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三番目の月(2002年10月)

02 21 *2013 | Category 二次::ヒカ碁・ワヤスミ


続き










 チャイムを押したが手応えがない。電池切れでもしているらしい。夏に帰国して以来、ほんの三ヶ月余りで、この部屋はたちまち伊角の勝手知ったる場所になった。和谷の小さな部屋は、院生や若いプロ棋士達のたまり場になっている。後から何人も訪ねてくるのを知っているときは、伊角も特にチャイムの調子など気にしなかった。
 ノックしようとして手を止める。今日は帰ろうか。少し弱気になってそんなことを思う。だが、心の表面に浮かんだ気後れの底に、別の本音が隠れているのを暴露するように、指がノブにかかった。ひやりと冷たい金属の感触が触れた。人差し指の先に鍵穴の窪みが触れる。伊角は思い切ってノブを回した。
「和谷、入るぞ」
 声をかけた瞬間、畳の上に伸びたジーンズの膝から下が見えた。伊角は照れ隠しに云い募ろうとした言葉を呑み込む。和谷が眠っているのに気づいたからだ。彼はそのまま玄関先に立ったまま、年下の友達が眠る姿を眺めた。耳を澄ませると、和谷の寝息が聞こえてくる。夜になって日が陰ると寒くなるが、まだ夏の名残をかすかに残した午後の部屋の畳で、両手を軽く握り、立っている時とまるで同じようにまっすぐにあおのいて眠っている。好奇心と負けず嫌いを映して見ひらかれることの多い、大きな目が閉じて、和谷の表情をやわらげている。
 このまま帰ろうか。また繰り返してそう思う。だが、自分がそうはしないのを伊角は知っている。今日は伊角なりに判断したぎりぎりの日取りだった。これ以上延ばすのはよくない。和谷にとっても、自分にとっても。彼は肩からリュックをそっと下ろした。音がしないようにそっと畳の上に下ろす。サマーセーターとリュックの肩紐の化繊同士が擦れる鋭い音が鼓膜を刺激して彼を驚かせたが、それは彼の耳がとらえたほど大きな音ではなかったようだった。
 いささかもリズムを崩さない和谷のおだやかな寝息にほっとする。碁盤を中心に据えた部屋の中で、隙間に埋まり混むようにして眠る彼の足許に、胡座をかいて座り込んだ。こんなに、和谷の眠りを妨げないように振舞ったのは初めてだ。エネルギーが切れると、いつもスイッチが切れたように深く眠る和谷を、弟にするように揺り起こすこともあれば、構いもせずに半分足がもつれるように近くに座っていることもある。
 今までこんなに彼を意識したことはなかった。
 きっかけと呼べるものがあるのとないのとでは、一つ一つがこんなに違うのだ。

「最近俺、やばいことがあるよ」
 買ってきた唐揚げに、ビニール袋でついてきたおろしソースをかけながら、和谷がふっとつぶやいた。それは低くさりげなく、彼の薄い唇から滑り出した。伊角はそれを、碁にまつわる話題だとしか思わなかった。和谷は進藤に比べて自分が伸び悩んでいると思っているのだ。そのかすかな焦りは言葉の端々に表れていた。
 それは他人が励ましても、否定しても、自分自身でしか解決できない類の想いだった。伊角はそれを身をもって知っている。和谷の碁について和谷自身に語るべき言葉はなかった。彼が和谷の碁を褒めちぎったとしても、和谷の腹の底で冷たく痼る焦燥が消えることはないだろう。だとしたら、彼が自分で何か云い出すまで放って置いてやるしかない。彼が院生をやめた頃、丁度和谷がそうしてくれたように。
 総菜を口に放り込みながら、彼は和谷の前に座っていた。和谷が続けるなり、話題を変えるなりするのを待っていた。
「夏の前は……や、違うか。伊角さんがこっちに帰ってくるまでは、そんなことなかったんだけどな」
 伊角は目を上げた。手元の作業に熱中しているかのように見える、和谷の揃った睫毛を眺めた。
「……うん?」
「だから伊角さんがさ……」
 和谷は、指についたソースを舐め取って、一瞬その指先をかみしめるようにした。それから少し目がさまよう。和谷がティッシュを探しているのに気づいて、伊角は駅前で貰った広告入りのポケットティッシュを渡してやる。ああ、ありがと、と和谷は上の空でつぶやいた。和谷の「やばいこと」の一端に自分が関わっているのに気づいて、伊角は座り直した。特に想像はつかないが、何かを云い出そうとする気配に少し緊張する。
(オレ、何かしたか?……)
 記憶をさらってみるが、最近は和谷と小さな口げんかさえしていない。思い当たることはなかった。
「オレが?」
 箸を置いて聞き返す。食べることに気を取られているせいかと思ったが、和谷が目をあげないのは偶然ではないようだった。雑誌の上に置いた皿に伊角の箸が置かれたのに気づいて、和谷の骨張った肩が硬くなった。丸めたティッシュを握りこんだ手を止める。
「クラスの女子が急によく見えてくることってあっただろ? ああいう感じかな」
 伊角は意味がよく分からず、それが何の比喩なのかを慌ただしく考えた。
「……あのさァ、誓って云うけど、オレ伊角さんを女みたいだとかは思ってねーから」
 面食らった伊角の顔に、和谷は慌てたように捕捉する。伊角はその瞬間、ようやく和谷の云わんとすることが少し理解出来たように思った。それはしかし、感慨を伴うには突然だったし、俄に納得のいく話ではなかった。
「何だかオレ、凄い勘違いしてる気がするんだけど……」
 躊躇った末にそう口に出すと、和谷は、手持ち無沙汰を持て余すように唐揚げを一つ口に入れた。暫く生真面目な表情で口を動かしている。それは一見、ありふれた友人の食事風景で、伊角は自分の言葉を証明されたような気分になる。なかなか口をひらかない和谷に焦れたり、恥ずかしくなったりしそうなものだったが、寝起きで頭がはっきりしていない時のように、彼はぼうっと静かな気分だった。和谷はやがて、違う、という風に顔の前で左手を振った。
「勘違いじゃねーんじゃないかな」
 対局している時以外に、目を伏せる和谷を見ることが少ないのに伊角は気づく。それは彼の目が隠されて表情が読みとれない、という状態に馴染みを感じないからだ。
「勘違いじゃ、ないって? ……オレがどう思ってるのか分かってる?」
「……多分」
 和谷は、「クラスの女の子が急によく見えてくるように」自分に「ヤバい」らしい。そして別に「女のようだとは思っていない」らしい。
 伊角はその不完全なキーワードをゆっくりと自分の中で並べ直した。
 後で考えてみれば随分な反応だったと思うのだが、その時伊角の口から漏れたのは、気の抜けるような、へええ、というような声だった。だが、誤魔化したり、揶揄うつもりではなかったのだ。だが、例えるなら、親しかった友達に知らない間に彼女がいて、子供が出来て、突然だけどこの前結婚したんだ、と云われたような、よそよそしいショックがこみあげてきた。どうやら自分に関係があるようなのに、よそよそしい、というのは妙な話かもしれないが、それが一番近い感覚だった。
 和谷は伊角の反応に、何かを喉につまらせたような小さな音をたてた。
「へえって、伊角さんさァ……」
 失望したような、ほっとしたようなささやきが聞こえてくる。息と云ってもいいくらいの小さな声だった。
 気分はぼんやりしているのに、急に五感が敏感になったような気がする。和谷の部屋の外の小さな用水路を水が静かに流れてゆく音や、夏に比べて少し乾いた銀杏の樹の葉が風にすれあって、繊細な金属片のような音をたてているのが聞こえた。
 耳だけではなく、目も妙にはっきり見える。視線に小さな顕微鏡がはめこまれているようだ。子供のようになめらかな顔の、左側に小さな傷がある。細い傷だった。それが一人前に剃刀負けだと気づいて、思わず彼の顔をまじまじと眺めてしまった。
 彼は和谷が掛け値なしに子供の姿をしていた頃から知っているのだ。同年代の少年の中にあっても小柄な方だった。棒のように細い手足が服の中で泳いでいて、目や表情があかるくて自己主張していた。座り方に癖があるのか、正座すると時々左足だけ痺れるとぼやく声も、打つときのちょっとした癖も、ずっと昔公園の遊具ではさんで怪我をした右手の親指の爪が、いつも少し歪んで伸びることさえ知っていた。
 だが、伊角の見知った部分だけが和谷である筈はなかった。
 自分も中国に行くことを和谷に相談したりはしなかった。九星会をやめる時も、和谷のことは考えなかった。和谷が伊角の知らないどんなことを考えていても、不思議だとはいえなかった。
 ふと、伊角は、以前は目立たなかった和谷のくるぶしの骨が外側に張り出してきていることに気づいた。伊角にも覚えがある。ただ痩せているだけで、女も男もないような子供の手足が、節々を内側から押し上げるようにして伸びてくる。今は、きしみながら育とうとするその骨が、和谷をなおさら小柄に見せていた。
「何とか云えよ、伊角さん」
 黙ってしまった伊角に、いたたまれなくなったように和谷は云った。緊張して声が少しかすれていた。
 そうか。
(子供の我が侭なんてものじゃないんだよな────)
 そう思うと、もやもやとしていたものがすうっと固まった。自分が、和谷に不意をつかれて気を悪くしていたのに思い当たって、伊角は苦笑した。彼の唇をほころばせた笑いに、和谷は妙な顔になった。相手が何を考えているのか見当もつかずに不安になるのは伊角だけではない。
「それ、早く食っちゃえよ。一局打とう」
 伊角がそう云うと、和谷は目を瞠った。見ひらくと子供っぽく丸くなる目の中に、不信感を感じ取って、彼は首を振った。
「何か云えっていうけど、こんな急に云えるかよ、何か」
 和谷がその答に満足しないのは分かっていた。伊角は自分の気持を的確に表現する言葉を虚しく求めて、胸の中を視線で探った。何かを考えようとするとき、棋譜や碁盤が意味もなく頭の中を流れて行くことはお定まりで、今も例外ではなかった。自分自身を白に、黒に入れ替えながら伊角は碁盤の目を無意識になぞっていた。目の前の小さな部屋と、かすかな傷と光沢で埋められた碁盤が二重写しになって見える。
「だいたい、和谷だって何もはっきり云ってないだろ。ヤバい、とか、女だと思ってない、とかそれだけだろ?」
 加熱された湯が突然沸点に達して、ふきこぼれるように、和谷の顔が赤くなった。伊角はあきれた気分で彼を眺めた。
(やっぱり、勘違いじゃないのか……)
「分かったよ」
 和谷はとうに食欲を失っていたようで、さっきから無駄にもてあそんでいたテイクアウトの弁当を横に押しやった。
「オレはもういいから、伊角さんこそ早く食えよ」
 和谷の憮然とした声に肯く。
「オレももういい」
 これじゃ、いつもと変らないな。そう思うと可笑しくなった。横に片づけてあった碁盤を、小さな部屋の真ん中に据える。汚すことへの気遣いから食事中にどかす以外は、小さな宇宙の中心の星のように、必ず真ん中に置かれる碁盤。和谷と伊角の間柄も、碁盤をはさまないでいることは考え難かった。
「お願いします」
 きちんと座った和谷の声に、僅かな屈託と乱れが見えた。今日は自分が勝つだろう、と伊角は漠然と思った。そして時間稼ぎをした後どうするのかを具体的に考えていないことに気づく。何もしないでぼんやりしているよりは、打っていた方が考えもまとまるだろう。
 伊角は頭の中にパーテーションを切るつもりで、その声のかすれから意識を切り離した。唇を結んで碁盤に目を落とす、和谷の初手を待った。

 伊角ははっとして目を開けた。部屋の持ち主が眠っている横で灯をつけるのもはばかられて、日が暮れた後も、黙って座っていたのだ。どうやら彼も眠ってしまったようだった。目をさました途端、驚くほど明るい、円い月が南側の窓から覗き込んでいるのが見えた。送電線が細い筋になって月を横切っている。この窓から見える月が、三日前に見たものと重なって、一瞬伊角の時間の感覚を狂わせる。
 三日前、やや悲壮に伊角の前に座った和谷は、まるで彼の碁が打てなかった。普段手堅く地を作る和谷が、深く侵入する伊角に荒らされ、盛り返せないままで投了した。
 和谷はショックを受けたようにぼんやりと窓の外を見あげた。カーテンの隙間から、満月よりも少し欠けた月が見えた。
 彼を痛めつける結果になって、伊角は少し慌てた。それと同時に、一年先にプロになって伊角に先んじた和谷が、こんな風に自分の前で膝を折ることに、少し快感を感じなかったと云えば嘘になる。我ながらこういう思考回路に流れこみ易い。伊角は和谷に知れないようため息をついた。
 だが、彼等の毎日は小さな勝ち負けの繰り返した。どんなにおだやかな日も、あかるく陽気に振舞う日も勝敗から切り離されることはない。彼等の世界は、自分の智恵と目で網の目をくぐり、相手の精神の内部を征することに一喜一憂する世界だ。負けず嫌いだけが生き延びて繁茂している。
 ────オレ、帰るけど。また来るな。
 検討は敢えて割愛した。伊角がそう云って立ち上がると、和谷は低く、うん、と答えた。ぴんと伸ばしていた背中が少し丸まって、和谷は何かもの云いたげに伊角を見あげた。だが、それはいつか、だとか、本当に答える気があるのか、とか。当然予想される言葉は和谷の口からは出てこなかった。彼はただ、唇の端で小さく笑い、じゃな、伊角さん、と付け加えただけだ。その後の裁断が自分に任されたことに伊角は気づく。背を向けて靴を履いているときも視線は感じなかった。碁石の音が聞こえて、最後にちらっと振り返ると、和谷はどうやら今の対局を並べ直しているようだった。
(負けず嫌い二人で、どうするんだ……)
 二人、という部分に引っかかりを感じて伊角の思考は止まった。碁なら、差し向かいで打っていても二人きりなわけではない。巨大な世界のごく片隅に、小さな自分たちの地を作っているようなものだ。だが、恋愛は違う。一対一の間で関係が完全に閉じるのが正常な姿だ、と伊角は思う。それが暫時のことであるか、永続するのかはともかく。
(オレと、和谷で双方向に閉じる……)
 伊角は急に冷え込んだ外気の中に出ていきながら、廊下からもう一度月を眺めた。
(何か、変だな……)
 きっと、和谷は閉じようとしてはいないだろう。彼は多分、そういう考え方はしない。

 窓に僅かな透き間が空いていることに伊角は気づいた。そこからひとすじの細い夜が、部屋の中に忍びこんできている。彼は窓と一緒にカーテンを引き、冴え渡る黒い夜空と月を閉め出した。やっとのことで、三日前の和谷の顔を目の前から消す。
 目の上にかぶさって来た前髪をかきあげ、まだ眠り続けている和谷を、暗闇に馴れた目で見つめた。姿勢は殆ど変っていない。
 まだ寝るのか。伊角は立てた膝に額をつけた。少なくとも、この三日間、和谷が眠れずに過ごしたようには思えなかった。
 伊角自身はと云えば、いささか寝不足だった。和谷が云い出したことの意味が、だんだん飲み込めてきて、一日ごとに動揺の針の振れ幅が大きくなっていた。死んだように眠る和谷の安らかさが少し口惜しかった。
 息、止まってるんじゃないだろうな。
 そう思って、彼はそろそろと身体を起こし、眠る和谷の上に屈み込んだ。その時、和谷の頭のすぐ側でカチッという音が聞こえた。びくりと身体がすくむ。それは、時間が進むと文字盤の中で数字のカードが切り替わる、小さな置き時計だった。ここに泊まることの多くなった和谷が、家から持ってきたものだった。そんな小さな音に身体をこわばらせるほど緊張する自分を、半ばおかしく思いながら、伊角は和谷に視線を戻した。
「……!」
 ほんの一瞬前まで閉じていた和谷の目が開いている。カーテンを通してほんのわずかにしみこんでくる外の光を、和谷の真っ黒な虹彩が受け止めていた。
 和谷の枕元に手をついて彼を覗き込むような形になったまま、伊角は凍り付いた。誤解を解こうと口を開きかけて、しかし言葉にならなかった。この状況で誤解がどう、などという複雑なことになったのは、少なくとも伊角の中ではたった三日前のことだ。伊角はまだそれに慣れていなかった。
「……何やってんの」
 和谷が身体を起こした。
「電気つかねェの?」
「いや、つくだろ」
 伊角はほっとして身体をずらした。和谷が少し心許ない動きで立ち上がり、部屋の灯をつける紐を探った。
「オレさ」
 寝ぼけたような甘い声だった和谷は、不意にはっきりとそう云った。そしてそこでぷつんと断ち切るように灯をつけた。何かが小さくはぜる音がする。水銀と電子パルスが、塗料と紫外線がぶつかり合って発光する。こんなに蛍光灯が明るいものだとは思わなかった。狭い部屋は、白い光で隅々まで照らし出され、その中にいる二人の姿が明確になった。
「この前はっきり云わなかっただろ」
「うん」
 伊角は、さっき和谷を覗き込んでいた位置にそのまま座りこんでいた。蛍光灯のスターターに繋がった紐を手に持って立った和谷を見あげる。
「もういいよ。分かったから」
 そう云うと、和谷は怒ったように眉をひそめた。
「よくねェよ」
「でも、お前がはっきり云っても云わなくても、オレの返事は一緒だし」
 和谷は本当にそのまま凍り付いた。飴玉みたいな目だ。伊角は思う。透き通った綺麗な目を硝子球に例えることもあるが、和谷の目はもっと濃密で甘い。
 和谷は警戒するようにそろそろと伊角の側にしゃがみ込んだ。
「返事してくれんの」
 伊角はどう答えようかと少し迷いながら、和谷の顔を眺めた。素直に通った鼻筋と、色の薄い唇をたどる。
「その前に、和谷さ。なるべく口閉めて寝るようにしろよ。お前寝るとき口呼吸になってるぞ」
 さっき思ったことを忘れない内に、と口に出すと、和谷は拍子抜けしたように、はァ? と聞き返した。
「口呼吸してると喉が乾燥して風邪引きやすいんだってさ。鼻呼吸は粘膜でウイルスも濾すし、酸素が吸収されやすいから、頭も働くらしいし」
「伊角さん……」
 もっとも伊角の知る限りでは、和谷が風邪菌に負けて寝込んだことなどない。それに、鼻呼吸出来ると何かと便利だろ? 軽口で付け加えようと思ったそれを伊角は慎んだ。何で、と聞き返されても、聞き返されなくても恥ずかしい思いをするのは自分だったからだ。
「オレって、いつまでたっても伊角さんの三人目の弟だよなァ」
 伊角の中の、彼らしくもない悪戯心には気づかないまま、和谷はまたため息をつく。
「まぁ、全然……それでもよかったんだけどさ。でも、夏に伊角さんに電話貰うまで、オレすごく苛々したんだよな」
 和谷は汗でもかいたのか、自分の膝にてのひらを擦りつける。
「中国に行って、そのまま向こうに居続けって聞いた時、すげェむかむかしてさ」
 そう云って、自分の言葉をうち消すように首を振る。
「や、頑張れって思ってたよ。ちょっとくらい連絡なくても……オレもしなかったし。でも、暫く中国にいるって聞いてから、まだいる気かよふざけんなって」
 その時の記憶をなぞるように、彼は漠然と指を折る仕種をした。
「すげえ時間が長くて、数えたよ。一ヶ月、とか。二ヶ月とか」
 和谷が自分に、謝らせようとしているわけではないと、伊角は分かっていた。正直、プロになりたての和谷が、自分のことを考えているなどとは思ってもみなかった。だが、和谷が自分のことを気にかけていたことは、漏れ聞いてもいた。進藤が、
 ────伊角さんのことより、まず自分のことだろって、和谷が何回も云ってさ。
 ────ほんっとに何回も。
 夏に、家に訪ねて行った時、彼はそう云って少し笑った。伊角も笑うしかなかった。まず自分のこと。その数ヶ月間、まさに伊角はその状態だった。
 だが、和谷はあかるく透き通った幽霊のように、絶えず伊角の側にいた。和谷は三番目の弟、と自分のことをそう云ったが、弟たちとあんなに長い時間密接に過ごすことはそうない。対局していても、検討していても、食事や移動の時間にも、ふっと和谷の記憶が顔を出すことがあった。幻の中の和谷はいつも笑っているか、怒っているかどちらかだった。食欲は旺盛だが、食べるものには無頓着で、パンをかじったりカップラーメンを啜ったりしながら、いつも彼が頭の中の棋譜をなぞっているのが分かった。
 お互い様だが、碁で埋め尽くされた和谷の中に、自分が入り込む隙があったというのは、伊角には不思議だった。だが、もしかすると和谷の側にも自分の幽霊がいたのかもしれないと思う。ファーストフードで食事を済ませたり、夜通し棋譜を並べたり、そっと足音を忍ばせて帰宅する道の、和谷の隣に伊角はいて、ことさらに自分の不在をアピールしていたのかもしれない。
「伊角さんが帰ってきて、うちに来るようになったりして、苛々もおさまると思ってたんだけどさ」
「おさまんなかったか」
 和谷は肯いた。
「そう、もっと苛々してきて、また数えたよ。落ち着こうと思ってさ。もうそろそろおさまるかとか、涼しくなったら頭冷えるか、とかさ」
 和谷は、背中を曲げてのびをする猫のように、胡座をかいた自分の膝の上に両手をつっぱった。必死にリラックスしようとしている。自分と和谷、碁の直接介在しないこんな話題が、彼の身体をかちかちにするほど緊張させているのだと知って、伊角はまた不思議な気分になる。
「最近、もしかしてこれは苛々じゃないのかも、って思ったんだ」
 和谷は息が上がったように、三ヶ月の葛藤の末の答を、早口にささやいた。
「オレ、伊角さんが好きなのかも」
 好き、の部分が上擦って、和谷は自分の声にぎょっとしたような顔になった。
「……よくそんなこと思いついたな」
 半ば本気で感心する。和谷は血の気の射した頬を隠そうとするように顔を俯けた。
「色々あったんだよ」
「……へえ、色々」
 深い意味はなくリピートすると、和谷が益々赤くなって、彼の方では深い意味があったことに伊角は気づいた。
「オレは」
 さっき、和谷が灯をつけながら一度区切ったように、伊角も一度考えるための間を取らずにはいられなかった。
「オレも日本を出て色々考えたよ。今、身近なところで戦争もなくて、碁が余分な娯楽だなんて誰からも云われない。オレたちは碁のことだけ考えてればいい生活で、同じものを目指してる限りお前や進藤と接点を持ち続けるのも難しくない。……日本に帰ったら絶対連絡したい友達がいるっていうのも、凄く幸せだと思った」
 和谷は息を殺すようにして彼の声に耳を傾けている。
「でも、それとこれとは別」
 きっぱりとそう云うと、和谷は落胆した表情になった。
「そりゃそうだけどさ……」
「だけど当たり前だろ? 今まで考えたこともなかったんだからさ。お前は何ヶ月も考えてたことだけど、オレはまだ三日だけなんだし」
「……」
「顔見て、直接喋った方がぴんと来るかもしれないと思って来たんだ」
 自分の言葉が拒否でないと分かるように、辛抱強く伊角が言葉を重ねると、和谷は面食らったように眉をひそめた。
「だいたい、嫌じゃないっていうだけでも驚くよ、オレは」
「嫌じゃないって、伊角さんが?」
「そう、オレが」
「……」
 和谷は、茫然としたように伊角を見つめた。
「色々あるんだろ?」
 念押しをすると、所在なげだった和谷のてのひらに、にわかに力が籠る。骨の隆起を描いた手の甲が、驚くような衝動を浮かべるのがまざまざと目に入った。三日前に起こった伊角の五感の過敏状態はまだ続いているようだった。
 和谷は、畳に片手をついて、もう片方の手を伊角に伸ばした。和谷の緊張がぴりぴりと伝わってきて、伊角はこのまま飛び出して部屋を出るか、自分が引きずり寄せてしまいたい衝動を、ようやく我慢した。和谷がリードしようとしている気配を感じたからだ。
 男にキスされるのをじっと黙って待っているより、する方がよほど楽だ。そう思って、自分の中で厳密に訂正する。男に、でなく、和谷に、と限定するべきだろう。和谷でなければ、こんな意味では指一本触れたくない。
 近づいてきた和谷が顔を傾けたのに気づいて、伊角は目を閉じる。一体どんな顔をして自分に触れようとしているのか、目を離したくない衝動をようやく退けた。先に顎が触れた。まめに剃刀を当てる必要があるとはとても思えない、なめらかな顎が重なってくる。それでも、ほんの少し前までは子供のように甘い匂いがした和谷の身体から、かすかに男の匂いがした。
 畳から離れた手が、伊角の両肩をつかまえる。身長差を埋めるように膝で立ち、高い位置から和谷の顔が重なってくる。
 エナメル質がかすかにこすれ、近接した鼓膜に硬い刺激が走る。
 乾いた唇の感触だけでなく、濡れた息が触れるのを感じて、伊角もどうにか唇を開いた。同じような構造の衝動を抱えているから、和谷を理解し易いだけで、彼も決して経験豊かとは云えなかった。
 やわらかい感触に唇をくすぐられる。
(……うわ……)
 唇を湿されて、甘い、過敏な刺激が走り抜けた。舌が小さく押し合って、やわらかさと弾力が口の中でないまぜになった。
 和谷の喉が鳴るのが生々しく聞こえて、伊角の喉元にも熱が飛び火する。和谷とこんなことをしているのだと思うと、奇妙なほど興奮する。
 彼は片手を上げて、和谷の背中に触れた。背骨がかすかに盛り上がる背筋に、Tシャツの布の上から触れる。あたたかく融けた唇と、和谷の背筋を包む自分のてのひらと、どちらに集中していいのか一瞬わからなくなる。
 和谷が、もっと深い角度を探してあがくたびに、背中はかすかによじれ、熱を持って、彼がどれだけ必死なのかを伊角のてのひらに伝える。
 もやがかったものがこみ上げてきた。和谷の言葉を借りて云うなら、それは「苛々」に似ていると云えないこともなかった。前から彼は和谷が好きだったが、こんな風に可愛くてたまらない、と思ったのは初めてだった。
「伊角さん……」
 呼ぶな、そんな声で。
 目が眩んだ。
 切れ切れの呼吸の合間にまじった自分の名前は、特別な意味があるものだとすぐに分かる。伊角さん、と彼を呼ぶ人は他にも何人もいるが、こんな風に彼を呼ぶのは和谷だけだ。伊角はとても応えることは出来なかった。自分がどんな声を出すのか、想像もつかなかった。
 背中からてのひらをほどき、和谷の頬に触れる。そのまま項に滑り込ませて引き寄せる。そうしただけで不器用なキスはかっちりと噛み合わさったように安定した。
 安堵したような息と一緒に、もう一度和谷の唇が深く触れてくる。
 どうして自分と和谷が、という驚きがようやく去り、自分に重なった唇や身体の温かさを改めて味わった。興奮が彼等の息を浚い、せわしない小さな息継ぎを繰り返した。唇から空気を取り込んでも、体温の上昇した身体はあっという間に酸素を使い切り、接触と呼吸の合間で身もがいた。
「……っ」
 和谷は唇を離してひゅっと息を吸い込んだ。犬が顔を擦りつけるように、伊角の首筋に顔を埋める。キスで濡れた唇が薄い皮膚に触れて、そくそくと痺れが沸き上がってきた。髪が、皮膚が擦れるたびに、甘い感覚が水紋を描いた。まだ三日目だ、と云いながら、先に理性が押し流されてしまいそうだった。嫌悪感がまるで無いのが嘘のようだ。
 望むと望まないとにかかわらず、伊角は、和谷が迷ったよりも早く結論にたどり着くことになりそうだった。
 また時計の文字盤のカードが動いた。わずかに寝乱れて跳ねた和谷の髪の先に触れながら伊角は目をかすかに開けた。
 閉ざしたカーテンの向こうをゆっくりと月が横切ろうとしている。蛍光灯のあかるさに隠れているが、街灯よりも優しく高い光源が向こう側にある。
 和谷の閉ざされた睫毛が視界の中でふるえる。
 伊角は遂に考えるのをやめた。

 決して屈服を強制しない温かい身体に、負けず嫌いの意地ごと、自分をすっかり明け渡した。
 
                                  

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