楽園の続き。小話。
少女は、朝の食堂の喧噪の中で、空いた席を探して目を彷徨わせた。ノースウィンド城の一階東側を殆ど占拠するほど広い食堂だが、兵士達の数が爆発的に増えたせいで、昼は食堂、夜は酒場に早変わりするここはいつも満員だった。
だからといって、今や同盟の盟主となった弟を連れて、外で食事をする兵士達に混じるのも具合が悪かった。一昨日の晩、彼女の弟は、ハイランド皇国から送り込まれた刺客に襲われ、倒れたばかりなのだ。食事は彼の部屋に運ばれているのだが、今朝、彼女が食堂に出かけてきたのには訳があった。彼女がそばにいなければ、弟は殆ど食事をしない。いちいちついていて、もっと食べろ、と口うるさく催促しなければ、殆ど何も食べなかった。段々痩せて無口になっていく弟────そのくせ、黒いその瞳だけは益々澄んでゆくように見える弟を見ていると、不安で胸が締め付けられそうだった。人の中に連れ出して、一緒に食事をさせれば、少しは食欲も進むかと思って、弟を連れてきたのだ。
食堂の中程で、トレーを手にあたりを見回していると、声がかかった。
「────ナナミ殿」
語尾が少し冷たく下がる、無愛想な低い声だった。食堂の中で一部中二階になった、階段の上の席からだった。ナナミと弟は声をかけた男をふりあおぐ。弟が嬉しそうな表情になるのが分かった。弟は彼が好きなのだ。元、マチルダ騎士団の青騎士団長だった男、マイクロトフだ。
「席をお探しですか? 我々と相席でよろしければ、ここにお二人分空いています」
「有難うございます」
ナナミが答えるより先に、弟が答えた。騎士団での地位を捨てて同盟に加わったマイクロトフが、決して悪意のある人物ではないと、ナナミも分かっているが、正直彼と、彼の率いる騎士団の面々はナナミには馴染めなかった。マイクロトフと一緒に騎士団を離脱した赤騎士のカミューの方が、華やかで優しく、遙かに人当たりがよかった。上に立つ者の気質が関係あるのかどうかは分からないが、赤騎士は全体にもの柔らかで、青騎士は寡黙な男が多かった。尤も、騎士団出身の男達が一様に大柄で、いかにも戦士然として威嚇的なのに変りはない。
弟は、騎士団の近づきがたい男達にも、傭兵出身の荒っぽい連中にも、王国軍を脱走して自棄になった剣士達にも、全く臆するところがなかった。そして、背ばかり伸びた少女のような体つきの、若い少年将軍を、屈強な男達は王族を扱うように恭しく扱った。弟も自然に彼等に交じっていた。真の紋章を受け継いだ弟。その紋章を宿す以前と、彼はまるで変ってしまったようだった。
ナナミにとっては、この威圧的な男と一緒に食事をするのは気詰まりだったが、弟がそれでいいと云うなら仕方がない。
階段を上って行くと、マイクロトフは他に二人の男と一緒に座っていた。席は四人掛けで、一人分しか空いていない。ナナミと弟が近づいて行くと、席についていた三人共が立ちあがった。男達は一様に並以上に背が高く、暗い色の衣服を身につけている。三人は一様に右手を胸の前に低く掲げて礼を表した。何気ない動作だが、彼等に会釈されただけでものものしい。弟は苦笑して、おはようございます、と云った。
空いていない席に戸惑ってナナミと弟が足を止めると、マイクロトフは二人の男に軽く顎をしゃくった。男達は黙って肯き、立ちあがった。
「そんな、悪いですから」
慌てたナナミが彼等を止めようとした時、マイクロトフがテーブルの上を指した。二人の男の皿は空になっていた。
「いずれにせよ、我々はゆっくりと食事を楽しんでいる時間はありません。お座り下さい」
マイクロトフにそう云われて、ナナミは弟を横目で見た。弟は黙って、席を譲ってくれた二人の男に頭を下げた。その内の一人には見覚えがあった。彼等の中にあっては比較的小柄な若い男だ。確か青騎士団でも高位の騎士だった筈だ。名前は思い出せない。何か打ち合わせることでもあって同席していたのではないだろうか。ナナミだけがまだそんなことを気にかけていたが、明るい茶色の目をした男は、彼等に軽く微笑み、階段を降りていってしまった。
マイクロトフの命令し馴れた様子に、やはり少し彼を苦手だと思う。少し前まで、彼らのような騎士とはまともに口をきける立場でさえなかった筈が、今や弟は、それらの男達の頂点に立つ将軍だと云う。彼はまだ十七歳なのだ。真の紋章というのがどれだけ大きな意味を持ったものなのか、彼等の養父がどんな人物だったのか、知らないわけではないが、やはり弟には分不相応だと思う。
「それしか召し上がらないのですか?」
弟の皿の上を眺めて、青騎士は眉をひそめる。彼のがっしりした身体の前で、弟はまるで子供のようだった。
「少ないですよね?」
ナナミが不満を漏らすと、弟は閉口したように首を振った。
「……これだけ食べれば充分です」
紋章を宿す前はそうではなかった。ナナミは思う。ごく当たり前の少年の食欲で、ナナミの二倍も三倍も食べた。
「健康を保つのも貴方の仕事です」
マイクロトフは彼等に席に着くように促し、自分も後から座った。
「ここで食事をしている者も────この城の中にいる者全てが、貴方の部下であり、庇護者です。それをお忘れなきように」
そう云いながら、彼は食事の続きに取りかかった。この大柄な男の食事のマナーが、この食堂のざわめきにふさわしいとは思えないほど、折り目正しいことをナナミは知った。何一つとっても堅苦しい男だった。弟は、最近時折見かける、夢を視るような上の空で野菜をつついている。食欲がないのは一目で分かった。しんとその場に沈黙が落ち、ナナミはいたたまれなくなった。何故こんなにぴりぴりと緊張しなければならないのだろう。声をかけたマイクロトフを半ば恨みながら、彼女は必死に話題を探した。
「騎士団の皆さんはここの食べ物、口に合うんですか? 前にマチルダに行った時は、お料理も大分味が違いましたけど……それに確か、カミューさんはグラスランドの人でしたよね」
つい、好意を持てるカミューの話題を出してしまった。ミューズで初めて会った時から、赤騎士団長のカミューは優しかった。ぶつかって転んだナナミの手を取ってそっと助け起こしてくれた。そして男の表情とは思えない、華やかな微笑を見せた。その時も、確かマイクロトフは何か口煩く云って怒っていたような気がする。気難しそうな人だ、という印象を受けたのを覚えていた。
そのカミューとマイクロトフが、それぞれ騎士団を率いながらも、個人的に親しい友人同士だということを教えてくれたのは、リィナだった。リィナは元赤騎士に親しくしている男がいるのだ。自分もリィナのような世慣れた美女なら、同盟の雑多で華やかな顔ぶれの中で、気後れせずに人と話が出来ただろう。
「口に合うか────ですか?」
マイクロトフが機械的に繰返したため、ナナミはますます身の縮む思いをした。
そのとき意外にも、青騎士はナイフを使う手を止めて目許を和ませた。
「カミューがグラスランドに住んでいたのはごく幼かった頃なのです。好みはマチルダ風だと云ってもいいでしょう。ですが、あれは甘いもの以外は何でも食べる男です」
不意に黒い瞳から冷たい印象が薄れた。ナナミは、その目に表れた変化に目を見張った。彼が、カミューのことを云う口調で、親しみを持っているのが感じられる。
「カミューさん、甘いものが苦手なんですか?」
マイクロトフが話題を振り向けてくれたことも嬉しかった。話し続けてもいいのだろうか。かすかな不安感を捨てきれないまま、更に尋ねると、マイクロトフはかすかに笑った。
「冬の一番寒い時期ですが、マチルダには、女性から想い人に手作りの菓子を贈る習慣があります。その菓子を受け取って快く思ったなら、春になったら女性に花で返礼するのです」
「素敵」
ナナミはマイクロトフの微笑につりこまれたように声を上げた。この男の口から、そんな親しみの持てる恋の習慣について聞くことがあるとは思わなかった。ナナミが顔を輝かせたのを見て、何故かマイクロトフはほっとしたように見えた。ナナミには彼の表情の意味が分からない。
「毎年、カミューは何人もの女性から甘い菓子を贈られてひそかに困っていました。元々好きな方ではなかったのが、それで尚更苦手になったようです。────それを周りの者が代わりに食べてやったものです。わたしもおこぼれに預かった一人でした」
「マイクロトフさんが?」
ナナミと、弟の声が重なって、彼等は顔を見合わせた。弟も、マイクロトフが甘い手作りの菓子を食べているところは想像がつかないと思ったのだろう。
マイクロトフは肯いて、切った鶏の肉を口に運んだ。
「わたしは何でも食べられます。人間とテーブル以外は」
目を丸くして手を止め、黙り込んだ二人の顔に気づいた男は、しばらくして、きまりが悪そうに打ち明けた。
「ここのシェフから仕入れた冗談です。申し訳ない。彼の故郷では、四つ足のものは机以外全て料理する、と豪語しているのを聞いたので」
「ああ、びっくりした」
突然、可笑しさがこみあげてきた。自分が彼に怯えているのを感じて、男が何とか気分を和ませようとしてくれていたのが分かったのだ。気さくとは云えないが、案外に優しいところがある、とナナミは思った。そうしてみると、彼の硬質な低い声も、無表情な顔も、そう怖いものではないように感じられた。
「カミューさんと、とても仲が良いんですね」
「ええ、そうですね」
騎士はあっさりとそう答えた。同じ騎士同士、親しいも親しくないもない、とでも云いそうなのに。ナナミは内心驚かされた。
「カミューさんは、花のお返しはしたんですか?」
弟が冗談めかしてそう尋ねた。立ち入ったことを、とナナミは一瞬はらはらしたが、マイクロトフが気分を害した様子はなかった。ふと、遠くを見るような目をして、手元のグラスの中を見つめた。硝子のグラスが、その大きな手の中で華奢に見える。
「春になると、抱えきれないほど花を買っていましたよ」
それは、不安を一杯に抱えて大人達にまじる、少女の不安な胸を衝くような優しい声だった。彼女や弟よりもずっと年上で、騎士団の長であったという経歴から、別世界の住民のように思うが、彼等にとっても友人は友人なのだ。いかめしい顔で会議に出て、規律や国の行く末にだけこころを縛られている人ばかりのように見えて、友人を思ったり、甘いものを食べたり、恋をして花を贈ることもある、普通の人間がこの城を構成しているのだ。
彼女には分からないことも多いが、理解出来る部分がまるでないわけではないのだろう。
安堵と幸福感がこみ上げてくる。カミューが女性に花を買っていた、という話が、そしてそれを語る彼の友人の声の優しさが、何故ナナミをそんなにくつろいだ気分にさせたのか、よくは分からない。だが、弟が優しい人たちに囲まれて歩いて行くのだといい。そう思う。なるべく人の死なない世の中がやってくるといい。強い人たちが厳しい顔で剣をふるうより、意外な優しい面を見せてくれるような、友人が友人でいられるような、この世の中がそういう場所であるといい。
ぱっと明るい光が差した気分で彼女はマイクロトフに微笑みかけた。成り行きで笑うのではなく、彼に向けて意識的に笑いかけたのは初めてだった。
彼女の笑顔に出逢った大きな黒髪の男は、彼もやはりほっとしたようにぎごちなく笑った。
「どうした?」
目の前に地図を広げて、白ワインとパンだけの粗末な食事を摂るカミューは、友人の視線に出逢って顔を上げた。カミューが目を醒まして部屋を出て行くまでの短い時間、多忙な彼を捕まえることが出来たのは奇跡だと、マイクロトフは思った。
「……いや」
マイクロトフは首を横に振った。
カミューは椅子を引いて、入り口横の壁にもたれたマイクロトフに向き合った。
「白騎士団から新たに加わりたいと云ってきているのは何人だ?」
「五百。計画の筆頭にいるホルストは、ベルナールの母方の従兄弟だ。そのせいで騎士団に居辛くなっている。おそらく謀略ではないだろう」
ベルナールは青騎士団に居た頃の副団長だった。マイクロトフにとっては最も気の許せる部下だ。マチルダを出ると決めた時も真っ先に彼に従ったのが彼だった。
今朝、ベルナールから、グリンヒル作戦の折に同盟に合流したいと云っている若い白騎士の一隊があることを聞かされた。無論彼等は情報を携えてやってくる。彼等が本心からマチルダを出たいと思っているのなら、同盟にとっては歓迎すべき存在だった。カミューは思案するように目を瞬かせた。
「分からないぞ。取引かもしれない。そのホルストと事前に会えるか?」
「作戦の時期が迫っているが、不可能ではないだろう。まずシュウ殿の裁断を仰ぐ」
「……シュウ殿はおそらく、白騎士を迎える方に動くだろうな」
「おれもそう思う」
「流れはこちら側に来るだろう。白騎士の寝返りは、今となってはわたしたちの部下の同調より有難い」
カミューは地図に目を注いだ。合流地点について吟味しているのが分かった。昨夜艶めいた涙を流した気配は跡形もなく、抱き合ったことへの感慨も表面的には見せなかった。
カミューの部屋にも、昨夜女性達から贈られた花が飾られているのに気づく。一晩経っても枯れる様子はなく、まだ瑞々しく咲き誇っている。
マイクロトフはふと思いたって、その花の中から小花のついた小枝を一本折り取り、軽く口づけて友人の胸に挿した。
「武運を。────無事にここに帰ってくれ。……おれのような粗忽な人間には、お前のように頑丈で気丈な者でなければ扱いかねる」
「いったいどうしたんだ?」
カミューは笑いながらその花を抜き取り、自分も同じ場所に唇を押し当てた。その何気ない仕種は、昨夜の抱擁の後では殊更に意味ありげな、こころ惹かれる仕種だった。
「女性に言葉の失敗でもしたか?」
「しないかと冷や汗をかいていたのさ」
マイクロトフは襟元を緩めて溜め息をついた。今日も暑くなりそうだ。窓の外に陽炎がゆらめいている。夜には出陣だ。彼等の動きを読んで敵も待ち受けているだろう。
カミューは自分が重ねた口づけた小枝をマイクロトフに返そうとはせず、水鉢の中に戻してやった。そうして、マイクロトフの胸を、扉を叩くときのように軽く指で叩いた。
「誓いの口づけは、人ではなく花に捧げることにしたか?」
「誓うなと云ったのはお前だろう」
その言葉に同意するようにカミューは黙したままで微笑った。
胸に触れた指先を軽くマイクロトフの顎にかけ、カミューはかすめるような口づけをする。彼は決して小柄ではないが、マイクロトフの唇に触れようとすれば、多少伸び上がらなければならない。
「武運を」
明るく静かなささやきがカミューから返ってくる。今日この部屋を出れば、おそらくグリンヒルでの戦いが終るまで、彼等が二人きりでいられる時間は来ない。
ドアが開いている。気温の高くなるきざしが彼等をせき立てている。ゆっくりと抱き合う時間はもうない。戦いに出る前の不安か、盟主である弟の運命を思うのか、眠れなかった夜を顕わして赤らんでいた少女の目を思い出した。この若い同盟を支えられることを誇りに思いたい。今はそれを全てとするべきだった。
余韻を残さないよう、深い口づけは諦めた。帰ってからの愉しみがあるのもいい。
花が生けられた鉢の水面に、星が一つ落ちたように白い花弁が散っているのを眺める。その涼しさで、熱を持ったこころの疼きを宥めた。