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ジンとマラーイカの夜

02 21 *2013 | Category 二次::エイリアン通り・シャルセレ


続き










 LAに住んでいた頃は、漠然と夢を追いかけていた。あれほど執着した映画も、さまざまな人間関係も全てが夢だった。夢というスモーキーな色彩で美しくコーティングされた十代を、だが、彼は決して虚しいと思ったことはない。
(映画だって夢だと思ってたら、女優デビューしちまったんだもんな)
 彼は目覚める間際の浅い眠りの中で考えた。夢でいられる内はどんなことでも夢にしておいてもいい。現に、放っておいても、夢は一つずつ現実味を帯びたものに変わり、自分の中で決して不自然でないかたちでふるいにかけられた。
 夢をふるいにかけることも、十代の頃は、自分の心への許されない裏切りだったが、最近では強制されてすることでないなら仕方がないと思うようになった。
 シャールは午睡の中から引き戻されて目を開けた。外はまだ明るいようだが、部屋の中は薄くかげっている。ほんの少し休もうと思って寝台に転がった筈なのに、ブラインドが降ろされているのだ。ブラインドの透き間から漏れる細い光が、すぐ側に立った男の、民族服の背中に垂れた長い黒髪にまつわっていた。最近、彼はとみに側にいることが多くなった。彼が決して自分から目を離さなくなったのを自覚する。
 ここ数年でシャールの地位は上がった。彼はほんの数年前まで首長国連邦の中の一国、ジャザイリーに生まれた金髪の鬼子だった。歴史のはざまに、王族の気まぐれで産み落とされたかのように見えた子鼠は、幾人もの血と、父親の執拗な努力の橋を渡って、ついに成獣になった。ひとの作った道を歩く。それも最初は抗い様のない、寝苦しい夢のひと幕だった。しかし父の愛と望みは強く、シャールはじきにこの国の政治に食い込もうとしている。自分の足で歩き始めている。橋を後の世代に作ってやる立場に、ゆっくりと踏み込み始めている。そこに、自分の持つカリスマ性を投入することに、すでに彼には迷いはなかった。
 その計画を支えるのがこの男だ。
「目が覚めましたか。コーヒーは?」
 なめらかな共通語が、振り向いた男の唇から漏れる。数年前までは、ロスに住んでいた頃の習慣で、英語で話すことも多かったが、いつだったかきっぱりと、共通語だけで話しましょう、と云い渡されたのだ。
「もらうよ」
 シャールは起き上がって頭を振った。まだ目が覚めない。最近は勉強すること、そして実際になすべきこととの間にはさまれて、休む時間がぐっと少なくなった。
「今日は七時までは空いてますから、もう少し休んでていいんですよ」
 あなたコーヒー飲むと寝直せなくなるから。
 そう云って見下ろすセレムに、シャールは首を振ってカップを受け取った。
「ぎりぎりまで寝てる訳にもいかないだろ?」
「良い心がけです」
 セレムは最近、シャールが休んでいる時には座らない。かたわらに立つ彼がいつもどこか緊張しているのが解る。二十代後半を越えても髪も切らず、結婚もせずにシャールに付き従う彼は、秘書役だけでなく、ボディガードを兼ねる心積もりだ。セレムは民族服の下にいつも銃をつけている。
 菜食主義者であり、熱心なイスラム教徒である彼が、米製の拳銃を肌身離さず持ち歩く姿にシャールは自分の立場の重さを実感する。セレムは決して望んで人を傷つけるような男ではない。しかし、望まざる場合にも必要なら引き金を引く。そしてそれをさせるのは常に自分だ。
 名の一部にジンを持つこの男に、銃を持たせている。
 開祖ムハンマドの時代にも、イスラム教に否定されずに生き残ったほど、アラブに親しんだ精霊(ジン)。ジンが美しい青年の形でひとの前に現れた話が、昔語りに数多く残っているが、長身に長い黒髪を持ったセレムは、そういった意味でも正しく悪戯好きで意地の悪い、美しい精霊の姿に当て嵌った。悪魔(シャイターン)とマラーイカ(天使)、双方の影を持つ、肉ではなく火で出来た生きものに相応しい外観を見せる。
(ジェラールふうに云えば俺はマラーイカ側かな?)
 中身は全然違うけどね。人の良い顔で笑う古いフランスの友人の顔を思い浮かべる。思わず口元がほころんだのが目に入ったのか、無表情だったセレムの顔もかすかになごんだ。
「何です?」
「……ジェラール」
 シャールは、コーヒーの苦みを味わって喉の奥に送り込みながら、思わずニヤリとした。
「ジェルの顔思い出したら、それだけで笑える。不思議だよな」
 セレムはちらりと皮肉に片方の眉をあげて見せた。この、彼にしてはオーバーアクションともいうべき表情は、四年間のアメリカ暮らしで身につけたものだろう。
「晩餐の時に思いだし笑いなんかしないで下さいよ」
「平気平気」
 彼は思いきり身体を伸ばし、立ち上がった。顔を作るのは得意中の得意だ。それで金をもらったことさえあるのだから間違いない。
「入浴するなら用意出来てますよ。はずしましょうか?」
 カップを受け取って背を向けるセレムに、シャールは後ろから腕を巻きつけた。今日は、父をいささかよく思わない閣僚との晩餐だ。いずれは彼と、または彼の息子とシャールは同僚になる。さらに時間がたてば彼をおさめる立場になるのだ。
 今まで隠しておいた長男の存在を印象付け、敵意を削り去っていこうとする父の根回しの一環だ。こういった「内側へ向けての外交」が、シャールの緊張感を最も強く刺激した。彼は昨今、他の首長国や諸外国との外交の場にも顔を出すことが多かったが、それよりも、内部での地固めは神経を疲労させた。
 それを目の前の、黒髪のジンは和らげる。彼に自分が何を求めているのかを悟ったのは、ここ一年のことだ。兄弟同様に育った歳上の男に、そんな慰撫を求めているとは知られたくなかった。彼らが親しすぎるのを、アメリカではたびたび友人のからかいの種にされていたし、自分たち自身も冗談の一環にしていたが、まさか自分が本気だとは思わなかった。
(あっと云う間に気づかれたけどな)
 シャールはため息をつく。気づかれてからはいっそ開き直って、何度かアプローチを試みた。そのたびにきっぱりと拒絶されて、それほど神経の太くはないシャールはさっさとあきらめてしまった。拒否は手痛く、ダメージばかり大きかったからだ。ところが、彼が外交の場に多く出るようになって一年、突然セレムの方から譲ってきたのだ。ほんのふたつきほど前だっただろうか。

(「どうして急に気が変わったんだよ」)
 時に信じられなくなるほど意地の悪くなる幼馴染みの、それが真意とはとても思えずに、シャールは食い下がった。セレムは明後日の方向に黒い瞳を向けたままため息をついた。
(「まあ、あなたもロス時代ほど何もかも自由に、というわけにはいかないですから。周囲で出来る限りの融通を、と思いまして」)
(「融通を」)
 頭に血が上って、思わずセレムの肩を押しのける。
(「ふざけんな、融通きかせてもらって喜べるかよ……」)
(「……」)
 セレムは目を細めた。ほんの一瞬前、軽く触れてきたセレムの唇が冷たく結ばれるのが見える。この、一見おだやかな表情の変化が、彼の相当な不機嫌を示していることを、不幸にも、シャールは知っている者のうちの一人だった。
(「何だか怒ってるみたいですから帰ります」)
 寝台に腰かけていたセレムはさっさと立ち上がり、服の裾を直した。
(「それじゃおやすみなさい」)
(「待てって!」)
 思わず、その手首を掴む。
 彼が腹を立てた時の、のしかかってくるような沈黙の重さを身に沁みてしっているシャールは、いまだにこの、臣下でありながら幼馴染みの兄である男に、精神的に逆らえない。
「ちょっと話そうぜ、セレ、座れよ」
「……」
 この頑固野郎。物分かりのよさそうな顔して全然譲らない。シャールは掴んだ手首を離して見せて、ため息をついた。
「どうか座って下さい、お願いします」
 そして、ごくごく下手に出てみる。
 わたしがせっかく譲ったんですよ、という態度がありありと解るセレムに、彼の忍耐と理性が持ったのはそれから二十分程度だっただろうか。我ながら思いきったとは思うが、シャールは結果的に、セレムから不可思議に思えるほどの慰撫を受け取ったのだ。
 その夜半ふと目覚めると、セレムはすでに起き上がって衣服をつけていた。普段の彼とまるで変わらない姿で、眠るシャールのかたわらに腰かけていた。最近、彼が眠っている時、ぴりぴりと全身を緊張させて立っているセレムしか見たことがなかったシャールは不思議な安堵に包まれた。
 長い指がそっとシャールの髪に触れたのに気づいて、シャールはセレムに声をかけそびれた。抱き合っている最中より気恥ずかしい気分になる。
 セレムはしばらくシャールの髪を撫でていたが、小声の英語で、天使ねぇ……とつぶやいて喉声で笑った。詩人に憑くジン・ライーの喉を借りたように、セレムの低い笑い声にはビロードの艶がある、シャールはそれを一瞬陶然と聞いた。
 セレムはしばらく笑いがおさまらないように肩を震わせていたが、気配を殺してするりと立ち上がった。シャールは慌てて目を閉じる。セレムの溜息が聞こえる。そして彼はそっと部屋を出て行った。
 次の朝のセレムには、普段と違ったところはどこにもなかった。さながら、カリフ、ハールーン・アル・ラシードとの同褥を拒んだ女奴隷が、夜は昼に打ち消されるのだと云って恥ずかしめをまぬがれたように。
 しかし、なかったことになるかとも思ったが、意外にもその夜のことがリセットされた訳ではなかった。ことにシャールの緊張を解く必要のあるような時にはセレムは拒まない。それが子供に菓子を与えるようなものに思えてくやしくもあるが、拒むほどの不満でもなかった。

 数えるほどしか共有していないそれを、言葉にすることは出来ずに、セレムのうなじに額を押しつける。
「何です、暑苦しいですよ」
 セレムはそう言いながら、自分の肩に巻きついた、皮膚の色の違う腕に指を重ねる。シャールは見た目はほとんど白人に近い。母のシェリルの血が強く出たのだ。セレムが向き直るのを合図に唇を重ね合わせる。声だけでない、皮膚にも、身体をかたちづくる骨格の美しさにもジンをはらませた男の(それは今、さまざまな相手から賞賛されるシャールの外観の美しさとは、また形を異にしたものだ)、ゆっくりと拍動する脈を隠した首筋に、唇を落とし込んだ。
 彼がいかに普段襟の高い服をつけているからといって、跡を残すような真似はしない。うまく胸元をはだけられない指先に、セレム自身の指がゆっくり重なって来る。胸元が開くと現れる、心臓をおさめた胸郭。
 黒くなめらかな髪が、シャールの肩に、胸に滑り落ちて来る。体勢を変えると、白麻の敷布の上に、蛇のように髪は伝い落ちる。髪に、胸に口づけて、セレムの濃密な黒い睫毛が震えるのをシャールは見つめる。
 彼とこうなるのは別段夢ではなかったような気がする。もっと夢はあった。
 仕方なく手放した夢もある。母と同じ立場に立たせることに煩悶して、恋をあきらめた少女もいる。
(「シャールくん、桜って日本の花だと思われてるけど、ほんとは桜の故郷ってヒマラヤなんだよ?」)
 最後に会った日、彼女が涙に目を潤ませて話してくれたことだ。
(「でも大事なのは、どこで一番深く根を張ったかなんだよね」)
 それで桜のイメージを日本が独占しちゃったんだ。そう云って彼女は微笑った。
(「……僕の故郷はこの家だって、これからも思ってていいよね?」)
 ある程度の年になって渡米してきたせいで、どこかマニッシュな言葉を話す少女の声が震えた。あの時うなずいたことが、結果的によかったのか悪かったのか、残酷なことだったのか。それはまだシャールには判らない。
 自分の外国人の友人も歓迎される国に。それはまさしく彼の夢だったが、夢のまま、いまだ宙に浮いている。アラブとイスラエルの反目、OPECと欧米各国との化かしあい。石油産出国であるジャザイリーもその流れの支流だ。石油恐慌以降、日本の中東外交がアラブ寄りになったところで、彼らが馴染まぬ遠い異国の民であることに変わりはない。
 暗殺の恐怖におびえながら妻を外国から迎える、父の強さをシャールは受け継がなかった。
 しかしながらセレムひとりに仕事の補佐をさせて、危険から守らせ、慰撫をも求めるのは望み過ぎだ。我ながらそう思う。だが彼は夢ではなかった。手の届く現実として突然そこに現れ、今もシャールの腕の中にとどまっているのだ。
 シャールは、眉をひそめて自分の指に応えるセレムの顔を見ていられずに、彼の肩に顔を埋めた。ため息が生々しく耳元に訴えかけて来る。
(「セレは何も云わないから、どうも信用出来ないんだよな」)
 いつの夜だったかそう漏らした彼に、セレムは自閉症気味なのはおたがいさまでしょう、と口元をほころばせた。胃炎持ちのくせに、と軽口を叩くと、屋根裏部屋で一人で丸くなってるような人に云われたくありませんね、と軽口で返された。
 何故彼が応じるのか。
 その理由を考えようというシャールの意志を、その晩の会話がせき止めた。
 まあいいか。
 そう思えたのだ。
 真っ暗な遊牧の空を戴いて、光るラクダの目に囲まれながら、異邦の寂しさをふと分け合うような、そんなものと思えば。
 かつて異教徒であったジンの一群は、イスラムの始祖・ムハンマドの読むコーランを聞いて、イスラムの信者になったという。


 シャールは、ジンの魂を右手に与えられた、王の卵だ。異教徒の金の髪と共に、精霊の呪いを恐れぬことの資格を授かった。


 ……慈悲深く慈悲あまねきアッラーの御名において
   云え、「おすがり申す、人間の主に、
   人間の王者、人間の神に。
   そっと隠れてささやく者が、
   ひそひそ声で人の心に私語やきかける、
   妖霊(ジン)もささやく、人もささやく、そのささやきの悪を逃れて。」
……<コーランより>

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