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04:[時系列/原作前] オルタナティブ

02 26 *2016 | Category オリジナル::全ての者らの瞳が

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多くの人の祝う日に生まれ一人過ごす子供と、彼を思う子供。

続き










「クリスマスに、僕らを歓迎しない両親に乾杯!」
 そう云ってルイスが、黒い液体の入ったグラスを、煉のオレンジジュースのグラスに、ついでエリカのジンジャーエールを注いだグラスにも軽くぶつけた。ルイスのグラスの中身は、コカコーラとアルコール、麻薬性鎮咳薬のカクテルだ。ルイスに云わせると、コーラ以外の成分の混入は極めて軽微なもので、常習さえしなければ殆ど害はないのだとか。彼は、自分の作ったカクテルの引き出す「洗練されたハイテンション」に自信を持っていて、エリカと煉にも熱心に勧めたが、二人がルイスのカクテルに手を出したことは一度もなかった。
 三人は、エデュケイションセンターの特別クラスのクラスメイトだった。三人だけのクラスだ。三人とも別々のセンターで一般の授業を受けているが、この特別クラスで週に三回、高等クラスの授業を受けているのだった。彼等三人に一人の教授がついて、一日七科目の授業が行われる。この特別クラスは幾つかの教育機関で行うテストの結果を元に選出されるもので、二年に一クラスずつが編成される。その年によって条件を満たした者がこの特別クラスで学ぶことになるが、年度によって人数も男女比率もまちまちだということだった。
 ルイスもエリカも、煉より一つ年上の十五歳だった。ルイスは祖父の代に日本に帰化したカナダ系。エリカは母が中国系だ。煉は、おそらく西洋人と東洋人のハーフであるという以外には、自分の出自を知らなかった。だが、この特別クラスSACCに属する他の二人は、煉の出自など気にしてはいなかった。彼等はライバルであると同時に、お互いの特殊性を分かち合える数少ない同年代の相手でもあったからだ。周りと比較にならないレベルの学力からスタートした煉が、たった三年で、自分達と同じ年度のSACCに入ったことを、二人は軽く考えてはいなかった。
 三人の性格は違っていたが、全員が一様に孤独な子供であり、しかしその枠組に押し込まれることを好まないところは共通していた。
 煉はこの冬の休暇には東京に帰らなかった。翡翠がそれを望んでいないことをありありと感じ取ったからだ。この数年で翡翠は益々内側に籠るようになり、自分の周囲で人が死ぬことへの強迫観念は数年前よりもむしろ激しいものになっているようだった。
「わたしには両親はいないわ。父親だけ。帰らないのは歓迎されないからじゃなく、父がカイロにいて住所不定だからよ。それにあなたは、煉のことを考えたらあんまり不幸な顔をしない方がいいと思う」
 エリカはそう云って、やれやれ、というように首を振った。彼女が話すと息にジンジャーエールの香がする。高い位置で一本にまとめあげて結んだ長い黒髪の、カールした毛先が、彼女の襟元で揺れた。エリカがクリスマスをどう過ごしたいのか、今まで考えたことがなかったが、ルイスが今年のイヴの夜は自分のアパートに集まらないか、と誘った時、彼女はすんなり承知したし、いつも素っ気ない銀のピアスをつけている耳朶に、小さなピンクパールをつけていた。身につけているのはいつもと同じような黒いセーターとスカートだが、そのピアスはクリスマスのドレスアップなのではないかと思う。それにエリカは、金色の雪片をあしらった美しいカードを、ルイスと煉に一枚ずつ用意してくれていた。咳止めの入ったコーラを冷蔵庫いっぱいに入れて二人を待っていたルイスより、冷静に見えたエリカの方が、案外このクリスマスの集いを楽しみにしていたのかもしれない。
 煉は窓の外を眺めた。カーテンの隙間から見える空が黒い。この黒々とした空をたぶん彼は一人で眺めているのだろうと思う。重いため息が漏れた。
「僕は煉より自分が不幸だなんて思ってない」
 アルコールとカフェイン、コデインのカクテルにいい気分になったルイスは、先刻からベルリオーズの幻想交響曲の第四楽章の『刑場への行進』に合わせ、タクトを振るようにマドラーで空中に緩慢な模様を描いていた。
「でも、煉を規準にしたら大抵の人は幸せだろう? 煉が標高ゼロメートルなら、僕たちは宙に浮かんでいるべき? 連絡を寄越さないお父さんがエジプトで元気に写真を撮りまくっていれば、エリカは空を飛べるか?」
「飛ぶ必要があれば、飛ぶわ」
 エリカは落ち着き払って答えた。
「変な理屈をつけないで、ルイス。云ってることが分かんないわ」
「それ以前に、僕の立ち位置を、君たちが極端に低く設定してるのが気になるよ」
 煉は二人のクラスメイトに対して呆れて云った。
「僕にも『歓迎してくれる両親』は確かにいないけど、足長おじさんも、莫迦騒ぎを出来るクラスメイトもいる。恋人はいないけど、今は別に欲しくない。病気でもないし、気鬱もないし、学期末の統一テストで六九八点取った。標高ゼロメートルどころか、僕こそ羽が生えて浮いてたっていいくらいだ」
「なのに浮かない顔なのはどうしてなんだよ?」
 ストロベリーブロンドの、ぱさぱさした前髪を払って、ルイスがマドラーで煉を指差した。
「それに、何も食べないのね」
 膝を折ってクッションにもたれかかったエリカは、非難するように云った。
 料理らしい料理もなく、クラッカーや菓子が並んだだけの食卓だったが、それでもエリカが床にテーブルクロスを敷き、その上に載せた皿の間に、小さなホログラムのクリスマスツリーがきらきら輝いている。部屋の灯りの下では映像はやや暗くなるが、蝋燭のゆらめきまで再現した精巧なツリーだった。ルイスのアパートに限らず、学生用のアパートメントでは基本的に火気厳禁だ。ホログラムの蝋燭なら部屋に火がつくことはない。
 急ごしらえのクリスマスの食卓を囲んだ煉は、確かに余り食欲があるとは云えなかった。普段から食の極端に細いエリカと同じくらいか、或いは更に少ししか食べ物を口に運んでいない。
「実のところ、僕の場合は、息子を京都に幽閉しとくことに良心の呵責を感じる親から、それぞれ特別入電があったから、それでいいんだ。数字が並んでるだけの入電でもね」
 ルイスは生活費や学費、小遣いが自分の口座に振り込まれることを、入金と云わなかった。メッセージメールがあったような云い回しをするのは、口とは違って、幾ばくかの寂しさがあるのかもしれない。
「エリカも、十日間の休暇でカイロに行って、親父さんの捜索をする気はないよな?」
「その通りよ」
 エリカは鷹揚に云って、ジンジャーエールをもう一口飲んだ。
「エリカが食わないのは、だからいつものことだし、僕が『カクテル』を少しばかり飲んでるのも寂しいからじゃない。でもお前はほんとは家に帰りたいんだろ。足長おじさんのところにさ」
 煉はお義理でクラッカーを抓もうとしていた手を止めた。心に入り込んできた苛立ちを、声からうまく排除することが出来なかった。
「何で君たちは二人揃って僕のことを話題にするんだ? 好きな話をすればいいだろ。エリカは古典音楽にひたればいいし、ルイスは禅と覚醒について講義すればいい。僕はいつも通り興味深く拝聴するよ」
 それは余り礼儀にかなった物言いではなかったが、無愛想にそう云うと、年上の二人は怒る様子もなく顔を見合わせた。そして、エリカが鶴のようにほっそりとした優美な首を傾げ、いつもの平坦な声よりもやや優しげに云った。
「それは、クリスマスだからじゃない?」
 煉は思わず肩をすくめた。
「君がそんなに、クリスマスに意義を感じてるとは知らなかった」
「これが一週間後なら『新年だから』でもいいのよ」
 エリカは考え込むように静かに云った。
「わたしたちは誰もクリスチャンじゃないし、進化論の話をするときには、不謹慎な冗談の種にするくらいだけど。でも、お祭りに便乗して友だちのことを考えるにはいい機会だと思うわ。そんなに心ここにあらず、なのに、どうして飛んで行かないの?」
 煉は自分の胸の中を透かし見られたような気分になって、必要以上に動揺して手を冷たくした。一重だが切れの長い、エリカの黒い瞳が自分をじっと眺めているのをようやく見つめ返す。
「飛んで行くって、どこに?」
 エリカは辛抱強く繰り返した。
「心がここにいないなら、あなたは心の後をついて行ってみたら?」

 足長おじさんの許に帰りたいのだろう、とルイスは云った。
 友人は、煉の義父がどんな男なのか知らないのだ。煉でさえ、自分を引き取った翡翠や、彼のバックボーンについてよく知らない。彼のバックボーンというのは、彼に代わって自分に金を出している男のことだ。
 ────ニル・アドミラリ? ふざけやがって。
 徐々にその男のことを知り、名前の意味を知った時、彼はそう思った。翡翠が金のために辛い選択をしたのだということも察しがついた。自分がどういう状況で面倒を見て貰っているのかを知りたくても、何も云おうとしない翡翠とは話し合いにならなかった。それに、自分と七歳しか年の違わない翡翠が必死に守る沈黙の城を突き崩すにはしのびなかった。
 煉が自分の立場をはっきりさせようとして会話したのは主に翡翠の弟、継海とだった。
 継海は翡翠と外見こそよく似ていたし、硝子細工のように脆い身体を持っていたが、持って生まれた全ての条件に反して、安定して意志的だった。自分の置かれた状況や、最先端の医療医術を持ってしても癒せない身体に決して絶望しようとしなかった。兄と、その周囲の状況を注意深く観察し、自分が与えられた情報以上の事実を把握していた。
 煉と継海は幼くして戦友になった。お互いに、頼れる肉親も他にいなかった。煉は翡翠が十八歳になった時に正式に翡翠の養子になり、桐島の姓を持った。戸籍上は継海の甥になったのだ。翡翠と分かちがたい関係で結ばれたことで天にも登る心地だったが────たとえそれが、あの忌むべき男の力によるものだったとしても────継海との関係が保証されたことも喜びだった。
 翡翠は天に昇る月のような存在だったが、継海はすぐ手の届くところに飛んでいる儚い螢のように見えた。手は届くが、触れれば潰してしまいそうな。月よりも小さく思えるが、月よりも少し現実に近い存在。それがこの四年間で煉のとらえた継海像だった。
 一年に一、二回東京に戻る度に、煉の存在を大儀そうにする翡翠の許に戻れないことを、煉は気に病んでいたのではなかった。彼は翡翠の倦怠感には慣れ始めていた。他人を一切自分の生活から閉め出しておこうとする彼の感覚に抵触しないタイミングを見計らって、何度でも翡翠という難所にチャレンジしたいという気持ちがある。翡翠は彼にとって絶対の存在であり、唯一無二の神だったからだ。絶対、と思うせいで、むしろ煉は自分を翡翠と用心深く遠ざけておけるようになった。彼にとって自分が、時に大きな苦痛になりうることが呑み込めたからだ。
 ルイスは勘違いをしているが、煉が思い出していたのは継海のことだったのだ。
 煉が京都に来て、神戸の医療機関に入院する継海の許に通うようになって四年経つ。その間、煉が訪ねることに、継海がよい反応を示さなかったことが数回ある。それは決まって容態が悪いときか、大きな治療を前にしている時なのだと気づくのに時間はかからなかった。継海はプライドが高い。翡翠とは別の意味で抑制型だ。辛いときに人に傍に居て欲しいと望む性格ではないのだ。
 だが、それは煉にはこたえることだった。一番つらい時にこそ傍にいたい。継海の容態が悪いときに、東京から翡翠が帰ってきたという話も聞かなかった。むろん継海は最高のスタッフの務めるメディカルセンターにいるのだし、彼が単なる入院患者の立場を越えて、多くのスタッフに大切に思われているのも知っていた。それに継海に思い入れて医療施設まで彼を教えに来る、何人もの教授がおり、彼等が継海を見舞っているのも分かっている。だが、そこから自分が閉め出されていることを思うと、煉はひどく孤独な気分になる。彼は、継海を家族のように思っている。いや、家族を持ったことのない煉にとっては、家族という構図は余り意味がない。
 彼を拾って育てたリカも煉の家族ではなかった。リカを殺した男を刺して、雪の東京で行き場をなくしていた煉を拾った翡翠も本当の家族ではない。煉にとっては、縁があって巡り会う全ての人が、家族以上の意味を持って彼の命の中に関わってきていると思う。継海は京都での彼の孤独を埋めた、やはり家族以上の存在だった。
『年末は検査を幾つかすることになったから、来るのは中止して欲しい。君がいい休暇を過ごすよう祈ってる』
 継海から月半ばに送られて来たメールにはそう記されていた。映像は添付されていなかった。クリスマスも年末も継海と過ごす約束になっていた。この期間は退院出来ない者のために、特例として家族は泊まり込めることになっている。突然のメールに煉は途方に暮れた。また継海は具合が悪いのだ。スタッフも休暇を取る者の多いこんな時期に、容態が悪くもないのにわざわざ幾つもの検査などするものか。それが継海の嘘だとはすぐに分かるし、継海も隠せるとは思っていないだろう。彼はその嘘で煉が彼を責められないことを知っている。
(翡翠の弟だよな……継海)
 こういう時の拒否の仕方が、兄弟揃って似ているように思う。
 例えば、大量に輸血して継海に自分の健康さを分けられるものなら、自分は喜んで差し出すだろう。血液だけでなく、内臓の一部くらいは差し出してもいいと思った。それによって自分も少しリスクを背負い、継海のハンデの何分の一かを引き受けられればいいのに。そんな空想を一度エリカに漏らしたことがある。詳しい話が出来ないので、病気の友達がいるとだけ云った。するとエリカは薄く笑った。
(「献血も十八歳からでないと出来ないのよ。友達を助けたいなら大人にならなきゃだめってことね」)
 煉は胸に石が詰まったような気分になった。
(「子供の内に出来ることって、何もないのかな」)
(「変らず、友達でいることじゃないかしら?」)
 エリカは分厚い本の上に屈み込みながら云った。学生の中でもコンピュータ派で、重い本など持ち歩くのを嫌って、コンピュータで読み書きが可能なメディアでしか勉強しない者もいるが、エリカはほっそりした姿に似ず、重い本を何冊も苦にせずに持ち歩いてすっかり目を通す前世代的な気風だった。
 友達で居る。それは煉の側からはもう百パーセント差し出しているものだった。だが、継海はどうだろう? 継海から差し出されない手を無理に引き寄せて握れるものだろうか。
 年末の休暇に継海を訪ねることを断られてからは、尚更その気持ちは強まった。
 今夜継海を訪ねたかったのは、クリスマスイヴだからではなかった。
 今まで三回、彼は継海のためにこの日を祝った。
 十二月二十四日は、継海の誕生日なのだ。


 煉は小さな箱を抱え、ドアの前で暫くためらった。しかし、迷惑な顔をされても仕方がない、と思い切ってやってきたのだ。ここで帰る訳にはいかなかった。ただ継海の顔を見ること、今夜ここにどれだけ訪ねてきたかったのかを伝えることだけが大切なのだと思った。その後のことは、継海に会ってから決めればいいのだ。
 ノックしたが返事がない。中から施錠されることはないメディカルセンターの個室のドアを、彼は静かに引き開けた。薄いブルーのカーテンの向こうに、人の横たわっている盛り上がりが見えた。
 そっとカーテンをかき寄せるように開けた煉は腕に抱えた包みを下ろしてしまった。
 継海は、仰向けに、静かに横たわっていた。四年前に初めて会ったときの、十歳だった継海の姿がその姿に重なって見えた。
 継海の着ている、ゆったりとした白い手術着のような服の下から、腕に、首筋に刺された、驚くほど沢山のチューブが伸びていた。それらは三台もの機械につながり、それぞれの点滴の速度を管理している。
 部屋はひどくあたたかく、継海の枕元には、シルクで作った大きな白いシクラメンの造花の花籠が置かれていた。彼は様々な花の花粉にアレルギーがあるので、生花を近くに置けないのだった。それだけでなく、おそらく贈り物として送られてきた、金色の包み紙に入ったままの本や、映画や音楽のメディアをセット出来る小型のポータブルプレイヤー、誰から贈られたものか、毛足の短い白い猫のぬいぐるみもあった。首にリボンでカードが結びつけられている。
 そして、ルイスの部屋に置かれていたのと丁度同じような、ホログラムのクリスマスツリーが、天辺に金色の星を載せてほのかに輝いていた。だが、それらは全て整然と片づけられて、継海に触れられた様子はない。ポータブルプレイヤーもきちんと蓋を閉められて、ベッドサイドの机に、ディスク数枚と一緒に置き去られていた。
 目の下に紫色の隈をつくった継海が、静かに目を開けた。煉の姿を見ても、彼はさほど驚かなかったようだった。
 いつこんなに具合が悪くなったのだろう。十月末に来たときには、車椅子で外出出来るほどになっていて、煉はナースに付き添われて、継海をセンターの庭の大銀杏のところまで散歩に連れ出したのだ。あれから二ヶ月しか経っていない。にもかかわらず、前に会ったときよりも継海がずっと痩せているのに気づいて、煉ははっとした。
「来ちゃったよ」
 自分をじっと見つめる継海が何も云わないので、煉は言葉を探した。
「遅い時間だけど、今日はスカイバス終日運転なんだってさ。だから……帰ろうと思えば帰れるけど。……そっちに行っていい?」
 継海はかすかに肯いた。
 煉は、用意していた小箱をそっとベッドサイドに置いた。これは、ネイビーとクリーム色の、落ち着いた色の紙で包んである。包み紙を探しに行くと、このシーズンはクリスマスの用紙しかないという店に、無理を云って普通の包み紙を探して貰ったのだった。
「誕生日おめでとう。でも、誕生日だから来たって云うより、僕が会いたかったんだ」
 継海の喉元に入った点滴の管の逆側に、ガーゼがあてがわれて、医療用のテープで止められているのに煉は気づいた。首の反対側の血管にも点滴が入れられていて、血管が保たなくなって逆に針を入れたのだろう。中身はおそらく栄養剤だ。
「ありがとう」
 少しの間を置いて、継海の小さな声が聞こえた。姿勢を変えようとはしない。点滴がこれだけ沢山入っていれば、身動きもならないだろう。声はかすれてささやくようにしか喋ることが出来ないようだった。継海は去年変声期を迎えて、数ヶ月かけて、翡翠よりも幾分高い、なめらかな声に変った。彼の声が変ってきたことが健康になりつつある証拠のように思って喜んでいたことを煉は思い出す。継海はそれほどめざましくよくなっていた訳ではなかったのだ。
「何?……」
 継海の視線が、小箱の方を向いている。
「ああ、これ? 開けるよ」
 煉は、自分で包んだ小箱のラッピングをゆっくりと開けた。
「自作だから、そんなにうまくは出来なかったんだけど」
 直径十センチほどの円形の箱の中に台を設置し、両側に小さなレーザーを取り付けてある。継海がほんの少し視線を動かせば箱の中が見えるように、煉は箱を彼の枕元に移した。
「ツグミ?」
 かすれた声にかすかに微笑がまじったようだった。
「うん。鳥類園に行ってパルスレーザーで撮影させて貰ったんだ」
 頭と頬、後首が灰色で、オレンジ色がかった褐色の翼を持つ、ふっくらとした小鳥の姿を、煉は自作のホログラム映像で映し出したのだった。去年の誕生日には、ディスクでスライドショーの見られる鳥類図鑑を贈った。それを継海が思いの外喜んでくれたので、今年はツグミのホログラムを贈ろうと決めていた。精巧なホログラム、しかも特定の品種の小鳥の映像が欲しいと思うと、なかなか見つかるものではない。それで煉は自作のための道具を買い込み、何度もブレて失敗しては修正を繰り返し、眠っているツグミの映像を作りあげたのだ。
 枕の上で頭を傾けた継海は、かすかに尾羽を揺らせる、小さな小鳥の姿を見つめていた。
「綺麗だね」
「綺麗だろう?」
「健康そうだ。羨ましい」
 そう云って継海は、自分の言葉を打ち消すように首を振った。
「嬉しいよ。君はとても考えて、くれてるよね」
 継海は何を、とは云わなかった。
「考えてるよ」
 継海が小さい声で話すからか、メディカルセンターのしんと静まった空気のせいか、煉も低い声になった。患者の多くが外出しているからか、同じ階からは殆ど人の気配を感じなかった。
「でも考えても分からないよ。継海がどうして欲しいか」
 煉は、継海の顔を覗き込んだ。削げた頬、目の周りの青い血色が痛ましかった。人形のように整った継海の美麗な造作が、尚更そのやつれを際だたせているようだった。
「何か僕に出来ることはない?」
 ひどく緊張してそうささやくと、継海は彼から目を逸らした。そして暫くは何も云わなかった。煉は、彼が何かを云ってくれるまで待つつもりで、椅子を引き寄せてそっと浅く腰掛けた。
 背けた顔を見守っていると、伏せた継海の目許から、すうっと透き通った筋が流れるのが見えた。
「煉」
 継海が、消えそうな声で呼んだ。
「何?」
「つらいんだ」
 彼はひゅっと喉を鳴らし、それによって痛みが走ったようで身体をすくませた。びくりと緊張した身体から、徐々に力が抜け、継海は浅い息をしながら枕の上にあおのいた。両頬に伝った涙を拭いてやっていいのか、判断に苦しんだが、その涙が継海の頬の皮膚を荒らしそうな気がして、煉は結局傍らのタオルで彼の頬を吹いてやった。
「こんなところを、君に見られたくない」
 もう殆どそれは声にはなっていなかったが、煉の鋭敏な耳はそれを聞き取った。やはり今夜ここに来たのは間違いだったのだろうか。
 心ここにあらず、とエリカに云われた。
(「心の後をついていったら?」)
 心の後をついて行くのは造作もない。彼は健康で、翡翠は東京のあの部屋に、継海はこの病室に縛り付けられているのに、彼一人がどこにでも自由に行ける足を持っているのだ。だが、そのせいで彼等を傷つけてしまうとすれば、煉の心は行き場を失ってしまう。
 煉は凍り付いたように座り、継海のやせ衰えた姿を眺めた。青白い顔には微笑の影もなく、目は落ちくぼんでいるにも拘らず、その姿を見ても自分の中に嫌悪や同情すらなく、好意や思慕のようなプラス感情しか湧いてこない。
「一つだけ聞いていいかな。継海が僕に見られたくないと思うのは、どうして? 君の弱った姿を誰にも見せたくない?」
 煉がからからの喉から硬い声を絞り出すと、継海は僅かに首を振った。もう泣いてはいなかった。煉は、先刻の涙が自分の初めて見た継海の涙だったことに気づいた。
 継海が口を開いて、煉は耳を澄ませる。吐息に似た声は、病室に据え付けられた機械のわずかなモーター音にさえかき消されてしまいそうだった。
「こんな状態でも、僕は君とは対等でいたかったんだ」
 継海は確かにそう云った。煉は椅子の上でどきんと胸をはずませた。
 それこそが、ずっと煉の望むことだった。
 継海の望みと彼の望みは食い違っていないのだ。
「弱ってるところを百回見たって、僕は君を対等だと思ってるよ」
 彼は、自分が言葉を探す余地があるのを嬉しく思った。今からきっと継海があきれるほど、煉は自分にとって彼がどんなに大切な存在なのかをまくしたてるだろう。言葉にそんな力があることを教えてくれた自分の先生達や、ディスカッションしてきたルイスやエリカ、自分を京都に送り込んでくれた翡翠にまで彼は感謝した。
 何を云われるのか分からないように、頼りなく病院の寝具の中であおのいている小さな小鳥に、静かにゆっくりと好意のシャワーを浴びせよう。出来れば彼を疲れさせないように。
 彼は身体をきたえようとする運動選手が、怠りなく準備運動を繰返し、筋肉をほぐしてやわらかくするように、言葉を頭の中で繰返し弄び、指でこねて、集めてばらばらにし、また寄り合わせて、云えること、云えない言葉を検討した。自分が体内の血液や臓器を取り去って継海に分け、彼と同じハンデを背負うばかりか、継海の一部として混じりあいたいと思っていること。そして継海が失い、その上遠方に切り離された「家族」スーパーコピーという単位の代替品でさえありたいと思っていることを。
「煉?」
 かすれた声が彼を呼ぶ。
 それに答えるために、そして求められている以上のことを云うために、水に深く潜る前、あるいは長距離を走り出そうとする者がそうするように、告白のための深い呼吸をした。

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