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夜明けのブレス

03 01 *2013 | Category 二次::幽遊・幽×蔵他(蔵馬中心)

事件来ました。

続き





 蔵馬は、ふと感じた違和感に、傍らの街路樹を見上げた。違和感の理由が判って、彼は眉をひそめた。
 桜が咲いていない。
 もう四月上旬である。この間、十日以上首縊島に出かけていたのでぴんと来なかったが、市内のどこを見ても、桜が花をつけた姿を一回も見なかった。テレビのニュースでは、桜が北上していくさまを報道している。東京でもまだ桜が咲いているところはあるはずだった。四月上旬とはいえ、もう開いて散り切ってしまったとは思えない。
 ここは彼の家から見ると隣の街ということになるが、彼の住んでいる街でも、そういえば今年は桜が咲いているのを見かけない。
(妙だな)
 空気にも、この季節特有の四肢から力を奪って行くようなけだるさがない。春の気配がしないのだった。妖怪達の障気でいっぱいだった首縊島でさえ、もっと暖かく、むせるような春の匂いがした。
 蔵馬は秋の空のように高く、さえざえと冷たい空を見上げた。
(夜になったら、上からでも見てみるか)
 上空から見下ろせば、桜が咲いていないのがどのあたりなのか、およその見当がつくだろう。その範囲を絞っていけば何か判るかもしれない。
 異変が起こっているのかも知れない。彼は桜の幹にてのひらをつけた。桜から、かすかにおびえたようにかじかんだ気配が伝わってくる。
(何があった?)
 てのひらから意思を送り込んだ途端、桜の気配が何かを拒むように遠ざかった。蔵馬の呼び声に応えない。こんなことは滅多になかった。
 桜は霊樹である。それがどれだけ昔からそんな意味を持ったのか、彼も正確には知らなかった。日本において、桜は半ば信仰するように尊ばれる。人の畏れ敬う意思が桜に力を持たせたのだと云っていい。それだけ人の霊力というものは不可思議だ。一つ一つの固体の力の弱さに比べて、集団の祈りの力もすさまじい。自分の身ひとつ守れないような生き物なのに、その念は土にしみ込んで、土壌の性さえ変えてしまう。
 魔というものに桜が特に敏くなったのは、春という不安定な季節に、最もこの土地の人たちが視線を注いだ樹だからだろう。
 桜が咲かないというのは、何かが起こりかけているのではないか。
 蔵馬は回りを見回した。
 気配がある。それが何なのかははっきりしない。まだ遠いが何かが起こりかけている。
 南野秀一の身体では、そこまではっきりと読み取る事は出来なかった。それがもどかしく思えた。
 しかし、この東京の真ん中で妖狐の姿で歩き回るわけにはゆかなかった。トキタダレの果肉の残りにもそれほど余裕はない。あれは切り札として取っておかなければならなかった。
「蔵馬じゃねェか」 
 彼に向けられた意識を感じ取った一瞬後だ。
 蔵馬は振り向いた。
「こんなとこで何やってんだ」
 蔵馬は一瞬苦笑しかけた。首縊島から帰ってきて、昨日別れたばかりの幽助である。
 最後の晩、ホテルの部屋に一人でいるところを、やはりこんなふうにして幽助に捕まった。その時も、幽助はこんなふうに云った。
 ここは幽助の家のマンションからそれほど離れていないから、顔を合わせる可能性も高いといえば高かった。
 数メートル先から歩いて来る幽助は、学校帰りらしく、例の改造した学生服で、どうやらカラらしい、湯でつぶした薄いカバンを抱えていた。
「こっちに何か用事か?」
 幽助は一見無造作に近寄ってきた。だが、これは彼らの間での暗黙のルールに近いが、いきなり声をかけずに近寄って来ることはしない。そういう不用意な真似をして、何が起こってもお互いに責任など取れないからだ。
「そう。部の用事で、こっちの資料館に寄った帰り」
「部?」
「高校のね」
「お前、部活なんかやってたのか?」
「休みがちだけどね」
「へえ…………」
 幽助は面白そうに笑った。意外だったのかも知れない。
「帰ってから何か変わった事はなかったか?」
 蔵馬は幽助に尋ねた。どうも東京に帰ってきた後、周りの様子がざわざわと落ち着かなかった。直接何かがあったという訳ではなかったが、彼が感じ取っている程度の事は、幽助も感じていて不思議ではないと思ったのだ。
 しかし、幽助は不思議そうに首を振った。
「いや。……特になんにも。お前の方は何かあったのか?」
「あったっていう程じゃないんだけどね。……」
 蔵馬は手を伸ばして桜の幹に触れた。
「気がつかないか。桜が咲いてないのを」
「!」
 幽助の方では、そう云われてみて初めて気づいたようで、狼狽したように回りを見回した。
 この道は、K駅からはずれた一本道で、割合に新しい道のようだった。両脇にぐるりと若いソメイヨシノが植えられている。ソメイヨシノの花は桜の中でも開花が早い方だが、散ってしまったにしても、まだ葉桜にもならず、裸の幹のままで道の両脇に硬く沈黙していた。
「異常気象って奴じゃねえの?」
 幽助もそれに気づいたようで、しかし、半信半疑のようにまた周りを見渡した。
「今年はそれほど暖かい年じゃない。……」
 蔵馬は幹を確かめるように撫でてみた。
「いつもなら、少しは咲き残ってるはずだ」
「何かあるのか?」
「それはまだ分からない。ただ、何か様子がおかしいとは思ってる。出かける前と少し空気も違ってる」
「鬱陶しいぜ」
 幽助は苛々したようで、ポケットから煙草を引っ張り出して一本くわえる。歳に似合わない手慣れた仕草で火をつけた。
 彼は短気と云ってもいい。起こった事には動じないが、起こりそう、ということには苛々する傾向がある。それが幽助を不利にする事も多かった。
「どうしてこう落ちつかねえんだ。こっちはばたばたして帰ってきたばっかりだってのによ。……何かあるとすると、またコエンマの野郎から連絡があるだろうしな」
 休む暇もありゃしねェよ、と、幽助は眉をひそめて煙を吐き出した。
 そんな風に云っていても、何かことが起こった時、幽助が真っ先に動くのを蔵馬は知っていた。彼は誰よりも他人のために動いてしまう気質である。まだ、彼を動揺させた首縊島での一連の事件の衝撃から、完全には回復していないはずだ。それでおそらく、事件にうんざりしているのだ。気分的な疲れを引きずっているに違いない。
「帰るんですか?」
「や。どっか出ようと思ってたんだけどよ。桑原は調子悪いとか云って家で寝てるし」
 幽助はぼやいた。
「オレがつき合おうか?」
 蔵馬は幽助の顔を覗き込んだ。
「用事は済んだし」
 幽助は意外なものを見るような顔をして蔵馬を見た。とまどったようにまばたきして、視線をはずした。
「や。つき合おうかって、それ程のもんでも……お前にはちょっと」
 歯切れの悪い云い方をする幽助に、蔵馬は笑った。
「まずい所でも行くの?」
「……そうじゃねえけどよ」
 蔵馬は彼の日常ではないのだ。それに気づいて、蔵馬は仕方がなさそうに目を細めた。
 幽助と蔵馬は、最初から生命のやりとりの絡んだシーンに共に居合わせ過ぎた。だから日常を共有しにくくなっているのだ。極々近くに住んでいて、お互いに現在の暮らしがあるにもかかわらず、それはほとんど交わることのないものだった。
「ま。オフクロもいねえし、帰って寝るわ」
「また出かけちゃったのかい?」
「いつもの事だけどな。起きたらいなかったんだよ。一週間くらいで帰って来るっておんなじような置き手紙だけしやがって」
 幽助の母親の温子は奔放な女だ。そのくせ必要以上に退廃的な不実の匂いのしない、珍しいタイプの女だった。幽助は云いながらにやりとした。前よりもずっと分かり易い愛情が、その笑いにこもっている。葛藤しながらも幽助の目は明るい。
 幽助のマンションと、駅への分かれ道までを彼らは並んで歩いた。夕暮れにさしかかって、空はほのかに茜色に染まった。裸の桜が立ち並ぶ道に影が伸びた。
 幽助は妙にきまじめな顔で前を見据えていた。首縊島に行って帰ってきて、彼はまた変わった。蔵馬のような存在から見れば、人間の持つ時間は密度が濃く、みるみる内に変化してしまう。いい意味でも悪い意味でもそうだ。
 幽助に興味を持っていないとは云えない。むしろ行き過ぎた興味に変わりかけている程だ。
 本当なら、冷静さを失わせる過剰な興味を周囲に向けるのは、自分と周囲の双方の安全のためにも避けたかった。幽助は彼のその醒めた情念を刺激して、冷静さを失わせる所があった。
 彼はあの飛影にすら影響を与えたのだ。
 道はY字形に長く伸びた。左の道を行って折れれば幽助のマンションが目と鼻の先だ。蔵馬は右に反れかけた。身体を返して振り向く。
「じゃあまた何かあった時に」
 幽助は肩をすくめた。
「それもぞっとしねェよ」
「まあね。……」
 確かに、南野の母のためにも、もうこれ以上大きな異変が起こらなければいい。暗黒武術会で、呂屠という妖怪に母を人質に取られた時、最近では滅多なことで動くことのなかった憎悪が、胸の底で黒い染みのように動いた。今まで動かなかった事態が、転がるように動き始めているのを感じている。このまま静かな時が続けばいいと思う。彼の内側にひそむ、或る暗い部分は否定出来ないが、静けさを望んでいるのは本当だ。
「なあ、蔵馬…………」 
 幽助は何か云いかけた。黒く澄んだ虹彩が彼を凝視した。
「何?」
 もの云いたげに彼は暫く蔵馬を見ていたが、目もとの表情をふと和ませた。このくらいの歳の少年としては滅多に見ない事だったが、幽助は思いつめた自分を振り返って笑う方法を知っている。
「ま、いいや。またな」
 幽助がきびすを返そうとした時、幽助の肩をかすって、幽助のマンションの方向からやって来た男が一人、すり抜けるようにしてすれ違った。
 幽助が視線を上げた。男は恐ろしく背が高かった。人間の高さとしてはいささか不自然に思える程だった。
 幽助の肩が肘の位置にあった。
 あれほど痩せぎすな、はがねを含んだ身体ではないが、どこか戸愚呂に似たイメージがあった。幽助の身体が一度に緊張をはらむのが分かった。蔵馬は手を握りしめた。面倒な事になったと思う。やっかいごとが早速やって来たのだ。
 蔵馬の方ではその男に見覚えがあった。
 男は、蔵馬の前まで来て立ち止まった。
「久しぶりだな……」
 男の薄茶の髪は一瞬大柄な西洋人のようにも見えるが、幽助の霊力なら、彼がただの大きな男でない事は分かってしまっただろう。
「ああ」
 ここは何とかごまかして、幽助の目の届かない所に場所を移してしまった方がいい。いつかこんな事が起こるのではないかと思っていた。暗黒武術会にゲストとして招聘されてから、こういう事があるのは覚悟の上だった。
 しかし、よりによって幽助と一緒にいる時とは、タイミングが悪い。
 蔵馬には、特に自分の過去が絡んだ事に幽助を巻き込みたくなかった。
「オレに話があるんだろう」
 蔵馬はポケットに両手を入れたまま、幽助のマンションとは逆の方向に顎をしゃくった。
「まあな」
 男は蔵馬よりも更に頭ひとつ以上高い位置から見下ろした。最後にこの男と会ったのはもう、二十年以上前の話だ。まったく変わっていない。
「ここは場所が悪い…………」
 蔵馬が云うと、男はニヤリと口を開けて笑った。その瞬間、口の端がずっと横に伸びて、見た目はまったく普通の男の顔であるにもかかわらず、妖怪の面差しになった。男の虹彩は、ほとんど見分けられないほど薄い黄色である。光を受けるとまるで虹彩がないように見える。
 のっぺりとした白い目が蔵馬を見下ろしている。
「オレはここでだって、もっと町中でだって話が出来るんだぜ……」
「場所が悪いと云ってるんだ」
 蔵馬の声に、ほんのやわらかな恫喝が含まれた。
 男は嘲笑的に唇を歪めた。
「アレを心配しているのか……」
 男は裂け目のように赤い口で呟いた。あからさまに幽助を指した言葉だ。蔵馬はひやりとした。幽助を刺激されたくなかった。男はにやりと口もとを歪めて、幅広い肩をすくめて先に行こうとした。その瞬間、黙って立っていた幽助が口を開いた。
「おい。ちょっと待て」
「……」
 男は振り向いた。
 これは本能的なものなのだ。蔵馬は内心舌打ちした。幽助は勘が鋭い。彼は目の前にいる男の中の、蔵馬に対する敵意をかぎつけている。
 幽助の目が剣呑な光を灯している。自分の仲間内にだけ見せる、あの無防備に己をさらけ出す人なつこさはぬぐい去ったように消えている。
 触れるものを断ち切ってしまいそうに瞳が光っている。
「御挨拶じゃねェか、おっさん」
 幽助は小首をかしげるようにして巨きな男の前に立った。小柄な彼の身体の中から、白っぽい霊気があふれ出して来る。
「幽助、オレの昔の知り合いなんだ」
 蔵馬は無駄と知りながら云った。そんな言葉でごまかすには、男が蔵馬に抱いている殺意があきらか過ぎた。
 幽助は蔵馬のその言葉が聞こえていないように、男から視線をはずさなかった。
「楽しい話じゃなさそうじゃねェか、え?」
「幽助」
「うるせえっ」
 幽助は、彼を再び制止しかけた蔵馬の言葉を、吐き出すようにさえぎった。
「ムカつくぜ、蔵馬、お前のそういうところ」
 幽助は目を細めてようやく蔵馬を見た。敵意とよく似た怒りが、鋭い針のようにこぼれた。
「何考えたか当ててやろうか。オレがいるとこでやり合うとやばいから、さっさと追っぱらおうって思ったんだろ」
「幽助」
 蔵馬は幽助の聡さに閉口した。
 彼のそれが頭で考えたものでないというのはこういう所だ。
 幽助は、今から自分にしかけてこようとする男のレベルの低さまで本能的に感じ取っているのだ。目の前にいる男は、戸愚呂のような、ある意味でこなれた相手ではない。蔵馬の方でも男と相対することに重きを置いていない。それを感じとって引き止めた。そういう相手との対峙でありながら、幽助を巻き込むまいとした蔵馬の意図が癇にさわったのだ。
 こうなってしまうと、彼は引かないだろう。
 まずいことになってしまった。
「こいつが浦飯か」
 男がようやく幽助を見下ろした。意識的に挑発している。蔵馬にはそれが何故なのか分からなかった。男が幽助を知っているとするなら、絶対に幽助を相手にするような事はないはずだった。男の力と幽助の力は桁違いだ。男が勝つことはまずあり得ないし、彼は勝算のない闘いを好む男ではなかった。
「オレは弱いんでね……」
 男は呟いた。幽助に手を伸ばした。その手を幽助が振り払う。その手に肩から提げたカメラバッグのようなものが、一瞬軽くあたった。
「……?」
 その瞬間、バッグの後ろ側から爆音があふれて、幽助の身体を揺るがせた。
「!」
 幽助の小柄な身体が不自然に後ろに飛んだ。蔵馬は目を見張った。幽助を吹き飛ばすというのは、戸愚呂クラスだ。彼の知っている男は、決してそれほどの力を持っていなかった。
 何とか踏みこたえた幽助が顔を上げて男をにらみつけた。足が震えている。
「てめえ……」
 云いながら膝をついた。
「云っただろう、オレは弱いんでね。……その分、他のものに頼ることにしてる。戸愚呂なんて奴とは違って、一発でもくらいたくない」
 幽助の首筋に、大きな針が突き立っているのを蔵馬は見た。
 一瞬、自分の髪が逆立つのが分かった。
「赤蝕、貴様……」
 男は大きな手で幽助の腕をいったん掴んだ。ボロ切れでも放り出すようにして、幽助の身体を地面に放り出す。
「それに、今からお前とやるのに、お前の仲間を殺して、逆上させるなんて危ないこともしたくない。暫く会わない内に、すっかり人間に染まっちまってるみたいだからな」
 含み笑って肩をすくめた。
「麻酔銃だよ。ちょっと強いがな……オレはこういうガキは苦手でね」
 カメラバッグを撫でる。
「人間には人間の武器が一番役に立つ」
 にっと笑った。
「暗黒武術会の中継を見たぜ……シマネキ草を操ってるお前を見た時は、懐かしくて手が震えたぜ、蔵馬。……探して探して、諦めなかった甲斐があったってもんだよなあ、ええ?」
「何が望みだ?」
「望み、だと?」
 男の口だけが裂けそうに笑っている。先ほどと同じ形をとってはいたが、もうすでに男の顔はほとんど人には見えなかった。
「分かり切ったことを聞くなよ、蔵馬。オレがほしがってるものが本当に分からないのか?」
「……」
 男はねっとりとした笑い声を立てた。
「お前の命だよ。なあ?」

 男の名は赤蝕と云った。         
 蔵馬が数十年前、人間界に逃げ込む直前に組んだことのある男だ。武器を好んで盗む。妖力は強い方ではなかった。蔵馬の方で好きこのんで組みたいと思うような相手ではなかった。もっとも、妖狐であった頃の彼は、他の者と組もうなどと思ったことはなかった。
 赤蝕は、ぬけぬけとした男だった。蔵馬を探し出し、一緒に仕事をしないかと持ちかけて来た。蔵馬の悪名はその頃すでに遠く知れ渡っていた。彼にそんな事を持ちかける命知らずは、最近ではもういなかった。それで好奇心を動かされて誘いに乗ったのである。
 妖気は弱いが、並みはずれた才があるか、智を備えているか。とにかく何か、非凡な所があるのではないかと思ったのである。
 しかし、赤蝕は小物だった。蔵馬の興味はすぐに醒めた。
 魔界の実力者の邸宅に忍び入って、高い妖力で有名なふたふりの刃物を盗み出すのに、赤蝕は蔵馬の力を借りようと思ったのだった。それほど難しいことをするのでなかったが、しかし、妖気で封じられた厚い門を破るために、同じ程度の強力な妖気を持った者が必要だった。赤蝕の妖気はその門を破るのにははるかにいたらなかったのだ。
 仕事自体は蔵馬が出る程の事ではなかった。
 赤蝕の方でも、後々、蔵馬と組んで盗んだという事を吹聴して、後の自分の仕事のプラスにしようという心づもりでもあったのだろう。
 妖狐であった蔵馬は、その男とのつき合いにすぐに嫌気がさしてしまった。何も彼の心を魅くような所がなかった。
 彼はあっさりと裏切ることにした。
 ふたふりのその刃物を盗み出す所までは、彼はやりおおせた。半ば退屈な思いをしながら、刃を守ろうとするその家の主人を殺した。
 そして、その刃物を手にして喜び勇んだ赤蝕を、その街のはずれにある障気の穴に突き落としたのである。片手でこと足りた。
 障気の穴は、魔界のあちこちに開いている。深く暗い。その穴の底がいったいどうなっているのか知る者はいなかった。ただ、どこまでも深く、覗き込んでも果てが知れないような場所だ。邪眼を持つ者すらその底を通し視る事は出来ないと云われた。
 盗み出した剣は、赤蝕と共に障気の穴の深くに転がり落ちた。特別に興味はなかったが、小刀の方が彼の手に残った。それは妖気の強い者であればあるほど反応して鋭利に切り裂く、ごく小さな刃だ。蔵馬は己自身の妖気が強過ぎて、それほどそういったものに興味がなかった。
 しばらく持ち歩いていたが、一度人間界に来た時面倒になって埋めた。それきり持って帰らなかった。
 今の蔵馬は、場所も良く覚えていない。
 それを取り返そうとも思っているはずだ。赤蝕は粘着質だ。復讐だけで済まそうとは思っていないだろう。


 蔵馬は赤蝕をあおぎ見た。
 今の彼と、以前の彼がした事は関係ないと半ば思っていた。しかし、向こうにそれが通用しないのは分かっていた。裏切りに赤蝕が復讐心を燃やすのは理解出来たが、だからと云って、おいそれと命をくれてやる訳にはいかない。
「中継を視た時は信じられなかったぜ」
 赤蝕は節の太い大きな手で、蔵馬の顎に手をかけて上向かせた。
「これがお前か、蔵馬」
「……そうだ」
 蔵馬は赤蝕の手を自分の顎からはずした。
「よく助かったものだな、赤蝕」
 彼は静かに呟いた。
「オレもそう思うぜ」
 赤蝕は顎を撫でた。蛇のような眼で笑った。
「障気の穴ってなあ、あれは冷たいぜ、蔵馬。今のお前にも一回味あわせてやりてえよ。這い上がって来るのに、七年かかったぜ。お前に会いたい一心でよ。そしたら、お前。出てきたら蔵馬はハンターに追われて死んだって云うじゃねェか。オレは信じねェって思ったね。それじゃオレが、七年もかかって這い上がってきた甲斐がないってもんだ。そうだろ?」
「赤蝕」
 蔵馬はこれ以上赤蝕の昔話を聞く気にはなれなかった。南野秀一と融合した後も、彼は赤蝕を好かなかった。
「オレが昔したことで、お前がどう思っているかは分かった。だがオレは、今死ぬわけにはいかない」
 彼は手を両脇に垂れた。待つ姿勢になった。
「もしもどうしてもお前がオレを殺したいなら、闘うしかない」
「まあ、待てよ、蔵馬」
 赤蝕は両手を掲げて一歩後ろに下がった。
「あれから二十五年だ。オレも少しは馬鹿じゃなくなってる。また、冷たい所にぶち込まれておしまいにはしたくねえよ」
「……何が望みだ」
 蔵馬は先刻の問いをもう一度繰り返した。
「なあに、そんなにたいした事じゃない」
 赤蝕は自分の服のポケットに手をつっこんだ。
「なあ蔵馬、お前は変わったよな。昔とは中も外も違う……肌もずいぶん柔らかそうだ」
「何が云いたい」
「オレは弱いって云っただろう。だからオレは昔、武器を手もとに置くのが好きだった。強くなれるような気がしたからな。だけど、お前がオレをあの穴に突き落として、這い上がって来るまでの間、オレは考えたよ。強くなって、それでどうするんだってな。目を覚まさせてくれたのは、お前だよ。蔵馬」
「……」
「オレは強くなる事はあきらめたのさ。その代わり、他人の弱い所を探す事にしたんだ」
 一瞬顔色を変えた蔵馬を、また赤蝕は両手で制した。
「まあそう急ぐなよ。オレは一日千秋の思いでお前と会いたがってた男だぜ。もう少し喋らせろよ」
 赤蝕は、蔵馬が逃れないように、そろそろと片足を地面に倒れたままの幽助の背に乗せた。
ぴくりと眉をひそめた蔵馬に、嬉しくてたまらないように笑って見せる。
「呂屠……って云ったか? あの男。あの男のやり方は悪くない。眼のつけどころはな。でもあいつが甘いのは、弱点を見つけるなら、近い所に、一番近い所にするべきだったって事に気づかなかったからさ。一番近いって何のことか判るか?」
「判るよ」
 蔵馬は静かに腕を垂れたまま答えた。
「そいつ自身だ。そいつ自身の中に見つけるのさ。人質なんて取っても仕方ない。心変わりされればおしまいだ。特に蔵馬、お前みたいに性根の冷たい奴相手ならな」
「……まだお喋りに飽きないのか、赤蝕」
「飽きないね。暗黒武術会が終わる十日間も待ち切れないくらいだった。会いたくてたまらなかったぜ、蔵馬」
 そう云いながら、赤蝕は、幽助を踏みつけた片足に力を込めた。
「人間界に何度か足を運んだ時、面白い話をたくさん聞いたよ。竜の血を浴びた男の話なんてのもな。オレはその、木の葉に隠されて竜の血を浴びてない一点を探すのが大好きなんだ。オレにはどうやらそれを探し出す才能があるらしい……」
 赤蝕は、幽助の背中の足を降ろした。ポケットから手を出す。その手には厚い革の手袋がはめられていた。彼は無造作にその手を伸ばした。そしてその手で蔵馬を手招いた。
 蔵馬は彼をじっと見つめていた。男の一挙手一投足を見逃すまいとした。
「……ほら」
 男の手の中から、唸りを上げて飛び出したものがあった。それは一瞬、石のつぶてを空に投げあげたように見えた。蔵馬が避ける横ざまからそれはぐうっと回り込み、彼の胸元に羽音を立てて飛び込んだ。
(虫……?)
 その瞬間、左胸の頂度心臓の位置に、ちくりと刺すような痛みがあった。
 しかし痛みは一瞬の事で、すぐに消えた。
「……」
 蔵馬はゆっくりと胸元をてのひらで覆った。特に異変が起きたような感じはない。自分の学生服の胸元を開いた。シャツをはだける。
 心臓の上に頂度小指の先でついた程の薄赤い跡が残っている。かすかにくぼんでいるように見えたが、気のせいと云っても分からない程度のものだった。
「何をした?」
「刄虫さ。小さいもんだ。ただし石で出来てる。硬いからすぐもぐり込める。心臓の横まで。居心地がよければいつまでもそこでじっとしてる。今お前の背中を破って飛び出してない所を見ると、お前の心臓の脇が気に入ったらしい」
 男はてのひらを広げた。笑った。反応を見守るようにゆっくりと云った。
「狐聾石で作った刄虫だよ……」
 蔵馬は、瞬間、ようやく反応して目を見開いた。
「コロウセキ。……」
「そうだ。お前たち狐の大好きな狐聾石さ。……」
 彼は広げて見せた手からゆっくりと手袋を抜き取った。右手の指のあるはずの位置には、一本一本の指が全て欠け、鉄の武骨な棒のようなものが突き立っていた。
「飛影と云ったか? あの邪眼師。……あれほど派手な技はとても無理だが、オレも、片手の指を無くせば、刄虫のひとつも作れる。……」
 彼は今や、おかしくてたまらないように身体を揺らせて云い募った。
「術師はオレだ。オレでなければ、絶対にその刄虫は取れないんだよ。蔵馬。今はどうって事はないが、今につらくなる、どんどんマズくなって来る。狐聾石ってのはそういうもんだろう? お前以外の妖怪なら何て事はない石だ。心臓の横にひとつくらいあっても、何の害もない。……でもお前が我慢出来るのはせいぜいひとつきだろう? それ以上置いといたら狂い死にだ。普通の刃物じゃえぐれない。心臓に融けちまうからな。出来るとしたら、オレと一緒にお前が障気の穴に投げこんだ、あの剣くらいしかない」
 蔵馬は静かに立った。
 瞳は暗く深く沈んだ。
「お前は、オレの足許に這いつくばって、石を取って下さいってお願いするしかないんだよ。オレは絶対にお前とは闘わない。お前がトキタダレの実を手に入れたのも知ってるからな。オレが死んでも、術は解けない。……」
 勝利の確信に酔った男は、蔵馬の髪をすくい上げて指先に巻きつけ、強く引いた。
「おい、蔵馬よ、何か云う事はないのか……」
 髪を引かれた蔵馬は、その手をゆっくりと押しのけた。
「……たった二十五年では無理もないか。相変わらず下衆だな、赤蝕」
 開いた彼の唇から漏れたのは、冷ややかなさげすみの言葉だった。
 今は以前の形と違う、少女のように薄い唇から漏れたそれは、絶大の効果を上げた。
 赤蝕は眼をつり上げて一瞬呼吸を乱しかけた。しかし逆上はしなかった。彼の中に鬱屈しているものはそれほど根の浅いものではないようだった。蔵馬への憎悪は、屈辱にすら勝るらしい。
「まあ、それならせいぜい我慢するさ」
 赤蝕は一歩下がった。幽助を見下ろす。
「あの浦飯も、麻酔銃一本でこの通りなんだぜ……」
 その時、赤蝕の足許に転がった幽助の指がぴくりと動いた。
「あの邪眼師……あいつはどうかな。黒龍波を使うそうだが、弱点を探してみても面白い。……探し出した弱点を、欲しがる奴に売ってやってもいい。蔵馬、お前がオレを探しに来なければ、オレはオレで勝手に楽しませてもらうよ」
「てめえ……何を……」
 幽助が目を開けた。彼はうめくように云ったかと思うと、肘をつっぱって置き上がろうとした。額に汗が浮かんでいる。苦しそうだった。おそらくひどく強い薬を打たれたのだろう。
「何、云ってやがんだ…………」
「幽助、動くな」
「安心しろ。お楽しみは後に取って置くさ」
 また、くちもとの裂けるような笑みを見せて、赤蝕はリラックスするように背筋を伸ばした。
「そんなことはありえねェが、万が一、術を解く方法を見つけても、霊界に泣きつこうなんて考えを起こさない方がいいぜ。オレは失敗したらまた繰り返すだけだ。でも、一回失敗した腹いせに、今度は、お前本人じゃない奴の心臓で、急場を間に合わせようなんて馬鹿な気を起こすかも知れないからな。オレの楽しみは半減だが、それでもいいってほど、理性をなくしちまうかも知れねえ。何せオレは下衆だからよ」
 彼は呟いた。
「魔界に帰って待ってるぜ、蔵馬。オレがすぐ見つかるように祈ってるよ」
「赤蝕。そんなに簡単に魔界に帰れるのか?」
 そう云った蔵馬に、彼は初めて勝利の笑みを浮かべた。
「じゃあお前は知らないんだな。……」
 白っぽい眼が陰惨に光った。
「最近は往き来し易くなってるんだ」
「……何?」
「さあな」
 なごり惜しげにさえ見える視線を一度蔵馬に投げて、彼はゆっくりと右の道に折れた。
 蔵馬が幽助にかがみ込んで首筋の針を抜き取っている間に、数十メートル行って、その背の高い姿は不意に、かき消すように見えなくなった。
 蔵馬は左胸を押さえた。何の痛みもない。
 しかし、赤蝕の言葉が嘘でないのは薄々分かった。
 狐聾石は、彼のように狐の性を持つ妖怪には、云うなれば放射性の物質を腹にためて置くようなものだ。狂い死ぬと云った赤蝕の言葉はいい加減な話ではなかった。
 しかし、狐聾石などめったなことでは採れないし、彼ら妖狐がそれを苦手だと知っているものも今ではほとんどいないため、さほどの脅威にはなり得なかったのだ。
 ただ、赤蝕の知らないことがひとつある。
 今の話では、赤蝕は蔵馬が二十五年前、ふたふりの刃を、もろともに障気の穴のそこへ投げ入れてしまったと思っているようだ。しかし、彼は小刀をしばらく持ち歩いている。それを人間界のどこかへ埋めた。どこに埋めたのかは、蔵馬自身にも分からない。だが、探せば必ず見つけられるはずだった。
 あの小刀が、本当に狐聾石を切り取る力を持っているとしたら、自力で助かる方法はある。
 なら、まだひとつきは猶予がある。
 むしろ、彼が今気にしなければならないのは、自分の身体の中に埋め込まれた狐聾石の刄虫のことではなく、赤蝕が、飛影や幽助の弱点についてほのめかしていたことと、そして魔界との間を最近往来し易くなったと云った言葉である。
 咲こうとしない桜と、何か関わりがあるのではないか。彼は不意にそう思った。魔界と人間界のバランスに変化が起きているのではないだろうか。
「…………幽助」
 どこからその情報を収集すればいいかについて忙しく考えをめぐらせながら、彼は幽助の肩を揺すった。
「蔵馬」
 幽助は呆然としたように、反対側に身体を返した。
「話を聞いてたんですか?」
 自分でも驚く程冷静な声が蔵馬の唇をするりとすべりだした。
「飛影の弱点がどうのこうのって……畜生……」
 幽助はようやく腕をつっぱるようにして体を起こした。自分のこめかみを押さえる。起き上がれるのも、本当は幽助だからこそのものだろう。
「何で、オレ、こう、バカみてーなことばっかしちまうんだ……」
「とにかく起きて」
 幽助は彼の手を拒んだ。座り込んだまま、学ランのズボンの膝に顔を埋めた。
「いっそ殴って済ませて欲しいくらいだぜ」
 蔵馬は、さっきのかすかな胸の痛みを思いだしながら、立った位置から幽助を見下ろした。
 その眼が複雑に揺れた。
「殴らない」
 幽助の言葉尻をとらえて、意外なほど厳しい口調で蔵馬はぴしりと云った。いつもと違う口調に、幽助は顔を上げて蔵馬を見た。
「君が自分を大事にしてくれるなら。後はちょっとくらいどうだっていいんだ。オレが自分の身を守る事で精一杯な場合も、この先きっとあるだろう。その時、絶対に君たちが大丈夫だと思っていれば、オレも安心出来る。それだけ左右されてるんだ、君たちに」
 幽助が顔を上げた。彼の瞳の光に射られたが、蔵馬は珍しく視線を反らさなかった。
「君も、大きい……幽助。オレの中で……もしも君に何かあったら」
 蔵馬はさすがにそこで云いやんだ。
 幽助は身じろぎもせずに彼を見つめている。その内、薬がまだ切れていないためか、よろめくように揺れる肘で体を支えて、彼は自力で起き上がった。服を払う。
 仕方なさそうに笑った。
「慰められてるってのは、これはオレが勝手に思ってるんだけどな…………」
「慰めじゃない」
「分かってる」
 幽助は強く云った。
「分かってるけど、そういう風に思ってた方がいいのかも知れねえ。オレにはよくわかんねえことも多いし。今の奴の事も」
 狐聾石のくだりは、少なくとも聞こえていなかったらしい。蔵馬は心から胸を撫で下ろした。あれを幽助に聞かれてしまったら、今頃はもう大騒ぎになっていたことだろう。
「どうしてそんな風に…………」
 しかし、結局は幽助から視線を反らして呟いた。
 幽助は自分と形が違うから、蔵馬の中の執着を理解しない。そう思って、蔵馬は、幽助に執着する己それ自体より、それを彼に知って欲しいという気持ちがどこかにある事に驚愕した。
 語尾は低く消えた。
「蔵馬」
 幽助が、彼の肩口に静かに額をつけた。
 夕日に沈む咲かない桜の傍らに二人は、後は無云で立った。


 蔵馬がこの部屋に来るのは、彼らが初めて触れ合った晩以来の事だった。
 あの時も温子が留守にしていて、霊力の使い過ぎで参ってしまった幽助の見舞いに、蔵馬が訪れたのだった。
 足許のふらつく幽助を送って蔵馬はマンションまで来た。彼は玄関先で帰ろうとした。一歩中に入ったら幽助に流されるのを分かっていたからだった。幽助もまた、彼にとって弱みである石の存在に近い。否応なしに心臓部へ融けこみ、健常な感覚を狂わせる石だ。
 今回は、幽助のどんな言葉も、彼は笑って軽くいなしてしまうつもりだった。
 しかし、玄関先で振り返った幽助は何も云わなかった。
 つい数日前、ホテルで見せたのと同じような表情になった。
(「……ちょっと上がっていいかな。……」)
 結局蔵馬の方からそう云わざるを得なかったのだ。今までこれを、彼は自分が幽助に甘いのだと思っていた。幽助を甘やかしているような気分になっていた。
 しかし今日は、自分の方で離れられないのだ、と、しみじみと思う。
 幽助だけではない。この短期間に、自分の中で守ってきたスタイルを崩して関わってきた全ての人を、出来るなら胸中に抱え込んで、決して傷つかないように護りたかった。しかし、彼はその考えが非現実的な事、己を護る力を持つのは己のみであるのを知っていた。
 誰か一人でも、完全に護ることなど出来ない。
 ただ、誰かに取っての自分が傷つかないように、せいぜいが自分一人を護ることしか出来ないのだ。そしてそれは、自分にも他の誰にも不可能なのだということを彼は知っている。
 それは今日昨日に悟った事ではなく、妖狐として生きていた頃から彼は思っていた。命がけで誰かをかばおうとする庇護者の腕から、多くの命を奪い去ってきたのは自分自身だ。他者を護ろうなどという考えのあさはかさと危険は十分に心得ている。
 それを今、何故抱え込もうというのか。
 蔵馬は、幽助の放ってよこした着替えに袖を通した。
「何にも云わねえな、お前。……」
 汗の引きはじめた胸元のボタンを止めていると、幽助が乱れた髪をなでつけながら呟いた。ぽつりと低い声に顔を上げたが、顔を見ると幽助は笑っている。
「何を?……」
「嫌だとか、そういうこと」
「そりゃ、嫌じゃないですから」
 幽助は物慣れている風では決してないが、不思議にこなれた接し方を心得ている。それは蔵馬には有り難かった。楽だとは云えない恋愛のステロタイプを要求されることがないからだ。恋のかたちをとるには、優先させなければならないことが多過ぎた。
 結局抱かれた。身体に異常は感じなかった。普通に快感と疼きがあり、しかし気持ちは静かだった。
 幽助に狐聾石を埋めこまれた胸の跡を気づかれないかと心配したが、薄明かりの部屋では何も気づかれなかったようだった。
 満ちたりた幽助が、彼の傍らで片膝を抱えて座り込む。蔵馬も黙っていた。
 壁に掛かった、もらいものらしいカレンダーの写真の中で、巨大な桜の樹が空を抱くように枝を広げていた。滝のような桜だった。老木らしい。そう思って眺めると、桜の下にはほんの小さな文字で、三春・滝桜と書かれている。
 樹齢五百年ほどになる、福島の老いた桜だった。魔力を持ち始めるほどの老木だ。
 桜を見守る視線は感傷にも似ていた。まだ慣れないこの甘い感情に、彼は半ば戸惑っている。この身体に影響されてさまざまな感情を知った。飛影が人間を不合理だというのも道理だった。
 妖化しながらも、人間としての自分を捨てられない、そして人の身体を持ちながら、強烈に妖魔でしかない彼だ。その不合理さは分かっている。妖化しても、彼が完全に人間でなくなるのはもっとずっと先だ。数年、あるいは数十年かかるかもしれない。
 それまでの彼は人間である。むしろ今はその部分の方が強いような気がしている。
「お前、そういえば部の用事って、あれ良かったのか?」
「明日はここからまっすぐ登校する事になるけどね」
「高校か…………」
 幽助はベッドサイドから煙草を取って火をつけた。
「来年受験だね」
「イヤなこと思いださせんなよ」
 彼は大げさに眉をしかめて見せた。そうしながら、しみじみとうまそうに煙を吐きだす。
「ああ、普通の喧嘩してえ。……」
 彼が煙草を片手につぶやいた言葉に蔵馬は笑った。
「お前はそういう気分にならねェの?」
「ならないよ」
 即答に気を悪くした様子もなく、自分も笑っていた幽助は、煙草を灰皿にもみ消し、回りこむようにして蔵馬の胸に顔をうずめた。
「幽助?」
「変だよな、大会終わったばっかで、もう二度とごめんだって思ってたのに……」
 そういってまた黙った。蔵馬は自分の胸元の幽助の髪をかすかに撫でつけた。好戦的な気分にならないと云ったが、それは正直な云い方ではなかった。時折顔を見せるもうひとりの己の存在も承知している。幽助ほどストレートに表に出てこないだけだった。
 元より、それに無縁な生活は望むべくもない。なるべく考えるまいとする。形だけでも平凡な幸福を保とうとしている。自分のためにか、周囲のためにか。
 両方であり、どちらも百%ではないのだろう。
 蔵馬は幽助の髪に顔を埋めて彼を抱きしめた。子供のように熱い彼なのに、整髪料の匂いは獰猛な印象があった。

 失わないために得ずにいようとすることは、もう自分には出来ない。
 ふと優しい湿り気が頬を撫でた。
 枯れた春の空に、小雨が降り始めていた。


 

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