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スタイルオブピース

02 20 *2013 | Category 二次::ペルソナ2罪達×淳

ダイアログ、カリカチュア、リアルテとは別の話。
合同誌のお題でムチャぶりされたようなw

続き





 誰かのため息が聞こえた。
 達哉は一番前を歩いていたが、誰がため息をついたのか、振り返って確かめようとは思わなかった。
 一歩進むごとに靴の下に砂をにじる感触に、彼は正直飽き始めていたが、それは無論達哉だけではないはずだった
 そして、今までのパターンから云っても、歩いて深くに分け入れば分け入るほどに、誰かしらの見たくない真実、歪んだ本音が露呈する。今度は誰の番だ。そう思わずにはいられない。かすかに険悪な、しかしどこか甘苦いような沈黙が彼らの間に漂っている。強制的に苦痛を共有すること、同じ試練に耐えることが、連帯感を生み出すというのは、不本意ながら真実だった。
 達哉は無意識に、他の四人の顔を思い浮かべる。栄吉の鬱積した怒りを浮かべた顔を。リサの青ざめた小さな顔、舞耶の光を失わない瞳。スライドを切り替えるように心の中の視線を動かした。
 そして淳だ。淳は青白い瞼をやや伏せるようにして歩いている。黒い瞳が茫洋とけむって前方を眺めている。彼だけがまるで眠っているようにおだやかな表情だった。
 外と空気の流通がない金牛宮の中は、かび臭く冷え冷えとした空気に包まれていた。歩いても歩いても鈍く光る金色の壁と、黄色っぽい砂の散らばった硬い石の床があるばかりだ。不可解なレリーフの刻まれた石の床や壁は、こんな時でなければ興味深いものかもしれなかった。
「広いわねえ」
 舞耶がお手上げ、という仕種を見せる。
「下がざらざらしてて歩きにくいよね、足むくんじゃうよ」
 リサがそれに応える。
「一度引き返すか?」
 達哉は残りの二人を振り返った。随分長い間休んでいない。宝瓶宮、天蠍宮から金牛宮へ。外で二度食事を摂ったことを除けば、彼らはもう十五時間以上歩き詰めだった。昨日全員で集まった時は朝十時だったが、もう時間は午前一時を回っている。
「どうだ?」
「オレは平気だけど」
 ひょろっと長い身体をかがめるようにして栄吉が淳を見おろした。
「何か顔色ヤバくない?」
 俺じゃなくて淳がさぁ。そう付け加える。
 淳は驚いたように栄吉の視線を受け止め、次に達哉の顔を見上げた。思っても見なかったことを云われた、という表情だった。淳の指が上がって自分の頬に触れる。
「僕は大丈夫……」
 何かをはばかるような、ささやくような声で淳が云いかけた時、彼らと床の間で不快なざらつきを与えていた砂が僅かに動いた。全員がそれに気づく。石畳の感触が生き物のように僅かに波打っていた。硬い石畳の上にいると思っていたのが、何か大きな生き物の背中の上に乗っていたことに気づいたような感覚だった。
「何、何?」
 リサが一歩下がって、隣にいる舞耶に腕をかけた。リサのピンク色のマニキュアを塗った指が、舞耶の白っぽいスーツの布に触れた時、彼らの背後の砂から鈍い銀色に光るものが突き出してきた。石畳が液状に変ってしまったように、そこにゆるやかな小さな渦巻きが出来ている。
 砂の上のあり得ない渦の中心から顔を覗かせたものは、静かに長く伸び、その先端に大きく湾曲した刃先を覗かせた。それはとてつもなく鋭利な大鎌だった。その柄を握った指先と、その持ち主の顔が砂の中からぞろりと持ち上がってくる。達哉は視界の隅で何かが動くのに気づいて、足許に視線を落とした。
 砂の中に半ば埋ずまった顔の中で、暗く落ちくぼんだ眼架が彼らを見上げるその視線と、達哉の視線がかち合った。
 警告する暇もなかった。なめらかな軟体動物のように静かな所作で、舞耶の足許に出現した禍々しい髑髏の面は、目から上の頭部、そして骨の浮かび上がった両手だけを砂から覗かせ、突然その大鎌を舞耶めがけてなぎ払った。
「!」
「舞耶姉さん……」
 淳の唇からせっぱつまった声が漏れた。淳の腕が伸び、舞耶の身体を抱え込んだ。子供が何か大切なものを大人から奪われまいとするように、舞耶を自分の胸に抱き締める。あんなに細く小さいように見えて、舞耶を抱き込んだ淳の手は紛れもない男の大きさだった。
 スローモーションのように淳の背中に大鎌が振り下ろされる光景を目にしたのと、達哉が刀の鞘を払って、悪魔をめがけて切り下ろしたのとはほぼ同時のように思えた。
 淳の背中の上で、赤い滴が跳ねた。
 それは同時ではなかったのだ。達哉は、叫びを上げてねじれる悪魔をめがけて、両手で握った刀を突き降ろした。ぬかるみを突き通したような感触と、硬くねばつく骨の手応えが柄を通して伝わってくる。手ががくがくするほど心臓が高鳴っていた。
「淳君……!」
 舞耶の声がかすかに聞こえる。もう一度烈しい勢いで刀を振り下ろしながら、淳が膝を折るのを視界の端に見た。
 大鎌を握った悪魔の腕から、半透明の薄い肉の中に浮かび上がった頸骨の上から、悪臭を放つ飴色の液体があふれ出してきた。それは、床に崩れた淳の背中の傷の上にしぶき、淳に抱きしめられたままの舞耶の膝を濡らした。二人の黒い髪に、彼らを襲おうとしたものの体液の滴がついて鈍くきらめくのを達哉は茫然と見た。
 声と息を閉じこめて、硬く凍っていた唇を開いて、達哉は大きく息を吐き出した。
「淳君────淳君、大丈夫?」
 舞耶の声が少しふるえた。
 彼らは、淳と舞耶の周りに寄り集まって覗き込む。動けなくなった親猫の側に群れ集う子猫達。震えながら親猫を舐め、その無事を確かめて安堵する光景だ。
「淳は? 斬られたの?」
 リサの声が甲高くなる。
 舞耶は、自分を抱え込む細長い腕をそっと押しのけた。額から柔かな前髪をかきあげ、淳の顔を覗き込む。
「舞耶姉さんは?」
 淳のかすれた声に、舞耶は戸惑った顔になった。
「ここよ」
「……怪我は?」
「わたしは平気。淳君のおかげかな」
 舞耶は、淳の顔を覗き込んだ。舞耶の視線を感じた淳の睫毛が上がり、そして、彼らの側に抜き身の刀を提げたまま茫然と立ちすくんだ達哉を見た。淳の切れの長い、驚くほど黒い瞳は達哉の上に止まり、達哉の中にひそんだ不快感を拾い上げたようにまたたいた。やがて睫毛は、痛みを感じたようにびくりと閉ざされたが、表情は和んだ。
 その表情の安らかさの理由は、達哉には分からなかった。


「眠ってるよ、深く深くね」
 医師は皮肉な声で云った。
 診療所の薄ぼんやりと白い灯りが、ベッドの上にうつぶせに横たわった淳を照らしていた。彼の裸の背中の上には、薄いクリーム色の毛布がかけられていた。ベッドの横には脱衣用のグレーのプラスティックの籠が置かれていて、その中に淳がさっきまで着ていた青いシャツが畳んで入れられている。布の上には点々と血痕が散って、青いシャツをその部分だけ黒く染めていた。
 淳の軽く折り曲げた手の甲に点滴の針が刺さっていて、側にあるスタンドに吊るされたパックから、一滴ずつ、淳の身体の中に生理食塩水が流し入れられていた。
「傷は別段たいしたことはないよ」
 夜中の二時にたたき起こされた外科医は、白髪交じりの前髪が額に垂れ下がってくるのを、手にしたボールペンを使ってかきあげた。真っ黒に灼けた皮膚の中で、手首から先だけがホルマリンに浸けた標本のように白い。皮膚の色も木目も違って見える。身体の中で唯一カ所、他人の手首をすげ替えたような、どこか異様な光景だった。
「縫わなくていいような浅い傷だからね」
 舞耶はほっとしたように息を吐き出した。舞耶と、今晩淳を泊める予定の達哉だけが病院に付き添い、リサと栄吉は金牛宮で別れた後、真っ直ぐ家に帰った。
「よかった。入院しなくて平気ですか?」
「うちには入院設備はないよ」
 医師は舞耶の言葉に、不機嫌な面持ちで呟いた。
「ただし、点滴が終るまで待って貰うことになるよ。倒れたのは、傷のせいじゃなくて貧血。脱水症状を起こしてるし、寝不足もしてるみたいだね。いったい飲まず食わず眠らず、どこでこんな怪我をして来た?」
 舞耶と達哉は黙って顔を見合わせた。
 二人が答えないことに苛立ったように、医師は青白い手に握ったペンでカルテの上を軽く叩いた。
「いったいこの子は超人なのかね?」
「いえ……」
 舞耶は肩を落とし、はぁっと大きなため息をついた。
「あのう、薬局で買った薬を使ってたので、疲れも怪我も乗り切れると思ってたんです。不注意でした」
 顔を赤らめて医師に頭を下げる。医師は軽蔑するように鼻を鳴らした。頭を上げるようにという仕種を見せる。再び生白い大きな手が揺れた。
「あの訳の分からんドリンクとか、宝玉とかいう代物かね」
「ええ、使ってみたら、ドリンク剤やサプリメントで疲れが取れる気がしちゃったものですから」
 舞耶は益々身の置き所のない顔になって、椅子の上で身体を縮めた。
「察するに君らが出入りしているのはあそこかな」
 医師は顎をしゃくった。診療所の窓は二十センチほど開いていた。窓枠と硝子とに区切られた、闇の中で有機的に青白く輝く巨大なドームが見える。以前そこにあった博物館を飲み込むようにして出現した金牛宮の姿だった。
 舞耶の背後に立った達哉は、彼女が何と答えるのか、思わず耳を澄ませたが、診察室には屈託のある沈黙が落ちた。舞耶も金牛宮については言及出来ないようだった。
 達哉は視線を返し、ベッドに横たわる淳を見つめた。ベッドにつけた淳の頬の下には、畳んだタオルが敷き込まれている。彼は黙って点滴液が落ちる様を眺めた。透明な液体が淳の身体の中に吸い込まれる音が聞こえるようだった。両目がきっちり1,5ずつの達哉の視力は、枕代わりのタオルに淳の睫毛が落とす影まで正確に拾い上げた。
「栄養は食物で摂る、疲れは睡眠で取る。何か仕事をしようと思うなら、その程度のことはわきまえておくことだ」
「すみません」
 不意にその声がイゴールと似ているように聞こえて、達哉ははっとして視線を医師に戻した。しかしそこには、白衣の下によれよれになった黒いニットのシャツを着た、一見して変わり者ふうの医師が座っているだけだった。変わり者ふうとは云っても、珠閒瑠市ではさほど珍しいわけではない。商店街をぐるりと一周するだけで、もっと異様な風体の男が幾らでもいる。声が似ているせいで今思い浮かべたイゴールもむろんそうだ。彼の外観は、異形と形容してもいいくらいだった。
 窓の外に遠く見晴らせる金牛宮はひっそりと薄白く霞み、遺跡の写真の中のコロセアムのように、清潔で存在感がなかった。

 アパートの前でタクシーを止めると、淳はようやく目を醒ましたようだった。ここがどこなのか分からないように薄赤くなった目を開け、達哉を、ついで周囲を眺めた。
「俺のうち」
 状況が飲み込めないでいる淳に、開いたタクシーのドアの外を指さす。淳は暗い窓の外を覗き、ほっと息を吐き出して肯いた。
 元々白い淳の顔は、達哉の目から見て、具合が悪そうなのか、それともいつもと同じ程度なのか区別がつかない。ただ、今日は特に青白く頼りなく見えた。
 料金を精算すると、タクシーは静かに走り去ってゆく。クーラーの利いた車内から、彼らは湿気と熱に覆われた、夜明け前の闇に取り残された。街灯がぼんやりと楕円形の蒼い光を投げかけ、影と一対になって、蛾や羽虫たちがスポットライトの中を踊っている。
「ごめん、達哉」
 まだ眠りが醒めないような口調で淳は云う。
「迷惑かけた?」
「どうってことない……」
 そう答えてから思い直して、達哉は付け加える。
「舞耶さんも怪我がなくて、よかったし」
「……そうだね」
 淳はその瞬間、小さな花を咲かせたように微笑んだ。それは、金牛宮の中で彼が見せた表情と同じものだった。そして淳のその表情に触発されて顔を覗かせる、理解できない達哉の不快感も一緒だった。
(何だ?)
 達哉は少し混乱する。淳が一途に思い詰める舞耶に対して嫉妬しているのだろうか。
 だが、その考えはどこかしっくり来なかった。鍵穴に合わない鍵を差し込んでも、答の隠れた部屋を開けられるはずはなかった。
 達哉の部屋は、一階の一番奥にあった。この建物は、元々運送会社の倉庫だったものを、職員の寝泊まりする施設に改装したものらしかった。その後もっとマシな社宅を契約したため、ここに更に手を加えて、独身者と学生向けの安価なアパートにしたのだった。以前達哉がバイトをしたことのあるガソリンスタンドの店長がその運送会社の元社員で、達哉をここに紹介してくれた。全部で八部屋あるが、全員若い男で埋まっていて、流石に女性は一人も入居していない。
 入り口とDKの床はコンクリートの打ちっ放しで、かろうじて住居空間の一部屋にフローリングが敷き込んである。賃料の割には住居面積が広かった。浴槽はないがシャワー室が作りつけられていて、さしあたって不満はなかった。
 淳が、自分たちの元に戻ってきてから────達哉は考える。戻ってくる、という言葉に微弱な違和感を感じるのに、それ以外の言葉が当てはまらなかった。
 淳が自分たちの輪の中に戻ってきてから、きっちり九日たった。その九日間で、淳が、このアパートに何度足を運んだか分からなかった。まともに再会したその日も、その次の日も来た。
 自分があんなことを出来るとは思わなかった。そしてそれは、淳があんなことをさせるとは思わなかった、と云い換えることも無論可能だった。
 長時間閉め切っていた部屋の中はむっとする熱気が籠っている。いつもなら窓を開けるだけで済ませるのだが、今日は淳は傷を負っている。少し室温を下げた方がいいだろう。
 達哉は窓を開けて暑い空気を逃がしながらエアコンのスイッチを入れた。
 カーテンを引いて灯りをつけると、痛み止めのせいかぼうっとした顔で立っていた淳は、自分が着ている新しいシャツにようやく気づいたようだった。
 いぶかしむようにてのひらで自分の肩に触れた。
「これ……?」
「摩耶さんが。……お礼だって」
 達哉は、舞耶にそう云うように、と申し渡された通りの内容を忠実に繰り返す。淳は驚いたようにそのシャツを見降ろした。シャツは、淳が自分で選んで着ていた青よりも、だいぶ明るい水色だった。淳は、制服の色にしろ、私服にしろ、深い青に身を包んでいることが多い。淳が点滴を受けている間に、終夜営業の大型ディスカウント店に駆け込んで舞耶の買ってきたその薄水色のシャツは、淳をいつもよりも、極端に清潔に、清廉に見せた。達哉は、自分の着た服を不思議そうに眺める淳の手に、舞耶から手渡されたファーストフードのテイクアウトの袋を押しつける。
「これも舞耶さんの奢り」
 淳は中を覗き込んで小さく笑った。
「幾ら二人分でも買い過ぎだよ」
「朝飯の分も入ってるってさ」
「二食続けてピースダイナー?」
 淳はまた笑う。余り笑わない彼が、一番素直な表情を見せるのが、舞耶が絡んでいる時だということは、正直他人の気持の機微に疎い達哉にも分かった。達哉はため息をつく。しかし、黄色と白のファーストフードの袋を覗いて、舞耶のことを思いだして笑う淳には、先刻のような苛立ちは感じなかった。達哉は益々訳が分からなくなる。
「寝てないって云ってたけど、……医者が」
 達哉は、フローリングの上に散らばったものをどけて、淳が坐る場所を作った。達哉の部屋は、特別に散らかしている訳ではないが、逆に特別に綺麗な訳でもなかった。最初に来た時、淳はそれを居心地がいいと云った。
(一時期ハウスキーパーの人が来てた。完璧主義の人でね。あのころ、うちは片づきすぎててどこにいればわからなかった。どの部屋にいても、僕は彼女の作った完全調和の中の異分子みたいだった)
 淳は苦笑を唇に刻む。青ざめた唇。自分の存在を精一杯希薄にしようとでもいうように、薄く痩せた身体。両親のいない家。週に四回通ってくるハウスキーパー。隅々まで片づいた、愛の介在しない平凡な家。
 平凡でなかったのは、その大きな暗い家の中に淳がいたことだ。その家は淳の気持の闇の半球をうまく隠して、ジョーカーを育てる暗く柔かな胎盤になった。ひそかな悪意の栄養を与え、孤独と接触して物質化する役目を果たした。
「寝てないってほどじゃないよ。確かに、そんなに熟睡はしてないけど」
 淳は弁解するような口調になった。
「見てるだけじゃなくて食えよ」
 ファーストフードに食指をそそられた様子のない淳を、ついそんな風に促した。
 淳と逢っていると、彼は必ず一度はこの類のお節介をした。そして、一人になった後、その記憶は大抵かすかな自己嫌悪と、甘苦い後味をもたらした。淳は、床に置かれた、テーブル代わりの木製のトレーの上に、ファーストフードの袋をそっと降ろした。猫が気に入りの場所を見つけるようにして床に座り、ひっそりとやわらかなため息をついた。淳の顔が斜めから見て取れる位置に坐った達哉は、ふと、彼の内側に隠れた熱気に気づかされた。
 淳が幸福なのが分かった。どうしてそう思うのだろう。達哉は自分でも不思議に思った。
 ただ淳は幸福で、それが彼を充足させ、昂揚させていた。怪我をして疲れ、青ざめているのに、淳が味わっている幸福は、彼の皮膚や髪、唇にかたちのない光をもたらしているように見えた。


 簡単に食事をした後、彼らはようやく、十数時間歩き続けた汗を流した。シャワーが傷に障るのではないかと心配だったが、淳は首を振った。
「深い傷じゃないって云ってたから、直接お湯がかからなければ平気だよ。……縫ってもいないんだから」
 少し湿った前髪の先を抓む。
「髪洗いたいし……」
 その仕種で、達哉は、淳が金牛宮で達哉が斬った悪魔の体液を浴びたことを思いだした。
 そうでなくても金牛宮は、中を歩いているだけで砂まみれになる。
 服を脱ぐと、ボタンホールにまで金色の砂が入り込んで、さらさらとこぼれ落ちた。先刻彼らが二人で乗ってきたタクシーの後部座席にも、きっとこれと同じ砂が零れているはずだ。後で掃除をする時、さぞいぶかしく思うことだろう。達哉は思う。
 達哉の後にシャワーを浴びて部屋に帰ってきた淳は、先刻着ていた薄水色のシャツを着ていた。
「着替え出すから」
 達哉がそう云うと、
「後で貸して」
 淳はそう答えて曖昧な表情になった。舞耶のくれたシャツを着ていたいのかもしれない。達哉はふとそう思う。もっともそのシャツは、病院を出る時に袖を通して、タクシーに二十分揺られる間着ていただけだから、まるで汚れてはいない筈だった。まだきちんとボタンの止まっていないシャツの合わせ目から、交換した真新しい白い包帯が覗いている。
 湿り気を残した髪はきちんととかされて、流れの上にやわらかな光沢を浮かべている。
 淳は冷蔵庫から、さっき残したオレンジジュースを取り出して、痛み止めを飲んだ。達哉は、硝子のグラスを手にして飲み物を飲む淳が好きだった。身体の冷たい淳は、冷たいものよりも温かい飲み物を飲んでいることが多かった。だが、この数日は酷く暑くて、淳が時々氷で冷やした飲み物を飲んでいる姿を見かけた。彼は缶に直接口をつけて飲むのが嫌いで、外では仕方がないが、家にいる時は、必ずグラスに空けて飲んだ。
 小さな水滴を浮かべたグラスに触れた唇が、氷に冷やされて赤味を増す。グラスの向こうに淡い赤が滲んだ。斜めに切り取られたオレンジ色の水面と、氷とかすかな息に曇った硝子、凍った赤い花の遠景のようにかすかに透ける唇の赤。水を飲むときの淳は、半ば睫毛をふさぐように目を伏せて飲む癖がある。ちょっと夢を見ているような表情になる。その視線と、水と光の屈折の作り出す、小さく眩しい空間に達哉は目を奪われる。
 そして、自分が食い入るように淳を見つめていることに気づいて、ぎごちなく視線を逸らした。
「お前────」
「舞耶姉さんが────」
 痛み止めを嚥下した後の、一瞬の沈黙の後に話し始めた言葉が重なって、二人は弾かれたように黙り込んだ。
「舞耶さんが?」
 達哉は先にそう聞き返して、淳の言葉を促した。そう云えば、淳は達哉と二人でいる時も舞耶の話をよくする。
 淳の華奢な腕が、決して離すまいとするように、舞耶の身体をきつく抱きしめていた光景が甦ってくる。男としてはやや小柄な淳と、女性としてはほっそり背の高い舞耶は、殆ど身長が同じくらいに見える。しかし淳の腕も肩も、充分に舞耶の身体を包み込むことが出来た。
 昔は舞耶の方が彼らよりずっと背が高かった。かつての女神の手はあたたかく乾いていて、彼らの小さかった手を力強く握った。
 舞耶を抱きしめる淳を思い起こすと、その光景は二種類のインパクトを達哉に与えた。紅いダリアのような舞耶。スーツと口紅で別人のように装って現われた舞耶が、自分よりずっと小さくなってしまったこと。舞耶を抱きしめる淳の腕が、紛れもなく自分と同じ男のものだということ。
 なのに達哉が手を伸ばしたのは淳だったのだ。
「たいしたことじゃないんだ。ただ……やっぱり僕は舞耶姉さんを頼りにしてるのかな。舞耶姉さんが怪我して一緒に行けなくなったらどうしよう、怪我をさせちゃいけない、って夢中でさ」
 達哉のこころの中に、今日何度目かに小さな棘が刺さる。
「守りたい……なんて思っても、昔小さかった頃と全然変らないな、舞耶姉さんへの気持は」
 淳は小さくつぶやいた。
「家に帰りたくなくて、夜が怖くて、舞耶姉さんや君だけが頼りだった頃より、ずっと大きくなって力もあるはずなのに、可笑しいよね」
「お前、舞耶さんの身代わりになりたいのか?」
 先刻言いかけたことが、達哉の口をついて出た。淳が、その言葉の意味を汲みきれないように目を見開いた。
「……違う、そうじゃなくて……」
 云いたいこと、小さな棘の正体がなかなか形にならずに、達哉は唇をかみしめた。閉塞した空間に閉じこめられたように息苦しくなった。それはそうだ。何年も伸び縮みしながら育ってきた不安や苛立ちが、こんな小さな人間の身体の檻に閉じこめられているのだ。息苦しくない筈もない。
「身代わりになってもいい、って思ってるんじゃなくて……ならなきゃいけないって思ってるんじゃないか?」
 舞耶だけではない。淳のある種の愛情が烈しく舞耶にそそがれているのは分かっている。それは見た目にもあきらかで、達哉以外の全員の知るところなのだろう。だが、舞耶だけでなく、自分たち全員に淳が愛情と同等か、もしくはそれ以上の負い目を抱えているのを感じる。淳にとってはおそらくささやかな自己犠牲を払うことで、罪を購おうとしているように見えてしまう。
 淳は驚いたように沈黙していたが、やがて戸惑ったように眉をひそめた。
「それは……僕のしてることが過剰だっていうこと?」
「そんなことじゃない」
 どうしてこんなに伝わらないのだろう。この種類のもどかしさが達哉に訪れるのは、淳を相手にした時だけではなかった。例えば兄の克哉と話している時も、リサや栄吉と話している時にも起きることだった。自分の中にあるこの重苦しい感覚を、完全に言葉で再現することなど出来るはずもなかった。そんな時感じるのは、苛立ちよりもむしろ、孤独な星の上に置き去りにされたような寂しさだった。
「……義務だとか思ってるなら……」
 達哉は最後まで云えずに言葉を途切らせた。
 自分たちを庇って自己犠牲を払うことが、淳の義務だと思っているなら、その考えを改めて欲しい。そんなことが何故自分に云えるだろうか。
 不思議な光を内包した淳の、美しい横顔を思い浮かべた。
 彼の自己充足を妨げる権利が自分にはあるだろうか?
「達哉」
 淳は困ったような顔のまま、舞耶に貰ったシャツの襟に触れた。麻の交じった綿の、軽く乾いた感触を確かめるように、人差し指でそっとなぞる。
「それは、僕を買い被りすぎてるよ」
 声が一瞬だけ震えた。
「僕に、何か義務があるかないか、って聞かれたら、正直に云えば義務はあると思う。義務、なんて言葉は柔らかすぎるくらいだけど……」
 淳はゆっくりと両方の膝を抱え込んだ。背中を丸めると、傷が痛むようでほんの少し表情が変る。
 自分の膝に額を押しつけるようにして顔を伏せた。
「でも、舞耶姉さんを庇うことくらいで僕のしたことを帳消しに出来ると思う? そんなこと、義務になんて入らない。舞耶姉さんや君と一緒に歩いて、まるで内心旅行でも楽しむみたいに君たちと一緒にいて安心してる。舞耶姉さんに有難うって云ってもらって、服なんて買って貰って……」
 淳は、自分の細い腕を包んだ袖口に、無意識のように触れた。
「自分が何をしたのか忘れないようにしてるけど、もしかして忘れてるのかもしれない。一人で夜眠るとき以外は……」
「……それで眠れないのか?」
「そう……」
 淳は顔を上げた。唇が薄く微笑のかたちをつくった。どんな表情を浮かべて良いのか分からなくて、仕方なくそこに宿ったような微笑だった。
「僕は、夢の中でまで自分のしたことを直視したくない、なんて思ってるんだよ?」
 苦痛を告白する唇がなおさらに静かに青ざめるのを達哉は見つめた。淳の気持の中で傷が口を開けているのは知っていた。だが、今まで彼はその傷口のかたちを正視したことはなかった。その傷がどれだけ新しいものなのか、どんなに紅いのか、どんなにいまだあたたかい血をたたえているのか。
 久し振りに取り戻した淳のことで、彼の視界はいっぱいになっていた。今まで友達も恋も彼の欲求をかきたてなかった。彼の心は過去のどの時点でか、かたくなに静止して、記憶の揺りかごの中で灰色の天井を見つめていた。カラコルで淳を見たとき、彼がもう一度自分たちのものになると知ったとき、達哉の中で堰き止められていたものがようやくほどけだした。グレーのパズルピースが一枚ずつ剥がれ、中から世界の色彩が顔を覗かせた。
 退紅色に甘くくすんだ子供時代の思い出は、すぐに目の前に立つ、ほっそりした少年の姿に描き換えられた。
「同じことだろ……」
 喉が狭まっていたせいか、掠れた声が漏れる。
「お前が義務だと思ってやってても、そうじゃなくても、お前がしてることは一緒だろ?」
 またうまく表現しきれない。達哉は今度は自分自身に苛立った。
「……義務があると思ってるのが問題なんだ」
 淳は、聞き取りにくい言葉を聞こうとするように達哉の顔を見守っていたが、やがて、彼は少し目を瞠った。床に手をついて立ち上がり、達哉の側に膝をついてかがみこむ。
「どうして達哉が傷ついてるの?」
 彼はささやくような声を出す。傷をかばうゆるやかな動きでそろそろと腕を伸ばし、達哉の広い背中を抱きしめた。彼自身のものよりもずっと色の浅い達哉の髪に唇で触れる。
「僕、何か失敗したかな、達哉」
 淳はもう一度彼の髪に触れる。髪の中にほっとしみ通って行ってしまいそうな、小さな息のようなささやきを、その唇と一緒に降らせる。云ってよ、わからないから。
「失敗じゃない……」
 一言で云い顕す言葉が見つかるとはとても思えなかった。

 淳は最初の日に達哉の部屋を訪ねた。俺の家に来るか? その言葉はあっけなく唇から零れ出していた。その時は、達哉が自分自身でそれに気づいていなかったとすれば別だが、別段他意があって云った言葉ではなかった。
(いいのかな……)
 淳は驚いたように目を瞠り、その目許を和ませた。目を細めると芸術品のような長い睫毛が強調される。
(じゃあ、少しだけ)
 彼はそう云って、帰り道達哉の部屋を訪ねた。一時間ほど居ただろうか。他愛ない、抵触しない話を少しだけした。達哉は不思議な既視感にとらわれる。彼らが友達だったのは随分前のことだ。あの時淳は彼にとって掛替えのない存在だったが、今もそんな友人で居られるとは限らなかった。
 だが、空白の数年間の間、いつもこんな風にして沈黙を共有していたような錯覚を感じた。淳は達哉に、どこか違和感をもたらす反面、すぐに深々と根を下ろした。この部屋で今まで彼と本当に一度も一緒にいたことがなかった、というのが信じられないほどだった。
 淳が帰った後も、影のように淳の姿が部屋の中に住みついているようだった。こんな風になったことは今まで一度もなかった。何が起こったのが自分で分からなかった。淳がそこにいない、というだけで、灰色の床が肌寒い冷気を足許に運んできた。たった一度淳がそこに居ていなくなったことが、喪失感に似たもどかしい痛みをもたらした。
 達哉はその夜は眠れなかった。
 この部屋に淳を連れ戻さなければならないと思った。
 昨日もお邪魔しちゃったのに。そう云って遠慮がちに淳が誘いに応じた二日目、彼を抱き寄せた時、達哉の中に何か欲望があったのか、ただ淳を帰したくなかったのか、もう今となっては分からない。
(達哉……!)
 キスするのに背中をかがめなければならなかった。前は身長も殆ど一緒だったのに。そう思いながら達哉は彼に唇を押しあてる。思った通り、冷たく柔らかい感触が伝わってきた。その唇の上をあたたかく湿った息が通り抜けて自分のものと重なった時、衝動ははっきりと欲望に変った。そうは云っても、欲望という言葉から連想される開放的でいて後ろ暗い甘さではなく、みぞおちを冷たく汗で冷やす鋭い痛みだった。
 その痛みを緩和するようにして、甘い香が彼にしみ通ってきた。
 何の香だろう。達哉は抱きすくめた淳の鼓動が、自分の腕の中で段々早くなって行くのを感じながら、髪に顔を埋めた。
 てのひらをそっと広げて淳の髪を撫でると、強張っていた淳の身体から力が抜けた。
(冗談……じゃないよね?)
 淳はかすかにふるえを含んだ声でつぶやいた。顔を上げようとしたように見えたが、結局そうしなかった。達哉の肩に淳の頬が押しつけられた。彼の髪が、鎖骨の上に、とけるような感触でまつわってきた。
 間近にいてようやく分かるほのかな花の香の混じった息が、達哉の衝動を許容した。
 淳を帰したくない。最初はそう思ったのだ。
 そして彼の望みは叶えられた。


 いつもそうだが、淳に触れた後、あっけなく苦痛は飛び去っていった。胸の血管が狭まったような苦痛はほぼ現実のものに近かったが、淳を抱きしめて、彼の背中にある傷、病院のベッドで、青ざめて俯せていた淳の姿を思い出すと、小さな棘にかまけてはいられなかった。胸の痛みは無論耐え難いことも多いが、概ね現実の痛みの前に後回しにすることが出来るものだ。
 初めて淳を抱きすくめた日、達哉がそうしたように、冷たいてのひらが彼の髪をそっと撫でている。
 達哉は顔を傾け、眩暈のする思いで淳にくちづける。肩や腕が、彼を力任せに抱きしめたい衝動に疼いていたが、今日はそんな風には出来なかった。
 キスが深くなった時、淳の手が達哉の髪の房にかかった。軽く握りしめられる。
「ごめん、今日は背中が────」
 淳がそう言いかけて、思わず達哉は身を固くした。衝動に抗って淳を解放しようと、彼の肩にかけた腕の力を緩める。
「……悪い」
「そうじゃなくて」
 淳は困ったように目を伏せた。目許がほっと赤らむ。
「……え?」
 達哉の両肩に手がかかって、押し戻すように達哉はベッドに背中を押しつけられた。淳の耳朶がますます赤くなり、唇にまで血の気が差した。
 淳は、ベッドに仰向けになった達哉を見おろした。いたたまれないように眉をひそめた淳の顔が近づいてきて、達哉の首筋に軽く落ちた。息と一緒に歯がかすり、微弱な、しかし煽情的な刺激が背中を通り過ぎる。胸元で手が動き、ボタンがひとつずつ外された。
「淳」
 顔を上げようとすると、いいから、と制止される。淳は何をしようとしているのか口には出せないように少し汗ばんだ額から前髪をかき上げた。
 淳の手がベルトにかかった時、達哉は反射的に身体を起こしてしまった。今度は何も云われなかった。舞耶から貰ったシャツを身につけた淳の背中が目に入る。淳はするりとかがみ、達哉の下腹に顔を伏せた。ボタンを外されて露わになった胸の皮膚の上を、髪の絹のような感触が滑ってゆく。
「……っ」
 息が詰まった。たった八日前に初めて抱き合った。初めての晩と、他の晩にもう一度ベッドで一緒に眠った。互いにもの馴れている筈もなかった。話し、時々は笑い、興味無げにかろうじて栄養を摂取する入り口になる淳の唇、彼が自分に引き起こす波を、達哉は茫然として受け止めた。すぐに顔がかっと熱くなった。淳と自分の関係に乱入してきた思いがけない刺激から、彼は逃げ出したくなった。酷い興奮、それは淳の背中の傷のことも、明日彼らが金牛宮に戻らなければならないことも、全て押し伏せてしまうような興奮が、喉を灼いてそこにとどまった。
 唇の感触に続いて、とけるようにやわらかな舌が触れた。歯が当たり、達哉が少し身体をすくませると、淳も怯えたようにびくりと背中を硬くした。髪の間に覗いた耳朶は未だ赤く染まっている。
 唇の離れる小さな音が鳴り、ため息と一緒にまた押し包まれる。誘惑に駆られて淳の耳元に触れると、淳の背中は揺れた。肩に触れ、自分の太腿に押しつけられた淳の胸の下にてのひらを滑り込ませた。妙な角度で触れているせいでうまくいかないのを、汗ばみながらボタンを外した。
 これ以上もう、この清潔な水色の麻のシャツを見ていられない。
 淳の唇がかすかにでも動くたびに、痛みに似た興奮が突き刺さるのを耐えながら、達哉は彼の肩から服を剥き下ろした。華奢なうなじに続いて、真っ白な肩が現われる。貝殻骨の陰影の先に包帯が厚く巻かれていた。傷跡が見たい衝動に駆られるのを耐える。包帯以外には染み一つない背中をそっと撫でる。
「……んっ……」
 達哉の指が首筋を撫で過ぎた時、淳はくぐもった声を上げた。その声に酷い興奮がこみ上げてきて、達哉は背中を粟立たせた。感覚が痛いほど鋭敏になる。
 背中や膝がにわかに汗ばんで、達哉は昂揚といたたまれない刺激に耐えられなくなった。快感はあったが、理性が揺らいでしまいそうで怖くなった。
 彼はようよう手を伸ばして、自分に唇で触れる小さな頭を引き離した。腕を掴んで身体を起こす。親指の腹で口元を拭ってやった。紅潮した顔に、湿った髪が貼りついているのをかきあげた。淳は浅い息に肩を喘がせて達哉を見上げた。淡い汗と血色、睫毛を湿らせた涙は、淳の冷たい造作の顔に驚くような艶を与えていた。
 そのくせ、闇をひっそりと閉じこめたような彼の黒い瞳は、こんな興奮の中でも殊更に禁忌を意識させた。友達としての関係を再構築する前に、突然滑り込んでしまった関係に、かすかな気後れと罪悪感がある。淳は嘗て仲のよかった男友達であり、しかも彼は平凡な友人でさえなく、緑色の目を備えた仮面の少年だった。あのときの彼は、人間よりもより悪魔に近い存在だった。
 達哉のまぶたの裏に、街のそこここに現われた、奇妙な形の宮殿が浮かんだ。
 こんな異常な状況の中で、罪悪感と戸惑いをかみつぶして、恋をしない方がいい相手に恋をしている。恋。その言葉に割りきれない感覚があるが、淳への気持をそれ以外どう表現するのだろう。
 傷のせいで、淳をあおのかせることが出来ないことは、逆に新鮮な興奮を二人にもたらした。
 傷がなければ闇の中で淳の身体から服を引き剥がし、自分の身体をかぶせればよかった。しかし、淳が、達哉の前に膝立ちになった姿勢では、淳の意志無しに服を取り去るのは難しい。この前に抱き合ったときより、それはより共同作業に近くなった。
 服をすっかり脱ぐのに手間取って、それはまるで焦らすように彼らの快感を先延ばしにする。
 線の細い胸郭と自分の胸が触れ合うと、どちらのものとも分からない速い鼓動が重なった。
 達哉はふと思いたって淳の首筋に顔を埋め、そこから淳だけの鼓動を拾い出そうとした。頸動脈をかくした首筋の皮膚はあたたかく柔らかい。
「……っ」
 首筋に舌で触れると、淳がびくりと身体をすくめる。眉をひそめるその表情は少し苦痛に似ている。
「痛くないか? 背中」
 どうしても気になって尋ねると、淳は首を振った。
「そんなに気を遣ってくれなくて、いいから」
 一気に云おうとしたらしい言葉は、上がった息のために中途で途切れる。達哉のうなじに腕をそっと巻き付けた。今日の淳の腕は、昂揚のためか、発熱しているのか、いつもより温かかった。
 淳は熱い頬を達哉にすり寄せた。さっきも淳を猫のようだと思ったが、今も、彼のほそくなめらかな身体が達哉の腕の中におさまって身体を押しつけてくるさまは、気まぐれな猫が身を寄せてくるような印象がある。
「困るんだ……」
 淳は、達哉のてのひらが脚の間に滑り込んだ動きに熱い息を吐いた。
「何が?」
 達哉も息が上がっている。
「……ん、ぅっ……」
 指の揺り起こすダイレクトな刺激に、淳は上擦った息を漏らした。達哉のうなじを抱いた腕の内側がふっと汗ばんだ。指が動くたびに、あちこちに小さな電流を流されたように淳の身体は小さく跳ねる。右腕だけがうなじからほどかれて、するりと下に降りた。淳は息を乱しながら自分も達哉に触れた。背中をふるわせながら指をゆっくりと動かす。
 達哉の指先が一番敏感な部分に触れた。
「……あっ……」
 淳は、今度は声をかみ殺せなかった。頬を押しつけあっているせいで顔は見えないが、視界の隅で耳朶が桜色に染まっているのが見えた。
「困るんだ、そんな、優しくされたって……」
 その途端、達哉の中に、ちらっと覚えのある痛みが走る。快感と興奮でまとまらない頭の中で、達哉は自分自身でも見逃してしまいそうなその痛みのゆくえを追いかける。
 だが、淳の言葉には続きがあった。彼は達哉の髪に埋めて隠していた顔をあげ、間近に達哉の顔を覗き込んだ。大きな目は、煽情的に、しかし優しくうるんで達哉を見つめている。
「それだけじゃイヤなんだ────だって、僕も男だし……」
 女の子みたいに大事にされるだけじゃ足りないんだ。淳はそうつぶやいた。それ以上は何も云えないように唇を噛み、目を閉じてしまった。
 同じ場所に繰返し刺さる、達哉の疑心暗鬼の棘は、その一言でほろりと抜け落ちてしまったようだった。彼は自分の顔が紅潮するのが分かった。唇をかみしめる。
 淳が目を閉じていてくれてよかったと思った。

 夜明けは唐突な金色の光芒と一緒にやってきた。窓に半分引かれていたブルーのカーテンをものともしない、薄く赤みがかった光の矢は、達哉と淳の眠りを同時に破るほどの威力だった。
 夜に下がった気温は、東向きの窓から入る陽光で早くも上がり始めている。
「……」
 二人は寝ていられずに起きあがった。淳の額に薄く汗が浮かんでいた。
「……暑いな」
「うん……」
「エアコン入れるか?」
「いいよ」
 淳は首を振った。
「それより、少し外を歩いてくるよ。外の方が涼しいし、朝にこの辺歩いたことないから」
「……ああ」
 達哉は立ち上がった。
「俺も行く」
「……え? 付き合わなくてもいいんだよ?」
 少し慌てたような表情になる淳を達哉は見おろした。
「迷惑か?」
 淳は目をしばたたいた。苦笑するような表情を見せる。
「……まさか。……じゃあ、散歩しようか?」
 五時前だ。舞耶たちとの約束の時間までまだ充分に時間があった。
 着替えて外に出る。淳の云った通り、外の方がずっと涼しかった。
 ところどころに紅色の雲の筋を浮かべた金色の朝焼けは、金牛宮の中の金の壁を思い起こさせる。
 そうか。
 今度、あの広い宮殿の中で息が詰まりそうになったら、逆に、この涼しい金色の空を思い浮かべればいい。達哉はぼんやりとそんなことを思う。そうすれば、あの胸の悪くなるような砂の道も、少しはしのぎやすくなるだろう。
「達哉」
 やはりぼんやりとおだやかな表情で歩いていた淳が、彼を見上げた。
「昨日は迷惑かけてごめん、今日は気をつけるから……」
「ああ、そうしてくれ」
 彼は肯いた。悪魔の鎌の先が淳の背中に吸い込まれた瞬間の、全身の総毛立つような感覚を思い起こす。達哉のあっさりした答えに、淳は安心したようだった。
「あのさ、達哉。君が僕に云えないでいることってないかな。何か……昨夜怒ってるみたいに見えたから」
 達哉は、昨夜の不安定な心理状態を思いだしてため息をつく。自分が酷く疲れていたことを思い知った。
(何て云ってたっけ? 医者が。『栄養は食物で摂る、疲れは睡眠で取る』────だっけ?)
 単純なことのようだが至言だと思う。眠りに満たされて、何か整理がついたような気分だった。ちらりと淳を見ると、彼が真面目な面持ちで答を待っているのが分かった。何となく口に出した言葉というわけではなくて、淳がその理由を知りたがっているのが分かった。彼はもう一度ため息をついた。昨夜の羞恥心がかすかによみがえってくる。
「……お前の気持も分かる。失敗すれば、埋め合わせしようって気分になるのは当然だけど」
 達哉は、出来るだけ自分の本音に近い言葉を選ぼうと苦心した。
「でも、やらなきゃいけないこともあるし。……もう、誰のせいとか、そういうのも関係なくなってるし……お前が気にしすぎても事態はよくならない」
 達哉が時折途切れながら手探りに探す言葉を、淳はきちんと追っているようだった。
「そう思ってたら、……どこまでが、お前がしたいことなのか、俺達に埋め合わせようとしてるのか、分からなくなって……それで、イライラしてた」
 どんどん恥ずかしくなって来る。だが、淳も彼の苛立ちの原因が分からないのだ。だからこれは、きちんと淳に云った方がいいのは分かっていた。達哉は奥歯を一度強く噛んだ。
「……悪い」
 淳は、眉をひそめて達哉を見つめている。考え込むように数回瞬く。
「あのさ、達哉……間違ってたらごめん」
 そろそろと探るような声を出した。
「君と僕がその……こうなったこととかも、その中に入ってるかな。埋め合わせとか、……そういう風に達哉が思ってる中に……」
 触れられたくない核心に直に触れられて、達哉は言葉に詰まる。その様子で、淳は何かしらを察したようだった。達哉が見たことがないような、呆れたような表情が淳の顔に浮かんだ。
「……そんなわけないだろ? 幾ら何でも……それと、これは全然別だよ」
 彼らは思わず立ち止まる。夜の訪れのために、子供達に置き去られた無人の公園の入り口だった。金色の明け方は白く変り始めている。夢の中の木立のようにもやがかって見えていた緑が、朝の光に冴え始める。
「僕はどうしたらいいか分からないくらい君が好きだし────」
 淳は怒ったようにつぶやく。顔色も変えずに、こともなげにそう云い放った。
「君も……君だって少しはそうだと思ったから、嬉しかったんだ」
 彼は公園に足を踏み入れた。薄白い朝の中で、赤く塗ったシーソーの色が奇妙に鮮やかだった。空は丁度昨日淳が着ていたシャツの色のような、薄い水色を覗かせていた。
 怒らせただろうか。自分の白いTシャツを身につけた淳のほっそりした背中を見つめながら、達哉は思う。淳が今云ったことは、おそらく昨日ようやく達哉にも腑に落ちたことだった。自分が納得したことを淳に伝えるのは、正直彼には難しかった。
「達哉、本当の空の色ってどんな色か知ってる?」
 淳は暫くして振り返った。怒っったようではなかった。黒い瞳の中に微笑の影が浮かんでいる。
「本当の空の色?」
「夏の晴天の真昼、水蒸気や塵の少ない状態で、都市から五十マイル以内の上空を、厚紙に開けた直径一インチの孔から、灼く三十センチ離れて覗いたときの色を、本当の空色って呼ぶんだって」
「何だそれ」
 今度は達哉が呆れ顔になる。
「五十マイルって……アメリカの話か?」
「そう。これはアメリカの本当の空色の話なんだけどね」
 淳は笑う。
「先週、初めて君の家に泊まった時、やっぱり、早くに二人で目が醒めたよね」
「……ああ」
「君が先に起きて、君の背中の後にある窓から空が見えて────あの日の空はほんとに青くて綺麗だった。きっとあんなに綺麗な青い空は見たことなかったと思う。それで、前に本で読んだこの本当の空の色の話を思いだしたんだ。本当の空色をやっと見た、って思ったよ。僕にとっては、君抜きじゃダメなんだなって」
 彼はかみしめるようにつぶやいた。
「僕がしなきゃいけないことと、これは別なんだ。君たちが大切なのは変らないし……」
 淳は、かすかに首をかしげた。何かを思い出すように視線の焦点を甘くぼかした。
「今、ここにこうしていられるのは、他に二つとない、綺麗なひとつの形なんだ。……都合がいいと思うかもしれないけど」
 淳は、静かにため息をついた。ふと、彼の隣に青く葉を繁らせた樹を見上げる。乾いた樹皮にそっと手を触れる。
「桜だね」
 何度となくここを通り過ぎている筈だが、達哉には、春にこの樹が花を咲かせているのを見たかどうか思い出せなかった。彼は曖昧に肯いた。淳の言葉が胸の中をゆっくりと回っている。少量のアルコールが身体を温めるように、血管に、指先に、小さな熱を与えている。
「花が咲いたところを見たいな」
 淳は、他意がないような静かな口調でつぶやいた。今度ばかりは達哉も彼の言葉にペシミスティックに苛立つことがないよう、自分の中の感情をなだめた。特別な悲劇がなくとも、来年の春、自分がどこでどうしているのか、未来を予見できる人はいない。
「見に来れば……?」
 ようやくおだやかな声を出せた。昨日以来初めてではないかと思った。淳は肯いた。いとしむように幹をそっと叩く。
「そうだね」
 他に二つとはない美しい或る形。
 空の色は濃くなり始め、暑い一日を予感させる熱気がアスファルトからたちのぼってくる。目を醒ました蝉が、公園の樹の葉隠れに啼き始めている。
 どう過ごしても始まりと終わりがふりつもって時間は過ぎてゆくのだ。淳にとっての世界でも、達哉にとっての世界でも。
「舞耶姉さんの差入れを食べて、出かけようか」
 淳は鷹揚につぶやく。達哉は頷いた。
 彼は硝子の表面に結露する水の光をふと思い浮かべた。
 淳が飲む冷たい飲み物を買って行こう。
 そう思いながら公園を出た。
 
 
   

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