傷つく日も、ある。
【geocentric theory】
・天動説。地球が宇宙の中心に静止し、日月星辰がその周囲をめぐるという旧い宇宙構造説。
ゴルドーと議会にカミューが戦勝報告をした時、マイクロトフも同席していた。
だが、汗と血に髪をごわつかせた友人が、勝利を讃える人々に取り囲まれながら広間を辞した時には、彼は駈け寄ってゆくことが出来なかった。
カミューは身体を旅と戦の埃に汚していたが、その背中は凱旋の折に騎乗していた時と同じくまっすぐに起こされていた。ハイランド兵二千を、地の利を生かして半数以下の兵で下した将の肩を叩いて、口々に帰還を祝う全ての人々に、カミューは優美な微笑みで報いた。だがその微笑は、大理石に彫り込んだもののように唇に頑なに留まっており、陽気にゆらめく炎のようないつもの明朗さに欠けていた。
マイクロトフはゴルドーの左に立ったまま、退室を許されて出て行く友人の姿を見つめていた。カミューが戦いの昂奮に身を任せることのない男だということは、おそらくマイクロトフが最もよく知っていた。
マイクロトフが、城の最上階のバルコニーにカミューを見出したのは、西の空を滴るような夕陽が染めた頃だった。
「ここにいたのか」
声をかけると、洗い清めた髪を夕刻の風になぶらせたカミューは、赤い光を背にして、まぶしそうにマイクロトフを見た。カミューの目には、夕陽を受けて近寄ってきたマイクロトフは、朱く染まって見えることだろう。
額に真っ白な包帯を巻いた、カミューの顔に率直な疲れがにじんでいるのを見て取って、マイクロトフは安堵を覚えた。カミューが自分に隠し事をしないということはマイクロトフにとっては常に喜びだった。彼は自分が他人の心の機微を感じ取る力に欠けていることを知っていた。まして、カミューのように心を殺す技術に長けた者に、警戒を呼び起こしたなら、マイクロトフは容易に彼の外に閉め出されてしまうだろう。そして、閉め出されたことにさえ気づくことがないかもしれないのだ。
何故なのか理由は分からないが、いつからか、カミューが心を打明ける相手として、自分を選んだことをマイクロトフは幸運だと思っていた。
「疲れた顔をしているな」
「疲れもするさ」
カミューは些か無愛想に云った。
「勝って、七百騎を連れて帰ったお前が沈んでいては、兵も勝利を喜べまい」
「連れて帰れなかった百人の、家族の涙の雨を浴びてきたのでね」
泣き言のように聞こえるが、カミューがその言葉に答を求めていないと、マイクロトフは知っていた。この痛みは全ての将が飲み干さねばならない苦い杯だ。手塩にかけて育て上げた部隊から何人亡くしても、それでも連れて帰れる者があることを由としなければならないのだ。
彼の手元から一筋の煙が立ち上っているのにマイクロトフは気づいた。そして、その煙の中に微かにいりまじった、覚えのある香を嗅いだ。それは、北方の民が冬場に寄り集まり、火の傍で雪の憂いを忘れるために吸う、軽微な麻薬の『シリア』だった。煙草の葉と共に煙管に詰めたり、紙に巻いて煙を吸い込む。後に残らないこともあって、兵士が戦場に出る前に、恐怖を忘れようとして用いるようになったのを、マイクロトフは苦々しく思っていた。
「感心せんな」
マイクロトフは、彼の指からそっと紙巻を取り上げた。足許に静かに落としてもみ消す。
「御前の指揮でなければ、還れなかった者はもっと増えていたのだぞ」
「分かっている」
カミューは、紙巻の行方を目で追った。
「ちょっとした痛み止めのようなものだったのだがな」
「それは傷の痛みか?」
マイクロトフは、上着の釦を胸元まではずしたカミューを見下ろした。いつになく深く開けた襟ぐりの中には白い包帯が覗いている。カミューはこの戦いで、こめかみと胸に傷を受けて戻って来た。胸の傷はチェインメイルの上から斧でかすられた傷で、幸いにして浅手だった。
「シリアは、痛み止めになるほど強いものではないだろう」
「なのにお前は取り上げる」
カミューは笑いながら不服を申し述べた。
マイクロトフはその笑いに答えようとはしなかった。
「お前はそんなもので、憂さを忘れる必要はない」
一言一言はっきりと強調するようにして云うと、カミューは笑みを深めた。苦笑にも似た表情だった。
「そう云ってくれるのは有難いが」
「おれのこの程度の言葉を有難く思う必要もない」
マイクロトフはこんな時に、彼に邪気なく触れることの出来ない、自分の想いを邪魔に思うことがある。彼を友人として抱擁することが出来たのはいつ頃までだっただろうか? 少年期にはそんなこともあったような気がする。だが、もう何年もカミューは、これだけ親しく傍にありながら、マイクロトフにとっては気安く触れることの出来ない相手になっていた。
彼を引き寄せて抱き締め、カミューの気持ちがおだやかになるまで髪を撫でられるものならと思った。それが許されるなら、気まぐれにカミューの肺に染みこむ、麻薬のかりそめの安寧の代わりをしたかった。
「いや、お前は」
カミューは言葉を切った。おそらくそこに傷があるのだろう。包帯の上から、こめかみの傷に触れるような仕種を見せた。ふと思いに沈むような表情を見せた。
「わたしについた、どんな小さな憂いの種も取り去ろうとしてくれるのだな」
カミューは顔を上げ、自分よりてのひら半分背の高い友人の顔を見上げた。
「城を抜け出せば探しに来る。不用意に外で眠るな、と諫め、今日はわたしの手からシリアを取り上げる。髪についた小さな草の実さえ見逃さない」
言葉だけ見ればまるで責めてもいるようだが、その言葉にはおだやかな笑みが混じり、カミューの気持ちがほぐれていることを示していた。
「だが、マイクロトフ。お前だけはわたしを気にかける必要はないんだ」
「どういう意味だ?」
「前にお前の部屋で話したことを覚えているか? お前がわたしに吉兆と朝を運んでくる存在だと云っただろう?」
「────ああ」
それを云われた時、自分の心がカミューの意図を訝しみ、それでいながら気持ちが天に舞い上がる思いをしたことをマイクロトフは思い出す。
「わたしは国境沿いの山の中で雨に凍えていたが、ロックアックス城でお前がわたしを待っていてくれるのを知っていたよ、マイクロトフ。無事に戻ってくるようにきっと祈っていてくれただろう。だからわたしの心は、お前のいる城から一歩も動くことなく、不安に揺らぐこともなかった。自分が戦い抜いて、ここへ帰ってくることを知っていた。お前という動かぬ中心を得たことで、わたしの世界は確かなものになった」
マイクロトフは、息を詰まらせそうになって、傷ついた友人の前で立ちつくした。カミューはささやくような声を出した。
「それはロックアックス城のことでも、マチルダ騎士団のことでもないと云ったら、またお前に諫められるかもしれないな」
マイクロトフは首を振った。彼の心の中では相反するものがゆるゆるといりまじっており、一部分では、カミューの言葉が彼等の祖国に対して不敬なものであると警告していた。だが、彼の中の大部分は、その抗しがたい甘い響きに酩酊し、長い間耐えてきた概念的な思考の壁に切り込みを入れようとしていた。
「こんなことを云われても、お前はわたしの気持ちを疑ってみることをしないのか?」
カミューがそろりと云った。マイクロトフは、怠く重くなった手足のように、恋情のぬかるみにつかって動こうとしない心を、ようやく引き止めた。
「お前に何の疑いを?」
カミューはそれ以上云おうとはしなかった。彼は、赤い光に濡らされた腕をゆるゆると差し伸べた。マイクロトフは傷を負ったカミューが何を求めているのかを知って、背筋を凍らせた。カミューの唇にいつもの微笑みはなかった。それは戯れでも、友情のあらわれでさえなかった。カミューが求めているものを、頑ななマイクロトフでさえ気づかないわけにはいかなかった。すなわち慰撫と愛撫を────。
マイクロトフが魅せられたように、一歩彼へと近づくと、カミューの腕が伸び、彼は自分よりも広い肩と背中を持つマイクロトフを引き寄せて抱きしめた。もの柔らかに背中を一度、二度と愛おしむように撫でると、傷だらけのてのひらはマイクロトフのうなじにかかった。
うなじを低い位置へと引きよせる力を感じて、マイクロトフは、自分が屈みこむように促されているのを知った。
背中をカミューへと僅かにかがめた時、唇に柔らかな感触が触れた。そこを通り抜ける息には、未だに、カミューの肺を今まで充たしていたシリアの、香料のような甘い香が残っていた。
閉じたままでマイクロトフの唇を押し包んだ唇は、ゆっくりと開いて深さを増し、ほのかに濡れた。カミューの唇は、山中を半月旅した疲れで荒れ、切れて血を固まらせていたが、どちらのものとも判別しがたい湿り気に出会って、柔らかさを取り戻した。
────こんなことを云われても。
────お前はわたしの気持ちを疑ってみることをしないのか?
その言葉の意味が、細く熱い糸のように全身を駆けめぐり、マイクロトフは彼とくちづけを交わしたままで頬に血を昇らせた。剣を振ることにしか殆ど力を発揮することのない腕を上げ、この上なく貴重な細身の青年を、自分の胸の中に深く引き寄せた。
今までも、カミューがマイクロトフの気持ちに気づいているのではないかと思ったことはある。
はからずも、その材料を彼に与えてしまったことは数多くあるからだ。耐えたつもりでも気持ちは次々と芽吹き、火のような赤い若葉を開くことを禁じることが出来なかったのだ。
そして、彼の気持ちを知ったカミューが、あたかもそれに応じるような素振りを見せたことも幾度かあった。
だが、カミューが折れれば折れるほどマイクロトフは頑なになった。カミューにそのことで、一歩も譲歩させたくはなかった。自分の想いに友人を不正に巻き込むことは何としてでも許せないと思っていた。
だが、カミューの今の言葉と抱擁、やわらかな口づけは、マイクロトフの自制を溶かすだけの威力を兼ね備えていた。優美でほっそりとした身体がマイクロトフを捉えようとして動いた力は、疑いようのないものだった。とりもなおさずカミューの中に、マイクロトフの中にあるものと同じ想いが隠されていたことを示す力だった。
唇を離して、カミューはマイクロトフの目を間近に覗き込んだ。迷いなどない目だ。疲れと熱気、くちづけのために潤んでいるが、確信と優しさに照らされて輝いていた。
「何と云えばいいのか────」
マイクロトフはようやくそう云った。気持ちを口にすることは、くちづけよりも更に彼を潔癖にした。彼は真実の言葉しか口にすることが出来ないという呪いにかけられているようだ。
そうしなければカミューと、彼の気持ちを損なうような気がしていた。
「長い間、口にしてはならないと思っていた」
「わたしは暫く前から待っていたよ」
カミューはおだやかに云った。
「お前にわたしがふさわしいかどうかは分からないが、青騎士殿」
「おれの気持ちを知って、こんな時に────そんなことを云うのか」
声はまだなめらかには出ない。カミューを咎める声は弱く掠れた。
「わたしは深刻な戦いの後に、城にシリアを持ち込むような不心得者だ」
カミューは自分を抱いたマイクロトフの腕を取り、その無骨なてのひらに唇をかすらせた。
「相手にふさわしくありたいと思って、自分の愚かさを悔いるのは、陰ひなたのない者だけの特権ではないんだ」
カミューの言葉を聞きながら、マイクロトフはため息をついた。彼はまだ自分が得た幸運が信じられなかった。
「カミュー」
こんな時にも雄弁な友人に何か言葉を返したいと思う。せめて、彼の髪に青く輝く鱗粉を残した蝶ほどの僅かなしるしであっても。だが彼の喉は感慨に詰まり、浮かんで来る言葉はすべからく深みに沈み、水中に没した宝石のように判然としなかった。ただ、輝くものをカミューに捧げたいという欲求以外には。
「少し時間をくれ。まだどう云えばいいのか分からない」
伝えたいことはあった。
自分にとっても長い間、カミューが明け方の空に瞬く星のように輝いていたこと。
草の実やシリアの煙にさえ嫉妬する自分の浅ましさ。
そしてカミューがそのあかるい胸にきざす憂いを吹き払うために口にする、透き通った酒やシリアの香ごと彼に口づけたいと思っていることを。
「いいさ────わたしは今までにも充分に受け取っていたんだ」
そう云ったカミューが鷹揚に微笑して、マイクロトフは自分の無骨な躊躇いが許されたことを知った。
そして彼は、ただ一つの言葉を選ぶ前に、自分の潔癖さをようやく脇に押しのけ、更に一度のくちづけを望むことで、ささやかな証をたてることを選んだのだった。