきつく唇をかみしめて快楽が抜け出してゆく衝撃に耐える。力を入れた下腹が痛ましく深くそげて、腹筋の姿を浮かべたまま凍り付いた。
 アレックスは翡翠の片足を解きはなって脚を伸ばすのにまかせ、すっかり翡翠の熱が出てゆくまで、てのひらでゆるやかな愛撫を加えた。
 息を止めた少年は、肺の中にとどまっていた空気をふるえながら吐き出した。閉じたまぶたから、涙があふれ出した。脚の指にくちづけた刺激で彼が上り詰めるとは思わなかったアレックスは、思わず微笑した。彼の中に眠る快楽の根と、そこから伸びて咲く花を想った。
 あるいは、翡翠は、アレックスが自分を苛むために快楽を与えていると思うかもしれなかったが、それは間違いだった。無論、翡翠を自分につなぎ止めるために、アレックスが金を遣うだけでは足りないというのも理由のひとつだった。しかし、男の寝床の中で自分の身体を提供する少年が、その代償として受け取るものは、痛みより快感であるに越したことはない。
 そうすれば望まない時間もずっと耐えやすくなるだろう。かつてアレックスがそうであったように。屈辱を堪え忍ぶためには、ベッドで快楽より痛みをこそ受け取るべきだ、などという考え方はおよそ莫迦げている。
 アレックスは、柔かなタオルで翡翠の身体と、自分の手のひらを汚したものをぬぐい取った。そして、熱く汗ばんだ少年の身体が冷える前にベッドカバーをはがし、シーツで少年をくるみ込んだ。今まで身につけていたシャツを脱いでそこへ滑り込み、自分の素肌の胸に少年を抱きしめた。
 まだ汗ばんですらいないアレックスのひやりとした胸に触れて、翡翠は少し震える。しかしそれは、先刻までのようなかたくななものではなかった。栗色の髪が、光源を落としたライトを受けて甘く輝いている。父の死に打ちのめされて痩せた白い頬に口づけする。今度は唇に触れるだけの口づけを落とす。アレックスのてのひらが腿の内側に再びすべりこんできた時も、かすかに頬を染めたが、拒んでいる様子はなかった。
 しかし、翡翠はそれきり目を開けようとはしなかった。間近に翡翠を抱いたアレックスは、自分を映すその瞳の鏡を覗き込みたいと思った。翡翠の身体がほどけ、ほっそりとした両脚の間にアレックスの身体が割り込むことを許しても、濡れた睫毛をふるわせて彼にしがみついた瞬間も、もう少年は目を開けなかった。
 彼のその様子はアレックスを苛立たせ、しかしある種の不可解な賞賛の感情をも呼び起こした。少年の中にひっそりと眠る硬い石の光は、快楽の開花によって、少年の知力や品性を損なわれることを防ぐだろう。翡翠を温めることは決してないが、こころがどこへ向かえばいいのかを記した地図を照らすだろう。
 アレックスは瞬間、自分へと銃口を向ける翡翠の姿を夢視た。みどり色の左目を燃やしてアレックスを見る翡翠のまぼろしは美しく、埒のない自虐的な快感に彼を引き込んだ。
 何故そんなことを考えたのだろう?
 アレックスは、空想の中の少年の緑色の瞳を振り払った。そして、硬く閉ざされた少年のまぶたにくちづけ、自分の堅い肩と腰とで少年を覆った。芯から温まることの少ない彼の身体に翡翠の炎のような皮膚は柔らかく触れ、溶けるような髪と共に、アレックスの奥底へ深々としみ通ってきた。

 膝を開いた自分の格好を少年が恥じていることに気づいて、アレックスは胸を深く彼の上に伏せ、少年自身の目からその淫らな姿勢を覆い隠した。こうすれば、目を開けても翡翠の目には天井とアレックスの髪や肩以外が映ることはないだろう。
 なめらかな熱い頬におしあてたアレックスの頬に、ふと冷たいものが触れた。涙の筋が頬を滑り落ちて、翡翠とアレックスの皮膚の境目にたどり着いたのだった。
 少年のほっそりした身体は、自分自身のあたたかな汗ごと、アレックスの腕にくるみこまれて揺すられている。アレックスと深くつながった部分は熱を孕み、抵抗と快感の引き起こす収縮を繰り返していた。
「あ────」
 充分にクリームで溶かされ、指の愛撫で準備されたため、翡翠は痛みを感じていなかった。表情が苦痛にこわばることはなく、二人のまじわった部分も、なめらかな動きをアレックスに許している。それよりも、自分を不意に襲った、違和感のある刺激が翡翠を驚かせたようだった。
 柔らかく濡れた動きが暫く繰り返された後、翡翠は驚いたように大きく息を吐き、見る見るうちに唇を紅潮させた。鳩尾や額に細かい汗が浮かび、翡翠の内側に、アレックスを押しとどめようとする波が生まれた。
 翡翠は頬や腕を粟立たせて、たまらないように肩や背中をすくめた。彼の中で起こる緊張と弛緩の波を逆行するようにアレックスが力を込めると、喉元が不安定に揺れて、一、二度、翡翠は首を振った。何かをうち消そうとしているような動きだった。
「あ、────あ、あ、あ……」
 喉が反り、その動きに押し出されるように、せっぱ詰まった喘ぎが漏れる。それを飲み込もうとして翡翠は唇をかんだ、アレックスは痛いほど締め付けられて、浅い息を吐いた。
「そんなにすると君が苦しくなる」
 アレックスのささやきに、少年は僅かに力を抜いた。食い締めた歯の間から汗でわずかに冷えた肩や胸を、ゆっくりとてのひらでさすり、頬にくちづけした。片方の肘で自分の上体を支えて、アレックスは翡翠の湿った下腹へそっと手を伸ばした。少年の戸惑いに反して、引き出された熱に応え始めた性器に、やわらかな摩擦を加える。
「……っ」
 瞬間翡翠が漏らした吐息は鼻にかかって濡れ、声よりも雄弁に熱の上昇を物語った。
「苦しい?」
 それが苦痛とは又違う物であると知りながら、アレックスは少年の耳元に訊ねる。
 翡翠は首を振った。
「……分かりません……」
 一瞬の間の後、やっとのことでふるえる声で応えた彼は、深い動きに、崩れ落ちるようにシーツの上で背中を波打たせた。何度か深く突かれると、翡翠はアレックスのうなじに腕を巻き付けて必死な力で抱きしめた。そうやって耐える以外に方法がないことに気づいたようだった。
 翡翠にそうしてすがらせたことで、今交わっているのと違う部分にも同時に押し入ったような快感がアレックスに沸き起こった。ようやく汗を帯び始めた背中の両側に、ほっそりと痩せた脚が強く押しつけられた。それによって交合はなおさらに深くなり、二人は苦痛と快感、焦りのいりまじった感覚を交感する。
 翡翠の背中に触れたくなったアレックスは、身体を起こして、緊張にこわばった翡翠の身体を、自分の胸に向かい合わせて引き起こした。
「……!」
 翡翠は切れ切れの息を吐いて、アレックスの肩に弱く爪を立てる。その指をほどき、両腕ごと背中を堅く抱きしめた。そうして下からゆっくりと揺り上げる力を加えると、すすり泣くような声をたてて、翡翠はアレックスの首筋に顔を埋めた。少年の背中が、快楽にうなだれ、はねあがっては所在なげにうねるのを、アレックスは彼を包んだ胸と腕をいっぱいに使って味わった。
 幾ら引き延ばしても足りない快感を、時折意識的に拡散して収斂することを繰り返していると、胸に抱きしめた華奢な熱に灼かれそうだった。

「今晩、君がここに泊まっていきたければそうしてもいいし、帰りたければ勿論帰っていい。帰るときは、滝川か、武藤という者に声をかけて送らせるといい」
 浅い眠りから醒めて、浴室へ向かう翡翠に向かってアレックスは声をかけた。
「但し、一人で歩いて帰ろうなどとは思わないことだ。東京の夜の寒さは京都とは違うよ、翡翠」
「────はい」
 翡翠は生真面目な小さないらえを返して、浴室へ消えてゆく。翡翠が眠っている間に入浴を済ませたアレックスは、暫く目を覚ましたままで寝台に横たわっていた。充足と虚しさの入り交じった感覚が彼を包んでいる。その感覚は薄い膜のようにシーツと彼の間に入り込み、ほんの数分の一ミリ、というようなわずかな隙間を作り出しているように思えた。認識することも難しいような空白が、彼と現実の間に横たわっているようだった。
 翡翠が、昨日拾ったあの子供を気にかけて、帰りたがっているのは分かっていた。そして、自分をたった今抱いた男が、帰るもとどまるも自由だ、と云ったことで、彼が突き放された気持になっていることも。いずれにせよ翡翠がアレックスと、リラックスした関係を結ぶのは難しいことだろう。この生活が歪んでスタートした以上、そこに愛情が介在してもしなくても、翡翠には何らかのわだかまりが残る。愛さなくてもいい、と云われれば孤独になるかもしれないが、アレックスを愛せと強要されれば重荷に感じるはずだ。
 アレックスの方も、翡翠に自分を想っていると口で云われたところで、それを信じられるとは思えなかった。翡翠はまだ子供だ。愛情も孤独も嫌悪も、さまざまなものが渾然として彼の中に共存しているだろう。優しくされれば何かを見いだしたように錯覚し、そうかと思えば、わずかな冷たい言葉にも真剣に傷つく年頃なのだ。
 そして自分はどうなのだろう。アレックスは自問する。
 翡翠の気持がそれほど簡単には割り切れないことを知っている。なら、自分は彼の気持を獲得するべく努めるつもりはあるのか。双方に愛情の交換のある関係を望んでいるのだろうか。
 アレックスには、対等な愛情が自分たちの間に成立した姿を想像する事が出来なかった。それを望むには翡翠は余りに頼りない子供に見える。金で家族から引き離し、社会生活から隔離して、翡翠を買った。こんな風に始まった関係が行き着く先があるのか、脱皮する次の段階があるのか、それはアレックスにも分からない。自分が彼に対して、賛美と欲望以外にどんな感情を抱いているのかも判断出来なかった。
(────まあ、いいさ)
 アレックスは、身体をくつろがせて目を閉じた。かすかに彼の胸をかんでいた虚しさは徐々に姿をひそめていった。強く欲したものを手に入れたのは確かだった。今晩さしあたって、それ以上のこと、これ以降のことを考える必要はなかった。
 桐島鷹彦の息子が、美貌以外に何を持っているのか、自分の中にどれだけの執着を呼び起こすのか、どのような愛情で、アレックスを屈服させるのか、いずれはあきらかになるだろう。
 この数日、多忙な仕事に追われてろくに睡眠を取らなかったアレックスに、おだやかな眠りが訪れた。普通なら一時間も割くことの出来ないようなスケジュールの中に、翡翠を迎える支度や、彼との時間を割り込ませたのだ。
 元来アレックスの眠りは浅かった。あたたかな浅瀬に横たわるように眠りに身を任せた彼は、暫くして、翡翠が側に立って自分を見守る気配に目を覚ました。
 おそらく二十分ほど眠ったのだろう。
 翡翠は、静かに落ち着いた呼吸で、寝台の横に立ち、横たわったアレックスを見下ろしていた。やがて翡翠は、警戒するように静かに手を伸ばした。熱いてのひらが肩に触れた。てのひらをそっと肩にあてがったまま、翡翠は先刻まで彼を抱いていたアレックスの腕を確かめるように、そっと腕を撫でた。触れたところから、てのひらの温かさが伝わってきた。
 やがて、翡翠はほっと理由の分からないため息をついた。それは安堵のため息とも取れないことはなかった。
 彼がどうするのか、アレックスは軽く目を閉じたままうかがっている。あたたかなてのひらは夜具の上から少しの間、アレックスの腕に熱を伝えていたが、やがて翡翠の呼吸の位置がふわりと移動した。少年のやわらかな髪が肩に触れた。少年がひざまずき、羽根のようにもろく彼の腕に頭をもたせかけているのが分かった。甘美な柔らかさが髪の触れた部分を包む。
 アレックスは知らず息を殺した。翡翠は不安なのだ。誰にでもいい、もたれかかりたいと思っているのが伺い知れた。
 彼は体を起こして翡翠を腕の中に引きずり上げ、抱きしめてやりたい衝動に駆られた。しかし同時に、自分の梢に舞い降りたこの小鳥をおびやかせば、二度とその警戒心を解く方法はないのではないか、という奇妙な想いが胸をかすめた。
 もし自分が翡翠なら。アレックスは考える。
 寂しさと不安を、間違っても相手への思慕と取り違えられないよう、彼に二度とこころを開くことはないだろう。
 翡翠の、痛々しく小さな誇りの砦を侵すまいとする自分が、彼の信頼を求めていることを、アレックスはふと自覚した。
 その望みは、要求出来るものではなく、金で買えるものでもない。
 模写された愛や信頼は買えるかもしれないが、真作は決して自分のものにはならない。
 それには待つより他はなく、そして待ったところで、翡翠の信頼に足るものを自分が提供出来るとは限らなかった。翡翠の愛を得るために、アレックスが自分を変えることはこの先も無いだろう。

 あおのいて目を閉じた男の腕の中ほどに額をつけて、少年は数分間動かなかったが、やがて小さな唇から細く息を吐き出した。そして自分の気配でアレックスを起こさないように、そっと立ち上がった。
 寝室の扉を音もなく押し開け、少年が出てゆく気配を、アレックスは目を閉じたままで追った。
 あの子供のところへ帰るのだろう。もはや翡翠は、まさしく嫌なつとめを果たしてようやく家族の許へ帰る男の立場に立ったのだ。
 寝台の上で寝返りを打った。閉じていたまぶたがより重くふさがり、たった今こころを占めていた微妙な屈託からアレックスを解放する。
 おそらく眠っている間に彼は翡翠を忘れ、この次少年を求めるゆとりが出来るまで、それほど強くは思い出さないだろう。
 しかし、多忙のほんの隙間に、翡翠の面影がかすめる時、足を踏み入れることを許されない区域に棲む小鳥の姿を思うように、それはおそらく痛みを伴わずにはおれない記憶になる。てのひらのその疼きをかき消すため、彼は翡翠を抱きしめる。砂漠のただなかで旅人を捕らえて編ませた花冠のように、その美しさはさまざまな不足感や虚脱するこころを癒すだろう。
 煌めく色彩の破片のように、脈絡の無い想いがいくつか浮かんだ。
 彼は夢と思考の混在したそれらの光の中で、浅く青い闇に横たわった。慣れ親しんだ浅い眠りだった。
 ゆっくりと体温が下がり、呼吸と鼓動が間遠くなる。
 しかし、眠る身体はいつもよりかすかにあたたかい。少年の髪や皮膚の記憶が、炎の花のように残っているのだ。
 その小さな熱は、すぐに枯れる脆い花冠でなく、何度でも小さな輝かしい花を咲かせる辛抱強い多年草の種のようだった。
 叫んで咲き急ごうとはせず、さしあたっては目に見えない深い地中に、今は静かに身をひそめた。
 
                                   了。

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