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賛美歌

02 21 *2013 | Category 二次::ゼノギアス・バルビリ

クリア後。金髪さんが銀髪さんに会いに行く話バージョン2。(続きではありません)

続き










 僕は賛美する。信仰を、悔い改めるこころを、自ら認めた罪を。あがないのための行為を。罪によって変わることのない信心を。
 僕は賛美する。恵みの小麦を、海の碧を、はるかな緑を、白くそびえる雲を、僕らをあまねく照らす陽光を。
 君と共に開けた全ての扉を、その向こうに隠された、数々の古い秘密を。共に耳にした音楽、天上の石の都、裁かれて閉ざされた天に届く塔、君が胸に秘めたこころざし、君を愛する沢山のひとびと。君を愛する僕の心。君の微笑を、言葉を、声なき声を。
 ……僕は賛美する。




 初めて「彼」と会った頃、暮らしていた古い教会は、今はビリー一人の住まいだった。
 アヴェと教会が新しく造った施設が出来て、子供たちはそこに移って行った。プリメーラは年のうち半分を彼と、残りの半分を父と共に暮らしている。妹は今、暖かい地方で、豪放磊落な父と気楽に過ごしているだろう。しかしここにも春のきざしが訪れて、もうしばらくすれば初夏にさしかかる。プリメーラは戻ってきて、冬になるまで彼と過ごす。
 テラフォームのもたらした海域の汚染は鎮まり、人々は徐々に、多島海近隣の集落に戻りはじめていた。背筋を凍らせるような教会の真相を知らないひとたちは、まず神を求めて教会へやってきた。
 日曜ごとにひそやかに暗い色の服を着て訪れる人たちの目は、いまだ旧世界への喪に服して苦しんでいる。彼らを救いたい。少年の面差しの若い神父の前で、指を組んでこうべを垂れる人たちに、ビリーは言葉を尽くした。
 贖罪官出身の神父は、ぎごちなく不確かな宗教哲学を彼らとわかちあう。そうして自らも彼等と共に、新しい信仰について学んだ。神の怒りについてではなく許しについて。まったく違う場所へ向けて歩き出そうとする自分たちの道が、正しい光に向かうため、生き甲斐を持つ美しさを思い出すことについて。教会の仕事は苦しく慌ただしかったが、彼は平気だった。充分に乗り切ることが出来ると思った。心の痛みに比べれば、疲れなどどうということはなかった。
 時にはひとびとの苦しみに息詰まりそうになる。
 だが、足を運んで丘を上るだけで、彼の疲れた心を、よみがえり始めた故郷の緑はいやした。山野はやわらかな緑につつまれ、木々や草が花をつけた。灰色に濁った海は再び透き通り、魚影をみかけるようになった。雲にはまだ汚染が残っているが、その雨がひとの身体に深刻な変化をもたらすほどではなかった。二度目の冬が過ぎ去った。春が訪れる。
 春さえもひとを幸福にする。重いガラスの壁のように自分を世界からへだてていたものが取り払われる。
 「彼」が訪れたのはそんな日だった。

 彼は、白い花の蕾がほころび始めた海辺の丘を越えて、教会へ歩いてきた。
 よく晴れた午後だった。ビリーは神父の黒衣を脱いで、すぐ近くに住む老婦人の畑を一緒に耕していた。泥に荒れた指を避けて手の甲で汗を拭い、緑の丘を遠く照らした光をみはるかした時、小道の向こうの陽炎と光に溶け込んだものが黒く浮かびあがった。
 それは次第に長身の青年の輪郭をあらわした。肩の左側に、編んだ髪からほつれた髪が風になびいてきらきら耀いた。あまりに覚えのある、恋焦がれた輪郭に、白昼夢を見ているような気分になった。まさか、と思った。
 全身に冷たく甘い動揺が広がり、鼓動がこめかみで膨れ上がった。
「バルト」
 かすれた声で呼んだ。
 バルトはすぐには応えず、ただ光を背にした姿をにじませながら、手を挙げた。光につつまれて笑っていた。
 それではやはり、バルトは彼がここに戻ってきたことを知っていたのだ。彼に会うのは一年ぶりだった。心が震えた。二十歳を過ぎたバルトは蜜を溶かしたような髪も、片方を黒い眼帯で隠した隻眼もそのままだった。だが、すぐ目の前に立って顔を見上げると、彼の面差しは一年前よりずっと大人びて、引き締まって見えた。彼の年の離れた異母兄弟に、どこか面影が似てきたように思えた。
 どんな表情で彼を迎えていいのか分からず、あいまいな微笑でビリーはそこに立った。
「やあ。元気そうだね」
 結局、先に声をかけたのはビリーの方だった。バルトはまあな、と云って屈託なく笑って見せた。その笑顔は明るかった。自分も手伝う、そう云って老婆の手からすきを取り上げた。
 この二年、バルトの目の中にずっと燃え盛って、ビリーにもどかしい怒りを呼び起こしていた炎はそこになかった。バルトは時間がたってわだかまりを棄て、友人として和解に訪れてくれたのではないだろうか。そんな、複雑な期待がビリーに生まれた。
 しかしビリーは、バルトの青い瞳を通して、自分の心の鏡をのぞき込んだような気持ちを味わった。
 彼は、一年前とは別人のように落ち着き払った顔で自分の隣に立ち、一緒に老婆の畑を手伝う青年の顔を見つめた。その健康な横顔、日に焼けて金色に光る皮膚、日の光をよりあわせて作ったような豪華な小麦色の髪。
 バルトの心が変わらないことを、突き放した自分を許さないでいてほしいと、自分はどこか期待していたようだ。苦いものが込み上げてくる。
 しかしそれなら少なくとも彼は幸福になる。
 破綻のない未来がバルトのものになるのだ。

「泊まっていく? 何もないところだけど、一晩お客様を迎えるくらいの準備はあるんだよ」
 夕刻の窓辺を照らすために、教会の台所の隣の小部屋の燭台に蝋燭を灯す。もちろん電力は復旧していたが、節約のために、ビリーは一人の時間、こうして蝋燭の光に頼ることが多かった。
 彼の来訪に自分が浮き立っているのが分かる。
 バルトは何も特別に云い出そうとせず、他愛ない世間話をして、終始快活で親密だった。これこそが自分の望んでいたことだ。かすかな痛みを抱えつつもビリーはそう思う。そして、自分が今晩ここにとどまって欲しがっていることが、彼に過剰に伝わりはしないだろうか、そんなことに頭を痛める。もっとそばにいたかった。目に、耳に、今度はいつ会えるか知れない彼の存在を焼き付けておきたかったのだ。
 他愛ない話をしながら、夕日と蝋燭の炎に照らされたバルトの髪の、あかがね色をおびた光沢に、ビリーは、数年前、停泊したユグドラシルの甲板の上に座って、平穏な夕暮れを二人で過ごしたことを思い出した。
 その日二人は、きつい戦闘をこなしたばかりだった。
 教会発掘現場で鉢合わせたエレメンツとイドと相次いで闘い、その疲れが癒えないまま、ストーンの操るアルカンシェルとギアで闘うことになったのだ。ことにそれはビリーにとって、意味の深い、衝撃の大きな戦いだった。父を失ったかと思って震えた四肢、コントローラを握る手に冷たい汗がいっぱいに噴き出して、憎しみの固まりのようになった自分。ストーンの口から吐き出された憎しみと教会の素顔。それはとりもなおさず、ビリーが世界に対して抱いていたアイデンティティを奪い、彼にとって久しく神の代理人であった男を、決定的に失った戦いでもあった。
 結局父は死ななかった。母を失っていらい失語症をわずらっていた妹が口をきいたことへの喜びもあった。だがどこかに、怒りや暗い絶望が疼いていた。
 その日の午後遅く、ユグドラシルは物資の補給のために砂漠の拠点に向かい、次いでダジルの闇市でさらに物資を積み込んだ。それがほぼ終った頃にはすでに夕刻にさしかかって、ユグドラシルは、キスレブ国境とダジルの合間の緑地に停泊した。
 昼の戦闘に参加した者には、その日の夕方は、休息時間に割り当てられた。
 長時間ギアに乗っていた四肢のだるさや打ち身、繰り返される衝撃に酔った内臓を休めるためだ。
 ギアに乗っていると多量の汗をかく。体質的に発汗する量の少ないビリーや、心頭滅却すれば、の精神の見本のようなシタンですら、全身がぐっしょりと濡れるほど汗をかく。ギアに長時間乗った者は、決まって軽い脱水症状を起こすのが常だった。
 ビリーは、からからに水分を絞り出された皮膚を覆った、汗の膜をシャワーで洗い流し、厨房に水を貰いに出かけた。そこで、濡れた髪を拭いながら、同じようにミネラルウォーターを取りにきたバルトと出くわしたのだった。
 料理人は、ふたりで水を貰いにやってきたその日の戦闘の立役者たちの姿に笑い、高価なミネラルウォーターを瓶につめて渡してくれた。ギア酔いしたものは、すぐに食物を摂ることはできない。しばらくは水を摂るだけで内臓が酔いから回復するのを待たなければならないのだ。
「若もビリーさんも、外に出て、水飲みながらゆっくりしてらっしゃい」
そう云われて二人は、幾ら飲んでも飲み足りない水の詰まった薄青い硝子瓶をたずさえて、疲れた脚を運んで、甲板に涼みに出ていったのだった。甲板にはほぼひと気がなく静まり返って、強い風が吹いている。半ば濡れたままだった髪があっという間に乾いた。水で咽を潤わせると、身体中から力が抜けて行くような疲労感が襲ってきた。
 彼らがそんなふうに並んで一緒に過ごすのは初めてのことだった。それまではろくに口をきいたこともなかったように思う。
 だがその日は、ことに厳しかった長い戦闘の緊張感を共有して、いつになく二人の距離は近づいていた。
 ユグドラシルが停泊したのは、西側の正面に遠くアヴェと砂漠を見晴らす位置だった。バルトの母国、アヴェは遠い西日に光り耀いていた。
 砂漠の赤い夕日を受けて、アヴェを見つめるバルトの青い目は、うす紫の光沢を帯びて沈んでいた。戦闘の後はやや調子が上がって陽気になる彼が、黙り込んでいることを不思議に思って、ビリーはそっと隣に座った青年の横顔を見守った。
 真っ赤な夕日に濡らされて髪が赤銅色に耀く。
「どうかしたの……?」
「……遠いよな。結構近くに見えるのに蜃気楼みたいだ」
 バルトは朧げにかすむアヴェに向けて手を伸ばして見せた。
「……何か迷ってるのかい?」
 ビリーは躊躇いながら口にした。そんなことを尋ねるほどまだ彼はバルトと親しくはなかったのだ。
「え?」
 質問の意味が分からなかったようにバルトは青い目をまたたかせ、すぐに破顔した。
「まさか。迷ったりしねえよ。俺なんか楽なもんだと今は思ってる。何をすりゃいいかはっきり決まってるからな。それ以外は考えてねえよ」
「そう……」
 ビリーは口をつぐんで、バルトが眺めていた、砂漠の向こうに光る彼の故国へと視線を向けた。
「大変なのはお前やフェイや……エリィもそうか」
「僕が?」
 彼の思いの中に自分が何らかのかたちでかかわっているとは思えずに、ビリーは戸惑いながら聞き返した。
「どうしてだか分からないのに戦うってのは……暗い道を行くようなもんだろ。フェイは何か見えないもんと戦ってるし、お前もさ……」
 バルトは不意にまっすぐにビリーを見つめた。
「明るい方に行くよかすげえことだろ」
 咄嗟のことに、ビリーは言葉に詰まった。まさか、この青年からそんな言葉を聞こうとは思わなかったのだ。
「……珍しいことを云ってくれるね」
 軽口で流そうとすると、バルトはまた元通り視線を夕日に向けた。
「今日、あいつと戦ったあと、ギアから出てきてお前、青い顔でふらふらしてんのに跪いて祈ってただろ? あれ見て、ただ、そう思ったんだ」
 ぶっきらぼうに漏らして、それきり黙った。ビリーもそれ以上は云わなかった。
 この、外観は美しいがやや武骨な気質の青年が、臣下に愛されるのが何故なのか解った気がした。少し悔しいようでもあったが、心の深いところがほのかにあたたまった。初めて彼の顔をまともに見たような気がした。
 思えば、あの午後がビリーの心をバルトに近づけた。
 そしてそのあと幾月もたたずに、さしてきっかけもなくそれは突然起こった。ビリーは十六歳だった。
 自分でも何が起こったのか理解できないほど激しく、彼はこの青年に生まれて初めての恋をしたのだった。

 あの砂漠の夕陽と似て、しかし雲の汚染で黒みを帯びた夕日を浴びた窓辺で、ささやかな蝋燭の炎を頼りに、ビリーは、あの日より大人びたバルトの顔を見つめる。
 ずっと彼に会いたいと思っていた。この目で眺めたかった。声も聞きたかった。目が、耳が彼に飢えていた。一度も触れ合ったことはないから、唇や肌がバルトに飢えることはない。それがせめてもの救いだった。
「灯りが暗いね」
 もう少し彼の顔をよく見ようと、ビリーは電灯を点けようとした。スイッチを入れようと壁を探った手を、不意にバルトの手が掴んだ。甘く不安な、不快な痛みに胸を締め付けられた。突然鼓動が激しくなった。
「何……?」
 彼につきなれた嘘を今回も何とかしてまっとうしようと、ビリーは冷たい拒否と非難を込めてそう問いかけた。
 バルトは、握りしめた手もとに唇を近づけ、逆に蝋燭の灯りを吹き消した。
「何しに来たって、今日は尋かないのかよ?」
「……離せよ、バルト」
「お前が尋かないんなら、俺が云うぜ」
 バルトの妙に落ち着き払った、確信犯めいた声が耳元に聞こえたかと思うと、ビリーはバルトに強く腕を引かれて抱きしめられた。平静に見えたバルトの胸の中でも、ビリー同様激しく心臓が疾っていることに、そうなって初めて気づいた。自分の鼓動の激しさもバルトに知れてしまうだろうか。それが怖くて彼は必死に身体を引き離そうとした。
「何を……っ」
「お前が俺を軽蔑して、二度と顔も見たくねえって思うようなコトしに来た……」
 バルトの低く押し殺した声にビリーは身震いした。
「バルト……」
「そんな神父様みたいな声で、バルト、なんて、お前が二度と云わないようにさ……」
 そうしてみると、彼の瞳の穏やかさがいかに危険信号だったのか、ビリーは思い知る。逃れる方法がないかとせわしなく考えたが、腕も言葉も凍りついてしまったように、ビリーはバルトに抱きしめられたまま動けなかった。
「心をくれってずっと云ってたけど、もう関係ねえよ。心だろうと身体だろうと、お前の、もう、カケラだって……殴ったって絶対云うこと聞かせてやる……」
 バルトは息が上がったように、押し殺した声をとぎらせて、抱いたビリーの身体を引き離し、引き摺るように傍らの寝台の上に縫いつけた。
 燃え残る紅い光に濡れた敷布の上に、バルトの影が落ちてビリーの視界をふさいだ。乱暴に首筋に歯が当てられ、強く吸われる感触があった。胸のボタンが乱暴にはずされ、ひとつが千切れて敷布の上に落ちた。
「本当に軽蔑するよ……」
 ようやく動いた舌をもつらすようにしてビリーは声を絞り出した。
「そのために来たって云ったろ?」
 バルトが、一日たち働いて汗を帯びたビリーの、土と埃を帯びた衣服をはぎ取ろうとする。
「まだ持ってるんだろ、銃」
 敷布の白の上で透きとおりそうな、プラチナブロンドの髪の筋に、かみつくような口づけが降った。
「お前、いつもベッドの下に一挺入れてたよな。……どうしても嫌なら撃てよ」
「莫迦なこと云うなよ、バルト!」
 彼の掠れた声が真剣さを物語る。一年前のバルトは、しきりに苛立って、無理にもビリーの気持ちを添わせようとして声をあらげた。おそらく彼もビリーが自分を想っているのだと、どこかで気付いていたのだろう。しかし今日のバルトはその彼よりはるかに真剣だった。眩暈を覚えてビリーは思わず身体の力を抜きそうになる。
「最近、お前のこと考えると、目の前が真っ暗になる……」
 バルトが耳元で漏らした言葉にビリーははっとした。
 迷いなんかねえよ。
 そう云った、少年の面影を残したバルトの声の明快さが、再びよみがえって来た。
(僕が君の目を曇らせるなんてことがあるのか、バルト……?)
「だから、最低なことして、したいだけのことして……俺のことなんて消しちまいたいくらいお前に憎まれたら、それでいいんだ……」
 バルトは一瞬、彼らしくもない陰湿な微笑いをうかべた。
「マジに一発撃たれるくらいで丁度いいのかもな……」
 ビリーは唇を噛み締めた。この数年押さえつけて来たものが抑えられなくなって涙がにじみそうになった。彼は力任せにバルトの胸をつきのけた。
「勝手なこと云うなっ……」
 ビリーは震える声で叫んだ。
「そんなふうになれるなら、とっくに僕は楽になってた! 君なんて忘れて、目の前の仕事だけ一生懸命して、教会を修復して、プリムと暮らして……」
「……」
「幸せになってほしかったんだよ。それは僕にはもういらないものだけど、君は捨てる必要なんかないんだ。君はシグルド兄ちゃん達とアヴェを復興して、ブレイダブリグとニサンを元通りにして、マルーさんと結婚しろよ!……どうしてそんなふうにこっちに踏み込んでくるんだ……僕が何のために君を……」
 バルトの手が伸びた。ビリーの襟元に熱い指がかかり、てのひらはあたためるように首筋を覆った。
「俺を、何だよ?……」
 ビリーは突然疲れたような気分になって、息をついた。
 ため息と一緒に、降伏の言葉を吐き出した。
「……何のために君をあきらめたのか解らないよ……」
 不意にあたりを覆い隠すような沈黙が落ちた。ビリーはあいかわらず泣きたい気分で目を伏せた。バルトの手がそっと彼の両肩にかかり、金色の頭がビリーの肩口にそっと伏せた。沈黙にいたたまれない思いで、彼が、燃え残った夕映えにかすかに照らされたバルトの髪を見ていると、バルトが胸元ではぁっと大きなため息をつくのが聞こえた。
 少し震えのまじった、低い笑い声が続く。
「やっと云わせた……」
 彼の声だと信じられないようなかすかな声でバルトはそうささやいた。

 耳を澄ませると、いまだにオルガンの音が聞こえる。
 彼の奥底の心に近い部分で、静かな音楽が薄青く鳴り続けている。
 これはストーン司教が、彼がまだ子供の頃に弾いてくれた賛美歌だ。
 あのころ彼は寛容で慈悲深く、彼の聞かせてくれたさまざまな寓話も音楽も、ビリーの心にしみ入ってくるようだった。ウェルスに母を殺され、出奔して帰らない父を待っていたビリーにとって、まさしくストーンは父に似た存在だった。孤児院の子供たちも皆ストーンになついていた。
 静かに心の淵に沈んでくるように、ストーンの言葉は、信仰となってビリーの水辺を満たした。ビリーの世界を蝕んだ孤独をあたたかく洗った。例えそれがのちに、ねじ曲がった復讐心と隣合わせの、欺瞞の信仰に変わろうとも。
 教会は確かに穢されていた。途方もなく古い意志に仕組まれ、外界から干渉され、操作されていた。
 しかしビリーの信仰は生き残っていた。
 それはひとが他者とわかちあい、孤独を埋めてほしいと願う心だ。誰かの孤独を埋めたいとつとめる心でもある。いとけない子供たちや、プリメーラのやわらかなほほに浮かんだ微笑を守るために、神に捧げる心は消えようはずもなかった。自分は神ではないから、たくさんのひとを、一人一人等しく愛することは出来ない。だから、神に心を捧げて、天にまします者を介して、やるせなく狂おしいそれらの愛を全てのひとに返したい。教会がなくなっても、信仰を選んだ自分の心は変わっていない。おかした罪は償うべきだが、ここで信仰を捨てるのはなおさらに罪深いことだ。
 信仰は決して失われるべきではないのだ。
 ビリーは唇をかみしめる。
 そしてもはや、贖罪は常に信仰と共にある。
 バルト。
 だから、自分のつぐないに捧げるべき人生と、バルトの、巨きく華やかな義務を背負った人生が交わるべきではないと思っていた。
 彼の幸福を願っていた。彼は戦乱と謀略の中を生きて、少年から青年期を過ごしたひとだ。優しい家庭と、彼の努力に見合った栄光、平穏な未来が彼を迎えるべきだと思った。彼は光へ向けて歩くのにふさわしい。
 自分はこれからの一生を信仰とその影と共に歩く覚悟だった。教会の影。信仰の影。罪の影。いまだ世界中に残ったウェルスの影響。今度は粛正のためでなく、彼らに安らぎを与えるために、ビリーは聖書の代わりに銃を取るだろう。
 ビリーの人生はすでに、教会と彼自身の犯した罪にささげた。罪こそが彼の信仰だった。そして、何の迷いもなくそれを肯定していた。
 バルトと気持ちを確かめあってしまえば、彼に与えきれないことに罪悪感を覚えるだろう。バルトの感情が自分に向いたと知って、ビリーは悩むことさえなく、彼を遠ざけようと決めた。ただ気まぐれに恋を楽しむには、バルトもビリーも思いつめる、真摯な気性の持ち主だったからだ。嘘もついた。あのころ彼はそれなりにうまくやったのだと思う。バルトは多くは云わなかったが、おそらくは傷ついたと思う。だが、それでもビリーに迷いはなかった。利他的だなどと思ったことはない。それでも心は静かに晴れ渡っていた。
 自分を彼が想っていると云う。それは無論嬉しかった。
 青年の彼の一時期、自分がそのこころの中に住んだ。それを糧に自分は生きて行けるだろう。やがて自分も分相応の幸福を見つけ、離れた場所で暮らす彼の幸福に心を騒がせることはなくなるだろう。そうするためにはその恋に養分を与えず、枯らしてしまわねばならないと思った。
 それはそんなにすぐ、というわけにはいかないかもしれないけれど。……
 バルトのアプローチがあるたび、ビリーは、逃げたという意志が伝わる程度の場所に、仮の住居を構えて移動を繰り返した。姿を隠すよりもなおさら不実な行為に精を出した。
 一度は追ってくるかもしれないと、ビリーは思った。二度目も、あるいは三度目もあるかもしれない。だがそれ以上のことはないだろう。バルトは誇り高い王族だ。幼く不実な恋をそう長く追い続けることはできないだろう。そんなことは、あの、激しく情のこわい青年には耐えられないはずだと思った。
 だがバルトは追い続けた。驚くほど辛抱強く、耐え難いように炎のような苛立ちを見せながらもあきらめなかった。彼の焦燥は、いつも息をつかせないほど情熱的だった。
 何度でも居場所をつきとめて訪ねてくる、若いアヴェの指導者の目が、油を燃やしたような烈しい青に燃えるのをビリーは痛みと共に見た。
(「どうして場所を移るかって……そんなことをはっきり云わせるつもりなの? そうやって全部僕のせいに出来れば、君もなるほど楽だろうね」)
 ビリーは声をふるわせてみせる。醜悪な被害者を装う。バルトを傷付けていることを思うとやはり胸が痛かった。
(「本気で云ってるのかよ……」)
 その怒りの瞳の美しさ。宝石の名前をいくつ書き連ねても足りないような。ビリー自身の薄く透きとおったこおりの色の瞳とはまた違う、青々と暖かく燃え出すような瞳だ。
 怒りをぶつけられながらもビリーは彼に見蕩れる。バルトが怒りに指先を冷たく白く握りしめながら、明け方の氷で彫りあげたようなビリーの姿に見蕩れているのと、まるで同じようにして。
 見蕩れながら強張る唇で必死に刃をふるった。
(「迷惑だなんて、たとえどんな相手にだって、口に出すのは嫌なものだよ。僕に心がないと思ってるの、君は。まして友人として好意を持ったことがあるひとに。まるで裏切りじゃないか、君の気持ちは」)
(「ビリー」)
(「しかも、僕の君への気持ちまで邪推するなんて……」)
 非難を込めた目を向ける。そのまま真っ直ぐ逸らさずに彼の目を見る。自分の心の血で磨きあげた切っ先で彼を傷つける。
 その時ですらビリーは胸のうちで静かなオルガンの賛美歌を聴いていたように思う。
 古いオルガンは謡い続ける。高く低く神に祈っている。ビリーの幼い苦しみの記憶の中ではいまだ、ストーンは救世主のままだ。泣くことも出来ずにふるえる子供の額を、冷たいてのひらで覆って冷やしてくれた。安堵を与えてくれた。いかに欺瞞と知っても、胸の奥にしまいこまれた甘い感傷と信仰の破片。
 教会の磨かれた床、鮮やかに彩色されたステンドグラス、古びたオルガン、埃の匂いのする石段。脚を踏み入れた途端に胸をしんと満たす静寂。心を潤す賛美歌。
 オルガンは鳴り続けている。決してやむことなく。
 そして彼の名前を胸のうちに唱える。
 バルト、バルト。幸福になってほしい。全ての幸福を欠けることなく味わって欲しい。神はきっと君を見ていて下さる。
 君はその資格を持つひとだ。
 僕のささやかな反抗がせめて長いことは君を傷つけないように。
 今日は、全ての人を忘れて君だけの幸福を祈ろう。


 入浴して汗を帯びたからだを洗い、ビリーはバルトと二人で自分の小さな部屋に入って、扉の鍵をかけた。
 さらに窓の鎧戸やカーテンを閉め切ろうとしたビリーに、バルトは首を振った。
 何も見えなくなるだろ。そう不服そうに云われて、この二年の負い目のあるビリーは、渋々その言葉に従った。
 すでに日が沈み、開けたままの窓から、アクヴィの月の光が差し込んでくる。砂浜に咲く白い花の甘い香りが、風に混じって部屋の中にゆるやかに忍び込んでいた。ビリーより後に洗ったバルトの髪から洗髪料の薄青い香りが漂ってくる。
 二人はすぐに口をきかなくなった。恥かしさと躊躇いを取り払って抱き合った後、すぐに二人はお互いと、その間に交わされる行為に夢中になった。汗や肌を絡ませて、言葉で、言葉以外のもので、お互いを探り合った。
 こうして、ある意味でバルトに応えてみれば、それは何と優しい行為だろう。勢いが先立って不器用ではあったが優しかった。そこに祝福さえ介在しているような、都合のいい甘い夢を見てしまいそうだった。
 どれほどの時間重なり合っていたのか、月がすっかり南に傾いた頃、二人は息を切らせてようやく横たわった。
 荒れた息を静めようと、薄闇の中でほんの少し黙った。心の通じ合った者同士が共有する、親密な闇と沈黙だ。そうして二人は、最初は混乱のうちに混ざり合った鼓動が、触れ合ったままでゆっくりと本来の自分のものに帰ってゆくのを感じていた。少しずつずれながら鳴り続けるふたつの心臓の音を、正確に拾い上げて数えられそうだった。ビリーを抱き寄せたバルトの腕に力がこもった。滑らかな黄金色に日焼けしたバルトの皮膚の下で、薄く、しかし強くしなやかな筋肉が盛り上がるのが、ビリーの背中に伝わってくる。
「何回だったっけ……?」
 低い声が囁いた。バルトの、普段は明朗な声が少し喉に絡んで、彼の感情が未だに揺れているのが分かった。
 それが何を意味するのか知りながら、ビリーは問い返した。
「……何が?」
「次々住んでるところ変えてさ、ほんとお前って強情だよな……」
 ビリーは薄く微笑んだ。睫毛を伏せた。
「でも、元エトーンとかかわらないほうがいいって気持は変わらないよ。王位こそ継がなかったけど、君はアヴェの政治の中枢にいる人だし……」
 言葉の途中で、彼の唇を、熱い指が静かにふさいだ。
「蒸し返すなって」
 バルトの青い目が不安げに揺れているのをビリーは知った。
 彼の胸を、ビリーは今度はもう少し力をこめて押し戻した。そして反対に、自分から、太陽の匂いのする肩に額を押し付けた。両腕を回して彼の広く張った背中を抱きしめた。
「バルト……バルト、お願いだよ……」
 どう説明すれば彼に分かってもらえるのか。
「君がマルーさんやメイソン卿やアヴェのひとたちを大切なのと同じように、僕は教会とそこにやってくる人が大切なんだ……どんなに暗い側面を見ても、僕はこの仕事に誇りを持ってる……でも分かるだろう? 教会は必ず裁きを受ける。教会本部の直属の贖罪官として勤めていた僕も、きっと裁きを受ける日が来る。そうしたら、そんな僕と親しくしていたら君はどうなる?……君の立場を必ずまずくするよ、バルト」
 バルトは息を呑んだ。それが真実だということも彼にはきっと分かるだろう。
「でもお前は……デウスと闘って終末を回避しただろ……?それで充分じゃないのか?」
 ビリーは声をかすかに震わせるバルトに首を振った。
「十分なんてことはない、バルト。デウスと闘ったことが免罪符になるなんてことがあると思う? それに僕は免罪符を得ることなんて望んでないんだ」
「……」
「もしも、僕がしてしまったことで死を求められたら僕は死を選ぶ。生きてつぐなえと云われたらそうする。だから僕のほとんど全部が、今は教会のものだと思ってる。……だから君には何もあげられないよ、バルト。あげるつもりもないんだ……」
 残酷で無神経なことを云っているのは解っていて、バルトにそう云わなければならない。ビリーにはそれが辛かった。また繰り返し、バルトの青い瞳が傷ついて曇るのを見たくなかった。
  バルトの顔をようやく見上げたビリーは、はっとした。バルトは面食らったような表情でしばらく沈黙していたが、ふと眉根をほどき、太陽の花が開いたように微笑した。バルトは彼の身体をゆっくり引き離し、生真面目な表情でビリーの前に座った。
「何だ、お前と俺、同じこと考えてる」
「……え?」
「俺も、ほとんど全部国に……アヴェに気を取られてる。でもそれとお前は別なんだ。お前に何の約束もできねえのに、欲しくて、お前の全部をむしり取りたい、ほんと、ガキみたいだよな……」
 彼はシーツの上に片膝を立て、ビリーの顔を間近に覗きこんだ。
「そういうことじゃねえの? 何もやれないけど欲しい。お前も俺もそう考えてるんじゃないか? だからお前はそんなのいけないことだって考えてるんだろ?……」
「……でも、だって……そんな都合のいいことってないだろ……」
 ビリーはぼんやりした驚きと共につぶやいた。
 バルトはため息をつき、笑った。
「なあ、お前も俺もさ。ほんと悪い意味で男だよな……マルーに云われたぜ? 俺。……縛られるのがイヤなんだよ。目の前の仕事に夢中でさ、約束するのが怖いんだよ。それは俺にもよく分かる」
「じゃあ、僕たちは接点がないんじゃない?……」
 ビリーはふるえる唇で微笑み、ようやく力の抜けた手をほどき、前髪をかきあげた。月明かりに照らされたバルトの顔を見上げた。
「そうじゃない、俺にとっては」
 力を込めてバルトは云った。
「お前がそうだから俺は欲しいのかもな。……何て云うか……」
 云いづらそうに言葉を濁したバルトに、ビリーは不思議な気分でつぶやいた。
「似たもの同士だから、ってこと?」
 そう云われて彼が苦笑したのが分かった。
「そういうことになるのか?」
「なるのかもね……」
 決してお互いを最優先しない恋を、彼に誘われているということが分かった。それでいて、最優先できないからこそ、捨てる必要のない寛容な関係を。
「そんなことが本当に出来るのかはまだ分からないよ。だって……僕は今まで好きになった人だって君しかいないんだし」
「えっ」
 バルトが意外なことを聞いたように声をあげた。
「……俺だけか?」
「君だけだよ」
「……」
 バルトは絶句し、立てた右の膝の上に額をつけて顔を隠してしまった。
「それが何か?」
 紅くなりそうになりながらビリーは無愛想に尋ねた。しばらくして顔を隠したままのバルトからかすかにため息と低い笑い声が聞こえた。
「こんなのが嬉しいなんてなあ……」
 ビリーは憮然として今度こそ紅くなった。そして、自分達がこんなことを話していることが嘘のようだと思った。夢のようだとも思う。そして苦笑した。
「だからつらくなったら、僕はまた嘘をつくかもしれないよ?……」
「本当のこと云わせるよ、そしたら」
 バルトはぶっきらぼうに呟いた。そして、ビリーの隣に横たえていた身体を再び乗り上げてくる。絡んできたバルトの身体に変化が起きるのを感じて、ビリーはぴくりと震えた。まだ汗の引かない太腿に、彼の高まりを感じる。急に自分の体温が上がったように思える。逃れたいのか逃れたくないのか判然としないまま、バルトに背を向けた。
「もう駄目だって……」
「どうして? つらい?」
 熱を含んだバルトの唇が彼のうなじに埋まった。熱い胸が、彼の背中に重なってくる。闇の中では、白い皮膚に浮かんだ紅潮までを読み取られることはないだろう。ただ、上がる体温が、汗を帯びた四肢の関節のくぼみが、そして硬くこわばる快楽の印が、ビリーの言葉を裏切っている。バルトに触れた自分の身体の全てがただ無性に恥ずかしく、切なくて、彼は身をもがかせた。
 この先どんなにつらくても自分は今歩く道からそれることはない。自ら望んできた道だった。だが、自分が彼を拒むことでまさか、彼の視界をふさぐのだとは今まで思ったことがなかった。それは暗い衝撃だった。
「……壊さないでよ?……」
 そんなふうに云ってみせながら、ビリーはとっくに息を切らしている。自分の口から、戸惑いと甘えの入り交じった声が洩れるのを聞く。バルトが耳元で笑うのが聞こえる。
「お前って嘘ばっかだからな……」
 ため息が入り交じる。またからだの中から信じられない熱が揺り起こされる。彼は、自分の望みに焼かれる思いで、抱きしめてくる熱い腕に身を任せた。
 そうしながら、どこかでかすかなオルガンの音を聴いていた。空耳のメロディは沈黙よりも近しく、いつも彼と共にある。

 
(「僕は賛美する。信仰と罪を」)

 これからの暮らしの中で、彼は、愚かな子供の手が開け放った箱から飛散した、あらゆる病と禍いを拾い集める旅に出る。
 だが、旅の途中、立ち寄ったなら内側から開く扉があると思っていてもいいのだろうか。 それは許されるべきことだろうか。
 旅路の間、彼は土埃と渇き、時には雨風に傷ついて歩く。
 歩きやまず、内なる賛美歌を聴きながらただ歩く。そして疲れ果てた足を引いて、箱の底にひとつ残った、金色の希望を胸に抱くのだ。

 僕は賛美する、君を。
 信仰と罪と、愛を。

                                   了。

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