log

パッシングマーク(2000年5月1日)

01 20 *2009 | Category 二次::MAJOR・ゴロトシ


続き




「見事に片付けちゃったんだね」
 吾郎の部屋に立ち寄った寿也はそう云って苦笑した。家族ともそれぞれの仲間とも海堂高校の合格祝いはしたが、今日は受験勉強に苦労した二人で打ち上げをしよう、ということになったのだ。
 その実、打ち上げと云っても、ジュースでも飲んで何か面白い試合のビデオでもあったら見る、というそれだけのことだ。受験が終ってからは、それまで毎日会っていたのが嘘のように、バタバタしていて、二人で話す機会はなかった。
 寿也が今云ったのは、吾郎の勉強に使った参考書や教科書のことだ。部屋に入ると、まず、何か食品が入っていたらしい段ボール箱があって、そこに、授業のすっかり終った教科書や参考書、筆記用具まで詰め込まれていた。
「どうするの? 海堂に行っても勉強はするんだよ?」
 筆箱を摘み上げて寿也が呆れ顔をすると、吾郎は、勉強の話になった時に見せることの多い、一種独特の無関心な目になって肩をすくめた。
「どうしても必要なもんならまた出すよ。とにかくオレは、その箱ん中に入ってるヤツを当分見たくねーんだよ」
「まぁ、高校に入る以上、嫌でもすぐにまた見ることになると思うけどね」
 寿也は笑って、ベッドの上に座った。
「オレ、何か食いもん持ってくるわ」
 今日に限って留守にするんだもんな。吾郎が、母の不在をそうこぼしながら、部屋を出て行った。
 寿也はこの数ヶ月で急速に慣れ親しんだ、吾郎の部屋を見まわした。ベッドにごろりと横になる。天井を見上げると、吾郎が天井に貼った紙が目に入る。そこには汚い文字で大きく「合格」と書きなぐってある。眠くなってベッドに仰向けになった時に目に入るように、吾郎が天井にそれを貼りつけたのだ。
(教科書を片付けたくせにあれを取り忘れてるなんて、吾郎くんらしいな)
 寿也は思わず吹き出した。
 正直、全寮制の海堂での高校生活がどんなものになるのか想像もつかない。周りにもOBや現役の海堂の生徒はいなかった。野球漬けで学校の勉強をする時間などない……と向こうからは云われているが、それがどの程度なのか、何かのアクシデントで海堂をやめることになった場合、余所に移っても学力は大丈夫なのか、とりあえずいつも最悪のケースも想定してみる寿也には気になるところだった。
(もっとも吾郎君は、そんなこと考えてもいないみたいだけどね)
 海堂野球の広告塔の役割を押し付けられるくらいなら、いつでも海堂なんてやめてやる、と云いきる吾郎のことを考えると、寿也は少し複雑な気分になる。
 高い入学金や学費を払わせて、祖父母に負担をかけた以上は、自分はそこまでは潔くなれないだろうし、将来的につぶしのきくコースしか選択できないと思う。
 吾郎のギャンブル的なコース選択は、吾郎にとってはいい結果になることが多いが、寿也にもそれが応用できるとは限らないのだ。
 寿也はもう金の怖さを知っている。彼の家は借金のせいでばらばらに崩壊した。だからこそ、彼は、大きな金が動くプロの世界を目指したのだ。金銭的なことにアレルギー反応を起こしたくなかった。
 その代わり、何につけても吾郎のように純粋ではいられなかった。吾郎にとっては、自分が野球をする世界のレベルが高ければ、プロやアマのレーベルにはこだわらないだろう。
 ただし、アマチュアがプロを凌ぐ力を持つということは、この世界ではあり得ない。だから結局、吾郎もどんなかたちであれプロになるだろう。しかしそこにたどり着く心理的な過程は、寿也とはだいぶ違う。
 或る意味で彼はとても無防備だと思う。
 だから、海堂をまともに受験して、勉強しなければならないことになったとき、吾郎はパニックになった。先々のことを考える習慣がないからだ。俺にはこれだけだ、なんて云って見ても、普通ならもっと後のことや、自分の周りを見て、少しずつ準備をするものだ。吾郎にはそれがない。それはプロ選手の息子として生まれ育って、金銭的な意味でハングリーになる必要のなかった吾郎、自分が求めるものは野球だけに絞ってこられた彼ならではの無防備さであり、純粋さなのだと思う。
 こんな風に無防備なのに、世界中がいつも吾郎の思うように転がって行くように見えるから寿也は複雑なのだ。彼の無防備さが好きだ。けれどほんの少し憎くなることもある。
 寿也の中では、吾郎はまだ、茂野吾郎ではなくて、小学生の本田吾郎のままで止まっているように思える。本田吾郎、と、こころの中で唱えた瞬間にぞくぞくと寿也の胸の奥をくすぐるものがある。
 それは今、目の前にいる吾郎に感じる親しみとはまた少し別のものだ。
 寿也は、吾郎が自分にとって必要なものだと知っていた。
 自分が主将をつとめる友ノ浦中と、吾郎の三船中が戦って負けたあの日に、しみじみと思い知った。学校の名前からときはなたれて、選択肢が残酷なほど広がって、そのとたんに、何だか新しい道が開けたように思えた。
 敗北の悔しさの向こう側に、せいせいと明るい空が広がっていた。
 頭の中の雲が晴れたような気分だった。
 こんなに明るい真昼を、寿也はずっと忘れていたような気がした。
 仲間を乗せたバスが走り去った後のバス通りはしんと静まり返り、眠くなるような濃厚な緑の香と風が、汗ばんだ肌と服の間に入りこんできた。寿也の目の前を、絹のような羽根の、小さな黒いアゲハが一匹横切っていった。アゲハの羽根の動きは優しく軽やかで、寿也の中で凝っている黒い塊や焦りに、急に小さな羽根が生えて飛び去っていく姿のようだった。
 その時彼は、道の向こうに吾郎がいることに気がついた。周囲が驚くほど明るく見えるのは、自分が抑えこんでいた不足感を、やっと満足させてもらえそうな期待のせいだろうか。本田吾郎のせいだろうか。そう思って、腹立たしいような胸が苦しいような思いをした。吾郎が近寄ってくる気配を感じて、少し胸がしめつけられた。
 それから数ヶ月たった。
 あの県大会の日のことを、寿也はこうして吾郎の部屋に寝転がって思い出している。
 不思議だった。一度も対立したことも離れたこともない、親しい友達のように、同じ高校へ進む嬉しさをわかちあおうとしている。
 吾郎の書いた、赤い「合格」の文字を目で追っていると、とろっとわだかまりが溶けて、眠気がやってきた。
 吾郎は何をしているのか、なかなか帰ってこない。
 寿也は、柔らかい眠気にくるまれるのにまかせて目を閉じた。自分が手に入れたものはまだ手応えがないものばかりだけれど、吾郎がいる。

「トシ、たいしたもんねーから、何か買いに行くか?」
 ひとしきり台所をかき回した後、吾郎は上にあがってきた。しかし寿也の返事はなく、部屋は静かだった。
(トイレに行ったの気がつかなかったのか?)
 そんなふうに思って、階段を全部上りきった吾郎は、自分の部屋を覗きこんだ。
「あれっ、珍しいな……」
 思わず彼はつぶやいた。寿也が眠りこんでいる。
 寿也は、人に弱みを見せたくないのか、疲れたとか、眠いとか、その程度の愚痴も聞いたことがないし、ましてや居眠りしている姿など見たことが無かった。
 寿也の学校での生活はよく分からないが、野球以外にはほとんど何もしない吾郎と違って、寿也は忙しい。バッティングセンターでバイトのようなこともしているそうだし、家の手伝いもしているということだ。学校でも色々役職付きで、引継ぎのアフターケアに忙しいらしい。
(疲れてんのか?)
 まだ春も早くて、空気が少し冷たかった。
 吾郎は、何か寿也にかけてやろうとあたりを見まわした。手に一応ぶらさげてきたジュースのペットボトルとグラスを机の上に置いて、自分のセーターを引っ張り出す。これでもかけてやらないよりはマシだろう。
 セーターを持って、寿也の顔を覗きこんだ吾郎は、思わず笑いそうになった。可笑しい、というわけではなかったが、気持ちが変に盛り上がってくる。
 寿也のこんな無防備な顔は滅多に見られるものではなかった。色白で女顔の寿也だが、いつも表情は結構きつくて、可愛いと云っていいような顔立ちがそんなに甘く見えないのだ。
 それが、目を閉じて、薄く唇を開いて眠っている寿也の顔からは、いつものきっちりと思慮深い感じだとか、吾郎がバカなことを云い出すとすぐにきっとにらみつけてくるきつさだとか、そういったものが剥がれ落ちている。
(可愛い顔してんなー、こいつ)
 久々に会った時の印象はものすごくきつかったし、それ以来、寿也には励まされることはあるが、しかしおおむねいつも説教ばかりされていて、吾郎には彼を可愛いだなんて思う余裕はなかった。
 彼は、寿也が眠り込んでいる自分のベッドに背中をもたせかけて、床に座った。ジュースをついで、ぼんやりひとくち飲む。母が買った、口当たりがなめらか過ぎるようなオレンジジュースが喉をくだってゆく。
 しばらくそのまま吾郎は黙ってじっとしていた。グラスの表面についた水滴をじっと眺める。すぐ近くに眠っているととのことを考えると、何だか不思議にわくわくした。
 寿也が自分のベッドで眠っているというのはくすぐったくて気恥ずかしいが、同時に、胃のあたりに何か甘くてあたたかいものがわだかまっている。
 今まで誰にもこんな感じになったことはなかった。吾郎はそっと中腰になって振り返り、寿也の顔を覗きこんだ。じっと観察する。寿也の大きな目は閉じられているが、いつもはあまり意識しない長い睫が際立っている。
 かたちのいい鼻筋から、どちらかというと赤い唇に視線を移して、吾郎は妙な気分になった。その正体は彼にもわからない。さっきまでもっと気楽にくすぶっていた興味が、もっと喉元を強く押し上げてくるような息苦しいものになった。
 それが寿也に向かっているせいで、吾郎は自分の苦しさが何なのか判らない。
 寿也を起こしてしまおうか。吾郎はそう考えた。寿也も、自分の寝顔をじろじろ見られていたらきっと嫌だろう。
 だが、吾郎は彼をなかなか起こせなかった。勿体無い、と思ったのだ。
 いつも、自分よりずっと頭がよくて、最近知ったことだが、結構な策略家で、辛らつで厳しい寿也が、眠っているというだけでこんなに可愛く見えるのは驚きだった。
 なまじっかの女の子よりも可愛く見えるくらいだった。
 ちなみに吾郎は、女の子が嫌いなわけではないが、やや興味が薄かった。理由はといえば、野球ができないからだ。
 だから、ソフトのキャプテンの清水は、吾郎の中では別格だった。
 だが寿也の寝顔は、よりによって、目の大きいアイドル顔の清水よりも可愛く見えた。
 しかも彼は自分とバッテリーを組める相手だ。ピッチャーもキャッチャーもこなす万能型で、打者としてもかなりのもので、主将体質で、頭もいい。つまりそれ以上の価値は、他人に対して吾郎が望めないほどのものを、寿也はすっかり独り勝ちで持っていた。
 いったい自分が、何を考えているのか吾郎はわからなくなってくる。
 白い頬にかすかに浮かび上がった花びらみたいな血の気や、かたちのいい唇を見つめているうちに、動悸が早くなってきた。同じ男のくせに、柔らかそうに見える寿也の頬やなめらかな額や顎が、ぼうっと滲んで見えた。
 手を伸ばす。寿也の顔に触る前に、ふと思いついて、シャツの袖から伸びている手首に触った。その瞬間寿也が身動きして、吾郎はびくりと身体を硬くして寝顔を見守った。しかし震えた睫は閉じられたまま動かない。完全に目を覚ましてはいないようだ。
 吾郎はほっとして、手首の先に続く彼のてのひらに触れた。いつか小森が、バッティングセンターでの寿也のトレーニングについて話してくれた。寿也は毎日、軍手一枚で百四十キロ以上の球をキャッチしているのだ。そこで何度もマメがつぶれた証拠に、てのひらは硬く、指の関節も左手よりあきらかに太かった。惚れ惚れするようなキャッチャーの手だ。
 男っぽいその手と不似合いな顔をもう一度そっと視線を上げて眺める。
 わけのわからない、痛くて甘い感覚がまたこみあげてくる。吾郎はついに頬に触れた。手に触った時とまるで違う、するっとなめらかな感触が指先に伝わってくる。
 細かいことを気にしない吾郎も、さすがに自分の行動が妙に思えてきた。
(何か……ヤバイような気がする)
 何が?
 その答がなかなか出てこない。
 吾郎は、頬につけたままの指先をそっと動かして、唇に触った。吾郎の荒れた指先に触れた唇は、思った以上に温かかった。頬よりも少し熱い。
 その瞬間、吾郎は、ようやく先刻から自分の中でもやもやしているものの正体が見えて、身動きも出来ないほど驚いた。
 下半身に血が集まった。言い訳しようのないその現象に、吾郎は呆然と目をしばたたいた。
「だって、トシじゃねーか……」
 顔を間近に近づけたままで思わず声に出した。吾郎のその声に反応して、今度こそ寿也のまぶたが大きく震えた。
 そして吾郎は、寿也にかがみこんで唇に指で触れる、という何とも云えない体勢のまま、目を覚ました彼と目が合うという状況に陥ったのだった。

 浅い眠りの中をうとうととただよっていた寿也は、自分の唇を軽く押すようにして触れてきたものの感触に眉を寄せた。誰かに顔を覗き込まれているような気がしたが、まぶたが重くてなかなか目が醒めない。
「……じゃねーか……」
 自分がどこで眠ってしまっているのか、彼には瞬間的にはわからなかった。だから、すぐ傍で聞こえてきた声にひどく驚いて、まるで、幽霊にでも会ったような気持ちで目を開けた。彼は基本的に幽霊は(理性では)信じていないのだが、何度かイヤな金縛りを体験したことがあって、そういうときは寝苦しいのか、耳元で声を聞いたような気がしたり、肩をゆすられたりという感じがした。誰かの息遣いを感じたこともある。
 これもそういう種類のものかと思ったのだ。
 すると寿也の目の前に、ひどく困ったような、怒ったような吾郎の顔があった。
 なにが起こっているのか理解できずに、一瞬凍りついた。そして、にわかに自分が吾郎の家に遊びに来たこと、階下に下りていった吾郎を待っているうちに眠気に勝てなくなったことを思い出した。
「吾郎君?」
 彼は、自分の顔を左手で包み、右手で唇に触れている吾郎の行動をいぶかしんで、身体を起こそうとした。
「何してるの?」
 そして、起こそうとした肩を、吾郎に抑えつけられて、彼はなおさら混乱した。
「何?」
「何って……」
 そう云いかけた吾郎はぐっと眉を寄せて、今度こそは怒ったような表情になった。吾郎が下に行っている間に眠ってしまったことに腹をたてているのだろうか。だが、身体の感じからしてもそんなに長いこと眠ったようには思えなかった。せいぜい十分やそこらだと思う。
そこまで怒らなくてもいいじゃないか。
 そんなふうに思って、寿也はもう一度起きあがろうとした。すると、吾郎のてのひらが、今度は両方の肩をがっしり掴んで押さえつけられる。
「何怒ってるんだよ」
 あまりの彼の真剣な顔に、寿也は笑い出しそうになったが、吾郎は笑おうとしなかった。その雰囲気が彼らしくなくて、寿也はほころびかけた口元を引き締めた。
「……何? ほんとに」
 そう云うと、不意に目の前が陰って、吾郎が彼の目に右手を押し付けてきた。目をふさがれてしまう。強い力で視界を遮られて、寿也は思わずその手を押しのけようとした。てのひらが異様に熱くなっているのが分かる。熱を出しているような感じだった。ふざけるなよ、と云いかけた時、顎に息のようなものがかかって、唇がふさがれた。丁度云葉と一緒に息を吐き出したばかりだったせいで、息苦しくなって、寿也は首を振った。
「何だよ……!」
 驚いたのと、混乱しているのとで声のトーンが高くなった。自分に覆い被さっていた吾郎の肩をつきはなす。唇に残る感触と湿り気で、自分が何をされたのかわかった。びっくりして息がはずんだ。背中が少し震え始めた。悪ふざけをしたくせに吾郎の目には笑いの陰はなく、相変わらず怒ったような顔をしていた。
「あのさぁ……」
 吾郎が、奇妙な表情で目を細め、視線を逸らして云った。声が掠れている。しかも吐き出すような口調だった。この口調はよく知っている。吾郎がヤケになりかかった時に特有の声だ。
「……何?」
 ひどく狼狽して腹をたてていたが、それをどんな風に云い出せばいいのか分からず、寿也はひとまず返事をした。
「したことある? トシ」
「えっ?」
 寿也はベッドの上でわずかに身体をずらし、吾郎から遠ざかった。
「何が?」
「何がって……」
 さっきから二人して、何、何、とばかり云っている。何故、とか、何をしてる、とか。何を怒ってるのか、だとか。しかも何を云い出すんだろう、吾郎君は。
「だからさ……」
 吾郎は目的語が口に出せないらしく、苛々した口調でつぶやいた。そしておもむろに寿也の座ったベッドの横に手をつき、身を乗り出してきた。
「吾郎君!」
 一瞬腹をたてかけた寿也の唇にさっきと同じように息がかかった。今度は目を見開いたまま、寿也はくっついてきた吾郎の唇の感触を受けとめた。いったいどうしてこんなことを吾郎が自分にしているのか、訳がわからなかった。分からないまま頭に血が昇った。
「ちょっと吾郎君……」
 唇が離れかけてそう云ったが、吾郎は相手にせずに、また唇を強く押しつけてくる。不安になるような興奮が、寿也の肩や胸や、みぞおちのあたりに、薄い汗と一緒にこみあげてきた。きっと吾郎は何かの好奇心で、誰かとキスしてみたくて、寿也にキスするのが一番簡単だと思ってこんなことをしているんだろう。けれど寿也の方では、吾郎と唇を触れ合わせているのは愕いたことにひどく気持ちいいと思った。自分が嫌がっていないということは、少し衝撃的だった。
 嫌がっていないことを吾郎が知ったらどうなるかと思うと、それも不安に思えた。吾郎の行動パターンからして、エスカレートしそうだからだ。
「トシ」
 何も云わないのではないかと思った吾郎が、急にはっきりした声を出した。
「何?」
 息が切れている。長距離を走っても声がまともに出ないなんてことは滅多にないのに。気恥ずかしい気分で寿也は目を開けた。吾郎の顔を見るのが嫌だった。
「オレ、他のこともしたいんだけど、お前嫌か?」
「……」
 余りにもストレートで、しかも、まるで問題の解決になっていない吾郎の云葉に、寿也はくらくらした。
「僕とするのは変だと思うけど……」
 吾郎君とならしてもいいかもしれない。自分がうっかりそう思ったことは隅に追いやって、寿也は答えた。答次第では、吾郎を一発殴って帰ればいいだけのことだ。吾郎はきっとそのうち気が済んだら謝ってくるだろう。
「え、でもさ」
 吾郎は寿也の返事を聞いて、不満そうに眉を吊り上げた。
「オレ、お前としてーんだもん」
「……僕と?」
 寿也はつぶやいた。
「どうして僕と?」
 真面目に疑問に思って吾郎に聞き返すと、吾郎はうなった。ベッドの上に寿也を残したままで、後ろにあった椅子に座り込んだ。
「どうして……って云われてもよ……」
 吾郎が自分同様に真剣に考えているのが分かって、寿也は彼の返事を待つ気になった。
「寝てるお前の顔見てたらしたくなったんだし……それにお前……」
 吾郎は更に混乱したように云葉を切った。天井を向く。そして合格、の文字を書きなぐった張り紙に気づいたように目を逸らした。
「お前、オレとバッテリー組むんだし、打たせてもすごいしさ……」
「は?」
 打たせてもすごい、というのが今の話とどう関係があるのかぴんと来ないまま、寿也は目を見張った。
 ただ、何となくその気になって、たまたま目の前にいたのが自分だったから、というよりも、寿也としてはその説明が気に入った。女の子の代わり、というのでもなさそうだ。吾郎はそういう衝動を満足させるために、嘘をつくようなタイプには見えない。
 それで自分はどうなんだろう? 自問してみる。嫌じゃない、のは確かだった。
「……いいよ」
 寿也はため息と一緒に返事を吐き出した。吾郎が、お前はどうなんだよ、と突っ込んでくると困るな、と思いながら。(それは彼の中ではまだ混乱中だったからだ)
 しかし、いいよ、という云葉を聞いた瞬間、吾郎の中では何かが切れてしまったようだった。どうやら寿也の真意を確認することは思いつかなかったらしい。
「……殴んなよ?」
 そのまま押し倒される。他にもしたい、といわれたが、自分がされるのか、と思いながら、寿也は混乱したまま吾郎の重みを受けとめた。

「いいよ」
 予想外の返事に、吾郎は目を丸くする。冗談じゃないよ、とか、そんな云葉と一緒に険のある目でにらまれることを予想していたからだ。寿也を怒らせると結構怖いのだ。身長も体格もほとんど変らないし、寿也が本当に嫌なら吾郎に勝ち目は無い。
 それに、吾郎が今結構せっぱつまった状態なのは本当だが、かといって、力でかなうとしても寿也を無理やり押し倒すなんていう真似が吾郎に出来るわけはなかった。そんなことをしたら、せっかく取り戻してほっとした寿也の友情をまた無くしてしまう。
 練習試合を申し込みに行った時の、寿也の皮肉な目つきや、吐き捨てるような口調を、吾郎はよく覚えている。二度とあんな冷たい目で見られたくない。きっと、この前よりもいっそうこたえるだろう。
 天井にやる気満々の受験スローガンを貼ってあるのが気になる。仰向けになった寿也にはよく見えるだろう。毎日寝る前に目に入って、はずし忘れていたことを思い出すのだが、そのたびに明日やろうと思って、結局放ったまんまだったのだ。
 しかし、寿也のジーンズの中からシャツとアンダーシャツを引っ張り出して、手を滑りこませたときに、天井の紙のことなんて吹っ飛んでしまった。胸はあたたかくて気持ちよく、吸い付くように肌がなめらかだった。寿也は困ったような顔で目を閉じた。
 指先にあたった乳首を親指でそっとこすると、寿也の首筋が少し動いたような気がした。ここを触られて、寿也はどんな感じがするんだろう? 今度は指先でつまんで少し力を入れる。あきらかに寿也の表情が変った。
(気持ちいいのか?)
 血が逆流するような感じになる。頭がぼうっとはれぼったいような感じになり、ジーンズの中で自分が明らかにきつくなった。
「吾郎くん……?」
 手を止めて凍りついた吾郎に、寿也がそろそろと目を開けた。喉に絡んだようなその声を聞いた瞬間、吾郎の中で二度目に何かがはじけ飛んだ。
 今度はじけたものは理性というものだったようだ。
 そのあとは真っ白だった。夢中だった。
 最初は指でするだけで満足するつもりだったし、それ以上のことはぴんと来ていなかった。
 だが、始めてみると、ひとにするのに慣れない指は、興奮するだけ興奮して、少しじれったかった。吾郎は指でぎこちなく触れるだけではすぐに物足りなくなった。
(オレ、スケベだと思われるだろうな、トシに……)
 すげえ暴投になるかも。そう思いながら、彼は寿也から手を離した。
「……っ」
 寿也がつらそうに目を開ける。寿也の目は少し涙っぽくなって、潤んだように濡れている。
 その目と、飲みこんだ息に、ズキンと疼いた。緊張したように伸ばされている寿也の太腿の間にてのひらを滑りこませる。そのまま脚を大きく開かせた。
「……何……?」
 寿也が慌てたような小声でささやいた。狼狽したように身体をよじるのを押さえつけて、開かせた脚を曲げて立てさせ、吾郎は寿也の両足の間に腰を割り込ませた。寿也と自分が直接触れ合うようにぐっと押し付ける。
「あ……っ」
 今日初めて、はっきりと寿也が声を出した。ひどく興奮した。ぴくんと寿也の背中が浮く動きを、吾郎は自分の胸で直接受けとめた。押し当てたまま動かして擦り合わせてみる。
「吾郎く……」
 寿也の喉が少し反り、泣きそうに濡れた声が吾郎の名前を呼んだ。
 男同士でする方法があるのは知識として知っているが、そこまでする勇気はないが、寿也の脚を開くことだけでもかなり興奮した。
 寿也の白い頬にはぼうっと血の気が差している。汗に濡れて上気した寿也の顔は、AVなんかよりよほど吾郎を興奮させた。
 それに、粘膜同士が攣れて擦れるむず痒い快感は、今まで経験したことのない快感の入り口を吾郎にはっきりと指し示した。鼻にかかった息を漏らす寿也を抱き込む。もっと寿也を興奮させて、はっきり感じている証拠を見たかった。
 重なった腰を動かしながら手当たり次第にあちこちを撫でてみる。首筋を指がかすった時、寿也が少し身体をすくめたように思えた。身体をずらして首筋に顔を埋め、髪をかきわけて、うなじに近い位置を舐めると、寿也は声を漏らした。
 その声を聞くとどうしようもなく熱くなった。空いた両手で寿也の腿を掴み、腹の方へ押し付けるように曲げさせて、自分ともっと密着するように動かす。寿也がいきそうになっているのが分かった。呼吸も乱れて途切れがちになり始めた。
 首筋を舐めていた口を離して、思いきってもう一度キスする。さっきは触れ合わせるだけだったが、呼吸が乱れて開いた寿也の唇の隙間から、なるべく深く舌を入れる。歯列が邪魔になってうまく舌を探し出せない。それに気づいた寿也は、目を閉じたまま、唇の上を舐める吾郎の舌にそっと舌で触れてきた。甘く感じるくらい柔らかい舌が吾郎に絡んでくる。
 寿也のうなじの脇についた吾郎の手が、どこかに触れたくてうずうずする。キスしたまま胸を探る。さっき服を脱がせかけたとき気持ちよさそうだった突起を捻るように摘むと、絡んだ舌の奥で、寿也はうっというような小さな呻きを漏らした。
 下に敷きこんでいた腰から押し返してくる感触が少し変った。吾郎の太腿があたたかいもので濡れた。
 その感触と寿也の声に、吾郎もそのまま達してしまった。
「……」
 そして二人とも大きく息を吐き出した。
 吾郎は、寿也を見下ろした。何とも云えない気分で、組み敷いていた身体の上から自分の身体をどける。
 寿也は息を弾ませながらようやく脚を閉じた。ゆっくりと左手を上げ、手の甲で額の汗をぬぐった。見るのが怖いような気分で、今までぴったりと重なり合っていた部分を見下ろすと、濡れた寿也の太腿が目に入って、吾郎の胸が痛いほど高鳴った。脚の内側の湿った皮膚の白さと色っぽさに、また妙な気分になりそうになった。
 ティッシュの箱を引き寄せながら、吾郎はそのまま絶句した。何か云いたいが、何を云えばいいのか分からない。
「トシ」
 暫くして呼んだが返事がなかった。微妙に乱れたままの息遣いが聞こえてくる。
「なあ、トシ!」
 呼ぶと、無愛想な声が、何?と返してきた。
「怒ってんのかよ」
「怒ってないよ」
 だが、それはやはり怒っているような声だった。吾郎は間が持てずに内心苦しみながら、何枚かティッシュを抜き出して、寿也の手に押し付けた。寿也はだるそうに目をしばたたきながら起きあがった。それから数分間は二人とも黙りこくって後始末をした。
「風呂入る?」
 寿也の胸元に汗が浮かんでいるのに気づいて、吾郎は、母が帰ってこないかどうかを気にしながら尋ねた。寿也は首を振った。
「いいよ。変だろ、この季節に昼間っからお風呂借りたら」
「母さんいないけど」
「いいから」
「じゃあタオル持ってくるか?」
 何とか話の穂口を探し出そうとする吾郎に、寿也はようやく笑った。
「タオルは借りるよ」
 吾郎はほっとしてタオルを取りに行った。正直、こんなにひとの顔色をうかがったことがあったかどうか思い出せないくらいだった。自分が寿也の様子を気にしているのが、普通の友達に対してのそれを微妙にはみ出しているのを感じる。
「トシ」
 タオルを投げると寿也はそれを受けとめて、さっきよりはだいぶ和やかな顔で身支度の続きを始めた。そして、汗を拭いてボタンを止めると、寿也はあっけなく、小憎らしいほど清潔ですっきりしたいつもの彼に戻ってしまった。
「あのさ、吾郎君」
 彼はふっと短い息を吐き、今まで微妙に伏せたままだった目をあげた。不自然な潤みを取り去った、綺麗な黒い瞳が吾郎をまっすぐに見つめている。
「僕にとって、野球がすごく大きいのって分かってるよね?」
「……お、おう」
 どうして野球の話になるんだ、と思いながら、吾郎は頷く。自分が、どうして僕とそういうことしたいの、と、寿也に聞かれて「だってお前は野球うまいから」というようなことを云ったことは、実は彼の方では忘れている。
「僕に野球を教えてくれたのって、吾郎君だったね。……それがどんなにすごいことか、吾郎君には分かるよね?」
「えっ」
 吾郎は、寿也の云いたいことが分かったような、分からないような気分で、もうひとこと突っ込んで尋ねようと息を吸い込んだ。
「……っていうことで、今日は帰るよ」
 何事もなかったようににっこり笑って寿也はたちあがった。
「あのよ……」
「何日か忙しいから、会えるのってちょっと先だと思うけど、吾郎くんも海堂行きの準備、ちゃんとするんだよ?」
「トシ……」
「じゃあまたね、吾郎君」
 そう云って、追いかけようとした吾郎を手で制して、ここでいいよ、と云って、寿也は帰って行った。よどみのない軽い足音が階段を降りて行き、おだやかに玄関のドアが閉まる音が聞こえる。そして、家の前の道路をかすかな足音が遠ざかって行くのに耳をすませて、吾郎は頭を抱えた。
「何なんだよ、わっかんねーよ……」
 そして苛々したようにベッドに飛び乗り、もう必要のない、天井に貼りつけたままの紙をついに剥がした。
 寿也に、自分が合格点を貰ったことには気づかないままだった。

 吾郎が紙きれを握り締めて苦悩しているとき、寿也は赤くなった顔をうつむいて道を急いでいた。
 南の空に上った太陽が照り付けて、うつむいてみても本当はそこら中がまぶしかった。
 今日の雰囲気は少し、吾郎と久しぶりに会った去年の夏の道に似ていた。けれどあの日にましてすがすがしく健康的な、キラキラ明るい真昼だった。
 どんどん早足になった寿也は、ついに吾郎の家が見えなくなったあたりで、バス停を目指して走り出した。恥ずかしくていたたまれない。少し鈍い吾郎が見ても、彼がどんな状態なのか、その真っ赤な顔を見れば一目でわかっただろう。
 寿也がその時、手のつけようもないほど照れていたということを吾郎が知るのはずっと後のことだ。

00: