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イノセント

03 01 *2013 | Category 二次::FF7・クラウド×ヴィンセント

本編終了後・アドベントチルドレン直前。

続き





「クラウド……!」
 ティファらしいとは云えない、取り乱した声が、彼の浅い眠りを破った。クラウド・ストライフは、カーテンの隙間からかすかに入ってくる光に目を射られて、開きかけた瞼をもう一度閉じた。こうしてティファの声に揺り起こされると、まるで過去に戻ったような錯覚を起こしてしまう。
 ミッドガルの七番街スラムの、ティファの店「セブンスヘブン」で、かつては何度も眠るために部屋を借りた。数時間も眠ると、男手を必要とする何かしら小さな用事が出来て、ティファがクラウドの部屋をノックしたものだ。
 だが、七番街スラムはもう無い。神羅が、街の上部プレートを支える支柱を破壊したからだ。そして、ミッドガルに住む者ももう殆どいなくなった。だが、ミッドガルが全くの無人になった訳ではない。未だ、そこに蠢く者たちはいる。麻薬の売買、ミッドガルに残された資源を密売する者、崩れた神羅ビル跡に死体を捨てる者。(そこに捨てられた死体が、人目に触れる可能性は殆ど無いと云ってもいい)犯罪者達の根城に、滅びた大都市はうってつけだった。
 それだけでなく、家族の墓をミッドガルに残して来たため、そこに詣でる者も少なくなかった。
 あの街にはまだ数多くのものが遺されているのだ。燃えてしまった夢、きらびやかな過去、神羅のコントロール化で細々と営まれていた、平穏な暮らし────。
「クラウド!」
 二度目のティファの声が彼のまどろみを打ち消した。今度こそクラウドは身体を起こした。粗末なソファに横になっていたせいで、背中の筋が強張っていた。
「どうした……ティファ」
 階段を駆け上ってきた足音が、クラウドの部屋の前で一瞬止まり、そして、耐えきれないように扉が開いた。動きやすい革の上着に膝までのぴったりしたスパッツを履いた、いつもと同じような服装のティファだった。だが、彼女のやや暗く沈んだ瞳には、涙がいっぱいに浮かんでいた。
 クラウドの、まだ半ば眠っていた精神が、ティファの滅多に見せない涙に、冷水を浴びたように覚醒した。ティファは芯の強い女だ。滅多なことで涙を見せるようなことはない。悪い想像が駆けめぐった。マリンに、あるいはデンゼルに何か? 遠隔地に散った仲間達の誰かを、凶事が襲ったのか?
「クラウド、わたし」
 ティファのなめらかな頬の上を、堰を切ったように涙があふれてこぼれ落ちた。美しい涙だった。禍によって流されたのではないと、すぐに確信出来るような涙だった。
「エアリスを見たわ」
「────!」
 声にならずに、クラウドは身体を強張らせた。ティファが何を云っているのか、にわかには分からなかった。ティファは、透明な涙を幾条も頬に伝わらせながら跪き、ベッドに座ったクラウドの胸に身を投げかけてきた。彼女の、艶やかな黒髪がクラウドの肩や胸に枝垂れかかった。甘い香がする。衝撃に痺れた自分の五感が、ティファの身体や髪の柔らかさ、その香を意識していることに気づいたクラウドは、それを理解し難い、と思った。
「ミッドガル伍番街の教会で、エアリスを見たのよ……!」




「ストライフ・デリバリーサービス」。ティファ・ロックハートがエッジで新たに始めた「セブンスヘヴン」の上階に電話を引いて、クラウドはそんな仕事を始めていた。
 ライフストリーム以後に買った大型のバイクで、クラウドは運び屋────デリバリーサービスなどと云えば聞こえがいいが────をするようになっていた。人々は、一年前のメテオの出現から、ライフストリームの発生までの短い数日間に起こった変化を、「ライフストリーム以前」、「ライフストリーム以後」という風に分けるようになっていた。関係者の間で使われている「ジェノバ戦役」という言葉を使う一般人は殆どいない。
 クラウドは何でも運んだ。
 小さな子供が遠い街に住む友達に届けるメッセージから、多少怪しげなものまで。
 人を運ぶ事もある。要するに移動手段付きのボディガードだ。ライフストリームがメテオを破壊し、世界が終らなかったとしても、クラウドにとっては、その前の世界でしていたようなことをするしかなかった。戦うこと、走ること。そして、それが自分の能力の能う範囲であれば、人を護ること。
 彼は、この「護る」という一点においては、多分にネガティブになっていた。
 それは、彼の年齢にしては、かつて、護れなかった、と思えるものが余りにも多いからだろう。
 夜明け方に見る浅い悪夢の中で、よく、護れなかった人々の最期を再現した。あるいは、護れなかったと思っていたものが皆、自分の手の中に帰ってくるような都合のいい夢を見ることもある。夢の中で機会を与えられるのだ。そして自分は戦うために改造を施した剣をふるい────彼等を救う。黒髪の、頼もしかった友人を貫いた無数の銃弾から。七番街支柱の途中で倒れて死んでいったバレットの仲間たちをなぎ払った散弾から。そして何よりも、あの美しい廃墟の都で、年上の少女の胸を貫いた怖ろしい長剣から。
 今のクラウドは確実に強くなった。もしも、今の力を持って過去にゆくことが許されたとしたら、今なら彼等を護ることも可能かもしれない。だが、時を逆行させる時計はない。彼は夢の中でしか仲間の骸の許へ帰れない。
 そして、目を開けると、必ず、生きていかなければいけない気の遠くなるような現実が彼を待っているのだ。どうやってこの一日を過ごせばいい? 彼は、いつも浅い眠りから醒めると自分に問いかける。どうやって次の眠りがやってくるまでの長い時間をやり過ごせばいい? 時間は果てしなく永く、それでいて無為に過ぎていってしまうようだった。
 彼は目を覚ます。
 そして、電話を確認する。
 仕事が入っていないかどうか、何よりも先に確かめる。そして、何か出来ることがあれば、食事もそこそこに飛び出してゆき、バイクに跨る。非常識なスピードの中に身を任せている時は、彼の心にかかる加重がかすかに軽くなる。戦うことも────結局のところ、彼の性に合っている。だから、危険な仕事を引き受けることも多かった。そして彼は長い間部屋には帰らない。現実と向かい合うのが怖い。夢を見る夜が怖い。そして、夜が明けて朝がやってくるのが怖いのだった。
 ティファは、極力口出しをしない女だった。云うときにははっきりと云うが、それまでは口を出さない。デンゼルやマリンを相手にはよく教え諭しているのを見かけるが、クラウドのすることには、干渉しようとしなかった。
 だから、ほぼ一緒に暮らしながら────時には寝床の中で汗をわかちあうような事があっても、クラウドはティファが何をしているのか、どんな思いでエッジに暮らしているのか、セブンスヘブンの経営が成り立っているのか────そんなことも知らなかった。ティファが今朝、ミッドガルに出かけたことも知らなかった。
「ティファ」
 クラウドは、抱きしめて撫でていたティファの両肩を、自分からそっと引き離した。ティファの震える肩の上で、自分の指が凍り付いてしまいそうだった。
「ミッドガルには、どうして行った?」
「伍番街の教会の花の世話をするために、一週間に一度は行ってるわ。わたしはエアリスじゃないから、たいしたことは出来ないけど……」
 ティファの目からまた涙があふれた。
「クラウド、知ってる? あの教会にエアリスが咲かせてた花畑があったでしょ? あれ、まだ咲いてるのよ。花はそっくり無事だったの。エアリスと一緒に花の世話をしてた子供たちも無事だった。今ではエッジに暮らしてるけど……時々、あの子達も教会に行ってるみたい。あのあたりは危ないからって何度も云ったんだけど、お姉ちゃんのお花を枯らしたくないからって」
 ティファの頬の涙を、クラウドは静かに拭い取った。その涙のあたたかさに指を灼かれそうだった。
「あの子達が、そういうつもりになってるのかと思ってたの」
「何?」
「お花のお世話をしてると、お姉ちゃん時々来るよって。色々お話するんだよって」
 彼女は、少しヒステリックに笑った。
「子供は時々そういう遊びをするでしょ。クラウド」
「……ああ」
「今日は、わたし、一人だった。いつも通りトラックに水のタンクを積んでいった。教会の入り口からはいると、人影が見えて、ああ、子供たちが来てるのか、と思ったの。ピンクの服が見えたから」
 クラウドは背中をそそけだたせた。ティファの言葉が続くまでもなく、話の行き着く先が分かった。
 エアリスが着ていた、桃色の長いワンピース。長いロッドを抱えて、雄々しく埃だらけの道を歩きながらも、エアリスは女性らしい、丈の長い服を脱ごうとはしなかった。彼女が活躍するのは主に魔力の面だったせいで────彼女のその服装が、彼等の旅にふさわしくないものだと感じる者は、おそらくいなかったのだった。
「花畑が見えた時、わたし、動けなくなった。知らない人が教会に来てるんだって、必死に思い込もうとしたわ。でも、花畑の中で、その人が立ち上がって、わたしを振り向いたの」
 何度拭っても甲斐がないように、ティファの目から涙が盛り上がってきた。
「エアリスだった!」
 ティファは拳を握って、クラウドの肩を軽く叩いた。
「エアリスだった……!」
 彼女はふるえながらむせび泣いた。
「あのピンクのワンピース、赤いボレロ、巻き毛に結んだリボンの色まで同じだったわ。エアリスはわたしに向かって笑ったの。わたし、いつもエアリスの笑顔が羨ましかった。だって……あんな風に、花が咲くように笑える人なんて、そんなにいないもの。わたしたちが古代種の神殿でエアリスと分かれた時と同じ笑顔だった。わたし────エアリスに謝りたかったの。一人で『忘らるる都』に行かせてごめんって。一人でホーリーを唱えさせてごめんって。一人で何もかも背負わせてごめん、わたしたちだけ助かってごめん……わたしだけクラウドと一緒にいてごめん、って……」
「ティファ」
 クラウドは、困惑しきった、惨めな気持でティファの、初めて聞く独白を聞いた。ティファが云った言葉は、全てクラウドが思っていた言葉だった。
「でもね、クラウド。エアリスが笑った時、わたし、エアリスが全部許してくれてるのが分かったの。エアリス、花の中で幸せそうだった。幽霊────なんて感じじゃなかった。きっとわたしが何も知らない子供だったら、エアリスは一緒に花の世話をしてくれたんだと思う。随分長い間、わたしそこにそのまま立ってた。嬉しかったけど……やっぱり、どこか怖かったのね。でも、わたしが一歩踏み出した途端にエアリスの姿がぼやけて、瞬きしたみたいに滲んで、そのまま消えてしまったの。クラウド、わたし、嬉しいのか哀しいのか分からない。でも、間違いなく、エアリスはあの教会にまだいるのよ!」
 興奮に取り憑かれたように、一心に話し続けていたティファは、うなだれた。彼女は、クラウドの知る女の中でも、最も強い女の一人だ。自分で自分を護る術を完璧に知っている、数少ない女だった。彼女の細く、強靱な身体がどれだけのパワーを秘めているのか、見た目から判断出来る者はおそらくいないだろう。それだからこそ、七番街スラムに住んでいた頃も、一人で荒くれ者達の跋扈する町中で酒場を開き、そこで起こるトラブルは、全て自分自身で解決していた。
 為す術もなく、二ブルヘイムの魔晄炉でセフィロスに父を殺された時、彼女は決めたのだという。もう誰を頼ることもしない。自分の手足で、大切なものを全て守り通すのだと。
 そのティファをこんな風に泣かせることが出来るのは、自責と、彼女が見たという女性の持つ、愛情というべきものの威力以外には考えられなかった。
 クラウドの喉は渇いた。焼け付くようだった。彼は酷く熱いものに触れるように怖々とティファの髪を撫でた。センシュアルな意味を持たせないよう、マリンやデンゼルの髪を撫でるように、そっと髪の流れを辿った。
 ティファは心の内を吐き出してしまったことによって大分落ち着いたようで、涙は半ば乾き、時折、すすり泣きが静かな呼吸に混じった。クラウドにもたれかかった身体の熱さは徐々におさまり始めていた。彼女は本来激情型ではないのだ。歯を食いしばって重荷を背負う。静かな忍従の心を持って毎日を生きるタイプだった。
 彼女が、あの半ば破壊された古びた教会の中で、エアリスの姿を見たことで、カタルシスを得たことがクラウドにも見て取れた。ティファの言葉を嘘だとは思わなかった。彼女の声が、涙がそれを証していた。ティファはこんなことで嘘をつくような女ではない。
 クラウドの心の中には、ほんの一滴の猜疑心もなかった。
 ティファが、あの教会でエアリスを見たと云うなら、エアリスはあそこにいるのだ。
 それに、彼は、想いを残した死者の影がこの世界に現われることを信じていた。
 自分の目で見たこともあった。
 クラウドの喉が渇き、ひりひりと目が痛むのは、疑いや恐怖故ではなかった。
 彼の心を真っ暗な雲で埋め尽くしているものは、ティファに対する嫉妬心だった。
 クラウドは知っていた。
 ティファには黙っていたが、あの教会には何十回となく通っているのだ。ただ、エアリスの面影を求めて、ゴールドソーサーで云われた言葉の意味を考えるために。彼女が孤独と試練の中で逝ったのではないかという恐れから、自分を解放する術を探るために。胸の痛みがピークに達するとき、いつもあそこで身を休めた。
 その場所が運んでくる思い出が、どれだけ彼の心臓に痛みをもたらしても、エアリスの思い出から逃れるよりは、彼女の影に浸っていた方がましだった。
 花は、年中を問わず、あの教会の中で咲いていた。ウエポンがミッドガルを傷つけ、ライフストリームが大都市の汚猥を焼き尽くした後も、夏、冬を問わずに咲き続けていた。
 ────あれは、リーガルリリー。この黄色い花はデスティニー。ちょっと赤い芯が入っているのが、メイデンリリー。
 初めて会った日に、花の世話をしながらエアリスが、明朗な声で指を差しながら教えてくれた花の名前も、クラウドは残らず覚えている。
 エアリスにまつわる思い出は、全てが宝石のようだった。
 子供たちが花の世話をしているのにも居合わせたことがある、
 子供たちが、エアリスがここに来る、という話をしていたのも知っている。
 だが、彼もティファと同様、それが子供たちの作り話だと思っていた。それでいて、どこか期待するような想いがあったことは否めない。
 あそこに行けば、いつかエアリスの姿を一目見ることが出来るかもしれない。昔のように、花畑のただなかにかがみ、枯れた花を摘み、花に水をやり、咲きそろった花を摘んで籠に入れる、優しい指先をもう一度見ることが出来るかもしれない。
 だが、それは夢だと思っていた。子供たちの途方もない空想から、自分が作り出した虚しい夢だと思っていたのだ。
 クラウドはエアリスに会っていない。
 もしも、エアリスが本当にあの教会にいるとしたら、何故自分には姿を見せないのだ?







 気づくと、決して良好に整備されているとは云えない道を、無我夢中でバイクを走らせていた。
 上空には気の早い月が出ていた。朧で美しい半月だった。それが、薄赤く染まった夕刻の空の斜めにかかって、ひっそりと行く手を指し示しているのだった。クラウドは、休まずに何時間でも走り続けることが出来る。それが出来る故に、運び屋などという仕事を選んだのでもあった。
 走りながら、「あの頃」はハイウィンドで、どこへ行くのも一飛びだったことをちらりと思い出す。だが、操縦桿を握ることのないクラウドには、他人任せの飛空艇はかえって焦れることもあった。必要な燃料も膨大で、彼等の戦いが稼ぎ出す莫大なギルをもってしても、莫迦にならない金額だった。
 あの飛空艇はのちにシドのものになった。パイロットを生業としてきた彼の手に渡すのが一番だと、仲間達の意見は一致したのだった。
 クラウドは、こうして自分の目と全身でバランスを取りながら、道を、あるいは道なき道の上を、バイクで走って行くのが性に合っていた。
 エッジからジュノンの港まではさして時間はかからない。バイクごと遊覧船に乗り、コスタ・デル・ソルへ抜ける。そこから彼の目的地までは、長い迷路のような山道を抜けなければならない。
 夕陽の中から夜の帳へと走り込んで行く。夕陽に赤く染まった空と、青黒い地平線の境目は、木立やがたついた建物のシルエットを浮かべて、風景画家が精魂を込めて描いた一枚の絵のようだった。
 いつもなら、僅かなりとも彼の心を慰める夕まぐれの美しさは、しかし、今日は心の奥底までは染みこんで来なかった。その美しささえ呪わしく感じた。エアリスが死んだ後、初めてあの教会に行った時、壊れたステンドグラスから差し込む昼の光が、ひどくきよらかで優しく、美しかったことを、痛烈な皮肉に感じたのと同じように。
 やがて、クラウドの身体の周囲を優しい薄闇が包み始め、昼の暑さが去って行った。初夏の夜の冷え冷えとした風が、猛烈な速度で疾走して行くクラウドの金紗のような髪を、さらけ出した腕を、肩につけた防具の隙間を叩き始めた。
 彼は、走り始めとまったく同じスピードで、夜の中に滑り込んで行った。




 エアリス・ゲインズブールは、偽りの記憶の中で萎縮したクラウドの心に吹き込んでくる、春の風のような女だった。
 エアリス・ゲインズブールは、扉を閉ざしたクラウドの自我を優しい指で押し開けようとした、初めての存在だった。
 さながら成熟した金の果実のようだったエアリス・ゲインズブールは、クラウドにとって、運命の存在と等しい、唯一無二の女だった。








 夜半、クラウドがバイクを止めたのは、ニブルヘイムの麓だった。村の灯りは殆ど消え、家々は暗く静まり返っている。以前はすんなり入れた村の入り口に簡易な柵が作られ、歩哨が立っていた。物騒な世の中になったからだろう。クラウドは、それを夜目に見取って、剣をバイクに取り付けた。改造を何重にも施したクラウドの剣は、見た目にも異様なものだ。夜半に村に入ろうと思うなら、剣をここに置いて行った方がいいだろう。
 歩哨は、夜闇の中に浮かび上がったクラウドの姿を胡乱気に見守った。
「村の者に用かね」
「届け物に来た。神羅屋敷に用事がある」
 そう云うと、歩哨は顔をしかめた。ライフストリーム以降も、あの屋敷が忌まれていることに変りはないようだった。旧神羅カンパニーは完全に消滅した訳ではない。殆ど表面に出てくることはないが、プレジデント神羅の息子、ルーファウスは生きている。この、ぼろぼろに傷ついた世界のあちこちに触手を伸ばして、再び深く根を張ろうという、明確な意図を持って動いていた。
 だが、新興の神羅も、この辺境の村に打ち捨てられた持ち屋敷を管理しようというところまでは、まだ手が回っていないようだった。
 だからこそ、未だに人目を忍んで、あの男が棲んでいられるのだった。
「通りなさい」
 半ば不快感を露わにしながらも、歩哨は柵を開けた。クラウドは、火がついたように苛立つ気持を抑えて、村の中を静かに歩いた。目抜き通りを抜け、陰惨な峰を露わにするニブル山を背景に背負った村の一番奥まで行くと、高い石塀で囲われた、広い二階建ての洋館が見えてくる。
 この村が、かつて自分の故郷だったという感慨は既になくなった。母も死に、陽気で気さくだったティファの父も死んだ。村中が顔見知りだったニブルヘイムは、数年の間に、誰一人知る者のない、見知らぬ村になってしまったのだ。ただ、クラウドをここにつなぎ止めているのは、神羅屋敷の地下に、目指す人物が眠っているという一つの事実だけだった。
 枯れた植木、茫々と伸びた雑草の間の敷石を踏んで、彼は神羅屋敷の中に静かに滑り込んだ。ふと、ここが魔物で一杯だった頃のことを思い出す。ライフストリームは、この奥深い屋敷の中の魔物さえも一掃してしまったようだった。この一年で何度かここにやってきたが、一度も魔物に出会ったことはなかった。
 彼が眠っている地下室に行くには、二階の東側の部屋の、隠し扉を通る。そこから、木製の床を敷かれた螺旋状の通路が、ずっと奥まで伸びている。
 ヴィンセント・ヴァレンタインがここに棲んでいるということを知っているのは、共に大空洞に潜った仲間の中でも、クラウドと、W.R.O───私設機構、「世界再生機構」のリーダーである、リーヴ・トゥエスティだけだった。ヴィンセントは、ここに住んでいるとは云えない。夜の僅かな活動時間以外の時間を、全て眠って過ごしているからだ。まさしく棲んでいるという言葉にふさわしい。ここで彼は、何ら生活を営んではいない。食物さえも、クラウドが訪れた時に、稀に持ち込むものを少量口にするだけだ。彼の人間的とは云えない生活を目にするクラウドが、気遣わしい気持半分、厭わしい気持半分で押しつける食物も、おそらくヴィンセントは必要としていないのだろう。
 ライフストリーム以降、彼等の仲間の一部は、W.R.Oの創立に関わった。その理念に共感しながらもそこには関わらなかった者もいる。いずれにせよ、ライフストリーム以前のように、固まって一緒にいられる筈もなかった。それぞれには生活があり、家族があった。ヴィンセントが神羅屋敷に戻ることを決めたのは、大空洞から戻った直後だった。
 ヴィンセントの愛したルクレツィア・クレシェントは、今もなお、半ばは生き、半ばは死んでいる状態で、湖の奥の墓地に眠っている。もう二度と会いに来ないで欲しい。そうルクレツィアに云われた時、ヴィンセントの中に生き残っていたある部分は、おそらくゆっくりと摩耗し、死に至ったのだろうと、クラウドは思っている。彼には、おそろしいほど明瞭に、ヴィンセントの感覚が理解出来た。「忘らるる都」の透明な水の中に、エアリスのまだあたたかな、血に濡れたむくろを葬った時、クラウドの中で同じことが起こったからだ。
 ヴィンセントは自死を選ぶような男ではない。生死にまつわる、それほど強烈な意志は彼にはおそらくないのだろう。ただ、彼の中で何かが死に、それが彼を「生きる」という行為から遠ざけている。そして、新興の街や組織の中で、ヴィンセントが活発に動き回る筈がないことは自明の理だった。
 大空洞に潜る前から、ほんの数回行われた感覚の交歓。
 それは、ヴィンセントとクラウドの両方を驚かせた。自分達にそんな情熱があるとは、二人とも信じてはいなかったからだ。
 ────あんたは、この後、どこに行く?
 大空洞から戻った数日後、気怠い寝床から起き上がったクラウドは、人形のようにあおのいた、整った蒼白い顔を見下ろしてそう尋ねた。情の伴う行為を共にした相手と云うより、ヴィンセントと同じ寝床に居ることは、ほとんど体温を失った死体と同衾しているような感覚だった。柔らかさもぬくもりもない。そこに、正体の知れない、幾ばくかの優しさがあるだけだった。クラウドは、自分が彼を必要としていることを気づいていた。
 彼が、クラウドと同じ欠損を心の中に抱えた相手だったからだ。
 クラウドの質問に、ヴィンセントは暫く応えなかった。相手がもう返事をするつもりがないのかと思い始めた頃、ヴィンセントは、ゆっくりと身体を返して、クラウドに背中を向けた。
 ────元々いたところに、戻ることになるだろう。
 言葉少なに語る屍のような男は、くぐもった声で低くつぶやいた。
 クラウドはそれで、彼が神羅屋敷に戻るつもりであることを知った。
 ルクレツィア・クレシェントを失って以後、ヴィンセントが健やかとは云い難い寝床に選んだのは、その打ち捨てられた屋敷だったからだ。
 彼はきっとそこで、再び、生を止めたような生活を送るのだろう。
 そして、自分はそこに行くだろうと思った。
 ティファに、ヴィンセントのことは云わなかった。ティファもまた話題にはしなかった。
 彼がいつも、ティファに何も話せないのは、彼女に強烈な罪悪感を抱いているからだ。ティファ・ロックハートもまた、クラウドを暴発したライフストリームの奔流の中から救い上げた相手だ。クラウドの中でこじれた葛藤を、一筋ずつ解きほぐす手助けをしてくれた。大空洞に潜る前の晩には、彼女のあたたかで豊かな身体を抱いて安らぎを受け取った。
 だが、クラウドの中で未だに────死とホーリーによって決定的に神聖化された故に────消せない女神像として存在しているのは、唇一つ触れたことのないエアリス・ゲインズブールであり、その喪失感を分かち合ったのはティファではなく、絶えず、同種の痛みを受け取ることをやめようとしないヴィンセント・ヴァレンタインだったのだ。




 クラウドは、洋館の地下室への道を下った。
 彼の持つ独特の勘が、地下室の住民が今晩もまた、死に似た安らかな寝床の中にいることを感じ取っていた。もう時間は真夜中過ぎだ。コレルエリアを抜けるのに手間取ったからだ。この時間帯に彼が動き回っていないということは、もう数日間、この地下室を出ていないのかもしれない。
 彼は、荒々しく地下室の奥へ歩いて行った。もう足音を抑える必要は感じなかった。
 部屋の扉を開け、灯りを点した。部屋の中央に据えられた、仰々しい黒い柩の蓋を力任せに引き下ろした。
 中に、ほの白い顔を見出したクラウドはため息をつく。
 ヴィンセントの能力をもってすれば、この屋敷に入った時点で彼の存在を感じ取ることも可能だ。だが、ヴィンセントが目を開ける様子はない。相手が敵でないこと、更に云うならば、クラウドであることも分かっているのだろう。
 クラウドは、柩の横にぐったりと腰を降ろした。ほっそりした外見には似合わず、鋼以上に強健な彼の身体も、昼から真夜中過ぎまでハイスピードでバイクを飛ばしてきたことで、かすかに疲れを感じていた。
 彼は、あおのいて横たわったヴィンセントの顔を覗き込んだ。息が通っているとは思えない顔だった。その唇が冷たいことを知っている。そしてそれが、常に気まぐれであり、不承不承といった冷たさを見せながら、唐突に淫らな様相を帯びる瞬間を。夢のない闇に抱かれるように。その黒髪ごと彼の腕がクラウドに絡みついて来る瞬間を。
 クラウドは彼の髪に触れた。ついで、唇を指先でなぞった。かすかな呼気が冷たくクラウドの爪の先に触れる。そのまま屈み込んで、冷たい唇に唇を重ねた。この男の唇は常にそうだが、甘く重い樹脂の香りがする。それでクラウドは、この男に触れると、斬り倒されて間もない樹木に触れているような気分になる。
「前置きというものがないのか?」
 唇が離れると、けだるく低い声が、クラウドの息と混じりあった。
「あんたに必要だと、思わなかった」
 目を伏せたままささやくと、ヴィンセントは柩の縁に手をかけた。どうやら彼が、外来者のために起き上がろうとしている様子を感じて、クラウドは身を引いた。
「何があった? 血相を変えて」
 一ヶ月前に訪れた時に自分が持ってきた、日持ちのする僅かな食料品がそのまま積まれていることにクラウドは気づく。それでは、本当にこの男は食を必要としていないのだ。ただ深い眠りと、追憶だけを糧に生きているのだ。そしておそらく、必要でないのは食だけではないのだろう。色欲も、友人も、情熱も、彼は必要としていない。それらは、クラウドが、必要としていないように錯覚しながら、常に全身で欲しがっているものだ。自分でもそれが分かっていた。ひどく惨めな気分だった。
 ヴィンセントはするりと柩を抜け出した。そんなに眠ってばかりの生活で何故、と思うが、彼の動きは鍛え上げられた戦士そのものであり、なめらかで鋭い。
「話があるなら、聞こう」
 彼は、マントの裾を翻して二つ奥の部屋に移動した。そこには、ヴィンセントが唯一、嗜好すると表現して差し支えないものが置かれている。酒だ。ワインセラーなどというものもない。古ぼけた木箱を寝かせて、数本のワインが無造作に差し込んであるだけだ。
 ヴィンセントはその中から無造作に一本を選び、コルクを、それがまるで綿の栓であるかのように、指先で抓んで引き抜いた。
「飲むか?」
「いや」
 クラウドは首を振った。彼はおそらくこの屋敷から、眠らずに出て行き、バイクで元の道を引き返すことになる。酒で意識を濁らせるのは避けたかった。
 ワインを数センチ、おもむろに喉に送り込んだヴィンセントは、研究者が使っていたと思しき、ぼろぼろになった肘掛け椅子の埃を払い、身体を落ちつけた。クラウドは、無愛想に指し示されるまま、その向かい側の椅子に座った。
「では、話せ」
 冷たい声が彼をうながした。
「こうして、あんたの顔を見ると、話せなくなってくるな」
 クラウドはつぶやく。ヴィンセントが、彼に、話しやすい気分にさせてやろうなどという気遣いをしないのがせめてもの救いだった。
「このまま帰って、無駄足を踏むのか」
 ヴィンセントがもう一口酒を含む。彼がそれを自分の意志で飲んでいるのでなければ、美味いと思っているのかどうか、見当もつかない。
「────ミッドガルには、幽霊の噂が、絶えない」
 クラウドは、自分が、何かを語るのに雄弁な口を持っていたら、と思う。いつも彼は語り足りない。
「長い剣……ソルジャーじゃなきゃ使いこなせないような剣と、女の首を引きずって歩く幽霊が出る……そういう噂が立った。暫く前だ。もう二ヶ月か……三ヶ月」
 ヴィンセントは気のない顔で肯いた。
 その噂はリアルだった。血に濡れた長剣。それは、聞く限りではクラウドの持ち歩くバスターソードの長さに負けずとも劣らないものだった。その剣と、血を滴らせる長い髪の女の首を引きずって、月光のような銀髪をなびかせた幽霊が、ミッドガルの旧市街地を夜中に歩き回るらしい。
 その映像は、かつてプレジデント神羅が虐殺された日の、神羅ビルで起こった惨劇とイメージを共有するものだった。あの事件の噂は、ミッドガルの中に鬼火のように燃え広がって行った。その噂が今も旧市街地に生き残っていても無理はないと思えた。
 クラウドにそれを聞かせたのは、ミッドガル六番街に置いてきた家財を取りに行って欲しいという依頼をしてきた男からだった。
 ────あんな噂が立ってるんじゃ、おっかなくてミッドガルに入れねえよ。まともな道も殆ど残ってねえしな。
 気の好さそうな男は、赤ら顔に浮かんだ汗を拭きながら、クラウドに手を合わせた。
 ────急に必要になったものが二、三ある。急いで取ってきて貰えれば、礼ははずむよ。
 幽霊の話に特に感慨を覚えることのなかったクラウドは、その日の晩には強力なライトを携えてミッドガルに入ったのだった。プレートの上部に乗り付けると、灯りをつけなくとも、その晩は昼のように明るかった。春の星座が、星の林のように夜空に映え、街を覗き込むような見事な満月が出ていた。
 手早く用事を済ませたクラウドは、近くに止めたバイクの元へ戻ろうと、巨大なプレートの破片で埋まった旧市街地の細い道を辿った。
 その時だった。
 彼は、月の光が硝子か何かに反射しているのを見間違えたかと思った。
 濡れたような銀の光が目を射た。
 月の光を跳ね返しているものは、硝子ではなかった。長い刃物の上を月光が転がるようにしてその光沢を伝え、それを持つ男の、膝まで届くかと思われる長いプラチナブロンドを照らし出した。無感動に見開いた蒼い蒼い瞳の光さえも。
 男はプレートの破片の最も高い位置に、何か赤く滴るものの塊を手にして、傲然と月を仰いでいた。
 自分の全身の毛穴が開き、烈しいマイナスの興奮が心臓を圧迫するのをクラウドは自覚した。
 ────…フィ…ロス……!
 自分の喉から、切れ切れの叫びがあふれ出すのが聞こえた。しかし、それは遙か上方に立っている男の耳に届かなかったようだった。クラウドは、依頼人に頼まれた荷物を取り落とし、剣を抜いた。
 何故あの男が。
 がんがんとこめかみを鼓動が叩き付けている。
 何故あの男がここにいるのだ。
 クラウドが歯を食いしばってジグザグに割れたプレートの上を駆け上ろうとした時、シャッターを切ったように、その男の映像が途切れた。二、三度それは同じような点滅を繰返し、やがてはすっかり男の姿は見えなくなった。後は、月灯りにさやかに照らされたプレートの破片が残っているのみだった。
 火の塊が体内からほとばしるような感覚を、肩すかしにされたクラウドは、全身を汗で濡らし、肩で息をしながらそこに立ちつくした。長い時間、そこで凍り付いていたように思う。
 今、自分が目の当たりにしたセフィロスが、この世界に属するものでなかったことを、彼はようやく理解した。セフィロスは大空洞で死んだのだ。再び生き返ってくることはない。
 だが、この街には彼の野望や、ジェノバの名残が残っている。神羅ビルには驚くべき長期間、ジェノバ細胞が保管されていた。
 あの銀髪のソルジャーの思念────のようなものが、この街に生き残っているのだとしか、クラウドには説明がつかなかった。
 出来ることなら、ほんの僅かな想念の欠片でさえ、あの男を葬り去ってしまいたかった。この剣で可能なものならば、残らず断ち去ってしまいたかった。しかし、クラウドの剣は、たとえそれが魔物であっても、この世に肉体を持っているものをしか斬ることが出来ない。月夜に現われる影など斬ることは出来ないのだ。
 月が傾き、夜明けが近くなるまで彼はそこに立ちつくしていたが、二度と銀髪の幽霊が現われることはなかった。
「それ、を見たというのは、確かなのか?」
 酒の瓶を薄く埃の積ったマホガニーのデスクの上に置いたヴィンセントは、昏い、感情を見せない声で問いかけた。
「確かだ。魔晄の光を浴びた者は目がいい。あんたも知ってる通りだ。もっと、ずっと離れていたとしても、見間違える筈がない」
「ましてや、彼を」
 歌うようにヴィンセントが云う。
「ああ」
 クラウドは、肯いた。
 そうだ。ましてや彼を。
 自分が見誤るはずはない。強く憧れ、故郷を焼かれ、希望を断ち切って去っていった男。かつて憧れた気持が裏返った分、全身全霊をもって彼を憎んだ。
「幽霊の話はもう一つある」
 クラウドは、乾いた喉で云い出した。
「あんたはミッドガルのスラムには縁がなかっただろうな。ミッドガル伍番街のスラムに、ただ一カ所、花の咲く教会がある。その花の面倒を見ていた花売りが、そこに現われて、花の世話をしていると云うんだ。もう……随分前に死んでしまった人だ。だが、子供たちは、何度も姿を見てる」
 彼は痛みを無理に絞り出すような気持で、付け加えた。
「ティファも見たと云ってた」
 その話を聞いた時と同じく、喉がひりついた。だがそれでも、クラウドはヴィンセントに差し出された酒を口に含もうとは思わなかった。酩酊するのは嫌だ。エアリスを思う苦痛よりも、エアリスを忘れることの方が、彼には耐え難かった。
「泣いてたよ、ティファ」
 名前を出さなくとも、ヴィンセントには分かるだろう。彼と知り合った頃、エアリスが自己紹介したからだ。
 ────わたしは、スラムの花売りよ!
 そう云って、輝くような微笑みをヴィンセントに向けた。
「ヴィンセント」
 クラウドは俯いた。力の入った指のやり場がなく、自分の前髪を掻きむしって握りしめた。
 指が震えた。
「ヴィンセント、どうしてだと思う? セフィロスの「影」は見たのに────。何度教会に行っても、エアリスに俺が会えないのは、俺が」
 クラウドの心が、エアリスの面影を受け取るにはふさわしくないからだろうか。余りにも多くの血を流しすぎ、余りにも死んだ者の恨みを背負って、心の表面に拭い去れない曇りを生じているせいだろうか。
 ヴィンセントは、残りの言葉を継げないクラウドをじっと見つめていた。
 彼の冷え冷えとした赤い瞳には、感情が見えなかった。
 冷たいルビーのように光って、クラウドを見ている。
「お前の嘆きを受け入れる者は、他にいる筈だ。わたしは懺悔を聞く者としてもふさわしくない」
「ティファのことを云ってるのか?」
 喉に絡んだ声で問い返すと、ヴィンセントはゆっくりと首を振った。
「誰かの話じゃない。わたしでない者の話をしているんだ。人は、語るのにふさわしい相手を選ぶべきだ」
 クラウドは、苦い失望に頬を打たれたようにして凍り付いた。自分がヴィンセントに何を期待していたのか分からなくなる。
 無言の慰め。
 共感。
 悼み。
 蛍火が二つ重なったように、闇の中で光る、それぞれの孤独。
「……悪かった」
 クラウドはようやくそう云った。錆び付いてしまったような関節をようやく動かし、椅子から立ち上がろうとした。ヴィンセントの前から姿を消す。簡単なことだ。またバイクにまたがってコレルエリアの山道を越え、夜が明けたらコスタ・デル・ソルに出る。燃料を補給して遊覧船に乗り、またエッジへ、日常へ戻るのだ。全ては容易なことだった。ただ、彼の中で処理しきれずに渦巻いている、風音のような哀しみを除くなら。
 その時、音もなく立ち上がったヴィンセントが、立とうとしたクラウドの肩を押さえ付けた。鈎爪のついた具足に包まれたその指は何の体温も伝えず、静かだったが、しかし、明らかな意志を持ってクラウドを押しとどめていた。
「だが」
 ヴィンセントの声は、ますます物憂げに低くなる。
「だが、お前の苦しみは子供のように無垢だ。何ら恥じるところはない」
 クラウドは目を上げた。そこに黒くなめらかなものがかぶさってくる。生命活動や代謝が行われていないことを示すように、長い間柩の中で眠り続けても、汚れることもなく、光沢を失うこともない、ヴィンセントの黒髪だった。それはその持ち主の意図以上にクラウドを優しく、冷たく撫で過ぎて行き、こぼれ落ちた。滑るようにヴィンセントの腕が彼を抱きすくめ、激しく脈打つ首筋に、素っ気なく慰撫するような冷たい唇があてられた。
 全身の力が抜けて行った。クラウドは、座り心地の悪い椅子に身体を投げ出して座ったまま、ずば抜けて背の高い、痩せたその男が自分を静かに抱き、頬を、髪をなでるのに任せた。自分が涙を流すのではないかと思ったが、そうはならなかった。彼の唇と同様、冷たいその身体からは、甘い樹脂の香がする。今はそこに、果実酒のかすかな香が混ざり、酒を一口も口にしていないクラウドの身体の芯を、ゆるやかに酔わせ始めた。
 彼は目を閉じた。それが、ヴィンセントが彼にくちづけようとしたタイミングと重なったようで、力の抜けた指を上げると、それはなめらかで冷たい頬にあたった。屍のように冷たい男。だが、彼はクラウドに抱擁を与えようとしている。その唇の奥には、ヴィンセントが一切拒んでいるかに見える、冷え冷えとした淫欲がひそんでいる。
 唇が出会い、クラウドは氷のようなキスを深いものにするため、唇を開いた。
 後は、どちらが先に内側に忍びこんだのか定かではなかった。
 いつ戦いに出てもおかしくない、重装備に身を包んだお互いの身体から、皮膚を剥ぐように、少しずつ服を取り去る。或る意味では彼等の身に纏った衣服は皮膚そのものだ。戦うのに最も適した身体のために選んだ服なら、彼等の皮膚の代わりに熱や冷気を感じ、代謝し、彼等を護り、もう一つの身体の気配を感じ取る役目さえ果たすのかも知れない。
 ヴィンセントの左腕から具足が外される音を聞きながら、クラウドは立ち上がった。彼に拒まれなかったことを、まだ心身が実感していなかった。拒まれても仕方のない、埒のない、答のない悩みを、この屋敷に自分が持ち込んだことは分かっていた。
 だが、裸の胸がぴったりと合わさり、互いにリズムの噛みあうことのない心臓の鼓動を直接感じた時、クラウドの混乱した思考はループするのをやめた。
 体温の違う腕が互いに回され、胸はより密着した。
 ────その苦しみは無垢だ。
 ヴィンセントの言葉が頭のどこかでかすかにリピートされる。クラウドは、それを肯定した訳でもなく、否定するほどその言葉を理解出来たとも云えなかった。ただそれが、男の提示した、最大限の慰めだということだけは分かっていた。
 その自覚さえ途切れて、彼はよどみのような抱擁の中に沈み込む。黄昏のような色の灯りの中で、服を脱ぎ捨てた蒼白い身体はもう屍には見えなかった。クラウドの金の髪と、ヴィンセントの黒髪がまじりあって、黒い河床を流れる砂金のように見えた。
 ────子供のように無垢だ。
 クラウドの心の皹の中に、ようやくその言葉の柔らかな音律が染み入ってくる。




 そして、最期まで、それ以上の言葉はなかった。

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