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真夜中、太陽は庭からやってくる

08 26 *2016 | Category オリジナル::読みきり(短編)

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幼なじみと、不意に距離が縮まる日。


続き




 よく思い出してみると、小学生から中学生の頃、悟は光太朗にずいぶんきつくあたられていたように思う。
 光太朗がいわゆるいじめっ子だったかと云えば、それは断じて違う。光太朗は自分で立候補しなくても、誰ともなく推薦されてクラス委員になるような、いわゆる「いい子」でもあったし、健康で活発で、成績もよかった。積極的で物怖じしない、先生受けのいい子供でもあった。
 身体の弱かった悟は、学校の宿題を教えて貰ったり、休んだ間に出たプリントを届けて貰ったり、時には光太朗の母が作ってくれた晩ご飯のおかずを貰ったりした。悟と光太朗の家は、百メートル程度しか離れていないのだ。
 子供の頃は、悟はどことなく光太朗が怖かった。話していると光太朗が突然かっとなって、徹底的に云い負かされたり、勉強を教わっている最中も、物覚えが悪いといってしきりに叱られたからだ。
 高校に入った頃、にわかに悟の身長は伸びて、光太朗をてのひら一つほども追い越したが、彼を物理的に見下ろすようになっても、二人の力関係は何一つ変る訳ではなかった。
 悟が小学生の頃、母が一年間の闘病の末に亡くなった。それで悟は父と二人きりになった。悟は一人っ子で、父が建てた家は大きすぎ、その借金を返すために働きすぎていたため、彼は大抵寂しかった。父が再婚してくれないか、と思ったこともある。だが、父は余り多忙で、まだ母の死のショックから回復していなかったため、とても再婚どころではなかった。
 もしあの時期に光太朗という存在がいなかったら、と想像すると悟は身震いしてしまう。
 悟は、庭の見える六畳の和室で、風邪を引いて一人で寝ていることが多かった。そこは以前は客間だったのだが、滅多に来客もなくなり、日当たりがいいので、父が彼の部屋をそこに移したのだ。
 市役所のスピーカーから、もの哀しい夕焼けチャイムが鳴る頃、光太朗がやってくる。小学生低学年で半ズボンを履いていた頃から、光太朗は門からやってこなかった。悟の部屋のある庭側の塀を越えてくるのだ。光太朗は小柄だったが、素晴らしく腕の力が強く、自分より背の高かったコンクリートの塀に手をかけ、ちょっとした足がかりでひょいと身体を押し上げて、軽々と飛び降りる。だが、裸足の膝に怪我をしたことなど一度もなかった。
 やがて、洒落たジーンズに黒のナップザックで通学し始めてからも、中学に入って薄青いブレザーの制服を着るようになってからも、光太朗は変らず庭からやってきた。
(「また寝てんのかよ、だらしねーな」)
 女の子のような可愛い、薄い唇でまず一言憎まれ口をきいてから、鞄からあれこれ取り出して、悟の枕元に置いて行く。
(「光ちゃん、何で玄関から来ないの?」)
 昔そう尋ねた時、光太朗は早速ガミガミ云った。
(「お前忘れたのかよ。せっかく来てやったのに、チャイム鳴らしても寝てて出なかったことあるだろ?」)
 そして、失礼な奴、とか、ぼんやりしやがって、とか、思い出せないがその他にも散々文句を云った。
 悟は、口の悪い、怒りっぽい光太朗をだんだん好きになった。何もそこまで云わなくても、と時々は思ったが、それでも嫌だとは思わなかった。夕焼けチャイムは、彼の訪れを暗示するため、もの哀しい曲ではなくなった。いつの間にか彼は、庭の塀を越えてやってくる光太朗をこころ待ちにするようになっていた。
 高校に入って、悟が余り寝込まなくなってからも、光太朗は時々そうしてやってきた。
 自分の身体が丈夫になったら、光太朗は来なくなるのではないか、と思って不安だった悟はほっと安心した。光太朗は、名前の通り、きらきらしているように見えた。光太朗の眩しさが苦しかった。痩せているため、ごつごつと不格好に細長くなった自分に比べて、光太朗のほっそりと敏捷な身体は、日光のようだと思った。
(「────もう大きくなったんだから、プライバシーとスペーシングが必要じゃないか? 二階の八畳に移ったらどうだ?」)
 ある日父にそう云われた時、悟は慌てて、その部屋がいいのだ、と答えた。
 六畳の和室は古めかしく、全面窓のせいで戸締まりも面倒だったが、その代わり毎日陽光に消毒されて清潔だった。思春期の少年の体臭を消し、いつもからりと乾いている。しかも、そこにいると時々、塀を乗り越えて小さな太陽がやってくるのだ。勝ち気な小さい顔と、滅多に見かけないような光沢のある、黒い髪を持った太陽だ。右頬に二つ小さなそばかすがあるが、ニキビ知らずのなめらかな頬をして、健康そのものの姿で庭に滑り降りてくる。まずは鞄を投げ入れ、次に自分が飛び降りる。今や、塀は光太朗にとってさほど高いものではなくなった。
 その周囲に植わった山茶花と沈丁花をうまく避け、膝の埃を軽くはたいてから、濡れ縁越しに、太陽は悟の部屋をノックする。
 悟は、光太朗が何故自分にそれほど構うのか、何度か考えたことがある。光太朗が異常なほど親切なのかもしれない。背ばかり高くて大人しい悟を、彼の性格では放っておけないのかもしれない。家が近いせいで、見るに見かねて仕方なく面倒を見ているのかもしれない。
 だが悟は、光太朗が自分と親しくすることに疑問を持っていないふりをした。
 そういえば、こいつをそんなに構う必要はないんじゃないか。
 光太朗にそう思われたら災難だからだ。
 お荷物でもいい。みんなに、滅多に怒らないと思われている光太朗が、自分にだけ怒りっぽくても構わない。それどころかまるで特別扱いされているような気がして、ずけずけときついことを云われるのが楽しみなくらいだった。
 光太朗は高校では英研と、マラソン同好会に入った。陸上部に入ればいいのに、と悟は云ったが、光太朗は首を振った。彼は高校に入った時から、難易度の高い大学を受験することを決めていたし────それは光太朗の母のたっての希望だった────、勉強以外のことは、なるべく楽しみたいのだと云った。
(「それにさ」)
(「それに?」)
 そう聞き返した悟の顔を、光太朗はふっと真面目な表情で見つめた。くっきりと明るい目が真剣に悟を見ていた。
(「何でもねーよ」)
 高校一年だったその時も、光太朗は悟の部屋に来ていた。五月の連休ではなかったかと思う。暖かい日で、悟は長袖を着ていたが、光太朗はもう半袖だった。余り日焼けはしないが、健康で伸びやかな腕が、Tシャツの袖から伸びていた。ふと、薄く筋肉の浮かんだその腕をてのひらで包んでみたい、と悟は思った。背は高くないが、光太朗は手足が長くて、すらっとしている。髪もとても綺麗だ。ほんの少しでいいから、光太朗の身体に腕を巻き付けて抱きしめてみたい。一度そう思うと、腕がうずうずするほど触りたくなった。
 だが、とんでもなく高い値段のついた、血統書付きの子猫や小犬のように、光太朗はおよそ悟にとって手の届かない存在だった。遊び友達でもあるのに、光太朗は悟にとって気安い相手ではなかった。たぶん何かの幸運な奇跡で、光太朗は悟の家の塀を乗り越えてやってくる。だからといって悟は、自分が光太朗にとって重要な相手だとは一度も思ったことがなかった。
(「ばーか」)
 不意に光太朗がそう云って、悟は目を丸くした。自分が考えていたことを読みとられたような気分になって少し怖くなった。
(「────何だよ」)
 字面ほど強気に云えた訳ではなかった。悟のおだやかな抗議を、光太朗は無視した。
(「お前がばかだからばかって云ってんだよ」)
 そう云って、中学後半から面長になった悟の顔をちらっと眺め、気に入らないようにふいと立ちあがった。
(「帰るから」)
 そう云って、庭に出てしまった。そこからさっさと玄関の方へ抜けて行く。
 光太朗は、来るときは塀を乗り越えて来るが、帰るときは門を出て行く。来るときと帰るときの違いは何なのだろう。あっけにとられながら、悟は彼の敏捷な後ろ姿を見つめた。
 そうして光太朗は、ESSの弁論大会で神奈川県代表になったり、時々、マラソンで県の月例大会に出たりしながら、抜群の成績のままで高校生活を送った。悟はと云えば、部活にも同好会にも無所属だったが、小中学校の時よりだいぶ丈夫になったおかげで、随分友達が増えた。光太朗の友達は、何につけ派手で、存在感があったが、悟の友達はおだやかで内向的な者が多かった。
 高二、高三とクラスは別れて、友達もそれぞれ出来たため、中学時代のように光太朗とは一緒にいられなくなった。
 それでも光太朗は、母親から手渡された総菜を持ったり、手みやげのソフトを携えたりして、一、二週間に一回ほどの頻度で、悟の庭に現われた。その時間は前よりもだいぶ遅くなり、夕焼けチャイムと同じ頃ではなくなった。だが、悟は、相変らず光太朗が来ると庭が明るくなると思った。彼のつやつやした髪を照らす夕陽がなくとも、光太朗は光って見えた。口の悪さは相変らずだったが、暫く聞かないでいるとそれが恋しかった。
 光太朗へ向ける自分の気持が恋に近い、と思ったのは暫く前のことだったが、悟は狼狽えなかった。そうでなくても光太朗が自分の中に占める位置は変らないし、恋だとしても、打明けるなどとは考えもつかないことだったからだ。ただ思うだけなら、どれだけ、どんなふうに思っていても構わないだろう。あきらめと幸福感のいりまじった気持の中で、悟はそう思っていた。

 後藤亜美が、悟に告白したのは昨日のことだった。
 亜美は、悟と同じクラスで、際だって美しい少女だった。成績はよく、芯はしっかりしていたが、無口で人見知りするタイプだった。年配の夫婦の間に生まれた一人娘で、悟と同じように小さい頃は身体が弱かったらしい。そのせいなのかどうか、彼女は他の女生徒に云わせると「古いタイプ」なのだそうだった。亜美は携帯も持ち歩かなかったし、化粧もしなかった。学校で菓子を食べることも、教師に馴れ馴れしい口をきくこともなかった。悟の高校は服装規定が厳しかったが、大抵は教師の目をくぐりぬけて思い思いの格好をしている。そんな中で、真っ黒な髪を編み、その髪を黒のゴムで止めて、いつもブレザーのタイをきちんとしめていた。流行を追わなくても、亜美はなおかつ美しかったし、華やかな連中も、彼女をそれほどは煙たがらなかった。特にテスト前の後藤亜美は人気で、普段乱暴な口をきく女子達が、彼女の周りを取り囲んで、その物静かな臨時講義を熱心に聴いた。
 悟とは去年から同じクラスで、二学期頃に親しくなった。
 悟が見損なった映画のDVDを亜美が持っていたのだ。
(「貸すけど────もしよかったら」)
 もしよかったら、などという前置きを、同級生の少女にされたことのなかった悟は驚いた。斎藤亜美の豊かな三つ編みが、白い制服のブラウスの上にさがっていた。亜美が緊張しているのに不意に気づいて、悟はほっとする。相手が緊張していると自分が落ち着く、というのはよくあることだ。それで悟は手を伸ばして、DVDの薄いソフトを受け取った。
(「ありがと。おれのも何か貸そうか」)
 もしよかったら、と、亜美の言葉を真似して云ってみると、亜美はにっこり笑った。
(「今度ね」)
 そう云って、すうっと教室の悟の机を離れていった。
 それ以来二人は友達になり、次の年、もう一度同じクラスになってからは、休みの日に一緒に出かけたりするほど親しくなった。もっとも悟にはそういう女友達は何人かいた。その誰にも恋していなかった。
 猫のように塀を越えてやってくる、勝ち気な顔の友達ほど、悟をどきどきさせたり、苦しい思いをさせる人はいなかった。悟は、自分の気持を判断するのに決して急いだりはしていなかった。ただ、恋というからには、光太朗を好きになる以上に好きでなければ本物ではないだろう、と考えただけだった。
 亜美が悟の家の前で寒そうに待っていたのは、土曜日の午後だった。
 今年の十二月はいつになく暖かく、テレビでもどこでも暖冬だと云われているけれど、月の半ばを過ぎてにわかに冬にふさわしい寒さに変った。
 亜美は黒い手袋と白いマフラー、黒のダッフルコートを着て悟の家の前で待っていた。その姿を見つけた瞬間、悟の胸の中で小さな痛みが生まれて、胸に、背中に飛び散った。亜美がこんなことをする理由を、悟は一つしか思いつかなかったからだ。
 彼は自転車から下り、それを押して亜美に近寄った。
 亜美はいつもまとめている髪をほどいていた。丸いボタンのような飾りのついたピンが、シャンプーのCMのように綺麗な亜美の髪の上で光っている。
 亜美は随分待ったようで、いつも余り血の気のない頬が赤くなっていた。悟は自転車から降りて、自転車を引っ張って亜美の前まで行った。
「後藤」
 名前を呼んだが、どうしたの、とは訊けなかった。
 亜美はふうっと息を吐いて、それが綿菓子のように、白い顔の前を通り抜けた。
 彼女は言い訳のような前置きをしなかった。ためらって黙ったり、照れ隠しで逆のことを云い出したりもしなかった。何故今日にしたのか、という理由も云わなかった。
「滝口」
 真剣な声がささやいた。悟の名字を呼び捨てにする女友達は他にもいるが、亜美のようにそれを優しく、気持ちよく発音する人はいない。どちらかといえばありふれたその名字を、とても大切なもののように亜美は呼んだ。その瞬間、亜美の優しい形の目にいきなり涙があふれ出すのを、悟は茫然として見た。水平線に、津波の波頭が遠く現われるように、涙は光りながら亜美の真っ黒な目の上でうねり、ふくらんで、ついには亜美の頬の形に丸くカーブしてすべり落ちた。
「あたし、滝口が好き」
 そんなに涙をこぼしているのに、曇らない、明確な声で亜美は云った。どうして亜美が泣いているのか、悟には分かったような気がした。泣いている亜美はこんなに必死なのに、悟は彼女に恋をしていなかった。今まで一度もしたことがなかった。亜美はそれを知っているのだ。
 悟の気持が自分にないことを知っていて、好き、という言葉を口にする亜美を、彼は大部分強いと思ったし、ほんの少し怖いとも思った。悟は、叶わないと思っている望みを口にしたことはなかった。彼が一番初めにそう願ったのは母の病気を治して欲しいということ。次には母の死を取り消して欲しいということだった。誰にも口に出せない願いだった。それに悟は神様を信じたことがない。
「俺は」
 悟が云いかけた言葉を亜美が遮った。泣いたせいで、鼻と頬が赤く染まっていた。
「滝口は、黙って話を聞いてくれるし、嘘をつかないし」
 涙がまたあふれ出した。
「ホラー映画が観られないし────」
 悟は黙って、亜美の涙を見つめた。泣いている亜美は、泣いていない亜美ほど綺麗ではなかったが、今まで、彼女の存在がこんなに悟のなかに深く入ってきたことはなかった。
「誰かが滝口を好きでも気がつかないし、好きじゃない子に優しいし」
 亜美は軽く咳をした。
「そういうところが全部好き」
 彼はひどく混乱して、みじめな気分になった。
 亜美がこんな風に告白しなければいけないのは、たぶん自分のせいなのだと思った。自分がはっきりしてこなかったからだ。もしかして、亜美に誤解させたこともあるのかもしれない。悟には、亜美に云えることが何もなかった。他に好きな人がいることも、亜美の気持に答えられないことも、ごめん、という言葉も。悟は確かに黙って人の話を聞くが、それは気が弱いからだし、嘘をつかないのは頭が悪いからだし、血を正視出来ないほど臆病だし、何より鈍感だ。そして、そんなところを好きだと云って泣いている亜美には何も云えない。
 喉がひりひりと渇き、亜美の髪についたピンが目に焼きついた。視線をはずしても、髪飾りの形の緑色の円がちらついた。こんな自分を好きにさせたりして、出来ることなら亜美に謝りたかった。だが、今、ごめんと云ったら違う意味に聞こえるに決まっていた。
 悟は自分も泣いてしまえたらどんなにいいだろうと思った。自転車のスタンドを立てることも出来ず、ハンドルをぐっと握って、自転車を支えたまま、白いマフラーの上で揺れている亜美の髪を、髪留めの象牙色を見つめた。学校で見るよりも亜美が綺麗に装ってきていることが、不意に胸に痛く染みた。
 その時、視界にあかるい色のものが行き過ぎた。
 炎のようにあかるいオレンジ色だった。
 悟ははっとした。その色には見覚えがあった。それは光太朗が去年、姉の美波に買って貰ったセーターの色だった。特別白いというわけでもなく、余り日焼けする訳でもない、光太朗の肌のなめらかさを、そのセーターの色は際だたせていて、悟はそれを着る光太朗を見る度に目をつぶってしまいそうになった。
 三年間悟を苦しめてきた、腕の内側がうずくような衝動が沸き上がってくるからだった。
 オレンジ色は、一瞬ひらめいただけで、悟からはすぐに見えなくなってしまった。光太朗が悟の家の方へ来ようとして引き返したことに、彼は気づいた。その前に光太朗が悟の家の庭に飛び込んできてから、もう殆ど一ヶ月経っていた。今日、彼は自分のところに来ようとしていたのだ。そしてたぶん、悟と亜美が向かい合っているのを見て帰って行ったのだ。
 悟は、自分がみるみるうちに赤くなったのが分かった。彼は、逸らした目を亜美に戻した。今のオレンジの光を見た後では、亜美の身につけた黒や白が、ひどく色あせて見えるのに気づいて、また泣きたいような気分になった。だが、彼はひどく弱いが、滅多に泣くということはないのだ。
「もしこれで、友達でいられなくなったら────後藤と、俺が」
 彼はやっとのことでそう云った。
「俺は嫌なんだ」
 後藤の、自分の名前の呼び方が好きなことも付け加えたかったが、それがこの場にふさわしくないことは分かっていた。
「でも、それは友達でいたいっていうことだから」
 力を入れすぎても、抜きすぎてもいけない言葉。声をその中央に調律しようと苦心しながら悟は云った。亜美と本当にこの先も友達でいたいのだ。だが、亜美を見ても悟は苦しくならない。まぶしくならない。悟に会う前にほどいてきた髪の流れに圧倒されて、不安な気分になる。それはともすれば、不安から不快感になってしまいそうな、あやうい感情だった。
 亜美は、手袋で涙を拭いた。手袋の布は余り水分を吸わず、頬に涙の跡が広がった。
「分かった」
 そう云って、わずかに間を空けてから云い直した。
「分かってた」
「うん」
「ごめんね、滝口」
「後藤は悪くない」
「嫌わないでね」
 そう云われた瞬間、悟はそくそくと哀しくなった。こんなことを亜美に云わせる自分が歯がゆかった。それなのに、街灯に一瞬輝いたオレンジ色ばかりが頭の中で鮮やかなのを浅ましく感じた。
「嫌わないよ」
 喉が渇く。目も奇妙に乾いていた。だが、てのひらには汗をかいている。背の高い悟と、自転車を間に挟んで向かい合って、後藤亜美はひどく小さく、遠く見えた。

 日曜の夜、冷え込む一階の和室で、悟は目を開けていた。硝子窓と、障子とカーテンを三重に閉めていても、今夜は冷えた。
 この部屋は、体の大きくなった悟には少し手狭になっていた。六畳間にベッドまで持ち込んでいるのだから当たり前だった。
 だが、悟はこの部屋を動く気になれなかった。父が使えと云ってくれた二階の洋間は、道路に面していなかったし、塀を越えて来るという一種の趣味(だと悟は思っていた)を満足させられなくなったら、もう光太朗が来なくなるような気がしていたのだ。
 曇った晩だったので、障子を閉めると部屋はほぼ真っ暗だった。障子に、塀の外の街灯の光が差しているが、部屋の中を照らす程ではなかった。十二時過ぎに灯を消したのに、長い時間悟は眠れないでいた。明日、登校して後藤亜美に会わなければいけないことが重苦しかった。亜美と一緒にいるところを光太朗に見られたのも嫌な気分だったが、それは悟がひっかかっているだけのことで、きっと光太朗は気にしていないだろう。
 窓に映るぼんやりとした白い光に背を向けて、悟が今夜何度目か分からない寝返りを打ったとき、荒っぽく窓を叩く音が聞こえた。悟は思わず飛び上がりそうになった。
 彼はホラー映画を観られないと云っても、血が苦手なだけで、幽霊を信じている訳ではない。今まで夜中に聞いたことがないということを差し引けば、こんな窓の叩き方をする人を悟は他に知らないし、身体を起こしてみれば、半分閉めたカーテンの向こうの障子に、目に馴染んだシルエットが映っていた。
 彼は慌てて障子を開け、ガラス戸の鍵を開けた。光太朗は濡れ縁に座って靴を脱いでいるところだった。
「光太朗?」
 中学に入った頃、光ちゃん、という呼ぶのをやめるよう、悟は厳命されていた。靴ひもを緩めるために顔を伏せた光太朗におそるおそる声をかけると、さらさらした黒い髪を乱暴にかき上げて、光太朗が悟をふりあおいだ。
 その目に光っているのは、間違いなく怒りだった。
 今にも突き刺そうとするナイフのような、鋭く鬱屈した怒りが光太朗の顔を輝かせているのを、悟は戸惑いながら見下ろした。
「寝てたのか」
 押し殺した声でそう聞かれて、悟は肯いた。
「のんびりしてるよな」
 光太朗は歯がみするようにそう云った。
「え?」
 悟は口ごもった。
「や────でも、こんな時間にどうしたんだよ。一時過ぎだよ、もう」
「お前が来ないからだろ」
 光太朗は濡れ縁に立ちあがり、金の火の粉のような怒りの気配をはなちながら悟の顔を睨み付けた。
「何か云いに来るかと思ったのに、お前来ないだろ? いつだって来るのは俺だろ?」
 そう云って、光太朗はパジャマの厚手の布に包まれた悟の腕を掴んだ。布越しに、光太朗の手の冷たさが染みこんでくる。ほんの百メートルの距離だが、この寒気の中を出てくれば冷えて当たり前だった。
 だが、悟がヒーターのリモコンを探したり、何か温かいものでも持ってこようかと云い出したり、とにかく悟らしい行動を取るのを、光太朗は待たなかった。彼は部屋に悟を引きずり込み、ガラス戸を閉めて鍵をかけた。外の光をほのかに通す障子をカーテンで覆ってしまう。光太朗が自分の部屋の窓をてきぱきと戸締まりするのを、悟は終始呆気にとられながら眺めていた。
「行かないって、俺が────どうして」
 今までそんなこと云ったことないじゃないか。その言葉を悟は呑み込む。
 カーテンを引いてしまうと、部屋の中はうっそりと暗くなり、光太朗の輪郭も殆ど見えなくなった。悟の腕はがっちりと丈夫な指に掴まれていて、部屋の灯りをつけることも出来なかった。やがて暗闇の中から、光太朗の小さな息づかいが聞こえてくる。悟自身の呼吸は、緊張して押し殺しているせいで殆ど聞こえなかった。
「お前さぁ」
 気づくと、悟の腕を握りしめた光太朗の指は少し震えているようだった。
「俺のこと何だと思ってんの。便利屋?」
「便利屋って何?」
 自分の耳で聞いた言葉が信じられない気分で、悟は繰り返した。
 腕に巻き付いた指にぐっと力が入り、悟は強く後ろに引っ張られた。その方向には今まで悟が寝付けずに横になっていた狭いベッドがあった。背中に小さい衝撃があり、突き倒された悟はベッドに仰向けになった。両側の太腿の上に、硬いものが乗りかかって来た。それはジーンズにおさまった、光太朗の両脚だった。軽々と塀の上に乗り、飛び降りてくる、丈夫で敏捷な足だ。光太朗は、ベッドに押し倒した悟の上に乗り、膝立ちになったままで彼を見下ろした。視線を動かすと、暗闇の中でも光太朗の目の端が白く光るのが見えた。
「悟、あいつと付き合うのか」
 詰問されたとき、悟はあいつというのが誰なのか分からなかった。光太朗の怒りに圧倒されて、目の前がちかちかと明滅していた。
「あいつ?」
 ばかのように聞き返した悟は、光太朗に軽く頬を叩かれてすくみ上がってしまった。きつくあたられると云っても、こんなことをされたのは初めてだった。
「後藤亜美」
 ひどく正確に、くっきりと発音された亜美の名前が頭上から降ってくる。そんなことは分かっても良さそうだったのに、光太朗の口から亜美の名前を聞いて、悟はひどく驚いた。勿論、あの時に光太朗がそこにいたのは知っていた。自分はその時、亜美を色あせて見えるとまで思ったのだ。二人を並べてみたわけでさえなく、ただちらりと光太朗の着ているセーターの色彩を垣間見ただけだったのに。
「付き合わないよ」
 弁解するべきなのだろうか?
「自分が」「光太朗に」「後藤亜美とは付き合わない」「と、弁解」する。
 あまりにも奇妙な構図だと思った。
 それで、悟の声は、躊躇うような、弱い声になった。
「それよりさ────便利屋ってどういう意味」
 その時、叩かれた頬の上にぽつりと温かいものが落ちてきた。丸い水滴。体温を残している。それが、上から光太朗の頬をめがけて落ちてきた。
「俺の気持も考えろよ」
 光太朗の声は変だった。悟はそっと自分の頬に触れた。指先が濡れる。それが涙だということを、光太朗のふるえる声が証明しなければ、悟は気づかなかっただろう。
 自分の頬に触れた悟の手に、光太朗の冷たい指が重なって来る。
 声も指も、光太朗の身体中がふるえていた。光太朗がどうして悟の頬に手を添えたのか、やがて分かった。それはたぶん暗闇の中でキスする位置を確認するためのものだった。ほっそりした身体がかがみ、悟の唇に、細い息と冷たく柔らかいものが押しつけられた。
 こんな風に考えるのは亜美に悪い。そう思いながらも、悟は、昨日の夕方に、亜美が家の前で待っていたために、何か自分にとって信じられない機会が訪れているのを知った。
 薄く冷たい唇は馴れない様子で開き、にわかに、光るように熱い光太朗の舌が触れた。
 なめらかで熱いその肉を逃がさないよう、悟は必死になった。吸おうとすると舌は逃げてしまう。お互い身じろぎするたびに唇は外れ、暗闇の中でおさまり悪く、左右にずれた。
 仰向けになっていると、同様に不慣れな自分が殆ど何も出来ないのに気づいて、悟はもがいて起き上がった。あれほど抱きしめてみたかった光太朗の身体がすぐそこにある。暗くてほとんど見えないのは不安だったが、熱気と呼吸はいきいきとそこにあった。
「────俺にだって、気持があるよ」
 悟は早口に、とにかくそう云ってしまうと、フード付きの厚いジャケットを、光太朗の肩から引き下ろした。ぐずぐずしていると、自分の弱気に吹き飛ばされてしまいそうだったからだ。
 たぶん下は長袖のTシャツか何かしか着ていないだろう。光太朗はいつも薄着だから。
 思った通り、中から綿の柔らかい生地に包まれた、薄い肩が出てきた。ジャケットをはねとばして、薄いシャツを着た光太朗を抱きしめた。首筋に、熱い息と、濡れた頬が触れる。初めて抱きしめた身体は、見たままに温かく、細く、充実していた。
 光太朗の熱い舌を思い出すと、悟の背中はずきずきと疼いた。たまらずに腕をいっぱいに回して、身体ごと抱きしめると、腰に、光太朗の履いたジーンズのボタンがあたって冷たく痛む。どこからどんな風にして触れればいいのか分からずに、とにかくキスした。光太朗の唇はとても柔らかかった。夢のようだと思った。耳に完全に馴染んだ光太朗の声がなければ、誰かに騙されているのかと思えるくらいだった。
「光ちゃん」
 胸がつまりそうになって呼んだ。そう呼ぶな、と云われていた、以前の呼び名が漏れる。
「俺、ずっと我慢してたのに……」
「嘘つけよ」
 黙りこくって息を弾ませていた光太朗が、疑うような小さな声でそう云った。
「ほんとだって」
 光太朗に、何かひとつでも無理矢理することなんて出来ない。けれど、光太朗からアクションを起こしてくれたなら話は別だった。
「お前ずるいよ」
 そう云いながら、光太朗はまだ震えていた。悟はなめらかな頬や髪に顔をこすりつけた。自分がどうしてふるえていないのか、それが不思議なほどだった。
 光太朗の言葉通り、悟は狡いのかもしれない。彼は、光太朗が塀を越えて飛び込んできてくれた時、いつもやっと窓を開ける勇気が出るのだ。そして、彼が飛び込んできてくれた後はいつも、なるべく彼を帰したくないと思う。一分でも一秒でも長く悟の部屋にいて欲しい。けれど、例えば夜に駆けていって、光太朗の部屋の窓をノック出来るか、と云われたら、きっとこれから先もそれは出来ないだろう。
「今日、親父帰ってきて、上で寝てるけど────帰らないで、光太朗」
 悟は、つかまえた光太朗の耳元に、必死にささやいた。自分の骨張った長い腕が、彼の身体をすっかり包み込めるのを不思議に思う。
「帰るか、ばか」
 父がいる、と云われたせいか、にわかにボリュームを絞った光太朗の返事を聞いた悟は、ほっとして、自分の下敷きになった腰に手を伸ばした。気になっていたジーンズのボタンをはずしてしまいたかったのだ。それに光太朗の脚にも触ってみたかった。ボタンの位置を探しててのひらを腰で広げると、熱気をおびた光太朗の脹らみに触れて、ちょっとしたショックを受ける。
 彼等の関係の中では、自分のそれを見せ合ったり、形の話をしたり、よくあるようなそういうことはなかった。悟も、もしかすると光太朗も、そういう話が苦手だった。だが、他の友達とはそれほどではない。お互いに意識していたから、ただの身体の話なのに、神聖な話のように口にしないでしまっておいたのかもしれない。そろそろと上を撫でると、光太朗は苦しそうな息を吐いた。それがほんのちょっと鼻にかかって抜けるのが、悟を興奮させた。
 やっとボタンをはずすと、トランクスの中で、光太朗の身体の一部は思った以上に熱く、張りを持ち始めていた。こんなことをして大丈夫だろうか。そう思いながら悟は光太朗を下着の隙間から引き出した。きっと、今日しなければこの先も勇気が出ないような気がする。握られたショックで少し揺れた背中を左手でさすり、悟は顔をそこに伏せた。少しだけ汗の匂いのまじった、光太朗の体臭が鼻をくすぐり、悟の舌は熱く、まだ乾いている光太朗の表面を滑った。
「あっ」
 光太朗が驚いたように身を捩り、かすれた叫び声を上げた。
「何、やってんだよ────」
 泣きそうにゆがんだ声。だが、そこに戸惑い以上のニュアンスがないのは何となく分かる。少なくとも嫌悪感ではなさそうだった。何やってるかなんて、答えられないよ。胸の中でつぶやく。思い切って先の方へ唇ごと移動する。先に好きだ、と云えばよかった。そう思って悟はいささか自分にあきれる。光太朗をどんなに好きなのか、話してから裸に触れるべきだった。
「────」
 だが、上の方から、半ばヤケになったような、ちょっと恫喝的な、光太朗のささやきが聞こえてきた。鼓膜の上に蜂蜜のように流れこんで、他の音を閉めだしてしまうような、甘いキーワードが、確かに光太朗の唇から漏れたのだ。
 先に光太朗が云う。それが自分達の間では自然なのかもしれない、と悟は思う。またずるいと光太朗は云うかもしれないけれど。
 そしてほんの少し前まで、キスさえろくにしたことのない唇を、光太朗の腰に埋めた。


「前にお前が、部活やれよって云ったとき」
 光太朗は、ジーンズを引き上げながらうつむいて云った。ベッドの裾の方に座って、悟はぼうっとしながらパジャマに袖を通していた。目の前で細い足がふらついた。悟が味わった目の眩むような快感と引き替えに、光太朗が汗びっしょりになるほど痛い思いをすることになったからだ。
(「俺、替わろうか」)
 真剣に云ったのに、光太朗は、
(「うるせーよ、虚弱体質」)
 そう云ってぐっと目を閉じてしまった。怪我など殆どしたことのない彼に傷を負わせるというのは、酷く不快なインパクトがあった。身体を離すまで、血が流れていたことを知らなかったのは悟にとって幸いだった。痛みにこわばった光太朗の中はやはり光るような熱でうねり、悟は自分が骨まで溶けてしまうと思った。大きく開いた裸の脚はどんどん温かくなり、悟の背中や腰を滑り、身体同士が揺れるたびに小さくはね上がった。
「え?」
 言葉を切ったままの光太朗に、悟は腰のあたりが頼りなくなったような、甘い余韻からやっと覚めて、彼を見上げた。
「俺、かなりむかついたよ。あの頃、週三くらいここに来てただろ。部活なんて出来るかっての」
「じゃあ、光太朗が部活やらなかったのって」
 悟はその先を云えなかった。光太朗も云わなかった。光太朗の生活にそんな影響を与えていたのだろうか。よりによって自分が。悟は、Tシャツをかぶる綺麗な背中を見つめながら茫然とする。
 カーテンだけを開けた窓から、弱い街灯の光が入ってきて、光太朗の身体のラインをモノクロに浮かび上がらせている。
「光太朗、帰るの?」
 我ながら情けない声を出したと思う。
「当たり前だろ」
 あきれたように光太朗は彼を見た。だが、口元がかすかにほころび、今日はずっと笑顔のなかった光太朗の白い歯が覗くのが見えた。
「身体、大丈夫?」
「いちいちうるせえな、大丈夫だって」
 すんなりした身体は、申告通りにのびやかに立ちあがった。さっき戸締まりした窓を開け、わっと身体を凍らせるような寒気の中に、大きめのジャケットの下の身体をちょっとすくめながら出て行く。
「光ちゃん」
 一歩追い掛けて外に出ると、ぴりぴりしたような寒さが悟の身体を包み込んだ。汗に濡れた体が走るように冷えて行く。
「光ちゃんって云うな」
 また、むかむかしたように光太朗はささやく。そして、少し優しい声でつけ加えた。
「風邪引くなよ」
 少し前に血を流したばかりの光太朗に、乱暴にいたわられて、悟は赤くなった。つまり、どんなことになっても、光太朗と自分の位置関係は変らないのだ。それは彼をこころから安心させる事実だった。
 さっきよりだいぶ優しく光太朗の指が悟の指を握り、目を伏せた彼が伸び上がってきた。夜の庭を見下ろしながら、濡れ縁の板を踏んでキスした。今度は云うなりではなく、悟は顔を傾け、自分からもそっとそのキスに加わった。ぱっと甘いエネルギーが充ち、光太朗の温かさに照らされて、悟まであかるく染まるような気がした。
 ぐっと握り返そうとした悟の指から、少しだけ小さい光太朗の手は逃げてゆき、彼は急ぎ足で靴を履いた。真夜中のガスに薄くかすんだ庭に下りると、手櫛で整えた髪が弾んだ。月も星も見えない夜の中に、灯りを点したようなあかるさを、髪や、白い素手にきらきらさせながら、光太朗は自分が塀を越えてやってくるときの、定番の位置にすべりこんだ。
 するりと塀の上に身体を引き上げる。いつもは玄関に回って帰るのに、ダメージがないことを誇示するように、身軽に塀の上から滑り降りた。おやすみの挨拶の一言も、光太朗は云わなかった。
 そうして、濡れ縁の上で彼を見送った悟は、肌を刺す寒さの中で顔を火照らせた。
 光太朗が彼の下でささやいた言葉を思いだしたからだ。それは後藤亜美が云ってくれた言葉と同じなのに、まるで違った言葉に聞こえた。
 罪悪感と甘さでいっぱいになりながら、悟は窓をそっと閉めた。
 頼りない蛍光灯に照らされてた貧弱な庭の木々が、今夜はひどく美しく見える。光太朗の気配がまだそこに残っているのだ。
 彼が今夜はもうやってこないのはわかっていたが、鍵はかけなかった。

                                      了

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