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同族の定義

03 01 *2013 | Category 二次::銀英伝・ロイキル


続き





 強制されたものなど何一つなかった。まだ彼が自分に要求しているものが何なのか・・・むしろ要求するものがあるのかすら判らなかった。魔族めいた、左右で色の違う、つめたい光をひそませた、その目だ。その冷たいふちは自分を、決して、少しの瞬間すら、安らがせなかった。
 『彼』のまえで自分はいつも所在ない。『彼』に欲求されていると思うこと自体とんでもない思い上がりで、今しも同衾しようとする身体には、虚と嘲笑がいっぱいに詰まっているのではないか。そう思ってみると、『彼』の前に立つ自分はどうしても泥臭い存在に見えた。
 そしてその逡巡、自分らしくないその過敏さが『彼』にとって何の意味もないことも解っていた。

「ようこそお越しを」
 この男の目をまっすぐに見返すことができないようになったのがいつだったか、思い出そうとしても思い出せなかった。その言葉は微妙に笑いを含んでいるようであったのに、ようやく視線を上げると、彫刻のような額のその眉と、ひえびえとした目には笑いのかげもなかった。
 揶揄するような丁重な言葉に迎え入れられて、キルヒアイスは厚い扉をくぐった。彼を案内した男は面のような無表情で視線を落とした。ロイエンタールの印象にそれは似ていた。この家の、華美でありながら寒々しい調度も、数人居るはずの使用人たちの、とりつくしまのない慇懃さも、何一つロイエンタールの印象を裏切らなかった。
 この家に足を運ぶのは初めてではなかった。キルヒアイスも当然顔を覚えられているはずであった。しかし彼が銀河帝国によって与えられた権力・・・もしくは権力を象徴する称号・・・を知ってか知らずか、幾度訪れても、扉を開けるものの表情すら変わる様子はなかった。
 彼らは当然、客と主人の間に結ばれた関係について知っているに違いなかった。無論そんな様子は見えない。キルヒアイスを招いた者ですら、彼を空気以上に意識しているものか判断しづらかった。
 暫時にしろこの扉の内側の住人である間は、軍服と一緒に彼を守っていたものが全て消え失せる。もっとも、キルヒアイスが軍服に表されるものを頼みにせざるをえなくなってから、さほど長いわけではなかった。ただ彼の骨格を包む肉も普段のように自身を支えはしない。そのことに慣れるまではまだ時間がかかりそうだった。
 睦言もなく繰り返される行為がいつまで続くのか、その決定権が己にないこと、己がその決定権すらない行為に翻弄されることがキルヒアイスには不思議だった。
 天井の高い部屋のなかは薄暗く、なぜか圧迫感があった。
 ロイエンタールは値踏みするように彼を見つめた。
 唇が笑いの形になる。
 又だ。
 焔にあぶられるような視線から網膜を衛ろうと、キルヒアイスは目を背けた。
 あの凍るような目で微笑されるなら蔑まれたほうが気が楽だ。それならば、あの薄い唇もおそろしいほど魅惑的な金銀妖瞳の昏さもこんな恐怖の対象にはならない。
 ましてや畏怖などというものに。
「閣下」
 その笑みを持つ者は、ビロードの紐で首を巻くように言葉を吐き出した。
「・・・キルヒアイス上級大将」
 圧迫感は増し、息苦しささえ感じる。
「また同じ事を云わなくてはならないのですか」
 キルヒアイスは止めていた呼吸を吐き出した。溜息が空々しいほど大きく響いたことに彼は怯えた。自分が怯えていると思った。この男の前で苦しい選択に行き詰まるとき、自分のための云い訳をする時間さえこの男は与えようとしない。
 彼はこの部屋で己の成すべきことを知っている。


 崇拝する対象を持ったことこそが己の幸福であると自分は考えていた。もとより自分のためには生ききれないような、その己の性質を恥じてはいなかった。おそらく己を賭し尽くすことのできる対象を得て、自らの顕示や虚栄よりも、崇拝の大義に埋没することができるはずであった。
 自分の存在が崇拝対象への献身であること、それが即ち大義に全身を委ねることなのだと悟ったのは『彼』に出会ってからだったかもしれない。
 『彼』の前で、矮小なものであるように己を恥じた事がある。その冷静な目、計算だかい浅ましさを感じさせない、浄らかなほど闇に近い、その目・・・。『彼』を高貴であるとすら思った。
 『彼』にもまして、自分の崇拝するあの男も高貴であることに違いはない。あの男のまえで自分はいつも清廉でありたいと思い、有能であることを望み、少なくともそれに近づけるように努めた。ただし目標まで完全に届かなかった場合にも己を責めはしなかった。己を責めずに済むほどその男とその男の姉のために彼は理想の杯をかたむけ尽くした。
 自分は理想を学び取ることに誠実だった。あの耀かしい存在にくらべて高貴でないことなど当り前で、そんなことはいささかも自分の痛痒たりえなかった。
 なのに『彼』の前で自分が感じる居心地の無さはどうしたことだ。
 『彼』の前で演じるこの茶番劇の虚しさ。

 ロイエンタールという男は、特に異常な性向を持っているようでもなく、他人に最初与える印象よりからからと乾いていた。彼は潔癖な男なのだ。
 潔癖な・・・というのは、いかにも彼にはふさわしからぬ形容だ。当人にそう云えば眉をしかめるだろう。しかしキルヒアイスはどちらかといえば潔癖な男に魅かれる傾向を持つ。彼が主君として扱う、あの氷のような目をした美しい男もたいそうな潔癖さだ。
 この部屋に入って彼は衣服を落とす。それが私服であろうと軍服であろうと同じ事だった。キルヒアイスは彼自身を守るものを等しく落として裸体になることを要求された。ロイエンタールがそんなことを要求するいわれも、自分がそれにしたがういわれもなかった。

 ・・・それをわたくしに要求なさっているのでしょうか、
    わたくしがあなたを快い相手に見ているとお思いで
    しょうか。それともあなた様の御高潔なおっしゃり
    様、わたくしの言葉など意にも解さないその自若ぶ
    りは、わたくしの意思、望むかたち、そんなものす
    ら存在しないと見せつけているようです。はたして
    こんなことをわたくしが望んでいると、本当にそう
    お思いでしょうか。それともわたくしのこの薄く実
    態さえないような微笑を信じるほどあなた様は愚か
    ですか。わたくしの怨念さえも感じないほど善良で
    すか。いったいあなた様は神にも等しいとおっしゃ
    るつもりですか。

 なぜ自分は『彼』に従うのだろう。

 キルヒアイスは素足でゆっくりと厚い絨毯を踏み、自分を待ちうける(それを錯覚ではないかと疑うことを彼の身体はまだ忘れていなかった)美貌の男に近づいていった。
 部屋のなかは精密に計算された暖かさを保っていた。しかし二月という季節柄か、彼の前にいる男の視線ゆえか、皮膚はぴりぴりと寒さを訴えた。
 ふたりきりになった途端、この男がいつもの皮肉な饒舌ぶりを失うのはいつものことだったが、今日のロイエンタールは殊更に寡黙でどこか疲れた風であった。
「卿は何といってここへ来るのだ?」
 身のすくむ思いで立つ彼が見えないように、ロイエンタールはもの憂げに口を開いた。カッと血が昇った。それを彼が本当に知りたいのか、自分を辱めるために云うのかをキルヒアイスは疑った。そして疑ったことにすら微細な屈辱をかみしめた。無論前者であるはずはない。ロイエンタールは相手を懐柔するゲームを好まない。
「……」
 口を開きかけた彼がその名前を発するのを恐れるように、ロイエンタールは遮った。
「あの方に卿は嘘をつけるのだな」
 それは自分自身ですら思ったことだ。こんな嘘をあの男について、自分はこの家に来ることを選んだのだ。
「来い」
 キルヒアイスはめまいを堪えた。
「提督」
 彼はようやくそう云った。苦痛の呷きのようにそれは響いた。
「わたしがどんなに愚かでも・・・」
 云いよどむ。あの男には関係ないと続けるつもりだったのだ。しかしロイエンタールの前でそれを云うのはためらわれた。おそらくロイエンタールはそんな釈明には興味がない。
「卿は愚かなのではないだろう」
 ロイエンタールは笑った。笑いらしい笑いだ。
 あの金色の獣が彼を笑わせたのだ。昏い目が彼を見据え
た。笑みもその目を照らさなかった。
「ただ卿には捨てられないものが多すぎるのだ」
 この部屋中に揶揄の匂いがたちこめている。これを自分が何故耐えるのか解らない。
 キルヒアイスは叫びそうになるのを耐えた。このぎしぎしと肉のきしむような関係。汗と粘液と肌のぶつかりあう接触。ぬらぬらと濡れているようなのに、何故こんなに耐え難い乾きが喉に張りつめるのだろう。
 踏み出した足に鋭い痛みが走った。
「……っ」
 思わず息を呑んで足元を見た。彼がそれを確かめる前に、彼の裸の肩に、それた視線に覆いかぶさるようにして熱源が巻き付いてきた。まだ衣服を取らないのに、意外な程ロイエンタールの腕は温かかった。キルヒアイスはどうやら冷えきっていたようだ。
 ロイエンタールは彼の肩を抱いて一瞬彼を支えるようにしたかと思うと、彼の足元に屈み込んだ。
「・・・これは」
 ロイエンタールはキルヒアイスの膝を曲げさせると、彼の足を傷つけた細いガラス片をつまみあげた。
 ロイエンタールのてのひらとそのガラス片は盛り上がってきた血に濡れていた。
「今日割れた花瓶だな。……掃除をしたものにきつく云っておこう」
 それは予期していたことを喋るようになめらかだ。彼はそれを知っていたのではないかという思いが一瞬、キルヒアイスをかすめた。
 この部屋に花瓶があったことなど気づかなかった。少なくとも、花が飾られていたことなど一度もなかった。
 それとも、彼の部屋に何があるかなど気にしていないからそれに気づいていなかったのだろうか。いつも自分はこの部屋に入った途端、彼の顔しか見えなくなるから。

 自分の中にこんな要素があることを教えたのは『彼』だった。
 それが何の気まぐれから始まったのか自分には解らない。
 それが彼の本気なのか、気まぐれなのか、今となってはどうでもよくなりはじめていた。自分のなかに、自分の知らない生物が確実に息づいている感覚は恐怖に近い。(それが知らなかったのか、もしくは認めていなかっただけなのかという問題はたいして重要ではなかった)
 今まではどれほど大切なものにたいしてでも、こんな無様な感情を抱くことはなかったはずだ。自分のなかの思いもしなかったもの、獣じみた衝動や、嫉妬に似たものすら、今まで誰も手にしえなかったものを、『彼』はたやすく『彼』のものにした。
 快楽。
 ・・・ねたみ。
 それでは自分は何をねたもうというのだ。水と油ほども違う『彼』の何を。
 いや。
 そもそも彼と自分が異質であるというのは確かなことなのだろうか。

 キルヒアイス自身の乱れた呼吸で部屋のなかはだんだんにうずまっていく。自分の上げた声の馬鹿ばかしさに彼は吐きそうになった。
 汗と行為に乱れた髪が目の前を覆った。視界は秩序のない血のような赤だ。
 ロイエンタールは彼の傷ついた左の足の指に唇で触れた。
つながりあうことより、例えば、あの皮肉で冷たい印象の強い唇のなかから、ぬめった柔らかい肉が現われることを自分の皮膚のうえに感じたとき、キルヒアイスはロイエンタールの内側に内臓の存在を感じて戦慄する。
「・・・ア、 」
 声に成り切れない声の群れが、胸の内側から吹き出してくる。
 内臓と内臓が絡まりあうこれがその結実だ。
 シーツの上に、おびただしい血痕が散っていた。傷口から流れでた血だ。ガラスの破片に裂かれた傷口はなかなか塞がれようとしなかった。
 キルヒアイスは、自分にかがみ込んだロイエンタールの顎を伝う汗のしずくをぼんやりと眺めた。ロイエンタールの伏せた目を見た。
 どうしてだか、彼は苦しそうに見えた。
 それはきっと彼が普段、人前で目を伏せたりすることのない男だからだろう。
 そんなふうに見える彼も不思議だったし、自分がこんなさなか、他愛ないことに気を奪われていることも何かおかしかった。
「何を笑っている?」
 その瞬間、自嘲を見とがめたロイエンタールが彼の耳元に唇を近づけた。
 ロイエンタールの胸がキルヒアイスの胸と触れあう。それは早く、走るように鼓動していた。
 この男も心臓を持っているのだ。
 ロイエンタールのいつになく冷静さを失ったささやきが耳を掠めた途端、彼の体内に激しい波が巻き起こった。それは体内、というより胎内とでも云ったほうがふさわしいように、的確な中心から背骨を伝って駆け上った。
 告白もごまかしもその波に洗い流された。目を閉じて、声を上げるまいと唇を噛んだキルヒアイスに、ロイエンタールは答えを強要しようとはしなかった。
 からみつく粘り気のある部屋の大気は、まだあおあおとした寒さを保っている。肉の膿にまみれても、それでも彼をかき抱く男は救いを求めるように清廉だった。
 キルヒアイスには、彼が何故苦しむのか解らない。自分自身も締め付けられるように呼吸の苦しさを感じても、なぜ彼に抗おうとしないのか解らない。
 あの男、に、嘘までついて自分はこうしてロイエンタールの部屋にやって来る。
 ロイエンタールは何も望まない顔で、救われない眉で、それでもキルヒアイスを解放しようとしない。
 たとえそれが代償行為であったとしても、ふたりともそれを口に出すことは一生ないだろう。
 ・・・卿には捨てられないものが多すぎるのだ。
 あれはロイエンタール自身のことであったかもしれない。
失うわけにゆかないもののために、他者を傷つけることを覚えた。そうしなければならなかったことを後悔するはずもなかった。それは生きているなら余りにも当然だった。
 シーツの血は濁った土色に変わり始めている。

 自分が『彼』に、要求されているのではなく、『彼』に要求しているのだ。崇拝者でありながら冷徹でありたいひとつの理想形を、『彼』に要求している。
 すり替えあって、不用意な言葉がそれを暴くのを警戒しあっている、監視人の役割を、互いが果たしているのだ。


「帰ると云ったのか」
 ロイエンタールは湿り気を帯びた黒い前髪のなかから、青い片目で、身支度をするキルヒアイスを透かし見た。
「……長い事側を離れるわけにはいきません」
「いい心掛けだ」
 ロイエンタールは嫌な笑い方をした。
「卿が、裸足になった言い訳をするところを見てみたいものだな」
 今日のことで何が変わったわけでもない。
「……趣味がいいとは思えません」
 彼らしくない棘のある言葉が口をついて出た。ロイエンタールは目を細めた。今度は笑ったようではなかった。むしろ傷を負ったのは彼のようだった。
 彼のなかの痛みに、ふるえに似たものが胸を刺した。

 異種のなかで同族を見た歓喜にそれは似ていながら、この混沌の時代で、同族の定義すら、未成熟なキルヒアイスは知らないのだ。

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