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午後の食卓(2007年2月)

05 01 *2009 | Category 二次::逆転裁判・ナルミツ

 少し、空腹時の方が穏当。

続き





 気づくと、自分達は一昼夜セックスしかしていなかった。
 食事はなるべく規則的に摂ることをこころがける成歩堂にとっては、それは驚くべきことだった。エネルギー切れは思考を鈍らせる。
 そして、御剣がそれ(それ、とは、昨日からこの部屋で起こった全てを指し示す代名詞だ)に、異議を唱えなかったことも驚くべきことだった。


 彼等は成歩堂の部屋で、一月の短気な太陽が傾き始めた頃、カーテンを引いた。カーテンの色は緑だ。部屋の中は淡い緑の光に満ち、二人が身につけていた服に複雑な色を投げかけた。それぞれ、青と赤の衣服をつけることの多い成歩堂と御剣は、昨日も殆どお仕着せとも云うべき、その色の服を身につけていた。
 しかし、カーテン越しの緑色の光に染まって、リビングの床にだらしなく脱ぎ捨てられた服は、いつもと同じ色には見えなかった。青のラフなシャツは、海の底に沈んだような青緑に。ワインレッドのスーツはかすかに灰色がかって見えた。
 二人はラグも敷いていない床の固さに閉口しながら、勢いを止められず、御剣の貝殻骨と、成歩堂の膝にかすかな擦り傷を作って抱き合った。御剣の苦痛の呻きも、成歩堂の火のような呼吸も、その薄緑の部屋が吸い込んだ。やがてカーテンの向こうに光が途絶え、世界を黒いドーム型の夜が支配し始めた頃、二人はようやく身を起こして、ベッドに移動した。
 御剣は立ち上がるときに軽くよろめき、成歩堂に支えられた。それが屈辱的だったのか、御剣は自分の肩にかかった手を振り払った。
(「床をこのままにしておいて、大丈夫だろうか?」)
 何を云うかと思えば、御剣の喉から、そんな言葉が漏れた。
 いつにも増して愛想のない声だった。成歩堂は、二人分の体液で汚れ、封を切ったコンドームの袋が落ちた床を見下ろした。ティッシュを何枚か乱暴に引き出すと、大雑把に、フローリングの粘った部分だけを拭った。ゆっくり床掃除などしている場合ではなかったし、どちらにしても部屋はもう薄暗くて、手元がよく見えない。成歩堂が床を擦っている僅かな間、御剣は取り残されたように傍らに立っていた。
 丸めたティッシュをゴミ箱に放り込み、成歩堂は御剣に手を伸ばした。右手で、御剣の右腕を握りしめる。御剣の皮膚は汗ばみ、おさまりきらない鼓動が、ドッドッと鳴り続けていた。これは二人が共通の行為の末に作り出した汗。そして、二つの身体がめちゃめちゃに混ざり合った結果、生み出された鼓動。
 成歩堂はもう一度同じ行為に御剣を誘い込むために、その腕を引いた。
 御剣は切れの長い目を僅かに細めて成歩堂を睨んだ。
 云いたいことはたぶん山のようにある筈だ。痛みや、衛生環境の劣悪さや、この行為の持つ意味や、それによって生じた、やるせない居心地の悪さについて。そして御剣さえ口を切れば、成歩堂も云い返せる。御剣が並べるだろうネガティブな心象に、成歩堂はおおよそポジティブに反論出来る自信があった。切られたら切り返す。その心構えが出来ていた。
 だが、御剣は何も云わなかった。ただ、剣呑な目つきで成歩堂を見た後、黙って寝室に足を踏み入れた。
 成歩堂のベッドは、寝室の窓の真横に寄せてあり、窓の外には赤黒く燃え残った夕陽と、隣の建物のアンテナの暗い輪郭、水銀を撒いたような星が見えた。ベッドにかかっていた薄い上掛けを引き剥いで、成歩堂は御剣の背中をシーツに押しつけた。
 その身体の上にゆっくりと乗り上げる。二人の呼吸はまだ荒れている。
 今まで床に痛めつけられていた背中がマットレスの弾力に迎えられて、御剣はほっとしたように息を大きく吐き出した。
 成歩堂は、自分の窓の外の眺めに、御剣が気を取られたことに気づいて、カーテンを引いた。リビングにかかっているのと同じ色のカーテンだ。引っ越してきた次の日に、ホームセンターでまとめて買ってきた、安物の既製品だ。部屋の中はカーテンに閉ざされて暗くなり、二人の身体をぼんやりと白く浮かび上がらせた。
 自分と行っていること以外について、御剣に注意を払われては困るのだった。御剣が自分の背中越しに星を数えて、行為に耐えることを想像する。成歩堂はぶるりと背中をふるわせた。それは陵辱と変わらないように成歩堂には思えた。
 いかなる暴力も、自分達の間に割り込んでは欲しくない。
 彼は、御剣の濡れた太腿の間にてのひらを這い込ませた。形の良い筋肉をつけた、長い脚を押し開く。焦るまいと思うが、早く、早く、とせき立てるものが成歩堂の中にはあって、彼の指をともすれば性急にした。
 つい先刻まで自分を呑み込んでいた部分を探った。そこはローションでうるみ、すっかり柔らかくなっていた。少し腫れているようだが、傷ついた様子はなかった。成歩堂は安堵して、その中に指を滑り込ませる。汗に冷えた肌とは対照的に、御剣の内部ははっとする程熱かった。運動によって上がる体温は約一、二度だと聞く。そして、体内は体表よりも約一度ほど温かい。たぶん今、御剣の体内の温度は三十九度近くになっているのだろう。
 その熱が自分を高ぶらせるということについて、成歩堂は感慨を口にしたかった。だが、何も云うことは出来なかった。御剣の羞恥心を呼び起こすことは、同時に彼のプライドを傷つけることかもしれない。それが成歩堂を臆病にした。
 指を曲げると、うっ、というような声を御剣が漏らした。成歩堂は手を止めて彼を見下ろした。それが苦痛によるものなのか、それとも快感を表わすものなのか分からなかったからだ。後者である可能性は低いような気がした。だが、御剣の身体は、痛みに強張ってはいなかった。深部は、痙攣するような複雑なうねりで成歩堂の指を迎え入れ、誘い込むようにゆるやかに締めつけた。
 それが、自分の思い上がりでないことを、成歩堂はどうしても確かめたかった。
(「痛くない?」)
 自分達以外の誰が聞いているわけでもないのに、声をひそめてささやくと、御剣が息を吸い込むのが聞こえた。それと共に、成歩堂の指がまた、強く締めつけられる。
(「痛むだけの行為に、唯々諾々と従うものか」)
 掠れた声がそう云い返した。
 君は今だって、唯々諾々と従ってなんかいない。
 成歩堂はそう云いたかったが、口論になりそうなのでやめた。法廷以外の場所で、御剣と色々なことについて云い合うのはたまらなく好きだ。だが、今でなくてもいい。
(「なら、いいけど」)
 御剣の両脚を抱え上げるようにして、思い切って自分の腰を突き入れると、指が感じたのと同じ熱さが成歩堂を包み込んだ。快感が背筋を熱く貫いて、かっと顔が熱くなる。コンドームを付け忘れたことに気づいて狼狽するが、もうやめられなかった。
(「御剣」)
 彼は耐えられなくなり、泣きたい気分で御剣を呼んだ。子供のように声が揺れた。御剣の全身を鎖帷子のように取り巻いている誇り(それはサイコロックよりも、なお苛烈なものだ)を押し開いて、自分が彼の内側にいるのだということを再認識する。
 御剣は不正を許さない。
 御剣は他者の介入を望まない。
 御剣は依存したがらない。
 自分が今、彼とつながっていることが、あらゆる面で御剣の本来の理想に反しているのだということを、成歩堂は理解していた。許されて、彼の内側に足を踏み入れたのだと思った。甘いせつなさに視界がぼやけ、涙がにじんで来た。流れ落ちるほどの涙ではなかった。その代わりに汗が伝って、御剣の頬に一滴落ちた。彼は御剣の頬をてのひらで綺麗に拭った。
 御剣を汚しているとは思わなかった。そう思うことを御剣はきっと許さないだろう。
(「御剣」)
 もう一度呼んだ。
(「みつるぎ」)
 すると、御剣の腕が上がり、成歩堂の硬い後髪をぐいと掴んだ。
(「傷がついたCDみたいに、人の名前を反復するのはやめてくれ」)
 閉口したようにつぶやかれた。声の最後が弱く掠れた。成歩堂が身体を動かしたせいだ。二人分の体重を受け止めた安物のベッドは、成歩堂のリズムに合わせて、呻くようにきしんだ。
(「クソ」)
 御剣が低く毒づくのが聞こえた。
(「床の方がマシだ」)
(「音なんて気にするなよ」)
(「無理だ」)
(「集中すれば気にならないはずだろ」)
 強引な口調に、御剣は黙った。自分の言葉に耳を貸す気になったのか、適切な切り返しを思いつかなかったのか、それは成歩堂には分からない。
 かろうじて冷静さを保っていられたのはそこまでだった。成歩堂は、舌ごと御剣の内臓を吸い取ってしまいたいような衝動に駆られて、深くキスした。口の中もひどく熱い。完璧な形で成歩堂を惹きつけていた前歯の上、憎まれ口ばかり紡ぎ出す舌、複雑な内部を持つ口蓋。浅く、深く、舌を差し入れて舐めた。
 腰を揺らし、御剣の身体のぬかるみを味わう快楽に浸る。もっと深く入り込みたい。濡れた皮膚と皮膚のぶつかる音、濡れた粘膜のたてる水音がぼんやりと聞こえてくる。ひどく気持ちがよかった。暗い部屋の中なのに、視界が明るくなったような錯覚を覚える。御剣の輝くような体熱のせいだ。これは、間違いなく彼と自分の身体の間にあるものなのだ。
 激しい運動を一時間したときにかく汗が、体温を下げる能力は、その汗がすべて蒸発したとして計算すると、七キログラムの氷に相当する。
 しかし二人の身体の内側にたまった熱はどんどん上昇するばかりだ。興奮と昂揚のもたらす軽熱。シーツが濡れ、部屋に独特な匂いが籠り始める。閉塞感の中で二人は益々発熱する。数キロの氷塊をあびせられても、およそ正気に返ることなどないように。

 カーテンをかたく閉ざしたまま、初めての一晩はあっという間に過ぎ去った。二人は合間にかろうじて何度か水を飲み、一度は、身体の上で固まった体液を洗い落とすために、交互にシャワーを使った。先ず成歩堂が、そしてあおのいて人形のように横たわっていた御剣が起き上がって、浴室に向かった。しかし、湯の匂いをさせて部屋に戻った後、二人はもう一度同じ行為に耽った。
 自分の欲望が尽きないことはともかく、御剣の体力が保ったことに成歩堂は驚かされた。御剣は年末の数日間を留置所で過ごしている。釈放された後は、パニック状態に近い仕事場の状況を収拾するために仕事浸けだったと、糸鋸から聞いていた。
 御剣の身体は、およそ慣れているようには見えなかった。いつ彼の意識が途切れて、先に眠り込んでも彼を責められないと思っていた。
 だが、御剣は自分を抱きしめる成歩堂の腕に強健に応え、きつい道のりを走る長距離ランナーのように、辛抱強い呼吸を繰り返した。四肢には確かな力が籠っており、途中からは御剣も快楽を受け止めているのがはっきりと分かった。御剣が成歩堂の行為を咎めたのは、成歩堂が、自分のてのひらに受け止めた、御剣の精液を舐め取った時だけだった。
(「正気なのか、キミは」)
 一瞬前まで快楽に溺れていたとは思えない鋭さで、御剣は叱責した。
(「感情に任せて、意味のないことをするな」)
 成歩堂は、舌に粘りついたぬめりに少し後悔したが(成歩堂の、御剣への激しい執着をもってしても、味覚と嗅覚を完全にコントロールすることは不可能だ)、首を振った。
(「愛情行為だろ? これも」)
(「あいにく、私は自分の体液を他人に飲ませて、愛情を確認する習性はない」)
(「じゃあ、今までの……は愛情を確認するためのものだと認識してる?」)
 成歩堂のゆさぶりに、御剣は陥落しようとはしなかった。口元が片方だけかすかに上がる。彼は、まだ成歩堂と繋がり合ったまま、呆れたように首を振った。得意のオーバーアクションは、こんな場面でも健在だった。
(「それは、むしろキミに尋ねたい」)
 今まで、はっきり言葉にはしなかった成歩堂は思わず云いまかされる。そして、その一瞬の沈黙で、その場の支配権を御剣に譲ってしまったことを悟った。だが、今は負けても構わない。喉が焼けつくような欲求を、御剣と共に満たすことを許されたのだ。
 外されて、ベッドサイドに置かれた成歩堂の腕時計の短針は、着実に十二個の数字を一巡し、更に時間が経った。

「明け方くらいかと思ってた」
 カーテンの外の日差しが高くなったのに気づいた成歩堂は、茫然として時計を覗き込んだ。
 一月三日。某時刻。と、ぼかしたいところだが、時計は明らかに十一時を指し示していた。
 御剣は、朦朧としたように成歩堂を見上げ、ふ、と息をついた。
「日の出から、ざっと四時間は経ったな」
 御剣がこの部屋を訪れたのは昨日の昼。
 きっかけは、土日にようやく休暇が取れたと云って、堅苦しくぎこちない挨拶をするために、電話がかかってきたのだ。
(「キミはまだ正月休みだろうから控えようと思ったのだが、私はこの土日しか休めそうにないのでな。休暇中失礼する」)
 電話の向こうの御剣の声は遠く、居場所が知れずに、成歩堂を不安にさせた。家に招いたのは、もののはずみだった。
 御剣が来るはずはないと思ったのだ。
 だが、御剣は成歩堂の極めて浅薄な誘いの言葉を聞いて、暫く沈黙した後、
(「伺おう」)
 と簡潔に云った。
 だが、それから二時間後には、二人は既に成歩堂の部屋で服を脱いでいた。カーテンを閉めた。手さえ握ったことがないものを、全身の皮膚と粘膜で触れ合った。
 御剣が昨日、メモ代わりの携帯を片手にマンションを訪れた時、自分が何を云ったのか、はじめにどうしたのか、どう云われたのか、御剣のロングコートの下から、法廷で見るのと殆ど変わらない色のスーツが現われた時、自分がどんなに混乱したのか。御剣が応じた時の衝撃がどんなものだったのか。
 その時の感情が、成歩堂のなかに津波が押し寄せるようによみがえってきた。
「御剣────記憶ある?」
「……?」
 御剣は、カーテン越しの日差しの中で淡い緑に透ける、色素の薄い髪をかきあげながら、引きずるようにして身を起こした。てのひらで目許を擦る。白かった目許の皮膚が、そうするとかすかに赤らんで、成歩堂はどうしても御剣が紅潮した様子を思い出す。
「どこからどこまでの記憶だろうか?」
「いや……どこからどこまでって……昨日とか、ゆうべとか……今朝とか」
 御剣は明らかに思案するように視線をさまよわせた。
「そうだな。自分では意識をしっかり保っているつもりだったが、ところどころ不鮮明だ。私が何を思い出すべきなのか、キミが明確に提示出来るなら、こちらの記憶と摺り合わせる努力をしてもいいが?」
「いや、いやいやいや、結構です。……」
 成歩堂は舌を噛むかというような羞恥心に見舞われて、慌ただしく御剣の言葉を遮った。
「御剣」
「何だ」
 苛々したように返されて、成歩堂は呼び掛けに続く言葉を必死に考えた。自慢にならないが、追いつめられた状況で、破れかぶれの抜け道を考え出すことについては、成歩堂は定評がある。確かに彼のこころに触れたと思った、昨日の照り光るような感覚は、まだ成歩堂のなかに生き残っている。だが、緑色のカーテンを透かす午前の光は、まるで世界が終る日の木漏れ陽のようだった昨日の午後とはうって変わって、あかるく健康的で、成歩堂に感傷的な言動を許さなかった。
「御剣、腹、減ってないか?」
「特に意識していない」
「いやいや、減ってる筈だって」
「食事を摂れずに徹夜するのは、珍しいことじゃない」
 だが、食事を摂らずに二十時間ぶっ通しでセックスするのは珍しいことのはずだ。
 成歩堂はこころのなかでつぶやく。
「何時間食わずに稼働してるんだよ……」
「四十時間が限界だったと記憶している」
 御剣は、よどみなくすらすらと答えた。
「寝が足りなくなると消化力が衰えるからな。まず水だけ飲んで一眠りしてから、起きて何食分かまとめて食べる。当然胃が重くなるから、何時間か汗を流す。その後はすぐに仕事に出る。そういうサイクルでも、特に不自由を感じたことはない」
 成歩堂は、特に不健康な様子もなく、痩せてもいない御剣の身体を眺めた。締まった筋肉が腕にも背中にもついており、美しいと云っていいラインを描いていた。
「汗を流すって、どんな風に?」
 成歩堂は慎重な気分で尋ねた。予想を超えた答が返ってきたとき、ダメージを受けないようにするためのこころの準備をした。
「ただ走るだけのこともあるし、ジムに行くこともある」
 御剣が通うというなら、さぞかし高級な、会員制のトレーニングジムだろう。成歩堂は半ば反射的にそこに突っ込んだ。
「ジムというと、どんな?」
「一カ所は会員制のスポーツジムだ。泳ぐか、マシンでトレーニングするかを、自由に選択出来る。その気になれば毎日行ってもいい。時間的にそうも行かないがな」
 予想通りの答が返ってきた。
「一カ所? 他にも行ってるのか?」
「もう一カ所はボクシングジムだ。三年ほど世話になっている。プロテストを受けることを断ったのに、親身になって面倒を見てくれる、面倒見のいい会長のいるジムだ。あそこに通うと、周囲の雰囲気に圧倒されて、必要のないウェイトコントロールも行うことになるのが玉に瑕だ」
「ボクシング?」
 成歩堂は青ざめた。御剣にボクシング。鬼に金棒と、ついでに人殺しのライセンスをおまけにつけてやるようなものではないか、と思う。三年前というと、御剣が検事になった頃だ。御剣がボクシングのグローブをつけて、サンドバッグを叩いている様子を思い浮かべた。それはストイック且つ、凶悪な情景のように思えた。御剣には、力任せで叩き付けたいようなストレスが存在するだろうか? 成歩堂は考え込んだ。存在しないはずはない。御剣の抱えた深刻なトラウマに加えて、完璧主義の狩魔の許で決して失敗を許されずに、一から十までを仕込まれたのだ。
「試合なんか、するのか?」
「云ったろう。プロにならない以上、試合が組まれることもないのだよ。だが、ジムの中で、プロ選手のスパーの相手をつとめることはある」
「スパー?」
「スパーリング。練習試合のことだ。ここだけの話だが」
 御剣はにやりと口元を吊り上げた。
「法廷で検事が顔を腫らせているわけにはいかないからな。顔は決して、どんな相手にも殴らせない、というのが私の身上だ。真剣勝負ではまだ負けたことがない。まあ、今後のことは分からないが」
 成歩堂は更に青くなった。決して御剣を怒らせないようにしよう、と内心で誓う。それにしても、昨日よく殴られなかったものだ。
「キミは」
 上掛けのかかった御剣の裸の下半身は、どうやらベッドの上に胡座をかいているようだった。自分の膝の上に肘をついた御剣は、下着をつけてベッドに座った成歩堂の身体を一瞥した。
「探偵紛いの調査を徒歩で行うだけあって、脚は鍛えているようだが、上半身が弱いな。腕が骨張っているし」
 御剣は、成歩堂の肘をそろりと撫でた。昨日の彼の言動を思うと挑発とも取れかねない仕種だったが、しかし二人とも渇き、疲れ切っているのは本当だった。
「それに腹筋が弱いな。もう少し鍛えることだ、軟弱弁護士。最中に、上で息を上げられたのでは、悲愴でかなわない」
 眉間に皺を寄せてそんな風につぶやかれて、成歩堂は今度こそ返す言葉がなかった。

「キミは料理をするのか?」
 実に意外そうな御剣の声が背中に降ってくる。どうやら寝室から起き出してきたらしい。寝る前に貸した、成歩堂の紺色のパジャマを着ている。普段着ているのを決して見かけないような、しかも自分の持ち物に身を包んだ御剣を見て、成歩堂は気分がよくなった。
 彼はフリーザーから取り出した冷凍野菜をレンジに入れながら答えた。
「毎日外食する経済的ゆとりがないんだよ」
 二人は、御剣の主義に従って、水だけを飲んで、かろうじてシャワーを浴び、仮眠を取った。幾らも眠らない内に、成歩堂は空腹感に耐えかねて目を覚ました。御剣は先刻、起きた後にまとめて食べる、と怖ろしいことを云っていた。何か作るなら腹持ちのいいものを多めに作っておいた方がいい。と、云っても野菜と肉と海老と米しかなかった。全て冷凍してあったものだ。このラインナップで、成歩堂が簡単に作れるものと云えば炒飯くらいのものだった。
「先に云っておくけど、たいしたものは作れないよ。君が普段食べてるようなものを期待されちゃ困る」
「私の食生活について、どういう想像をしているんだ? 検事の給料で、ベージュ・アラン・デュカスや、トゥーランドット游仙境や、リストランテ・アソで毎日食事をしているとでも?」
 今月の家賃を心配する成歩堂には縁のない店なのだろう、と云うことだけは察しがつく。店の名前から判断すると、上からフランス、中華、イタリア料理だろうか。
「でも、インスタントラーメンなんか食べないだろ?」
「イメージでものを云うな」
 御剣は苦々しく云った。
「だが、インスタントラーメンよりは、実際パスタの方がいい。茹で時間が厳密に書かれているからな。麺がほぐれたら、とか、二、三分茹でる、などという曖昧模糊な表現をされては、いつ火を止めればいいのか判断しかねる」
「パスタソースは自作するの?」
「大抵、ニンニクとオリーブ油と唐辛子で和えて終わりだ」
 何だ、意外とちゃんと料理をしてるんじゃないか。そう思いながら成歩堂は海老と肉の間で迷った。海鮮が苦手な人も割合に多いので、確認しておいた方がいいだろう。
「御剣、苦手な食材は?」
 そう尋ねると、御剣は突然不機嫌な顔になった。
「別に食べられないものなどない」
「好き嫌いはあるんだろ?」
 すると、御剣は腕組みをして、斜に構えた視線を投げかけてきた。
「何故キミにそんな話をする必要がある?」
「これから料理をする人間に、そのくらいの情報をくれたっていいだろ? もし君が本当に何でも食えるって云うなら、今から作る炒飯に、ケールとセロリとパクチーと、モロヘイヤとヨモギと椎茸と、兎肉と蛙の脂身を入れて、チリパウダーで味付けしてもいいんだぞ!」
 何一つ揃っていない材料を思いつくままに並べてまくしたてると、御剣は明らかに動揺した顔つきになった。どれかしら苦手なものがヒットしたらしい。
「何だそれは……闇鍋ではないか……」
 暗い声が返ってくる。信じられないことだが、どうやら本気にしたらしい。脅しが通用したことで、成歩堂はようやくささやかな満足感を味わった。驚かされるのがこちらだけというのは、心底性に合わない。
「嘘だよ。しめじと青梗菜と、ミックスベジタブルと鶏のささみしかないし、味付けは塩胡椒と、醤油とごま油だ」
 成歩堂は無意識に顎を撫でた。目の前にした相手から何かを探り出そうとするとき、この癖が出てしまうのだ。法廷でもこれをやると、馴染みの検事には、彼が証人をゆさぶろうとしているのが一目瞭然なので、気をつけた方がいい、と綾里千尋(没後)にも注意されている。
「この中にも、君の苦手な食材が一つくらいは入ってるんじゃないか? ちなみに、ミックスベジタブルには、グリーンピースとニンジンとスイートコーンが入ってる」
「異議を唱えたい。そんな質問に答える必然性を見いだせない」
「異議を唱えるのはこっちの方だ。料理人は当然、質問の権利を主張する」
 二人の間に一瞬沈黙が落ちた。南向きのキッチンの小窓から、日差しがいっぱいに入って暖かい。眠気を誘うような、おだやかな三が日の午後だ。換気とシーツの交換のおかげをもって、この空間の中で二人が昨夜共有した、荒れ果てた時間は、名残もとどめていない。離れた環状線を車が疎らに走る音が聞こえている。何があったのか、クラクションも聞こえてきた。生活の雑音が入り込んでいるにも拘らず静かだった。
「……だ……」
 やがて、御剣の唇から低いつぶやきが漏れた。
「え?」
「……なんだ」
「何ですか? はっきりと発言して下さい、御剣検事」
 成歩堂がつけつけと云うと、御剣のこめかみに一瞬薄青い血管が浮かんだ。
「ニンジンが嫌いだと云ったんだ! 悪いか!
 法廷で異議を唱えるときと同じ、よく通るなめらかな声でそう怒鳴ると、御剣はダイニングテーブルの上に置いてあった一日の新聞を掴み取って、リビングに消えていってしまった。彼の普段の挙措とは似合わない、いささか乱暴な勢いで引き戸がぴしゃりと閉まる。
 成歩堂は呆気に取られて彼の入っていったリビングへの扉を見守った。やがて口元が歪み、彼は思わずにやにやと笑って肩をふるわせた。御剣があっさりと諦めて、成歩堂のてのひらの中に「弱味」を落としていったのが信じられなかった。それは昨晩の接触があったからこその、そして、年末に御剣のために神経をすり減らして戦い抜いた成歩堂への、かけがえのない報酬のように思えた。
 光の入る部屋には、淫らな夜の名残はないが、代わりにまるでぎこちない友人同士のような、甘くこころを擽るやり取りがある。
 この先も、御剣の憂いを取り払うことに自分は執着するだろう。
 彼の一生に皹を入れた暗い悪夢から、小さな赤い野菜の欠片まで。
 成歩堂は解凍した野菜を取り出し、その中から特定の食材を慎重に取り除くために、菜箸を握って皿の上に屈み込んだ。

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