無心に眠る姿にふと不安になる。
【morpho】
・トリバネチョウ類と共に、世界で最も美しい蝶として知られる。雄の羽根は金属的光沢を持つ青藍色ないしは淡青色に輝いて見事である。光るものに惹かれる習性がある。
今日こそは、友人に忠告しよう。そうこころに決めて若い青騎士の長は森の中に分け入って行った。
森の静かな一角で眠るという癖、それは、カミューのような立場の者でなければ、特に悪癖と呼ぶほどのものではなかった。
彼は決して怠惰な訳ではない。今までの騎士団長の中でも、カミューは目立って優れているという世間の噂が、マイクロトフの耳にも届いていた。文武共に優れ、それでいて力に奢ることのない、若い騎士団長が上に立ってのち、赤騎士全体の体質も変ったようだった。
すなわち、より柔軟に、より公正に、それでいてはかりごとにも力を発揮するという。
現在のマチルダ赤騎士団の持つ、独特の雰囲気は、あきらかにカミューの作ったものだった。それだけに、彼が思いがけない事故や、卑劣な刺客の手によって失われることがあってはならない。彼は今やマチルダ騎士団にとって、なくてはならない男なのだ。
場所こそ違え、彼と同じ立場に立つマイクロトフは、複雑な思いで、だいぶ丈の高くなった夏草を踏みしめて、馴れた道を辿った。カミューを必要としているのは騎士団のみではない。マイクロトフ個人も同じだった。友人として、そして、名を付けることの難しい執着の対象として、カミューは彼の胸の奥深くに住みついている。
そこは、地理を知り尽くした者以外には、殆ど道とは云えない細い木々の隙間だった。その奥に続いて足を踏み入れても何があるとも知れないような。ただ左右から差し伸べられた木々の葉の狭いアーチ、草の間に咲き乱れる花々だけが旺盛な、緑色の洞窟のような道なのだった。
だからこそ、カミューは休むためにここを選んだのだろう。実際に、カミューの副官と代わる代わる、その場所に足を踏み入れて、ささやかな午睡の番人を努める時も、人の気配を感じたことは一度もなかった。
城の窓にも背を向けたこの空き地は、最上階の見張り台からも見渡すことの出来ない、高木に隠された小さく静かな部屋のようだった。領民も、ロックアックス城の周辺を囲んだこの森には入ってこない。しかし、だからといってそこが安全な場所とは云えなかった。
今やカミューは、大きな自由を手に入れている。いつ自分の部屋に帰り、どれだけ眠ろうと、夜の帳に秘めるべきことに昼間明け暮れようと、彼に意見する者はないだろう。その自由を手に入れた代わり、カミューが失ったものがある。世の中を左右することなしに生き死にするという自由だ。少年時代を自由な土地で育ったカミューが、彼等の石の城を窮屈に思うのは察せられた。しかし、カミューの身体に傷一つでもつけば、それが誰か一人の責任にならずにはいられないのだ。
マイクロトフは、長く白い蕾をいっぱいにつけたムーンフラワーの蔓をかきわけ、目指す者の眠る草地の窪みを見出した。月に、二、三度この場所へ来てカミューは眠る。赤騎士の副団長が今日も、カミューが姿を消したとひそかに報せに来た。タイロスはカミューの不在を切り回すことで手一杯で、今日の午後を守人として勤めることは出来ない。カミューの忠実な副官が多忙であることを、そして自分に、カミューを探しに行く自由があることを、マイクロトフはこころの奥底で幸いだと思う。
だが、そろそろカミューのこのおだやかな習慣に、歯止めをかけなければならなかった。情勢は徐々に不安定になりつつある。平定は永遠の約束ではない。
今日はまだ、太陽が真上にあり、木々の差し伸べる、木漏れ日のレースにくるまれるようにしてカミューは眠っていた。日差しの強さを避けようとしたのか、俯せて横たわっている。日差しが彼の赤味の強い髪を不安定に輝かせていた。木の葉の狭間の形に切り取られた日光を照り返すそのうなじは、紅い貴石を散りばめられているように見えた。
マイクロトフは、前にここに来たとき、そのうなじにかかる柔らかい髪に唇で触れたことを思い出す。カミューの髪についた草の実をとってやりながら、誘惑に駆られたのだった。カミューと、友人以上の意味で触れ合ったことはそれまでなかった。その日以降もない。
マイクロトフは自分の望みが叶うものだとは思っていなかった。マイクロトフの唇の上で、その髪から受け取る禁忌の甘さはとけるよう。あるいはそのなめらかな冷たさが燃えるよう。そして、触れる前よりもカミューに抱く乾きは更に強くなったようだった。
普段は身につけているのを目にしない、朽ち葉色の上着を身に纏って、草の上に沈んだ彼に近づいて行くと、髪の上で蒼くきらめくものが目に入った。
────何だ?
目を凝らすと、それは真っ青な羽を持った大きな蝶であることが分かった。先日、草の実を絡めたのと、丁度同じほどの場所に、蝶はすいと青い羽を畳んで止まっていた。モルフォだ。この森で見かけたのは初めてだった。暖かい地方では見かけるが、マチルダの森林は、モルフォが住まうには気温も湿度も低いのだった。だが、この夏の風に乗って、浮かれてこの森へ迷い込んできたのだろう。異国の美の女神の名をつけられた蝶もまた、眠っているのか、安らかにうずくまって動かなかった。
木漏れ日を受けて紅く光るカミューの髪に止まった、蝶のうすあおい羽の輝きに、マイクロトフはそこに立ったままで見とれた。音と云えば風の音と、それに揺れる木々のざわめきのみ。その中で、赤と青の対比を見せながら、風や緑と共に調和する、一対の眠る者たちの姿を見つめた。不思議なことだが、草の実にさえかすかな嫉妬を覚えるマイクロトフのこころは、モルフォがそこにとどまることには異を唱えなかった。
青く光るそれは、彼のこころの一部分を切り取ってカミューの髪に触れているようだった。
マイクロトフは苦笑して、その想いを振り払った。友人を眠りの国から引き戻しに来たことを、瞬間とは云え忘れ去っていた。ただ静けさと、端整な筆で描いた絵のような光景に心を奪われていた。
彼は羽を傷つけないよう、その無骨なてのひらをそっと伸ばして、蝶を追った。
「────そこには蜜はないぞ」
低くそう囁く。
蝶は僅かな風だけで羽を広げ、薄青い鱗粉を僅かにふりこぼして舞い上がった。そして、自分を驚かせる者のいない、森の更なる奥へ、銀に青に羽を光らせて飛び去って行った。
青騎士は、人にそうするように蝶に話しかけた自分を、いささか面映ゆく思いながらそこに立っていた。
真実そこに蜜はないのか?
彼は自問する。考えるまでもなく答は出ていた。
蝶のための蜜はないかもしれないが、自分にとっては違う。
忍耐強い、無骨な青騎士は溜め息をつき、軽く曲げた左腕に額を載せて眠っている友人を起こしにかかった。先だって悪戯心を起こした後、彼にとっては過分に甘美な報復行動を取られたため、何もしかけるつもりはなかった。カミューは他人に柔軟に接する反面、負けず嫌いなところがある。驚かされることさえ、一方的に受け入れることを由としない。
城の中庭で引き寄せられ、不意打ちに抱きしめられたのは、草の実をとってやった時、自分が彼の髪に唇を押し当てたせいだというのは、マイクロトフにも察しがついていた。だが、カミューがどこまで気づいているのかは解らない。あれからも彼は素知らぬ顔をして、マイクロトフに親密だったからだ。
「カミュー、起きろ」
声をかけて、肩を軽く揺する。
眠りの浅いカミューはすぐに目を開けた。一瞬背中を堅くしたが、自分を起こす者の正体に気づいたと見えて、肩がすぐになごんだ。だが、彼の腰の横に投げ出した優美な剣に重ねた右のてのひらに、咄嗟に力が籠ったのもマイクロトフの目は見届けている。
小さな草の葉と、午睡の気怠い名残を身体にまつわりつかせたカミューは静かに起き上がり、自分を眠りから引き戻した友人を見つめた。
「……今日もお前か」
曲げていた左腕を伸ばしながらカミューは云う。マイクロトフは肩をすくめた。
「あいにく、おれだ」
「期待はずれだなんて思ってはいないさ」
友人は小さな欠伸をして、左手で自分のうなじを探った。そこに何かついていないかと確かめる風でもあった。
「そこに、蝶が止まっていた」
「蝶が?」
カミューは笑った。
「花に間違えられるとは光栄だな」
「お前は、蝶が止まってもおれがやってきても目を醒まさない。こんなところに一人でいるのはいいことではないぞ。周囲にも、おれにも心配をかける」
「蝶もお前も害を成さないから、わたしは目を醒まさないんだ」
カミューは鷹揚に応じて、手櫛で髪を整えた。こんな地味な、簡素な服を身につけていても、その中におさまった男が非凡な存在であることは、その手に携えた剣の輝きを観なくても分かる。マイクロトフは、自分や蝶以外の者がカミューを見出した時のことを思う。凶器を携えた者が彼の許に忍び寄る様を思う。幾らカミューの眠りが浅くとも、気分のいい光景ではなかった。
「だが、心配をかけているなら控えるべきだろうな」
彼は自分の午睡の寝床を見回した。そこはたっぷりと緑に包まれて、相変らず木々の梢を揺する風の音が聞こえるのみだった。若い騎士二人は、夏草を踏んで立ち、その音に耳を傾けた。
「お前達が、それほど心配性でなければいいんだが」
落胆したようにそんなことを云うのを聞きとがめて、マイクロトフは眉をひそめた。
「心配性と云うが、他の者は知らないから何も云わないだけだ。お前がこんなところで一人でいるのを知ったら、逆に眠れなくなる方も大勢おられるだろう」
「いったいどなたが?」
マイクロトフが、カミューの相手にする複数の婦人達を皮肉ったのに気づいたカミューは、殊更驚いたような声を出してみせる。そんな彼を真面目に説き伏せるのも莫迦莫迦しくなったマイクロトフは、いささか投げやりに云った。
「赤騎士団長殿が、城を平服で抜け出して、森で眠っていると知れば、驚く婦人は少なくはないだろうな」
「わたしはそんなに勤勉だと思われているのか? 息苦しいことだ」
カミューはふと、顔を上げてまぶしそうに目を細めた。日は森の中の隅々までを照らし出している。葉と葉が重なり合って透け、輝くようだった。
「それではわたしは、自分の人となりを知り抜いた方だけを慕うことにしよう」
彼の目が、自分の向こうの空を見上げているのだと知りながら、マイクロトフはそのまぶしげな表情に心を奪われた。そして、彼の気持を知ってか知らずか、揶揄うようなカミューの言葉に、再び溜め息をついた。
「お前が、運命的な出会いに恵まれるように祈る」
すると、カミューは心得たように微笑した。
「運命はたいてい身近にあるものだよ」
マイクロトフは今度は、まともに応酬出来なかった。
「そんなものか?」
「わたしの知る限りにおいては」
そして、マイクロトフが絶句したやりとりを後に残して、彼は名残を振り切ったように、森の出口に向かって歩き始めた。
その後ろ髪に、先刻の蝶が落としていった、青く輝く素晴らしい鱗粉が、わずかに残されてきらめいているのをマイクロトフは見つけた。
それで彼は、まるで、自分の気持の破片がカミューに寄り添っているような錯覚を覚えて、ささやかな充足感を得た。