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01 02 *2023 | Category 二次::幽遊・幽×蔵他(蔵馬中心)

シリーズ1本目(11本つながっています)
続き









 事の始まりは、いつも窓から覗きこんで用を済ませてしまうぼたんが、電話などかけてきたことからだった。高校に上がっても女の子から電話がかかって来る機会は滅多になかったから、母は心なしかいそいそと取り次いできた。
「ああ、あなたですか」
 名前を云われなかったと云う母の前で電話を取った蔵馬は少し笑った。ぼたんのきっぷのいい声が流れ込んで来る。
 この間の地獄団地での件があったから、後は暫くのんびりしていてもいいという霊界からの伝言である。
『なんか蔵馬にも飛影にもつまらない事で手間かけちゃったね。幽助も桑原君もそりゃ助かっただろうけど』
「そんなのはいいですよ。あの二人どうしてますか?」
 思わずそう聞き返す。
 電話の向こうのぼたんは闊達に笑った。
『桑原君はね、すぐに普通に動けるようになったみたいだよ。あの回復力には恐れ入るね。でも幽助はあの後余計ひどくなって今寝込んでるんだ』
「幽助が? まだ寝込んでるんですか?」
『そうなんだよ、おまけにまた温子さんは幽助おいてふらっとどっかに出かけちゃうし。螢子ちゃんは例の事件の後だからお母さん達が家から出さないしで、あたしが何回か幽助のご飯作りに行ったんだけどね』
「温子さんって、……幽助のお母さんかな? 出かけちゃったって用事で?」
『用事なんかじゃないんだよ、あのお人はさ』
 ぼたんは電話口で仕方なげに笑った。
『どうもそういう人らしいよ。にっくめないひとだけどね。とにかく、でもあたしは今日からコエンマ様の御用事で出かけなきゃいけないしで、幽助が飢え死にするんじゃないかって心配だよ』
「飢え死にはしないでしょうけど……」
『まあそうだね。あんたもその気があったらお見舞いにでも行ってくれない? 電車で真面目に行っても一駅か二駅だろう?』
「そうですねえ」
 蔵馬は全体的に付き合いのいいタイプである。幽助のマンションのありかは知っている。初めて会ったすぐ後に様子を見に行った。
 見舞いまではどうだろう、と思いながら電話を切ると、母が台所から顔を出した。
「ユウスケくんって友達なの、秀一」
「……うん、まあ」
「病気なんですって? ごめんね。電話が聞こえてたんだけど」
「そうなんだ。……風邪で寝込んでる所に、お母さんが用で出かけちゃったらしいよ」
「あら、大変じゃないの」
 南野の母は、いかにも母親らしい心配を始めた。
「お母さん、泊まりがけでお出かけなの?」
「うん、たぶん……そうなんじゃないかな」
「この近所なの? おうちは」
「K……の方なんだ」
「じゃあお見舞いに行ってあげたら? 頂度今日ね、おかずたくさん作ったから、持って行ってあげるといいわ。もし向こうのお母さんがちゃんと作り置きしてるようなら持って帰って来ればいいし」
 蔵馬は、母の科白を聞きながら暫く考えた。風邪にしろ霊力の衰えにしろ、食事はまともにした方がいいに決まっている。ぼたんも食事の心配をしていたから頂度いい。
「そうだね。ありがとう母さん」
「秀一が、名前呼び捨てにするような友達って、最近あんまりいなかったんじゃないの?」
 母は、いそいそと台所に戻って行きながらそう云った。蔵馬は一瞬面食らった。幽助を名前で呼んでいるのは、まるで無意識だったのだ。母は昔から、周囲ともうひとつ交わろうとしない息子を気づかっているのかもしれない。
(そんなことで心配させてるとは思わなかったな……)
「高校の友達?」
「……そうじゃないんだけどね」
「仲がいい子なの?」
「……まあ、そこそこに」
 彼は、霊界探偵を名のって自分の前に現れた中学生の顔を思いだしながら、彼が自分に取ってどんな存在なのかを、きまじめな顔で一考した。しかし、彼と自分は名前をつけられるほど深い間柄ではなかった。
 強いて云えば、好意を持った知人という感じである。







 南野秀一こと、元妖狐蔵馬が、南野の母親の心づくしのタッパーを幾つか入れた紙袋を提げて、浦飯幽助のマンションを訪ねたのは、午後の三時過ぎだった。
 寒い日である。エレベーターを出ると一気に息が白くなった。蔵馬はどちらかというとあまり寒いのが得意なタイプではない。暑いのを我慢する方がずっと楽である。体温が低いせいもあるだろう。
 彼はかすかに肩をすくめるようにして、幽助の部屋のチャイムを鳴らした。
 一度、二度と押したが返事はない。幽助のことだから、一日の間に回復して遊びに出かけてしまったという事もあり得る。
 持って来た料理のせいもあって、今日はぼたん風に云えば『真面目に』徒歩で来たのである。向かいのビルの屋上から眺めて確認するという訳にも行かなかった。
 彼はそっとノブを回してみた。回る。鍵をかけていなかった。ぼたんなら鍵をかけ忘れて帰るという事はまずない。少なくとも幽助が出かけて帰ってきたか、彼の奔放な母親が帰ってきているかどちらかだろう。
「こんにちは」
 奥に声をかける。居留守を使っているのでもなさそうで、人の気配はあるのだが、どうやら眠っているようだ。母親はやはり留守らしい。
 なら、料理とメモを残して帰ろう。
 彼は、キッチンのテーブルの上に紙袋を置いて、静かに奥に入って行った。向こうは女の子ではないのだし、顔を見て帰るくらいはさしつかえないだろう。
 西側の部屋が幽助の部屋である。彼はそれも知っていた。
 入っていくと幽助はやはり眠っていた。
 蔵馬は少し驚かされて、その幼い寝顔を見下ろした。髪をおろした幽助の顔を見るのは初めてだったのだ。
(……こんな可愛い顔して)
 彼は吹き出しそうになった。改造学ランやら剃りこみの入った髪型やら、あのハスに構えたポーズの陰に隠れていて今まで分からなかったのだ。
 少年というよりは子供に近い印象である。
 傾き始めた西日に照らされて、ほんの少し赤く染まった顔を見下ろしていると、複雑な気分になった。この可愛い顔をした小さいのが、恐ろしく強いのである。
 そしてたぶんまだ強くなる。
(人は見かけによらない)
 しみじみと思った。尤も妖怪たちにとっても、外見というのはたいした問題にならない。
 一年ほど前に知り合った飛影は、外見上はまるで子供同然の姿だった。しかし体内に秘めた暗鬱なエネルギーの大きさは、外見から想像出来ないほどだ。ある程度力を持った妖怪なら、外見上の年齢くらいは自分の思った通りに調節することが出来るから、飛影が実際にどの程度の年齢を重ねているのか、蔵馬は知らなかった。もし、見かけほど若くないのだとしたら、何故彼が少年の姿を保っておこうとしているのかも分からなかった。もっともそんな事を詮索しようものなら、あの気難しい妖怪の気分を損ねることは火を見るよりあきらかだったけれども。
 幽助の寝顔を見ながらそんなことを考えていたが、その内彼はそろそろと壁の時計を見た。
 そろそろ帰ろう。
 家に帰って勉強でもしようか。彼の記憶力ならそれほど勉強する必要はないが、ここのところ学校の方も休みがちだったし、形だけでも頑張っておかなければならない。
 彼がそう思ってきびすを返そうとした時、突然、幽助がパチリ、という音を立てそうな勢いで目を開けた。
 実際に音を立ててもおかしくない長いまつげが開いて、蔵馬を凝視した。
「……やあ」
 目の覚め切らない顔で幽助は彼の顔を見ている。
「お前…………蔵馬?」
「お見舞いにね。来たんです」
 蔵馬はかがんだ。
「どんな具合ですか?」
「ああ。別に、そんな悪くねえけど……」
 幽助は体を起こしかけて、眉をしかめた。まだ少し痛みがあるらしい。だが、だいぶまともな動きで、ベッドの上に起き上がった。前髪に手をつっこんでかき上げる。女の子のような顔に比べて、手は大きい。関節のしっかりした男の手だ。もっとも、この手で霊丸を撃つのである。少女のように華奢なはずはなかった。
「いてて……」
「あんまり無理しない方がいいですよ、普通の筋肉痛じゃないんですから」
「いや、別に病人でもねえんだから。……見舞いって、どういう風の吹き回しだ?」
「ぼたんさんからね。寝込んでるって聞いたもので」
 蔵馬は微笑した。幽助に向ける微笑には、彼が得意とする愛想以上のものが含まれる気もする。
 それも当たり前の話だ。幽助は、出合って三日目に、蔵馬の母親のために、暗黒鏡に命を半分分けてやるなどという無謀な事をしたのである。
 最初は、まだ彼の年齢の若さから、死の恐怖というものがぴんと来ていないのかとも思った。
 だが、母親が自分のために泣くのはきまりの悪いものだ、と云った幽助が、つい最近子供をかばって一度死ぬという特殊な経験の持ち主である事を聞かされて納得した。
 これは幽助の気質なのだ。多分、それはおそらく年を経てもずっと変わらないものだろう。
「ああ、ぼたんから。わざわざありがとな。お前の方の傷は治ったのか? 腹の奴」
「あれはもうほとんど」
 その傷はもうすでに塞がっている。まったくの人間である幽助より、彼の傷の治りは遥かに早い。
「母が作ったものをよこしたんで持って来たんだけど。そこまでする事なかったかな?」
「ああ、いや。すげえ有り難い」
 幽助はようやく完全に目を覚ましたようで大きく伸びをした。
「ぼたんが飯作ってくれてたんだけど、あいつも忙しいし悪いだろ? よっぽど桑原んちに転がりこもうかと思ってたんだ。うちのオフクロいま留守にしてっからさ」
「そうらしいね」
 幽助は台所までタッパーの中身を覗きに行った。口笛を吹く。
「お前のオフクロさん、いかにも料理うまそうだもんなあ。オレ、オフクロにこんなの作ってもらった事一度もないぜ。オレの方が料理出来るくらいだからよ」
 彼はひとなつこい顔で笑った。
「だいぶ身体の方はいいみたいだね?」
「まあな。だからさっき腹減って我慢出来なくなっちまって、カップラーメン買いに行って食っちまったからよ。勿体ねーことしちまった」
 我慢すりゃ良かった、などといいながら、タッパーをしっかり冷蔵庫にしまっている様子を見ると、確かに母親の代わりにおさんどんをした経験もあるのだろう。
「じゃあ、オレはそろそろ」
「おう。わざわざ見舞いなんかこさしちまって悪かったな。もう一日かそこらすれば全快だからよ」
「……そしたらまた任務かな」
 特に意味があって云った一云ではなかったが、幽助は一瞬難しい顔をした。
「どうしたんですか?」
「いや。またああいう事があるとな」
 幽助は、四聖獣が虫笛を使って、魔回虫を操った時の事を云っているらしい。
 蔵馬はああいったシュチュエーションに慣れているが、幽助にはショックが大きかったのだろう。霊界の任務に嫌気がさしたとしても仕方がない。
「螢子とかを結局巻き込んだからな。考えちまったぜ。ああいう時に間違いなく勝てるように、もっと強くなんねえと」
 幽助は無意識のように親指の爪を軽くかみしめた。
「周りに迷惑かけちまうからよ」
「……」
 蔵馬は正直驚かされて、幽助の顔をしみじみと眺めた。
 まさかそういう風に続くとは思わなかったのだ。暗黒鏡絡みで命を半分こちらに分け与えた時といい、幽助の反応は、彼の知る人間の大半と少しずれがあるように思えた。
「修業したなんて云ってもたかが知れてるんだよな」
「まあ……君はもっと強くなれると思うけど」
「そう思うか?」
「そうなんじゃないかな」
 蔵馬は考え考えそう云った。
「自分で自分の限界を決めないタイプの方が強くなるから」
「オレの場合、ただほら、頭働かねーってのもあるんだけどさ」
 幽助はからからと笑った。ベッドの上にゆっくりと戻って座った。
 視線を上げてぼんやりと中空を見る。
「誰にも迷惑かけねェでいいくらい強くなるって、どんな感じだろうな」
「そんな人は多分、どこにもいないんじゃないかな」
 蔵馬は呟いた。
「強くなって、これでいいって事はないんだと思うよ」
 幽助は何か、もの珍しいものを見るような表情で笑った。
「お前でも、もっと強くなりたいとか思うのか?」
「そりゃ…………君と同じで、無くしたくないものもあるし。……ただ強くなりたいと思う事もあるし。……」
 幽助の率直な聞き方につられて、彼も思わず開け放した云い方になった。
 幽助は頷いた。
「お前すげえ強いのにな。……最初見た時は、ほんとに妖怪なのかって思ったけど」
「ほんとにって」
「お前、ほら…………闘うとか、そういう感じじゃねえからさ。喧嘩もしそうにねえもんな。一見」
「そうですか?」
「まあな」
 蔵馬は、さっき自分が幽助の寝顔を見ながら考えていた事を思いだしておかしくなった。
 確かにあの幽助の寝顔を見たら、札付きの不良だったなどと思う人はいないに違いなかった。
 一見というのはそういう印象もある。幽助の中で闘いは喧嘩の延長だ。彼の中のその、「喧嘩をしそうなタイプ」の枠に蔵馬が当てはまらなかったのだろう。たぶん剛鬼のようなタイプが、その基準に当てはまっているに違いない。
 幽助が手を伸ばして蔵馬の髪に触れた。
「ほら。お前、髪とか長くて、顔も……」
 彼は不意に黙った。
「幽助?」
 幽助の、くっきりと大きな目が彼の顔をまじまじと見つめた。
「どうかしました?」
 髪に触れていた手がはっきりと握りこまれた。それをぐいと引かれて蔵馬はバランスを崩した。
「ちょっと…………幽助?」
 抗議しようとした彼の次の科白は、障害があってつなぐことが出来なかった。
「……っ」
 幽助のもう片方の手が彼の襟元に伸びる。唇を押しつけられたまま蔵馬を目を見開いた。
 幽助の唇は熱を出しているように温かかった。
 子供のような体温だ。
 その温かさは思いの他心地よかった。
 幽助は触れるだけで離そうとはしなかった。まつげの長い目が閉じるのを間近に見る。唇が角度をつけて重なって来た。仕方なく蔵馬は目を閉じた。
 思いがけなく幽助のキスは、子供のような顔をしているくせに結構巧かった。
 初めてだとは思えない。
 小さな、柔らかいものがすべりこんで来る。
「幽助?……」
 唇が離れた時、茫然として呼ぶ。いったい何故こんなふうになったものか分からなかった。
 とにかく突然、幽助がその気になってしまったらしいというくらいしか、この状況に説明のつけようがなかった。
 実のところ、蔵馬も結構あっさりした、物事を気にしないタイプなのだ。しかし、さしもの彼も茫然とする程、それは突然やって来た。
 しかも、幽助は正気に返った様子もなく、薄く目を開くと、蔵馬の肩を掴んで強く引いた。
 幽助と向かい合ってベッドの上に座る形になってしまった蔵馬は、驚きが醒めないまま、すっかりその気になっているようにしか見えない、年下の小柄な少年を見つめた。
 幽助の方も事態がのみ込めて来たらしい。
 それと自分の中の危急な欲求とのつりあいが取れずに考え込む様子を見せた。
 蔵馬はその様子をまじまじと眺めた。
「……キスうまいですね」
「そうか?」
 幽助のてのひらが蔵馬の片頬に重なって来た。
 温かい。
 温かい吐息の近づく気配に彼は思わず目を閉じた。今度はゆっくりと唇は重なって来た。茫然、という状態を通り越して漠然と驚いている内に、背中がベッドのスプリングに弾むのが判って、気づいてみると彼は幽助に、ベッドに組み敷かれている形になっていた。
 このまま悠長に驚いていると、行き着く所まであっさり行き着いてしまいそうだった。
 幽助の動きには気負いがなく、それほど性急でもなく、落ち着いてさえいた。
 彼のカーディガンのボタンをはずし、丁寧にシャツをはだけて、胸をあらわにする。
「ちょっと待った」
 蔵馬は驚きと、奇妙な心地よさからようやく覚めて、幽助の肩を押し戻した。
「君は何をしようとしてるわけ?」
「あ。嫌だったか? 悪い」
 幽助はその可能性に初めて思い当たったようで、慌てたように体を起こした。
「嫌っていうか。……」
 蔵馬は今度は自分の口から滑りだした言葉に仰天した。顔には出さなかったが、自分の正気を疑った。
「嫌じゃないですけど……」
 だからといって幽助とそんなことをする理由にはならない。そう続けようとした。それが口から出ないまま、幽助が彼の胸にそっと額をつけた。
 そっと抱きしめて、蔵馬の胸の鼓動を聞くように額を寄せて来るこの仕草は、実のところ、ずいぶん後まで、幽助のくせになって残った。
「そっか。……」
 嫌ではないとないと云われたことに満足したように、幽助はちらりと笑った。
 あたたかいてのひらが、蔵馬のほとんど治りかけた傷跡に触れた。
 傷の上を指がそっと辿っていく。
 その仕草の優しさに不思議な甘さを覚えて、蔵馬はまだもうひとつふんぎりがつかないまま幽助をじっと眺めた。
「ああ、強くなりてー………」
 幽助が、くぐもった声で呟いた。
 蔵馬は目を丸くした。この体勢でそのせりふか。しかし、訳もなく動かされかけていた蔵馬の胸に、その一言は意外なほど鋭く刺さった。
 その言葉の響きに刺激される。自分が強くなりたいと思った時、それが何のためだったかを思い出しかける。そういうことについて、彼は思考する時間を長くはついやさない事にしている。何の結果も生まないからだ。
 飛影ほどシビアではないが、結果のない観念は彼には必要なかった。
 だが、人間という生き物は、そういう意味での結果のない観念の塊に近いのだ。
 けれども、このめまぐるしい甘さ。
 幽助の、こちらの羞恥を誘うくらいに素直で率直な、人を傷つけない感じ方が、彼の心に印象的なタッチを残した。
 彼はため息をついた。
 押しきられて、とはとても云えない。
 ここでそのままそういう事になったら、間違いなく共同責任である。
 幽助が頬をすり寄せるようにして蔵馬の首筋に顔を埋めた。歯が軽くかする。
 蔵馬は、螢子という少女の顔をふと思い浮かべた。彼女は可愛いと思っていた。幽助とよく似た可愛さだ。子犬や子猫のように愛くるしいのに、ふたを開けてみると、生命力旺盛な、きらきらした命が詰まっている。
 撫でるようにして幽助の髪に触れて、ベッドの上で抱き合った抜き差しならない状況について考えて、蔵馬は仕方なく考えるのをやめた。
 今後、幽助の方で引きずらなければ、蔵馬の方では間違いなくこの記憶を切り捨てる自信があった。それに、幸い彼は普通の人間ほど一般的な禁忌が強くはない。
 これが幽助との関係や、ひいては霊界絡みの事件を解決する過程で、悪い影響を残さずにすむならそれでいい。
 一瞬の間の後に、幽助の手がするりと脚に触れた。蔵馬はため息をついて、幽助の柔らかい後ろ髪のうなじを抱きしめた。
 外の日差しはもうとろりとした金色に溶けている。室内に差し込んで来る西日は彼の頬をあたためた。
 温かい。
 幽助と融けてしまいそうだった。







 情に流された。
(これは情としか云いようがないだろうな)
 中身はいささか古びた妖狐であるところの彼は、眠る幽助の顔を見つめながら考えた。
 滅多にしない体験だ。
 蔵馬は寝顔をしげしげと見下ろしながら、服のボタンをとめた。幽助は蔵馬を抱きしめながら、幾度も、身体中をぎしぎしいわせる「霊力の使いすぎによる筋肉痛」に顔をしかめた。その情けなさそうな表情を思いだして吹き出しそうになる。
 あれだけ身体が痛んでもするのか。
(元気だなあ)
 頬に軽く触れる。不意に、ほんの数年前に好意を持った、人間の少女の面影が通り過ぎた。今、頂度蔵馬が幽助にそうしたように、どこか優しい指で彼自身の頬に触れて過ぎていった。
 深くかかわろうとしなかったのは、自分にかかわって来るさまざまなトラブルに彼女を巻き込みたくなかったからだ。それに、自分はまったく違った生き物だから、自分に関わるのは彼女にマイナスにしかならないとも思った。
 あの時とは考え方もだいぶ変わった。ずいぶんと彼を束縛していた感情から抜け出した。だから今、人間を相手に同じように好意を持ったとしても、あの時と同じように身を引く必要はないのかも知れなかった。
 だが、最終的にはまた同じ選択をせざるを得ないのを彼は知っていた。
 それが、霊界を通じて知り合った幽助と、いともたやすくこんなことになったのは何故だろう。
 しかも、人間と深い関わりが生まれかけた時、いつも蔵馬の感じる忌避感が、幽助にはほとんど働かない。幽助が自分の素姓を知っていると思うだけで、それだけ変わるものだろうか。それともこれは幽助自身の持つ影響力が大きいのだろうか。
 おそらく後者だろう。
 蔵馬は軽く伸びをした。関節がこわばってそれをほぐそうと身じろぎする、などという習慣は、人間の身体を持ってから初めて知った。
 外は半ば暗くなっている。母に外泊すると云ってきていないから帰った方がいい。
 彼は思い立って台所のテーブルの上にメモを残した。
『家にことわって来なかったので帰ります』
 書いて、笑った。
 まるでままごとだ。何とかわいらしいことだろう。
 だがこういうのも悪くはない。
 普通の人間のような顔をして、人間のようにふるまっても、彼の中に、妖怪の素顔が隠れている。しかも、それはしかばねの山を築いて数百年生きた妖狐だ。決しておとなしく眠っている訳ではなく、彼の表層意識からいつも少し離れた所で、透き通ったあめ色の目を開いて彼を見ている。
 南野秀一と融合した彼と、その妖狐の違いは、近頃では、ますますはっきりして来た。
 それを将来的に、自分の中にうまくとりこんで融合させられるのか、妖化が進むと、今の自分を失うことになるのか、それは未知数だ。
 だからままごとで充分だ。同じ条件で生きる人間と人間の間でさえ、好意も、恋も、愛情も、永続するものではない。
 こんな甘ったるい感情や時間は、本来蔵馬に望むべくもないものだ。
(幽助に感謝するべきかな)
 どこか醒めた顔で、しかし内心でそう考えながら、彼はまたもう一度振り返った。
 それにしても幽助は、どうして自分と寝ようなどという気を起こしたのだろう。
 彼の視線を感じたように、幽助が不意に目を覚ました。蔵馬がこの部屋に来た時もそうだったが、人の視線に敏感なのだろう。起き上がりかけて、まだ引きずる関節の痛みに、幽助はまたぞろ顔をしかめた。
「帰んのか?」
「ああ……はい」
 彼はうなずいた。
「もう遅くなったし」
 蔵馬は云いながらコートに袖を通した。
 小首をかしげる。幽助の方でもあまり気にしていないらしかった。なら自分の方でも気を遣わずに済む。
「気ぃつけてな」
 幽助はぼんやりしたように前髪をかき上げながら云った。
「どうも。幽助こそお大事に」
 彼は思わず微笑んだ。割り切れないような、しかしほっとした気分で幽助の家を出た。
 歩きながら少しの間幽助のことを考える。
 淡泊なのか、手が早いのか。烈しいのか、おだやかなのか。とんでもない奴に引っかけられてしまった気がする。
 やはり「二度目」があれば、そのときは辞退しよう。
 しかし彼が幽助のことを考えていたのはほんの数分だった。
 数百メートル歩き進む内に、彼は、当面考えなければならない幾つかのことに頭を奪われた。
 霊界裁判も完全には終わった訳ではない。これ以上霊界の方にかかわるなら、赦免されるメリットに対して、ある程度覚悟しなければならないデメリットが必ずある。
 それに母を巻き込むことは最低でも避けたい。
 この先南野秀一として何年やって行けるのかも、早い内に検証しておかなければならない。妖化することが及ぼす影響も具体的に知らなければならなかった。
 いつの間にか急ぎ足になっていた。
 幽助のことはとりあえず片隅にしまいこんだ。






 頬を撫でる風がいつもほどは冷たく感じない事に、だが、彼は気づいていなかった。

                        了

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