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硝子の城・4(1999年10月)

01 04 *2013 | Category 二次::幻水2青赤:硝子の城


続き





 マイクロトフは暗闇の中で目を開けた。教会の讃課の鐘(※)が鳴っているのがかすかに聞こえている。起き出すまではまだ一刻ほどの猶予があったが、彼は身体を起こし、寝台の上で背を真っ直ぐに張って座し、呼吸を調えた。
 腹や胸を包む筋肉の奥まで息を送り込み、呼吸を繰り返すと、身体が正常に覚醒しはじめ、眠っていた身体が息づくのが感じられる。活力が蘇ってくる。冷えたてのひらがあたたまり、みぞおちにゆっくりと熱がめぐり始める。
 彼は部屋の周囲を見渡した。医者には、体質に加えて、幼い頃の食事がその理由の一環となっているのだろうと云われたが、マイクロトフは生来夜目がきかない。闇が訪れると視界がつつまれたように暗くなり、方向感覚が薄れることさえある。体機能も昼に比べれば鈍るように思える。
 それゆえに、まだ闇が残る時間に起き出すことは、マイクロトフが騎士の誓いを立てた後すぐに身につけた習慣だった。暗闇の中で起き出して目を凝らす。灯りは燈さない。ややもすると、身体が眠りから醒め、暗黒に息苦しく封じこめられた目が、ようやく少し光を拾うようになる。そうしてマイクロトフは立ち上がり、浴室で全身に冷水を浴びる。これも、どんなに凍える真冬にも続ける彼の習慣だった。熱い湯に身体を打たせるより、こうした方が彼の身体は調うのだった。
 光と共に起き出して、闇を逃れて眠るのでは、暗闇への忌避感はますます強まるばかりだ。世界の一日は光の恵みの許にあるが、しかしまた闇との深いかかわりを断つことはできない。戦場で闇が苦手だとは云っていられない。
 マイクロトフは闇の中に目を据えて、胸のなかで、自らがこの日なすべきことをひとつずつ確かめた。
 正午の鐘と共に、ロックアックス城西の教会で裁判が執り行われる。
 街道の村の娘を攫い出して犯した青騎士のクラレットを裁く裁判である。
 娘の祖父のフェーズが訴え出て半月たった。すぐにも行われるはずだった裁判だが、何度も日取りが延び、結局は半月過ぎ去ったのだ。グラスランドのクラレットの生家との平和金のやり取りに手間取ったことも大きかった。
 領民同士の争いごとでも、罪は金のやりとりで減じられ、双方の言い分が噛み合ったなら平和金でことは解決する。
 騎士同士の争いであれば、事実上、現領主の立場にあるゴルドーが介入し、平和金の交換を示唆するか、あるいは重い体罰を定めることもある。
 しかし今日の裁判では、罪を犯した者が騎士であり、傷付けられた者が平民であるということから、公平を期すことは困難であった。
 やがてマイクロトフは、剣をひとふり腰につけて部屋を出た。
 礼服も鎧も身につけない私服であった。彼は今日の朝の鍛練には参加することはできない。裁判官をつとめる六人の騎士は、その日他の騎士と言葉を交わさない決まりである。むろんこれは形式上の建前だが、含むところのあるマイクロトフは、今日はその決まりを守るつもりだった。
 カミューとも言葉を交わしたくなかった。カミューにいさめられることは、有り難く快いことでもあったが、時折年長者としての彼の忠告、こころを殺した判断に、マイクロトフはやるせない煩わしさを感じることがある。
 ひとのこころは所詮ひとつずつの切り離されたもの、ひとつに繋がることはないということを認識し、孤独感に襲われるのだ。しかし逆に、その孤独感をもマイクロトフは許し難く思う。孤独を感じる弱さそのものにも怒りを覚えるが、こころの底で、ひとという生き物を信じきらない己の気質が、騎士団長としてひとを束ねるうえでの欠点であると、彼は認識していたのだ。
 
 
 



 マイクロトフは、ロックアックスの城下町の鍛冶屋を訪れた。
 騎士たちの城の膝元に暮らす城下町では、必然的に鍛冶屋の需要が高く、街の中に何軒もの小さな鍛冶屋が散らばっていた。
 中でもマイクロトフの訪れたこの鍛冶屋は、あるじがごくたまにしか仕事を引き受けることのない、芸術家肌の気まぐれな男であった。偏屈で奇矯なところのある男だったが、腕は素晴らしく、多くの名剣を生み出した。気位が高い職人であるゆえに、騎士の高慢さを持たない、無骨なマイクロトフをことさら気に入っているようだった。
 マイクロトフの愛剣であるツヴァイハンダー、ダンスニーに命を吹き込んだのはこの男だった。血が躍動する、という意味で、ダンスニーと名づけられたこの長剣は、焼き入れの際、鉄を冷やすのに獣の血を用いてはがねに粘りを加えた。
 陽光を浴びると、あかがね色の油分をきらめかせるこの剣は、ツヴァイハンダーとしても非常識に重く、しかしなおかつ切れ味のよいもので、使い心地は長剣というよりはその破壊力から、馬上から突き下ろすランスを思わせた。
 チェインメールやプレートアーマーの隙間からねじ込んで力を加えれば、腹膜や内臓の弾力と抵抗を突き破り、易々と背骨に届くほどの深手を与えるのだ。重さと鋭さを兼ね備えた、まさにマイクロトフのために造られた剣であった。
 マイクロトフには、戦場で人を斬ることにためらいはなかったが、苦痛を与えずに命を絶つことに騎士道があるとも考えていた。腹を貫いて助からずに苦しむ敵は首を落してとどめを刺すべきだった。到底助からぬものならば、馬の蹄に頭蓋を割られ、泥に埋もれて死なせるよりは、首を落して止めを刺すことは、敵味方にかかわらず、戦場における慈悲と呼ぶべきものであった。
 それゆえに、同輩や部下の首を落とさねばならないこともあった。見知った騎士にとどめをさすマイクロトフの心は引き裂かれるようであったが、彼はその役割を逃げたことはなかった。
 しかし彼は、戦場以外でひとの首を落したことはない。鎧をつけない者に刃を向けたことはなかった。
 マイクロトフに限らず、多くの者にとって、戦場は全ての者が敵と味方という記号にわかたれて、のっぺりと人の姿を失う場所であった。
 一種独特の麻痺状態が訪れ、汗と衝撃と、白くふりそそぐ太陽、鋼同士のぶつかりあう音と火花、殺す者と殺される者、白黒に単純化された構図がこころを占めるのだった。それは戦場を出れば白昼夢のように薄い灰白色を帯びて、遠い記憶に変る。
 忘却は、まともなひとのこころを持った者にとっての逃げ道でもあった。
 しかし鎧をつけない者を斬るのはそれとは違う。相手は違えようもなく個人であり、記憶は鮮明に自分の心に刻まれることになるだろう。戦場の異常な興奮と麻痺から醒めたあとの、失墜するような忘却に身を任せることは許されない。
「あるじ殿」
 マイクロトフは低く声をかけ、うっそりと身をかがめ、低い戸口をくぐった。鍛冶屋のテタヌスは子供のように小柄な男である。彼の工房は、長身のマイクロトフには、全て小ぶりに造られていた。老いた鍛冶屋は座り込んで、鍛え終わった剣を二本並べ、陶然と刃の光沢に見入っているところだった。気に入ったものを仕上げたようだ。
「これはマイクロトフ様」
 男は白昼夢から醒めたような目をして、彼にはいささか高い椅子から滑り落ちた。
 テタヌスは、ややいびつな線を描いた小さな身体に、瘤のように筋肉の膨れ上がった、奇形的に長い両腕を備えている。鍛冶屋が何のつもりで、テタヌス(※)などという名を名乗っているのかは分からないが、おかげでマイクロトフは、どうしてもこの男を名で呼びかけることができなかった。
 その代わりに敬意を込めて、あるじと呼ぶ。マイクロトフは常日ごろから、誇り高い職人や、商才をもって世に尽くす商人を、騎士に劣らず敬っていた。
「美しい剣だな。……」
 マイクロトフは、テタヌスの手元に置かれた二ふりの剣のうち、片方に目を留めて、こころを奪われた。黄金をあしらった優美な柄を備えた、彼が持つにはやや重みの足りない片手半剣だが、切れ味の鋭さを示してあおあおときらめいている。
「道楽で打った剣でしてな」
 テタヌスは自分の子の話をするように目を細めた。
「いささか値がはりますのでな。買い手がつかずに倉に眠ることにならねばよいと思っていたところです」
 細工にも趣向を凝らし、時間をかけてつくりあげた品だ。一介の騎士には手の出る剣ではあるまいと思われた。その黄金色の柄に埋められた柘榴石の飾りが紅くきらめくのを目にした時、マイクロトフはふと、紅い宝石のようなある男の姿を思い起こした。
「もうこの剣には決まった名が?」
「ウリヤとでも呼ぼうかと思っておったところです」
「ウリヤ?」
 発音しにくそうにその名を口にしたマイクロトフに、テタヌスは目を細めた。
「聖ウリヤ。古い神話で、忠誠を尽くした王に裏切られて死んだ男の名ですわい」
 マイクロトフは剣のつかにそっと手を触れて苦笑した。
「不吉な名のように思えるが」
「美しい神話ですでな」
 テタヌスは笑った。
「己の妻と姦淫する王の罪を知りながら、忠誠を捨てずに戦って死んだ剣士の名……騎士剣にまことふさわしい名です」
「……」
 いささか皮肉なテタヌスの言葉にマイクロトフは内心ため息をついた。城下町に暮らす鍛冶屋でありながら、騎士たちに皮肉な視線をそそぐ、この鬼才の鍛冶屋のこころを、マイクロトフは完全に理解できるとは云えなかった。この鍛冶屋の皮肉な言葉は時折、マイクロトフをかすかに不安にする。
「ところでこのような早朝のご用向きは、マイクロトフ様」
「剣を鍛えに来た」
 マイクロトフは腰につけたダンスニーを指し示した。テタヌスは訝しい表情になった。
「つい数日前に鍛えたばかりで、刃こぼれでもいたしましたか」
 まさか、という意味合いを込めてそう尋ねる。この長剣を使って一年以上になるが、かつてダンスニーが刃こぼれしたことは一度もなかった。
「いや。苦しませずにひとの首を落とせるように、砥いでほしい……鋭く」
「ひとの首を」
 老いた小男はにやりと口元を歪ませた。
「平定の折りに剣呑な話ですな」
「ああ」
 マイクロトフは否定しなかった。まるで自分が誰かの謀殺をはかっているように取られかねないのは承知だった。だが、鍛冶屋は自分自身の腕を預ける相手だ。多くを打ち明けることはなくとも、こころを隠すことは出来なかった。
 鍛冶屋は、渋皮色に褪せた顔の中に、小さな空が開けたような青い瞳を開いて、年若い青騎士団長をじっと眺めていたが、何かを得心したようにうなずいた。
「ようございます。夜までには砥ぎあげておきましょう」
「頼む」
 マイクロトフは辞去する前にもうひとたび、石の台の上に乗った、あおく光る剣を眺めやった。美しく、しかも抜きんでて切れ味のよい剣だ。見かけ倒しではあるまい。彼はこの剣が、先刻思い浮かべた相手の右手に握られているさまを描いてみた。あの男の手にはこの剣が、またこの剣には彼がふさわしく思えた。
「お気に召しましたか?」
「ああ。……」
 マイクロトフは躊躇いながらうなずいた。
「ウリヤ……と云ったか?」
 口の中で先刻聞いた名をつぶやいてみた。
 ハルモニア風の発音だ。鍛冶屋の出自について詮索したことはなかったが、テタヌスはハルモニアの出であるのかもしれない。
「この国の言葉でなら、ユーライアとでも発音しましょうかな」
 マイクロトフはこころを決めてテタヌスをかえりみた。
「あるじ殿、この剣を見せたい相手がいる。今しばらくこの剣を売らずに手元に置いてもらえないだろうか。おれが持つには軽いが、素晴らしい剣だ」
 子を褒められて喜ばぬ親はない。テタヌスは破顔して、剣を売らないと請け合った。
 マイクロトフはテタヌスにダンスニーを託して扉を開けた。
 早朝の白い大気が彼を押し包んだ。
 彼は城へ帰る足を止め、城壁のかなたに広がる、霧に包まれたマチルダの森を、町々を眺めた。ほのじろい霞のいりまじった緑が城の外に広がり、幽かに眩暈のするような遠景を作り出している。
 この国は彼の故国だ。
 どんな国も病む臓器をはらみ、その身の内外に傷を持たずにはいられない。
 騎士であるマイクロトフは、いわば国という巨大な身体の両脇に垂がる一対の腕に等しい。騎士はある意味こころや頭脳をつかさどる必要のない存在であった。自らが、てのひらに剣を握り、盾を携えて国を護る腕であり、それ以上のものでないことに、今まで彼は不満を抱いたことはなかった。
 しかし、己が身を腕に喩え、剣をふるうことに意義を見出したところで、国の内側に膿む病について忘れることができるものだろうか。
 マイクロトフは目を細めた。
 険しい目になっていた。
 
 
 
 
 





 六時課の鐘が鳴った。正午であった。
 日は高く上り、冷え冷えとした大気がようやく暖まった。
 朝から姿の見えなかったマイクロトフを気にかけながらカミューが教会の厩に馬をつなぐと、マイクロトフの馬はすでにつながれ、秣と水を与えられていた。
 教会の戸口には裁判が行われるしるしに、神木の枝で編んだリースがかかげられ、人々が群れ集っている。
 赤騎士団の礼服を着けたカミューが歩み寄ると、裁判に加わる騎士団長であることに気付いて、人々が道を開けた。その中に街道の村の者が数人混じって、敵意の篭った目で自分を見守っているのにカミューは気付いた。
 そのうちの誰とも目を合わせずにカミューは教会へ入った。彼等は、裁判が公正に行われないのではないかと思っているのだ。
 それも無理はないとカミューは思った。
 クラレットのグラスランドの生家から、家を出て異国で騎士の誓いを立てた次男のために、嘆願の手紙と、原告の家族に支払われるための、多額の平和金がゴルドーの許へ届けられている。裁判の際にやり取りされるこの金は、半分は原告の手に渡るが、残り半分は税として騎士団のものになる。騎士団の大きな収入源と云ってよい。
 それゆえに、人命が失われ、遺族が復讐を望んでも、被告が裕福であれば、金がやり取りされて終ることもままあるのである。むろんそれは、復讐が行われるより、平和金でことが過ぎ去った方が、騎士団のふところが潤うためである。
 礼拝堂には既に、白騎士に付き添われたクラレットと、街道の村の商人フェーズ、その息子夫妻、そして、寡婦のように厚い黒のヴェールで顔を覆った若い娘が参列していた。カミューは娘がその場に出てきたことに驚きを覚えた。孫娘を裁判の席に座らせたいとフェーズが望んでいたのは知っているが、当の娘がそうするとは思わなかったからだ。
 訴え出たのは祖父のフェーズであり、被害者である娘は裁判に加わらないことを許されている。むしろこういった裁判の場に、若い被害者が参列するのは、道徳上から好ましくないこととされていた。
 孫娘を敢えてさらし者にしてでも、決して騎士たちの都合のよいようには話を進めさせまいとする、フェーズの堅い意思を、そこに汲み取ることができた。
 そして、騎士団側の席にはマイクロトフと、青騎士団の副騎士団長が控えている。
 マイクロトフは石を刻んだような無表情だった。入ってきたカミューと視線が出会ったが、彼の凍り付いた黒い瞳には変化はなかった。
 マイクロトフがこの数日、何事かを決心して、それを誰にもあかさずにいることにカミューは気付いていた。それは、古い戒律と形式に縛られた騎士団の中で、何かしら型破りな何かであるのだろうと、彼は考えていた。
 騎士団長の役目に就いてからのマイクロトフは、幾度となく慣習に外れたことを提議して、保守的なゴルドーの怒りをかっていた。今回もそうなることはカミューの想像に難くなかった。
 
 
 
 
 



 騎士団の六名、被告、原告、そして証人たちが揃い、ニ・フリル(※)の神の明るい腕に抱かれた教会で裁判は始まった。
 先ずは、裁く者、裁かれる者がすべて、神父の浄めた水を満たした聖杯に指をひたし、真実を語ることを誓う。
「忠誠、公正、勇気、武芸、慈愛、寛容、礼節、奉仕、八つの騎士道の道徳のもとに、誓って真実のみを語る義務が貴様にはある」
 ゴルドーがクラレットをかえりみて、騎士の精神を掲げた宣誓文をそらんじることを要求した。
 ゴルドーは計算高い男だったが、そのゆったりとした巨躯は押し出しがよく、何よりもこの男は、身体いっぱいに響くような深い美声の持ち主だった。どこか性根の冷たさを覗かせる、灰色の瞳を嫌う者は騎士団の中でも実のところ多かった。
 しかし、かつてこの男が若かった頃、重い鎧と騎槍に護られた大きな体躯が先陣を切る頼もしさ、そして人波を貫いて腹の底に響く、角笛のような深い声が、味方を鼓舞するのに大きな役割を果たしたことも事実だった。
 クラレットが宣誓したのち、ゴルドーに罪状文を託されて、マイクロトフが立ち上がった。
 この裁判は、ゴルドーが決定権を握り、進行は、クラレットの属する青騎士団の団長であるマイクロトフが勤めることになる。そしてその裁判が公平なものであるかを監視するために神父が同席する。これが通常の形式だった。
 マイクロトフは、硬質な声でクラレットの罪状を読み上げた。
「被告クラレット・エプセンは四つの罪を問われている。
ひとつには、スフの村の商人ローベルト・フェーズの孫娘、グレーテを拉致して犯し、モナドの森に置き捨てた罪。
ふたつには、ロックアックス城下の街プロック、そのほかルール、ヘイゼル、それぞれの街でロックアックス城未許可の品物を売る斡旋を行い、店主から賄賂を受け取った罪。
三つには、その品物の中に領内での流通を厳しく戒められた麻薬が含まれていると知りながら、自らその売買に加わった罪。
四つには、領内売春の斡旋を行った罪」
 マイクロトフの声は低く、凍り付いたようだった。しかし、そこに鬱屈した烈しい怒りをカミューは感じ取ることができる。マイクロトフがこの瞬間も必死に自分を抑えているのが伝わってくる。
「これについて申し開きがあるなら、神誓って真実のみを、神木の許に語ることを許されるものである」
 中央に、フェーズと向かい合うようにして立ったクラレットの顔には、しかし追いつめられた様子はなかった。
 彼は実家から平和金が送られてきたことを、とうに察していることだろう。騎士団から追放されることは覚悟していたとしても、きつい罰を受けることはあるまいと、たかをくくっているのだ。
 こういった裁判等に携わる時は感情を殺すことをみずからに習慣づけ、それをやすやすとやってのけるカミューの胸にさえ、一瞬の嫌悪が沸いた。
 今マイクロトフが読み上げた罪状文は、マイクロトフが自ら足を運んで証人を探し、まとめあげたものであった。執務室で証言をまとめながら、クラレットの行状がひとつ明らかになってゆく度、怒りに書状を取り落としそうにその大きな手が震えるさまを、この数日間、彼の仕事を助けたカミューは幾度となく見ていた。
「わたしにはそんなことをした覚えはありません」
 クラレットは、正面に神木のリースを眺めながらごう然と形のよい顎をもたげて言い切った。
「貴様は、その四つの罪状全てに覚えがないというのか」
 ゴルドーが苛立ちを篭めてクラレットに訪ねた。
「まったく覚えがありません」
 若い罪人はぬけぬけとそう云った。ゴルドーでさえ、瞬間的に眉をひそめたにもかかわらず、相変わらずマイクロトフは内心をまるで表に見せなかった。
「証人、グレーテ・フェーズ。貴女を辱めたのはその男か。男の顔をよく見られるよう、また男から貴女の顔が見えるよう、ヴェールをあげて近寄るように」
 マイクロトフは冷徹に要求する。黒い瞳が、娘のヴェールに覆われた顔を射抜くように見つめている。娘は教会の木製の椅子の上でびくりと身体を震わせた。本人が覚悟を決めたのではなく、祖父に言い含められてこの場にやってきたのか、覚悟を決めてきたものの踏み出せなくなってしまったのか。
「グレーテ・フェーズ。貴女の傷について貴女以上に知る者はいない。証言しなければ、被告に罪があることを正当に申し立てるのは難しくなる」
 マイクロトフの声にはじかれたように娘は顔を上げた。娘の瞳は被告のクラレットではなく、書状を手にして立った、大柄な青騎士団長にそそがれているようだった。
 マイクロトフは子供のように幼い娘を見つめ返した。厳しく唇を結んだ青い礼服の男の冷たい造作をグレーテはしばらく黙って見上げていたが、意を決したようにそろそろと立ち上がり、黒いヴェールをあげて、クラレットに視線を転じた。
 血の気の薄い、まだ子供に近い形の唇がゆがみ、娘はためいきをついた。またマイクロトフを見る。注意深く見守らなければ解らないほどかすかに、マイクロトフはうなずいてみせた。
「この青騎士様です」
 娘がふるえる声で言い出した。唇が乾いてならないように小さな舌で唇を湿した。
「この方が、うちの店にいらっしゃいました。五日前の、晩課の鐘が鳴る少し前でした。店の品物をあれこれ御覧になって、許可の出ていないものだと……」
 声が途切れ、教会の中にいる者、外でなりゆきを見守る者のほぼ全てが、娘の言葉を、固唾を飲んで待ち構えていた。
「あたしが、そういうことは存じません、と申し上げると、騎士様はお城で話を聞かなければならないから、今すぐ一緒にくるようにとおっしゃいました」
「誰かそれを見ていた者は」
 ゴルドーが尋ねる。
「隣の家のおかみさんの、アルニカさんが見ていました」
  マイクロトフはうなずいた。グレーテの後方の席で、証人として呼ばれた初老の女が思わず椅子から腰を浮かせたのを制する。
「それから男は?」
「村外れまで行って、あたしを馬に乗せました。お城までは遠いから、とても歩いてはいけないからって。騎士様は、ご自分が騎馬隊に新しく入った騎士様方の中でも、特に見どころがあると、騎士団長様に褒められたこととか、騎馬の試合で一番を取ったばっかりだというお話をしてました」
 マイクロトフの瞳の中で黒い稲妻のようなものがひらめいた。彼はそれを知っている。むろんだ。クラレットをそう云って褒めたのはマイクロトフ自身だった。
「その男は、騎馬隊に今年新しく入った青騎士だと貴女に云ったのか?」
「はい」
 娘はうなずいた。
「お小姓にもならなかったし、すぐに騎士様になるひとは珍しいと……白騎士様のえらい方から直接騎士にしていただいた騎士は何人もいないとおっしゃいました。将来えらい騎士になるはずだから、今から何があっても……」
 娘は話しながら絶えずマイクロトフの目を見た。彼女は、マイクロトフのその黒々と深い目の中に、不正に対しての怒りがあることを感じ取っているのだ。その怒りをこころの頼みにするように話し続けるうち、娘の声のふるえはおさまり始め、強張った体がやわらいで、娘が小さな背をまっすぐに起こすのが解った。
 しかしそのこと自体に触れる時、さすがにかたくなな声になった。
「今から何があっても、あたしは云う通りにしたほうがいいとおっしゃいました」
「貴女は何と云ったのか」
 マイクロトフは相変わらず抑制のきいた声で尋ねた。
「あたしは何も言いませんでした。お城で品物のことを調べるのは嘘なんじゃないかと思いました。でも死にたくなかったから……」
怯えて傷ついてはいるが、その娘が明晰で賢い娘であることが、その場にいる誰もに、すぐに分かった。娘は馬上に攫われて身体をすくませながらも、青騎士の埒も無い傲慢な自慢話をすっかり覚え込んでいたのだった。
 記憶を辿りながら娘がひとつずつ語る言葉は、その青騎士が誰であったのか、鑿のあとも鮮やかに浮き彫りにして行ったのである。
「この娘の云うことは真っ赤な嘘です」
 クラレットがばかにしたような口調で云い出した。自分が騎馬試合で褒められた話をした、というあたりから、この若い騎士はそわそわし始めていた。娘の言葉を遮って、自分の言い訳をしたい気持でいっぱいになっているようだった。
「貴様に発言を許した覚えはない」
 ゴルドーが軽蔑しきったようにクラレットをかえりみた。クラレットは紅潮して沈黙した。ゴルドーは決して公平な領主ではなかったが、風向きを読み取るのに長けた男だ。彼はこの事件がいかに騎士団の名を辱めたのかを知っており、近隣の民に怒りをかったことも知っていた。
 ゴルドーはすでに、この場でクラレットを有罪にするこころづもりでいるようだった。無罪になってしまえば、多額の平和金の半額を税で徴収することもかなわなくなる。
「その後、何があったのかを話すように」
「騎士様は、東の森で馬から下りるように云いました」
「東の森とは?」
「モナドの森です。あたしたちは東の森と呼んでます。あそこには使ってない森番の小屋があるんです。森番に仕事がないから空き家になってます。騎士さまはあたしをそこに連れていきました」
「そこであったことを話すように」
 マイクロトフの声は冷たく、ほぼ酷薄に思えるほどだった。しかし、娘はマイクロトフに対してはもう怯えていなかった。娘の祖父のフェーズも、マイクロトフの顔を食い入るように見詰めている。
 カミューは不思議にも、半ば誇らしくも思った。一番信頼に足ると思える人間を彼等が見つけ出すのに、特に時間は必要ないのだと思われた。
「騎士様は小屋の中で、あたしにスカートを脱ぐように云いました。それから、これはあたしの祖父ちゃんや父さんのためになることだから、逆らっちゃいけないことだと云いました。だからあたしは……」
「云う通りに?」
「……はい」
 娘は小声で云った。
「……剣が恐かったんです……」
 再びしんと沈黙が落ちた。
「騎士がどんな剣を持っていたか覚えているなら、それを話してもらいたい」
「黒い柄に、青い紐が結んでありました……それしか覚えてません」
 マイクロトフはうなずき、みずから携えたひとふりの剣を、その場にかかげて指し示した。柄に象眼の細工をほどこした高価な剣だ。青い絹の飾り紐が結んである。
「それはこの剣だったか?」
 グレーテははっきりとうなずいた。頬に気丈な赤みが差した。
「それです。間違いないです」
「グレーテ・フェーズは座ってよい」
 ゴルドーが云って、小さな娘は崩れるように堅い椅子に座り込んだ。かきむしるような動きで元通りにヴェールを引き降ろす。その小さな手を、祖父がいたわるように握り締めた。
「クラレット・エプセン。申し開きがあれば立て」
 先刻から、娘を射殺さんばかりにねめつけていた若い騎士は、不貞腐れたように口を開いた。
「その娘に恥をかかせるまいとして黙っていたことですが、その店には素性のはっきりしないものが、たしかにその時いくつかあったのです。わたしがそのことを云うと、娘は黙っていて欲しいと云いました。モナドの森にわたしを誘ったのもその娘です。確かに誘惑に負けたのはわたしの罪ですが、無理強いした覚えはありません。証人は嘘をついています」
 沈黙を護っていた娘の祖父のフェーズの目が見開かれ、彼は今にも叫び出しそうに腰をあげかけた。
「だいたい、モナドの森にそんな小屋があるかどうかなど、わたしが知るわけがありません」
「クラレット」
 鞭のようなマイクロトフの声が彼の浅薄な言葉を遮った。
「これに見覚えはあるか」
 マイクロトフがその目の前に白い布で包まれたものを突きつけた。
 布を開くと、それは、家紋らしき花の刻まれた小さなボタンだった。騎士の礼服の下に着る内衣の胸に着けるボタンのようであった。
「これはエプセン家の家紋だそうだな。グレーテがその晩持ち帰ったものだ。当の娘が誘惑して姦淫に及びながら、ボタンをひきちぎったことに、貴様は気付かなかったというのか?」
 マイクロトフは、更に、ボタンの取れた1枚の内衣をクラレットの手に握らせた。象眼の柄を備えた剣も、その内衣も、ロックアックス城の兵舎で、クラレットの部屋から見付かった持ちものだった。
「母の持たせてくれた内衣を着て、貴様は娘を攫って犯し、その罪をさえ認めようとしなかった」
 今日初めて、マイクロトフ本人の感情がその声に表れた。それが刃そのものであるように、烈しい軽蔑の念をこめて、マイクロトフは吐き出した。
「恥を知れ、クラレット」
 
 
 



 そのあと、次々に証人が招き入れられ、クラレットの罪はひとつずつ証されていった。同じ青騎士団に三人、赤騎士団にひとり、彼の悪事を助けて甘い汁を吸っていたものがあり、それも顕かになった。赤騎士が証人として立った時はカミューがその者を審問した。彼等の裁判は改めて行われるが、おそらく高い罰金か、それを払えない者は体罰を受けることになるだろう。
 騎士の裁判としては異例の時間がかかっていた。普通ならば被告、原告が互いの不服を言い合い、一刻か、二刻話しあって判決を迎えることが多いが、六時課の鐘と共に始まった裁判は、九時課の鐘(※)をとうに聞いて、ようやく評決に漕ぎ着けた。それだけクラレットが、騎士になってからの僅かな間にかさねた罪状は膨大なものだったのだ。外は一刻も前から暗くなり、寒さが増したが、見物に来た者たちは殆ど帰ろうとはしていなかった。白い息を吐きながら教会の入り口を、相変わらず人だかりが囲んでいる。
 見物人も、若く潔癖な青騎士団長の存在ゆえに、この裁判がどこか、いつものそれとは違うということに気づいているのだろう。カミューは思った。
 評決は先ず、課すべきだと思われる罰を、騎士団長たちが一人ずつ述べる。それによって多数決を採れるようなら、その通りの罰が被告に与えられることとなる。
 今日の裁判では、青騎士団の二人、そしてカミューら二人、次に白騎士の二人がことを述べ合う運びとなっていた。
 ゴルドーが評決を宣言した。
「それぞれの者は、被告クラレット・エプセン、この者の顕かにされた罪をいかに裁くべきか、公正な判断の許に示せ」
 マイクロトフが立ち上がった。
 彼の顔色は怒りに青白く褪めて、瞳の位置に二点の黒いほむらを宿した氷の像のようだった。薄く酷薄に調った唇が開いた。
「斬首」
 その場の空気に倦んだように座していたクラレットは、大きく目を見開いた。
 突然目に落ちつかなげな光がひらめき、彼は信じられないように周りを見回した。その表情から、クラレットが斬首の可性すら考えていなかったことが分かった。
 続いて、マイクロトフに心酔する腹心の部下である、青騎士団の副団長、ベルナールが立ち上がった。彼はマイクロトフほど熱くなってはいなかったが、忌々しげな表情を浮かべていた。この問題に彼も無関係ではいられない。ことに、マイクロトフが城を留守にして、彼が青騎士団を預った間に、全ては起こったのだ。
「斬首」
 ベルナールは素っ気無くつぶやいて、誰とも目を合わせようとはせずに座った。
 カミューは立ち上がった。彼はこの数日、マイクロトフがことを調べるのに協力し、吐き気のするようなクラレットの行動の多くを書状にまとめる役割を自ら申し出た。マイクロトフが仮にこうしなくても、彼のこころも決まっていた。
「斬首を」
 彼は静かにそう云って座した。
 クラレットがこの教会に入ってきてから初めて、傲慢な目に絶望の色を浮かべるのをカミューは見て取った。
 不意に、数日前、自分の腕で支えてやった老人の体の、紙のような軽さを彼は思い起こした。老人と娘は、娘の親は、はたしてこの判決に、何かしら救いやこころの安寧を見出すだろうか。
 彼の隣に赤騎士団副団長のタイロスが立ち上った。ハルモニア出身のこの赤騎士は、男のカミューでさえ見上げるほどに背が高く、ハルモニアの民特有の表情の薄い男だった。だがこの男も、どこかマイクロトフと似た、鬱積しやすい熱をはらんだ男でもあった。
「斬首」
 タイロスは低く、はっきりとそう言い放った。
 その瞬間、青騎士クラレットの運命は決まった。六人の騎士のうち四人が斬首を望んだのだ。ゴルドーが苦い顔になった。騎士の斬首はここしばらく行われておらず、ことが大きくなるうえに、この裁判で騎士団が得るものもない。
 ゴルドーは葛藤するようにちらりとクラレットの顔を見た。クラレットは椅子の上で、うつろな顔で膝を震わせている。続いて、意に添わないマイクロトフをねめつける。ゴルド-は前日、マイクロトフを呼び、平和金での解決について考えるよう、言い含めていたのだった。カミューにも彼はその旨を打診していた。
 しかしもう事実上判決は下りたも同然だった。ここはゴルドーの執務室ではなく、騎士と唯一肩を並べうる神父の監視の下にある教会であり、裁判所でもあるのだ。赤騎士青騎士団の四名が斬首に票を投じたなら、白騎士が平和金を主張するのは、むしろ不名誉なことだった。そして騎士団の利潤以外の理由、すなわち公正や慈悲が斬首を避ける理由になるには、クラレットの罪はあまりにも明白であり、悪質だった。
「斬首」
 ゴルドーは巨体をゆするようにしてそう吐き捨てると、乱暴に椅子に座りこんだ。もうひとりの白騎士も、平和金での解決を主張する事はなかった。
 クラレットは放心したように座り込み、フェーズもまた、喜びよりは力が抜けたように疲れて白茶けた顔をしていた。
 最後の一人が斬首をつげた瞬間、クラレットの罪を証した証人たちの多くもまた、表情をこわばらせた。
 相手が罪人であるとはいえ、自らの証言が一人の人間を斬首に追い込むことは、ひとに少なからず不快な衝撃を与えるものだ。
 黒いヴェールをかぶって膝の上で両手を組んだグレーテも凍ったようにうつむいて動かなかった。
 その場には、勧善懲悪の爽快感も、何事かが昇華する手応えもなく、どこか漠々と空しさがあった。
 
 
 



 三騎士団の六人がすべて斬首の決を下すという、異例の結果をもって、クラレットの裁判はようやく終りを告げるかと思われた。自失したクラレットを数人の青騎士が教会の外に連れ出し、散会が告げられようとしたその時、マイクロトフが立ち上った。
「ゴルドー様、お願いがあります」
 ゴルドーはあからさまに眉をひそめて、目障りな青騎士団長を眺めやった。
「この裁判に関することなら云え」
「青騎士クラレットを監督できず、その罪を繰り返すことになったのはおれの咎でもあります。その責任を取って、クラレットの処刑はおれにお任せ頂きたい」
「……!」
 その場は大きくざわめいた。
 ゴルドーはあっけに取られたような顔になった。
 罪人の処刑は、代々その役目を担ってきた死刑執行人が務めることになっており、ロックアックス城にも、牢番と死刑執行人を兼ねて勤める老人がいる。死刑の執行は罪と穢れに触れることとされており、騎士団長ともあろう者がそれに携わるなどという話は聞いたことがなかった。
 終始マイクロトフを見守ってきたつもりのカミューでさえ、度肝を抜かれて茫然と友人の顔を見詰めた。このしばらくの間、マイクロトフがそんなことを考えていようとは、さしもの彼も気づかなかったのだ。
「馬鹿なことを云うな」
 ゴルドーは怒りと苛立ちに声を荒げて一喝した。
「斬首は死刑執行人が執り行う事になっている。貴様もそれを知らない訳ではあるまい」
「死刑執行人以外が斬首を執行してはならないという、その理由は何ですか」
 マイクロトフは興奮しているようだったが、それは考え抜いたことのようであり、思いのほか言葉は平静だった。
「決まっておる。罪人の斬首は穢れをともなうことであり、穢れに触れるのは騎士の役割ではない。ましてや貴様は騎士団長だ。自分に背いたクラレットに対しての怒りを晴らすつもりだろうが、青騎士団全体の顔に泥を塗るようなことは許されるものではない、控えていろ」
 居丈高なゴルドーの言葉に、マイクロトフはいささかもひるまなかった。
「おれは私憤を晴らしたいわけではありません」
 青ざめた唇でマイクロトフははっきりと言葉を綴った。
「死刑執行人のゴッドヘルトはご存知の通り、今年七十四歳にもなる老人で、後を継ぐ息子がありません。死刑執行人は代々同じ家系に受け継がれてきましたが、ゴッドヘルトは息子を亡くし、妻も既に無く、両手をリューマチで病んでいます」
 マイクロトフは一拍置いた。感情をおさめようとしているようだった。
「あの男は、騎士団のために五十五年間、ひとの首をはねてきました。しかし我々はゴッドヘルトをねぎらうどころか、一部では彼の名をニヒトヌート(※)などと呼び、台所女でさえ彼と食事を共にしません。おれたちが、自分たちの生み出した穢れを、全部あの男に背負わせているからです」
 教会の中はしんと静まりかえった。マイクロトフの身体からは青白い炎が立ち昇っているように見えた。
(マイクロトフ)
 カミューは彼を見つめると、時折感じる、正視できないようなまぶしさに目を眇めた。そして、年下の友人、実直だがどこか幼さを残していると思っていた友人の言葉を、指先の痺れるような高揚と共に聞いた。
「我々は裁判を開いて罪人を裁く。なのに罪人は穢れていると云って、死刑執行人に押し付けてしまう。罪人の死の責を全て、あの男一人の肩に半世紀も背負わせておきながら、やっと生きていけるパン以上に何を支払ったでしょうか。老人になってから、あの男は夜毎、過去の亡霊に苛まれていると云います。理由のない罪の意識と、妻が死んで以来、あの男を気遣う者がいなかったせいで衰えた手足しか、ゴッドヘルトにはもう残されていません」
 マイクロトフの声の中に、理不尽への怒りが鋭く覗いた。
「おれは、あの老人がクラレットの首を断つ必要はないと思う。あの老人は休みたがっているし、もう休むべきです。処刑ならおれが充分にやれます」
 カミューは不意に、蒼白な額に汗を浮かべて立つマイクロトフの身体が、発熱していることに気づく。マイクロトフの不調を自分が鋭敏に感じ取る理由は思い当たっていたが、彼は今日まで、そのことを煎じ詰めて考えようとしたことはなかった。
 しかし自覚は、つきつめるまでもなく、今日、落雷のように頭上から降ってきた。
「傷は殺される者や遺族にだけでなく、殺す者の気持ちにも残ります。年老いて自由がきかない身体で剣を振れば、その傷はもっと深くなります」
 マイクロトフの声がはりつめた。
「ゴルドー様、おれに死刑執行の命を与えてください」
 マイクロトフとゴルドーの視線がかち合い、それぞれが互いの目の中に、一生相容れることのない意思を読み取った。
「貴様は自分の役割を勘違いしているようだ」
 ゴルドーは唾棄せんばかりだった。不快を隠そうとせず、腰をあげた。
「そんなに罪人の首をはねたければはねればいいだろう。ただし青騎士団長の座を下りてからにすることだ。そのあとなら、牢番の息子代わりだろうと跡継ぎだろうと、好きなものに好きなだけなるがいい。だが、貴様が青騎士団長である限りは、そんな馬鹿げた振る舞いを許すわけにはいかん」
「ゴルドー様」
「議論の余地はない」
 ゴルドーは憎悪を匂わせる口調で呟いた。もうマイクロトフの顔を見なかった。
「失せろ、目障りだ。今日は貴様ら青騎士の礼服すら目にしたくない」
 自分個人にではなく、矛先が青騎士に向いたことに、マイクロトフの顔色が一段と青ざめた。
「騎士団長が貴様のような男だから、部下もつけあがる。マチルダ騎士団もとんだ厄介者を抱え込んだものだな」
 思わぬ理不尽な刃をつきつけられてその場に立ちすくんだマイクロトフの瞳が、昏く燃えあがった。マイクロトフの隣に立つ、やや小柄で柔和なベルナールの顔は、対照的に怒りで真っ赤になった。
「失せろと云ったのが聞こえなかったのか、青騎士団長」
「……」
 マイクロトフはしばらく、陰陰と燃える目でゴルドーを見守っていたが、一礼して教会の出口に向かった。教会に群がって裁判を傍聴していた人々は、さながら沈黙の石を飲み込んだように、重く静かにマイクロトフに道を開けた。
 ベルナールがその後を追い、カミューはゴルドーに抱いた自分の嫌悪感を悟られないよう、目を伏せて席を立った。タイロスが自分にならうのが視界の隅にちらりと映る。
(「おれに死刑執行の命を与えてください」)
 そう云い放ったマイクロトフの声を、一種独特の快楽と共に反芻し、カミューは身のうちに、ふるえるような歓びを味わった。
(「傷は殺すものの気持にも残ります」)
 生まれながらにしてマチルダ騎士の家柄に生まれ、幼い頃から騎士となることを当然のこととして育ってきたマイクロトフが、何時の間にあのような考え方を身につけたのだろうか。
 神木のリースの下の戸口をくぐりながら、カミューは自分が白く明るくひらけた、不可解な道へ踏み出したことを知った。
 自分はその向こうにあるあの男のこころが欲しいのだ。あのうす蒼い硝子の扉を開く鍵が欲しい。今、あの男のこころ以上に、得る価値のあるものがあるだろうか。
 渇きが沸き上がってくる。
 烈しく快い渇きだった。
 かつて自分が子供だった頃、蔓薔薇の絡む屋敷の門のアーチの向こうに待ちうける、自由という名の未知の世界にこころをときめかせたことと、それは似ていた。
 
 
 
※讃課の鐘=午前3時頃
※六時課の鐘=正午
※九時課の鐘=午後3時頃
※テタヌス=破傷風
※ニ・フリル=午後
※ニヒトヌート=能無し、役立たずの意。

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