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不幸な恋なんてするわけない

03 01 *2013 | Category 未分類

依頼原稿。中啓。
しつこいようですがわたし啓太総攻めです。

続き




 浅い眠りの断片の中から彼は唐突に抜け出した。秋の冷ややかな風が頬に当たっている。窓を開けて眠るのは好きではなかった。おそらくこの部屋にいるもう一人の人間が開けたのだろう。中嶋は眠りの極端に浅い男だ。自分が眠っているのかどうかも解らないと思うことがある。眠っている最中にも考え続けているように思えることが多いからだ。深い睡眠に入る前に目を醒ましているのかもしれない。一度眠った後は何か解けなかった問題が解けていることも多い。起きた直後は中嶋にとって最も気分が冴え渡っている時間だ。害意も敵愾心も満足感も、底へ底へと沈んでゆくような愛情───に似たものさえ。以前丹羽と珍しくそんな話をしたことがある。酒を飲んでいる内に、丹羽が話題を振り向けてきたのだった。普段なら一蹴するような話題には違いないが、その時はどういった訳か気が向いたのだろう。
 曰く恋をすると気分は昇ってゆくのか、下りてゆくのか。丹羽は恋をすると自分がまるでアスリートになったような気分になると云った。
(「百メートル七秒くらいで走れる気分になるぜ」)
 丹羽はそう云って笑った。
(「七秒? 中途半端な数字だな」)
 そう答えると丹羽はラッキーナンバーだろう? そう云った。真面目な顔で、案外冗談を云っているようにも見えなかった。丹羽なら恋をして本気で相手に追いつこうと思うなら、五輪スタジアムで叩き出される数々の記録を超えて、七秒で心の距離を走り抜けるくらいのことはするだろう。真面目なことにエネルギーが向くとは限らないが、丹羽がその気になったとき、全てを跳ね飛ばして暴走するその力が誰にも敵わないことを中嶋は知っている。自分が心を傾ける相手が少ないせいで、その標的になった相手を些か過大評価するきらいがあることを除いたとしてもだ。
 だが、中嶋の想いは沈下する。それが激しくなればなるほど、深く鋭い切っ先で地面の底にねじこむように、精神の岩盤まで掘削して、自分の精神状態の螺旋状の階段の奥に入ってゆく。一般的に考えるなら、問題点は、そこへ一人で入り込もうとするのではなく、自分が相手を一緒に引きずり込もうとするという点だろうか。
 些かの過大な思い入れの相手───むろん、丹羽はそんなことを自分に許しておくような男ではなかった。中嶋が自分の精神の深部に引きずり込みたいと思う相手も滅多には現れなかった。幼少期に彼に武道を教えた教師がその対象になった。幼かった頃の話で、彼がいったいその時どの程度の実力を持っていたのか、段数がどの程度だったのかは知らない。何故町の小さな道場の講師におさまっていたのか、それも中嶋には解らないことだった。だが、彼は空手だけでなく、居合道や小太刀も使いこなし、まるで生きた刃のような男だった。人間の身体が刃物になることを初めて中嶋に教えたのはその男だった。また、刃にまで昇華した身体が易々と壊れることを彼に教えたのもその男だったと云える。
 彼は中嶋が七歳だった頃、交通事故で死んだ。誰かをかばって死んだ、というようなドラマティックな死ではなかった。信号無視で公道を百キロ以上出して走っていた若い男の車に轢かれたのだった。
 講師の手足が空気を切るとき。ナイフを入れられる筈のない、形のないものが、人間の脆い身体によって、正確無比な軌道を切り開かれる様子を見た時の気持ちは、恋に似たものだったと思う。それは子供の胸におさめておくには激しい嫉妬を伴っていた。その嫉妬が、彼の教えを受ける他の者に向いているのか、それとも彼のその能力に向いているのかは解らない。だが、自分の思い入れが、上へ上へと昇ってゆくようなものではなく、黒い鉱物の裂け目のような狭間を押し広げ、沈下してゆくことを知ったのは、そうした子供の頃だった。
 彼は中嶋に手を取られ、沈む前に死んだが。
 そして、例えば決して窓を開けず、カーテンを閉ざして短い眠りで自分を鎧おうとする中嶋の部屋に夜風を入れている相手もそうだ。
 乾いた山と海の痘痕を浮かべた月が、異様にあかるく照っていた。中嶋は薄く目を開いて、自分の眠りの中を侵害した相手を見つめた。枕元の時計を見やると、十五分ほど眠っていたようだった。あれだけ鳴かせ、体液がからからになるほどに苛んでやったというのに、「彼」は眠らなかったようだった。
「彼」はまるで何かを祝福するように窓の外を眺めていた。もうこの後中嶋の部屋から自分の部屋に帰ろうというのだろう。シャツを羽織って、脱ぎ散らかした他の服も拾って椅子の背にかけてあった。中嶋の分までそうしてあることに気づく。彼はその律儀さにひそかに笑う。他人の服など放っておけばいいのだ。
 寮の点呼があった後にひそかに部屋を抜けださせ、自分の部屋に来させた。その部屋で朝まで眠る気にはなれないのだろう。「彼」には、どんなに甘い蜜の中に閉じこめてやってもそれに溺れないところがある。中嶋から見れば脆く見える羽をもがかせて、ゆっくりゆっくりと中嶋の仕掛けた蜜の中から這いだし、自分の世界に戻ってゆく。他愛なく見えて、決して「彼」は壊れない。とても丈夫で、小さくて弱いくせに諦めない。その小ささを卑小さと感じさせないのが彼の「彼」たる所以だった。
「彼」は身体がまだ痛むように、かすかにぎごちない動きでベッドに戻ってきた。中嶋は目を開けたままだったが、彼の睫の間で光る視線に「彼」は気づかなかった。
 青白い月の光の下でも「彼」の皮膚はそれほど青白くは見えなかった。淡く日焼けしているからだ。強いて喩えるならシャンパンの色に似ていると思った。汗を、光る銀の粒のように浮かべて、クリスタルのグラスの中で輝くなめらかな金色の液体。そのクリスタルは、中嶋の手で触れれば時にレッドクリスタルに変わり、だが、決して頑迷なコランダムには変わらない。あくまで流線型を保ち、淡い金色に輝くのだ。
「彼」の胸には、中嶋がつけた痕。「彼」が人前で服を脱ぐこともはばかるほど遠慮なくつけた。これから「彼」が週末、中嶋とすごさずに実家に帰るというのだから、特別困りもしないだろう。それに所有印を押すことは中嶋の一部を分け与えることだ。相手を縛るだけではない。中嶋の意志がそこにあることを示すことになる。よほどのことがなければ中嶋はそんなことをしなかった。
 戻ってきた「彼」はしばらく中嶋を見つめていた。その指が伸びて、「彼」とは大分質の違う中嶋の髪に触れるのを感じて、中嶋は目を閉じた。髪に触れる。優しい動きだった。まるで中嶋が彼にほんの少しまでしたことがなかったことのように。そして、耳元に、唇に、小さな動きは続いた。それが不意に肩に触れる。
「中嶋さん……肩、冷えてる」
 僅かに高めの、柔らかな声がかすかに独り言をつぶやいた。おそらく風のせいだろう。肩や身体が冷えたところで、中嶋には特に不自由はない。元々彼の体温はそう高くはない。だが、そのせいで「彼」の指の温かさが常になく快く感じることに中嶋は驚く。すぐに火のつく身体。涙をにじませて、中嶋相手以外にはこうならないと誓った細い身体。そのくせ中嶋に挑みかかるようにきらきら光って睨み付けてきた、涙にうるんだあかるい瞳。


 最初彼を見た時、その小柄な身体の中に灯っている火を、もっと脆いものだと思っていた。わずかな刺激に輝き、一週間もたてば死んでしまう蛍の火のような。綺麗な水の川に棲むものしか食べずに育ち、夜になればてごたえもとりとめもなく小さく光る火。おそらく人はそれを可憐だと思ったり、世の中の無常について思うこともあるだろう。或いはすぐに燃え尽きてしまうそうな小さな蝋燭に灯った炎。淡いほんの一吹きで吹き消せてしまうような、すぐに揺らぐ炎。
 だが、「彼」は違った。服の内側には薄く美しい筋肉がつき、中嶋の細身だが刃物のような身体をしなやかに受け止める。少し熱しただけで赤くなるくせに、懲りずにまた小さな金色の火をつけて飽くことがない。
 中嶋がどんなに深い淵に引きずり込み、酸素も届かないような深い場所に手を引いて連れていっても「彼」の火は消えなかった。その火を消してやろうと指先に力を入れてもみた。息も吹きかけてやった。揺れる灯が消えてしまうように。
 だが、炎は揺れ、すぐに死んでしまいそうな蛍は戸惑ったように揺れて飛ぶが、それは消えなかった。中嶋の病的に深い深部で生きて、小さな、しかしあかるい光で中嶋の一部を照らした。それは決して中嶋の全身を包み込んでしまうような、自己顕示欲の強い光ではなかったが、必ず中嶋の心のどこかで輝いていた。煩わしくなって手で払い抜けようとしても、中嶋の再深部に咲いた光の花のように、揺れながら、だがおそろしく頑固に根付き、枯れようとしなかった。


 中嶋はふと、自分よりも一回り小さな手が、自分のしっかりと張った広い肩を包み込んで温めようとしていることに気づいた。
 自分がどれだけ丈夫なのか知らないわけでもないだろうに。体液をそそぎ込まれ、身体を折り曲げられて呼吸もままならないような夜に自分を引きずり込んだ男の肩を、優しい、だが、意外に力強いてのひらが包み、眠りを覚まさないようさすっている。自分の中に燃えているその小さな火を中嶋にうつそうとしているようだった。そのくせその身体は少しふらつき、中嶋を温めてやろうとする手首には、腕時計で隠れるか定かではないロープの痕が赤く膨らんで腫れている。
 中嶋は目を開いた。目を醒ますいい口実ができたと思った。
「啓太、息苦しいだろう」
 不意にそう云うと、「彼」は驚いたように目を見開いた。窓から入る月の光で、「彼」のよく光る瞳はなおさらによく輝いて見えるようだった。
「俺、どこも苦しくなんてありませんよ」
 中嶋の言葉の意図を知ってか知らずか、啓太はそんな風に云った。
「それより、中嶋さん、身体冷えちゃってますね、すみません。俺、夜の風を入れるのが好きだから、つい……」
「そんなことはいい」
 何故、そんな言葉が自分の唇をついて出たのかは解らない。或いはまだ眠りから覚めていなかったのかもしれない。
「俺みたいな男の側にいて、息苦しいだろう?」
 その火を消すことを今や自分が望んでいるのかどうか、中嶋には解らない。
「彼」───啓太は一瞬黙った。彼はパニック体質だが、落ち着いていれば勘はいいのだ。中嶋の、相手のタイミングを思いやらない言葉にも、じっと考えた後に、ほとんど外した言葉を返すことは少ない。
 薄い、口角の上がった唇を生真面目に結んだ十六歳の少年は、中嶋の言葉以外のものに耳を傾けるように首を傾げた。明るい髪の色が月の光を反射している。彼は特別な美貌の持ち主ではないが、健康さや笑みや期待や、ポジティブな要素を練って作ったとしたらこんな形になるような、完璧な姿をしていると中嶋は思う。こんな人間は壊すか、自分の底に引きずり込むかどちらかだ。意識の外に置いておける相手ではなかった。自分に関わりのないところに彼がいたとしたら、目障りで仕方がないだろう。
「中嶋さんが何を云ってるのか、俺、よく判らないですけど────。俺、本当はポーカーなんて滅多にやりません」
 啓太はゆっくり落ち着いた声で云った。その声は中嶋に苛まれた気配を残して嗄れている。ボタンを下からゆっくりはめながら、彼は光を集めたような目で中嶋を見下ろした。
「ルールを知ってて、……カードが俺に配られたらいいカードがくるのって、俺には不思議なことじゃないかもしれないんですけど……」
 殊にメンタル面の話をするときには、決して雄弁とは云えない啓太は、言葉を探しあぐねるように一瞬黙った。その瞬間も、中嶋の肩を温める指は離れない。
「中嶋さんは、俺にとって一回もカードを変えずにロイヤルストレートフラッシュが来たみたいなもので……それもスペードのロイヤルストレートフラッシュみたいな感じかな、なんて……」
 啓太は照れたように笑った。困ったように眉をひそめている。
「ええと、云ってることめちゃくちゃだけど、判りますか? 俺の云ってる意味」
「……おおよそはな」
「だからあの……俺……不幸な恋とか……もしかして、しようとしてもできないんじゃないかな、なんて思うことあるんですよ」
 心身を刃物に変えられること。それを試すことは、身体でも、精神でも、中嶋は嫌いではなかった。この小さな、ペシミスティックな告白を薙ぎはらって切り落とすことは中嶋にとって容易かった。
 だが、彼はそれをしなかった。
 六四九七四〇分の一の確率で天から降ってくる、ロイヤルストレートフラッシュ。そのカードを踏みにじる気になれないというのが、自分にとって幸いなのか不運なのか、中嶋には不可解だった。
 ただ、複雑な屈辱感と、更に深い場所へ沈下するための目眩を感じながら目を閉じる。
 啓太の指が温かい。
 そこからごくごく小さな金色の熱に浸食されてしまいそうだった。

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