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プライヴェート(2001年4月)

02 21 *2013 | Category 二次::クウガ・51


続き










 寝苦しい。一条は寝返りをうった。今日は非番だった。零号が事件を起こさなければ、明日の朝までは彼に仕事はない。もっともこの一月、零号が事件を起こさない日は殆どなかった。「彼」の足跡は、弱った人体の中を唐突に転移する病巣に似ていた。法則性もなく、それに抗う手だてがないところまで共通していた。幾ら緊張して支度しても、零号を先回りして止めることは出来ない。少なくとも今、警察がそれをなし得ていないのは確かだった。
 ────五代はどうなんだ?
 彼のことを考えた途端、こめかみの深い部分で、ちりっと刺激が走った。
(「すみません────駄目でした、俺……」)
 一条は堅く目を閉じた。睡眠不足に乾いた瞼に光が刺さる。カーテンの向こうから差してくるのは、雨の空からわずかに漏れ出る、瀕死に近い陽光だ。そんな漠然とした光にも刺激されて眠りに入ってゆけないほど、一条の神経はこわばり、とぎすまされていた。徹夜明けで部屋に戻ったこんな日でさえ、一条は眠りに見放されたようだった。
 ベッドのスプリングをかすかにきしませて彼はあおのく。深く息を吐く。身体のこわばりをほぐそうとした。明日からの仕事の為にも眠らなければならない。
 瞼を閉ざして作った薄闇の中に、茫然としたように肩で息をする五代雄介の顔が浮かんだ。
 雄介は、敗北感と痛みに耐えかねるように、ほっそりとした顎をふるわせて、雨の滴る唇を舐めた。何か云おうとして果たせず、肩を支える一条の視線と出会って、目を伏せた。
 目があった時、彼がそれを逸らした記憶は他に一度しかない。四十二号を爆死させた時だ。彼に大分遅れて現場にたどり着いた警官たちの前で、いつものラフなシャツを身につけた五代は、困惑したような、取り残されたような、不思議な目をして振返った。
 彼の視線がゆっくりと動き、一条の上に止まった、雄介の目が自分を捜していたことに一条は気づく。
 何らかの形で五代をねぎらおうとした彼の舌の上で言葉は乾き、再び喉の奥へ飲み下された。
 五代は子供のように頼りない目を上げて一条を少し見つめた後、目を伏せた。




 未確認生命体。夏空を覆い隠す灰銀色の翳りをおびた積乱雲のように、彼らは突然来訪した。
 天敵のない暮らしに四肢をくつろがせた、この小さな列島の地図の上を上下に動き回り、予告のない黒い花を咲かせ続けた。
 彼らは人の姿をしている。彼らも元は人だったのだ。人間の形をしたものをこの手で狙撃する日が来ようとは、今までは思ってもみなかった。
 一条にとっては警察の仕事は、犯人を抹殺して終らせるべきものではない。
 薫などという優しい名を両親から与えられた彼だが、しかし一条は優しさに溺れる気質の男ではなかった。
 犯罪者の犯した罪を償うべく法規の許に拘束するのが警察の仕事だ。悔いる者にはあがないの機会を与え、悔いない者には罰を与える必要がある。
 自由に解き放たれた生活の中で、自分の罪を真っ向から見つめられる精神力のある者は少ない。だからこそ拘束し、閉鎖された空間の中にある期間封じ込める必要があるのだ。どれだけの時間をそれに割けばいいのか、彼らの罪の重さをはかる役目は検察や裁判所がするだろう。
 いわば警察官は猟犬だ。犯罪の匂いをかぎ当て、己の知力と体力の許す限り追いつめてゆく。慎重に、しかし執念深く振る舞う必要がある。相手を追いつめても、自分の牙で犯罪者を傷つけてはならない。裁判所に死体を引きずってゆくわけにはゆかない。血の冷えた死者は罪を償うことが出来ないからだ。罪人を健康な体で連れ帰り、弾劾の土壌の上に跪かせる、そこまでが警察の役割なのだ。
 しかしそれは全て、人間が相手ならの話だった。
 未確認生命体を、彼らは番号をつけて呼んでいる。
 一条は、未確認生命体対策本部に配属されて以来、未確認生命体を扱った事件の全てを覚えていた。何号が何人、どこで、どんな風に人間を殺したのか。彼らの未知の力のメカニズムが解明され、彼らが元々人間であったことや、共通の言葉で喋り、反目しながらも組織を作り、ある目的のために殺戮すること。
 今まで分かったことのひとつひとつが、何号の死、何号の殺戮によってあきらかになったのか、それらは全て一条の記憶にたたき込まれていた。資料を広げなくとも、スライドを上映するように記憶の中で再現することが出来た。
 未確認生命体の記憶のファイルをめくりながら、一条は眠るのを諦めて目を開けた。
(湿度が高いな……)
 自分の額に触れてみると、髪の生え際にはかすかに汗が浮かび、一条の額を冷やしている。
 不快感に身じろぎして、彼は立ち上がった。
 ささやかな1人暮らしの台所で水を汲み、コップ一杯の冷水を飲み干した。眠り足りないせいか、熱っぽく怠い身体に、水は心地よくしみ通った。そのまま顔を洗う。乾いて火照った瞼を冷やして、部屋に戻った。
 窓際に静かに腰を下ろす。
 彼らにも名前があるはずだ。四十人以上の未確認生命体たち。一条は彼らの名を知りたいと思っていた。どんな思考の許に動き、殺し、死んでいったのか。償うということを決してしない生き物なのか、古代のどんな社会システムが、そんな生き物の存在を許したのか。
 法規と罰則のない社会とは、いったいどんなものなのか。リントとグロンギ、二つの種族が何故それほど両極端な社会性を持つに至ったのか────。
 考えるときりがない。一条は静かにため息をつき、カーテンを開けた。




 雨が降り続いている。鈍色の滴が、マンションの傍らの木立に吸い込まれてゆくのを一条は眺めた。ふと、視界に黒い影が動いた。彼は目を凝らした。すぐ下に見下ろせる道路に、窓からの見晴らしから半分食み出すようにして、バイクが止まっていた。一条は窓を開けた。半ば滴のいりまじった湿気と、雨の匂いがどっと入り込んでくる。
 バイクの傍らには、ヘルメットを抱えた男が所在なげに立ちつくしていた。一条のいる二階の窓からも、男が身につけたブルゾンやジーンズまでぐっしょりと水を吸って濡れているのが分かった。
 男は窓の開いた気配に気づいたのか顔を上げた。
 そして、犬のように首を振って髪や頬に伝う滴を振り落とすと、一条に向かって頭を下げた。濡れた前髪の下で目が細められ、彼の歯の白いひらめきは、鈍色の空気の中に際だった。
(何をやってる────)
 僅かな苛立ちがこみあげた。一条は何も云わずに窓を閉めた。外に行ける簡単な格好に着替える。甘苦い不思議な気分が彼を包み込んでいた。
 傘を差し、手に一本持って外に出る。土と雨の匂いのまじった湿り気が、呼気と一緒に入り込んできて、肺をいっぱいにする。
「五代」
 一条が近づいてくるのを、五代は所在なげに見守っている。もう微笑んではいなかった。
「すみません」
 一条が何かを云い出す前に、堰を切ったように五代の雨にさらされた唇からその言葉があふれ出した。
「何が」
 面食らって問い返す。ぶっきらぼうに傘を差し出すと五代は首を振った。
「もう完全に濡れちゃってますから」
「いいから差せ」
 五代はまた口の中で、ほんとすみません、とつぶやいて傘を受け取る。柄の部分のスイッチを押すと、五代の上に、十六本の骨で支えられた円い闇が開く。五代の肩や髪をようやく雨から護るだけの濃紺の闇。思えばこの男は自分に謝ってばかりいる。自分のせいではないことで。
 ────すみません、俺……
 ────すみません、逃がしちゃって……
「ともかく、入れ」
 そして自分は、義務のないこの男に命令ばかりしている。
「それはほんとにいいです。一言話せればって思ってただけですから」
 五代は幾分しっかりした声で云った。少し寒いように身体をふるわせて笑う。睫毛から滴がしたたり落ちる。一条はため息をついた。思わず苦笑した。
「……おれが君に話したいことがあるとは思わないのか?」
 五代は不意をつかれたように瞬きした。そんなことは思ってもみなかったようだ。
「そうなんですか?」
「ほら」
 一条は手を伸ばし、五代の手を引こうとした。しかし、指が彼の袖口に触れかけたとき、思い直してその手を降ろした。五代は子供ではないのだ。手を引かなくとも、話をする気があれば一緒に来るだろう。彼は今までも、誰にも何も強制されずにここまで歩いてきた。
 彼に背中を向けて、階段を上ろうとすると、身体の脇に降ろした一条の右手に、濡れたものが触れた。一条は奇妙な気分で五代に握り取られた自分の手を見おろした。長い指がそろりと一条の手首を囲い込み、突然引きずり寄せるような力を込めて握りしめた。
 それは男の力とはいえ、思わず一条がひるむほど強烈なもので、ほぼ痛みに近い刺激が手首の皮膚から骨まで伝わってきた。強烈な指の下で関節がきしんだ。それはこの一年間、何度も向かい合ったことのある「彼ら」の力に近いものだった。
「……っ」
 一条が瞬間的にひそめた眉を見て、五代は自分の指の力に気づいたようだった。
「一条さん……」
 少しとり乱した声が聞える。自分が黙っていれば五代は、また、すみません、と云って手を放すのだろう。五代はどうしていいのか分からないように自分の指に目を落とす。間近な唇からそろそろと呼気が吐き出される音が聞え、五代は目を上げた。大抵明るく透き通った五代の黒い瞳には、今は微笑の影はなかった。何かを訴えるようにまたたくその瞳をのぞき込んで、一条は奇妙な満足感を覚えた。
 その目が伝えようとしていたことが、何故自分に分かったのか。
 後から考えても、一条には、その理由が分からなかった。
 意識しないままに、自分の中にもそれと同じものがあったのだろうと思うしかなかった。
 かっとまぶたの裏が熱くなり、雨と湿気に冷えた身体から炎が沸き立った。五代の目は秘密が露呈するのを恐れるように伏せられた。今日この瞬間でなければ、打明けることも受け止めることもなかった何かが、突然二人の間に横たわった。
 手首に巻き付いた鉄のようなものはようやくそろそろと緩み始めた。地層に深く張っていた樹木の根がひきぬかれるように、五代の指は、一条の手から離れようとした。
 一条は、自分の手首にうす赤い跡を残して離れてゆこうとする五代の手に、逆に指を絡ませて握りしめた。人並み以上の力を持つわけではない彼は、遠慮はしなかった。傘を落とし、力任せに五代を引き寄せて自分の身体に押しつけた。項に指を差し込むと、洋犬のように柔かな癖のある髪が指に絡んだ。
「一条さん」
 ぎょっとしたようにつぶやく五代の唇をふさぐ。目を閉じるのは惜しい気もしたが、五代の目が見開いているのに気づくと、目を開けてはいられなかった。
 唇は冷えて水の味がする。もっとも一条の唇もとうに冷えていた。幾ら辺りが雨とうす闇に包まれているとはいえ、自分の住居のすぐ側でこんなことをしているのは正気の沙汰ではない。傘を落としたせいで肩や背中があっという間にずぶぬれになる。しかし寒さは感じなかった。自分の中にも五代の中にも熱がある。こんなに冷えても有り余ってあふれ出すほどだ。
 五代は片手に傘を持ち、片手を一条に握られたままで立っていたが、彼も傘を握っていることを諦めたようだった。介抱された片手が一条の肩に絡み、強く引き寄せた。身体が密着した。布と雨が皮膚と皮膚の間に横たわっていることが信じられないほど、突然二人の体熱は違和感なく熔け合った。
 顎が深く噛み合わさり、水と唾液と舌が互いの中に滑り込んだ。




 五代の存在は、未確認生命体という未曾有の対象に疲れた警察全体にとっての救いだった。若くタフで、疲れていても目を細めて笑った。目尻に細く笑い皺が出来た。声が明るかった。言葉は柔らかいのに、意志が堅固だった。
 一条にとっても、周囲にとっても、ぎらぎらと蒸し暑い銀色の嵐の中で耳を澄ますと、しずかで明るい音楽が聞こえているような、五代はそんな存在だった。一条に、他の人間と居るときには感じない、不可思議な開放感を与える相手でもあった。
 しかし最近では、五代の笑顔は時折薄青く透き通りすぎていたましい瞬間があった。子供のようにあかるい目がふと、寂しそうにゆがんだ。
 笑顔。五代のこだわる言葉だ。執着していると云ってもいい。
 自分の護るべきものを幸福にしたいと思う気持は分かる。
 だが、五代は彼自身に対して、微笑することを強制しているのではないか?




 バスタオルの中から、叱られるのを待つ子供のような五代の顔が現われる。少し青ざめた彼の顔をちらりと眺めて、一条は用意したドリッパーを顎でしゃくる。ガスコンロの上では湯が沸いている。
「煎れてくれ。君の方がうまい」
「あ、ええ、そりゃもう……喜んで」
 五代は笑って、コーヒーの粉をすくい取った。普段は自分で豆を挽き、ネルドリップでコーヒーを煎れる五代だが、ペーパーフィルターを使っても、一条より腕前ははるかに上だろう。
 ペーパーフィルターの上にきちんと計ってコーヒーを入れ、粉を膨らませるように、丁寧に湯を注ぐ。無機質で水の匂いばかりだった部屋の中に色を添えるように、俄にコーヒーの香がたちこめた。五代は生真面目な顔でコーヒーを煎れている。その顔は、彼が普段働いている店で見せるものと同じものだ。彼は自分のためにも人のためにも働くのが好きなのだ。一条は同僚からワーカホリック気味だなどと云われるが、彼に云わせれば五代の方がそれに近い。
 濡れた服を着替える間、二人は口をきかなかった。五代も一条も、何故、とは云い出さなかった。唇を合わせたことなどあるはずがない。そんなことを想像したことさえなかった。五代の方ではどうだったか分からない。だが、男の彼の唇に触れた感触は痺れるように甘く、嫌悪も違和感もなかった。それは概ね欲望の薄い一条には不思議だった。
 唇を合わせて舌を絡ませた途端、一条は五代の、そしておそらく五代は彼の中にわき上がったもの、二人の間でだけ共有の可能な欲望を読みとっていた。五代が一条の肩を抱え寄せた腕から、口づけの角度を変えた時にこすれ合う口角の窪みの感触、頬の意外ななめらかさ、雨とかすかな体臭のいりまじった匂い。舌や歯のとけあう独特の充足感。
 金色の火花に似たものがわき上がり、電気信号のように、自分と相手の中に出現した感覚を伝えた。
 自分と五代がそんな感覚を共有することがあるとは思わなかった。しかし、五代と一緒にいる時にしか感じない開放感があるなら、五代との間にだけ存在する緊張があってもおかしくはない。ふとそんなふうに思う。
「どうぞ……っていうのも変な感じですよね」
 五代は笑いながらカップを差し出す。
「ありがとう」
 一条は部屋に入るように五代をうながした。お邪魔します、とおどけるように五代はつぶやき、ベッドから少し離れた、書きもの用のデスクの前の椅子に座る。五代の目はいつもの静かな微笑を含んでいる。ふたたび沈黙が落ちる。彼といてこんな居心地の悪さを感じるのは初めてだった。二つのカップからたちのぼる湯気が彼らをゆるやかに隔てた。
「混乱……しますよね」
 不意に五代が口を切った。
 一条は目を上げた。五代は相変わらず生真面目な顔で一条を見つめていた。
「何ていうんだろう……俺、今日は一条さんに聞いて欲しいことがあって……気持が決まったんで、それで来たんですよ。でも一条さんの顔見たら、本題と違うことで頭がいっぱいになっちゃって……さっきまであんなに、……自分が決心したことでちょっと興奮してて……一条さんはどう云ってくれるだろうか、とか、桜子さんを悲しませちゃわないかな、とか、そんなこと考えてたのに……」
 一条は目を瞬き、彼の次の言葉を待った。語尾の少しくぐもる五代の甘い声は、緊張を示すように少しふるえた。
「さっきは、これだ! と思ったんですけど」
 一条は思わず声をたてて笑った。
「『これだ』?……」
「ええ、……あぁ、オレこれを云おうとして今日ここに来たのかって」
 五代はカップを机の上に置いた。そして、一条に手を差し出す。カップをよこせ、と云っているのに気づいて一条はそれを手渡した。受け取ったカップを並べてきちんと机の上に置いた五代は、ベッドに坐った一条に近寄った。片膝をゆっくりと乗り上げて隣に坐る。
 器用な長い指が、困ったように自分の口元に触れる。そして、先刻雨の中でそうしたのと同じように、一条の身体を引き寄せた。今度は、あの爆発するような力は籠っていない。抱きしめると云うよりは、身体と身体を触れ合わせることが目的のような、繊細な感触が一条の背中に伝わってくる。
 一条は手を伸ばして、五代の頬に触れた。一条の目に出会うと、五代が怯んだように目を伏せるのが分かった。そのまぶたに一筋垂れ下がった前髪をかきあげてやる。髪は冷たく湿り、黒みを増している。
「大丈夫、伝わってるさ」
 一条は囁いた。五代は自分におそらく黒い戦士になること、更にもう一段階上の力を持つ者に変身しようとすることを告げに来たのだ。五代の行く末を気遣う沢渡桜子や自分には、予め云っておく必要があると思ったのだろう。しかし、先刻の一条がそうだったように、五代の気持はいわば脇道に逸れたのだ。
 たまには五代が、他人から大丈夫、と云われる側に回ってもいい。
 五代の目が揺れた。微笑しようとするように唇の端があがり、しかし笑えないまま、淡く目が潤んだ。一条の肩に触れていた両手があがり、そっと髪の中に差し込まれる。癖のない一条の髪を絡ませて小さく引き寄せるための力が籠る。
 先刻唇が触れた時、五代は目を開けていた。今は、彼のあたたかな厚みのあるまぶたが、陶然と閉ざされるのが見える。そっと息がかかり、呼気のすぐ後に唇の感触が押し包んだ。幾度か小さく啄んで離れ、五代がはぁっとため息をつくのが聞えた。それはまるで、のどの渇いた子供が、水を飲み干した後に漏らす息のようだった。
 一条の頬に触れた五代のてのひらの窪みがふっと熱くなる。彼の衝動がイニシアチブを取りたがっていることに気づいて、一条は苦笑する思いで五代に任せた。
 長野で初めて会った時は、友人になるとさえ思わなかった相手なのに。
 指はこめかみをさまよい、うなじを支えて、再び重なった口づけを深いものにしようとする。
 舌が触れると、先刻と同じ、痺れるような甘さが上顎を包んだ。濡れた音が耳を刺激し、背中をぞくぞくと駆り立てた。指先や腕に走り抜ける衝動をやり過ごしながら五代の愛撫に身を任せるのは、不可解な感覚だった。相手を自分の下に抱きすくめようとする、自分の中の男の感覚を騙すようにして、シーツについた背中から力を抜く。
「一条さん……」
 五代が喘ぐようにささやく。答えようとしたが瞬間息が整わなかった。痛いほど心臓が高鳴っていた。五代の指は火のように熱くなっていた。まるで発熱しているようだった。
「……何だ?」
「俺、止まれなさそうですけど……」
 五代は追いつめられたような表情をしていた。しかしその顔の中には、彼が敢えて笑顔になろうとする時のような痛ましさはなかった。一条は再びそれを確かめて満足する。与えることにばかり貪欲なこの青年が、珍しく手を伸ばしてもぎ取ろうとしている。
 一条は肘をついて身体を起こし、五代の耳元に低くささやいた。
「君が止まれても、おれは困る」
 驚いたような目をする五代の顎をすくいあげ、唇を押しあてる。瞬間、帆布が南風をはらむように、五代の中に何か、はじけとびそうな力が籠るのが分かった。かすれた息を吐いて、五代は一条を抱きすくめた。




 背中から五代の息づかいが聞える。痛み、灼けるような熱さと奇妙な快感が、一条をうちのめし、鼓動の間隔を狭めている。うなじに五代の前髪が擦れる。苦しい息が二筋混じりあう。
 背中の窪みを汗が流れ落ちるのが分かった。五代は長い腕を胸元で交差させて、一条の肩が滑り落ちないように、自分につなぎとめた。折った膝から力が抜けそうだった。
 五代のてのひらが自分に絡むのを感じて一条はふるえた。腕で拘束されて、熱いてのひらに握り取られる。のどが渇き、かっと顔が熱くなった。額から目の上まで汗が流れ落ちた。
 敏感な部分を指が這うと、頂点を引き延ばされたそこはどうしようもなく濡れてはりつめる。
 額と肩がシーツに押しつけられた淫猥な姿勢にも、抵抗は感じなかった。閉じた瞼の下で何かが小さくはじけたような感触があって、涙腺から熱いものが流れ出す。
「……っ、あ、……」
 一条が声を上げると、その声に五代が煽られたことが分かる。深く重なり合った身体は、無言のままで、互いの中の秘密を全て暴き出した。
 シーツの上で握り込んでいた片手を伸ばして、自分の胸を支えた五代の指に無我夢中で重ねる。指を絡めて握りしめると、五代は大きく息を吐き、一条の背中に頬を押しつけた。
 一条さん。ためいきにまじって彼の名前を呼び、五代は手を握り返した。








「起きられますか?」
 気遣わしげな五代の声に仕種だけで肯いてみせながら、一条はようやく起きあがり、シャツに袖を通した。関節が軽く痛み、もやがかったように体がだるかった。しかし、鈍色に気持が麻痺したような苛立ちは消えていた。身体の中では未だに熱が疼いている。
 先にシャワーを浴びてジーンズを履いた五代は、ベッドの上にうずくまるようにして、息を殺して彼を見ている。
「……どうした?」
「一条さん」
「……」
「俺────なります」
 一条は手を止めた。一条の沈黙をどう取ったのか、五代は柔和な声で、自分の決意を補足した。沢渡桜子の解析した碑文の中にある言葉だった。五代がなると云っているそれが、どんなものなのか、何を意味しているのか、どんな結果を招くことになるのか、実のところ誰にも分かっていない。繰り返し警告される究極の闇、というものが何であるのかさえ分かっていないのだ。五代は何かに耳を澄ませるように首をかしげた。
「それで……出来るだけのことをします」
「そうか」
 一条がそう答えると、五代は歯を見せて笑った。
「俺ね、何て云われるだろうって考えてたんですよ。色々想像してみたんですけど、一条さん、俺の頭の中でも、そうか、って」
 リラックスした微笑だった。白い灯りに照らされた顔は充足と決意に照らされて、清潔で美しかった。一条はそれに見とれる。
「もし俺が、一条さん好きです、なんて云いだしても……きっと一条さん、そうか、って云うだろうなって考えてました」
「急に雄弁になったな」
 一条は腕を伸ばして五代の額を小突き、立ち上がった。
「一条さんの話って何だったんですか?」
 五代は坐ったまま彼を見上げる。一条は苦笑した。
「俺の話は……云うべきことはもう全部云った」
「え」
 面食らったような声を上げる五代に、彼は背を向けて浴室に向かった。
「聞いた覚えないんですけど」
 抗議の声が背中を追ってきた。
「自力で思いだしてくれ」
 笑いを含んで言い残した。ええ、ほんとですか、と不満そうな声を出す五代の声をやわらかく閉め出して浴室に向かう。五代への信頼は、一条の中で既に熟している。その確認として口に出してもいい。今までも時折そうして、彼らは互いの戦友としての位置をそっと確かめた。
 しかし五代本人に懸かる想い、友人としての、またそれ以上の想いがどれほど自分の中で成熟しているのか、一条には分からない。不用意に言葉にすれば価値を減じてしまいそうだ。だが、全部云ったというのは嘘ではなかった。一条自身よりも遙かに能弁な、息が、腕が、五代に打明け尽くしたはずだ。
 明日世界が終るのでないなら、もっと他の方法で五代に話すことが出来る日も来るだろう。
 その日が来るといい。誤解や、ささいな失言や修復、そんな他愛ない、繊細な感情の交流を彼と自分との間に築くのも悪くはなかった。自分の前で上手く笑えない五代に密かな満足感を覚えたことを一条は思い返す。
 恋や貪欲や失望、そんなものが自分と彼との関係の主題として成立する日が来るといい。
 今は駄目だ。優先するべきことが多すぎた。その順番を五代も一条も決してたがえることはない。
 あたたかくささやかな明日を夢見るには、上空を覆う雲は余りにも厚い。
 しかし、降り注ぐ湯の下に髪を晒した一条は、ふと耳を澄ませた。五代の存在は静かな音楽に似ていると彼はつい先刻思った。
 その音楽を遠いものだと思っていた。しかし、低く優しく不可聴域をただよう旋律は、一条のごく傍らで奏でられていたのだ。
 一条は、湯につつまれながら壁に背中を預けた。五代の指の感触の残るてのひらを握り、そこに、祈るような気分で額を押しあてた。
 暫時目を閉じ、鉛色の雲の裂け目に臨む、ひらめくような空の青さを想った。

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