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神の桜

03 01 *2013 | Category 二次::男塾・伊達×飛燕

「二十歳の時に書きました」という以外にはまったく覚えていないし、読み返していない恐怖の一本。

続き





神の庭の桜


 
 神よ、未だそこにおわしますか。
 飛燕は、蒼く透きとおる天空へ問いを投げかけた。もう久しく、天の高みへ神の名を呼んだことはなかった。今そうしたのは、今度こそ、と自らの死を感じているせいかもしれない。
 神よ。
 雲が千切れ散り、その透き間を埋めて広がる静かな青色。それは海にも似て遥かに深く、神と呼ばれる存在をその体内に隠していてもおかしくないように思えた。幼い頃、泣きながら救いを求めた神は。幼い胸に信じた神はいまだあの日のままそこにいるのだろうか。
 桜が咲いている。
 盛り上がってあふれている。
 塾の校庭に咲く桜を、自分はそう馴染んで見つめてきたわけではなかった。馴染むほども長くこの塾にいはしなかった。しかし、今日の桜は門出の彼を包む優しさで春の網膜に灼きついた。今日の道を門出と呼ばず何と呼べるだろうか。この桜花の春道は、長いひと月……それはたった一月であるとはとても思えなかった……を経て、彼を本来あるべき場所へようやく還した。
 時の羽根は皆の焦りを知らぬげにゆったりと泳ぎ、彼が従うべき者の道へ、「今日」を無理のない形で押し戻した。
 飛燕は、華美に光る金色の彩をおびた髪に桜を透かせて、風の裏庭に立った。
 人はいない。
 表側の校庭にもほとんど人はいなかった。
 眠るような静けさをたたえた昼の中に、飛燕は傷の癒えた身体をひたした。
 死が近い。
 彼はその妙に甘い腐臭を自らの身体に感じ取った。
 肉体が代謝を止め、ひとつの腐肉に変る死というものを、ひどく身近に、肩を抱く恋人同志のように近しく感じる。優し気にふりかかる雨のように、死は間近に頬を寄せ、飛燕を抱いた。
 むろん死を望むわけではない。
 世に生まれいでた命を望んで捨て去るなど、救いようもなく愚かな者のすることだ。
 しかし彼は若くして死に場所を見い出した。
 風が吹いた。桜の花びらが不意に舞い上がって中空を翔けた。花片は空を裂く爪のように、彼の長い髪をも共にさらって舞いあげた。
 誰が為に。もう飛燕はそれを自問する必要がない。誰が為に、何が為にとは、誰もが自らに問う問いであるにもかかわらず、彼はこの若さでそれを見出した。誰が為に生きるのか、泣くのか、笑むのか、闘うのか。そして死ぬのか。その誰が為なるを見い出した。不幸にもその日から、死は近しいものに変わった。これはある意味で弱くなったということであるのかも知れない。しかし、彼が自らの生の意味の一部を、その男の上に見つけてしまったという事実は、もう変わらなかった。
 死の牙は甘く削れ、白い皮膚を甘噛みする、誘惑の緑の瞳の獣に変わった。
 彼のためならば捨て石になってもよい。
 そう思う自らを飛燕は笑う。自嘲であっても可笑しくない笑みだったが、静かに笑っている。
 捨て石にならんとして訪れる結果が死であっても構わぬと、そう思うようになった。変わった。しおらしいことだ。そう思ってもみたが、心は変らない。その形のままで頑固に彼の胸のなかに棲みついている。
 そんな形にねじ曲げられて作り替えられた自分がここに立っている。
 しかし、それは彼が強いたことではない。自分が全て選んだことだ。
 飛燕の唇に、桜にさえけむって溶けるような淡い笑みが乗った。
 彼に尽くそうとする、哀れなほどの献身の念は、甘美に若い飛燕の全身をひたす。
 おわしますか、わたしのかつての神よ。
 冷ややかなほど端正な顔が、空を見据えた。
 色の薄い瞳は、流れる空の模様をくっきりと映し出している。淡く湿って澄んだ、そのとび色の鏡の上に、桜花のきらめきが羽虫のように舞っている。
 わたしはあなたを捨てる。
 わたしは神を見つけたから。
 誰をも救い得ぬ偶像よ、あなたを捨てることにしました。お許しください。
 私は神の意味を知ったから。
 貴方を捨てるのです。
 夢をうたうように、飛ぶ鳥は神へ誓った。
 自らへの祈りに似た宣誓だった。
 今まで貴方の許にあったわたしの命の意味を捨てる。神よ。
 新しい彼の神。
 彼は決して、そのような意味の名を持つものではなかった。
 しかし彼の神は、世界に轟き渡る威光の代わりに、燃え盛るほむらの太陽をいただく鳥の叫びと忠誠を受け取るにふさわしい男だった。むろん「彼」は生身。世界を包む腕も、空を見晴らす眼も持たず、代わりに、いつか絶える命と、熱い肉体と血潮を持っている。
 しかし、彼は飛燕の神だった。
 飛燕の過去を、こころを救った。
 わたしの神。飛燕は、誇らかなつぶやきを、空へ、天空へ、光のようにときはなつ。その光を受けて、桜はなおさらに華やかに瞳の中に萌えさかった。
「飛燕」
 不意に、現実の声が、半ば夢に溶け入っていた意識を押し分けて飛びこんできた。
 飛燕は一瞬表情を引きしめたが、しかしすぐに、陶然とするようなあでやかな笑みを唇に刷いた。
「……は。……何か」
 その言葉のそっけない字面とは裏腹に、飛燕の声にはやんわりとした許容や思慕が滲む。
「何か、じゃねえ」
 元関東豪学連総長である男、伊達臣人は、少々不満そうにつぶやいた。しかし、気を悪くした風でもなく、無骨な唇に苦笑をうかべた。
「ひと月が短いと思ってる訳じゃねえだろう」
 伊達は飛燕に無造作に近寄り、その肩口に分厚い掌をあてがった。
「幽霊というわけでもなさそうだな。枯尾花にしちゃしっかりしすぎてる」
「正体など何年も前にお見せしています」
 飛燕は、自分に触れる伊達の掌に任せて、薄い笑みを絶やさぬままに、丈の高い男を見上げた。
 溢れるような白の花を背にして、一ヶ月ぶりに見る男の顔はまぶしかった。
「それに」
 飛燕は、面白がる口ぶりで言葉をついだ。
「わたしの思い違いでなければ薄は秋の象ではありませんでしたか。桜も揃わないうちに枯尾花が見えるようでは、時は相当早く流れたようですね」
 滅多に感情を剥き出しにしない声が心なしか弾み、悪戯っぽい調子を帯びた。
「ひと月などどうという程のこともありますまい」
「そう絡むな、人の悪い」
 伊達は腕を伸ばし、自分から飛び去った燕のやわらかな身体を抱き寄せた。力を込める。息苦しいほどの力に飛燕は幸福を感じる。
 伊達は憑かれたようにその身体を抱き、食いつくように首筋に唇を埋めた。歯を立てる。
「……っ、臣人様……」
 さざなみだつような快感が飛燕の背中に走った。それが思わず呼び名に出た。寝床の中で幾度かそう呼ばされた。飛燕は、闇での記憶にそのままつながる言葉を無意識に口にして、まざまざと顔に羞恥を浮かべた。ため息をついて伊達の身体を押し戻す。
「このひと月どこにいた」
「王大人の許でご厄介に」
 飛燕は救われた面持で顔をあげた。
「傷も癒えました」
 その頬に、伊達の指が伸びた。
「残らなかったな」
「はい」
 やがて時が流れれば消えるであろう淡い傷の名残りが、白い頬に三本走っている。彼自身の武器である鷹爪殺のかぎ爪でつけられた傷であった。
 飛燕は昨日まで死人だった。
 大威振八連制覇で彼は命を落としたはずだった。
 桜が霞むように燃え始めた三月も末、伊達臣人は、死の淵から還ってきた飛燕を見たのだ。

 山道には緑が逆巻くように燃えていた。夜のうちに入った山だった。東京に、これほど緑の濃厚な山があるとは思わなかった。
 緑が吠えながら揺れている。
 風の強い日であった。空模様はあまりかんばしくない。日ざしは強かったが、くっきりと濃い、速い雲に始終さえぎられている。
 彼は疲れた足をよろめきながら踏みしめた。
 若い。まだ少年だった。頬の曲線や髪の艶が柔らかであった。その柔美な外見に似合わず、丈夫でタフな身体を持っていたが、丸二日眠らず、ろくな食事も取っていないため、手足の力は徐々に失われ始めていた。
 頬は疲労に青ざめ、しかし、瞳の淡い茶は未だ諦めを見せずに炎を上げていた。
 こんなところで死んではたまらない。
 追っ手は執拗だった。ふりきってもふりきっても追ってきた。
 この山に入った時、犬に襲われた。恐ろしくよくしつけられたドーベルマンだった。
 夜闇のなかを、油を塗ったように輝く犬の黒い身体がぶつかってきた時は、さすがに胸が冷えた。犬は殺した。だが彼も腕に深く食いつかれている。血は止まっているが、それまでに相当失血した。血の匂いを残さぬように川で傷を洗い、夜通し歩き続けたのである。
 どこまで保つかは自分でも判らなかった。
 保たせなければならなかった。
 とらなければならぬ仇が、少年の両肩に重く大きく覆いかぶさっていた。
 熱が出ているようだ。彼は汗を拭った。傷口の痛みは熱さを増し、先刻よりもひどくなっていた。
 ひやりとした掌を思い出した。母の掌はいつも冷たかった。しかし、その冷たさは生あるもので、母の優しい声と相まって、掌の冷たさの記憶は心地良い。
 しかしあの掌も、死の冷気にこわばって久しい。
 ……飛燕。
 彼がほんの幼かった頃、熱を出した彼の側に座してひやりと彼の額に手をあてがった母と。眼のまえで血肉の塊に変わった母の面ざしが重なった。父も姉も、同じようにして死んだ。
 ……神様。
 物陰に隠れてその光景の全てを焼き付けた彼の眼に、血の涙が溢れた。まだたった七年しか生を知らなかった子供の涙であった。生を受けてたった七年目に地獄を見つけた涙だった。地獄は思いのほか近くにあった。地獄は鳥のように正確な目を持って飛来し、獣の牙のように彼の愛する者を咀嚼した。暗い喉に、血まみれのその身を飲み込んだ。
 その日生き延びた少年は、今日までさらに三千日以上を生きのびた。だが地獄の犬は寒い牙をがちがちと鳴らして、再び彼の背に追いすがろうとしていた。
 地獄を抱き込んで逆に締め殺すほどの力は、若い彼の腕にはなかった。
 ……お前はもっと強くなる。
 師の言葉がよみがえった。
 白髭の優しい師もまた、彼のために殺された人間の一人であった。
 ……しかし、それは今ではない。どこか外国に逃れるとよい。ここにいてはいずれ死を待つのみ。
 ……神よ!
 神は、彼の家族にも、師にも、共に競いあった仲間たちにも、慈悲をたれはしなかった。彼は深い信仰の許に生きた家族を持ち、その習慣を受け継いだが、神よりも彼には死が近しかった。
 天堂の神々しさより、地獄の凶々しさが、彼の未だ短い人生には近く親しかった。
 二度と神の名など呼ぶものか。
 幾度も、腕の名かに消えてゆく命を見つめて、幾たりものかけがえのない命を送り、血の涙を枯れ尽くして、いつの間にか瞳も胸もぱさぱさと乾いた。彼は幾度となく歯を食いしばってそう呻いた。しかし、次の危機にさらされたとき、また神に祈る。性懲りもなく、神の慈悲を期待してしまうのだ。
 それとも、神に疎まれているのか、わたしは。
 神に愛されぬため、愛するものを奪われるのか。
 彼に、神の名を教えた母を、父を、全てを。
 緑は山道に息づまるように続く。
 ……人を憎んではならぬ。
 師はそう言った。白い髭を撫でながら、そう言った師の面ざしは、未だ彼の中に新しい。
 ……これでも、そうおっしゃるか。こうなってもまだ、あなたは憎んではならぬと……。
 彼は目眩をこらえて、土を踏み続けた。
 日は高くなっていた。
 頭上に、時折黒い雲に切られながら光る焔の玉は、黒雲をため込んだ東の空の内側を照らした。輝く黒い空は気味の悪い緑を帯びて地平に広がっている。この足許から発散する緑の気を飲み込んでいるのではないかと、彼はぼんやりと考えた。
 それほど、彼の疲れた眼に緑は激しかった。
 気が狂いそうだ。
 息は乱れ、いつの間にか歩みはひどく遅くなっていた。
 そして、不意に、彼の眼の前の木立ちがとぎれた。
 神経が疲労している時、むやみに何か一つのことに苛々することがあるものだ。緑の陰が薄れたことにほっとして、彼は深い吐息をついた。
 その息の終らぬうちに、彼は、電流を流されたように身をこわばらせた。
 彼は、薄黄の土の広がる広場の前に立っていた。数十メートル四方にぐるりと丸く木立がとぎれ、踏みならされている証拠に、そこは草も殆ど生えずに土の肌を見せている。
 それを囲むようにしてそびえる丈の高い木が、手前の数本ずつ、ぐるりと、ぼろぼろに突き崩されている。まだ新しい木肌を見せているものもあった。
「…………」
 彼は息をつめたまま、それを見て取り、同時に背後の人物の気配を読み取ろうとした。
 彼の首筋に無造作に当てられた冷たい感触が、おそらく槍か、その類の、恐ろしく鋭利な武器であることを、彼は敏感に感じ取っていた。金属の匂い。間違いなく幾度も血を吸っている。
「何をしている」
 よく響く声であった。低い。若い男だ。
 彼は、微動だにせず、男の様子を探った。声の位置からいって、彼よりもかなり丈も高いだろう。そのくせ気配もさせぬ身のこなしが、彼の全身を緊張させた。
「喋らんか……」
 男が、それを引いた。
 彼はその瞬間を逃さなかった。ぐっと身を沈めて数歩飛び下がり、男に向き直った。足許で土が煙を上げた。
 殺す。
 そう思った。
 殺されるなら殺す。
 思った通り、丈の高い男だった。両頬に、合せて六条の深い傷が走っていた。その傷を眼にした途端、彼の頬を、ごう、と鋭風をともなって男の槍の穂先が掠めた。
 よけられたのは、男を正面から見ていたからである。
 男はにやりとした。残忍な眼をした。歯が光る。残忍なくせに人を引きつける笑いだった。しかしそれは、人を殺すことに何のためらいもない笑いでもあった。
 男の眼に、自分が人として映っていないことを、彼はいち早く悟っていた。
 男の槍は、先が二又に別れ、鉤状に曲がったそれは、威嚇のためではなく、最初の一撃を、そのままとどめの一撃にするような様相に作られている。
 研ぎあげて蒼く光るそれを、男は無造作に握っているようだった。
 しかし、若い顔に鬼神の喜悦のかげをひそませたその男の、切れの長い眼は爛々と輝いて彼を見つめている。強靭そうな筋肉に われた裸の胸は薄い汗をにじませて、爆発的な力をためていることが判った。
 殺すつもりだ。
 彼はそっと自分の指を握る力を強めた。
 ならばわたしもためらいはしない。殺す。
 ……これでも憎むなとおっしゃいますか、師よ。
 わたしは、人も運命も憎みます。
 彼は誘うように一歩下がった。計算して顔を傾けると、案の定、一瞬前まで彼の頬のあった場所に、穂先がごうと鳴いて突き出してきた。
 避ける。追う。避ける。
 槍は、突風のように男の動きにそって繰り出される。
 飛ぶように後ろへ逃げる。彼は、懐から千本をつかみ出した。銀色の太い針状の千本を握りしめ、激しく追ってくる槍をくぐりながら、彼は男の腕を目がけてそれを打ち出した。
 手ごたえがあった。
 一本でもその切っ先が男の腕を貫いたなら、男はすぐにも槍を取り落して腕の痛みに闘うことができなくなるはずだった。
 ふっと風が止まり、男は、にやりと笑って槍で受け止めた千本を投げ捨てた。
「心得があるな」
 千本を踏みつける。
「……鳥人拳か?」
 彼は眼を見開いた。彼の技を知っている人間に、こんなところで会うとは思わなかった。
 男は舌舐めずりせんばかりの顔をして、槍を構えた。
「女も顔負けのその顔だ。鳥人拳もふさわしいというものだ」
 ニヤリとして、男は大きく身体を伸ばした。男が一回り大きくなったような錯覚にとらわれて、彼は悪寒に身体を震わせた。
 男が先刻よりもさらに本気になり、殺気を研ぎ澄ませたのがわかる。
 腕の筋肉がグロテスクなほどに盛り上がり、男は炯炯と光を増した眼で彼を見つめた。
「セツを殺したのはお前だな」
「……?」
「犬がいただろう」
 それではあれは、この男の犬か。追っ手のものではなかったのか。
 哀しみ怒るといった風でもなく、男は、彼の頭のてっぺんから爪先までを無遠慮な視線でなめ回した。
「その細腕でセツをくびり殺せるとは思わないがな」
 男は歯を見せて笑った。
「……面白い。千本も使わずに殺したか」
 彼は答えなかった。犬の首の骨を折った時の感触は気分の良いものではなかった。出来れば殺さずに済ませたかった。
「……またお袋をなだめるのに一苦労だ」
 一人言のように言ったかと思うと、男は、再び槍を繰り出してきた。
 疲れた身体は、槍をよけるのに精一杯で、ごうごうとなる鉄の牙に、彼は徐々についてゆけなくなり始めた。
 一筋、頬に痛みが走る。
 穂をくぐる。千本を投げた。
 やすやすとよけられてしまう。自分の腕に速度がなくなってきていることに気付いた。
 膝を折ってかわす、その頭の上を槍が走る。よける。速度を増した牙が追ってくる。
 何とかあの槍を受け止められないのか。
 彼は間合いをつめた。横に体を倒す。陽光に槍が輝いた。残酷な輝きだった。手を伸ばす。灼熱したものをつかんだ感触があった。
 掌の皮膚を焼いて槍は止まった。
 男が、驚いたように彼を見つめ、その表情がゆっくりと変わった。まるで、想い人を見つめるような愛おしげな眼になった。
「……止めたな……?」
 槍に加えられている力は止んでいない。槍は、彼の掌を焦がしながら、滑り始めた。
「……っ」
 その穂先がじわじわと自分の胸に迫ってくるのを感じながら、彼は歯を食いしばってそれを食い止めようとした。
 動く。
 陽光がはじかれる。
 男の眼の色が薄くなり始めた。肉食の獣のようなあかがね色に変わり始める。それは彼の見違えであるはずだったが、愛しげに、嬉しげに、男の眼は確かにあかく輝いた。
「……!」
 烈風のような気が男の唇から吐き出され、鉄を煮やす熱を浴びたように、彼の身体は吹き飛ばされた。かたわらの木に打ち付けられた彼の肩に重い痛みが激しい勢いで突き刺さった。
「……あ」
 何を問われても終始無言で、息さえほとんど音にしなかった彼の唇から、ほむらのような声が初めて上がった。
「あ……あああッ」
 肩を木の幹につないで刺し貫いた槍は業火の痛みを彼の肉に燃やした。
「ああ……」
 声が漏れる。彼はゆるゆるともがき、槍を抜こうとしたが、眼前の男が未だ力をこめたままの灼けた凶器は、彼をくさびのように木に縛りつけていた。
 激痛は体中の力を萎やし、彼は初めて絶望した。呼吸が激しく乱れ、彼は後頭を木の幹にすりつけて身悶えた。
「……殺、せ」
 声がまともに出ないのが悔しかった。とぎれながら言葉をつぐ彼を、男は、あかがね色の炎をともした眼で、無表情に見つめた。
「それは俺が決める」
 男は思いやりなど微塵もない動きで槍を引き抜いた。
 彼は、むせぶような喘ぎを漏らして木の根本に坐り込んだ。その顎を、男の、骨太な指がつかみ上げる。
「名は」
「……」
「名前を何という」
 男の眼が危険な光を放った。
「……答える必要はない……!」
 痛みにとぎれる声にそれでも力を込めて彼が吐き出すと、男は荒々しく彼の両肩をつかんだ。
「あ、あっ……!」
 彼は体を震わせてもがいた。気を失うことすら出来ない痛みだった。
「いいか。……さっきのでお前の肩の骨はクズ同然になってるんだぞ。……二度と腕を使えなくなっても知らんぞ」
「……なら殺せ……」
 男は肩をつかむ手に力を込めた。
「……!」
 声にならない悲鳴を上げて彼は反り返った。
「……ここは俺の土地だ。お前は侵入者だぜ。……人の家に勝手に入りこんで自己紹介もしねえのが礼儀知らずだと、お袋さんは教えてくれなかったのか」
 その声に、面白がる調子が混ざり込んでいることに気づく余裕は、彼にはなかった。
 汗が吹き出してくる。
 男は彼の耳元に唇を近付けて、万力で彼の肩をつかみしめながら、優しげな声音で呟いた。
「ほら、お前の名前を言ってみな」
「……」
「ほら」
 その圧力に耐え難くなる。汗で湿った重い全身を支えきれない。痛みは鉛のたがのようにその体をしめつけている。
「……エン。……」
 彼はのろのろと呟いた。
「何?」
「…………飛燕」 
 飛燕はそう云って、耐えきれなくなったように倒れかかった。それをかがみ込んだ男の腕が支える。常人の二倍もあるかと思われる、猛々しいほどたくましい腕に、飛燕の汗に濡れた柔らかな長髪がもつれかかった。
「……」
 その男の腕をすがるようにつかんだのはなぜだったか。冷え切った指にあたった、男の腕の熱い皮膚が、彼に不思議な感覚を呼び起こした。男が、飛燕の唇から漏れたかすかな呟きを聞きとがめて、耳をそばだてた。
「……おい」
 そのまま意識をなくして男の腕のなかに崩れ込んだ彼を、男は不意にとまどったように見つめた。

 体が重かった。
 鈍くしびれた腕がもどかしい。無意識に身じろいで、飛燕はきしむ体の痛みに眼を覚ました。
「まだ動くな」
 隣で声がする。びくりとして振り返ると、飛燕の横たわる寝台から少し離れたところに置かれた椅子に、男は長い足をもてあますように組んでいた。        
 読んでいた新聞をばさりと投げ出すと、男は飛燕を振り返った。
「痛み止めが完全には効いてねえだろう」
「……痛み止め……?」
「安心しろ。ちゃんと医者が打っていったんだ。俺じゃねえ」
 男はニヤリとした。
「俺じゃ注射器をつぶしちまう」
「なぜわたしを助けた」
「……さあ。お前がセツを殺したからかな」
 男は足を組み直して背もたれにもたれた。
「あの犬はお袋が特に可愛がっててな。よくしつけた奴だったのに、あっさり殺しちまいやがって。お袋はすねると手がつけられんからな。俺が殺したわけでもないのに俺が謝るんじゃ割に合わん」
 飛燕はそろそろと体の力を抜いた。
「……あなたは」
 意識して言葉を改める。
「伊達臣人だ」
 黒いゆったりした服を着た男は、先刻見た猛々しい獣の気配を破片も見せず、飛燕を静かに見つめた。
「伊達……殿か」
 飛燕は深い息をついて眼を閉じた。神経はあいも変わらずひどく高ぶっていたが、少々力を抜くゆとりができる。
「ここはどこです」
「あそこからたいして離れてないがな。俺が山にこもる間寝泊りする場所だ」
「命を救ってくださって……御礼を申し上げなければいけないでしょうね」
 わずかに含ませた棘に気づいたか、男は声を立てて笑った。
「やめろ。怪我をさせて気絶させた相手に礼を云われてはおれも寝覚めが悪い」
「そのようなことを気になさる方とは思えませんが」
 飛燕が皮肉ると、伊達はゆっくりと立ち上がった。
「そんな青い顔でへらず口を叩くな。……倒れる寸前にお袋なんぞ呼ばれたら、お前だって相手を殺せまい?」
 飛燕は息をつめて男を見上げた。カッと顔が紅潮する。
「生きているのか?」
 伊達は面白そうに飛燕を見つめた。
「……母ですか? ……いえ」
 羞恥を押し殺して、熱くなった頬を背ける。
「……それじゃ、親不孝とは云えないか」
 似合わぬ科白を吐いて、男はきびすを返した。水でも汲みに行ったのか、ドアを開けて隣室へ消える。
 母の名など口走ったのか。
 飛燕は、身を硬くして考えた。突然弱みを握られたような苦さが胸をひたす。
 隣室で、水道の蛇口をひねる音がした。急に喉の乾きを感じる。
 男はコップに水を満たして戻って来た。
「飲め」
 手回しが良い。少々驚きながらそれを受け取る。あらためて見て、男の大きさが実感された。
 肩から胸へ、胸から腹へ、服を通してでも判る、鉄を刻んだような筋肉が、男の全身を包んでいる。歳は彼よりも二つ三つ上というところか。両頬の深い……それは割合にまだ新しかった……傷跡ばかりが目立っているが、ひどく端正で、ほれぼれするような彫りの深い顔をしている。よく見れば割合に好感の持てる表情をしていることに、飛燕は気づいた。水は乾いた喉に甘くしみ通った。自分が警戒心もなくその水を飲み干したことにも、わずかな驚きがあった。
 もういい。
 あきらめのような感情があった。彼はひどく疲れていた。
 針のようにとがって張りつめた心は、やすらぎ方を忘れてしまったようだった。
 手を伸ばした伊達にガラスのコップを渡しながら、彼は黙って頭を下げた。
「お前、なぜここに入って来た」
「……追われています」
 手短に答える。まだなにも答えるわけにはゆかなかった。
「ふん」
 伊達は、顎に手を当てた。
「それ以上云う気はないんだろうな」
 黙って男の眼を見上げる。返事の代わりにそれはなるはずだった。
「歳はいくつだ」
「……十七」
 伊達はかすかに眼を見開いた。
「まだそんな歳か。……」
 しんと一瞬、部屋の空気が静かに止まった。伊達は立って飛燕を見下ろしたまま、読めぬ表情で黙った。    
 言葉を比較的に多くついではいるが、もともとこの男がよく喋る質ではないことに飛燕は気づいた。
 喋るのを面倒がっているのが判る。妙にいたたまれない雰囲気に、また、神経が鋭くとがり始める。男の表情が動いた。
「そうピリピリするな。……」
 苦笑のような声が漏れた。
「……あてはあるのか」
「いいえ」
「……どうするつもりだ」
「動けるようになったらすぐに出発ちます」
「ここから帰さないといったらどうする」
 飛燕は男に視線をぶつけた。自分の眼が険しくなっているのが見えるようだった。
「なら殺してください」
 疲れていた。どうにでもなれという気持が生まれている。死んでなるものかとも思う。しかし、思った道をゆけぬのなら、死んだ方がマシだった。
 死は怖かった。死を憎いとも思った。死が恐ろしいから出る科白だった。
 男は溜息をついた。
「……捨て身か。……家族を亡くしたのか」
 体が固くなる。
「家族だけではありません」
「お前を待つ者はいないのか」
「一人も」
 そっけなく答える。その額に、男の手が伸びた。びくりと身体をすくませて、傷ついていない方の手を上げて、それを拒もうとする飛燕の動きを、男は無造作におしのけた。手は前髪をかきあげ、男の唇がゆっくりと飛燕のそれに近づいてくる。
「……大義名分がないと生きていけねえタイプか。始末が悪い」
 飛燕は眼を見開いた。何か云おうとして開いた唇が覆われる。弾力のある熱い舌が荒っぽく飛燕の歯を割って、彼の舌に絡みついた。
 押しのけようとしても、壁のように男の胸は固く彼にのしかかり、飛燕は涙をにじませて首を振った。
 ようやく離れた唇を拭い、慌ただしく息をつぎながら伊達を見上げると、伊達は、唇の端を上げてしかたなげに笑った。
「二、三日置いてやるから、ひとまずは俺に一宿一飯の恩義を返せ」
「……!」
「死ぬのはそれからでも遅くねえ」
 飛燕は、自分の頬を包んだ武骨な掌の熱さを感じた。
 自分に、こうして敵意なく触れてくる手を感じた最後はいつだったか。
「この熱じゃ、まだ飯は食えねえだろう。……薬より健康的に眠らせてやる」
 そう云いながら伊達は飛燕の服をはだけた。傷ついた肩口に重みをかけぬようにして、喉許に口付ける。
 飛燕は、ようやく、この男が照れているとしか表現のできない感情を隠そうとしていることに気づいた。
「勝手なことを……」
 顎が持ち上げられ、今度は先刻よりもわずかに柔らかい口付けが飛燕の言葉を切った。
「痛い目には合わせないから安心しろ」
 初めて笑いが込み上げてくる。男の手は熱く、伊達の身体の下で、飛燕の身体はあっけなく熱に流され始めた。掌が、服を剥がした内腿に這い、押し広げる。
 飛燕は息を弾ませて唇を噛んだ。
 眼に薄くもやがかかる。潤んだ眼を見開いて自分を抱きしめる男を見る。その、初めて会った男に思いがけない慰撫を見つけて、彼の胸の奥で、張りつめていた糸が突然にとぎれた。
 萌え狂う緑のなかで男の手にすがった。
 それと同じ、心細いような、切ないような。
 飛燕は、覚えのあるかぎりでは十年ぶりに、人にすがった。
 目に、潤みとは別の膜がかかった。
 彼は、懐かしいものを抱きしめるように、泣いている自分を見た。

 今、伊達の側に在って、三年の時を片時も離れずに来た自分が、どこに居場所を見つけたかよく判る。そして、失った神のかわりに自らが何を得たのか。
 この男は、家人の為にも見つけられなかった思いをやすやすと引き出した。
 桜の波のただなかに立って、二人はしばらく黙った。
 蒼い空の向こうに雲がわき初めている。あの濁った雲。雨になるやもしらぬ。
「お前は俺を二度裏切ったぞ」
 伊達が不意に云った。
「…………はい」
 その意味は判った。飛燕は痛みの塊を飲み込んだ。伊達が少々荒っぽく彼の顔を上向けた。その表情のなかに、見慣れぬ、しかし、見たことのあるものを見つけて、また、熱い痛みが喉につまった。
「三度目はないぞ」
 飛燕はむりやりに笑んだ。
「……御意に」
 誓って見せながら、それでも死は近しく優しかった。

 濁った雲が動く。
 桜の上空を寄せる波を視ながら、飛燕は、自分の神が確実に眼の前に存在する光景を、決して忘れまいと眼を開いた。
 封じても秘めても、やむことのない思いなら胸の中で高く呼ばわろう。
 わたしは神を見つけたのだ。ならば全て彼の思うとおりに。彼のために全てを捧げることを、神が禁じない限りにおいては。それ以外は全て彼の思うとおりに。
 雲は動いた。夕陽と濁った雨の双方を運んでくる。
 飛燕は、傲然と立つ男の腕に抱かれて目をふせ、神の扉の際に咲く桜をこころに刻んだ。

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