休暇に喜びを添え、南風あかるく吹く。
【eu・pho・ri・a】
・多幸感。幸福感。
・ゆかりなく過ぎたるほどに抱く幸福感。
夜半、ランプをあかあかと灯して書物に読みふけっていた青騎士の部屋の戸を、静かに叩く者があった。
足音が自分の部屋に向かっているのは分かっていた。廊下で警護にあたる者に誰何されず、扉まで真っ直ぐに辿り着く者。そしてその叩き方にも覚えがあった。マイクロトフは無造作に立ちあがって、扉の掛けがねを外した。
「こんな時間にどうした?」
扉を完全には開け放とうとせず、そう尋ねる彼の顔を、疲れた白い顔が見上げた。
「かくまってくれ。追われているんだ」
そっと低い喉声でささやいた。
青騎士は思わず嘆息した。
「カミュー、冗談はよせ」
「冗談なものか。このところずっと、時間に追いたてられている」
カミューは彼の肩を軽く押して、するりと部屋に入ってきた。そして、机の上の書物の山に気づいて、あきれたような表情になった。
「お前こそ、こんな時間まで何を読んでいるんだ?」
「休暇中だ。何をしていても構わないだろう」
憮然と云い返すマイクロトフに構わず、カミューは机に近づいた。
「これが、休暇中に読むものか?」
典礼作法、教義書、歴史書の類が、一抱えそこに積まれている。過去に北方の山中を調査した報告書の束もあった。騎士団幹部のみの閲覧出来る書類だった。数日の休暇を得た青騎士は、普段時間をかけて目を通すことの出来ない、煩雑な書類の上にかがむことを選んだのだ。
カミューは、娯楽的な要素のないその顔ぶれを、興味深げに眺めた。教典を一冊手に取り、美麗に彩色されたページをめくってみる。
「時間に追われて働くのには、わたしよりお前の方がふさわしいようだな」
本を置いたカミューは、腰から剣をはずし、ぐったりと部屋の片隅に置かれた長椅子に崩れ込んだ。マイクロトフは、彼の私服が、中でも一番目立たない、地味な色合いのものであること、そして暗い色の服の中で、友人の顔がいつになく青白く見えることに気づいた。
暫く前まで、カミューが城を抜け出すとき、丁度そんな平服に身を包んでいたことを思い出す。彼は公務に疲れ切った時、城の傍らの森の中で、ひっそりと静かに午睡を楽しむ習慣があったのだ。むろん、それほど頻々と抜け出す訳ではなく、半月、或いは月に一度という程度だった。しかもごく短時間だった。
それが、カミューの疲れを癒すささやかな楽しみだということは承知していたが、マイクロトフと、赤の副団長は困惑した。ハイランド王国との間で休戦協定が結ばれているとはいえ、地位の高い者の身を危険にさらすのは、敵国の干渉によるものばかりとは限らなかった。
もう一人で城を抜け出すのはやめるべきだ。
ついに先月、マイクロトフは彼に進言したのだった。カミューは不服そうではあったが、承知した、と答えた。それ以来彼が午睡の誘惑に身を任せたという話は聞いていない。
「修道院の件で忙しいのか?」
「それもある」
カミューは余り調子が良いとは云えない声を出した。
マチルダ騎士団は幾つかの教会や修道院を内包しているが、ロックアックス近辺の森を一つ整備して、新しく修道院を建設することになった。脱俗して修道を積む身分の高い家の子弟を迎え入れるための修道院だった。白騎士は、そうした者たちをロックアックス城の直接の監視下に置くことを望んだのだ。
この修道院の建立にあたって、赤騎士団が采配を振るうことになった。普通なら白騎士団が乗り出すところだったが、白騎士は現在、同盟内でのマチルダ騎士団領の占める発言権の確保に汲々としていた。青騎士団は国境の整備を固めつつある。砦の修復の監督や、国境守備隊に割く人員も、殆ど青騎士が担っていた。そこで、戦火の最中では常に先陣を切る赤騎士団が、この度の修道院建立における陣頭指揮を執ることになったのだった。
「修道院にどれだけ、土地や村への権限を持たせるかどうかについて、ゴルドー様と後援者の方々の意見が食い違っているのさ。どちらにしても我々は、やんごとなき方々に口利きをする立場にはない。白き御旗の命ずるままに手足となって働くのみだ」
カミューの口調の中に、自嘲するような響きを聞き取って、マイクロトフは彼の青ざめた顔をかえりみた。カミューがこんな云い方をするのは珍しい。
「参っているようだな」
マイクロトフは、椅子に崩れ込んだ友人の前に立った。カミューに触れることについては、彼は慎重だった。心の中に隠し持ったものがあるからだ。彼は決してカミューを害するつもりはないが、カミューに強い嫌悪や拒否があれば、自分で知らない内に害することも有り得るだろう。相手の望まないことを決してするまいと思えば、こころの中に深く隠しておかなければならない思いだった。
「具合でも悪いのか?」
顔を覗き込むと、カミューは目を上げた。近寄ってみて初めて、いつもすっきりと青みがかって澄んでいる目が、細かく血管を浮かべて充血しているのが見て取れた。
「一日中雨の森の中にいたからな。冷えたんだ」
マイクロトフは手を伸ばし、指先だけをそっと額に触れた。
額から彼の指に、ふっと熱が移ってくる。
「少し熱があるようだが?」
カミューはそれには答えず、自分に触れたマイクロトフの手に、額をすり寄せるようにして押しつけた。ランプの光しか光源のない、薄暗い部屋の中で、カミューの髪は濃厚な赤い光沢を見せている。その髪の下に隠された額のなめらかさは、それほどの熱でないにも拘らず、ぎくりとするような強い印象をもたらした。
「そもそもお前が悪い」
カミューは、マイクロトフの手に額をつけたまま、不意にそんな風に云い出した。
「何?」
離れるに離れられず、マイクロトフは戸惑ってカミューの形の良い、つややかな頭を見下ろした。
「最近、よく眠れないんだ。お前に外で眠るなと云われただろう。あれ以来だ」
「まさか、あれからずっとか?」
驚いて聞き返すと、カミューがかすかに笑うのが聞こえてくる。
「もちろん、全く眠っていない訳じゃない。だが、疲れていてもなかなか寝付けないんだ。早朝に出なければならないのに、明け方まで眠れないこともしばしばだ」
カミューは顔を上げ、椅子の背もたれに力無く背中を預けた。そのまま足台に足を載せ、ようやくくつろいだように息をつく。マイクロトフは、ぼうっと温かい額と、やわらかな髪の感触から解放された指を、後ろめたいものを隠すような思いで軽く握り込んだ。
「城の中で眠るのはそんなに苦痛か?」
「苦痛だと思ったことはないが」
カミューは目を閉じた。
「眠れないからには、何か理由があるのだろうな」
「それで、お前はここに何をしに来たんだ?」
まるで城を抜け出していた時と同じような平服で、夜半の自分の部屋にやってきたカミューを、マイクロトフはいぶかしんだ。
「話でもあるのか?」
「ご挨拶だな」
カミューの唇が笑う。
「休暇中のお前から顔を見せるかと思えば、当のお前は厚い書物との逢瀬に忙しくて、友人を思い出す暇などなさそうだ。そんなに集中出来るなら、部屋の隅の椅子を貸しても、読書の邪魔にはならないだろう?」
「椅子を貸すのは構わないが」
いささか理不尽なもの云いにあきれ、マイクロトフは部屋の片隅を差した。
「どうせ寝るのなら、寝台に行って寝ろ。具合の悪い者を椅子で寝かせては、おれの寝覚めも悪くなる」
「マイクロトフ」
カミューはふと、はっきりと目を開けて、マイクロトフを見上げた。
「何だ?」
「ヒュプノスに見放されて何日か経つと、時々、昼も夢を見ているような気分になることがある。眠っているわけではないが、目の前にあるものが絵空事じみて遠くなったように思えるんだ。今日の昼、村で雨をしのいでいた時、丁度そんな具合になった。音が遠くなって、周りの者の動きが、のろのろと遅く、霞んで見えた」
「熱を出していたせいじゃないか?」
マイクロトフはそう答え、我ながらそれを四角四面な言葉だと思った。だが、カミューはそれを揶揄するでもなく、飾り気のない様子で肯いてみせた。
「そうかもしれないな。だが、その時はそうは思わなかったんだ。考えがどんどんとりとめもなくなっていって、頭の中で散り散りになった。わたしは何か、自分の気持を引き止めておけるもののことを考えようとして、お前を思い出した」
マイクロトフはカミューから少し離れ、先刻まで座っていた机の前の椅子に腰をかけた。カミューが何を云おうとしているのかは見当がつかなかったが、彼の早い息づかいや、熱を帯びた身体の傍にいて、いたずらに自分を刺激するのを避けたいと思ったのだ。
「どんなことをだ?」
「眠りたいときに外で眠っていると、お前が起こしに来る。あれはわたしにとって、かなり幸福な情景だった。……そういえば秋、南の山中で苦戦していた時も、早朝に援軍を連れて駆けつけたお前に起こされたこともある。思えばお前は、わたしに吉兆と朝を運んでくる存在なのかもしれないな」
「急にどうしたんだ」
マイクロトフは気持を落ちつけようと、机に肘をついて、広げたままの書物にちらりと目を落とした。先ほどまでは意味を持っていた文字の列が頭に入らない。
「どうしたのだろうな」
カミューは自問するようにそう答え、言葉を続けた。
「とにかく、酒場の椅子で濡れて座っていたわたしは、突然、むやみに幸福になった。それまでぼんやりしていた世界が、急に輝き出したように見えて────できれば、城で休んでいる筈のお前をつかまえて、自分がどんなに幸運をもたらす男なのか、云って聞かせてやりたいと思った。残念ながら城に帰るまでにするべきことが山のようにあって、すぐにそうする訳には行かなかったが」
「それは」
マイクロトフは言葉に窮した。カミューの言葉はまるで彼に或る想いを打明けているようにさえ聞こえた。だが、友人が自分にそんな気持を抱いている筈はないと、マイクロトフは堅く信じていた。そして、カミューはまだ熱を帯びている。ここしばらくろくに眠ってもいないようだ。疲れた頭で、多少軌道を逸れても仕方のないことだった。
「それは、有難い話だ」
「だから今夜こうして、勉強熱心なお前の部屋に押しかけてきたという訳だ」
「カミュー」
マイクロトフは彼の言葉を遮った。これ以上カミューの口から、誤解を招くような言葉を聞かされては敵わないと思ったからだ。
「少し休め。おれの部屋で眠れるならの話だが」
「わたしに寝台を提供してくれると?」
カミューの声は笑いを含んでいる。
「ああ」
「そして、お前は椅子で眠るのか?」
「そうしても構わない」
カミューは赤くうるんだ目を開き、何気ない風に机に向かったマイクロトフを見つめた。こうしてみると、カミューは少し痩せたように見える。元々、それほど肉付きがいいとは云えなかったカミューの頬の線がまたかすかに削げて見えた。マチルダ騎士団は、このはたらきのある赤騎士を働かせ過ぎているのだ。
その肩がほんの僅かに震えたようだった。
「少し寒い。添い寝でもする気はないか?」
ゆっくりと静かにささやかれて、マイクロトフは不意をつかれた思いで、年上の友人の顔を凝視した。確かに、カミューの視線に甘さと熱を感じたような気がした。白い顔の中で、目だけがランプの光を受けてかすかにきらめいている。撫でつけられていない濃い色の髪が、彼の輪郭に優しい線を描き加えている。その一本一本のやわらかな流れまでなぞれそうに思うほど、彼はカミューに釘付けになった。
ここで沈黙するべきではない。
マイクロトフはそう思ったが、返すべき言葉が見つからなかった。それどころか、はじけるように立ちあがって、彼の傍にかけより、寒さを訴える身体を力任せに抱きしめてしまいそうだった。
不意にカミューが唇を綻ばせた。
「冗談だよ。そう困った顔をするな」
目を細めると、マイクロトフを一瞬前に魔力のように惹きつけた光が薄まった。とろりとうるんだ目が隠れるだけで、友人の印象は一変した。
「この椅子でいい。暫く休ませてくれないか?」
「……勿論だ」
マイクロトフはほっとして立ちあがった。てのひらに僅かに汗をかいているのに気づく。彼は一瞬の間に膨れあがった甘い欲求をどうやら振り払い、寝台にかけた毛布を一枚手にとった。長椅子に横たわったカミューの傍に近寄って、彼の上にそっとかけた。夏でもこの城の夜は冷える。南方から来たカミューには、何年経っても馴染みがたい気候であることだろう。
「ありがとう」
カミューは居心地のいい姿勢を探すように身じろぎした。背中を丸めて横を向き、片頬を背当てのクッションに埋めて、そこに落ち着くことにしたようだった。その背中から落ちた毛布をかけ直してやる。その拍子に、指が服の布越しにカミューの貝殻骨にあたり、マイクロトフは熱いものに触れたように指を引いた。
ただ、背中に触れただけとは思えない、甘い疼きが指を伝って駆け上がってくる。
────突然世界が輝き出したように見えた。
カミューはそう云った。
彼が味わったそれと同じものかどうかは定かでないが、乏しいランプに照らされたその部屋が、突然あかるく光り始めたように、マイクロトフの目に映った。
「おやすみ」
カミューがつぶやき、マイクロトフは同じ言葉を返した。
指先から広がった甘さはなかなか消えず、不夜城の灯りのように、長く彼の中に燃え残った。