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02_満天星

02 21 *2013 | Category 二次::アンジェ02・オスセイ

火と毒草の続き。

続き










            1.

 『聖地』は霧のような魔法に満ちている。
 曇りひとつない青空の破片が、木の葉隠れに透けて煌めいている。五感に魔法が押し寄せて、目に見えない霧のように優しく肌を湿らせるのだった。焔や水、光、闇、風。天地を司るもろもろの魔法のスペクトルがより合わされて、ひとつの透徹した色を作り出されている。聖地の清浄な大気の中では、雨や嵐さえ高潔に意味ふかいものに思える。
 魔法の存在を霧に例えるのは、セイランの生まれ育った場所が、一年を通じて霧に包まれる時間の多い地方だったからだ。
 女王が、女王候補育成の開始まで時間を充分にくれたのは有り難かった。この地にはセイランの体質になじまない輝きが多すぎるのだ。中空に輝く天体の眩しさに目を馴染ませるだけでも数週間かかった。
 森に分け入って、緑に包まれた道を歩いていたセイランは、不意に聞こえて来た蹄の音にはっとした。
 この聖地で馬を乗り回すのは守護聖だけだ。しかもそのうち数人でしかない。
 振り返ると、たった今セイランのたどって来た道を走ってくる、つややかな鹿毛の馬が見える。鹿毛に跨がった男の髪が、遠目からも判る鮮やかな炎の緋に輝くのに、目を射られたように思って、思わずセイランは目を細めた。
 突風のように駆け寄って来た炎の守護聖は、セイランの傍らに馬をとめた。
「おはようございます、オスカー様」
 彼はいささか棘のある口調でつぶやいた。
「もっとも、もうとっくに日は高いですけれどもね」
 意にも介せずに歳上の守護聖は笑う。何を思ってか手を差し出した。
「今日は又ご機嫌がいいみたいじゃないか」
 彼は嫌味の通じないことに苦笑して、いぶかしく思いながらも半ば機械的にその手を取った。
「別段、僕は……」
 云いかけた時、握り返した手が強い力でぐいと引かれた。オスカーは腰をかがめて、引き寄せたセイランの背を支え、信じられないような力で彼を馬上に引きずり上げたのだ。
「オスカー様……っ」
 身体が浮き上がったかと思うと、セイランを横抱きに抱えたまま、オスカーは勢いよく馬の横腹を蹴った。駆け寄って来た時以上の早さで馬は走り始める。
「離して下さい……」
 怒りに紅潮してセイランは叫んだ。この男はいつもこうだ。人のプライドなど知らぬ顔だ。
「離したら落ちるぞ」
 からかい混じりのオスカーの声が耳元をくすぐった。楽しんでいる口調だ。
「確か高い所が苦手だったな。意外だな、怖いもの無しの顔のセイランが」
 馬上は、たいした高さではないとはいえ、慣れない者には異様に高く思える。しかも不安定な後ろ向きの姿勢に抱えられて、走り続ける馬の上となれば当然だ。奇妙な浮遊感に眩暈を起こしそうになって、思わずオスカーの胸にすがった。
 オスカーが笑うのが、密着した胸を通して伝わってくる。
 片手で器用に手綱を操って、馬の足並みを変えさせる。速度が落ちて、足並みも緩やかになる。
「セイランは軽いな。女王候補とほとんど変わらないぞ」
「……まさか」
 上がりかけた息を整えてセイランはつぶやいた。思わず声に抗議のニュアンスが混じる。ストロベリーブロンドと大きなブルーグリーンの瞳の少女を思い浮かべた。いくら彼が痩せがたちとはいえ、幾らなんでもあの華奢な少女と変わらないということはない。
「ああ、そっちじゃない、あの背の高い方だ」
 彼の心を読んだように、オスカーが補足した。セイランは体重についてはそれ以上何も云わなかった。ため息をつく。
「よくこの状況で僕にそれを云いますね」
「何がだ?」
「乗せたんでしょう? こうして、レイチェルを」
「せがまれてな」
「呆れた人だ」
「女王候補のご機嫌取りも我々の務めさ」
「教官に構うのは仕事の内だとは思えませんけどね」
 セイランはため息をついた。まだ身体に不安定な浮遊感が残っていて、オスカーに抱きすくめられた身体を離すことが出来ない。
「いい加減に降ろして下さい。今日はアンジェリークを見てやる約束になってる」
「そう聞けば、なおさら帰せないな」
 オスカーは手綱を絞り、馬を止めた。
「何ですって?」
「あれ以来、俺を避けてるな、セイラン」
 蒼氷色の瞳が覗き込んでくる。セイランは動揺を見せるまいと表情を凍らせて見つめ返した。
「へえ、覚えがないね」
 身をもがかせてオスカーの腕を逃れようとする。オスカーはそれ以上戒めようとはせずに、彼が馬上を滑り下りるのに任せた。
「違ったか?」
 その後から笑いながら馬を下りてきた。冷ややかに一瞥して立ち去ろうとしたセイランの腕をとらえる。
「ずいぶんうぬぼれてるんですね。別に僕は、四六時中あなたのことを考えながら過ごしてる訳じゃありませんよ」
「一日一回でも思い出せば充分さ。そうだろう?」
 そう云われてセイランは珍しく言葉につまった。
 先週の金曜、オスカーの家で不意打ちのようにしてセイランは夜を過ごす羽目になった。
 抵抗しようにも、軍人上がりの炎の守護聖の力は余りにも圧倒的だった。しかもこの男は、セイランの皿に一服盛ったと偽ったのだ。(それが虚言だったのか、あるいは逆に本当だったのかは分からない)
 彼は諦めて鉄のような腕に抱かれた。無駄な抵抗をしてみても仕方がないと思ったのだ。炎を司る男の肌は文字通りの熱さで、身体の外も内も灼かれるようだった。全身汗に濡れて、何もわからなくなるほど責められて、セイランは乱れた。涙も見せた。明け方自分の部屋に返った時は、屈辱を感じるよりもむしろ、奇妙に気持ちが白濁として虚脱していた。
 それ以来確かに一日一回は思い出した。それどころか。
「さあ、もう覚えてないな。……そろそろ、本当に帰して下さい。仕事があるのは、あなたがた守護聖ばかりじゃないんですから」
 冷淡に云い放って彼はオスカーを突き放そうとした。オスカーの意図は明らかだった。気持ちの上では抵抗と屈辱を感じているのに、セイランの身体は、一週間前のあの快楽を思い出しかけている。この熱いてのひらに腕を取られただけでもこうだ。
 彼が身体を堅くしたことに気づいたように、オスカーは改めて彼を引き寄せた。身体のラインを確かめるように背中をなで下ろした。
「オスカー様……、オスカー!」
 彼は悲鳴に近い声を漏らした。大気に籠った魔法が急に強くはたらき始めたように思える。花粉のように甘く大気を満たして、噎せかえるようだ。腰の上の服の止め金をはずして、オスカーのてのひらが胸元に滑り込んでくる。
「どうして貴方みたいな人が守護聖なのか分らないよ……」
 もう声に息が混じり込んでいる。一週間前の熱を捨て切れない自分をセイランは呪った。この男は、心底自分が嫌悪していたなら、無理強いはしないと解っているからだ。
「やたらにお前が逃げ回ったりしなければ、普段は、せいぜい守護聖らしくするさ」
 お前は物分かりのいい男だろう、セイラン。
 そう、重ねて囁かれて、セイランは唇を噛み締めた。もう憎まれ口も出て来なかった。
 立ったままで服をはだけられて、この間の晩とはうって変わってもの柔らかに熱を煽られた。それなのにもう、力が抜けて膝が折れそうになるセイランの背中を、鉄のたがのように、オスカーの片腕が巻きしめて支えている。オスカーの胸に顔を埋めてあえぎをかみ殺そうとしたが、彼が駆け上がり始めているのは、この男にはとっくに見通しなのだろう、とセイランは思った。
 細く素肌を晒した胸に、オスカーの軍服を模した服の襟が堅くこすれる。素肌は熱い男だが、硬質に織られた布は、奇妙に冷たく思えた。
 耐え切れなくなったセイランは、彼の肩にすがった指に力を込めて訴えた。
「我慢しなくていいんだぜ」
 笑いを含んだ声が囁くのを間近に聞きながら、セイランは身体を強張らせた。
「あっ……」
 思わず声が漏れる。ようやく立った脚の筋がひきつれるように緊張して、くるぶしの方にまで快感が通り抜けた。灼けるような快感から解放されて、セイランはあえぎながらオスカーの指を濡らした。
 思わずこめかみをオスカーの胸に押しつける。吐精してもなかなか余韻が去らずに、セイランは震えながら炎の男に抱かれて立った。
「この……」
 セイランは声を震わせた。自分が相手に何と云いたいのか分からなくなったのだ。言葉というものに比較的近い生活をしていながら、彼は言葉にある種懐疑的だった。ため息をついて、握りしめた片方のこぶしで、オスカーの肩を一度、軽く叩いてみた。堅くしなやかな筋肉の手ごたえがある。これでは抗議でも何でもない只のじゃれ合いだ。そう思いながらふと顔を見あげると、案の定オスカーの目が笑っている。腹立たしいような、半ば甘いような奇妙な気分でセイランは黙りこんだ。身勝手に彼をさらい取った男は丁寧に彼の身仕度を手伝い、頬に軽くくちづけた。
「俺を避けるなよ? セイラン」
 念を押すようにささやくオスカーがセイランには不思議だった。
(僕がどうだって関係ないじゃないか。一人ぐらい自分の思い通りにならないところで、むきになることはないだろうに────)
 もっとも、手を伸ばした女全てに振り向かれるオスカーだ。それさえもプライドに抵触するというところかもしれない。
 オスカーは長く整った指でセイランの顎をとらえた。そっと上向かせて視線を合わせてくる。
「それとも詩情を解さない男と一緒にいるのは退屈なのか?」
 からかうように囁きかける。セイランは喉の奥からあふれ出そうになる皮肉の大波をぐっと呑み込んだ。自分自身を退屈な男だなどと思ってもいないくせに。
「セイラン?」
「はいはい、分かりましたよ」
 きつい言葉とは逆に、やんわりとオスカーのてのひらを押し返す。
「……ところで、僕はいくら時間がかかっても歩いて帰りたいんです。とにかく今日は帰ってもらえませんか」
 自分の喉から思いのほか疲れた声が漏れるのに気づいてセイランは苦笑した。
 これではアンジェリークとの今日の約束は破ることになってしまいそうだ。早く自分の部屋に帰って一人になりたかった。
 アンジェリークがあの緑色の瞳をきらきらさせて抗議するさまを思い浮かべる。
(「お約束してたのに予告無しにお留守になさってるんだもの。私がお約束を破ったら、セイラン様、すごく怒るに決まってるわ。不公平だと思いません?」)
 声まで聞こえてきそうだ。アンジェリークのペースに巻き込まれるのは不思議に心地よい。
(僕はそういうタイプが好きなのか? まさか)
「分かった。気をつけて帰れよ、セイラン」
 貴方以上に誰に気をつけるんだろう? 思わずそう思う。 
「ご親切に」
 セイランは理由の判然としない疲れに硬い声を出した。喉に詰まった小石のような痛みの正体については考えないことにする。相変わらず喉元にわだかまる皮肉をのみ込んだ。この男に譲ろうとする自分には驚くばかりだ。
 オスカーはそれ以上は言わずに、歯を見せて笑い、馬に跨がって鞭を入れた。足音が遠ざかって行くのを聞きながら、セイランはうつむき、無意識に握りしめていたこぶしをほどいた。

            2.
 重苦しい眠りがようやく去って行こうとしていた。
 セイランはもう何年来、眠るのが好きではなかった。眠りは闇により近い場所ヘセイランの精神を運び去るからだ。全身にぴったりと寄り添うようにしてしがみついていた闇と眠りから解放されかけて、彼は深い息を漏らした。
(……?)
 彼は半ば狼狽して起き上がった。
 目を開けると射るように白い天井が目に入った。セイランは辺りを見回した。自分が真っ白な絹のローブを着せられていることに気づく。たった今まで横たわっていた寝台にかけられたかけ布も、敷布も、高価な厚織りの純白の絹だった。自分の着せられたローブの襟元に触れてみる。
(何だ? こんな莫迦高価い布で……)
「気づいたようだな」
 低い、歌うような声が聞こえて来た。扉が半ばほど開いた。絹糸のような豪華な金の髪が、その人本人よりも、まずインパクトを持ってセイランの目に飛び込んで来た。光の守護聖のジュリアスだった。セイランは何が起こったのか理解出来ずに目をしばたたいた。
「ここはわたしの家だ。そなたは、この近くの崖の前で倒れていた。オスカーがそなたをここに運んで来たのだ」
 守護聖の中で一番の古株のこの男は性格に似ず、音楽的な余韻を残す声の持ち主だった。歌うように語る。しかしどこか温かみに欠けるもの云いをするのだ。セイランはこの男が苦手だった。ジュリアスは、今は特に感情を交じえない声で、低くささやくように、簡潔にセイランの戸惑いに説明を加えた。
「……それはご迷惑を」
「そなた、何か病を持っているのか」
 ジュリアスは静かに近寄って来て、寝台の傍らに立った。彼が身体にまとった純白の絹布の、柔らかな衣擦れが耳に届いた。
「特に思い当たることはありません」
 この男に借りをつくってしまったかな、と思うと、軽い苛立ちを覚えた。口調に思わず傲然とした調子が混じった。調子が悪いのか、と聞かずに病を持っているのか、という云い方も癇にさわった。
「聖地に来る前、いやというほど教官がチェックを受けるのは、光の守護聖様ともなれば、御存じかと思っていましたが」
 ジュリアスはその言葉に込められた皮肉に敏感に反応して眉をひそめた。陶器の人形のような白い顔に怒りが浮かぶ。
「そなたが……」
 しかしセイランにも意外だったが、ジュリアスはそれ以上は云いつのらず、眉をひそめて口をつぐんでしまった。
「まだ顔色が悪い。あとで人に送らせよう。それまで身体を休めるがいい」
 仕事があるから失礼する、と云い残して、長身の守護聖はゆっくりと扉を閉めた。光が一杯に差しこむ豪奢な部屋で、なお燦然と輝く髪が網膜に影を残した。宮殿で会う時ほど険しい印象はない。セイランは微かな自己嫌悪に胸を刺された。
 部屋を改めて見回すと、部屋中のほとんどのものが白でしつらえられているのが解る。ほんのアクセント程度の青が点在する他には、彩色されたものは一切なかった。どれもこれもあきれるほど清潔で高価な、上質なものだ。長椅子の上にセイランの服が畳まれて置かれている。長椅子や部屋のカーテンまで真っ白だった。この清潔さと純白を保つのに、どれだけの人の手がかかっているのだろう。
 セイランはまた皮肉な感情に襲われてため息をついた。
 人を寄越す、と云われたが、これ以上ジュリアスの世話になるのは御免だ。さっさと着替えて帰った方がいい。あとでジュリアスには書状でも出して礼を云えばいいだろう。
 寝台から起きかけた時、よく響く足音が、足早にこちらへ向かってくるのが聞こえた。この足音には聞き覚えがある。足音は扉の前で止まり、その人ははっきりと扉を叩いた。
「どうぞ」
 声をかけると、はたしてオスカーが顔を出した。自分は彼の足音の癖まで覚えこんでしまったのか。そう思うと驚きがある。
「いったい、どうしてジュリアス様の私邸になんて」
 とがめるような声を出すと、オスカーは苦笑した。寝台のかたわらの壁に大柄な体躯をもたれかからせて腕を組み、寝台に座ったセイランの顔を見下ろした。
「顔を見るなり文句か」
「あいにく正直に育ったもので」
 セイランはかすかに唇をゆがませた。
「おかげで、ジュリアス様のあのいかめしいお顔を見たとたん、つい本音が出て怒らせてしまった」
 オスカーは呆れ顔になった。
「あの方は確かに融通のきかないところはあるが、あれは単に真面目なだけなんだがな。胸を開いてつき合えば分かる」
「そうでしょうとも」
 ジュリアスと胸を開いた付き合いなどする気はない。セイランは内心そうまぜ返した。
「……貴方でも人のとりなしなんてするんですね、驚いた」
「あんまりかたくななお嬢ちゃん相手にはな」
 オスカーは最初からこうだった。セイランのきつい口調にまったく怯まない。気を悪くした様子も見せない。それどころか楽しんでいるようだ。大人物なのかとも思うが、単に感じにくいというだけのことかもしれない。
「守護聖様の中で仲裁役は、もっぱらあの緑の守護聖さんの役目に、あらかじめ割り振られてるのかと思いましたよ」
「まあ、そう云えないこともないが…」
 オスカーは真顔に戻った。
「マルセルと云えば、今日はいったいどうしたんだ? 倒れるなんて、どこか身体でも悪くしてるのか?」
 考えられない、という口ぶりだ。聖地の清浄な大気が、人の健康にもいい影響を及ぼすのは確かだ。実際にセイランも、元々健康体ではあったが、下界から聖地に来てなおさらに体内に蓄積された毒気や汚れが清められて、体機能のゆがみが正されていくのを感じている。守護聖たちが外観上も美しい者が多いのは、この聖地の外気も無関係ではないだろう。
「マルセル様がどうしたんですって」
「マルセルがお前を見つけたんだ。慌てふためいて俺を呼びに来てな。……そうでなければ夜まであのままだったかもしれんぞ。礼を云っておくんだな」
 セイランは思わず肩をすくめた。他愛なくさえずる小鳥のような少年の顔を思い浮かべる。声を聞いたことはあるはずだが、よく思い出せない。
 礼を云っておけ、と云われた瞬間、炙られるような倦怠感が込み上げて来た。
「……努力しましょう」
「どうして倒れたか覚えてないのか?」
「崖を────」
 彼はぼんやりと意識がゆがむのを感じて、思わず口に出した。
「崖?」
 オスカーの蒼い目が光った。よく光る目に凝視されてセイランは微妙に視線を避けた。
「ああ、まあ、病気じゃないのは確かですから」
「崖がどうしたって?」
 組んでいた腕をほどき、オスカーが長い腕を伸ばしてくる。避けた視線を引き戻すように厚いてのひらがセイランの顎にかかり、自分の方を向かせた。それほど乱暴にされた訳でもないが、有無を云わせない力が籠っている。
「崖の前で眠ってたんです。倒れてたんじゃありません」
 セイランは苛立ってオスカーの手を押しのけた。
「やめて下さい」
「眠ってた? 嘘をつけ。俺が行った時の顔色は尋常じゃなかったぞ。真っ青だった」
「嘘じゃありませんよ」
「セイラン」
 最後の呼びかけに、セイランはふと獣の唸り声を連想した。もっともこの聖地にきてから、ついぞ肉食の獣など見たことはないし、実際に存在する訳でもないのだが。そういった意味でもここは異常な空間だった。小鳥や蝶がいるのに、ここには食物連鎖がないのだ。(彼にはそれは、一種気味が悪く思える部分だった)
 この傲慢な、だが陽気で面倒見の良い、フェミニストの男の中に隠れた肉食獣だ。威嚇するような獰猛なニュアンスを、オスカーは巧みに、短い呼びかけの中におり込んで見せつける。そして獰猛な顔を覗かせたときのオスカーは酷く美しいのだ。自分が彼にあらがえないのはそのためではないかと、セイランは思う。
 彼は息を吐き出した。
「高いところが苦手だって云ったでしょう」
「……ああ」
 それがどうかしたのか、というふうにオスカーは聞き返した。そうだろう。
 セイランは内心毒突いた。本当なら、この男に高い場所や暗闇への恐怖心を説明したところで無駄なことだ。
「そうです。ごく小さかった頃、霧の闇夜に崖から落ちたことがあって」
 自分の声が機械的な金属の響きを帯びるのをセイランは感じ取った。
「足を折って動けなかったんです。落ちたのは深い沢の中で、全くの暗闇だった。一晩その中で過ごしましたよ。探しに来る人もいなかった。その沢の中で足を喰われたんです」
 さしものオスカーが愕然とするのを見て、セイランは自虐的な満足感をひそかに噛み締めた。
「何に?」
「……さあ、暗かったですから。僕の星はね、本星と違って太陽を見ることの少ない星です。海より沢や川、湖が多くて、起伏の激しい、湿気の多い土地です。そういう星にしか棲まない獣や生き物がたくさんいる。そういうもののうちの何かだったんでしょうね」
 小さな生き物だった。無数に群がって来た。水の外には出て来られないようだった。光る目がセイランを見ていた。彼が水の中に倒れ込んで全身をひたす瞬間を待っているようだった。子供のおぼつかない手で懸命に岩を掴み、汗と涙にまみれて激痛に耐えた。倒れ込んだら最後、全身を喰われてしまうだろう。
 現に一晩かけて、両足の足首から下を、そいつらはほとんど食いつくした。
 足首は、本星の医師が傷跡もなく綺麗に再生してくれたが、傷が残ったのは、むしろ身体にではなく、こころの中だった。
「それ以来、高いところに上がると、たぶん怖いんでしょうね、無意識に逃げ出そうと思うのか、目の前が暗くなる。最近よく眠れなかったし、聖地を見渡してみたいとも思ったから、睡眠薬代わりにあの崖に」
 セイランは挑戦的な気分でつぶやいた。
「よくききましたよ、たちまち起きていられなくなった」
 昼と夜とが入れ替わるように暗くなり、心の中に闇と眠りが訪れる。
「それは眠ってるとは云わないだろう」
 オスカーの声からは、すでに動揺は消えていた。思案するようにセイランの座る寝台の、彼の傍らに腰を下ろした。もの云いたげな光がその薄蒼い目の中に表れている。彼が何を考えているのかを計りかねてセイランは苛立った。
「珍しくもない話でしょう。軍人であちこちの星を駆け回ったあなたなら、もっと悲惨な物事も見聞きするはずだ」
「それはそうかもしれんな」
 オスカーは肯定した。
「だが、いくら見聞きしてもそれに慣れるということはないぜ。慣れていいものでもない」
「……もちろん、それはそうでしょうね」
 セイランは肩をすくめ、立ち上がった。
「よけいな話をしましたね。……でも云わせたのはあなたですよ、オスカー様」
 身仕度しようと、長椅子の上の自分の服を取る。
「着替えたいんです。部屋を出てもらえませんか」
 ふっと背中から熱が吹きつけるように思ってセイランは振り向こうとした。白い絹に包まれた彼の胸の前に長い両腕が伸びて来て、彼は背中から抱きしめられた。
「オスカー様」
「よく眠れなかったって? セイラン」
 オスカーのアクの強い声が囁きかけてくる。セイランはぞくりと体を震わせた。いったん馴染んでみれば、あんな打ち明け話の後でもぬけぬけとこんな悪戯をしかけてくる、この男の動じない神経は好ましいとも云える。少なくとも同情されるよりはましだった。
「どうして俺に云わないんだ?」
「一人で静かに眠りたいんです。添い寝してもらわなきゃ眠れない年でもないですから」
 オスカーの熱いてのひらが頬に触れて、彼はゆっくりと振り向かされた。
「……よく眠ってたじゃないか」
 その台詞はほぼ唇に重なった。熱い舌が絡んでくる。唇の内側に炎を飲み込んだようだ。セイランは目を閉じて、渦に巻かれそうになる己を支えた。胸を押し返した。
「大丈夫だ、いくら俺でも、ジュリアス様のお宅でこれ以上の悪ふざけはしないさ」
 セイランを身体ごと振り向かせて腕で包み、そっと唇を重ねた。今度は深い口づけにはならなかった。
「俺の家に来るか?」
「悪ふざけの続きですか?」
 思わずセイランは笑う。陰惨な力の片鱗を見せつけることもあるのに、この男のあっけない明るさはいったいどうしたことだろう。皮肉にゆがんだ気分が薄らいでくるのを感じる。セイランは安らぎたいなどと思ったことはない。むしろ、闇や高所を恐れる自分の許容量の狭さ、痛めつけられた心の回復の遅さに苛立つことこそが多かった。この男の炎は確かに明るい。反発を感じるが暖かい。
「よく眠れるようにな」
 オスカーの腕をとって、セイランは部屋から押し出すような素振りを見せた。
「おうかがいしましょう」
 そうして片手を上げてドアの外に消える男を確かめ、泣きたくなるように清廉な白い絹を、肩から滑り落とした。

 そうして彼は結局、この部屋に訪ねてくる。この男とは顔を合わせるたびこんなことばかりだ。気持の上ではかすかな冷笑混じりに、セイランはオスカーに手渡された杯を受け取った。青蓮紫色のガラスに金の飾りを施したグラスには、ルビー色の酒がたたえられている。気付けのつもりだろうか。
(病人扱い、というわけでもなさそうだな)
 一口味わってみて思う。それはむせ返るように濃厚な酒だった。火酒、と云ってふさわしいような熱が喉で燃え上がる。
 オスカーは自分も同じ酒をグラスに注いで、それがあたたかな真水であるかのように、あっけなく飲み干した。寝室の半ば開いたカーテンの向こうから、赤く染まり始めた空が垣間見える。すでに早い星が光り始めている。セイランの胸の中に、かすかに敬虔な感情がきざした。これは習慣のようなものだ。彼はそれを儚いガラスの破片のように胸の内から払い落とした。
 目を星から背けると、漆黒や昏い緑、深海のような群青に彩られて重厚に沈んだオスカーの部屋の居住まいが目に飛び込んでくる。何度訪れても、このイメージの暗さはセイランにはいささか意外だった。この男が、寝室を安らぎの場所などと思っていないことが解る。あのジュリアスの部屋の蒼白な潔癖さも異常だが、この男の暮らす環境の昏い色味も、本人の印象とは掛け離れて、どことなく不安をかきたてられた。
 暗く沈んだ色合いが、むしろこの炎のような髪をした美しい男の、旺盛な性向や荒々しい性分を、生々しくにじませているように思えるのだ。
 オスカーはかたわらにグラスを置いてセイランの隣に座ると、彼を抱き寄せて唇を重ねた。いつも戯れるように口に出す軽口もとぎれたままで、セイランはその腕の優しみに、むしろ羞恥を覚えて薄く紅潮した。
 唇を重ねたまま、オスカーのてのひらが肩口を撫でている。てのひらに触れられた肩が熱い。服越しに肩の皮膚とてのひらとが熔けて癒着するような錯覚がある。
 早くも彼が側にいることに慣れ始めた自分を、セイランは皮肉な気分で眺めている。聖地に来てまで、人と人との関係を切り離せないとは思わなかった。むろん、切り離せないのは自分に原因がないわけではない。オスカーだけに押しつけるつもりはない。心の中の嘲笑のゆきさきは、むしろ、こうして男の寝室にやってきて、抱き締められている自分だ。
 あの谷底の浅瀬の中に、セイランは人を求める気持ちを全て置いてきてしまったような気がしていた。神助にすがる信仰も、人間関係に情を求めることも、小さな牙に咬み取られておびただしい血と共に流れて行ってしまったと思っていた。
 だが、そうではなかったのだ。
 手際よく服をはだけられ、胸元をくつろげてオスカーの唇がじかに触れてくる。てのひらはそう焦るようでもなく、セイラン自身の欲望を暴いて行った。服を脱いでしまえば、そこに隠しようもない昂奮のしるしがある。
 脚の付け根の、薄くはりつめた皮膚の上に口づけられて、背筋がびくりと跳ね上がった。思わず閉じ合わせようとした両腿をてのひらでひろげて、セイランの高揚の上に、オスカーの唇が落ちてきた。セイランは、すでに馴染み始めた羞恥と快楽の、灰色の渦に巻き込まれる。熱く濡れたものが自分をからめ捕って動くのを感じる。
「あ、あ……オスカー様……っ……」
 喉から叫びが漏れた。声を出さなければいられないような快感がつきあげてくる。あたたかな刺激がしたたって、彼の快楽を痛いほど強張らせた。唇の内側の複雑な構造がセイランを追いつめて、全身を汗に湿らせた。
 愛撫の途中に相手の名前を呼ぶのは嫌だ。ねだるように思えてあさましい。だが、沸き出すように、自分の唇がオスカーの名前を呼んでいる。抱え込まれた太腿がオスカーのこめかみをしめつける。腰が浮き上がる。腰骨にオスカーの指が食いいった。それが衝撃に似た快楽を継ぎ足して、セイランは甘い叫びを漏らした。自分がひどく醜悪に思えて、胸に、針で突いたような黒い羞恥の穴が開く。しかしそれはすぐに真っ白な快楽に塗りつぶされる。
「も、や……」
 やめてくれ、と云いたいのに言葉にならない。声を出せないような快楽を味わうのは、セイランにはこの男が初めての経験だった。涙が頬を流れ落ちる。いつの間にか彼の内側に指があることに突然気づく。注意をうながすように揺らされた指は、彼の快楽をかき混ぜるようにして動き始める。
 歯を食いしばろうと思うのだが、顎を咬み合わせる力が入らない。閉じられない唇の端から細く唾液がしたたった。
 真っ白に灼かれながら快楽に耐えるうちに、オスカーの腰に深く割られて、朦朧としたまま、熱と疼きに似た痛みを己の内側に迎え入れたことを知った。
 浅く苦しい息を繰り返しながら、セイランは、自分と、自分を抱きしめる男の心音が熔け合って、体内を流動してゆくのを感じている。
 心を巻き溶かされる感触があった。

「何故黙ってる?」
 深い青の夜空を背に、彫像のように整った男の輪郭が見下ろしている。オスカーはもう硬質な服を身につけて、すでに熱く乾いたてのひらで、セイランの裸の肩を包む。
「特別話すようなことがないだけです」
 平素と変わらない尖った言葉に、オスカーは笑う。だが、心なしか声に力が籠っていないようだ。まだ全身が快楽の余韻を残してけだるい。
「カーテンを閉めて下さい」
 不意にそう云ったセイランの言葉に、ひとまずはオスカーは従った。
「誰も見てやしないさ」
「僕から星が見える」
 セイランは無愛想に答えた。
「星は嫌いか?」
「あなたは好きですか?」
 オスカーは逆に問い返したセイランの言葉に笑ったようだった。
「戦場では道標になるし、人と見上げる時には格好の話の材料になるがな。……俺は別に好きでも嫌いでもない。そこにあるだけのものだ」
「こうしている一瞬の間にも、あの星の上で幾星霜かと思うと、変な気分ですよ」
 セイランは口をつぐんだ。彼の故郷では星への信仰がある。星を祭り、祭祀をとりおこなう神殿もある。おそらくこの聖地を抱く本星の存在から根ざしたものだろう。本星にも星祀神殿を擁する国は多いが、星祀神殿に限っては他の星の発生が先であった。星祀神殿は数百年前、新興宗教的に本星に流れ込んできたのだ。
 濃い霧と雲に厚く覆われ、滅多に星など見ないセイランの郷里。道々は深く苔に包まれて、ねじくれた黒い木々が群生する。そして時たまその黒い枝々の透き間から、遠く白く輝く本星の姿を視る。
 子供だった彼が、真っ向から神の存在を否定した頃、この本星の上空に横たわる聖地の存在を知った。本星に来て脚の再生の手術を受けた時のことだった。
 老いない女王、天地の力をあやつる守護聖たち。選ばれて聖地に上がる特権階級の『神々』。
 その存在を知った時の、復讐心に似た黒い心持ちを忘れることは出来ない。彼の創造の力が認められ、いかに紫綬褒章が降りそそいでもその暗い気持ちは消えなかった。今の彼は変わった。実態のないものを憎むことは或る生においての損失だと思うようにもなった。だからこそ、女王候補の教官として声がかかった時は、皮肉交じりの、しかしなおかつ熱烈な興味を持って引き受けたのだ。
 しかし複雑な感慨を持って己の姿をかえりみずにいられない。
 幼年時代を覆った黒雲の裂け目から臨んだ、あの神の星に今、自分はいるのだ。

 朝靄の中を歩きながら、セイランは薄青い大気のなかに静かに浮かぶ木々の輪郭を眺めた。確かに聖地は美しいところだ。まだかすかに黒ずんで浮かぶ梢の向こうにほの白い双月の片方が優しくかかる。そこでセイランは足を止め、オスカーの私邸を振り返った。
 彼の云う通り、よく眠らせてもらった。
 あの谷での出来ごとを、敢えて人に話して聞かせたのは初めてだった。話したのがあの男で良かったのかも知れない。同情するようなことも云わなかった。妙に無関心でもなかった。話が耳に残っているしるしに、セイランの足首に繰り返し唇を押しつけた。歯を立てた。彼がそれに恐怖を覚えると知って、なおさらにそれを繰り返し、そのくせ、セイランの震える指を優しく握り込んだ。
 瞬間、彼の指先に、熱く汗ばんだてのひらの感触がよみがえってきた。
 妙な男だ。変わっている。
 まさか守護聖の中にあんな男がいるとは思わなかった。おそらく守護聖たちの中でも変わり者なのだろう。
(変わり者っていう意味では、きっと僕もそう思われてるんだろうけど)
 迎合してまで人に好かれたいとは思わない。母星にいた頃に親しくしていたある男が、それはセイランの傲慢だと云った。
(「君は本心では、愛されることを望んでいるんじゃないのか? そうでなければ、どうして表現者としてずっとあり続けることなんて出来るだろう」)
 彼がそう考えることは理屈では解るが、やはり、彼は自分の尺度でしかものを見ていないと思った。なぜセイランが自分だけのために表現しているという発想がないのだろう。彼の云ったことは真実かもしれないし、的はずれかもしれない。それは分からない。『たったひとつの真実』などというものはないのだ。自分自身に答えを出すことなど人の身には不可能なことだ。だが、他人に決めつけられるのはなおさら不愉快だった。
(ああ、でも、愛されなくてもいいから、愛する対象は欲しいかな)
 あの執着という奴は結構いい。
 首筋に小さな痛みが走ってセイランは足を止めた。何だろう。指先でそこに触れてみて、彼は苦笑した。鏡がないから確かめることは出来ないが、ここにはおそらく、あの男の降らせた接吻の跡がある。
 人に執着するという感情は悪くない。細胞を活性化させて、興味対象を固着させる。視野が狭くなって、言葉が絞り込まれてくる。セイランの中でそれはひとつの『発想』になる。最初、この聖地にやってきた時、新宇宙の女王候補に選ばれた少女たちに彼は興味があった。自分の周りに蜜蜂のように群がってくる女たち────彼は自分がある種の人間にとって『蜜』であるという事実を否定するつもりはない────と、どれほど違うだろう。
 彼は自分の感情を、女王候補という特殊な立場の人が縛りつけてくれることを期待していた。がんじがらめになって、目も開けていられないような輝きの渦に巻き込まれることを、どこか期待していたのだ。
 アンジェリークという少女は、彼の気にいった。彼女は、幼いころ抱いた「神の星」のイメージにどこか迫る。宝石のような碧翠の瞳で彼を見た。薄赤い唇を結んで、彼の皮肉に応じた。君、本当に女王候補? と皮肉に投げかけると、そうでなかったら、貴方とお会いすることはなかったと思います、と気丈に投げ返してきた。ちょっとした冗談や、引っかけのキーポイントも取り溢すことなく、臨機応変に受け応える聡明な少女だ。よく磨いた赤銅のようなストロベリーブロンドが、白い皮膚によく映える。もう一人の女王候補のレイチェルも、長身に美しいダーティブロンドで、ひどく癖のある天才肌だった。聖地中、どこを向いても不自然なほど美貌の人間ばかりがぞろぞろと集まって、しかも彼らはすべからく『能力者』なのだ。
 誰が彼の気持ちをからめ捕って行っても不思議はない、特別な光に満ちた場所だ。
 セイランは偶然、あの天敵ともいえるジュリアスが光のサクリアを操るところを見たことがある。光の雲のような髪に囲まれた長身の男の体は、天に向けてさしのべた腕を中心に、突然、目のくらむような光気に包まれた。真っ白にまぶたを灼くほどの光の靄のなかで、海のように蒼い瞳がゆるやかに開かれた。セイランは、ジュリアスの瞳がこの世ならざるものを見ているのを感じて、自分の全身が震えたのをよく覚えている。
 聖地にいるのだということが身に迫ってきた。創世の瞬間に立ち合った物言わぬ獣のように、彼は震えて膝を折った。はからずも祈るような姿勢で光の中のジュリアスを見守った。
 そのころ敬虔な気持ちにもなったのだ。自らの務めを果たし、新しい宇宙の誕生の瞬間に、粛々と立ち合おうと、彼らしくもない謙虚な気持ちになっていた。
 そこにあの男は、火の雨のように降ってきた。
 セイランは健気な人が嫌いだ。人を愛する準備の出来た人間もだめだ。傲慢な人も泣き暮す人も、己の苦しみの中に沈みすぎる人も、智や権力に溺れる人もどこか醜い。
 だが、オスカーという男が、自分の思うところの美しい人間の条件を備えているとでも思っているのだろうか。自分はそれほどまで盲目的にあの男に魅かれているのか?
 そう考えると少し可笑しい。聖地に閉じ込められて、すでに、多少視野がせばまっているのかも知れない。
 セイランははっとした。
 後ろから蹄の音がする。たった今出てきた館から誰かが馬を駆って出てきたのだ。振り返ったが、まだ薄ぐらい森の木立に隠れて、馬の姿は見えなかった。だが、それはあっという間に木々の間を曲がり込み、彼に追いついてきた。
「おはようございます、オスカー様」
 数日前に云ったのと同じ云い回しでセイランは皮肉たっぷりにつぶやいた。
「今日はずいぶんとお早い」
「お互いな。朝の散歩か?」
「ええ。……云っておきますが、乗馬のお誘いならごめんですよ。まだ身体があちこち痛むんです。どなたかが加減知らずだから」
「その度に、暗い中を延々と歩いて帰るっていうのは、粋狂の域だぜ」
「粋狂でなければあなたのお宅にもお邪魔しないでしょうね」
 セイランは肩をすくめて見せた。知らず、初対面のアンジェリークが自分の皮肉に応戦した時と同じような答え方になった。
「街に行かないか、セイラン」
 彼の嫌味を軽くかわして、オスカーは馬上から彼の顔を覗き込むようにした。オスカーの髪がまだ沈み切らない月に照らされて赤く輝く。セイランの星の月は、日が満ちてくると、独特の赤い色に染まる。満月の折の母星の月を思い出して、ふとその髪に見蕩れた。
「街だって?」
 夢から覚める思いでセイランは声を上げた。
「……女王試験の最中は、僕たち教官は聖地を出てはいけないことになってると思いましたが」「何のために?」
 オスカーの声は屈託なく朗らかでさえある。
「いくら試験中でも、一日やそこら姿をくらましたところで、そのあと充分女王候補のお相手が出来るぜ。そうだろう?」
 馬上から彼を見下ろすオスカーは、私邸で過ごす時にはたいがいそうであるように、真っ黒な服に身を包んでいる。彼の堅く鍛えた長身も、射るような目の光も、平凡な人間には程遠いが、こうして見ると聖地に住む守護聖にも見えない。無鉄砲に星間の戦場を飛び回る、士官クラスの若い軍人といったところだろう。
 彼の呆れた顔を見て、オスカーは口許の片端をにやりと上げた。
「掟を冒すのは怖いか?」
「いいえ」
 セイランはおそらく初めて、オスカーの前で歯を見せて笑った。あきらかに気持ちが浮き立つのを感じた。
「規則破りは大好きです」
 支度をしてきますが、送って下さらなくて結構。一時間後に迎えに来て下さい。そう言い残して手を振り、彼は学芸館の中の自分の部屋に向かった。

            3.
      
 聖地の西側に『門』はある。聖地を昼と夜とに分ける恒星がゆっくりと東側からのぼるのに背を向けるようにして、オスカーの馬は門を駆け抜けた。
 門を一歩抜けたとたん、目の前で空がぐらりと歪んだような錯覚を覚える。錯覚ではなかったのかもしれない。聖地と外界の時間の流れは、女王試験の期間調節されているとはいうが、それでも聖地は、女王の不可視の光芒の発信地だ。根本的に下界とは異質なのだ。
 外界と聖地の間には、紙よりも薄い『虚』の膜のようなものが張られていると聞いたことがある。その膜をつき通してあまねく宇宙に行き渡るのが女王の力だ。そしてそれを易々と破って外界へ渡る力をもつのが守護聖の九人の男たちということになる。あらゆる意味で全くの生身のセイランが、その歪みの合間を通る時、何の変調もきたさない方が不自然だ。
 気がつけばオスカーの馬が、本星を照らす曙光の中で、中天に浮かんでいることに気づいて、セイランは息を詰まらせそうになった。考えられない高所への恐怖と、天に浮かぶものへの奇妙な畏怖が、暗闇に似た触感で喉の奥から込み上げてくる。ひどい眩暈が起こり、彼は自分を支えるオスカーの腕に身体を重くもたせかけた。
 オスカーは彼の変調に気付いたようで、力の抜けた彼の体を抱いた腕に、かばうような力を込めた。熱い手が、ゆっくりと背中を撫でる。まだ馬は地に降り立つ様子を見せない。中空を走っているようだ。頬を叩く風にそれと知って、セイランは堅く目を閉じた。この男はひとではないのだ。聖地にいる時は感じなかったことだが、外界の大気の中にいると、彼の身体から、魔物めいた精気がにじんでいるのが分かる。
「気分が悪いか?」
 オスカーがささやいた。
「……少し」
 セイランは力ない小声でつぶやいた。虚勢を張る余力もない。
「もうしばらく我慢しろ。半時もしないうちに降りる」
「半時ですか……」
 げんなりしてセイランはため息をついた。早まった鼓動がおさまらない。息が苦しかった。軽い吐き気が込み上げてくる。頬の熱い感触に目を開けると、オスカーのてのひらが頬を包んでいる。てのひらは、セイランの冷たくそそけだった頬を包み、次いで彼の鼓動をなだめるように首筋に触れた。冷えた皮膚がてのひらの熱さに馴染むと、吐き気はゆっくりとおさまり始めた。血の流れがこごったようになっていた背筋が暖かくほどけ、身体の力が抜けた。
 彼はいつの間にか馬上で眠ってしまったようだった。

「セイラン、起きろ」
 目を開けるとほの明るい街はずれに彼らはいた。不思議になだらかな稜線をえがいた高山のふもとに横たわった大きな街のようだった。街の西側に、山道につながる数筋の道があり、その道筋のひとつにオスカーは馬を止めていた。明け方の光は山岳とそのふもとを染め、石造りの建物の立ち並ぶ街に不可思議な陰影を与えている。
「降りられるか?」
「大丈夫らしいですね」
 応える声が心なしか弱い。オスカーの手を借りて馬を下り、地面に足をつけるとほっとした。オスカーは手綱を取って歩き出しながらセイランをかえりみた。
 オスカーはにやりと笑った。 
「……子供みたいな顔をして眠る」
「……」
 この男相手には何度目の経験になるか分からないが、セイランは言葉を無くした。何か云い返してやりたいが言葉が浮かばない。まだ高所を揺られた衝撃が身体中に重く残っている。仕方なく、彼はその言葉に対して噛みつくのを諦めた。
「この街は?」
「クシャンだ。聖地の門を潜ってすぐ下に降りれば、本星の太陽の南側の大陸に出るが、ここはそこから東側の大陸の中心の街になるな。ここら辺はお前の母星と言語系が似てる。それほど不自由はないと思うぜ」
「それはお気づかいをどうも」
「すぐに宿を取って、一眠りしてから街に出るか」
「……」
 セイランの沈黙に不信を感じ取ったのか、オスカーは笑った。
「疑ってるのか、セイラン。いくら俺でも、こんな時にまで妙な気を起こすわけもないだろう。せっかく下に連れてきて、お前がばてちまったんじゃ俺もつまらないからな」
「どうでしょうね。……二人きりで、何もなしに帰して頂いたことがここしばらくなかったもので。つい疑ってしまって、失礼」
「嫌だったのか? そいつは気がつかなかったな」
 オスカーはこともなげに町中に入って行く。振り返る。笑う。
「望まれて、それが自分の望みと一致すれば、熱心にもなろうというものさ」
 セイランは苦笑した。
「ご勝手に」
 オスカーは宿を一軒選んで入り、主人を起こした。
「これは赤毛の大将。見限りだったじゃないか」
 血色よく太った主人は、気安くオスカーの肩を叩いた。明け方近くに叩き起こされたことなど気にしないように、眠い目をこすりながらも笑っている。
「俺も何かと忙しくてね」
「そうだろうよ。この街にいればまた忙しくなるぜ。ナンガンの店の女が、寄ると触るとあんたの噂だ。もう一年半になるだろう」
「今回は連れがいるからな、せいぜいおとなしく飲んで帰るさ」
 主人は伸び上がってセイランの顔を見た。
「お連れさんはどういう人で?」
「同僚だよ」
 オスカーが云うと、主人は感心したような声を上げた。
「へえ、この別嬪さんがねえ。こんな細腕で剣なんか振り回せるのかい」
「見くびるとひどい目にあうぜ。これでなかなかのものなんだ」
 部屋の鍵を受け取ると、主人に馬を委ね、二人は石の階段を登り始めた。
「人を肴にして何を」
 セイランが文句を云うと、オスカーは笑った。
「まあ、そういうな。お前も俺もたぶん目立つんだろう」
「ずいぶん馴染んでおられる様子ですね」
 セイランはこたえないのを承知で皮肉った。
「女王試験中でない時は、週に何回かは下界に出るんだ。普段は数日いたところで、あっちじゃ何時間もたたないからな。……それどころか、一週間以上行かないと、下手すると下界では通貨も変わってしまうことがある」
「そうでしょうね」
 セイランはこわばった身体を伸ばした。
 石の階段の途中に据えられた窓の外を見ると、視界は見渡す限りの薄紫の光に包まれて、明け方から朝に移ろうとしている。
「あの音は?」
 セイランはふと、遠くで鈴の房のようにぎっしりと鳴り続けているものに耳を澄ませた。それは烈しく哭きたてる虫の音にも似ている。ただもっと乾いていて、それを聞く耳元やこめかみに、煩雑なきらめきを撒き散らした。オスカーは意外そうな表情を見せて笑った。
「お前の故郷にはいなかったのか。あれはセミだ。この国の古い言葉で、世界の中央にそびえる山、という意味だそうだ」
 世界の中央にそびえる山。
 その言葉の持つ宗教的な余韻は、その窓からも見える薄紫色の山の稜線と相まって、セイランの中に深い印象を残した。
「まだ眠れそうか?」
「おかげさまでね」
 そう答えながら、セイランはオスカーが隣で軽い欠伸をかみ殺したことに気づいて可笑しくなった。この男でも人並みに疲れるなどということがあるのか。いつも彼はあまりにもタフで精力的だ。そういえばセイランはこの男が眠っている姿を見たことがない。
 オスカーが借りた部屋は、殺風景で清潔な床板の上に、大きな寝台の置かれただけの部屋だ。セイランは一目見て嫌な顔をした。
「もしかして貴方と休むのかな、僕は」
「いつもそうなんだし、構わないだろう」
 オスカーはにやりとした。
「セイランが俺と一緒だと、意識して眠れないとでも云うなら別だけどな」
「いちいちうるさい人だな」
 セイランは眉をひそめた。
「貴方が寝かせてくれるならいつだって眠れますよ、おあいにくさま」
 セイランは自分から部屋に入り、よろい戸を開け放った。朝の空気が流れ込んできた。西北に面した窓からは、街のもう一方の風景が見渡せる。すぐ側にも小さな灰色の家が、そして道を隔てて西側いっぱいに立て込むようにして、小さな石の家が並んでいる。思いのほか大きな街だ。灰色の家々の壁を画布に、朝の光が一片の優しい筆を添えている様子をセイランは眺めた。
「あれは何ですか?」
 町はずれにひとつ、崩れかかった異国調の石の建物が建っているのに気づいて、セイランは、すっかりガイドにするつもりのオスカーを振り向いた。
「どれだ?」
 主人の運んできた水差しから水を飲んでいたオスカーが近寄ってくる。
「あれは星祀神殿跡だな」
「跡?」
「もう星祀神殿を奉る者は、この街にはほとんどいないんだ。ことに今の女王陛下が聖地に昇られてから、本星のどの大陸でも自然崇拝がすたれる傾向にあるようだな。かといって壊されるでもなく、ああして段々朽ちていくんだろう。……哀れなものだな」
 オスカーの声に、意外な感慨が籠もっているように感じて、セイランは興味を引かれて彼を見た。しかし、オスカーの薄氷色の瞳の底に、普段と変わった様子は見いだせなかった。
「貴方なら知ってるでしょうけど、僕の星では、星祀がもっとも浸透した信仰なんです」
「そのようだな」
「でも、それは、本星を奉じる気持ちから生まれたものだ。……本星で星祀が定着しないのも分かる気がするな。何しろ、本星には頭上にあの聖地があって、女王陛下や守護聖の方々がいらっしゃるわけだからね。……」
 思わず本音が漏れてセイランは苦笑した。
「その守護聖様がこれほど個性的とは思いもよらなかったけどね」
「人間が守護聖になるからこそいいのさ」
 オスカーはどこか意味ありげな言葉を残して、窓に背を向けた。
「……あの神殿は歩いていける程度の距離だ。昼のうちに見に行ってきたらどうだ?」
 頂度、オスカーと行動を別にして神殿のあたりを歩いてみたいと思っていたセイランはほっとしてうなずいた。この街にいる間中一緒にいなければならないとしたら、苦痛だったからだ。オスカーは以前のように一緒にいてただ気楽なだけの男ではなくなっていた。セイランにとって何らかの意味を持ち始めていた。彼はセイランの気持ちをかき乱し、落ち着かなくさせる。
 明らかに天井の崩れた神殿跡を眺めながら、彼は、故郷の星の、陰惨な黒い石で造られて磨き抜かれた星祀神殿を思い浮かべた。薄青く色づき始めた空の下に乾き崩れた神殿の方が、星祀神殿というものに似つかわしく思えた。きっとあのエキゾティックな建物の屋根は口を開け、風雨にさらされた石の床の上に立ったまま空を望むことのできる天窓に変わっているだろう。それ以上のかたちで星を奉ずることができるだろうか。

 オスカーは宿に入る前に云った通り、セイランに触れようとはしなかった。たけだけしく思えるほどの長身を長々と伸ばし、たちまち寝息をたて始めた。
 セイランは眠れずに、半時ほど彼の隣でじっと息を殺して目を覚ましていた。
 オスカーが完全に眠ったと思ったころ、彼は半身を起こして、隣に眠る男を見下ろした。厚く広い、よく陽に灼けた裸の背中が彼の隣でゆっくり上下している。首筋から肩にかけての硬い筋肉が、なめらかな曲線をえがいている。セイランがどんなふうに彼から逃れようとしても、決まって彼を易々と拘束する腕がその肩から続いている。更に、器用に彼の中から快感を拾い出すてのひらと、自分を恥知らずに思うほどセイランを乱す指へ。
 彼はオスカーのうなじのすぐ脇に手をつき、彼の寝顔を覗き込んだ。黒に近い紅い睫毛が、日焼けしたまぶたに添って並んでいる。睫は案外に長かった。その上に暗紅色の眉が男性的に弧を描いている。冷たく整った鼻梁、薄いせいで少し皮肉な表情になりやすい唇。
 彼は見慣れたはずのオスカーの造作を順々に目で追って行った。
 装飾的と云ってもいい見栄えのする男だ。セイランは思った。実際この炎の守護聖は惚れ惚れするほど魅力的な男だった。だが、オスカーの貌が彼に訴えかけるのは、セイランが彼に抱く思い入れのせいだ。草原の星の訛りを残した彼の癖のある声が耳に快いのは。
 冷たい薄蒼の目が自分を狼狽させるのは。腕の熱さが煩わしいどころか、セイランを安心させるのは、オスカーに対して抱く何らかの思い入れのせいなのだ。
 彼は、この男と抱き合わずにただ隣り合わせて眠ることに、不用意に幸福になった自分を責めた。
 オスカーの方では違う。
 この男は、セイランの容姿が気に入ったから手を伸ばしたのだ。何度も美しいと云った。宝石が似合うと云った。セイランの瞳を高価な石に例えた。自分が美しいことくらいは彼も知っていた。この何年か、他人の言葉が彼の鏡だった。ことにセイランに悪意を持つものの言葉は。
 だが、それはセイランにとって何の意味もなかった。自分が望んで勝ち得たものではないからだ。
 気がつくとセイランの美貌はそこにあっただけのものなのだ。
 オスカーは昨晩、星というものが、そこにあるという、ただそれだけのものだと云った。セイランの容姿はそれと一緒だった。見上げる者がなければ何の役にも立たないものだった。しかも、星のように寿命が永くもなく、言葉の揮う力や、建造物や芸術と違って、魂の永続性のないものだ。
 美しいからといって愛されたら、自分はどうすればいいのだろう。美しくあり続けるための努力をすることなど彼にはできない。衰えていったらそれをつなぎ止めることなどしないだろう。ただ流れるに任せるだけだ。なのに美しいとオスカーに云われて、セイランは苦々しく思いながらも、腹を立てるどころか苦しく胸を締めつけられるのだ。まるで恋をしているように。
 彼は上掛けを上げてもう一度寝具の中に潜り込んだ。目の前の背中に浮かんだ貝殻骨にそっと指を触れて、やけどを負った気分で指を引いた。オスカーの皮膚は、朝の冷えた空気に裸で晒されても熱かった。眠っている男の背中に触れようとする自分がいかにも陳腐で嫌だった。
 彼は眠りの中に入るべく目を閉じた。
 義務や平等や朗らかさを愛する気持ちは、少なからず彼から失われていたが、しかしそれを恥じる気持ちは、渾然一体となって彼の中に生き残っていた。しかも眠りの闇は彼の恥じ入る心を最もいきいきとえがき出すカンバスだった。
 この寝台の中には、鋭い恥の刃と甘さが同居している。
 だが、セイランが認めまいとしている感情を手放すよりは、嫌悪と恥の海を訪ねた方が、結局は彼にとって都合がいいのだ。
 セイランが、自分がものを創ることに貪欲であることを思い出すのは、まさにこういった瞬間だった。

 オスカーは彼よりも先に目を覚ました。セイランが眠りから覚めて起き上がった時、オスカーはすっかり身仕度を済ませ、窓際の椅子に腰を下ろして、外を眺めながら、紙で巻いた煙草から煙をくゆらせていた。聖地では彼が決して見せない姿だ。ポーズは堂に入って、そうしていると彼はいかにものびのびとリラックスして見えた。彼は肩から、いつもつけていた重々しい止め金のマントをはずしてしまっていた。街をうろつく若い男が着るような、簡素な黒い服を着ていた。オスカーのしなやかな胸回りや長く伸びた強い背中、鞭のような身体つきが剥き出しになって、彼は満ちたりた獣のように精悍だった。
 セイランは目覚めたばかりの不機嫌を隠さずに身仕度をした。日は高く昇り、疲れた目にしみた。
 顔を洗うとようやくさっぱりして、口をきく気力が沸いてきた。オスカーは彼が口をきくまで全く構おうとはせずに黙って窓際にいた。お陰でセイランは久しぶりに一緒に眠り、一緒に目覚めた相手にわずらわされずに済んだ。ただ、時々オスカーが彼に面白がっているような視線を送ってくるのには気がついていた。
「今日のご予定は?」
 寝台の上に腰を下ろして、セイランは尋ねた。
「資金稼ぎに賭場にでも行くかな」
 オスカーはここしばらくの行動にまして、守護聖らしからぬ台詞を吐いた。
「この上カジノですか。やれやれ」
 セイランは肩をすくめた。
「ジュリアス様に全部云いつけてやりたいね」
 オスカーは妙な顔になった。この男にも人並みの弱みはある。ジュリアスが絡むといつもこんな顔になるのだ。
「セイランは来ないだろうな?」
「行きません。僕は朝食はいらないから、すぐに出かけていいですよ」
 彼は開け放った窓から、先刻よりはるかに明るく空に映える、星祀神殿の廃墟を見た。崩れかかった石は陽光を受けて白く輝き、そこを何かひどく潔癖で意味あるもののように見せていた。
「神殿の跡に行くのか?」
「そうしようと思ってたところです」
 セイランは身を乗り出して目を細め、陽光の中の神殿の足許に横たわる緑の丘を見分けた。
「……綺麗だな」
 そうつぶやく彼をオスカーは不思議なものを見るように見た。そしてセイランには意味の分からない微笑を見せた。それが不必要に優しく思えてセイランは不安になった。
 こんなふうにオスカーに微笑されるいわれはないと、彼は信じていたからだ。


 オスカーと別れて宿屋を出ようとしたセイランは、宿屋の主人に呼び止められて足を止めた。
「馬も無しにどこにおいでなさるんです」
「星祀神殿へ。歩いていける距離だと思ったけど」
「神殿跡まで行くなら、あそこらは物騒だから、これを持っておいでなさい」
 そう云って主人は、彼の掌に厚手の布でくるみこんだ小さなものを手渡した。
「……?」
 広げた布の中から現れたのは、小振りで銃身の短い、銅色の銃だった。服の下に着けてもほとんど分からないほどの小さなものだ。セイランは眉をひそめた。
「あの人に云われたんですか」
 オスカーがまだとどまる上階の小窓へ向けて顎をしゃくると、主人は肩をすくめて笑った。
「お見通しで。大将が、自分が渡したら持って行きやしないだろうってね」
「あいにく、誰に渡されようと関係ありませんよ。銃は大嫌いなんだ」
 彼は主人の手元にその小さな重いものを押し返した。
「僕はいらない。……神殿跡が物騒というのは?」
「ただでさえ壊れた家なんてのは気味の悪いもんでね。それが異教の神殿ともなれば尚更さね。ああいう薄気味の悪いようなところに薄気味の悪い人間が群れるっていうのは自然の成り行きなんでしょうよ」
 男は無難な云い方をした。しかし彼の言葉の裏に、星祀神殿の付近に無頼のやからが巣くっているのが伺えた。セイランはふと、聖地に入ったばかりのころ、ヴィクトールに聞いた話を思い出した。星祀信仰、と名ざしだった訳ではないが、本星に新しく入って来た宗教の名をかたって金を集めている集団がいるということ、女王もその全てを把握した訳ではなく、まだ手の施しようがないとか。
「イヤな話だ」
 彼はつぶやいた。思わず吐き捨てるような口調になった。
「国が荒れるのはまだ理解できる。でも神殿や寺院は手を触れちゃいけない部分じゃないか」「まったくです。まあ、人間ってのはしかたのないもので、国と神殿がくっついて悪さをするようなことも珍しくない」
 セイランはうなずいた。『信仰心』を利用すれば何でもできる。政治で支配するよりよほど簡単なことだ。
 彼は空を見上げた。まだ昼も早い。白い埃を帯びた石の道に陽炎がたちのぼり、水の匂いのする風が吹いてくる。人も少なく、陽が傾くのを町中が息をひそめて待っている印象があった。こんな時間にただ通り掛かる者を見とがめることはないだろう。
「これを持っていきなさい。護身のために持つだけなら、人を傷つけることはそうそうありやしないですよ」
「銃は本当に嫌いなんだ。火薬の匂いが駄目でね」
「参ったねえ」
 大将に叱られちまうよ。そうぼやく男に、ふとセイランは興味を覚えた。
「あなたは? あの人と何かつながりがあるんですか?」
 よく太った四十絡みの店の主人は、意外そうにセイランの顔をちらりと見上げた。
「何年かに一度来るだけの客の全部に、いちいちこんなふうに便宜をはかってやる訳じゃないんでしょう?」
 赤く陽に灼けた、男の艶のいい頬に苦笑のようなものが浮かび上がった。
「おっしゃる通りです。まあ、大将は金離れのいい、有り難い客ではあるんですがね」
 彼は迷うように視線をさまよわせた。セイランの青い瞳と出会って、照れ臭そうに肩をすくめた。これは大将には内緒ですよ、と前置いて始めた。
「あたしが子供のころにね。天馬に乗った紅い髪の神様を見たことがあるんですよ」
 彼は云った。
 セイランは内心の動きが表情に出ないよう、ゆっくりと目をしばたたいた。
 多少皮肉に微笑む。
「天馬とはまた。……」
「お笑いになるでしょうがね」
 主人はそう云いながら自分でも笑った。
「この街はこの大陸の巨きな亀裂の隣にあって、向こうの南半分から北へ渡る入口みたいなものなのは御存じの通りです。おかげでよそ者は絶えないし、嫌な戦いも多かったですよ。もちろん自分らの仕掛けた戦争じゃありません。巻き込まれるんですよ。山と海に挿まれた陸路の地の利がいいっていうんで、よその国の軍隊の通り道になった上に、街を焼かれるなんてこともしょっちゅうあったんです。軍隊たって急造の寄せ集め、山賊と変わりゃしません」
 主人は短くため息をついた。
「あたしが八つのころ、頂度そんなことがあった。子供の頃のことでよくは覚えていないが、このすぐ近くで戦いがあったんです。軍隊が入ってきたのは昼過ぎでしたが、夜には町中がごうごうと燃えていましたよ。乾いた焚き付けみたいに勢いよく燃える自分の家から、子供のあたし一人が命からがら逃げ出して、走ることも立つこともできなくなって、もうおしまいだと思った時ですよ」
 彼は東側の空を指さして見せた。
「あそこらへんの空です。あそこら辺に真っ黒にかかった雲の間際に」
 相変わらず自分を笑うような滑稽な口調をおりまぜながら、目は真剣だった。
「馬に乗った男が浮かんでたんですよ。真っ赤な髪のね。相当に遠い空に浮かんでたっていうのに、その紅い髪の神様の目が蒼くきらきらしていて、ひどく怒ってたのを覚えてます。その時、あたしは分かったんですよ。神様がこの街を焼いたやつらに腹を立ててるのをね。あいつらは天罰を受けるだろうってね」
 セイランの背中や頬が総毛立った。間違いなくあの男だ。オスカーだ。この星に降りた時のことだろう。怒りに薄蒼い瞳を輝かせたオスカーが上空から見下ろす様をまざまざと思い浮かべた。それは炎を背景に、さぞ凶々しく美しい光景だったことだろう。
 そして、自分の想像に刺激されたように、強烈な既視感があった。
 どこかでその光景を見た。神のように降りてくる紅い髪の男を。
 セイランは突如として訪れた、甘苦い空想を振り払い、男をかえりみた。
「彼らは天罰を受けたのかな……?」
「さあ……」
 彼は苦笑した。
「目に見えて何か起こった訳じゃないですよ。地が裂けた訳でもないし、海が割れた訳でもないし。あたしはそのまま気を失っちまいましたしね。でも、この街にはあれ以来、そんなむごたらしいことは一度も起こってないです。あたしは信じてますね。あの神様が何かしてくれたんだって。あたしらの手の届かないところで何ごとかが正されたんだってね。……それから、あたしが女房も子供も持って、いい年になってからですよ。あの赤毛の大将が現れたのは」
 彼はにやにやしながら建物の窓の上を見上げた。悪戯を告白するように声をひそめた。
「似てるんですよ、そっくりなんだ。ばからしいことじゃありますよ。あの大将も一度見たら忘れられないような目をしてるからね。きっと天馬に乗ってた神様に似てるって、あたしが勝手に思いこんじまったんでしょうが。……でもあの大将がこの街に来たのはこの十年に何回でもないですが、不思議なほど老けないお人でね」
 セイランはいらえの代わりにうなずいた。
「あたしはこの通り禿げ始めたし、腹も出てきましたが、大将はあの通りぴかぴかに若いでしょう。疑いたくもなりますよ。おとぎ話だとばっかり思ってた女王陛下が本当にいるなんてのも分かったことだし、世の中ってのは何があるか分からない」
「……」
「まあもっとも大将は、上の大のつく酒好き女好き。およそ神様って柄じゃありませんがね」
 主人の言葉にセイランは吹き出した。
「それはまったくね」
「いつも一人きりでふらっと現れて何日か居て帰る。そればっかりですから、お連れさんがいたのもはじめてでね。またそれが心配そうな顔して、身の周りを気をつけてやってくれなんて云うもんで、あたしもつい余計口をききました」
「……お心づかいはどうも。でもさっき云ったように火器は嫌いなものでね。もめごとを避けながら出かけるから心配には及ばないよ」
 セイランはそう云ってひとりで宿を出た。
 オスカーがあの男に好かれているのが分かる。
 不思議なほどひとを引きつける男なのだ。聖地と下界の時間の流れの違いから云っても、この街に彼が来られたとして何年かに一回ずつだろう。
 彼を見覚えて連れにまで気を使う宿屋の主人、若々しい赤毛の軍人を待ちわびる女たち。
 自分の上にもあの男はその影響力をふるった。
 街の道は広場を中心に、四方に放射し、街のはずれまで石畳を敷きつめて白く広がっている。街をはずれると、西側へは山への道が延び、北は赤土と海の匂いのする砂の入り交じった広々とした平地になる。セイランは溢れそうなセミの声に包まれながら北へ向けて歩いた。
 オスカーの云った通り、この街の言葉は確かに、彼の星の言葉とごく似通っている。おそらくこの地方からの移住者が数星紀前、彼の母星に住みついたのだ。だがこの白く乾いた地と彼の星とは、あまりに印象が違った。
 移住者たちのもたらした、偏った文化の相似があった。
 広々と乾いたこの大陸から、あの深く霧に濡れた星に移り住んだ移住者たちに、抵抗はなかったのだろうか。あんな昏い星に移り住んででも、優先的に暮らせるということや、『先住者』であることに、大きな意味があるのだろうか。
 白い石を敷いた明るい道を幾らもいかないうちに、彼は神殿のある街のはずれに出た。人にはほとんど会わなかった。遠くにある石切り場からかすかに破砕の音が反響してくる。しんと静まり返った真昼の空に、明るく空々しいかろやかさで響きわたっている。
 間近に見上げた神殿の大きさは思った以上で、天井は崩れて欠け落ちているが、丈が高く、人の手がかかって作られたことが分かった。どのくらい前から星祀の信仰はすたれてしまったのだろう。
 彼は神殿の外壁のすぐ下に立って全景を眺めた。青々と濃厚な空の下で、乾いて崩れた神殿はむしろ神々しく思われた。道に敷かれた石とよく似た白い石を積んで作ってあるために、彼の星の真っ黒な神殿とは雰囲気こそ違うが、建物のつくりそのものは似通っていた。
 セイランは道を上り、丘の中腹に位置する入口から神殿の中に入った。されてぼろぼろになった蒼いガラスの、円い星系図が、入ってすぐの小広間の天井にはめ込まれていた。礼拝堂の扉を開けて中に入る。
 外から見える、天井の大きく欠けた部分は、その部屋の天井だった。部屋の頂度中央にふた抱え以上もある穴が開き、真っ青な空を見上げている。祭壇にあたる最奥も、削り取ったように何もなくなっていて、厚く泥が積もっていた。この建物に近づいたとたん、セミの声が聞こえなくなったことにセイランはふと気づいた。この乾いた丘の周辺には、セミも棲まないのだろうか。
 セイランが中に足を踏み入れた時、部屋の奥の黒いカーテンの影から、二人の男が振り返るのが見えた。
「何者だ」
 鋭い誰何の声に、セイランは眉をひそめて沈黙した。信者であれば外来者を拒むのも分かる。
 しかし、この荒れようを見れば、外来者の訪れをとがめられるほどの熱心な信者が生き残っていないのも分かる。
(どう見ても同様の闖入者じゃないか)
 同じ立場の人間に、怪しい者ではないと弁解するのは莫迦らしい限りだ。
 黒っぽいフードのついた長衣を身につけた男たちは二人とも黒髪で、二人並んで立った印象は双子のようだった。黙って左手に立っていた方の一人がセイランを眺め、突然驚いたように小さく声を上げた。
「セイランか?」
「……」
「俺を覚えていないか?」
 セイランはその顔を眺めた。思い当たる顔だった。セイランは頭の中で、ゆっくりと彼の髪を黒髪から青味の強い銀髪にすげ替えた。彼は母星で、セイランの面倒を見ていた政府機関に、同じく頭脳を買われて養われていた男だった。名前は覚えていない。年はセイランよりいくぶん上だったように思う。
「思い出してくれたようだな」
 セイランは沈黙を守った。何を云っても向こうが腹を立てるだろうと思われる言葉しか思い浮かばなかったのだ。名前を覚えるほどでもなかった相手のことだ。好意的な懐かしみなどわいて来ようはずもなく、それを装う気もなかった。
 ふと、宿の主人の云っていた薄気味の悪い連中、という言葉が思い浮かんだ。この二人はいかにもその言葉に当てはまる。
 もう一人の男が彼に、説明を求めるような視線を投げた。
「セイランって名前を知ってるだろう?」
 どういった訳で黒髪に染め替えたのか、艶のない黒の髪が数筋垂れ下がる額の奥で、男の目がかすかに陰惨な光を灯した。
「画家の『セイラン』か?」
 もう一人の男の口調の中にかすかな驚きが入り交じった。
「詩人でもあるな。今は聖地で女王の教官を勤めているとか」
「女王の教官を?」
 ざらりとした響きが付加される。
「それは面白いな」
「……急いでるんで、失礼するよ」
 セイランは相当な努力のもとに彼らへの沈黙を守り、きびすを返した。無事にここを出られるだろうか。礼拝堂の出口まではほんの数歩だった。しかし神殿自体を出るには多少距離があり、また、神殿から街までが遠い。
 彼らから生々しい害意が伝わってくる。女王の名前を聞いた瞬間に見せた反応は、セイランの中で、或る確信につながった。
「まあ待てよ」
 思った通り、男は走るようにして追いすがってきた。
「女王試験中に下界に降りてきてるんだ、別に急いでもいないんだろう。久しぶりなんだ、旧交を温める時間くらいはありそうなものだがな」
 セイランは自分の顔の上に、仮面のような無表情が乗るのを感じた。その表情の冷ややかさが相手を刺激するだろうと知りながら止められなかった。
「あいにく、僕の方には温めたいような感情はないね。そこをどいてくれないか」
 連れの男がにやりと笑った。
「未来の女王陛下の教官をもてなしもせずに返したとあっては、あまりにも礼を欠いた話だ」「どうぞお気遣いなく」
「そう邪険な態度をしなくてもよさそうなものだ。星を主とする我らも、女王に仕える君も、戴くものこそ違え、同じ信仰の徒なのだからな」
 セイランは、自分の中で何かが切れる音を聞いたように思った。
 同じ信仰の徒とはよく云ったものだ。彼らには、見せかけですら、信仰に己を捧げる者の静けさや説得力がない。宗教の信徒も己だけの強引な論を持つことが多いが、この男たちには、盲信という言葉すら似合わなかった。
「それは知らなかったな。星祀信仰は本星ではすっかりすたれてしまったと聞いたもので。……ああ、こんな噂も聞いたことがあるね。信仰の影に隠れて金品を卑しくだまし取り、時には強盗まがいに人を殺すこともいとわない愚劣なテロリスト……」
「貴様」
 顔を見知った男が、かっとなったように彼を睨んだ。もう一人の男からも、手に取って触れそうな重い沈黙が伝わってくる。その沈黙は明確で粘着質な怒りを含んでいる。
 そしてセイランが云ったことが真実なら、男たちの顔を見知っていることはあきらかに危険なことだった。
 セイランはその瞬間、目の前の男の名前を突然思い出した。彼の名はカンジェンと云った。セイランの星の言葉で『空の城』という意味だ。
「天に代わって制裁を加える必要があるようだな」
 男は云った。母星にいたころ、彼はどんな少年だっただろうか。うまく思い出せない。セイランは、自分がまずい状況に追いこまれたことを自覚していた。挑発してしまったことは賢いやり方ではなかったが、しかし、いずれにせよ、女王の教官だと知ったとたん、あれほど強烈な害意を持った相手ではないか。
「それで……? 君が天に創った城は美しいかい?」
 彼がそう云ったとたん、不快な炸裂音と共に、左足にぱっと痛みと痺れが広がり、セイランの何よりも嫌う火薬の匂いがたちこめた。
 彼は瞬間的に立っていられなくなって右膝をついた。顔を上げると、カンジェンのマントの中から、小さな銃口が輝いているのが見えた。空の天井から降り注ぐ光を浴びて不吉に立った二人の男たちは、出来損なって作られた二体の人形のように黒くゆらめいている。痛みは撃たれた瞬間よりも、鼓動ひとつごとに強くなり、放射状に足首を包んで駆け上ってきた。
 前にもこんな光景を見たことがある。……いや、何度も繰り返し見たのだ。母星で、あのいまわしい戦争の最中に。子供が、女が、成すすべもなく男たちの銃口の前で身をすくませるのを。軍靴の下に、地響きを上げる車輪の下に物言わぬあたたかなむくろに変わるさまを。
 彼は子供ではなくなり、女性でもなかったが、あの頃と変わらず無力だった。
 その己の無力にこそ誇りを持って生きてきたのだ。
 しかし、銃口という暴力の前で膝をついた瞬間、逃げることができないと悟った瞬間、自分にできることはあまりに少ない。静かに死ぬことか。もしくは屈せずに強がることか。
 いずれにせよ突然、天から死は降ってくるのだ。
 痛みが背筋に突き上げてくる。足首が燃えるようだ。だが、一晩かけて小動物に両足を食われた経験のあるセイランには、その傷がさほど深くないことが分かった。 
 彼は立ち上がった。
 逃げる努力をするべきだろうか。
『己の星の信仰を捨てて女王に仕えるとは、誇りを捨てたか』
 カンジェンが母星の言葉で、毒を含んだ台詞を吐き出した。奇妙に陰惨な響きがある。セイランは、不意に、彼がこの状況を楽しみ始めたことに気づいた。目の中に汗が流れ込んでくる。彼は目をしばたたいて、視界の曇りを払った。
『銃を持たずには守れない信仰とはどういったものか、教えを乞いたいものだね』
 彼は内心怪訝に思った。自分がなぜこれほど向こう見ずな怒りを抱いているのか、理解しがたかった。こんなふうに挑発して、自分は命が惜しくないのだろうか。しかも、女王試験中に教官が下界で殺されたとあっては、前代未聞の不祥事になることは間違いない。
 オスカーもある種の咎を免れないであろうし、そしてアンジェリークも悲しむだろう。
 アンジェリークの顔を思い浮かべると胸が痛んだ。まだ彼女に教えてやりたいことも、彼女に教わりたいこともたくさんある。
 しかし怒りが勝って、セイランは強い口調で云い返した。
『────君が信仰を持っているというなら、まさしくその肩に末端の宣教師の責を担って、この離反者に教義を説いてみせるといい。銃でも言葉でも、お好みの聖書の上に手を置いて』
 男の青白い顔に赤味が差した。
『それが望みなら説いてやる』
 怒りにしゃがれた声で彼は吐き出した。
『恥に塗れたお前の魂を清めてやろう』
 いいぞ、調子が出てきたじゃないか。セイランは思わず微笑んだ。男の怒りに油をそそぐことは承知の笑いだった。そんな自分自身を彼は皮肉に見つめている。
(信仰がないことの不便は、こういう時、祈る神がいないということなのかな)
 セイランはうずくような熱い痛みに変わった傷口から、多量の血が流れ出していることを意識しながら、他人ごとのようにそう考えた。足首を濡らした血が溜って、地についた膝にまで染みてくる。
 男たちの顔の中に、何か腹の決まった、底意地の悪い満足感に似たものが見える。もう一人の男が腕を上げた。そこに何がひそんでいるのか、見えなくともセイランには分かった。
 鉄の蛇が炎の舌を吐く前に、彼は目を閉じた。
 奇妙にそらぞらしい破裂音がもう一回鳴り響いた。
 火薬の濃厚な匂いと共に、髪の焦げる匂いがした。今度の弾ははずれて彼の髪をかすったようだった。男が舌打ちする。
 その時、蹄の音が聞こえたのだ。
(……まさか)
 瞬間、セイランは、少年だった宿のあるじが中空にかいま見た、紅い髪の男の姿を思い受かべた。思わず目を見開いた。確かにあの男は神に近い存在ではあるが、全ての災厄に間に合う訳ではない。むろん。彼に助けられたものもいるが、彼の手の届かないところで死んだ者も大勢いるのだ。
 だが、幻聴かと思えた蹄の音はあきらかになり、男たちがそれに反応して振り返ったのを、セイランは見た。
 聞き覚えのある声が馬を止める。高い靴音と共に、神殿の扉が開かれた。そして、よく響く、癖の強い男の声が高く呼ばわった。
「セイラン!」
 彼はその時のことを後々思い出すたびに複雑な気分になる。座り込んでいたセイランの胸に、恥ずかしいほどの安堵が押し寄せた。痛みと出血を耐えていたこと、男たちへの不快感と怒り、はりつめていた糸が全て断ち切られて、彼はそのまま気を失ったのだ。

         4.

 火が燃えている。木のはぜる小さな音と香りがする。炉の中に香木がくべてあるに違いない。独特の甘く、こうばしい香りがする。身体中が冷たく、力が抜けていた。
 目を開けた瞬間、足を撃たれたことを思い出した。そこに痛みを感じないことに、セイランはぎくりとした。もうそこに、痛むべき足がないのではないかと思ったのだ。
 彼は自分がどういう姿勢であるのかに気づかないまま、足首を探った。脚はきっちりと布を巻かれてそこにあった。彼はほっと息を吐き出した。どういったわけか脚に感覚がほとんどなく、そのために不自然な違和感があったのだ。
 彼はそして、ようやく、自分がオスカーの腕に抱きこまれて眠っていたことに気づいた。
 彼らは宿に戻っていたようだった。見覚えのある石の部屋の寝台だった。石の炉に薪がくべられて、勢いよく燃えていた。オスカーは壁に背をつけて座り、セイランがなるべく楽な姿勢になるように、厚手の布で彼の身体をくるみこみ、自分の腿の上に横抱きにするようにして、胸にもたれかからせていた。
 体がひどく冷えている。しかし冷えきってはいなかった。布を通して、オスカーの体温がゆるやかに彼を包みこんでいる。
「痛むか?」
 彼が目覚めたことに気づいたようで、オスカーが低く尋ねた。その声は奇妙におだやかで、普段の人を食ったような独特の調子がない。
「いや、たいして……」
 まだ現実感が戻ってこないような、霞のかかったような気分でセイランは答えた。
「でも感覚がない。……」
「薬のせいだろう。痛みを抑える薬だ。少し効きめがきつかったか?」
 それでは意識がぼんやりしているのも薬のせいだろうか。オスカーは彼の両肩をゆっくりと引き離して、顔を覗き込んだ。いつも氷の針のように蒼く輝いている目が、奇妙に静かに曇っている。
「あの男は……?」
 ぼんやりした気分でオスカーの目を見つめ返す。
「まさか、殺したりはしてないでしょうね?」
「守護聖が下界で人を殺すなんてことは許されないさ」
 オスカーは苦笑を帯びた声でつぶやいた。
「おれたちは一切、裁くことも、刑を課することも許されていない」
「そうでしょうね……」
 彼は寝台の上にのろのろと起き上がった。汗を帯びた髪をかき上げる。
「それじゃ、結局の話、あなたの剣の稽古はまったくの趣味ってわけだね……」
 オスカーは声を立てて笑った。
「その憎まれ口が出るなら心配はいらないな」
「彼らは、貴方に危害を加えたりもしなかったんですね?」
「おれが彼らを裁けないように、彼らもおれに傷なんてつけられないさ。心配ない」
 セイランは、オスカーがそれ以上を答える気がないことに気づいて諦めた。身体の力を抜く。胸の中で心臓が冷たく鳴り続けている。突然おびただしい血を失った身体は冷え、本人もそれと気づくほど震えている。彼の肩を支えたてのひらに、オスカーは力を込めた。
(「あたしらの手の届かないところで何ごとかが正されたって、信じてるんです」)
 再び、宿の主人の言葉がよみがえってきた。
 オスカーに正してもらいたいとは思っていなかったはずだ。
 しかし、失血に気を失う寸前に胸を満たした、あの安堵を思い出す。
 自分が、巻き込まれるオスカーを慮るより、オスカーに救われることを信じていたことに気づかされた。彼が『神』に近い存在だからか。もしくは、オスカー本人に抱いた信頼感だろうか。(せめて後者であって欲しいものだね) 
 彼はため息を喉の奥に噛み殺した。
「あれは、本星で最近になって布教を始めた新興宗教の信者だな」
「新興宗教」
「ああ、母体は星祀信仰の教義のようだ。だが、いくつもの宗教の教義をつぎはいで、もっともらしい教義を作り出している教祖がいるようだな」
「教祖が?」
 セイランは思わず笑い出した。
「星を奉る原始宗教の、星祀信仰に教祖がいるなんて、とんだ笑い話じゃないか」
「その通りだ」
 オスカーは両の瞳を冷たく光らせた。意志的だがどこか残忍な目だ。これは、あの温暖で争いごとのない聖地にいる時には決して見せない目だった。代々軍人を輩出してきた家系に生まれ、自らも軍人として勤めたことのある、オスカーの過去を垣間見る。セイランは身震いした。調子が良く色好みだが、この男が聖地にいる時の顔の方が彼は好きだ。
「これは『聖地』が関わらざるを得ないことになってきたようだな……」
 低くつぶやく。
「どういうふうに? 聖地が下界の宗教や政治に関わることは禁忌でしょう」
「表向きはな」
 オスカーはそっけなくつぶやいた。
「我々が神なら下界とつながる方法はないが、守護聖と下界をつなぐパイプは無数にある。生きて暮らす人間だからな。そこが、神と人との違いだ」
 オスカーはそう云いつないだ。苦い口調だった。また人の心を見抜いたようなことを云う。セイランはぼんやりと微笑んだ。
「しかし、神殿がとうにすたれたこんな街にも、あんなやつらが徘徊しているとはな。俺が注意を怠って、お前に怪我をさせた。すまなかった」
「何を云ってるんです」
 セイランは驚かされてつぶやいた。彼は自分を救ったのだ。オスカーが何故そんなに思いつめた目をするのか解らなかった。
「お前を一人にするべきじゃなかった」
 そう云って、オスカーは彼を胸の中に、すくいこむようにして抱きしめた。彼に抱かれると自分の身体は女の身体のように骨が細く、小さく思える。戸惑いながらセイランは思った。
 何か、軽く針でひと刺しするような憎まれ口でもききたい気分だったが、彼はあいにく疲れていた。まだ身体は冷えており、失血の衝撃から回復しきれずに震えていた。
 彼は口をきく代わりに、そっとオスカーに身を寄せてもたれかかった。
 それはセイランにとっていささか勇気のいることだった。オスカーの方でも意外に思ったのかもしれない。
 彼を抱いた胸がわずかに身じろぎ、オスカーは、静かにてのひらを広げて、セイランの、蒼い光沢のある髪を、自分の胸に押しあてた。そうしていると、オスカーの腕の囲いの中で支えられているようだ。
 自分は、この男の支えを求めているのだろうか。それともこの気持ちは、足首で今は痺れたまま眠っている傷口のせいだろうか。
 しばらくして、オスカーの指が、彼の汗ばんだ額の髪をそっとかき上げ、顎にかかった。顔色を覗くようにして顎を持ち上げられる。子供にするように柔らかく甘く、唇が重なってくる。
 さほど苦々しい気分でもなく、セイランはその口づけを受けた。オスカーの云った通り、まだ薬が効いているようで、感覚がどこか痺れたように遠い。
 そのぼんやりとかすんだ感覚の中に、紅みがかった雲がわきたってくる。
 彼の舌を包んだオスカーの舌から、甘く擽ったいような感覚が送り込まれてくる。何度か口づけを繰り返すと、背筋があたたかくゆるみ、うなじがかすかな汗を帯びた。
 薬に痺れた身体でオスカーに抱かれていると、彼に初めて押しきられた夜のことが思い起こされた。かすかに腹立たしいような、甘いような複雑な気分になる。
「……」
 セイランはオスカーに抱かれていた腕を抜き出して、ゆっくりとオスカーのうなじに巻きつけた。離れかけた唇をそっともう一度押しつける。
「あなたはいつも楽しそうだけど、その理由が分かった気がするよ。……」
 囁いた。本当はまともに声を出すつもりで、実際に唇を通ったものが囁きであったという方が正しい。
「うん……?」
 聞き取りづらいようにセイランの口許に男が耳を近づける。
「正気でなくなるのは、確かに楽しいものだね。……」
 そう云うと、オスカーは笑んだ。セイランが、初めての夜、オスカーを正気でないとなじったことにかけたことを気づいたようだった。
「狂人は退屈しないと云われるそうだな……」
 再び唇が重なる。口づけしか術を知らない子供のように、幾度も口づけが繰り返される。ただしその口づけは少年のものではない。食物を摂取するための器官をなまぬるく絡ませて、それ無しでも生きてゆける、しかし、感覚をしばし「退屈」から切り離す行為を交歓するのだ。
 快感にそのまま高まるかと思ったが、しかし、薬のもたらした眠りの波の方が強かった。
 やがて、セイランのまぶたは、涙を含んだように熱くふさがった。
 彼はそのまま眠ってしまったようだった。

 セイランは夢の中で、しばらく前にアンジェリークと交わした会話を反芻していた。
 アンジェリークが学習をしにきていた午後のことだ。
 たいてい温暖な一日を約束された聖地にあって、ことさらに明るく、輝かしい日だった。もう一人の候補レイチェルより、明らかにアンジェリークに好意を抱くセイランは、彼女が学習をしにやってくるたび、甘美な後ろめたさを抱いて、彼女と向かいあう。
 だがその午後、緑の香りの中で座る女王候補の少女は、いつものような集中力も、ナイフのような切れ味も見せなかった。
 セイランの話を聞きながら、何かひとりの思いに沈んでいるようだった。
(「君はどうやら僕の話を聞いても聞かなくてもいいみたいだね、アンジェリーク」)
 ぼんやりと視線の泳ぐアンジェリークに、セイランが苛立って本を閉じると、彼女は気の毒なほど赤くなった。
 自分に後ろめたいことでもなければ、こんな表情は決してしない少女だ。
 珍しく思って、セイランはその顔を見つめた。
(「何か悩みごとでも?」)
 セイランは首をかしげた。
(「本来は、僕の役目は悩み相談じゃないんだけど、もし君に話す気があれば特別に受けつけるよ。ストレスは感性を摩耗させるって云うしね」)
(「セイラン様」)
 アンジェリークはあまり見せない、頼りない表情になった。
(「ちょっと待って。泣くならよそで泣いてくれないか。……リュミエール様とか、オリヴィエ様あたりが適任だと思うけど」)
 彼がそう云うと、アンジェリークは、真っ赤なスカートの膝の上で握りしめていたこぶしを、ゆっくりとほどいた、大きなため息をついて、すぐに少し微笑んだ。
(「本当、セイラン様って、ただ寄りかからせてなんか下さらないんですもの」)
 彼は思案した。
(「アンジェリーク、人には適材適所ってものがあるだろう。君が本当に寄りかかりたい時は、寄りかからせてくれるひとのところに行けばいい。僕がそれをできるかどうかはあやしいところだしね。……君が一時の休息を求めていて、それをするのが最良の道なら、僕に話すのはやめた方がいい。蛇足だけれど、悪意があって云う言葉じゃない」)
 アンジェリークは心得ている、と云うように、かすかにうなずいた。
(「君に肩やハンカチを貸してくれる人はきっと幾らでもいるだろう。どちらを選ぶのも、君次第だよ、アンジェリーク」)
 彼女は机の上の自分の本も閉じて、顔を上げた。思いつめるような強い、切ない光がアンジェリークの目にある。セイランは思わずそれに見蕩れた。
(「いいえ、できれば話を聞いて頂きたいと思います」)
 彼はうなずいた。
(「……それではお聞きしましょう」)
(「私、ホームシックみたいなんです」)
(「ホームシック……?」)
(「ええ。両親と別れてたったふたつきだし、しかもスモルニィは寄宿舎ですから、実際には、もう一年も前から離れてはいたんです。でも、女王候補に選ばれて、聖地にあがって、もしも女王になったら、両親とも友達とも会えなくなって、まったく新しい宇宙に移って行くんだと思うと、たまらなくなってしまったんです」)
 セイランは少女の、いつになく生真面目で悩み深い表情を見つめた。
(「君は怖いの? アンジェリーク」)
 そう問い掛けると、アンジェリークは不意に大きく身体を震わせた。
(「ええ。私、きっととても怖がってるんだと思います。それは、誰かと会えなくなる怖さだけじゃなく、学んで行けば行くほど、自分が関わっていることがどんなに大きなことなのか、その輪郭が見えてきて。……」
 アンジェリークは、白い頬をかすかに紅潮させて、唇をかみしめた。
(「私の手にかかった責任が無限大に増幅することを思うと、気が遠くなりそうになる。……そんな重責を私が追うことになってもいいのか、って考えると、もうたまらなく怖くなってきてしまうんです。こんなこと、スモルニィに入った時から、ずっと教えて頂いてきたことのはずなのに。……突然候補に選ばれたレイチェルだって、こんなことで迷ってないはずですよね」)
 セイランは満足して微笑した。
 アンジェリークは浅い青緑色の宝石のような目を見開いて、セイランの微笑を不思議そうに見つめ返した。
(「レイチェルが君と同じ悩みを抱えているのか、いないのか、それは僕には分からない。だけど、結論から云うことを許してもらえれば、その迷いもないひとが、女王になれるはずはないと思うね、僕は。それは君が学んで、育成という形で実際に宇宙と触れたからこそ生じた迷いなんじゃないかな。アンジェリーク」)
(「ええ、それはそうだと思いますけど。……」)
(「何故、女王試験が聖地で行われると思う?」)
 アンジェリークはしばらく考えた。
(「聖地に来なければ、自覚が生まれないからかしら」)
(「まったくその通りだと思うよ。もし、素質をはかって全てが分かるなら、もしくは何かを育ててゆく能力の勝敗でことが決まるなら、スモルニィ女学院でテストしたっていいわけだろう。何も、試験期間中、聖地の時間の流れをわざわざ変えて、女王陛下の手を煩わせなくてもよさそうなものじゃないか。女王陛下の方では、候補の動向なんて簡単に分かってしまわれるだろうからね」)
(「女王陛下は、ずっと前からわたしたちを見ていて下さったっておっしゃってました」)
(「だとしたら、問題は女王陛下が君たちを見極めたいんじゃなく、君たちが女王候補である自分を見極めることなんじゃないかな。この聖地で、自分がどういう世界に入ってゆくのか、もう一人の候補と共に考える。……ぼくらの時間の軸では何星紀も前から世界を見守ってきた守護聖の方々の人間としての苦悩や、女王陛下の葛藤や、自分が力を送る世界の変化や、自分が何をなし得るのか、反対に、何を『してしまう』ことになるのか……」)
 アンジェリークはいらえを返さず、こぼれそうな目でじっと話を聞いている。
(「君たちはまず、自分たちの背負おうとしているものが重荷だということを知るだろう。家族と離別して、自分の住んでいた世界を去って、ある種孤独な存在に移行して行くこと、そして、自分が『全能であること』の脅威を、徐々に感じなくてはいけないのかもしれない」)
 アンジェリークは無言のままうなずいた。
(「でもピクニックに行くんじゃあるまいし、それで当然なんじゃないかな。女王になるのだって、強制じゃないのはそのためだろう? 迷いを断ちきれない人間には辛すぎる仕事だよ。君が聖地にいて、乗り切っていけると思ったら、女王にでも、補佐官にでもなるといい」)
 セイランは、そこから先を云うかどうか迷って、結局は言葉を継いだ。
(「ただし、もし逆の選択をした時も、恥じる必要はないと思うよ。さっきも云ったように、人には適性というものがある。女王でないなら、君には他の役目があったということだ。そのかわり、君はその役目を一から捜さなくてはいけないだろうけど」)
 アンジェリークはしばらく沈黙したまま座っていた。ことにあたたかい窓辺。窓が開け放たれていて、アンジェリークの髪を風がなぶった。
 光と風。頂度それをつかさどる男たちのような、力強い生命力の中に、未来の女王になるかもしれない少女は座していた。やがてアンジェリークは、瞑黙したまま穴が開きそうに彼の顔を見つめていた目を伏せた。
 ほうっと再びため息をついた。
(「さっきの訂正します。寄りかからせて下さらないなんて嘘。セイラン様は、私が今日聞きたかったこと、全部おっしゃって下さったような気がします」)
(「まあ、悩んでいいと云っただけで、結局は、何の問題解決にもなってないんだけどね」)
 アンジェリークは首を振った。
(「これを云ったら、セイラン様に甘えるなって云われてしまいそうですけど。でも、私、無条件で自分を肯定して欲しいことってあるんです。それって……とっても強く望んでるのに、誰にも口にできない願い事。……まさかセイラン様にして頂けるなんて思ってなかった」)
 彼女の云わんとすることを承知で、セイランは皮肉に眉をひそめて見せた。
(「僕は誰も無条件に肯定したつもりはないんだけどな」)
 アンジェリークは、迷いのない、自己反省の光を帯びた安らかな目をして、首を振った。
(「悩んでいい、って云って下さったわ。それって一番の肯定だと思います」)
 ありがとうございました。
 そう云って、アンジェリークはその日はそのまま帰った。
(「どうやったら私、セイラン様みたいに強くなれるかしら。姿はそんなに優しい方なのに、セイラン様って不思議。……」)
 去り際、うっとりと微笑んだアンジェリークは、そう言い残して行った。
 強くなどないのだ。莫大な量の不安やコンプレックス、マイナス感情に何よりも強く反応する自分、そういったものを根強く抱え込んでいるからこそ、自分は女王候補のアンジェリークには共鳴してやれるのだ。
 彼女が全ての迷いや苦しみを乗り越えて、女王になってしまったら、同じように理解してやれるかどうか分からない。万能の力持て、宇宙を包む女王の気持ちなど、自分が理解できようもないではないか。
 オスカーはどうなのだろう。
 最初から、彼はいささか軽薄だった。そのくせ軍服など着こんで聖地を練り歩く、嫌らしい男だと思った。
 だが、話してみればいくら探っても底が見えてこない。軽薄だと思っていた部分が思わぬことで否定されたり、逆に守護聖らしからぬ言動に笑いを誘われたり、彼もまたセイランを飽きさせない男だった。
 あの男、首座の守護聖のフォロー役、この街のある住民にとっての騎馬の神、そして女好きの生々しい男。彼には女王の寛容な哀しみが肉迫するだろうか。
 守護聖の孤独は、どれほど彼に深く浸透しているのだろうか。

 彼は突然目を開けた。
 自分がどこにいるのか一瞬分からなくなったのだ。部屋の中はまだ昏かったが、窓からかすかに夜明けの光が差している。
 そうだった。
 オスカーと連れだって下界に降りたのだ。彼は寝台の上で、そっと起き上がった。昨日傷つけた足に触れてみる。どういう薬を使ったのか、傷はさすがに痛んだが、かさぶたが張り始めている。
 傷口が攣れるのを、顔をしかめて耐えながら、足首を動かしてみた。筋にも骨にもまったく影響がないようだ。それなら、傷があること自体にはさして問題はない。
 彼はオスカーがとがめられるのを恐れていた。
 彼は只の軍人ではない。その肩に背負ったものが大き過ぎるのだ。女王はすでに彼らが聖地にいないことを知っているかも知れないが、あの、どちらかと云えばおもしろがりの若い女王は、オスカーを罰することはないだろう。
 しかし聖地には聖地のルールがあり、網の目をくぐりきれなかった時、罰せられることももちろんある。
 彼は、暖炉に残った薪の燃え殻を見つめて、しばらくぼんやりと座っていた。無意識に聞き飛ばしていたかすかな音が耳に入った。
 セミの声だ。彼はあたりを見回し、まだ火にくべられていない新しい薪を一本拾い上げた。オスカーが脱ぎ捨てた服の下に置いてある、彼の高価な小刀をそっと抜き取る。
(こんな粗悪な木片なんて削ったら、さぞ切れ味が悪くなるだろうけどね)
 そう思ったが、彼はお構い無しにそのナイフを取り上げて、窓際の椅子に腰かけた。痛みの残る足に負担をかけないよう、足をゆったりと組んで、木片を削り始めた。
 彼は、てのひらの中に握った木片の中に、細く長いくちばしを持った小さな小鳥の姿を彫り込んだ。オスカーの小刀はすばらしい切れ味だった。
 彫刻の楽しみは、木片の中から、もしくは金属塊の中から、ノミや小刀が思い掛けない姿を拾い出してくる。どこか端のつながらなかったような造形が、ある部分を掘りあげた瞬間に、そのものに変わる、その一瞬に尽きる。
 セイランのてのひらの中にすっかりおさまるような、華奢な小鳥ができ上がった。むろん意趣をこらして細かく彫りあげることなどできないから、小刀の刃の跡を荒く削り残した簡素なものだ。
 彫り上がったころ、空は紅く染まり、風が吹き始めていた。
「セイラン……?」
 オスカーが寝床の中から呼んだ。
「おはようございます」
 セイランは、膝の上から木屑を払った。
「起きても大丈夫なのか?」
 寝乱れた紅い髪が寝床の中から起き上がってくる。彼が眠っている最中に目を覚まし、彼の目覚めを迎えるというのは初めてのことではなかったろうか。セイランは、目が覚めきらないように声を掠れさせたオスカーに笑いを誘われた。
「おかげさまで。ずいぶん丁寧に手当てして頂きましたから」
「そうか」
 オスカーはほっとしたようだった。
「何をしてたんだ?」
 その問いにはセイランは答えず、オスカーのナイフをさやにおさめ、寝台の裾の方に押しやった。
「お借りしてましたよ」
 オスカーはいぶかしげにそれを拾い上げ、セイランの膝の上に視線を移した。何かが腑に落ちたような笑みを見せる。彼は立ち上がってきて、その小鳥を手に取った。
「これは……ヒスイだな」
「ヒスイ? ああ……」
 セイランは、自分がセミの声に、どんな小鳥を重ねていたのかに思い当たった。
 ヒスイは川べりに住む宝石のように煌めく緑色の小鳥だ。華奢な長いくちばしで蜜を吸って生きる、蜜蜂に似た小鳥だった。
 彼はそれをホログラフでしか見たことがない。
 セイランの星にはいない鳥だったからだ。
「最初はセミを想像して彫ってたんだけれどね。いつの間にか、あの鈴みたいな声にヒスイの姿を重ねてたんだな。……不思議なことだけど」
「セミの声は美しいが、ヒスイのような美しい鳥じゃない。枯れ葉によく似た長い翅の、女の親指ほどの虫だ」
「詩人だね」
 女の親指とは、オスカーに似合いの官能的な表現だ。セイランは思わず微笑する。オスカーは彼の皮肉を意に介さなかった。
「セミは耳を持たない虫といわれているらしいな。間近に雷鳴がとどろいても、大気のその震えは感じ取るが、音ではそれを知ることがないとか。町中が戦火に包まれても、セミは同じように鳴き続ける」
 セイランは、この男はそれを見たのだろうと思った。
 この町は燃えた。燃える町のそこここでにぎやかに鳴き続けるセミの姿を、その蒼い目に映したのだろう。
 オスカーは彼と同じように窓の外を一瞥して、身じまいをしに部屋を出た。
 今は静かな明け方だ。「何ごとかがただされた」静かな明け方の中で、遠くのささやかな樹木の周り、水のほとりで、セミは鳴いている。
 町中の空にセミの声が降りしきる。
 聖地にセミがいないのは不思議だと、セイランは思った。「世界の中央にそびえる山」の意を持つ名を与えられた虫は、空間の歪みの上に立つ「空の城」である聖地にこそふさわしい。
 本星も、中心地に近い都市からやってきたアンジェリークは、セミの小さな顎から流れる声を聞いたことがあるだろうか。
(「何て美しいんでしょう。奇跡のような声ですね? セイラン様」)
 アンジェリークの声が聞こえるような気がする。目を輝かせる姿が浮かぶ。彼は時折、彼女がどんなふうに云うだろうかと想像して、それをひどく忠実に己の耳に再現することがあった。
 恋をしているように。
 その言葉を、自分のこころのなかですら、初めてあきらかにしたことに彼は気づいた。彼は苦く喉を灼く、その甘い塊を飲み下す。
 女王候補への恋。
 やがてそれが、女王への恋、に変わる日もさほど遠くはないだろうとセイランは思った。
 アンジェリークは、女王としての素質に日に日に目覚めつつある。宇宙を支える安定度も高まっている。彼女は何かがあるごとにそっと背中を押してやるだけで、ぐんぐんと前進する。
 きっと彼女は女王になるだろう。そして現女王のように、会うことさえできない、まさしく雲の上の女になるのだろう。
 女王試験が終われば、彼は聖地を去る。
 たとえば女王試験の協力者として何らかの恩恵を施されて、聖地に残るか、元いたところに戻るかを選べるようなことがあったところで。聖地に残っても、アンジェリークはそこにいるわけではない。
 彼女は新しい宇宙の女王になる。
 孤独な宇宙空間の中に、赤子同然の万能の女王として送り込まれてゆくのだ。
 そして、聖地にまつわる彼の気持ちを揺らすのは、もうひとり、隣にいるこの男の存在かもしれない。いつの間にか彼のこころに食い入って、微妙な圧力を与えているこの男。(守護聖への恋……とでも?)
 自分はやはりこの男にも、ある意味で恋をしているのだろうか。
 それは、セイランには、奇妙に遠い星の物語のように実感がない。
 ある意味で、アンジェリーク以上にこの男が、彼にとって現実味を持った存在ではないせいかもしれない。こんなふうに寝床を共にしながらも、心の奥底の透かし見られない男だからだ。
 オスカーが、ひとに恋をするなどということが、到底あろうとは思えなかった。


 もっと下界を楽しみたかったのだろうが、セイランが怪我をしたせいで、オスカーは聖地に戻ることにしたようだ。
「大丈夫なんですか? 聖地に戻る姿を誰かに見られたら」
「少し山に深く入れば、たぶん見とがめられることはないだろう。大丈夫だ。お前こそ、馬に乗る体力は残ってるのか?」
「まぁ何とか」
 セイランは、そっとくるぶしの傷に布の上から触れた。実際、起きたばかりのころよりもさらに楽になっていた。歩き回ることもできるのではないかと思うほどだ。
 彼の気持ちを読み取ったように、オスカーが首を振った。
「油断するなよ。勿論その薬は効くが、……痛みや腫れを抑えてるだけのことで、治った訳じゃないんだ。無理をすれば痛みもぶり返すぜ?」
「承知しました」
 オスカーの指が伸びて、セイランの髪をすくい上げた。そこはカンジェンの銃弾がかすって焦がしたところだった。オスカーの目が不意に、また冷え冷えと蒼く沈んだ。
 その瞳に間近に出合って、セイランの胸にも何か氷の針のようなものが落としこまれたように思えた。
 しかし一瞬後にはオスカーは瞳の物騒な光を消して、いつもの顔になった。彼は、セイランが木片を彫るのに使った小刀を取り出して、焦げ切れた髪の房をそっと丁寧に切り取った。
 彼のその仕草に、セイランは不意に胸を締めつけられて、目を伏せた。鼓動が早くなった。その優しい力に、何か都合の良い誤解してしまいそうだ。(この埓もない想像が、僕にとって都合のいいものだとはね)
 彼は唇をかみしめた。
「オスカー様」
「……何だ?」
「貴方の力を借りずに下界に降りる方法はあるものかな……?」
 オスカーの瞳が薄く光った。
「ないわけでもないが、どういう意味だ?」
「あの男たちの一人は、僕の見知った男だった……僕の星に、能力指数いかんで、その能力を養成する機関があるのを貴方も知ってるだろう? 彼と僕とはそこで一緒でした。特にどうという男でもなかったけれど、平凡で善良な男のように見えた。……僕の星にはありふれた銀髪だったけれど、髪の色まで揃いで変えて、道化じみた衣装をつけて……バカバカしすぎる。何があったのか知りたくもなるでしょう? ……彼に何があったかというより、そうだね……土着信仰に近かった星祀神殿を、あんなふうにねじ曲げたのが誰なのかが知りたいんです。そして彼が何故、そんなものに属していられるのか。……」
 明るく埃の積もった星祀神殿の丸天井。割れた蒼い星経図。男たちはあの中で、この精神主義の時代に、古代の異物のように見えた。古めかしく雑然とした思想にとりまかれて、腹の立つほど他愛なく、権力者の作った力関係にあぐらをかいている。吐き気がする。
「それを、下界に降りてきて調べるつもりか?」
「ええ。今度はもっと慎重にやるつもりです。貴方に負担をかけるようなことはしません」
「駄目だな」
 オスカーはひやりと云い放った。
「そんなことは俺たちにまかせておけばいい。あとは『聖地』が何とかする。……」
「貴方がたがおそらく触れない部分で僕には知りたいことがある」
 セイランは、真剣をさか撫でられて、声に棘を含ませた。
 オスカーの表情は変わらなかった。
「お前の仕事は女王候補の教官じゃなかったのか? この世界に起きた異変を律するのは、守護聖と『聖地』の仕事だ。取り違えるな」
 セイランの胸の中でかっと炎が燃え上がった。彼は立ち上がって、寝台に座ったオスカーを見下ろした。
「あなたらしくもないことを言うね。もっとさばけたひとかと思っていたけど、貴方のお好きな軍服通り、とんだ権威主義者だ」
 軍人は、揃いも揃ってこういう云い方をする。同じ教官の中に、軍人あがりのヴィクトールという男がいる。彼も悪い男ではないが、時折こういった、上から押さえ付けるような云い方をしてセイランを怒らせた。
「たいしたものだよ、『守護聖』、『聖地』! 全てを頭上からお見通しと云うわけだ。なら、何故あんなものをはびこらせたんです? やはり、卑小な人間同士でなければ手が届かないこともあるから……じゃないんですか? いかに万能におわす女王陛下でも、一人一人の人間の中にひそむ、腐った性根までいちいち正してやることはできないでしょうよ」
 セイランは、自分が子供のように挑みかかっているのを知りながら、あえて云いつのった。そうしながら、おそらくオスカーはこんなことを云って自分が食ってかかっても相手にしないだろうとも思った。
 不快な敗北感を感じながら彼の目をねめつける。
「もっとも、こんなことを云っても、「正す者」である守護聖様にはお分かりにならないでしょうけどね」
 奇妙な間があった。
 オスカーの指が伸びて、セイランの顎をとらえた。
 彼は身体を包む、獰猛でいて優美な筋肉をうねらせるようにして立ち上がった。そうして立つと彼は、獣じみて、セイランを息詰まらせる圧迫感をもたらした。
「俺が大上段に構えていると、そう云うんだな?……」
 彼は不意に、セイランの手首を乱暴に掴みあげた。そんな力でこの男に戒められたことはなかった。いつも彼には余裕があって、薄く笑みを浮かべて、徐々に逃げられなくなるよう追いこまれる印象があった。
「こんな腕で、どうやってお前は自分の身を守る?」
 彼は冷ややかに云った。
「誰にも屈しない自由の身を気取るのもいいさ。だが、お前が傷ついたらお前を思って待つ者はどうなる?」
「離してください」
 セイランは手首の痛みにあえいだ。
「ありがたいことに天涯孤独の身ですから、僕のために傷つく人なんていやしませんよ」
「お前の言葉を待ってるアンジェリークやレイチェルはどうなる?」
 彼は、悲鳴を上げるような力をセイランの手首を握った手に籠めた。
「オスカー様……っ」
「お前があの神殿に倒れているのを見た時の、俺の気持がどんなだったと思ってるんだ。俺が大上段から見下ろしてるって、セイラン?」
「……痛い、……」
 セイランは息を切らせてオスカーの胸を押し返した。オスカーの指の力が緩み、朱く指の跡のしるされた手首を、セイランはようやく取り戻した。
「そんなことを云いながら力任せか、貴方は……!」
 涙がにじみそうになった。
「アレは大きすぎる。お前に限らず、誰かひとりの力で探ろうとして成し得るものじゃない」
 オスカーはセイランの怒りには取り合おうとせずにつぶやいた。
「ひとまずは忘れることだ」
「忘れられる訳がないでしょう」
「……忘れる方法なんていくらでもあるさ」
 オスカーが手を伸ばして壁に手をついた。寝台の横の壁に背をつけたかたちで、セイランは、長い腕の中にすくいこまれる。
「冗談じゃない」
 セイランは、本気で彼を押しのけようとした。今日ばかりはこの男の腕に抱かれるのは嫌だ。
 昨晩感じた安堵が嘘のように、冷たい怒りが胸にわだかまっている。
 オスカーは壁際に縫いとめた形のセイランの耳元に唇を近づけ、低くささやいた。
「お前が、一人でも乗り切ると云うなら、俺一人の力くらい拒んでみせろ」
 台詞の冷たさに彼の怒りがなおさらに凝縮する。オスカーの腕を払いのけようとしたセイランの肩に、先刻以上の、ささやかではあるが暴力に近い力が加わった。


 セイランはオスカーに押し出されるようにして、炎のような息を吐いた。
 壁についたてのひらにさえ、熱く甘い衝撃が繰り返してかけのぼってくる。立ったままで背後のオスカーを飲み込んだ自分の身体が、ぐずぐずと快楽に崩れそうになっているのが分かった。
「ああ、あ、……あ、……」
 声をこらえることもできなかった。おかしくなりそうだった。後から突き入れられる快楽と、彼に絡んだ指が連動して、想像できなかったような波に彼を引き込んだ。すでに一度オスカーの指を濡らしているのに、彼の身体はまた極まりを予感して、新しくぬるんでくる。
 オスカーが身体を引くと、彼の体の或る構造がセイランの中の柔らかさをかき上げるように、微妙で淫猥な快楽を残していく。
 喉もとに押し寄せてくるように彼はまた内側へ進み、再び、うるんで抵抗を失った部分を目覚めさせるように、つかえを意識させながら引いていく。
 そうしながらも、決してセイランの傷ついた脚に負担をかけないように、オスカーの片腕が彼の体重のほとんどを支えているのにセイランは気づいていた。彼の腕の中で子供のようにあしらわれるのが辛い。幾らでも快楽を引きずり出されて喘ぐのが悔しい。
 許さない。セイランは不意に思った。
「っアッ……」
 耳の中に舌を差し込まれた瞬間、腹に、太腿の内側に、背に、灼けた鉄を押しつけられたような快感が走って、彼は身体をこわばらせて壁に爪を立てた。
 極まった彼は、身体を縮めるようにして快楽に耐える。彼の内の変化に応えるように、彼を貫いた熱は硬さを増しながら、昇りつめたままのセイランが緊張から解放されることができないほど、飽かずに動きを繰り返している。
 許さない。涙がこぼれ落ちた。
 自分が、この一件だけで彼を許し難く思っているのではないと、セイランは悟っていた。
 彼の中に淀んでいたものが、セイランを狭量にさせているのだ。
 だが、それを悟っても怒りは消えなかった。涙に濡れながら彼は再び追い上げられる。
 快楽と怒り、そして自分の身体とオスカーの身体が熔けて入り交じった感覚に、崩れそうになりながら、セイランは嗚咽を飲み下した。


 身体が大きく揺れてセイランは目を覚ました。
 山中から馬に乗った。ここに来た時のひどい酔いを思い出したセイランは、目を閉じて眠る体勢に入ったのだった。オスカーとも口をききたい気分ではなかった。
 下界に抜け出す方法を知っているといったら、後はゼフェルかオリヴィエあたりだろうか。彼は浅い眠りの中でぼんやりと考えていた。オスカーの云う通りにおさまっているつもりなどなかった。オスカーが自分を黙らせるために取った方法が、彼の中に鬱屈した怒りとなって沈んでいた。
 オスカーが初めて彼に手を触れた晩のことですら、先刻の行為よりましだと思った。
 あの晩の彼は強引であったし、オスカーは嘘だと云ったが、身体が痺れて抗えなかったことがどうしても何らかのオスカーの作為あってのことだと思えてならなかった。それでも、その目的が自分を手に入れるためだと思えば許してしまっていた。
 この男に愚かにも傾倒していることは認めざるを得ない。
 夢とも思いに沈んでいるともつかないセイランの眠りは苦い。そして、彼の意図を裏切って下界に舞い戻ってやろうという発想は、徐々にはっきりしていった。
 馬の背の上の苦しい眠りから覚めたセイランは辺りを見回した。傷がかすかに痛んだ。
 オスカーが馬をゆっくりと歩かせているのは深い森であった。険しい樹皮に覆われた針葉樹が高くそびえている。まだ夕刻にはなっていないようで、梢の上から差し込んでくる日がまだ高いのが知れた。木々の間を厚く覆った下生えの上を馬はゆっくりと進んでいる。ここがどこなのか問いたかったが、まだオスカーに話しかける気になれずにセイランは黙ってゆく手を見つめていた。
 彼を支えたオスカーも何も云わない。
 数分間馬は柔らかな草の上を行き、前方に光が見えた。木立がどうやらとぎれているようだ。
 木立の切れた向こう側に、岩肌が見える。草地も途切れているようだった。オスカーは木立の切れたところで馬を止めた。
「歩けるか?」
 どうやらセイランが目を覚ましていることには気づいていたらしく、オスカーは低く問うた。セイランがうなずくと、彼は馬の背から滑り降りてセイランに手を貸した。
 そこは、樹も草も丸く枯れて岩が剥き出した広場だった。森の中に突如として一か所だけが岩場になっているのだった。セイランはいぶかしんでその広場を見渡した。人工のものではない。人の手が入ってならされた様子はなかった。
 そして、その広場の中央に、巨大な穴が開いているのが見えた。小さな火山の噴火口のようにも見える。だが、よく見ると、何か巨きなものが落ちて空いた穴のようだった。
 その穴の周囲をぐるりと囲むように草木が枯れて、岩肌を剥き出しているのだ。
 白っぽい岩の床を、まだ暮れない日差しが眩しく照らしている。
 森の中で、そこだけが異世界のように輝いている。
 セイランは目を射られてまつげを伏せた。
「ここは……?」
 ようやく声が出る。オスカーと口をききたくないために黙りこくっていたせいか、声が少し重く喉に絡んだ。
「ずいぶん古くからここはこのままのかたちでここにあった。人も上ってこない場所だ」
 オスカーの言葉から、ここが高い山中であることが伺われた。
 セイランは誘われるようにして、岩の中央に口を開けた円い穴のふちへ近づいた。
 そこで彼は、この岩の広場が何故これほどまで明るい光に満たされているのか、その目を射るまばゆさの理由を見いだした。
「これは……」
 彼は思わず声を漏らした。
 そこにあるのは岩土ではなかった。
 セイランが半ば予想していた、巨大な石がそこにはめ込まれているのでもなかった。
 穴の底は存在せず、水流のように絶えず顔を変えながら薄緑色に輝く光が、いっぱいに満たされていた。一見しては小さな湖のように見えないこともないが、それは水ではなかった。
 何か不可解なことが起こっていた。
 薄緑色に輝いている波の中に、虹色の光が巻き起こり、ついで薄い青に静まってゆく。その中にも無数の輝きがあった。うねりがある。うねりの中に輝きが巻き起こる。一瞬暗く静まったかと思うと、無数の光がまたその中に散り咲いた。
 セイランの喉元に熱い衝撃が訪れた。
「空間の歪みができているんだ。とても古いものだ。……」
 セイランは黙ってうなずいた。
「星だ。分かるだろう?」
 セイランは再びうなずいた。そう、星だ。そこにささやかな空間の歪みをたたえた光の湖は、中に星の営みを浮かべていたのだ。
 そこにあるものは絶えず生まれては散る星々そのものだった。
 蒼く、紅く光る星の海。一見冷え冷えとして見える無数の光の点。大きく膨れて弾け、またきらきら輝く小さな力場となって膨張する。溶岩が紅く輝き、逆巻く波となって星を包みこむ。現れでた地表を時が冷やす。蒼い水が冷えた大地を覆い、星はまたゆっくりと年老いてゆく。崩壊と創造。遠ざかって見れば一瞬にしてきらめいて消える光の粉でしかない、星団が、銀河が、闇を蒼く、白く埋めつくす勢いで淡く輝き続けていた。
 岩のそこに、ホログラフのように浮かび上がった空間の歪みは、星の池を映す鏡だったのだ。
「この国を選んで降りたのは、これをお前に見せたかったからだ。……本当は夜がいい。闇の中から覗き込むと、星の動いてゆく様子が、てのひらにすくえそうに近く見える」
「何故これを僕に?」
 セイランは茫然と星をたたえた歪みを見下ろしてつぶやいた。
「話の種ですか……?」
 オスカーが、星はそこにあるというそれだけのもの、後は話の種にでもするしかないようなものだ、と云っていた言葉を引き出してきて皮肉を云った。本当はそんな皮肉な気持ちではなかった。ただ、そんな口でもきいていなければ、オスカーに抱いていた憤りも何もかもを忘れて、心のうちの全てをさらけ出してしまいそうになっていたのだ。その星の営みは彼の胸を濡らした。
 セイランが星祀に寄せる心を全てかたどっているように思えた。
 そしてオスカーが、星祀信仰へのセイランの執着を理解しているからこそ、ここに彼を連れてきたのだということが明らかだったからだ。
 オスカーは彼の言葉の戯れに、戯言を返すでもなく、静かな顔で彼の隣に立った。
「星が見えないと云ってただろう?」
 彼自身も目を奪われたように、星のよどみの傍らに立った炎の守護聖はつぶやいた。
 その言葉に、記憶を烈しく乱されて、セイランは目を見開いて、オスカーを見た。
「……オスカー、今、何て?」
「星が……」
 そう云いかけて、オスカーははっとしたようだった。半ば居心地の悪い表情に変わる。彼がこんな顔を見せたのは初めてのことだった。
「あなたは……」
 セイランは絶句した。
 さまざまなことが全て一点に向かって流れ込み、つじつまが合ったように思えた。セイランの中に痛みや、心の苦痛や、時の流れに引き離されて、あちこちに点在していた記憶が、ひとつの情報の流れとなって、渦を巻いて流れ込んできた。
『星が見えない』
 彼はかつて、その言葉を云った覚えがある。ただ一度だけ、子供のころ、死んだ方がましなほどの苦痛からすくい出された時に。
 崖の隙間に滑落して、水の中にひそむものに両足を食われた時のことだ。
 痛みに叫んだ。すぐに叫ぶ力もなくなって、岩を掴んで、全身が水の中に倒れこまないように耐えた。痛みの涙に曇った目で見あげたが、空は見えなかった。崖の上には黒く木立が覆い被さり、彼の目に星を映すことはなかった。
 本星に憧れていた。きらびやかな力で宇宙を包む女王のいるという本星。空中楽園のイメージの中にひっそりと輝く聖地。
 あの星を見ることもなく、こんな昏い水の中で食われて死んでいくのは嫌だ。
 その思いが彼を支えた。星に捧げる祈りを支えに、暗闇と苦痛の一晩を乗り切ったのだ。
 セイランを「誰か」がすくい出した時、彼はすでに失血で視力を失っていた。もう朝になっていたはずだが、セイランの視界はまだ暗闇に包まれたままだった。その中で突然、力強く熱い男の腕が彼を支え、胸に抱きあげて包みこんだ。
(「しっかりしろ、もう大丈夫だ」)
 特徴のある、異国のなまりのある声が囁いた。
(「……死にたくない」)
(「死なないさ。すぐに連れ出してやる」)
(「……ここは星が見えない……」)
 薄れて消えそうな意識の中で、自分を救い出した男にささやいた自分の言葉がまざまざとよみがえってきた。そして、宿の主人が、騎馬の神の話をして聞かせた時、セイランに訪れた既視感を。セイランの滑落したあの崖は高かった。彼を救った男は、何故、あんな岩の隙間に落ち込んだ彼を見つけ、そしてどうやって降りてきたのか。
 オスカーに、自分が幼いころ、母星で両足を食われた話をした時、彼の見せた不可解な表情の意味が何だったのか。
 全ての糸がつながったように思えた。
「オスカー様。……子供を救ったことがあるんですね? 僕の星で」
 彼は混乱しながらつぶやいた。
「あなただったんですか?……」
 オスカーは答えづらいように星の歪みを見下ろして黙っていた。セイランは男を見つめた。
 もし彼の目があの時見えていたなら、おそらくその男の深紅に輝く髪と、凍るような蒼い瞳を見いだしただろう。そしてそれは忘れることのない記憶として彼の中に残ったはずだ。宿屋の主人の心の中に深く刻まれた、神との邂逅の一片の記憶と同じように。
「星が見えないと、僕が云った言葉を覚えていたんですね?」
 声が震えた。
 懐かしさや感動だけではない、複雑な苦みと苦痛が彼の中に押し寄せてきた。涙が溢れそうになった。
 子供だった彼を、この男はおそらく救ったのだろう。
 それは、記憶の中に薄れるほど昔のことではないのかもしれない。オスカーの中では新しい記憶なのかもしれない。違う時間軸の上に彼らの時は流れて、セイランは女王候補の教官として、オスカーの前にやってきた。彼が自分の救った子供だということを知って、オスカーは驚いたのだろう。そして、星祀信仰にこだわるセイランを見て、ここ、本星にあって、最も星祀の祭壇としてふさわしい、この岩場に彼を連れて訪れることを思い立ったに違いない。
 彼の瞳は濡れ、喉が刃をのみ込んだように熱く痛んだ。
 やはりこの男は異種の神なのだ。女王と同じ、自分とは違う存在だ。
 かつてあの長い戦争の中で、書物や絵に埋もれて過ごす子供だったセイランは、世界には、文字にも絵にも表せない立体の苦痛があると知った。だからこそセイランはそれを更に絵や文字に閉じこめることに執着した。届かない星への憧れや呪詛も例外ではなかった。
 あの奇妙な手ごたえのなさ、真意の見えない男の心への不安への正体がそこにあった。
 オスカーはセイランの思うような意味では人を愛さないのだ。
 彼の愛は大義と等しいものに飲み込まれて変質している。オスカーの色恋沙汰に人であった彼の名残が残っていたとしても、この男は広く遠い愛をしか、今はもう持っていないのだ。
「どうした? セイラン」
 長身の炎の守護聖は手を伸ばして彼の髪を梳いた。セイランの髪はかすかに傾いた光を受け、鈍色を帯びた虹を浮かべて輝いた。セイラン自身の目に、自分の髪の光沢が届いて視界をにじませた。胸に痛みがあった。
 彼は、自分と同じ人の姿をした男の蒼い目の中に、とりもなおさず、あの届かない星を見つめているのだ。

                   5.

 セイランはため息をついた。今日は土の曜日だ。おそらくあの男は、今日もセイランの部屋にやってくるだろう。
 彼の脚が銃で傷付けられたせいで、事は大きくなったようだ。医師の口からそれがジュリアスに知れたからだ。ジュリアスは床についたセイランを訪れ、苦い顔で、二度とこんな真似をしないように、と言い渡して帰った。
 セイランは守護聖ではなく、聖地の要請を受けてやってきた協力者の立場であるため、その程度で済んだのだろう。ジュリアスの側近的役割をつとめるオスカーが、どれほどの叱責を受けたのか、想像に難くない。
 もっとも誰に対してでも余裕たっぷりのあのオスカーが、なぜかジュリアスにだけ、妙に頭があがらないでいるのを見るのは、なかなか楽しめる光景だった。
 だが、ジュリアスの耳に入ったことから、オスカーがセイランを警戒する気持に拍車がかかっているのは確かだ。クシャンから帰って三週間の間、彼は、週末を必ずセイランの部屋で過ごした。目が離せない、そう思っているのが分った。
 先週、鋼の守護聖のゼフェルに、
(「お前、何かしたのか?」)
 そう、怪訝そうな顔で聞かれた。
(「何かって、何?」)
 セイランの方でも怪訝な気分で聞き返す。
(「オスカーに、お前に下界への抜け道を聞かれても絶対教えるなって云われたんだよ。こんなふうに目、つりあげてさ。お前、下界に降りたいのか?」)
 ゼフェルはずけずけとありのままを答えた。セイランはかっとした。ゼフェルはオスカー同様、聖地を抜け出して、下界に降りる悪癖のある守護聖だ。セイランとも比較的親しい。オスカーは、彼がゼフェルを頼って聖地を抜け出すのではないかと思ったのだろう。
 以来数日間、彼はオスカーと顔を合わせていなかった。
 今日は部屋を訪ねる、とオスカーの私邸の者が手紙を持ってきたこともあったが、彼はその手紙を見るなり出かけてしまった。
 アンジェリークとも最大限学習の約束を入れた。おかげで一週間近く彼とは会っていない。狭いようで、人一人から逃げようと思えば、聖地は十分に広かった。足首の傷が、傷痕こそ残っているが痛みはすっかり癒え、歩き回れるようになったのは幸いだった。
 彼は、今日もオスカーを逃れて庭園に出た。ここには苦手な連中もいるにはいるが、ゆったりと楽しみに来る人の姿が多く、それも今のような気分の時には悪くなかった。
 セイランは、大庭園に植わったミモザの高木の群の下に立ち止まった。黄色い星のような花が一面に咲いているのをぼんやりと見つめて考えこんだ。
 胸の中でじりじりと燃えるものがある。聖地の庭園は隅々まで光に満ちていて美しかったが、それが彼の焦燥をなおさら煽った。元より、聖地は争いもなく、とろりと甘い平和に充たされた金の器のような場所だった。だが、クシャンの街から帰ってきて以来、聖地に感じていたもの珍しさや刺激が、どこか空虚に薄れて思える瞬間があった。聖地への関心を、炎の守護聖と、クシャンの神殿で見聞きした新興宗教の姿が飲み込んでしまったのかもしれない。
 セイランの中に今まで凝っていたものが日の光の下に曝け出されてしまった。子供時代の思い出も、彼の中にひそかに眠っていた信仰も、正体のないままで胸の奥にずっと沈殿したままで、表出することはない筈だった。その胸の中に深く手を差し入れられて、オスカーにこころをつかみ出されたような気分だった。
 オスカーが、自分に関心を寄せていることは分った。彼が好意からセイランにしてくれたことを思えば、それを否定するのは傲慢に過ぎるというものだった。しかし、彼の気持は鬱々と晴れずにいた。オスカーに会いたくなかった。
 土埃と砂と陽光のもとに在った星祀神殿の姿が目の前から消えない。そして、黒く髪を染めたカンジェンと、彼の持つ銃口がちらついた。
 カンジェンも自分も同じように母星で戦争を体験した。セイランは一生銃を取ることはしないと決めた。人を殺すための道具を決してこの手に握らないと、子供だった頃に決心したのだ。あの悲惨な十年戦争を体験して、母星は闘いを拒む精神の国へと移行することを、全星の協議会の代表をあげて誓い、完全とは云えなくとも、その流れを作るべく動いているのだ。
 何故、あの十年戦争のさなかを生きながら、彼らはそれと逆行して、理念の代わりに欲望を充たす嘘を、書物の代わりに銃を取る道を選択できるのだろう。
 その心理に、真っ暗な穴のような、非人間的な虚無がひそんでいるように思える。原始的な恐怖がある。それは崖のはざまに滑り落ちて、暗い水に落ち込んだ無力な夜の、そのイメージとやはり連動しているのかもしれなかった。
「セイラン?」
 声をかけられて、彼は顔をあげた。少し特徴のあるなめらかな声から、顔を上げる前にそれが誰なのか解った。水の守護聖のリュミエールだった。
「わたしは詩作のお邪魔でもしたでしょうか?」
 リュミエールは静かに蒼い目を瞬いてセイランを見下ろした。胸の下まで伸びた美しいプラチナブロンドが、庭園の光を受けて耀いた。首位の守護聖であるジュリアスとクラヴィスも、それぞれが美しく、迫力のある長身の男達だったが、リュミエールはまた彼等と趣の違う美貌の持ち主だった。神々しいという言葉がこれ以上似合う男を、セイランはこれまでに見たことがない。
「いいえ、ただ漠然と考え事を」
 そう云うと、リュミエールは薄い唇の口角をわずかにあげて微笑んだ。
「あなたにも漠然とした考え、などというものがあるのですね」
「漠然としている方が多いんですよ」
 セイランは苦笑した。
「だから、たまにまともに物を考えている時邪魔をされると、ヤマアラシのように苛立つわけです」
 リュミエールも苦笑に似たものをうかべた。ヤマアラシのように、というのはセイランが以前、彼を怒らせてために云われた言葉だった。
(「あなたは、周りのひとがあなたに向ける好意も言葉もすべて無駄なもののように云いますが、あなたがヤマアラシのように人を選ばずに傷付ける言葉の剣は、いったい無駄なものだとは思わないのですか」)
 聖地に来てある程度の時間が経ったが、リュミエールがそんなことを他人に向かって云うのを聞いたのは、後にも先にもそれきりだった。
 それはセイランが、その場にいた緑の守護聖をやり込めたことに対して向けられた言葉で、傷ついた顔をしていたマルセルは、むしろリュミエールのその言葉に驚かされて目を丸くした。自分がセイランに云われた言葉については忘れてしまったようだった。
 ゼフェルにまで、後で、リュミエールにあそこまで云わせるってのは、公平に考えてお前が悪いんじゃねえの、などと云われる始末だった。
 しかしその一件で、リュミエールに初めて着目したのは確かだった。怒りに、かすかに紅潮したその顔は、銀と陶器で拵えた人形のような姿のこの男の中に、人間らしい感情が豊かにひそんでいることの象徴のように思えた。彼はそのあと、機嫌良くリュミエールとマルセルに詫び、自分が関心を抱く者のこころの中のリストに、ひそかにリュミエールの名を書き入れた。
「お怪我はもうよいのですか、セイラン」
 リュミエールは気遣しげな表情になる。また、透き通るような髪がさらさらと光る。銀色の睫毛に虹色の光の珠が宿っているのが見える。彼は、オスカーとほぼ変らない長身の男だったが、ほっそりとした柔らかい姿かたちのため、長身の人間と向かい合う圧迫感を相手に感じさせなかった。
 セイランは仕方なくうなずいた。この傷のことには触れられたくない。しかし、それこそ珍しいことだが、セイランにも、言葉の剣をかざしたくない相手というものがある。そして目の前の美しい男は、その数少ない相手のうちの一人だった。
「もう痛みません」
「よかった」
 リュミエールはほっとしたように目元を和ませた。
「大変なことでしたね」
「まあ……自業自得です」
 どこまで彼が知っているのか疑問に思いながらセイランは答えた。
「ジュリアス様も、あなたに負担をかけたことを申し訳なく思っておられるようです」
「……負担?」
 セイランは心当たりのない話の流れになって首をかしげた。
「ええ、ジュリアス様があなたにした頼みごとのことで……」
「頼みごと……」
 リュミエールもいぶかしむような表情に変った。暫く思案するように黙っていたが、わずかに表情が変った。
「星祀信仰についてあなたがお詳しいと……星祀神殿の悪用にかかわる視察に同行をお願いしたために、地上でお怪我をされたのだと、わたしはそう聞きましたが……違うのですか?」
「……ああ。……」
 セイランは驚きを隠せない思いで、しかしかろうじてうなずいてみせた。
「……そのことですか」
 セイランとオスカーが勝手に聖地を抜け出したあげくに引き起こしたことが、そういう経緯に書き換えられているらしい。あの堅物のジュリアスにしては珍しい処置だと思った。
「今度地上に行かれる時はくれぐれもお気をつけて」」
 リュミエールは、セイランの表情を見るように、ゆっくりとそう云った。セイランは答えかねた。今度地上に降りる時。それは試験中のことか、それとも聖地を出て帰る時のことか。
 うかつな返事が出来ずに一瞬黙ったセイランの顔を見つめていたリュミエールは、ゆっくりと微笑んだ。
 思慮深い水色の瞳を伏せる。
「どうやら、わたしは余計なお喋りをしてしまったようですね、セイラン」
「……余計なのかどうか」
 セイランは首を振った。何と云えばいいのか分らなかったのだ。
「お喋りついでに、それではお話しましょう」
 リュミエールは、覚えた詩をそらんじるようにゆっくりと云った。
「聖地の名で星祀神殿を調べる正式な使節として、あなたに参席してもらってはどうかと、昨日、オスカーとジュリアス様が話し合いをしたのです。ジュリアス様は、あなたのお怪我のことがありますから、あなたを地上に送ることには賛成なさいませんでしたが、オスカーは、とても熱心にそれを勧めていたのです」
「オスカー様が」
 セイランは茫然として繰り返した。
「ええ。ご自分の星を発祥の地とする星祀神殿ですから、その噂の真偽について、あなたがこころを痛めておいでだろうと、オスカーはジュリアス様に進言したのです。……ジュリアス様は、聖地の名誉にかけて、今度は一個大隊をつけてでも、女王陛下の教官であるあなたに危害が及ばないよう、お守りするようにと。……」
 リュミエールは言葉を切った。
「このことについては、ジュリアス様か、オスカーからあなたに正式にお願いをすることになろうかと思います。……今の話の中に、あなたのお知りになりたい内容はありましたか?」
「ええ。……」
 セイランは、無理矢理に咽喉の奥にちくりとこみあげた痛みを飲み下した。
「ありがとうございます、リュミエール様」
「……いいえ」
 リュミエールは困ったように微笑する。この聡い男はおそらく、オスカーとジュリアスが無理矢理合わせた帳尻の狂いを、、今のセイランの反応を見て気づいたのだろう。
 しかし、セイランは何も云わなかった。リュミエールはこういった話の裏をわざわざ探ってみるような人ではないし、罪悪感を覚えるほどの嘘が、そこにあるわけではないからだった。
「危険なことはなさらないように……これはわたしからの、個人的なお願いです、セイラン」
 セイランはこれ以上、リュミエールの静かな声に、まともに受け答えをすることが出来ない気分になった。
 かろうじてうなずく。
「今日はこれで失礼します、リュミエール様」
 少し声が素っ気無くなる。
 しかし、セイランの気持の変わり方や、感情を抑えようとした時に冷たくなる声に馴れてきたらしいリュミエールは、ただ静かにうなずいた。
「それでは、ごきげんよう、セイラン」
 セイランはその場を急ぎ足で立ち去った。
 自分の感情が昂ぶっているのが分る。
 彼は唇を噛み締めた。オスカーが、自分に何も云わずにことを運んでいることにひどく腹が立った。
 しかし、それが彼流の思いやりであること、そして、独善的にも思えるそのやり方が、結局は一番事を旨く運ぶやり方なのだということを、セイランは悟り始めていた。
 しかし、こんなふうにてのひらの上で遊ばされるように、自分の進む道を調えられることには抵抗がある。
 彼が、見た目通りの一人の若い男でないことを知っている。ひとが普通なら見られないものを見る力があるのだと知っている。しかし、それが自分には見えないことを自覚させるように促すものでありながら、オスカーのこころの中には格別に軽侮の念すらもないのだ。
(いったい、僕は子供なのか?)
 そう思って、彼は足を止めた。
 そうだ。子供なのだ。
 こうして、怒りに青褪めながら歩いていることさえもそうだ。セイランは溜息をついた。あの夜の淵の中から自分を救ったのはオスカーだった。彼自身が言葉に出して肯定したわけではないが、おそらく間違いはないだろう。
 自分は、両足を失い、幼い身体をオスカーの腕に抱き取られて崖を登った。今もその時も、自分とオスカーの力関係は変っていない。
 あの星が欲しい。子供の頃そう思っていた。そして彼はいまだにその星を欲しがっている。しかし、白く耀く主星へのあこがれは僅かにかたちを変えていた。セイランの目にうつる星は、夜空の星の中でもひときわ紅く耀く星だった。ひとが住むこともなく、地表が焼き溶かすように燃え続ける、近づいて降り立つことのできない星だ。
 どうしようか。
 頭上を見上げる。太陽はいまだ高い。聖地の中でさえあれば、どこに出かけるのも自分の自由だ。自分はオスカーを待つ必要はない。
 しかし、彼はゆっくりと、学芸館に帰る道を歩き始めた。自分が大上段に構えていると云われた時の、あの男の目を思い出そうとした。
 怒りは分り易い感情だ。
 リュミエールの中に怒りがあることで、彼のこころの内側を一瞬のぞき見たように、セイランは、オスカーの怒りを思い起こして、自分を静めようとする。そして、そんなやり方をする自分を貧しいと思った。
 水に映る星、夜空にかかる星を静かに見詰めるように、誰か一人の姿を喜びと共に見守って愛することの出来るような心があればよかった。
 どこか酩酊を伴った思考だと知りながら、セイランはそう思う。彼は嫉妬と疑念の女神にこころを差し出すことが多く、それはいつも彼自身を苦しめた。

 この週に入って一度も会わなかった男の足音が聞こえる。
 セイランは顔をあげ、本を閉じた。椅子に深くかけたままで彼を待った。
 暫くして、扉を叩く静かな音が聞こえた。
「どうぞ」
 声をかけると、攻撃的に思えるほど一分の隙もない礼服に身を包んだオスカーが現れた。
「おひさしぶりです」
 微笑してみせる。オスカーは何も云わなかった。閉めた扉の前に無言で立ち、ふと戸惑ったように視線を逸らした。彼のひややかな蒼い目に、傷ついたような光が浮かんでいるのをセイランの目はとらえた。分っている。彼も自分と同じように怒りを覚え、傷つく一人の人間でもある。そしてそれと同じ胸の中で計算をめぐらせ、危険のないかたちで、セイランの望みをかなえてやろうと、彼なりに動いたに違いない。
 そのひとつひとつに苛立つのは、自分の我侭だ。
 彼は、ここまで言い聞かせなければならない自分自身の強情さに、半ばあきれながら立ちあがった。
「今週、約束を何度も破ってすみませんでした」
 無言で立つオスカーに近づいた。
「怒ってるんですか?」
 顔を覗き込むと、オスカーはかすかに眉をひそめたが笑った。
「お前を口説こうと思ってるなら、馴れないわけにもいかないだろうからな」
「分かってるじゃないですか」
 彼は微笑した。
「僕に何か話があるんじゃないですか?」
 オスカーは、これは本当に驚かされたように目をみはった。
「話が早いな」
「僕がまた駄々をこねると思って、機嫌を取ってやらなきゃいけないとでも思ってたんじゃないですか?」
 彼は笑いながら、オスカーの肩にそっと手をかけた。
「食事をしましょうか。それから、ゆっくり話を聞かせてください」
 オスカーはいぶかしむように彼を見ていたが、どこか安堵したようだった。
「驚いたな」
 そう云って肩を竦めた。
 セイランの胸の中では、相変わらず小さな痛みが点滅していた。
 しかし今夜は、彼はそれに頓着しようと思わなかった。
 セイランはつとめて微笑した。
 そして、こころという遠い星同士に隔てられた光の信号を逃すまいと、紅い星の肩に触れた指に力をこめた。

                  

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