log

硝子の城・2(1999年9月)

01 02 *2013 | Category 二次::幻水2青赤:硝子の城


続き






 頭が痛んだ。
 右のこめかみから左のこめかみへ、金属の糸を突き通したような痛みがあった。これはマイクロトフには馴染みのないものではなかった。
 医者にも見せたことがあるが、この痛みの原因は分からなかった。
(「申し上げにくいことですが、あるいは心の病かもしれませぬ。なるべく心騒ぐことを避け、ご酒を過ごされませんよう、健やかにお暮らしになれれば、おそらくは快方に向かいましょう」) 医者にそう云われ、マイクロトフはこの痛みを消すことをあきらめたのだった。心騒ぐ暮らしを避けて、いかにして国のために戦えようか?
(心の病なら死ぬことはないだろう)
 そう思ったのだった。
 医師の云うとおり、極めて心が疲れたような時、この招かれざる来訪者はマイクロトフの扉を叩く。吐き気と眩暈、熱を伴って訪ねて来る。しかし長時間ではなかった。戦場でこれが訪れたことも一度もなかった。それだからこそマイクロトフはこれを許したのでもあった。戦場で一度でもこの痛みがやってきて、任務を妨げ、騎士団の足手まといになるようなことがあれば、すぐにもマイクロトフは自ら騎士団を出たことだろう。
 居室に帰った後も、礼服を脱ぐことも出来ず、マイクロトフは真っ暗な部屋の中で椅子に崩れ込み、身じろぎもせずに座っていた。
 一時待てば、この痛みが去ってゆくのを彼は知っていた。
 彼は先刻、執務室でクラレットと二人になった。彼の所業について問い、罪のつぐないについて話し合うつもりであった。しかし、言葉を交わすうち、突然に、マイクロトフには、目の前の男がそれを悔いていないことが稲妻のように伝わってきたのだ。
 むろんそれをしたこと自体も、マイクロトフには理解出来なかったが、悔いる気持ちがまるでないということには、吐き気のするような怒りと嫌悪を呼び覚まされた。
 カミューに、斬るな、と釘をさされていてよかった。
 マイクロトフは一人になった後思った。話をしても埓があかないため、彼の処分は騎士団の裁判にゆだねることとしたが、あのひとことがなければ自分は剣を抜いたかも知れない。騎士を自らの判断で斬ることは、騎士団長とはいえ硬く禁じられている。本当はあの男を今夜にでも牢につないでやりたいところだ。
 そして、クラレットを軟禁するように命じ、居室に引き揚げて来る途中、馴染んだ痛みに襲われたのだった。
 息を殺して、彼は、金色の糸のように輝きながらこめかみからこめかみへと、際限なく伝わってゆく痛みを、薄闇の中に眺めていた。
 どれほどその痛みを耐えただろう。額は熱く火照り、汗がにじんでいた。痛みは執拗につきまとい、自分自身の鼓動を耳で聞けるほどだった。






 彼の居室の扉を静かに叩く者があった。
 こんな時間に自分を訪ねる者が一人しかいないことをマイクロトフは知っていた。彼でなければ部屋に招き入れることはとてもできない状態だった。
「……開いている」
 答えると、静かに扉が開いて、カミューが入ってきた。
 カミューは服装を私服にあらため、手に小さな灯りを提げていた。
「痛むのか? マイクロトフ」
「……ああ」
 彼のものやわらかな声は、この痛みに苛まれている最中のマイクロトフの神経をかき乱さない数少ない存在と云ってよかった。そしてまたカミューは、マイクロトフの痛みについて知る唯一のひとでもあった。
 気を張っていれば痛みを周囲に隠しておくのはそう難しいことではない。だが、カミューだけが、部下も気づかないマイクロトフの変調に気付くのだった。
 痛みのある時は、光の刺激をマイクロトフの目が嫌うことを知って、カミューはたびたび、このささやかな灯りを携えてマイクロトフの部屋を訪ねた。
 それはカミューがグラスランドの母から贈られたという、灯油を注ぐ小さなランプで、細やかな細工の鉄の小籠に覆われた火屋は、それを置いた部屋の一角だけを優しい夢のようにほのかに照らし出すのだった。
 その灯りのおだやかな優しさは、どこかマイクロトフの中でカミューの持つそれと重なって思えるところがある。
 ロックアックスの城下町に住まう女たちは、カミューを大輪の紅い薔薇にたとえて讚えるが、まさしくカミューは他者を圧倒させずにおかない華やかさを、その外観にも、気性にも備えていた。あの紅い花に例えたくなるのも無理はない。
 しかもそれほどの華やかさを持っていながら、その優しさも強さも、ものやわらかな抑制にくるみこまれて、押しつけがましさがないのだった。あるいはカミューの持つ賢さは、男のそれより女の賢明さに通ずるのかもしれない。
 自分の持つ飛び抜けた能力や、あでやかな容姿を、その自制のきいた気性の下に置き、浮き上がりすぎることのないよう、カミューは自らの環境を整えている。
 その彼から見ると、自分はさぞ穴が多く、軽率で危なげに見えることだろう。それだからこそ、友情に篤いカミューは、これほどに自分を気遣ってくれるのだろう。
 マイクロトフは痛みに頭の芯をしぼりあげられて、思わず深いため息を漏らした。彼の目に直接触れない位置に灯りを置き、カミューはひやりと冷たいてのひらでマイクロトフの額を覆った。
 いたわられることを情けないと思いながら、マイクロトフはその心地よさに動けなかった。
「……熱があるな」
 カミューはささやいた。
「何故云わない、マイクロトフ?」
「こんなことで、いちいちお前を煩わせるわけにはいかない」
 痛みに声がかすれる。長い指の下で薄く目を開くと、カミューが仕方なげに微笑むのが見えた。
 熱を持った額に、指よりももっと冷たいものが押しつけられた。
 氷の板を薄く削って塩と油紙で包み、布でくるみこんだものだ。熱の高い病人に用いるため、氷が長く融けない工夫をしたものだった。マイクロトフの頭痛が酷く、熱がさがらない時、カミューが厨房の女に頼んで時折作って持ってくるのだ。
「……おかげでわたしはすっかり頭痛持ちということになってしまったよ」
 カミューは冗談めかして微笑んだ。
「お前には世話ばかりかける……」
「今更だな」
 声に含まれた、ゆるやかな甘い微笑は消えなかった。今日のことについて何も云おうとしないカミューに、マイクロトフは感謝した。ほんのひとときでいい。あの吐き気のするような男の顔を忘れたい。義務から逃れることそれ自体にも嫌悪を抱くマイクロトフが、こういった気持ちになるのは珍しかった。
「……医者に聞いてきたが、こういう時、ほんのひとくちなら酒を飲むのも悪くはないようだ」
 しばらくしてカミューは、ゆっくりと云い出した。
「それから忙しくとも食事は摂れ。……自己管理もお前の職務の内だなどと、わたしが云うまでもあるまい?」
 カミューは自分の痛みのために医師と話したのか。マイクロトフはうつろな驚きと共にそう思った。
「ああ、……心がける、すまない」
「そうだな……わびて欲しいものだ。わたしはお前を見ていると気が気でないよ」
 カミューは微笑まじりにそう云いながら手を伸ばし、マイクロトフの黒い髪をゆっくりと梳いた。その感触が甘い。彼にそんなふうに気遣われることに、こうして触れられることに、なぜ抵抗を感じないのか、マイクロトフは時折不思議に思うことさえある。
「横になった方がいい」
 カミューにうながされて、彼はようよう礼服を脱ぎ、だるい身体を寝台に沈めた。目を閉じるのと同時に眩暈が襲ってきて、彼は己の頭の中の黒灰色の闇に、どこまでも落ちてゆくような錯覚を覚えた。幾度か不安を感じるような痛みと吐き気が、波のように強弱をもって繰り返された後、マイクロトフは少し眠ったようだった。
 
 
 



 しばらくして目を覚ました時、部屋の中にカミューはいなかった。しかし、彼の持ってきた小さなランプは、ほの昏い星のように、かすかに揺らめきながら部屋の片隅で燃えている。
 どのくらい眠っていたのかは判らないが、頭痛と吐き気はすっかり取れていた。一旦治まればあとかたもなくかき消えるのがマイクロトフのこの症状の有り難いところだった。まだいささかの熱は残っているようで、身体が熱かったが、つらくはなかった。
 カミューは自分の部屋に帰ったのだろう。寝台の上にあおのいて、マイクロトフは思った。いつものことではあったが、また彼にすっかり世話をかけてしまった。
 それからしばらくして、そっと扉が開いた。小さな灯りは入口までは照らし出さなかったが、薄闇に慣れた目にはそれがカミューの姿であるのが分かった。片手に小さなグラスのようなものを持っている。おそらく酒を持ってきたのだろう。
「カミュー」
 声をかけると、カミューは動きを止めた。
「起こしたか、すまない」
「それはおれの台詞だ」
 マイクロトフは寝台の上で起き上がった。
「多忙なお前に、おれのことでこんなに時間を割かせてしまった」
「好きでしているんだ、気にすることはないさ」
 カミューはマイクロトフの枕元にグラスを置いた。
「酒だ。湯で割ってきた……もし飲めるようなら飲むといい」
マイクロトフは頷き、酒を口に含んだ。温かい酒が喉を下り、身体をほのかに温める。
「マイクロトフ」
「……」
 薄闇の中で、マイクロトフは、視線でいらえを返した。
「騎士団の名を汚した者に怒りを感じるのはわたしも同じだ。……だが、川を渡って、狂気の世界に去って行った者のことで心悩ませるな。あれはわたしたちの手の届かない国の民だ。……」
 カミューはそう云って、まぶたをふさぐようにしてしばらく沈黙した。
「罪をおかした者を罰し、二度と起こらぬように力を尽くす。それがわたしたちの役目だろう?」
「……ああ、お前の云うとおりだ」
 マイクロトフはそう答えながらも、暗いものが胸の中で目を開けるさまを見る思いだった。不正に対して己が抱く嫌悪がいささか病的であることは分かっているが、どうしても許す事は出来なかった。人は罪をおかすものだ。それは知っている。自分も数知れぬ罪をおかしてこれまで生きてきたのだろう。
 しかしそれを悔いることのないあの瞳の濁りはいったいどうしたことだ。騎士の誓いをたてて、ここに流れ込んで来る、それは権力を欲する末のことか。誇りも誓いもその程度のものか。権力や欲と引き替えに出来るような空疎なものか。それでは人は何を頼みに生きてゆけばいいのだ。
 慄然とした思いで沈黙したマイクロトフの顔を見守るカミューの目に、不可解な光が去来した。
「わたしはお前がそれほどに思いつめなければいいと思う。……」
 ささやいた。
「だがお前が崖のふちに、独りで戦うさまを美しいと思ってしまう……」
 手を伸ばして、カミューはまるで愛撫するようにマイクロトフの髪を撫でた。マイクロトフの頬にカミューの冷たい指が触れる。
「自分でもなぜなのかは判らないが……」
 そうつぶやいたカミューの目と、マイクロトフの目が、欠けていた破片が元の場所におさまったように、かちりとかみ合った。
 それほど間近に、カミューの目を覗き込んだのは初めてだった。
 上等な琥珀をはめこんだような、甘く透き通った榛色の瞳がマイクロトフを見つめ返していた。時折、濃褐色の長い睫毛がゆっくりとまばたきを繰り返す。
 部屋のすみで薄くまたたき続ける灯りに照らされて、カミューの栗色の髪が濡れたようにつややかに輝くさま、象牙色の皮膚につつまれた彼の美しい造作を、マイクロトフは初めて目にする珍しい花を眺めるように、残らず瞳におさめた。
「マイクロトフ……」
 その呼びかけに意味はあったのかどうか、いずれにせよ、カミューのささやくように抑えた声が自分の名を呼んだ瞬間、爆発するような、しかも今までに覚えのない衝動が、彼の熱にしびれた身体を揺るがせた。
 彼は、白い上衣に包まれたカミューの身体を、腕や肩を、背中を自分の腕で巻き、大輪の花をつけた若木の花枝をかきよせるように、胸の中に抱きしめたのだ。
 それはむろん、しなやかな筋肉に覆われた男の体だったが、その肌の匂いや髪の柔らかさがマイクロトフの感覚をかきみだした。甘く平衡感覚が狂う。水に映る星をかき抱くように手応えがなかった。
 むろんそれは錯覚だった。手応えが頼りないのではなく、彼を腕の中におさめただけでは事足らずに、自分が焦れているために頼りない心地になるのだと、マイクロトフは直ぐに気づいた。自分を揺るがす強烈な衝動に、彼は息を乱した。
「……」
 彼の勢いに戸惑ったカミューが、腕の中で、かすれた声にならない声を漏らした。その動揺は、マイクロトフの熱にうかされた身体の芯に火をつけた。
 マイクロトフは自分が何をしようとしているのか分からないまま、力任せに抱いたカミューの身体を自分から僅かに引き離した。そして、両手で彼の腕を堅くとらえ、顔を伏せて、首筋に、頬に、髪に、唇に口づけた。
 触れた唇は温かく、意外にもマイクロトフのくちづけを拒まなかった。驚いたようにかすかに逸らされる唇を幾度か追うと、かき抱く腕の中からカミューは自分の腕を抜き出し、マイクロトフの熱を持ったうなじを抱いた。ひやりとしたてのひらがうなじを包み、そくそくと不可解な快感がマイクロトフを包み込んだ。
 マイクロトフは思考する力が痺れてしまったように現実感がないまま、唇と、唇でだけ成し得る愛撫に溺れ込んだ。
 何故カミューは自分にこんなことをさせておくのだ。
 ちらりとそう思ったが、その清潔な舌と自分のそれが絡むと、やわらかなぬめりで頭の中が一杯に溢れ返った。カミューの歯の間に深く舌を押し入れ、あたたかな口腔と舌を味わって吸い上げた。
「待て、……待て」
 カミューが息を上げてマイクロトフの胸を押し戻した。彼はカミューが息を乱しているところを見た覚えがほとんどない。カミューの呼吸が乱れ、声がかすれているのがひどく新鮮に思える。カミューは目を潤ませ、しばらくの間胸をあえがせていたが、やがて顔をあげてマイクロトフを見た。
「……わたしを抱きたいのか?」
 その言葉は何の抵抗もなくマイクロトフの背骨に、熱を持った四肢の関節に、衝動となって馴染んだ。彼は自分があさましく喉を慣らすのを聞いた。
 咄嗟には答えられないマイクロトフの腕を、自分の肩から優しくふりほどき、カミューは手を伸ばして彼の頬を包んだ。
「わたしは逃げないから……落ち着けよ。あまり興奮するとお前の身体に障る……」
 そう云って、ゆるやかに唇を寄せ、彼はマイクロトフに静かに口づけた。
「まだ熱があるんだ……」
 そうささやくカミューの身体を、信じがたい思いでマイクロトフはかき抱いた。
 

00: