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ウィンドシアー(2000年)

12 13 *2018 | Category 二次::幻水2ルック

なぜか好きだったフリック×ルックです。

続き










 突然何かが弾けたような気がした。
 フリックは、剣をふるう手を止めた。敵の剣が頬をかすめる。陽光を浴びて、自分を切りそごうとしたその刃が目をつぶして輝くのが見えた。思わず閉じた目の中で、刃の一閃したそのままの形に、あざやかな緑色の残像が焼きついた。
 経験がかろうじてそれを受け止め、フリックは横なぎに剣を払った。戦場で幾度も自分を救ったオデッサが、てのひらになじんだなつかしい剣が、敵を切り裂いて、血しぶきを上げるのが見えた。
 ルルノイエが落ちる。
 その楽観的な思いが、長い戦いに疲れた同盟軍の兵士たちに活力を与えていた。
 かつて、都市同盟の大きな拠点のひとつであったミューズは、多大な犠牲をはらって彼らの手に戻った。それは同盟の決定的な勝利を暗示している。そして、厚いヴェールの向こうに隠れていた皇都ルルノイエの城門が、彼らの目前に開かれようとしている。
 ハルモニア神聖国の様式を最も色濃く受け継ぎ、血で城門を塗り固めてきた皇帝の末裔たちの棲む都だった。
 兵士たちの士気も揚がらぬはずがない。
 おおよそは素人を寄せ集めた都市同盟の兵士たちだが、それぞれが勇猛果敢に、鍛え上げられた王国軍兵士たちと切り結んでいる。
 しかし、フリックの隊は既に崩れかけていた。遠く、本隊の旗が赤くはためくのが見える。暑い午後だ。戦場は、蒸した大気と、かげろうのようにたちのぼる、兵士たちの熱気に包まれている。
 あの旗の下では、今もナナオが戦っているだろう。あの無口な少年は、特に戦場で、驚くほどの力を発揮した。屈強な男たちが次々と倒れても、ナナオは両手に握った武器を取り落とすことはなかった。矢も刃もまるで彼をよけてゆくように、滅多に傷つくことすらなく、ナナオは少女のように小柄な体で兵士たちの間を縫って駆けてゆくのだ。
 ナナオの姿が消えたと思うと、彼は敵の隊の大将を仕留めにかかっていることが多い。小蛇のように隙間からすべり込んで、心臓部に達する術を心得ている少年だった。
 そして敵を首尾よく倒しても、功を味わうでもなく、再び戦いの場を求めてナナオはすり抜けてゆくのだ。
 その日の戦いを終え、少年の姿の将軍を求めて、血煙と煤煙の晴れた跡に目を凝らせば、ナナオはいつも静かにたたずんでいる。息も乱さず、深い、何もかも飲み込んでしまいそうな黒い瞳を、熱気にゆらめく地平線に据えている。ナナオが生き残ったという安堵と共に、どこか奇妙な畏怖心を呼び起こすその光景、しんと胸の冷える、儀式のようなそのさまを、フリックは何度見いだしたことだろう。
(おれはこんな時、何を考えているんだ)
 フリックは時々、こうして戦場で切り結んでいる時、突如として現実感を失ってしまうことがあった。
 自らの四肢が戦うさまを他人のことのように横から眺めているような錯覚があるのだ。芒洋とした思いのふちにとらわれて、霧の中から下界を透かし見ているような、そんな心持ちになる。
 それはオデッサを失って、赤月帝国が崩壊したあとからのことだった。オデッサは、帝国の貴族の娘でありながら、反帝国の解放軍のカリスマ的存在だった。ゆらめく炎のような金の髪と青い瞳を持った若い娘だった。
 彼女は熱病のように自分を崇拝するフリックの思いを受け入れ、恋を共有してくれた。しかし、金の足で地上を踏む太陽の娘のように、死ぬ最後の瞬間まで、フリックにはどこか手の届かない、まぶしい存在だった。
(「フリック、あなたは欲がなさ過ぎる。それはよくないわ」)
 オデッサの瞳が、彼の脳裏で青く煌いた。
(「欲がなければひとは戦ってゆかれない。生命欲、名誉欲、何でもいい。何かしらの欲は必要なのよ」)
 その頃のフリックは、今よりもはるかに潔癖だった。
 彼は愚かにも、オデッサから欲という言葉を聞くことそのものを嫌ったのだった。
(「そんなことを云うなんて、オデッサ」)
 彼は非難を込めて、崇敬する恋人に抗議した。
(「生きてゆく欲がないひとに、どうすれば独立した国が作れるかしら。のし上がり、這い上がって行こうという気持ちなしに、それが出来るほど人は強くはないわ」)
(「君の口からそんな言葉を聞きたくないよ、俺は」)
 彼はかたくなに云い放った。
(「わたしをどんな女だと思っているのかしら、フリック。無欲でも完全でもない。わたしをそういう目で見るのは、帝国を奉じる気持ちと同じ」)
 フリックは気持ちを傷つけられて、まさしく彼の奉じる、金色の女神を見下ろした。
(「帝国と一緒だって?」)
(「価値が変わっても、価値観を変えずに盲信する心が、帝国主義を生むのよ」)
 彼の最愛の人は、彼の目をまっすぐに見つめて、残酷なほど明解に云い放った。それは金色の矢となって、フリックの胸の深くの暗部を刺し貫いた。
(国なんてどうでもいい、俺はただ、君さえいれば)
 確かに自分はその頃、どこかそう思っていた。オデッサと共に戦いながら、嫉妬や独占欲、凝り固まった幼い理想の小籠の中にうずくまっている自分を、その言葉は深々と刺したのだった。

 そして再び戦場が戻って来る。
「ひるむな、馬の足から切り崩せ! 本隊にやつらを近づけるな!」
 戦いに没頭出来ていないのとは裏腹に、自分の喉から枯れることのない叫びがほとばしるのを聞く。フリックは、こうして、鍛え抜かれた自分の体に助けられてきた。
 凶々しい獣をかたどった赤い紋が、王国軍の兵士たちの握る銀の剣のつかに、盾に輝いている。喉が乾いて焼けつく。疲労が、かえって体中の神経が冴え渡らせている。うしろにも目がついているように、周囲の兵士や、自らの配下に戦う者共の気配を読み取ることが出来るのだった。
 先刻ツァイが負傷し、火炎槍術者の指揮もフリックが取るかたちになった。火炎槍は二度用いて、王国軍の中隊に打撃を与えたが、しかし大将の首を挙げるには至らなかった。
「火炎槍は後方に退け! 槍操術者は、火炎槍の防護に徹せよ!」
 フリックは叫んだ。彼が部下の体勢をたて直そうとするのと同じように、王国軍中隊の指揮に立つ男が、火炎槍の攻撃に崩れ駆けた兵をまとめている。彼らが再び護りを固める前に打って出るべきだ。幸いこちらは優れた紋章術者を多く擁している。
「紋章術者、前へ! やつらは崩れ始めてるぞ、でかい炎を浴びせてやれ! 歩兵は術者の盾になれ!」
 波が起こる。
 フリックに任された兵たちが、彼の手足のように大きく動いてうねり、大波と化して敵陣へと流れ込んでゆく。きらめく剣や、重いはがねのぶつかりあう火花や、青々と輝く空がフリックの視界でうず巻いた。白い火花が世界の全てになってしまったように、天も地も光にうずまった。
 しかし気づくとまた、暗い虚無が、誘惑する蛇のように、彼の心を巻き締めるのが分かった。
(おれはここで、何をしているんだ?)
 いったい何のために。
 そんなことを考えている場合でないと知りながら、剣をふるって、みずから敵の中に飛び込んで行きながら、フリックのなかで、月の夜半球のように虚無が覚醒している。
 彼の視界の隅で、獣のような咆哮をあげながら、ゲオルグ・プライムが鬼人のようなその剣をふるっている。
 ゲオルグの握る重い長剣は、一度に数人の敵を枯れた葦のようになぎ払いながら、確実に敵将の元へ切り込んでゆくのだった。
 かつて、三年前の赤月帝国との戦いで、フリックは彼と剣を交えたことがある。六大将軍のうちのひとりであったこの男は、あの時は解放軍にとっての最高の脅威であった。解放軍はゲオルグ・プライムの剣に、虫けらのように叩きつぶされて死んで行ったものだ。
 その男と今こうして、轡を並べて戦っているのだ。
 そして敵方には、解放戦争では自分と共に戦ったレオン・シルバーバーグが。
 そして、王国の中枢に食い込み、皇女と婚姻して皇王となったナナオのかつての友人、ジョウイ・ブライトがいる。ジョウイが、瞬く間にハイランド政界の中枢の隙間に滑り込んで行った狡猾さと、ナナオが、戦場で敵陣を縫ってゆくなめらかさとは、どこか共通して思える部分がある。
 氷のような蒼い瞳をまたたかせるあの金髪の少年は、皇王となった今、前線に出ることはなくなった。ナナオの胸の痛みも少しは和らぐだろう。そして目前に落ちようとしているルルノイエの中に、ジョウイはいる。
(おれはこんな所で何をしているんだ?)
 再び、電流のように疑問が突き抜けた。
 オデッサが死んだあと、どの国に自分の思想を捧げることも出来ず、しかし剣を捨てることも出来ず、ビクトールと共に傭兵の砦を築いた。
 理想に燃えて闘った自分の心は、オデッサの死と共に半ば死んだ。戦場ですら、こうして自分の心が死んでいるという虚無感が押し寄せて来る。
 しかし戦わなければ死ぬ。そして彼の四肢はせわしなく動き、突き、払い、刺して、理想を抱いて闘っている者らと何らの変わりもなく、他者の命と引き換えて、自分をいかしている。
 おそらく自分は、死にたくないと思っているのだろう。
 心は半ば死んでも、何とひとの体はあさましく逞しいものなのか。
 フリックは、自分の心を覗き込む、ひとつの巨きな目に変わってしまったように、頭上から、虚しく自分自身の姿を見下ろしてそう思った。
「フリック殿……!」
 彼の側で戦っていた女戦士が膝をついた。
 反射的に呼んだようだった。彼は覚醒し、彼女に覆いかぶさるようにして切りかかろうとした王国軍の兵士を切り捨てた。オデッサに衝撃が伝わり、彼の力が男の首を骨ごと断ち切ったのが分かった。相次ぐ戦いに、さすがに切れ味が悪くなっている。紋章術者たちの魔力もそう長く持つものではない。これからはだんだん力任せに戦わねばならなくなるだろう。最も集中力と体力を要求される時間がやって来る。
「しっかりしろ!……」
 彼はかがんで、女を抱え起こした。肩の下をつらぬかれたようだ。鎧の上にまで血が染み出している。肺に届いているようだ。女戦士は息が出来ないように背をひきつらせていた。この場から連れ出してやらなければこの女は死ぬだろう。彼は女の名前を呼んでやろうとして、とっさには名前が思い出せないことに気づいた。彼は突然の傷の痛みに冷えた女の頬を叩いた。
「目を覚ませ、死ぬぞ!」
 この女を連れてここを離れるなどというのは論外だ。彼に任されたこの隊は崩れかけているとはいえ、兵士たちが半ば以上健在で剣をふるっているのだ。
(見捨てるか? いや、少年兵がいたな)
 ナナオと同じくらいの年の少年が近くにいた筈だ。
 あの少年にこの女を連れ出させよう。
 そう思ってフリックは後ろをかえりみた。
 その途端、少年の首が地面にあおのいているのが見えた。それは涙ひとつ流さずあっけなく幼い胴と離れ、青空を向いて無心に黙りこんでいた。その上に、王国軍の兵士が折り重なって倒れている。
 フリックの中で、再びうつろな瞳がまぶたを上げた。
 それはぐるりと動いて四方を嘗め、地平線を見えないほど覆いつくす、赤く濡れた人々の群れを眺めた。
(おれは)
(ここで何をしているんだろう?)
(オデッサ)
(おれは何をしているんだ?)
「何をしてるんだ!」
 銀色の光が走り、それが敵の刃だと気づく間もなく、血煙と共に、その刃を握った男の腕がけし飛んだ。
 目の前に、こめかみから目尻にかけて、いまだ乾かない矢傷を受けたルックが、右手にガストロッドを手にして浮かんでいた。足も傷ついている。フリックの腰の高さほどの位置に浮かんだルックの、履き物のくるぶしの位置が血に染まっている。ルックは傷を庇うため、魔力で自らの体を浮かばせているようだった。
 あるいは、魔道士を集めた自分の隊の、接近戦での弱さを知った上で、敵の注意を自らに引きつけるためでもあるのかもしれない。
「お前、どうして……」
 フリックは、茫然としてつぶやいた。
「それはこっちの台詞だ。……何をぼうっとしてるんだ、あんた」
 ルックは眉をひそめて叫んだ。
「集中出来ないなら後陣に下がれ!」
「……そうは行くか!」
 フリックは正気に戻って怒鳴り返した。
 この少年の目が並み以上の広さに届くといえ、一目で見抜かれるほど自分の心は戦場を離れていたのだろうか。
「生きてるのか?」
 ルックは、フリックの足許に倒れた女戦士を見下ろした。
「ああ、運びだせば助かるが……」
「すぐ後ろにホウアンの部隊が来てるんだ、今すぐ送ってやる」
 ルックはロッドを手にした右手を掲げて呪文を唱えた。
 薄青い質感を持った、ぶ厚い風の膜が女の体を包んだ。それはいつ見ても信じ難い光景だった。風は物理的な安定感をはらんで、女の体を高くひきずり上げた。空中に青い円が現れ、女の体がその中に吸い込まれる。
 そして、彼の風の魔法特有の、裂くような音と共に円はかき消えた。おそらく回復の紋章を司るホウアンの部隊に、正確に送り込まれたことだろう。ルックは目が痛むように目をしばたたいた。 
「目をやられたのか」
「大丈夫だよ」
「治しておかなくていいのか?」
「この程度の傷で紋章力を消費出来るか。ばかばかしい」
 ルックは吐き捨てて、フリックをねめつけた。青みがかった灰色の瞳が燃えている。
「何を迷ってる? あいつらはあんたが半身みたいに思ってた、大事な女を殺した奴らなんだ、ぼんやりしてないでさっさと叩きのめせよ!」
 少年は息をあげ、目尻の傷から血が目の中に流れ込んで来るのをかばって、額をてのひらで覆った。
「あいつらが?」
 一瞬虚をつかれた思いでフリックはつぶやいた。
「あいつらは違う……」
「違わないさ」
 空に浮かんだルックは、額を押さえていた手を伸ばして、むち打つようにフリックの顎をとらえた。少女のように華奢で冷たい、血の匂いのする指が、フリックの顔を、敵陣の輝きに振り向かせた。
「同じさ、目を開いてよく見ろ、青雷のフリック」
 少年の声が低く耳元に囁きかけて来る。
「あいつらは血筋を護り、城を作って、全ての利潤を山頂に吸い上げる。国を支える民は踵の下に押さえ付けて、下足代わりに使い、弱れば切り落とし、自分たちの飼う獣に食わせる……あげく、反乱が起これば知識人を殺して国の未来を荒らす。……同じさ、フリック。やつらは権威の毒を持つ者だ。いつも大勢で風上に立って、風を腐らせるんだ」
 ルックの瞳は銀色に燃えてフリックの胸を射抜いた。そこにはなまなましい哀しみさえ垣間見えるようだった。
「貴族の血筋に生まれても、頭の切れる者、正義に聡い女なら耐えられなくなる。そうやって昔、あんたの恋人は、その兄は、反旗を翻したんじゃないのか? フリック、あんたは本当に、あの女の志が死んだと思ってるのか?」
「ルック、お前……」
 自分の心を何故、この少年がそれほど正確に読み取っているのかが理解出来ずに、茫然としたフリックの背後から、敵兵が数人寄せてきた。
 無論フリックの顔を敵兵も見知っている。彼の首を取れば、この部隊は根こそぎ崩れるのだ。
 その瞬間、ルックの右手から、銀色の結晶のようなものを含んだ風が巻き起こった。一体どんな魔力をほどこしてあるのか、それは味方の兵をよけ、神の息吹のように数十人の敵兵を舞いあげて地に叩き付けた。
 ルックは右腕をあげるのも痛むように眉をひそめ、しかし風に耳を澄ませるように一瞬沈黙した。
「ジーンが苦戦してるな。僕は戻る。……」
 身を翻しかけて、魔道士の少年はもう一度振り返った。
「……戦いの最中には寝ぼけるなよ、フリック。それから、そろそろあんたの紋章を使っていい。本隊がシードの部隊に迫った。ルルノイエはじきに落ちる」
 そう云い残して、彼の姿は聞き慣れた風の唸りと共に、一瞬にしてかき消えた。

 それから半時も待たずにルルノイエの城門は開かれた。
 シードとクルガンは城内に退却し、生き残った王国軍兵士たちがルルノイエの城門を護って戦ったが、怒りと恨みをはらんだ、都市同盟の兵士たちの勢いは増すばかりだった。
 正午過ぎに城門は開き、光の中にその入口がさらけ出された。
 ナナオは傷一つ負わずに、城門の前に立っていた。彼の両親は東方の国の人間なのだろう、その柔らかな黒髪を、ハイランドの真昼の日差しとそよ風がなぶっている。
「……どうする、ナナオ、このまま突入するか?」
 ビクトールの言葉に、ナナオの軍師、シュウが代わって応えた。
「そうすることになるだろう」
 小柄なリーダーを彼は見下ろし、ナナオの疲れを慰撫するように低くささやいた。
「ナナオ殿、時は熟しました。誰を連れてゆくかをお選び下さい」
 ナナオはしばらく沈黙した。
「……シュウ」
 ナナオは低くつぶやいた。汗ひとつ浮かべていない。真っ黒な長い睫毛を伏せて何か考えているようだった。
「その前に、兵が散らないように、周辺の村で略奪することがないように、指示を出してきてほしい」
 シュウは愛しげに目を細めた。この天才肌の能弁な男が、ナナオに傾倒するさまは不思議なほどだった。
「承知しました」
「それから、突入前に一時休ませてほしいんだ。……ルックが怪我をしているから」
「ルックを連れて行くのですか?」
 シュウは驚いたように眉をひそめた。
「彼は紋章力をほぼ使い果たしています。怪我も重い。今のルックにはルルノイエ城突入は荷が重いかと」
「一時休めば紋章力は回復するだろう……」
 ナナオはゆっくりとつぶやいた。
「駄目だ、彼ははずせないよ、シュウ。……敵の魔力のことを思えば、メイザースとルック、それにシエラさんには行って貰わなければならないと思う。ジョウイと戦うことになるかもしれないから。……間近にあの、『黒き刃の紋章』の威力を見れば……」
 ナナオはそれ以上は云わなかった。シュウは切れの長い黒い瞳に、珍しい困惑をひそませて、ビクトールをちらりと眺めた。先刻ルックは倒れたのだ。今は近くに張った天幕で休ませている。
「傷の回復は後で僕が。……」
 ナナオはシュウの顔をあおいだ。何の感情も動いていないように瞳は凪いでいる。
「でもルックには同行して貰うよ、シュウ。それからメイザース、シエラさん、ペシュメルガ、ゲオルグ、……それにビクトールとフリックも、行ってくれるだろう?」
 ナナオは静かに目を上げて二人を見た。
「……もちろんだ、ナナオ」
 ビクトールは疲れを知らないように明朗に笑って、任せておけ、というように胸を叩いた。フリックもうなずいた。むろん彼にも否やはなかった。
「マイクロトフとカミューには、騎士団の中から、腕の立つひとを二、三人ずつ選んで同行してほしい。……」
「はい」
「それからバレリア将軍にも協力してもらえるように……」
 シュウはうなずいた。
「承知しました。全てお任せ下さい」
 ナナオは静かにうなずいた。そして後は無言でその場を立ち去った。
 ルックの傷をいやすための紋章力は、少し休まなければ、ナナオにも戻ってこないだろう。
「俺は、あいつらをまとめて伝令役をして来る。フリック、ルックに伝えてこいよ」
 ビクトールに促されて、彼はかすかにいぶかしんだ。
「……どうしておれに?」
「お前も怪我してるからだろ、天幕でホウアン先生に診てもらえ」
「……ああ、そうか」
 フリックは血で滑るてのひらを見つめて、得心がいってうなずいた。腕を浅く切られた血が手首を伝って、てのひらへ流れ込んで来るのだ。
 この程度の傷なら、ナナオを煩わせるまでもない。
 彼は、濃い青色の布で作られたホウアンの天幕に入った。ホウアンの薬草の香りが漂っている。炉が設けられて湯が沸かされ、幾つかの鍋で薬草が煮られているのだ。
 ホウアン医師は、天幕の中にいなかった。いつもおだやかだが、タフで倦むことを知らないホウアンは、天幕に運び込むことの出来ない患者を見に行ったのだろう。
 天幕の中には既に傷の重い数人の男が寝かされており、皆が、ぐったりと目を閉じていた。疲れ果てているのだろう。戦いに勝った喜びと興奮は、この天幕の中までは伝わってきていない。
 ぐるりと見渡すと、隅に敷かれた毛布の上に、ルックが横たわっているのが見えた。
 この、ひどく口の悪い、強大な魔力を持った少年が、たった十七歳だということを誰もが忘れていることが多い。それだけ彼の力は頼られており、且つ、彼はひとに弱みを見せようとせずに自信たっぷりだからだ。
 ルックはいつも身につけている長衣を脱がされて、額に濡らした布をあててあおのいていた。ほっそりと痩せた腕や胸元が毛布から覗いている。
「ルック」
「……あんたか」
 不機嫌な声が返ってきた。
「ナナオが、ルルノイエ突入についてきてくれってさ」
「ああ、そう。……別にいいけど」
 戦場で見せた激情を覗かせもせずに、ルックは皮肉っぽくつぶやいた。だが声がかすれている。彼がかなり血を流したことがうかがえる。
「腫れてるな、傷が」
「まあね」
 ルックは珍しくため息をついた。
「見えにくいんだ」
「ナナオが後で来るってよ。傷を治してやるって云ってた」
「……また、あいつはそんな無駄遣いを」
 ルックは苦笑したようだった。 
「ナナオは無事?」
「無事だ。ぴんぴんしてるよ」
「そう。……」
 ルックは腫れていない片方の目を天幕の天井に据えて、何か考えている様子だった。
「あいつ、戦えるのかな……」
 やがてそう云った。
「ジョウイとか?」
「そう。揺れてるからね……」
「分かるのか?」
「分かるよ」
 分かるのか。あの黒い瞳の奥で揺れている何かが。
 フリックには分からなかった。
 ナナオは、ことにナナミが死んで以来、まるで心を殺してしまったように静まり返っていた。彼はオデッサが死んだ時のフリックのように誰かを責めるわけでもなく、怒りに身を震わせるのでもなく、静かに眠り、起きて戦場に出た。
 彼の心を示す言葉や表情は一切なかった。
 フリックは、薬草と包帯を持ちだして、湯で傷を洗った。神経にまで届く傷ではない。関節からも遠い。戦いに支障はないだろう。
「なあ、ルック」
「……」
 何を云い出されるのかに気づいたように、ルックは応えなかったが、布に隠れていない目がちらりと動いてフリックを見た。
「さっきは有り難うな」
「……」
「目が醒めたような気がする」
「礼なんて云う必要ないよ、あんなに大声で叫ばれてちゃ、うるさくてかなわなかっただけだ」
 ルックは無愛想に答えた。瞳は疲れたように少し曇って、あの銀色の閃光のような光は見られない。
「大声で?」
「僕に読心の力が少しあるのは知ってるだろう?……風が吹いてると聞こえて来ることがあるんだ。僕が望むと望まざるとに関わらず、迷惑にもね」
 それで自分のところにやってきて叱りつけたのか。フリックは奇妙な感慨を抱いた。しかし、それもすでにルックらしからぬことではないだろうか。
「ナナオのもか?」
「そう、ナナオのもだ。……ナナオのはかなり強い」
 ルックは目を閉じた。
「あいつは普通じゃないよ。……眩暈がする」
 風がやめばやむんだけどね。
 そう云って、ルックは押し黙ってしまった。喋り過ぎたと思っているようだった。実のところ、フリックはルックに読心の力がそなわっていることを知らなかったのだ。あのレックナートに師事しているならばそれも不思議はないか。
 妙な衝動が込み上げてきて、彼はかがみ込んだ。
 ルックの血に汚れた前髪をかき上げ、冷たく汗ばんだ額にくちづけしたのだ。
「!」
 ルックが驚いたように目を見開くのが分かった。そうしたことで痛みが走ったようで、肩を震わせて顔をしかめた。
「何のつもり?」
「さあ……」
 フリックは自分自身困惑して、ルックを見下ろした。自分の唇に苦笑が乗るのが分かった。オデッサが死んで三年、誰にも与えなかった口づけを、何故この少年に捧げたのか、自分でも分からなかったのだ。
 分からないまま再びかがみ、ルックがぎくりと身を揺らすのをやんわりと押し止めて、今度は頬に口づけした。
「早く治るように、まじないかな」
 そうささやくと、ルックはあきれたように顔を歪めた。しかし、やがてほろ苦く微笑した。
「ここまでバカだとは思わなかった。……」
 フリックは笑って立ち上がり、ルックの毛布を肩まで引きあげ、額の布を取り替えてやった。
 そして、彼と、彼の仲間を護ってきた、オデッサの頼もしい感触を腰に確かめ、剣の手入れをするために天幕を出た。
 ルックはひとことも云わなかったが、さして腹を立ててもいないようだった。
 天幕の外は、埃を含んだ強い風が吹き荒れている。フリックは耳を澄ませてみた。
 しかし風は、当たり前のことながら、彼の耳には何も届けない。自分は、風に誰の声を聞くこともなく、ただ自分のために闘うしかない。
 そしておそらくそれは好運なことだ。
胸の騒ぐような午後の光の中で、フリックは、黒い瞳の少年の心に開いた深い穴と、そこを吹き抜ける風を思った。風そのもののような、銀青色の瞳を思い浮かべた。
 再び耳を澄ませる。
 今度は彼の耳にもあきらかに、高揚した兵士たちの声が届いた。
 彼は微笑して、沸き返る陣営に向かって足早に歩いて行った。
                                                        了。

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