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プロミス・seed1

02 20 *2013 | Category 二次::ペルソナ2罪達×淳

個人誌のお題でお友達に、「無理矢理な達×淳」というムチャぶりwされた話。えっ、達哉は無理矢理しないし、淳は達哉だったら無理矢理にならないのにどうやって!と苦悩しつつ書きました。

続き





 パラシュート無しに世界の底に墜落するような不安と、いつまでも足が地に着かないような浮遊感があった。
 その浮遊感が錯覚なのは分かっていた。不条理な動力で空中の裂け目に滑り込んだ宇宙船は、数回の地震の後、まるで小惑星のように安定しているのを、彼は知っていたからだ。
 それでも、軽い船酔いを起こしたように達哉の三半規管は揺すられていた。地上から切り離された街を目の当たりにした衝撃で、感覚が少し狂っているらしい。
 シバルバーが現れたのは数時間前だった。
 妄想で構築された巨大な宇宙船は、世界中に蔓延したエゴイズムを顕現する円いスクリーンのように、中空に浮上した。今まで、向こう側に隣の町があった部分に、宇宙船の円形の側面と、世界から切り離されたこの街の斜面が剥き出しになっていた。
 達哉は外から帰った服のまま、ベッドに身体を投げ出した。
 シーツに顔を埋めて目を閉じる。
 まぶたの内側の暗闇の中に、ジョーカーの仮面と、その後に隠れていたほの白い顔を思い浮かべた。
 切れの長い目で達哉を見あげた淳の顔は、達哉には馴染みのないものだった。
 子供の頃、彼は淳と随分親しかった筈だ。だが、今の淳の顔にその頃の面影は殆どなかった。
 独特の光をたたえた美麗な黒い瞳は、達哉の知っている子供のものではなかった。顔に浮かぶ、才気走った表情だけは共通していた。
 フリークス的な微笑を刻み込んだ白い仮面がはずれて、そこから淳が現れるのを見ているのに、達哉はなかなか淳がジョーカーだということを信じられなかった。
 ジョーカーは淳よりも一回り大柄に見えた。視線がまともに噛みあったことがないから確かではないが────丁度、そう、達哉と同じような姿かたちだった。背丈も体格も達哉と似ていた。しかし、それはどうやら、ジョーカーの陰湿な獰猛さにコーティングされて歪んだ姿だったらしい。
 本来の淳が、ジョーカーとは大分かけ離れた姿だったことを、痛々しく痩せた黒い瞳の少年と再会した時、彼等は初めて知った。春日高校の青い制服を着た淳の身体は、驚くほど細く、折れそうだった。栄吉が着ているのと、同じ制服を身につけているように見えないほどだった。栄吉は痩せ形だが、骨格そのものはしっかりしていて男っぽい。
 それにジョーカーと淳は、姿形以外でも食い違うところが多かった。ジョーカーのイメージは、挑発的にぎらつく白だが、淳はひっそりと暮れた空のように昏い。ジョーカーの握った刃物は、無条件に外側へ向いていたが、淳の握るナイフは淳自身の喉元に突き付けられている。
 何より、ジョーカーの仮面は嘲笑っているのに、淳は笑わない。
 ────一緒に来るよね?
 カラコルの鈍く輝く床に膝をついて、茫然と浅い息をする淳に舞耶はそう云った。淳がびくりと硬くした肩を、手のひらでそっとさするように包み込んだ。
 ────淳君、わたしたちと一緒に行こう?
 そうささやく舞耶の声は透明でかたくなだった。
 舞耶がそんなに迷いのない声を出せる理由は、達哉には分からなかった。
 だが、放火されて死にかけた少女時代の舞耶でさえ、自分たちの前に姿を現した時、自分を救ってくれ、とは云わなかった。
 ────淳君を助けて。
 涙をにじませて、過去の少女の幻影はそう云ったではないか?
 舞耶にとっても、おそらく達哉たちにとっても、淳を救うというのは多分重要なことなのだ。それは、現象としても、感情の上でも。
 一緒に来るよね。
 そう問いかけられて、淳の目がしずかに開いた。
 彼は救いを求めるように、舞耶以外の視線を探した。
 誰かが舞耶の言葉に反対することを期待しているように見えた。
 だが、誰もそんなことはしなかった。淳を責められる者はいなかった。責めようとも思っていなかった。
 淳が彼等と一緒にシバルバーへ潜ることに違和感を感じたのは、達哉だけだったのかもしれない。その違和感も、達哉自身の拒否反応ではなく、淳がそれを望んでいないように思えることから生まれたものだった。
 やがて、淳はようやく肯いた。
 はじけてあふれ出すように、リサが何かを云い始めた。不器用なりに歓迎の意をあらわそうと彼女が必死になっているのが分かった。彼女の不器用な言葉に、ようやく淳が目許を和ませた。視線を上げて頭を起こすと、淳の黒い髪に、細い光の輪のような光沢があらわれた。痛ましい程清潔な淳の髪や皮膚が、達哉を戸惑わせた。
 疲れ切った身体でようやくベッドに横になった達哉は、ふと自分の喉で、血管が膨れて脈を打っていることを意識した。正体の分からない、胸苦しい昂揚が彼の心臓を握りしめていた。
 彼はそろそろと手を上げて、自分の汗ばんだ首筋に触れてみた。自分で意識する以上に早い鼓動が指先に触れた。何をこんなに興奮しているのだろう。達哉はいぶかしく思う。淳に関わりがあるのは確かだった。
 忘れていたくせに。
 ジョーカーの吐き捨てるような声と、達哉自身の思いが同調した。
 今まで彼を忘れていたくせに、淳のことを考えて、こんなふうに不安なほど昂揚する資格は自分にはないと思った。
 だが、そんなことを思ったところで、失っていた道を見つけた昂揚は彼の身体から去って行かなかった。
 達哉は、疲れて火照った指先で自分の鼓動を感じながら、ただ黙ってベッドにうつぶせていた。縫い止められてしまったように動けなかった。閉じたまぶたの中に広がる闇は、身体に重くまつわって吸い込まれそうだ。肺の中まで真っ黒に染めて侵食してくるようだった。
 やがて彼は、粘着質な暗闇の中で、一カ所だけ色調を変えて光とない交ぜになったやわらかな黒点を見極めた。
 それはすうっと細く伸びて、静かに歩く黒い髪の少年の姿に変った。
 重苦しい闇が楽になったように思えて、達哉は強張らせていた背中の筋の力をゆるめた。
 そしてようやくわずかな時間眠ることが出来たようだった。

 彼等が、結末に至る川の入り口を見つけた日は、嵐の金曜日だった。
 合成された映像のように渦巻く雲が、青黒く東から西へ流れて行った。
 時折、雷鳴に先駆けて、紫色の稲光の剣が空を斜めに貫いた。まだやっと三時過ぎだったが、辺りは夜のように暗くなった。稲光に照らされて、中庭に立ちすくむ木々は、不安定な硝子の像さながら、暗く浮かび上がった。
 一秒の数十分の一の間に繰り返される雷撃は、負電荷を中和するために、街に根を下ろしてはもがいている。雲の底から繰返し同じ放電路を辿って、執拗に光の道を造りだすさまは、意思を持った生き物のようだ。
 奇抜で複雑な稲妻の光の中で、逆に天に腕をさしのべる、一本の光の筋があった。
 それは彼等の目の前の中庭から伸びていた。中庭から生えた光の柱の端は真っ直ぐに暗い積乱雲の中にとけこんでいる。それは地底のシバルバーから吹き出した悪夢の、光と双極分子流だった。
 七姉妹学園の中庭に至る出入り口に、五人は途方に暮れて立ち、大降りになった空を見あげた。シバルバーから伸びる光をうち消すほど、斜めに降る雨の勢いは激しかった。
「気候が不安定すぎるわね」
 舞耶がぽつりと云った。
「中に入れば雨はあたらないんじゃないか?」
 達哉が云うと、舞耶は首を降った。
「……向こうも嵐かもしれないわ」
「どこかの教室で雨が止むのを待つか……」
「出直すかね」
 舞耶が達哉の言葉の後を引き取った。
「ペルソナは太陽の代わりにはならないもの」
 達哉は曖昧に頷いた。気は逸るが、舞耶の意見に賛成だった。彼等が天候の変化に敏感なのには訳がある。彼等がペルソナを使うのは異世界に存在する魔力を借りる行為だ。魔力は、電力や原子力のように、彼等の計算で割りきれる理屈で成り立ってはいない。天候や月の変化、時間や風の流れにさえ左右される。術者の体力が必要なのは勿論の事だ。雨に濡れて震える身体でペルソナの魔力に頼るのは賢いことではない。昼でも夜でも、よく晴れて太陽か月の見える時の方が、ペルソナを使うには都合がよかった。
「ああ、やっぱり……」
 リサの唇から、今の話をまるで聞いていなかったようなため息が漏れた。
「こんな時は……誰も、いないよねえ」
「何のこと?」
 階段を一段降りて立っていた淳が、リサをふり仰いだ。彼女の綺麗なブルーの瞳が追う方向を、自分も追いかけるようにぐるりと振り返った。リサが何に対してそう云ったのか、瞬間的にそれを理解できる者はその場に誰もいなかった。
「あの樹だってば。情人知ってるでしょ?」
 以前ここ────七姉妹学園に取材に来たことがあるとはいえ、外部の人間である舞耶や、他校の生徒の淳や栄吉には、リサははなから期待していなかったようだった。
「あの、樹って?」
 それがどれを差すのかさえ分からない達哉の視線がさまようのを見て、リサは仕方ない、というようにため息をついた。やわらかな薄い頬を少し膨らませる。彼女は、中庭の隅に植わった、銀色がかった葉をつけた、背の高い樹を指さした。花は咲いていない。七、八メートルの細身の樹だった。嵐にたわむように揺れている。
「あの樹は、カップルの願いごとをかなえる樹なんだよ。あの下に好きな二人が立って願いごとをすると、願いが叶うの。今までここにみんながたむろってたの見なかった?」
「さぁ……」
 頼りない返事をする達哉の隣に、舞耶が笑いながら立った。
「それに関しては達哉くんより私の方が詳しいかな。その話何人もしてたもの。学園長の友達がオーストラリアから苗を持ってきた樹なんですってね」
「えっそれは知らないよ!」
 リサは口を尖らせた。自分の知らない事を舞耶が知っているのが不服そうだった。
「それってほんとの話?……それとも噂?」
「さあ、それは知らないけど、フサアカシアでエンゲージするなんてこの学校らしいわね」
「フサアカシア? この樹ミモザじゃなかった?」
 いぶかしげな顔をするリサに舞耶は肯いた。
「ミモザも正解。ミモザアカシアとも、銀葉アカシアとも云うわね」
 ふうん、とリサはつぶやいて、羽根を広げたような形の葉をぎっしりとつけたフサアカシアの樹を見あげた。
「どうしてミモザだとセブンスらしいの?」
「だって、約束の証にする樹ってね。幹の硬い樹か、樹齢の長い樹にするものかと思ってたから。樫とか松とかネ。でもちょっとそれって古風でしょ」
 舞耶は肩をすくめた。
「ミモザの樹の下で約束────スタイリッシュでいかにもこの学園らしいじゃない?」
「……あっという間に花の枯れる樹なのにね……?」
 それまで黙っていた淳が、不思議そうにつぶやいた。彼の瞳には、学園を緑と風で彩る植栽がうつりこみ、闇と一緒にとけて揺れている。そして彼は、間の悪いことを云ったのではないかというように、心許なく視線を逸らした。
「中庭に人がいないのは雨だからだろ?」
 別段深い意味はなかったが、達哉がそう云うと、リサは苛立たしげに目を伏せた。
「……とにかくねェ、どこもかしこもこんなにがらんとしてるなんて変な感じだよ。いつもは、授業中以外必ずここに誰かいるのに」
 そう云うリサの声も、人気のない中庭への入り口で、がらんどうにぽわんと撓んだ。
「女の子がそういうのを信じてるのはいいねえ」
 彼女の不安な声を揶揄うように、栄吉がにやっとしてそんな風に云った。リサの少女っぽさを認めた自分自身を茶化すような云い方でもあった。栄吉のそれに反応して、淳の言葉を聞き流したリサが何か云い返している。舞耶が笑いながらそれを見ている。誰もが、事ここに至って、川を下ったその先にあるものについて口にするのを避けていた。
 それがやってくる────或いは、それの許に飛び込んでゆくことは、もうあきらかに決まったことだった。
『それ』が何なのかははっきりしない。
 ただ、彼等にとって不善であること。
 はねのけるべき何かであること。
 それ以外には分からない。
 心の中の青黒い波をかきたてる風の音や、賑やかな声がゆっくりと遠のいた。沈黙の中で咲く花のようにひっそりと静まった淳の目が、願い事、という言葉に強く揺れたのを見たのは、多分達哉だけだった。自分の携帯の番号に電話がつながった時、行き場を失った電波の向こうに、願い事を叶えてくれる「ジョーカー」がいる。淳が、「願い事」というキーワードに、ジョーカーの姿を思い出さない筈はなかった。
 淳は何も云わなかったし、達哉も云えなかった。
 子供の頃は自分と似ていると思っていた友達の瞳の中で、風に揺すぶられる樹々と、暗い雲が動くのをただじっと眺めていた。

「────じゃあ今日はお開きにしましょうか」
 舞耶が明るくはっきりした口調でそう云って、彼等は建物の中に引き返した。その時リサが、ちょっと待ってて、と云い残して教室に走って行った。何か置き忘れたものを取りに行ったようだった。彼等は彼女の帰りを、暗い昇降口の周囲で待った。こんな時間なのに校舎の中にはもう電灯がついていて、外で騒ぐ風をぼんやりした光の幕で閉め出していた。
「一人で行かせても大丈夫?」
 淳がそう云った。
 そうだ、その時は確かに淳は彼等にまじって立っていた。
 舞耶が耳を澄ませるようにして、
「大丈夫じゃないかしら」
 そう答えた。
「もう悪魔の気配はしないもの」
 安心させるようにそう云った。それは吃驚するような綺麗な微笑みだった。ペルソナが高位のものに変るにつれて、彼等自身もその個性に影響されるようだ。舞耶と相性のいいペルソナは大抵、強くあかるく輝く光を伴った回復の術を使う。それは彼女の本来の性質によく馴染むだけでなく、気質そのものを増幅させて、より明るく輝かしいものにしているようだ。彼女の云うことは、無謀なようでいて、何らかの根拠があるように思えてしまう。
 ────ホントに根拠はあるのか?
 考えると分からない。だが、舞耶の云う通りにしてそんなに悪い事態になったことはない。
 淳は、気遣わしげにリサの走っていった廊下を眺めた。
「そう……?」
 廊下にも今は人気がない。
 それから、達哉の意識はふっと拡散した。砂のように飛び散って、あの川のことを考え始めた。
 あの光の中に入っていく。それ自体、安全なのだろうか? 光の中に水の流れが透けていた。光を梳かして流れる川と、それを囲む岩と。見慣れた中庭にあんなものがあるなんて、まるで悪夢のようだった。見えない地中を流れる異世界の川。誰もが自分の中に隠し持つ悪魔が、突然血管を通して透けて見え始めたように。
 だが、禍々しい場所に至る川だと分かっているのに、光の向こうに流れる水はとても美しかった。
 考えていることにうまく集中出来ず、達哉の中で視点はぐるぐると今まで観たものをなぞった。
 川、中庭の光の筋、少女の服を着た骨の走ってくる防空壕、街のあちこちでぼんやりと青白く光る、星座の名前のつけられた建物。
 その時リサが戻ってきた。
「────淳は?」
 リサの視線が彷徨った。
 ────淳は?
 達哉は、ほんの数分前まで自分の側にいたほっそりした姿を探した。どこかに歩いていった気配も感じなかった。珍しく、達哉と同じようにぼんやりしていた舞耶が、はっとしたように辺りを見回した。
「……見てくる」
 達哉は、たった今出てきたばかりの中庭に引き返した。淳が先に帰ったというのはあり得そうになかったし、それにふと、淳があの川に一人で行ったのではないかと思ったのだ。だが、幾ら彼でもそんなことはしないだろう。そう思って達哉は自分の胸の中に浮かんだ言葉を反芻する。
 幾ら淳でも。
 淳にどんな傾向があると、自分は思っているのだろう。
 その答が出る前に、達哉の目は、吹き降りの中でフサアカシアの幹の下に立つ淳の姿を見つけていた。淳は右手を樹のほっそりした幹につけ、梢から灰色の天を透かし見るように上を見あげていた。広げて、アカシアの濡れた樹皮にぴったりと押しつけられたそのてのひらは、身体を支えるためについているというよりは、樹の中に何かを送り込んでいるようだった。
 淳が彼等の前から姿を消したほんの一瞬の間に、制服を身につけた背中は雨で色を変えていた。
 達哉は目を眇めた。
 花の季節を過ぎた樹の根元で、ただ暗鬱な鉛色で彩られた雨の情景に、淳は溶けてしまいそうだった。
 黒い睫毛を通して雨の梢を見あげる淳を目にした途端、ピリッと脳髄を走り抜けたものに、達哉は瞬間的には名前をつけることが出来なかった。
 かつて感じたことのある、怒りとも、焦燥とも、嫉妬ともそれは似ているようで、ぴったりは来なかった。
 ただでさえ彼はそういった激しい感情に向き合うのが苦手だった。真実の醜さに向かい合うことに比べれば、黙ってそれを飲み込み、なかったことのように忘れ去ることはずっと容易かったからだ。まして、たった今頭をかすめた「嫉妬」は、誰にかかったものなのか、誰に向けられたものなのか、理解できなかった。


 バイクに乗っていると、歩いている人を追い越しても、一瞬色がひらめいた程度にしか視認出来ないことが多い。
 相手がよほどはっきりした色の服を着ていれば別だが、ごく目立つ色────曇りの日に派手な黄色の服を着ているとか、晴れた日に赤い服を着ているとか。そんな人でさえ、黄色や赤のリボンが流れていくようにしか見えないこともあった。
 ヘルメットの中で視界は狭まり、スピードは現実感を希薄にする。青いものが見えたと思ったのは、ほんの一瞬視線を落とした時に目に入った、グリップを握る彼自身の腕ではないかと思った。達哉はネイビーのレインブレスコートを身につけていたからだ。
 だが、こんな叩き付けるような雨の薄闇の中で、彼は確かにヘッドライトの中に淳の制服の青を見たと思った。
 スリップしかねない勢いでブレーキをかけ、彼はヘルメットをむしり取った。ステップに片足をかけたまま後方の闇に目を凝らす。
 蓮華台の小さなイベントホールの前だった。大抵の店は珠間瑠が他の街から切り離された後も、普通に営業しているが、イベントホールは別だった。市外からやってくる人間の興業で成り立っていたイベントホールは、シバルバー浮上以来、灯が消えていた。
 誰かが正面玄関の硝子を割って中に入り込んだらしく、無人のままでドアが半分解放された状態になっている。機能していない建物の扉が開いているのは、口を開いて死んでいる人の姿を想像させる。
 思ったより行きすぎてしまったのか、淳はなかなか現れなかった。
 一瞬あかるく目に焼きついたあの青が、淳なのか、或いはそうでないのかを確かめるためなら、もう一度引き返してもいいと思った。
 しかし、彼がその決心を固める前に、暗いグレーの視界を細い楕円形にゆがめるように、青い服を着た少年の姿がにじみ出た。
 達哉の年代は、大抵の者が少年から男の姿に変容している。だが、淳はその大多数に当てはまらなかった。背の高い女だと云われた方が納得できるような、なめらかで骨の細い身体が、彼が歩くにつれてはっきりと見えてくる。
 昔は、線は細かったが、むしろ達哉同様背の高い大人びた子供だったのに────。達哉は不思議に思う。淳は、自分を達哉のバイクが追い越していったことに、既に気づいているようだった。歩いて来る彼の視点が、真っ直ぐに自分に止まっているのを感じる。中庭で約束の樹を見あげていたのと同じ黒い大きな目が達哉を見ていた。
「淳!」
 中庭では、舞耶に呼ばれるまで達哉は淳を呼ぶことが出来なかった。
 するっと彼の名前が出てきた事にほっとしながら、達哉は彼が追いついてくるのを待った。ふと、奇妙な感覚が胸をかすめた。淳は一度も家に帰っていないのだろうか。
 達哉は夕食を食べる為に家を出てきたのだが、とうに一度帰宅していた。彼等がセブンスを出て数時間たっていて、外は相変わらずの雷雨だった。ここは淳の家からはだいぶ離れている。だが、淳の服装はさっきのものと一緒だった。
(この雨の中をずっと歩き回ってたのか?)
 まさか、と達哉は思う。夏の雨だが、それでも空気は冷えてくる。
 明日、あの中庭の光の柱の奥に行くのだ。舞耶は、今夜はくれぐれもよく眠るようにね、と子供を引率する教師のように彼等に云い渡した。そんな状況で、傘を差しているとはいえ、雨の中を何時間も歩き回ったりするだろうか?
 淳が何か云った。
「何?」
 聞き返した達哉の声も、風の音がかき消した。淳は耳を澄ませるように首をかしげ、そしてふと何かに気づいたように上空を見あげた。
 上空に走る稲妻と音の感覚はごく短い。不機嫌な雷雲のエネルギーの中心は、彼等のすぐ上にあるようだ。
 淳が顔を上げた途端、目の眩むような光量の青白い光がひらめいた。その時、達哉と淳の距離はせいぜい四、五メートルだった。先ず、踵と、喉の骨を下から突き上げるような振動があった。そして、彼のすぐ側まで来ていたひっそりと青い身体めがけて、かっと明るく光る雷火が落ちた。
「!」
 淳の手から傘がはじき飛ばされた。
 それは、達哉の想像していた落雷とは全く違った。彼は稲妻のように細い光が一点をめがけて槍のようにつらぬく様子を漠然と想像していたのだ。だが、落雷は想像していたような光の剣ではなく、おそろしく大きな光の球だった。それは空で閃いた次の瞬間にはもう、淳の中に落ちていて、軌跡を目で辿ることも出来なかった。青白く光って淳の身体の中で膨らみ、そこで跳ね返って地表を激しく転がり、傍らの樹にぶつかって行った。道の傍らに緑の葉を茂らせていた銀杏の幹が、乾いた音をたてていびつにはじけとんだ。
 一歩踏み出して、悪夢に触れるような気分で淳に手を伸ばした。
「近寄るな!」
 驚くほど強い声が達哉を制止した。その途端、淳の髪の上で、金色と銀色の火花が小さな花束のように飛び散った。彼がおそれたように、淳は電流に灼かれてはいなかった。だが、彼の身体がまだ今の落雷のエネルギーを孕み、もっとも強力なジオもかなわないような帯電状態なのが分かった。
「まだ暫く、こっちに来ない方がいい……再放電するかもしれないから……」
 淳の前髪で、また金色の火花がきらきらともやのように舞い上がった。
「大丈夫……ジオと一緒だから、少し待てば消える……」
 二人の間にほんの少し距離を残して────表情がはっきりと見える程度に、だが、触れるには至らない距離────達哉は淳の拒否の言葉に一瞬足を止めた。
「……何云ってる……」
 だが、結局彼は衝動に勝てなかった。足許の水たまりの中に膝をついた淳に手を伸ばす。触れた途端、まるで手ひどい拒否反応のように電流が自分に流れこむのを感じた。血液という伝導体で満たされた身体は、淳の身体がため込んだ膨大な電流をやすやすと受け取った。心臓と肺を中心に息の止まるような苦痛と衝撃が放射する。
 淳の手に触れる寸前で達哉の手が跳ね上がった。
「……っ」
 達哉はのどの奥に息を呑み込んだ。右手を駆け抜けていった、ねじれたエネルギーの痛みが、指先やてのひらに疼いている。
 ペルソナを使っているせいで身体に変化が起きていなかったら、今の直撃でおそらく淳の呼吸は止まっていたはずだ。それが淳でなければ。思わず項の毛が逆立った。
 彼は愕然として淳を見おろした。いかに激しい電流を伴ってはいても、落雷が一度に人間を焼き尽くすことはあり得ない。そのショックが呼吸や心臓を止めるせいで、酷いショック状態におちいって死に至るのだ。だが、淳の細い身体は苦痛に震えてはいるが、それでも立っていたし、呼吸も正常だった。悪魔と相対するときには意識しない、自分たちの変化に改めて思い当たる。
「……淳、大丈夫か」
 ほぼ愚問に近いそれが自分の唇から滑り出して、達哉は苛立った。
 大丈夫な筈はない。生きていて、呼吸しているが、だからと云って大丈夫だと云われても、達哉には信じられない。
「大丈────夫。すごいな……」
 淳はあえぐように、だが、しっかりとした声で応えた。
「落雷で、この程度のダメージで済むんだ……」
 彼等の身体も精神も、現実を逸脱して、半ばまで異世界に滑り込んでいるのだ。
 その傾向は、ペルソナを使い始めた時に発現したものだったが、今はもう疑いようもなかった。
「達哉は、大丈夫だった?」
 彼を見あげる淳の顎から雨の滴がしたたり落ちる。
(別に普通なのがいいなんて思ってるわけじゃない……)
 ただ、常人から逸脱した力を持っていると、それだけ『目立つ』のだ。
 たとえば暴力的な衝動を抱えた人間の目、たとえば常に契約者を求める悪魔の目につきやすくなる。
 力がなければ課せられることのなかった、誘惑や戦いがつきまとう。
 周囲に高い建物も樹もあるのに、淳に落雷したのも、理由のない偶然だろうか?
 達哉の目には、まるで雷撃は誰よりも淳を選んで落ちたようにさえ見えた。
 そう思うと、雲の裂け目から巨大な目が彼等を見おろしているような気がした。
 達哉は身体をふるわせた。
 考えすぎない方がいい。
「立てるか?」
 抵抗があるように一瞬身体を強張らせた淳に、無理に手を貸して立たせた。屈折した雷撃のストリーマーで装飾過多に彩られた空が、次の一撃への不安を呼び起こした。今までかろうじて傘に守られていた淳の服は、背中や肩がかなり濡れてしまっている。
「ホールに入ろう。鍵壊れてるから」
 達哉は視線で空を指した。
「次が来るとヤバい」
「……そうだね」
 淳は達哉に手を握られたまま、数歩あるいて立ち止まった。
「君まで────ごめん」
 達哉は何かを云い返そうと淳を振り向いた。だが、いつも夢を見ているような黒い淳の目が、いつになく必死な色を浮かべているのに気づいて、口を噤んだ。
 現実を映しているのかどうか分からない、あのおだやかな瞳は達哉を落ち着かない気分にさせる。こういう目をしていてくれる方がずっとよかった。
 いいから、とか、気にするな、とか。せめてそのくらいのことは口にするべきだと思ったが、彼の喉はふさがったようになって、自然な声は出なかった。
 感情的になり過ぎだ。
 淳を見ていると、自制することを優先してきた何年間かが吹き飛んでしまいそうだ。


 事務所なら、湯を沸かす設備と、運が良ければタオルくらいはあるだろう。そう思っていたのだが、事務所には鍵がかかっていた。建物の半地下から二階までをぶち抜いて設置されたホールも、正面の入り口は閉まっていた。
 だが、左側の通路から劇場一階の通路に入る入り口は開いていた。そこにも、無理矢理に開けた跡がある。
「ホールに入るか。椅子がある」
 淳は黙って肯いた。通路の灯りは消えていたが、中途の壁に置かれた自動販売機の灯がそこをぼうっと照らし出している。自動販売機は、冷たい缶コーヒー以外は売り切れだった。淳はコーヒーを飲まなかったような気がする。迷ったが、達哉は微糖のミルクコーヒーを一本買った。
 劇場の中も真っ暗だったが、足許に緑色の非常灯がついている。後方の、非常口のランプも点灯していた。人がいない時も、いつもこのランプは点灯しているのだろうか。奇妙な感じがした。無人の建物の中で非常口を示すランプ。それは、人間の作った機構が、何か目に見えないものに対して、常に方向や出入り口を示唆し続けているような気味悪さだった。真夜中、無人の道で進行方向を指示する信号を目にする時、同じような気分になることがある。
 彼等は、演壇の設置された舞台をすぐ前に見渡せる、最前列まで行った。
 誰かがここに入ってきたのは間違いない。設置されたマイクが、引っ掻き回されたように落ちて、演壇からコードごと垂れ下がっている。一体何故片づけられないままそんな所に残っているのか、一つだけフットライトが黒い目を見せて横倒しに転がっていた。
 押し殺すような淳のため息が聞こえる。
「座ったら?」
 達哉はレインコートのファスナーを下ろした。淳は疲れたように首を振った。濡れた前髪をかきあげる。
「背中が濡れてるからやめておくよ。椅子が濡れる」
「すぐ乾くだろ」
 彼は、コートの下に柔らかいマイクロフトのパーカーを着ていた。雨の日にバイクに乗ると身体が冷えるが、このパーカーは撥水も保温もよかった。達哉はパーカーを脱いで、ランニングの上から直接レインコートを羽織った。
「上脱いで、これ着ろよ。あんまり濡れてない」
「……いいよ、雷がおさまったらすぐに帰るから」
 淳は慌てたように首を振る。たぶんそう云うとは思っていた。
 彼は淳の腕を軽く掴んで引いた。
「……着ろってば」
「……」
 淳は一瞬たじろぐように達哉を見たが、静かに目を伏せた。何かを訴えるような色を浮かべたのに、それは風に出逢った炎のようにすぐに消えてしまう。手がかりを見出したような気分の達哉の手から、彼はあっけなくすり抜けて行った。舞耶が、一緒に行こう、と云った時と同じだ。淳がため息を押し隠したのに達哉は気づいた。
 自分がリセットしようとしただけでは潰えない、ざらざらとした障壁のようなものが淳の前にあるのが見える気がした。
「……そうだね、ありがとう。借りるよ」
 彼は達哉の薄い上着を受け取った。水を吸って、普段の青から、暗いスカラブブルーに変った制服のボタンを外し始める。
 鎧うような学生服の中から、やはり水を吸った半袖の制服の白いシャツが現れる。季節にしては暑すぎる服装だが、流石にアンダーシャツは着ていなかった。それもその筈で、彼等は毎日三十度近い気温の中を歩き回っているのだ。濡れてまつわりつく綿のシャツの下から、真っ白な皮膚が現れる。ごく薄く筋肉は乗っているが、無駄な肉付きの殆どない、引き締まった薄い胸がゆっくりと上下している。肩の骨から胸にかけて、薄い桃色に染まった火傷の跡が縦に走っていた。それは一見して重い火傷でないように見えた。火傷と云うほどむごいインパクトはなく、指で強く擦った跡のように、皮膚を薄赤く染めている。淳の肌の白さが生々しく思えて、達哉は思わず目を背けた。そして、彼の身体を正視できない自分の気持が一体何なのか、正直いぶかしく思った。
(────この程度で済むんだ……)
 自嘲するようにつぶやいた淳を思いだした。
 だが、耐えられるということは、つらくないということとイコールではない筈だ。
 瞬間的に、耳鳴りのように苛立ちが頭の中で反響した。
 彼は苛立ちを体内から逃がそうと、深い息を吐いた。
 達哉にとっては、怒りや苛立ちは禁忌のキーワードだった。自分の怒りが、いつもいい結果にならないことを、彼は身にしみて知っている。

「アレ」も、暑い日に起こった事件だった。
 ただじっと立っていても汗が噴き出してくるような、高温の窯の底に投げ込まれたような、夏の午後だった。
 達哉は、中学のすぐ近くの資材倉庫のコンクリの上にうつ伏せて押さえ付けられた。最初ははっきり聞こえてきた野次が、背中や腹を蹴られるうちにぼうっと遠くなった。最初は事態を飲み込めずにぼんやりとした石灰色だった胸の中は、やがて不意に紅く染まった。天然色で彩られていた世界を、ヒステリックな高温が侵食して、思考を切れ切れにした。コンクリの上で拳を握りしめると、四本の指の関節がこすれて血が滲んだ。
 あの時自分は何かを叫んだような気がする。
 友達の名だったのかもしれないし、記憶にない母だったかもしれない。或いは、もうその時すでに、自分の中に巣食って、無言の内に契約を取り交わしたペルソナの名前を呼んだのかもしれない。
 あの日の記憶は紗がかかっていて、ところどころはっきりと思い出せない部分があった。
 靴の踵でにじられた背中をつきやぶるように、熱いエネルギーがあふれ出したことははっきりと思い出せる。
 頭上から濁った音と、悲鳴が聞こえてきた。
 朱い焔の影のようなものが空気をゆがめて揺れ、あたたかいものがしたたり落ちてきた。
 一番最後に彼を罵りながら殴った奴が、重く背中に覆いかぶさってくる。
 意識がなくなっていた。
 気を失った人間の身体が、鼓動が間遠くなり、体温が急激に下がって、にわかには死体と区別がつかないことを達哉はその時知った。
 粘る赤い液体に濡れた彼等の手足は奇妙な方向に曲がり、壊れた玩具のように積み重なっていた。達哉は息を殺して起き上がった。
 視界の端に再び赤いものが揺らめいた。
 金色のかぎ爪を備えた手が、まだ傷つけ足りないというようにぴくりと蠢いた。長い爪から赤い液体がしたたり落ちた。
 彼は凍り付いた。
 すぐには、その正体を確かめるために振り向くことが出来なかった。
 ずきずきと痛む身体の中で、自分の中から現れた悪魔が演出した惨状を、恐慌状態に似た胸苦しい吐き気と共に見つめた。


 淳が、あの夏の達哉と同じような経験をしたことを、達哉は薄々と知っていた。その結果として現れたジョーカーを目の当たりにしたからだ。
 ペルソナ使いは、多かれ少なかれ、同じような肉体的な危機、極度の恐怖にさらされた結果、ペルソナの発現に至った者が多い。
 その中でも、達哉と淳は、怒りによって自分の中のペルソナを呼び起こした者同士だ。
 怒りというものが、どんな結果を引き起こすのかを考えると、目の前が暗くなる。ペルソナ使いでなくても、一人の人間が闇雲な怒りに駆られた時、他者を傷つけたり、殺したりすることはそれほど特殊なことではない。だが、それぞれが自制という脆い錠で、感情のあふれ出そうとする扉をかろうじて閉ざして生きているのだ。
「……俺たちと一緒にいて、そんなにつらいか?」
 その答が聞きたいのかどうか分からないまま達哉は口に出した。答えるまでもなく淳は終始つらそうだったからだ。質問と云うよりは確認のようなものだった。
 達哉のパーカーのファスナーを上げた淳の肩が、痛む傷に触れられたようにぴくんと揺れた。
 彼は暫く黙っていたが、やがて肯定するようにゆっくりと数回瞬きした。
「……どうして?」
 そう聞き返されると、達哉は逆に続けられない。
 自分が何故そう思うのか、理由は沢山ある。だがそれを一言では云えなかった。
 淳が不自然に無口なこと。
 かすかに眉をひそめて視線を落とす癖があること。
 ため息をつきそうになって、誤魔化すように顔を逸らすこと。
「願い事」という単語を聞いた時、何か酷く冷たいものに触れたように反応した背中、雨の中で歩く青い服の肩の強張った線。
 どれも、達哉にとっては核心に触れる信号だった。だが、それは口に出すのを躊躇われるキーワードばかりだった。自分がそれだけ淳を見つめ続けている理由を、何と云って説明すればいいのか分からなかった。
「何となく、だろ、こういうの……」
 躊躇いが声に出て、言葉尻が消えてしまった。まとまりかけていた感情が形を為さなくなって、達哉の決心は潰えそうになる。淳は濡れた服を握りしめていた手を降ろした。痛いほどの視線が達哉に向かってきた。
「……君たちといて、つらいと思うような奴が一緒にいるのは邪魔かな」
 ふるえる声が青ざめた唇から滑り出した。
「それじゃ仲間じゃない? 百パーセントの信頼が、僕たちの新しい約束なのかな?」
 その声のトーンは抑制されていて、なだめるように柔らかかった。
 だが、達哉はその中に含まれた氷のような拒否に身体を硬くした。その言葉は、達哉の今の言葉に反応して返されただけのものだとは思えなかった。淳も、最近の達哉の葛藤に気づいていて、ひそかに苛立っていたとしか思えなかった。
「そこまでは云ってない」
 消えかけた言葉を探して、達哉は虚しく自分の胸の中を探った。
「何とか出来ないかと思っただけ」
「……」
 淳は不意に微笑んだ。滅多に笑わない彼の唇に浮かんだのは、矮性の花のようになめらかに淀んだ、排他的な微笑だった。
「何とか一緒にいて、つらくないように……?」
 そのささやきは、突然強い毒気を含んだ。彼は突然、積乱雲のように不穏な怒りに支配されたようだった。
「一緒に食事をして、雨宿りして、濡れてたら上着を貸して────?」
 たった今の自分たちを揶揄するような言葉に、達哉の顔は熱くなった。喉の周りで血が疼き始める。
 だが、暗雲のように不機嫌なこの淳も、雨の中で静かに樹の幹に触れる姿ほどは、達哉を不快にしなかった。触れようとした手を拒まれた衝撃はあったが、その代わり、固く閉ざされていた扉の隙間を見つけた喜びが一筋いりまじっていた。
 だが、淳の目の中にようやく煌めいた光は長続きはしなかった。
 暗く燃え上がった情熱は、中途半端に瞬いて再び沈んで消えていった。
 皮肉な微笑が唇から消え、淳はあきらめたように目を伏せた。
「……ごめん、本当は僕も、そんな風でいられたらいいと思ってる」
 親しみを持てない、いつものおだやかな声が耳に届いた。
「君が、気を遣ってくれてるのは分かってる。……」
 言葉と一緒に、錆び付いた機関が動力を与えられたように、ひそかなため息が吐き出された。皮肉にならないよう淳がせいぜい気を配っているのが知れた。
 唇が或る形に開いて、達哉は淳が云おうとしている言葉を直感的に悟った。
 ────ありがとう。
 肯定の形を借りた、そんな言葉で突き放されることを思うと耐えられなくなった。
 達哉は、淳が何も口にする前に、両肩を荒々しく掴んだ。引き寄せるだけでは、言葉を封じるだけの衝撃を与えられないことに気づいて、ホールの座席に突き倒すように淳を押しつけた。何かを云おうと開いたまま、乾いた音をたてて唇が空気を吸い込んだ。淳の肺が急激に収縮して、彼は咳込みそうになった。
 達哉は、淳がもつれこんだ椅子の座席の端に、片膝を乗り上げた。
「いつまでも、そういう風に閉め出してろよ……」
 収拾しきれない感情があふれ出して、達哉も喉をつまらせた。
 あくまでそうやって閉め出されるなら、無理矢理に入りこむしかない。
 そう思った。
 思った、という言葉が不適当なら、感じた、と云ってもいい。
 いずれにせよそれは、達哉がこの数年間、頑なに拒んできた方向────怒りと力の衝動へ、彼の心理を逆転させる追い風になった。呼吸も視線も、鼓動や体温さえも同方向へ押し流された。
 溺れるものが指に触れたものを掴むように、達哉は淳の肩を掴む手に力を入れた。
 淳の瞳がきつくなった。理解に苦しむように揺れて、彼は無言で達哉を押しのけようとした。
 どうすればもっと広く扉をこじあけられるだろう。達哉は目の前でぶれて見える白い喉に手をかけた。片手を肩と顎の間に滑り込ませ、締め付ける。
「……っ、達哉……!」
 てのひらの窪みの中に、淳の喉に隆起した軟骨の感触がある。
 少女のようにやわらかな皮膚で包まれた喉に、男の形状を突出させた骨は、統御し難い倒錯的な興奮を呼び起こした。殴りつけたいような、ある意味で単純な衝動より、それがずっと性的興奮に近いことに達哉は気づく。慄然として、思わず指に力が入った。
 淳の爪が達哉の手に食い入って手の甲の皮膚をゆがませた。
「達哉……」
 また、てのひらの下で喉がふさがれた笛のように鳴った。息が詰まるほど強く締めてはいないと思うが、首に手をかけられるのは、それ自体が不快なインパクトを伴う。それは敵意の象徴にしかなり得ない行為だ。
 見ひらかれた淳の目を受け止めるのは耐え難かった。首筋にあてていた手を離し、淳の手首を握り込む。狼狽したようにひきつれる呼吸の上から、自分の唇をかぶせた。これ以上、草食動物のように濡れて黒い瞳を見ずに済むように達哉が目を閉じた。
 薄くなめらかな唇が、達哉の唇の下で解放と呼吸を求めて開く。動揺と頸動脈に与えられた軽い圧迫が淳の呼吸を乱し、頬を冷たくそそけだたせていた。心臓が破れそうに脈打っているのが、胸を接触させると伝わってきた。
 淳の手を押さえ付けてまで、している事が自分でも信じられなかった。興奮と驚きに、背中に冷や汗が吹き出した。握りしめた手の中で淳の手首の筋が、骨が、必死によじれた。
(何を、してる……)
 淳に答えようとした言葉が続けられなかったのと同じように、頭の中でも達哉の思考は先細りに途切れた。強く巻きすぎて脆くなった糸のようだった。
 逃げる唇を追い掛けて、やがて深く重なる角度を見つけて入り込む。舌を探し出して、巻き取るようにして絡めた。やわらかな感触にまじって濡れた音がすると、淳は遂に身体を強ばらせて動かなくなった。ただ、敏感な部分が擦れるたびに、背中と、握りしめた手首が小さく揺れる。
 それと一緒に、もう一本の目に見えない背骨のように、淳を支えていたプライドが揺れているのが分かる。
 冷たかった頬にぬくもりが増し、首筋や手がしっとりと湿り始めていた。
 彼にキスすればいいのか、息をふさげばいいのか、ただ拘束するだけでいいのか分からなかった。舌を絡めたまま強く歯で噛むと、舌に痛みが走る。淳の舌が同時にふるえ、彼の喉から低い、うっというような声が漏れた。
 歯の間から、鉄の匂いのぬくもりが染み出してきた。どちらのものか判然としない血が二人の唇の間で濡れた音をたて、唾液とまじって滴になった。
 血は口の中に独特の苦みを広げ、達哉はふと自分の舌の上に、うずきながら血を流す小さな傷の存在を自覚した。
 噛みあわせた犬歯が傷つけたのが、淳ではなく自分自身だったことを知って、どこかほっとしていることに達哉は気づく。それは、今彼の四肢をとらえた衝動と相反した感情だった。
 握り取った手が、救いを求めるようにもがく。強く握りしめられているせいで、手首は色を失い、逆にてのひらは滞った血を透かして紅潮していた。
 今すぐにやめろ、と警告する気持と、ぬかるむ血のような焦りの中でもがく気持がせめぎあった。
 手を離して詫びれば、淳はこのまま咎めることもなく、達哉を許すだろう。
 そして、勝てるのかどうか分からない────そもそも勝ち負けが存在するかどうかさえ分からない道の、向こうの暗闇にひっそりと消えていってしまうだろう。
 これが最後のチャンスなのだ、という奇妙な確信が達哉の中にあった。
 シバルバーに入ってしまったら、淳との間で失ったものを取り戻す機会も、淳が彼等に苦しみを吐露する機会もきっとなくなってしまう。
 結局。
 一瞬の葛藤の末、どんな方法を使ってでも、淳の心の内側に入り込みたい、と思う気持が勝利をおさめた。
 達哉は、唇を離した。
 唾液が細い糸を引き、血の匂いと一緒に顎にしたたる感触があった。淳は茫然としたように目を開けて達哉を見た。どちらかといえば青ざめた色をしていることの多い唇が、キスと血に濡れて真っ赤に染まっている。
 荒く肩を上下させながら、彼が何とかしてこの場面から逃れようとしているのが分かった。逃げる機会をうかがう草食動物のように、彼の手足が力を孕み、緊張している。深く腰掛けた座席から淳が立ち上がろうとした瞬間、達哉はもう一度彼の喉元に手を伸ばした。
「達哉……いい加減に……っ……」
 悲鳴のようにかすれた声が漏れる。達哉は、自分のパーカーを着た淳の胸元を探り、ジッパーを下げた。汗に湿った胸は熱くなって、軽く触れただけでも激しく脈打っているのがてのひらに伝わってくる。胸に触れた手をそのまま下腹に滑り込ませ、ベルトを外す。慌ただしく前を開いて、熱を伝える部分に手を入れた。下着の上から反応を示す様子のないそこを握り込むと、膝が拒むように跳ね上がった。
 淳が抵抗できないよう、片手でゆるく喉を締め付けながら、足から服を剥ぎ取った。湿気を含んだ布が肌にまつわりつこうとするのを無理矢理に引き剥がすのは、生爪を剥がすのに似た、生理的嫌悪感がある。
 息を詰まらせる淳の表情を見ないように、達哉は目を伏せて自分の指を湿らせた。舌の傷をかばおうと沸き上がる唾液を絡ませ、その湿り気でもって、淳の身体を探った。
 衝動と、およそ粗末な知識を頼りに、自分が淳を抱こうとしている、ということを、達哉の身体はようやく呑み込んだようだった。腰に熱が走り、それと同時に急激に血管が膨れあがって、軽い痛みをもたらした。
「嫌、だ……、達哉ッ……」
 淳の声が叫びに変る。悲鳴の周波数が、直接指で押すように鼓膜を刺激した。
 自分の服の前をはだけ、てのひらで硬さを確かめた後、達哉は、椅子と自分の間で折り曲げられた淳の身体を更に押し開いた。
 殆どほどけていない身体の中に、力任せに突き入れた。酷く狭く、乾いた感触が、達哉を身動きできないほど締め付ける。達哉の敏感な部分に負荷がかかって、額が汗に濡れた。それ以上深く繋がることは出来ずに、達哉は浅い息を吐いて、淳の肩に額を押しあてた。
「……ぅ、んん、っ……」
 痛みと拒否を示す細い声が達哉の耳元であふれ、彼は喉から手を離して、淳の両肩を座席になお強く押しつけた。自分の取った選択肢が酷くばかげていることを、遠くで自覚しながら、じりじりと身体を進ませた。
「達哉、……」
 淳の手が弱々しく達哉の背中に触れる。
「達哉……」
 背筋をはい上がった手に、後ろ髪を掴まれた。自分を呼ぶ声が喉に絡んでいるのに気づいて、達哉はようやく目を上げた。そこに、今にもあふれ出しそうに盛り上がった透明なものに濡れた、黒い目があった。
「君に、こんなことは、して欲しくないんだ……」
 淳はあきらかに涙のまじった声でつぶやき、ため息をついた。達哉が身動きすると、痛みに身体がびくつき、達哉にとっても、殆ど痛みでしかない刺激を伝えてくる。
「君だけは、こんな……」
「……どうして、俺だけなんだ」
 達哉は吐き出した。身体中がずきずきと後ろめたい興奮に脈打っている。もっと深く入ろうと、身体がよじれるような衝動が突上げてきた。
 堰を切ったように淳の目から涙が流れ落ちた。涙の筋が幾筋も伝って顎に滴を作る。
「それは、僕にとって……」
 涙か、達哉の与える感覚かどちらかが、淳の言葉を途切らせた。彼は大きく体をひきつらせるように喘ぎ、唇をかみしめた。
「君は……僕が、絶望せずにいられる、理由だからだ……」
 淳の涙声が、切れ切れにささやく。
「暴力を捨てたら、絶望しか残らないと思ったことがある。でも、……」
 濡れた目から、新しい涙があふれ出した。
「絶望は、暴力と同じくらい、何も生み出さないものだ……」
 淳はようよう手を上げ、片手の甲で、濡れた頬を拭った。
「勝手かもしれないけど、僕が絶望せずにいるためには君が必要なんだ……」
 胸の中に、水泡のようなものが沸き上がって来た。無理に押さえ付けた感情が漏れだして、感情の表面に、次々に雨滴のような穴を作っていた。
「俺が……?」
 声が嗄れた。
 目を隠した淳の青ざめた顔の中で、唇がふるえる。その唇も、涙の滴を受け取っている。
「ずっと好きだった友達が、僕と同じ力を持ってても、それを暴力のために使わなかったのを知って……その事に期待をかけるのはおかしい?」
 頬を殴られたような思いで、達哉は青ざめた淳を見おろした。
「何もかも壊れてしまえ、って、思ってた……」
 力無いつぶやきが漏れた。
「でも壊さなくても、……いいんだと思った。君を見て、……」
 淳が身体をすくませると、達哉に再び刺激が伝わった。それはこんな状況だというのに、今まで感じていたものよりも、大分快感に近かった。
「別の方向に進める可能性が、あるんだと思った……」
 随分長いこと泣いた覚えのない達哉の目に、涙の予兆のような痛みが走った。
「……」
 淳を呼ぼうとして、声は何度目か、喉から吐き出されることを拒み、石のように凝った。
 彼は、自分のてのひらの下でかちかちに強張った痩せた肩から、ようやく手を離した。
 関節が錆び付いてしまったように、拘束の名残を残した角度で指がかたまっている。それはとりもなおさず、達哉が淳にぶちまけた暴力の角度だった。自分が、暴力という言語で淳から答を引き出そうとしていた事が、痛みのような実感を伴ってこみ上げてきた。
 子供の頃に道が分かたれて以来、初めて淳と自分の間に初めて成立した接触が、今日のこれだったことも、改めて思い当たった。
 汗と涙に濡れた淳の頬に触れようと手を伸ばす。
 手は、頬に触れる前に、そこを覆った淳自身の冷たい指に重なった。達哉の指は酷く熱く、淳の指は酷く冷えている。
 なるべく柔らかく、淳の指をそこからとりのけた。
 閉じた目をかばう睫毛の線がゆがむほど、そこにはまだ涙がとどまってゆれている。半透明の銀の線になって、黒い睫毛の合間でふるえる涙の層を、達哉は、自分の親指で拭い取った。
 そうでなくても、淳を追いつめるものは後を絶たないのに、自分が追い打ちをかけたのだ。
 座席のなめらかな布が、達哉の太腿を湿らせた汗を吸い取っている。
 彼は、自分たち二人の息を、ホールの空気が微妙に反響させているのに気づいた。本当なら講演者と観客で一杯になる筈の場所に、二人切りで閉じこもって、彼等が沈黙していたのは、ほんの数十秒のことだった。
 だが、怒りの力を借りて硬くなった自分が、淳の中にいるのを強く意識するのには充分だった。
 騒音が急に止んだ後のように、感覚が鋭敏になっている。
 口に出して謝りたかったが、まだ感情が形にならなかった。
 土埃に汚れた、シバルバーの鉛色の船体が目の前に浮かぶ。
 彼等はあの中に降りてゆくことになる。条件が整い次第、明日の朝にでも。
 あそこに何があるのかは、はっきりとは分からない。
 だが、薄々感じているのは、たぶん自分たちは還ってこられないだろう、ということだった。
 生きて元の世界に戻る見込みはたぶんなかった。しかも『元の世界』などというもの自体、もうどこにも存在しないのだ。
 事件が起こる前の平和だった世界は、過ぎ去った夢のようなものだった。
 だが、その甘美な夢は、彼等の行く手を照らす、唯一の小さなライトだった。ささやかな剣を頼みに、あの暗い空間の中に降りてゆく彼等にとって、「戻れるかもしれない」という淡い望み以上の慰めはなかった。
 これが淳との数年ぶりの接触であり、最後の接触になるかもしれない。
 優しく約束の樹に触れる淳が、何故あんなに不快だったのか、あの時は達哉には分からなかった。
 だが、突然、自分の苛立ちと恐怖心の理由が見えて来た。
 淳が、苦痛を打明ける対象として物言わぬ樹を選び、自分たちが彼の精神的領域から閉め出されたことを感じたからだ。
 シバルバーの中で、予想の出来ない結末を観る前に、淳の目が自分を映す様を見たかった。抑制した穏やかな声でなく、生の感情をうつした声が聞きたかった。何一つ感情が通い合わないままで、淳をもう一度失うことが怖かった。
 だが、淳の注意を惹くための道具として使うなら、暴力には幾らでもバリエーションがある。殴ってもいい。ペルソナを使ってもよかった筈だ。
 だが、達哉はそうしなかった。
 淳の肌に触れ、唇を合わせることを選んだ。口の中で濡れた器官が絡むことに昂揚して、淳を抱こうとしたのが何故か、考えてみるまでもなかった。
 結局、今のこの事態は、平常心を失うほど達哉が淳に執着した結果だったのだ。
 だからといって、必死に閉ざされるドアを暴力でこじ開けるのは、唾棄すべき行為だった。
 目の前が暗くなるような羞恥心がこみあげ、髪の生え際から汗がにじんだ。
 彼はため息をついた。
 ずっと握りしめていた、淳の手首の内側に唇を押しあてる。シルクのようにきめの細かい、なめらかな皮膚が、かさかさと乾いた唇に触れた。今更ながらに、異質なほどの淳の身体の誘引力を感じる。青ざめた頬にも荒れ一つ見られない。肉の薄い身体は整いすぎて人形のようだったが、そうでない証に、達哉を呑み込んで痛みに引きつれている。
 理不尽な苦痛と、皮膚を湿した雨のせいで、ひんやりと冷えた身体を、達哉は気後れしながら撫でた。
 自分の意思はどうあれ、それが暴力の上塗りにならないかを気にしながら、彼はそっと淳の髪をかきあげた。手がふるえた。かつて、他の誰にもしたことがないほどそっと、唇を近づける。
 さっき、食いつくように重ねて、ただ強く吸った唇に恭しく触れた。
 おそらく、その場で達哉が出来る最良の選択として、触れるだけの淡いキスをした。これも自分勝手な感情なのは分かっていたが、自分と淳の数年ぶりの接触を、暴力で終らせたくなかった。
「……どうして、まだ……?」
 淳の唇から、低い呟きが漏れた。
「僕が、許せないのは無理もない、けど……」
 かすれた声に、達哉はようやく首を振った。
「違う」
 やっと声が出た。呪縛から解放された喉に安堵する。もう声が震えていても、どれだけ達哉の感情をむき出しに晒したとしても構わなかった。
「俺は、お前じゃなきゃ駄目なんだ……」
 その言葉を聞いた瞬間、淳がどんな顔をしたのか、彼の耳元に唇を寄せたままの達哉には分からなかった。淳の反応を伺う余裕もなかった。
「多分、お前しか見えてないんだ────」
 殆ど無意識に口からこぼれ出た言葉は、自分自身にも隠していた本音だった。
 リサのシャドウと相対した後、達哉はリサに気持を打明けられた。彼女を傷つけない、あたりさわりのない言葉を探しながら、彼の胸の奥には漠然と一つのイメージが結ばれていた。リサに云うことは勿論、自分の胸の中でさえ、その時ははっきりしなかったが、それは間違いなく淳の姿だったように思う。
(何もわかってないじゃないか、……)
 子供のように何ひとつ分からないままでも、壊すことだけは一人前だ。
「嘘だろう……?」
 弱々しく首を振る淳の身体から、しかしあきらかに力が抜けたように思えた。
 下腹に手を差し入れて、指先でやんわりと擦ると、そこは今日初めて反応した。てのひらを使って、先が湿ってくるまでゆっくりと動かす。絶えきれずに腰を揺らすと、淳はかすれた息を漏らした。狼狽したように顔を背ける淳を、達哉は正体の分からない期待の中で見守った。
 反応を示したせいで剥き出しになった柔らかい部分を親指でそっと擦る。
 それと同時に、少しくつろいだ部分に深く突き入れた。
「……っ、はっ……」
 硬直して折れ曲がっていた膝が、力を失って伸びようとして、達哉の身体でつかえる。肘掛けと達哉の脇腹にはさまれるようにして止まり、ぐっと内側に締まった。奥で達哉が動く度に、てのひらの中で淳も反応する。
「淳」
 声に力が入らない。ささやきに近い呼び声を耳元に近づけて、息と一緒に直接送り込む。淳がぐっと目を閉じて、身体をふるわせた。
「足、痛い……」
 甘く湿った声が訴えた。無理矢理に足を押し開いたままの姿勢で、淳が椅子に拘束されていることに思い至った。
 熱く怠い、そのくせ今にも暴走しそうな手足を宥めて、淳から身体を離す。淳は、椅子の上で開いていた膝を閉じて、疲れたように背筋をゆるめた。泣いた目許が痛々しく赤くなっている。
 達哉は、力の抜けた淳の背中を支えて、椅子から床に引き寄せた。ホールの床には深紅の絨毯が敷かれている。絨毯の上に俯せるように膝をつかせた。
「何、……」
 かろうじて達哉のパーカーを上に羽織っただけで、床の上に膝をついた姿勢は酷く淫らだ。彼に余計なことを考える時間を与えないように、達哉は背中から被さった。
 指で触れて確かめると、そこは先刻の無理にもかかわらず、切れてはいないようだった。少なくとも物理的には、それほど傷つけていないことにほっとして、達哉はもう一度彼の中に沈み込んだ。先刻よりもずっと熱く、なめらかな感触が彼を迎え入れる。それでも淳はつらそうにずり上がった。
 一度凝縮しかけた快感が霧散して、淳の身体から引いて行きかけるのを感じる。腿の内側や、付け根の脹らみをそっと手のひらでさすった。興奮させるため、というより、宥めるような気持で愛撫すると、やがて、もう一度呼吸が弾み始めた。浅く早い息遣いが、苦痛とは違う感覚を示していた。内側が温かく達哉を締め付ける。
 彼の身体がとけるまで、動かずに耐えていた達哉も、もうそろそろ耐えきれなくなってきた。肺の中に押し込めていた呼気をそろそろと吐き出す。その息の触れた首筋が揺れた。
 背中が前のめりに倒れているせいで、薄い布地のパーカーは、腰を露わにして、うなじの方に皺を寄せていた。襟に指をかけて後に引き、肩やうなじを露出させる。首筋の付け根を唇でなぞった。とくとくと早いリズムを刻む脈が伝わってくる。女のようにやわらかな汗の匂いにまじって、シャンプーの香が髪の中から立ち上って来た。
 そっと腰を押しつける。淳はびくりと背中を反らした。
 背中に頬骨を押しつけて、深く抱き込んだ。そして、理性と自己嫌悪の棘に苛まれていた欲求を、ようやく外へ解き放った。
 前に回した手で、達哉の動きと重ねるように愛撫する。
「ん、あぁ……っ」
 息に混じって、掠れた小さな声が漏れた。
 途中まできしむような感覚のあった身体が、あきらかに柔らかくなり、淳の中の痛みが消えたのが分かる。ゆるく突きながら胸を弄ると、下腹が締まってそげるほど淳は感じる。
 時々せつなく跳ねる背筋を抱き込んでぴったりと胸を合わせる。
 繋がった部分を中心に、汗や体温ごと身体がとろけそうだった。リズムが乱れた息を間近に聞く照れ臭さもやがて消えた。
 達哉は、うなだれた淳の髪をかき上げて、顔を覗き込んだ。
 痛みや屈辱を淳が耐えていないか、それがたまらなく気にかかった。
 だが、淳の顔は紅潮して汗ばんではいたが、もう涙に濡れてはいなかった。忙しなく呼吸する唇が薄く開き、作り物めいて形の揃った白い歯が、その中にかすかに見えている。
 彼の目許に浮かんだ桜色の血色を、達哉は酷く美しいと思った。

(seed02に続く)

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