青氏、自分の倫理に悖る行為に走る。
「……うッ……」
カミューが呻いた。痛みや傷があっても、滅多にその辛さを外に表すことのない友人の声に、マイクロトフはその痛みが楽観的でないことを知る。もっともその痛みがはるかに少なかったところで、今の有様が楽観的であるなどということが有り得ようか?
彼は、うつぶせに横たわり、敷布の上で堅く手を握りしめたカミューの背中に、毛布を引き上げた。友人が苦痛を感じているなら、その背筋を撫でさすりたい。気遣いの言葉をかけたい。決して柔弱とは云えないカミューが苦しんでいるのなら尚更だった。
だが、マイクロトフにはかける言葉がなかった。喉に石が詰まってしまったようだった。自分の中に昨晩沸き起こった激情が、カミューの痛みを作り出したのだということを、信じがたい思いだった。
「何か、云うことはないのか」
身体を起こすことを諦め、そろそろと寝台の上で力を抜いたカミューがささやいた。ささやきとは云え、それは優しい抑制からのものではなかった。おそらく声が嗄れているのだろう。
「こんなことになって、わたしをそのままうち捨てて帰るつもりか」
そう云われて、ランプの投げかける甘い金色の光がマイクロトフの目のなかで凍り付いた。
もし自分がそうしたなら、カミューは自分を二度と許さないかもしれない。今まで自分のどんな愚かしさをも受け入れてきた友人に、許されないということがどんなことなのか、マイクロトフには想像もつかなかった。それはおそらくカミューを失うということなのだろう。
「そんなつもりはない」
マイクロトフは焦りと自分への怒りに、声を掠れさせた。
「だが、────お前に許しを請うべきなのかどうか、おれには分からない」
「……」
「────『あれ』が許されるべきものなのかどうか、分からない」
苦痛をにじませたマイクロトフの声に、余り覚えのない皮肉な感情を滲ませたカミューの声が続いた。
「許されないのなら、詫びることもないという訳か」
マイクロトフは気色ばみ、横たわった友人の姿を見下ろした。手が震えた。かっと顔が熱くなり、喉元と胸が冷えた。
「そんな風に思ってはいない」
「なら、無理にでも何か、云え」
いつもよどみないカミューの声が苦しそうに途切れる。
マイクロトフは喉を鳴らした。その喉に現われた石はますます硬く、大きくなり、彼の臓腑まで突き抜けるようだった。息苦しいほど高鳴り続けている心臓の不快感とその石が触れ合って押し合うような感覚さえあった。
「おれは、どんなきっかけでも、お前に理不尽を強いるようなことが起こる筈はないと思っていた」
彼はようやくそう云った。
「……何故なら」
「何故なら?」
カミューは奇跡的に辛抱強く彼をうながした。
「お前への想いは、今まで俺の支えだった────、苦しくはあっても、……きわめて尊重すべきものだったからだ」
石のような痛みを呑み込み、ようやくそう云うと、カミューはため息をつき、そろそろと姿勢を変えた。ようやくマイクロトフに彼の横顔が見える。彫刻家が丹誠を凝らして彫り上げたような、そのなめらかな額に、苦痛の汗で紅みがかった髪が貼りついているのが見えた。
きっかけはおそろしく他愛ないことだった。たった一つの言葉だった。
彼等は酒気を帯びていた。泥酔するとまでは行かず、ほろ酔いというほど浅くもない酒気だった。カミューの部屋で、二人は酒を酌み交わしていた。正直、苦い酒ではあった。その日彼等は、ミューズからの難民を、国境近くで見殺しにしたばかりだったからだ。マイクロトフはそのせいで火のような苛立ちを抱えており、自分がそれを酒で紛らわせようとすることを恥じていた。そのせいで酒は尚更に深くなり、四肢にずきずきと熱い血をたぎらせ、頭を重くしていた。
カミューの故郷の話になったのは夜半だった。カミューは、マイクロトフと同じ憂き目を見ながらも、ミューズ市の魔物を自分の目で見ていない分、静かだった。彼がぼんやりと故郷の空の話をしながら、何かを画策しているのは分かっていた。難民を見殺しにするのは、騎士団にとって名誉なことではない。それは、ハイランド王国の前に膝を折るのと等しいことだ。だが、鉄の扉のようなゴルドーの保身を打ち破るのは、そう容易いことではないのだ。
カミューは空の話を、乾いた岩山や、それに続く広い草原の話をした。隊伍を組み、馬の背に様々な品物を積んでやってくる、異国の隊商の列の話をした。
────帰りたい場所があるというのは、いいものだな。
カミューがマイクロトフの中で膿みただれていた低い炎に、油を注いだのはたったその一言だけだった。
マイクロトフは、ゴルドーと騎士団への不審と、居場所をなくしたような孤独が食い入っていた心臓に、杭を打込まれたことを知った。酒に荒れ果てた自分の心が、昼の出来事への苦痛と、カミューの懐郷の心への嫉妬心を巧みにすり替えた瞬間を、目に見えるように感じ取った。
彼は、カミューの手を取り、次には床に打ち据えた。彼のような強い男を抑え込むには、本気の力を込めなければ無理だ。手加減は一切しなかった。まるで敵を扱うようにカミューの身体を組み伏せ、自分の欲望が望むままに振舞った。
欲望に怒りと嫉妬、そして自分自身の罪過を転嫁する暗さが加わった時、自分の頑丈な身体がどんな暴力を生み出すのか、マイクロトフ自身も知らなかったのだ。
カミューは短く呻き、マイクロトフの気持ちが変らないことを知ると、途中からはうなじを青白くして、それに耐えた。汗と涙が彼の頬を濡らした。口づけ一つ、告白の言葉一つなく始まった行為で、徐々に衣服を剥がれながら、カミューは茫然としているようだった。
マイクロトフが彼の怒りと欲を力任せにねじ込むと、敷布に額を擦りつけたカミューは何事かを低くつぶやいた。低く切れ切れに、熱にうかされたように続くそれは、祈りの言葉のようだった。グラスランドの古い言葉ででもあるのか、マイクロトフにはその意味は分からなかった。
ただ、神に祈らなければならないほどの苦痛をカミューに与えているのが、自分だという事実が、重くのしかかってきた。
「お前が祈りの言葉を口にした、その瞬間────目が────醒めたように思う」
無理にでも申し開け、と云われたマイクロトフは、暑さに喘ぐ獣のように肩を揺らした。秋の気配が忍び寄り、汗に湿った彼等の裸の肩を、夜明けの寒気が濡らしているにも拘らずだ。冷たい汗はてのひらとみぞおちを流れ落ち、その滴の辿る不愉快な道筋をマイクロトフに感じさせた。
その瞬間、カミューの唇から吐息に似た音が漏れてマイクロトフは耳を疑った。それは笑い声のように聞こえた。嘲笑のようには聞こえず、むしろ、あきらめたような、あきれたような、気持ちの凪いだ笑い声だった。
「────何故、笑う」
そう尋ねると、カミューは、そろそろと腕を上げ、額にはりついた髪をかきあげた。そして今度は深いため息をつく。
「わたしが祈っていると思ったのか」
身体を横向きにゆるやかに折り曲げて、ようやく楽な姿勢を見つけたらしいカミューの声には、脱力したような静けさがあった。つい先刻まで含まれていた鬱屈した怒りは、明け方の月のように薄れかけていた。
「違うのか。グラスランド語のように聞こえたが。……唱うような調子だったので、祈りの言葉なのかと、思った」
「痛みがひどかったのでね。気を紛らわせる必要があったんだ」
そう云われて、言葉に詰まる。
「わたしが唱えていたのは、祈りの言葉じゃない。古い星の名前だ」
そう云って、カミューはもう一度、鬱陶しいように髪をかき上げた。彼の代わりに髪をかき上げてやりたい。そしてその汗に濡れた額に唇を押しつけたい。その衝動にマイクロトフは耐えなければならなかった。
「────日、陽烏、月、弦月、満月、暈、明星、長庚、牽牛、織女、流星、彗星、昴星、天之河、釣り鐘星、稲架の間────剣先星」
カミューはゆっくりとそらんじた。
「みんな東国の古い呼び名だ。世界中を旅している商人が教えてくれたんだ。彼は迷った時には星を見上げると云っていた。星はどこの空でも等しく見ることができる。星の見える場所に、人はどこにでも故郷を求めることができる、と、そう云っていた。グラスランドにいた時よりも、わたしにはその言葉の意味が染みる。殊に目印になる青い星を見つけて、その星の下を故郷と定めた今となっては」
「青い星────?」
「意味が、分からないか?」
マイクロトフは肯いた。カミューの言葉は謎掛けのようで意味が分かりにくく、そして、その声から怒りが消えた理由も分からなかった。
「青い星は新しい星なのだそうだ。ある日夜空に現われ、紅い火よりも強く輝き出す」
カミューは、ゆるゆると腕をついて起き上がった。寝台の上に座り、曲げた膝の上に、毛布越しに額をつけた。彼が、苦痛によって同じ姿勢を保っていられないのだということに、不意に気づいて、マイクロトフはかっと身体を火照らせた。できることなら、泣いて彼にすがり、恥をかなぐり捨てて詫びたかった。
「お前なら、魔物に憑かれた故郷を逃げ出した難民に、居場所をさしだしてやれるだろう。そのためにできることを全てするといい」
カミューは、顔を伏せたままでつぶやいた。
「どの空の下で立ち止まっても、人の指針となるような、熱く若い星のような為政者になれ」
マイクロトフは頬を打たれたように立ちすくんだ。
昨晩の自分のよどんだ苦痛をカミューが理解し、更にそれについてのおろかな諦めを、彼のしなやかなてのひらが打ち据えたのが分かったからだ。
「カミュー」
彼は声を絞り出した。
「何も打明けずに、お前を傷つけた」
「わたしのことは」
カミューは今やゆっくりと息をし、苦痛と折り合おうとしているのが分かった。それは戦場で負った傷を辛抱強く耐えようとする、いつもの変らぬ友人の姿だった。
「気まぐれでなかったのならいい」
「お前の気持ちはどうなる────……」
いまだ折り合えずに呟くマイクロトフに、カミューは暫し沈黙した。今まで見せようとしなかった目を上げた。ランプの光の中で火に似た琥珀の瞳がゆらめき、マイクロトフを見ている。その瞳の美しさ、強さに彼は呑み込まれたようになった。紅と金、栗色の微妙にいりまじった、カミューの複雑な色の髪が、寝乱れてランプの光を照り返している。
マイクロトフの気持ちは揺れた。カミューの目に見出した許容を頑なに信じるまいとした。
誰よりも想ってきた彼の友人は、教え諭すようにつぶやいた。
「わたしの気持ちはもう伝えた筈だ。青い星を見つけたことを」
マイクロトフの乾ききった目に痛みが走った。彼はすぐにはその痛みが何なのか分からなかった。友人ののびやかな姿がぼやけ、ゆるくぶれた世界の中で、判然としない金色の聖像のように光を放ったとき、初めて自分が泣いていることを知った。