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接近(2006年12月)

01 19 *2009 | Category 二次::ハガレン・ハボロイ

 ハボロイ。書こうと思っている話のごく一部。

 スケッチくらいのSS。

続き





 汗に濡れた皮膚の、相手と触れ合っていない部分は冷えている。だが、折り曲げた関節の内側や、重なった皮膚と皮膚の間は金色の体熱をはらんで、燃え上がりそうだった。自分の体温が上がっているためだけでなく、相手も熱くなっているのだ。
 ハボックはそう思ったが、懐疑的な気分を捨てきれなかった。
 自分の息が上がって、忙しなく呼吸を繰り返しているのはずっと耳に入っていた。だが、マスタングの息は殆ど聞こえなかった。ハボックに伝わってくるのは、自分を飲み込んだ臓器が微妙にうねる感触と、とろけるような熱さだけだ。気を遣いすぎるほどに遣って、充分に湿らせたそこから、クリームの油分が溶け出して、ハボックの太腿とマスタングの腰をべたつかせている。動くたびにぬかるんだ音がして、ハボックの鼓膜を刺激した。
 髪の中から額に垂れて来た汗の滴を拭おうと、マスタングの頭の横に肘をつく。片手────ハボックの左手と、マスタングの右手────は、シーツの上で指と指を組み合わせて、きつく固定してあった。ハボックの衝動に応じたからには、マスタングは逃げないだろうと思っていたが、しかしいつ翻意されてもおかしくない、という焦りがあった。指を絡ませて、仰向けになったマスタングのこめかみの横に押しつけると、マスタングの視線がちらりとそこに向けられた。無表情に見えたが、ハボックは腹の中でマスタングに笑われているような気がしてならなかった。
 姿勢を保つためについていた手を折って肘をつくと、角度が変わったせいか、マスタングの内部の動きが一瞬止まった。しかしその後にゆるやかなうねりが再びハボックを引き込んで、マスタングがどうやら苦痛を感じていないことが分かった。
 額から眉の中を通って、まぶたに辿り着いた汗の滴を、ようやくてのひらで拭う。すると、自分の額や頬が上気してひどく熱くなっているのが分かった。
 自分の下にいる人物はどうなのだろうか。彼は、暗くした灯りの中に見分けられるマスタングの頬に触れてみた。ハボックのてのひらが熱いせいか、マスタングの頬は自分よりも冷たく感じた。
「大佐」
 ともすれば中佐、と呼び間違える階級。ハボックがマスタングを知ってからこれまでの期間、マスタングが中佐でいた時間の方が長いからだ。
 大佐、という言葉には、指導者というニュアンスが含まれている。実際に握る権限も大きい。こんな体勢で、その言葉を口にすると、自分の欲望がどれだけ見境のないものなのかが実感できる。マスタングが普段から異常に気さくなせいで、彼がどれだけ上の階級にいる存在なのか、司令室の面々は忘れてしまいがちだった。ハボックもその一人だ。だが、マスタングはあと一歩で将官の位置にまで昇ってゆこうとしていた。その彼を。六階級も上の、年長の軍人を。イシュヴァール内戦を力づくで終わらせた立役者を、抱きたいと思った。しかし、思うだけならまだしも、口に出してしまったのは、魔が差したとしか云いようがなかった。
 呼んでも、マスタングが応えようとしないので、ハボックはもう一度、今度は耳元に口を寄せて呼んだ。
「大佐、ちょっと目、開けて下さいよ」
 喉から上ずったような声が出て、面映ゆかった。
 額に弓なりの線を描いている眉と眉の間に皺が寄り、マスタングは薄く目を開いた。彼の目のふちがかすかに赤らんでいるのが、薄闇の中でもかろうじて見てとれた。黒い目は僅かな光源を拾おうとはせず、吸い込まれるように深かった。
「どうした」
 怠そうに返されて、ハボックは思案した。
「何か、やけに静かですよね」
 間が抜けたことを云っているのは分かったが、深く考えている場合でもないので、ハボックは気になっていることをそのまま口に出した。
 何が、あるいは誰が静かなのか、分かりにくいだろうと思って補足しようとした矢先に、ぴしゃりと先制攻撃をくらった。
「お前の息がうるさいが?」
 それがどうかしたか、という口調だ。
「オレは、ともかくですね」
 マスタングが声を出すと、下腹が締まって、自分に伝わってくる。そして、破裂しそうにはりつめた自分がどんな状態にあるか、マスタングは間違いなく分かっているだろう。
「大佐はどうすか。ちょっとはいい感じします?」
 彼は何とか自分を抑えようとして深呼吸した。
 マスタングは、憐れむようなためいきをついた。
「最中にそんなことをわざわざ聞くとは。あきれたマナーだな、少尉」
 やはり声はけだるく、眠いときの彼の声にも似ていた。マスタングの言葉はもっともで、ハボックもそれに同意した。だが、彼はもう一歩図々しくなることにした。
「ちょっと、声とか、出してくれませんかね」
 マスタングの半ば閉ざされた目が開いた。醒めた目で見上げられる。
「声というのは、出すものじゃなく、出るものなんじゃないかね?」
 またしても理屈で返される。
 ハボックはねだるのを諦めて、ぐっと腰を進め、止まっていた動きを再開した。また、マスタングは目を閉ざし、静かな息をし始めた。
 女相手と違って、快感をはかるのも、上昇させるのも、不可能というわけではないことを、その時になってハボックはようやく思い出した。きつく組み合わせていた左手を、そろそろと開いた。きつく握りしめた指に滞っていた血液が、軽く疼いて流れ出す。
 ハボックは、離した手を重なりあった身体の奥に伸ばし、マスタングの下腹を撫でた。敏感な皮膚の上をそっとてのひらで包むと、さっき触れた時は、快感のきざしのなかったそこが、熱く充血して形を変えているのが分かった。その感触に、ハボックの頭の中でぱちんと熱が弾ける。
「大佐、ここ────」
 握った手に力を加えて云いかけた時、今まで握られて、拘束されていたマスタングの右腕が、ハボックのうなじにぐいと巻き付いた。がくんと首を下に引き寄せられる。てのひらに感じる感触への、感慨を申し述べるために開いたハボックの唇から、あたたかく濡れた感触が強引に入ってきた。
 マスタングの舌はハボックの口蓋をざらりと舐め、触れた部分に沿って、痛痒いような刺激を残しながら、舌へ移った。唇がぴったりと合わさったその中で、完全に主導権を明け渡したハボックは、舌を強く吸われる生々しい刺激に、とろっと絡め取られた。まぶたが熱くなり、彼は思わず目を閉じた。喉の奥で自分の声が詰まり、鼻から抜けていくのが、衝撃的に伝わってきた。
 声は「出るもの」とマスタングは云った。時間をかけて、馴れない男の身体への愛撫を繰り返していた自分が、数十秒のキスであっけなく陥落した。
 それがマスタングから仕掛けられた初めてのキスだということに気づく。マスタングはハボックの舌の溝を舐め、舌先で奥の方まで入り込んでくる。
「……っ、大佐」
 ハボックは思わず首を振って、マスタングの狡知に長けたキスから逃げた。
 マスタングの唇のラインが笑っている。それは、ハボックが一度も見せられたことのない、マスタングの濡れた夜半球の微笑だった。今まで引け腰だった自分が愚かに思える。見てはいけないものを見てしまったように、胸が高まった。
 なるべく長く耐えて時間を引き延ばしたい、と思っていたにもかかわらず、ハボックに急速な終わりが訪れた。彼はその瞬間を、切れ切れに息を吐きながら迎えた。外に出るべきだと思ったが、それに間に合わず、ぬるりとした感触が広がった。喉が焼け付くように渇く。心臓から腹にかけて滞っていた、爆発するようなエネルギーが、体熱と一緒にマスタングの中にあふれ出してゆくのを、自分の乱れた息を聞きながら味わった。

 ごく年若い頃から、北方の山林にそびえるレッド・ウッドもかくや、という勢いで伸びた背丈と、厚みのある骨格、そしてたぶん最も親しまれるアメストリス人特有の外観、つまりは金髪と蒼い目のおかげで、彼は習い覚えた遊びを共有する女性に事欠かなかった。
 ジャン・ハボックが、女性の人生をエスコートして、ゆったりと包み込めるタイプの男ではなく、柔和な表情と誤解される、下がった目尻の割には優しくもなく、燃える恋を共有するほどの情熱家でもないと知ると、女性たちは何やかやと理由をつけて、彼から離れていった。ハボックは平凡な男だったが、その平凡さの中にひそんだ、彼の性質の良さを見抜くだけの若い女は少なかった。彼よりも金や教養があり、優しい言葉を巧みに紡ぎ、プレゼントに金をかける、様々な男の元へと、蒲公英の綿毛のように流れて、消えていった。
 別れは彼を傷つけはしたが、致命傷を与えるには至らなかった。また次の恋に賭ければいいさ、と、ハボックは気楽に考えていた。
 だって世間を見てみろ。どんなにとるにたりない、社会にこの先貢献しそうにない者でも、みな配偶者を持ち、子供を作り、それなりに整った家庭を築いているではないか。
 機知に富んでいるとは云えないものの、丈夫でよく働く、それなりの器量を持った若いハボックが、一生幸運にありつけない筈はなかった。
 ただし、運命の女となかなか巡り会えなかったハボックが、家庭を作る前に、もう少し広い世界を見たい、と思って、兵役の後に士官学校を選んだのは不思議ではなかった。学校と名がついているが、座学が一番に尊ばれるわけではない。ひたすらに肉体を鍛え、頭を空にして標的にトリガーを絞る精神性を育み、一糸乱れずに国と共に歩む愛国心と、いったい世間に出てから役に立つのかどうか分からない、独特の規律を教えられる。屑ダイヤの群れを、軍人という輝石(軍事国家の名のもとに判定されるところの)に磨き上げるための場所だ。
 権威の下で、無心に命令を聞いて働くことは、自分には楽な仕事のように思えた。
 頭のいい人間は軍の中にも幾らでもいるが、頭脳でのし上がってゆけるようなやつは、十六歳やそこらで、士官学校に入ったりはしない。十五年以上も学問をおさめ、大抵は中央の軍大学を通り、幹部候補生として、士官学校出の若い連中と合流する。
 ハボックが思ったとおり、強健な肉体で飯を食える軍は、彼に向いていた。多少窮屈だし、行儀作法も面倒だが、それでも身体を使う仕事は彼と相性がよかった。そういう意味で、炭坑や、工事夫も彼と相性がいいと云えるが、何より軍は金がよかった。
 周辺国の中で頭角を現した軍事国家であるアメストリスは、国を守るための訓練に明け暮れる若者たちに、気前のいい給料を払った。国が不安定になるような戦争も、五年以上起こっていない。一番近い戦争と云えば、イシュヴァールの内乱だが、あの無惨な内戦は、ハボックが士官学校を卒業する前に起こったものだった。戦いが長引けば、学生がかり出される可能性もあったが、軍は兵士を大量に失うより、国家錬金術師を投入して、イシュヴァール人を悉く殲滅するシナリオを選んだ。
 イシュヴァール内乱が、人道的に、あまたの戦争の中でも最悪のかたちで終結してから、一年ほどした頃、ハボックは相変わらず楽天的なまま、士官学校を卒業し、東方の田舎の司令部に配属され、あっさりと軍人になった。憲兵になるという選択肢もあったが、常に肩をいからせて一般人を相手取る憲兵は、結局は自分には向いていないことが分かった。
 軍人でいい。給料分身体を鍛え、戦争が始まったらどこへでもゆけばいい。
 アメストリスは、不運にも天災に見舞われやすい国だった。それらの復興支援のために出かけていって働くのが、ハボックは好きだった。戦時には人を殺し、敵方の財産を壊し、あるいは奪う役目をする軍人も、平時には一般人のための雑用係だ。崖が崩れればスコップを持ち、河川が氾濫すれば土嚢を抱えるのも彼らの仕事だった。
 その合間にも軍事訓練は粛々と行われていた。正規の軍人になる前から、ハボックは自分が両手で武器を扱えることを知った。生まれた時は左利きだったのを、不便だろうから、と親が右利きに矯正した。ナイフもペンも右の手で使う。しかしその気になれば、銃も、戦闘用ナイフも左手で扱うことが出来た。
 思ったことを胸の中にしまっておけない性格から、時折上官に目をつけられることもあったが、概ねそれほどの問題もなく、ハボックは准尉として東方に腰を落ち着けた。
 それから三年後だった。規律にやかましく、権力欲の強かった上官が、中央に煙たがられるようなことをしでかして、更に僻地に飛ばされることとなった。それによって、上官の入れ替わりが起きて、彼らの新しい頭部が東にやってきた。
 司令としては、元々老齢のグラマン中将が東方司令部を統括していた。
 その副司令として、若干二十七歳の中佐────イシュヴァール内戦の功労者────錬金術師のロイ・マスタングがやってきた。


 ハボックは思わず身体の力を抜き、下に敷き込んでいる身体に全体重を預けた。彼の下から、低いうめきが聞こえて、片手がシーツをたぐった。
「どけ、重い」
 マスタングはそう云って、大儀そうに肘でハボックの身体を押しやった。
「すみません、好き勝手して」
 ハボックは慌てて、汗にまみれた身体をマスタングから引き離した。まだ完全には勢いを失っていない彼が、不正な使役に耐えたマスタングの内部を通り抜けると、ようやく、うッという短い声が漏れた。それはおよそ快感の名残を示すものではなく、今にもえずきそうな苦しい息だった。
 ガンガンとハンマーで殴るように、ハボックの全身の血液を支配していた鼓動から解放されてみると、自分がどんな行為に及んだのか、全貌がはっきりと見えてくる。ハボックはまだ荒い息をしながら、マスタングを見つめた。頭が冷えてくる。こんな風に抱いて、奥の奥まで入り込んだとしても、それはほんの一時のことで、マスタングのてのひらの上にいる自分、という位置関係が変わるはずもない。マスタングがこの新しい関係性に、どういった評価を下しているのか、想像もつかなかった。
 そろそろと身体を起こしたハボックの隣で、マスタングは、シーツにあおのいたまま、数回浅い呼吸を繰り返した。顔を横に伏せて背中をぐっと丸める。それは明らかな異変を示す動きで、ハボックははらはらしながら、横たわった上官の姿を見下ろした。マスタングは汗に濡れた黒髪を、少し震えの来た指でかきあげる。その仕草は、不安定な気分の中でも、ハボックの目になまめかしくうつった。
「吐きそうだ」
「えっ」
 ハボックは冷水をかけられたように狼狽して、ベッドから降りた。昨日、帰宅した後に履いて、適当に脱ぎ捨ててあったジーンズに足を突っ込む。
「今すぐですか。洗面器とか、水とか要ります?」
「何もいらない。風呂場を借りる」
 マスタングは、傍らの椅子にかけてあった自分のシャツをつかみ、慌ただしく羽織った。ハボックは、裸足のままその辺の灯りをつけながら浴室に飛んでいき、マスタングのためにドアを開けた。浴室には洗面台があるから、吐くならそこを使えるだろう。大酒を飲んだ後、ハボック自身も何度か世話になっているので、洗面台の配管がそうした異物にも耐え得ることは証明済みだった。
 多少ふらつく足取りでマスタングは洗面台の前にたどり着き、陶器のふちをつかんで身体を支えた。前髪が降りていて表情が見えない。
「何してる。出て行ってドアを閉めろ」
 高圧的にそう云われて、ハボックは何も云わず、彼の云う通りにした。見栄や外聞にこだわるマスタングは、部下の前で吐くところを見られたくないのだろう。たとえ、その原因を作ったのが、当の部下との非日常的な接触の結果であったとしても。
 やがて、浴室の中でマスタングが欲求に身を任せている気配があり、ハボックはドアから遠ざかった。見栄を張りたいならそうさせてやるのも部下の努めだ。彼は寝室に戻り、落ち着くために煙草を銜えた。煙草の煙が肺を満たすと、身体が自然と臨戦態勢になる。ハボックには、鎮静のためにも覚醒のためにも煙草が必要だった。
 彼は手早く自分の身体をぬぐい、窓を開けて空気を入れ換えた。むっと籠もっていた空気が外に吸い出され、代わりに、かすかに枯れ葉の香りのする秋風が部屋の中を洗った。粘つく体液に汚れたシーツを剥がし、運良く残っていた清潔なシーツと取り替える。そして、殆ど使うことのないキッチンでグラスに水を汲み、氷とレモンを入れた。どちらも酒を旨く飲むためだけに、貧相な冷蔵庫に常備してあるものだ。
 床や椅子の背にばらばらに放っておかれた、自分とマスタングの青い軍服を拾い集め、マスタングの着替えを用意すると、後はもうハボックにはたいして出来ることはなかった。クロゼットからハンガーを抜き出して、マスタングの軍服を丁寧にかける。肩章に光る銀色の三つ星が視界で夢のようににじんで見えた。
 数本目の煙草が灰になる頃に、寝室のドアが開き、マスタングが戻ってきた。血の気のない、白い顔をしている。ハボックは珍しく殊勝な気分になり、煙草の火をもみ消した。吐いてきたばかりでは、煙草の煙は不快だろうと思ったのだ。
「気分よくなりました?」
 ハボックは水のグラスをさしだして、ややうつむき加減のマスタングの顔を覗き込んだ。身長差があるので、背中をかがめなければならない。そのことを今更ながらに意識して、彼は少し甘い気分になった。先刻、初めてマスタングの身体を腕の中におさめた感触を思い出す。想像の中で、上官の身体を弄び尽くしたせいで、実物に接したとき、想像との違いに嫌悪感を催すのではないか、と思っていたのは杞憂だった。
 マスタングは、やや小作りだが、しっかりとした骨格を備え、それを控えめな筋肉と、密度の高いクリーム色の皮膚で覆っていた。てのひらひとつ背の低いマスタングは、ハボックの腕や厚い肩にあつらえたように、ぴったりと抱擁の中におさまった。
 マスタングは自分自身の声に耳を傾けるように、少しの間黙っていたが、ようやく息をついて、ハボックの手からグラスを取った。洗って濡れた前髪から、滴が一滴、目の横を伝って頬に流れ落ちる。
「気分がよくなったというほどでもないが、吐き気はおさまった」
 平静と云ってもいい声でそう答え、グラスの水を一口含んだ。レモンの香りに気づいたのか、ちらりとハボックの顔を眺める。そして、シーツが換えてあるベッドに腰を下ろして、今度は水をグラスの半ばまで一気に飲んだ。ベッドの下に丸めて横たわっている、汚れたシーツをつま先でつつく。
「意外とまめだな。いつもこうか?」
 揶揄するように云われて、ハボックは、上官が自分の異性関係をほのめかしているのに気づいた。一度ならず話題に上った、ハボックの恋人達について詮索するときと、同じ調子だった。
「いきなり吐かれるのは、いつものことじゃないスけどね」
「私も、相手にシャワーの権利も譲らずに、バスルームから追い出して吐くのは初めてだよ」
 マスタングは、目の中に入る前髪をどかそうと二、三度額の際を撫で上げたが、諦めたようにそろそろとベッドに身を横たえた。
「なかなか貴重な体験だった。……タオルをもう一枚」
 彼の平常通りの命令口調が有り難い。ハボックは、口の中で「Aye, sir」とつぶやき、命じられたものを取り出すためにバスルームの隣の棚に向かった。なるべく新しい、肌触りのいいものを、と思うが、積んであるのは同様のごわごわした安物ばかりだった。薄青い一枚を選りだして、寝室に逆戻りすると、勧めるまでもなく、ハボックの用意した着替えに、マスタングが袖を通しているのにぶつかった。
「席はずしましょうか?」
 タオルを放ると、マスタングは憮然としてそれを受け止めた。
「どうしてだ。気持ち悪いことを云うやつだな」
 身を起こして、濡れた髪を荒っぽく拭う。ハボックは彼に近づかず、扉によりかかって、マスタングがシャツの袖をまくり上げているのを鑑賞した。あの長さが、この人とオレの腕の長さの違いか。そう思うと少し興奮した。ロイ・マスタングが、自分の広くもないベッドに座って、自分の服を着て、濡れた髪を拭いている。そう思うと腹の奥から何かこみあげてくるものがあった。大声を出すか、マスタングを思い切り抱きしめてキスをするか、息が切れるまで走るか。指の先から徐々に這い上がってくる、高揚感を味わいたかった。しかし、相手が難しい顔でベッドに座っている以上、望んだことはどれも実行出来そうになかった。うずうずしながら次の命令を待っていると、マスタングが腕を止めて、眉をひそめた。
「何をぼうっと突っ立ってるんだ。お前も一風呂あびてこい。汗臭いぞ」
 ハボックは、思わず自分の腕を持ち上げて匂いをかいだ。今は鼻が慣れていて分からないが、全身が濡れるほど汗をかいたのだ。当然汗の匂いがするだろう。そういえば、そんなことをつけつけとベッドで云う女はいなかったな、と、ぐるりと記憶の中をさらってみる。
「寝ててくださいよ。明日は昼からだし、朝までここにいても構わないでしょ」
「構わないわけがあるか」
 マスタングはあきれたように声のトーンを上げた。
「皺のついた軍服を着て、朝方に、お前の家の前から車を拾うのか? そんなことをしたら、あっという間に周りに知られるぞ」
 ハボックは言葉に詰まった。周りに知られる、ということは最悪の結果を意味することだ。自分は圧力がかかって退役、マスタングは悪くすれば更に田舎の閑職に押し込められる可能性もある。実際、マスタングは、いつでも反乱分子として制裁を受けかねない野望を抱いているが、彼の足下の障害は、こんな卑近な人間関係ではないはずだった。一喝されて意気消沈したハボックに、マスタングは追い打ちをかけた。
「いいか。私たちは軍人で、男同士で、お前は自分の身の振り方もろくに決められない尉官だ。醜聞は最初は小さな火に見えても、瞬く間に大火になる。錬金術師がこう」
 こう、と云いながら、マスタングは指を鳴らす真似をした。その手は無防備な素手で、発火布をつけてはいなかったが、その指先から火花と焔が迸るのが見えるような気がした。
「手を加えるまでもなくな。そうなったら誰もお前を守れない。私も自分のことで精一杯だろう。だから火種を作らないことがまず重要なんだ」
 突然訪れたこの関係に先はない、と宣告されたような気がして、ハボックのみぞおちに、ひやりと冷たいものが触れた。
「ええと、……つまり、もうこういうのは無しってことスよね」
 そう云うと、マスタングは一度口を開いて何かを云いかけ、また閉じてしまった。
 黒い瞳が無表情にハボックを眺めている。彼は居心地の悪い思いでそこに立っていた。また追い払われる前に部屋を出た方がいいのではないか、と思ったが、足が動かなかった。
 幾ばくかの沈黙の後、マスタングの唇からふうっとため息が漏れた。
「そのうち私の家に来い。ベッドもバスルームもここより広いから、もう少しくつろげるだろう。暇が出来たら招いてやる」
 ハボックは戸口に足をかけたまま、ベッドの上の上官を見つめた。正直、いいことを云われているのか、その逆なのか判断がつかなかったのだ。すると、いかにも怠そうにマスタングは立ち上がり、重い足取りでハボックに近づいてきた。目の前に立たれて、思わず視線を逸らした。
 すると、握った拳で、マスタングはハボックの肩を軽く小突いた。
「男二人で入れるぞ」
「え、何ですか?」
「私の家のバスタブの話だ」
 そう云って、マスタングは高い位置にあるうなじを引き寄せ、ハボックの荒れた唇に触れた。その日二度目に、マスタングから差し出されたキスは、うっとりするほど技巧的で、甘く、唇を通して心を絡め取られるようなキスだった。ハボックがこれまで知った、優しく受動的なキスとはまるで違う。技術に長けた年上の男そのものだった。
「……うまいスね」
 は、と短く息を吐いてハボックがつぶやくと、マスタングの腕はするりと離れていった。
「そう思うなら学びたまえよ」
 そう云って、マスタングの口角が上がった。かすかに皮肉な角度を持ったその笑みは、気さくな上官の、慣れ親しんだ表情に戻っており、突然ハボックは緊張から解き放たれた。彼は背中の力を抜き、今度は自分から慎重にかがんだ。マスタングは笑った形のまま彼を受け止める。湯を浴びたばかりなのに、頬も唇も冷たかった。
 だが、この身体の中には火のような体熱がある。
 少なくとも今日は、自分がそれを一番よく知っているのだ。

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